第九回 政変
夜。細い雨が降っていた。
昨夜遅くからの雨だ。降ったり止んだりと、だらだらと続いている。
大須賀邸。睦之介は、雨に構わず庭に出ると、濡れるに任せ
氣を落ち着かせ、三之平兼広を抜く。夜に、こうして刀を構え自分に向き合う。そうする事を、ここ最近日課にしていた。
下段に構えた。目の前には闇。そこには何もない。無だ。無の黒さだけが広がっている。
三之平兼広が、また人の生き血を吸った。三日前の事だ。相手は、荻藩の志士である。ある怡土藩士と、郊外の神社で密議を行っていた。その場に踏み込むと抵抗され、捕吏が手傷を負ったので止む無く斬り捨てた。
馬鹿め、と思う。もはや天下の趨勢は決したのだ。急激に流れ出した時は、そう簡単には戻る事はない。勤王運動も、今年を境に下火になるだろう。
政変が起きた。まず京都で、勤王運動を主導していた荻藩が、幕府と佐幕派公卿によって追い落されたのである。
朝議の席で荻藩の京都からの退去と、急進的勤王派二卿五朝臣の官職罷免の上、禁足が命じられた。そうなると、荻藩はどうする事も出来ずに、勤王派二卿五朝臣と共に都落ちとなった。
その余波が、怡土にまで飛び火した。
日和見を決め込んでいた原田種堅が、重臣が集まる万座の前で佐幕的な立場を表明したのだ。
それまで藩政を牛耳っていた加藤甚左衛門を、中老から解任して閉門。京都で勤王派藩士をまとめていた曲渕信濃も、京都留守居役から解任して同じく閉門に処した。その上で、父を主席家老へ一気に昇進させると同時に、その一派を軒並み昇進させ、佐幕派の執政府を組閣。種堅の主導で、怡土藩を完全な佐幕政権に方向転換させてしまった。
この政変は、怡土勤王党を意気消沈させるものなった。何しろ、怡土勤王党の領袖たる加藤甚左衛門と曲渕信濃が失脚し、不倶戴天の敵たる男が首席家老になったのである。
挙藩一致の攘夷に見切りをつけた一部の志士は、脱藩して方々に散った。中でもその中の一部は上洛し、荻藩士らと共に洛中へ火を放ち、騒擾に乗じて帝を荻に動座するという凶行に出ようとした。これは幕府の取り締まりにより未然に阻止されたが、今度は軍を興して禁裏へ攻め入るという暴挙に出た。
それに対する、父の動きは迅速かつ過酷なものだった。閉門に処していた、加藤甚左衛門と曲渕信濃をはじめとした勤王派重臣を要人暗殺未遂の罪で切腹させ、怡土勤王党を尽く捕縛せよと命じたのだ。
この処置には、流石の種堅も反対した。しかし父は、
「荻藩の仲間と疑われては元も子もない」
と説き伏せて、強行したという。
荻藩の志士を斬ったのも、この命令を受けての事だった。佐幕政権になった以上、目付組も従わざる得ない。赤橋も大須賀も佐幕派の人物と距離を置いているが、傍目からは同志と思われても仕方のない事をしている。
いつまで続くのか。と、思わくもないが、この乱世が楽しいと感じる事も確かにある。
睦之介は、この春に大須賀の護衛を外れ、正式な目付組与力となっていた。同心を二人抱え、それとは別に、直属の駒を三人任されている。役職は無いが、大須賀の補佐官のような役割をしていた。それは、いずれ自分が紀和を妻に迎えるからだろう。紀和との縁談の話は、あの日以来は出ていないが、遅かれ早かれそうならざる得ない状況下に置かれている。
ふと眩しい光が差して、睦之介の顔を照らした。見上げると、重い雨雲の陰から月が覗いていた。
(雨月か)
鼻を鳴らした。珍しい光景だ。雨の夜に月など、そうそう見られるものではない。
視線を戻し、構えを下段から正眼に移すと、月の明かりが三之平兼広の刀身に反射した。
艶めかしい光が、闇を照らす。その先に、楊三郎が傘も差さずに立っていた。
着流しに、大小を佩いている。表情は翳りで見えないが、あの佇まいは間違いなく楊三郎である。
「お前」
声に出したが、楊三郎は何も答えず、背を向けて闇に消えた。
「楊三郎、待て。待ってくれ」
後を追った。しかし、そこは池で楊三郎の姿は何処にもなかった。
(もしや)
睦之介は楊三郎の言葉を思い出し、不吉な気分に襲われた。
「私は、必ず戻ります。何年後なるか判りませぬが。出来れば、九月九日。重陽の節句に。喩え魂魄になろうとも」
あれは、楊三郎の魂魄なのだろか。
(まさかな……)
まだ重陽の節句までは日がある。あいつは、そういう所には細かい男だ。たとえ魂魄だろうと、刻限や日付は必ず守る。
「お前は今、何処にいるのだ」
睦之介は呟いた。
楊三郎の行方が判らなかった。便りもない。昨年の重陽の節句には戻らなかった。京都帰りの藩士を掴まえて訊いたが、今年の初夏までは元気にしていたそうだ。それからの行方は判らない。藩邸にいるのか、いないのかさえ。叔父であり、楊三郎の庇護者たる曲渕信濃が切腹になり、勤王派は次々と捕縛されている。残っていたとしても、只では済まないはずだろう。
睦之介は、楊三郎の安否を確認する為に、駒を一人動かすべきか迷っていた。個人的な感情で駒を働かせる事は憚られる。しかし、楊三郎は勤王派首魁の子。それは命令を下す理由になるだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、紀和の声がして目を覚ました。
「あら、珍しい。睦之介さんが朝寝坊なんて」
そう言われ、睦之介は外を見た。既に陽が高い。そして紀和に苦笑いを向けた。久し振りの寝坊である。部屋住み時代は日常茶飯事だったが、大須賀邸に来てからは初めての事だ。
「しまったな、寝坊なんて」
「もう少し早く起こそうとは思ったのですけど、私も少し寝坊しちゃって」
「紀和さんもですか」
と、一笑し頭を下げた。
「いやはや、起こしてくれて申し訳ない」
「気にする事はありませんわ。お陰で睦之介さんの可愛い寝顔を見れましたもの」
紀和は舌を出して微笑んで見せた。その時、睦之介の肌が粟立った。胸が苦しくなり、紀和から視線を逸らした。
(起き抜けには堪らんな)
紀和に惚れている。その予感はあった。紀和と話していると、胸が騒ぐのだ。いつからか判らない。同じ屋根の下で過ごす内に、心惹かれたのだろう。だが楊三郎の事もあり、それを認めずにいた。
「急いで来てくださいね。朝餉が冷めちゃいますから」
紀和に急かされて床を出ると、睦之介は身支度を始めた。夜更かしをしたわけではなかった。思い当たるのは、昨夜見た楊三郎の幻である。あの後、途轍もない疲労感を覚えて床に入ったのだ。
あれは何だったのだろうか? 疑問が頭を駆け巡るが、井戸の冷水で顔を洗い思念を断ち切った。
きっと疲れていたのだ。ここ最近は、働き詰めである。勤王狩りが大詰めを迎え、日中は領内を駆け回り、夜は大須賀と情報の精査をしている。
(楊三郎に何かあったのかもしれぬが……)
だが、今ここで考えてもどうする事も出来ない。まずは、その安否を確認してからだ。
思えば、睦之介にとって楊三郎は遠い存在になりつつあった。紀和に惚れた事が大きい。また、目付組与力としての充実感も、気持ちを薄めた一因だった。
楊三郎は、もはや友だ。恋人ではない。同門の幼馴染の親友だ。その楊三郎と念友の契りを結んだのは、部屋住みとして鬱屈し、世の中に飽いていたからだ。紀和に出会い、目付組与力として充実感を得ている今は、楊三郎は友にしか思えなかった。
事実、楊三郎が京都に旅立った当初は、次はいつ逢えるのかばかり考えていたが、今では思い出す事は殆どない。
(あいつは判ってくれるだろうか……)
楊三郎は利口な男だ。そして優しい。全てを飲み込んでくれるだろう。そうなればいい。そうなって欲しい。
睦之介は頭を一つ振って、母屋へと向かった。
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