第八回 現実

 目が覚めると、睦之介は布団の中にいた。

 見えるのは、天井の木目。鼻孔を突く部屋の匂いは、薬臭いが嗅ぎ慣れたものだった。

(何処だ、此処は)

 頭は重く、思考は緩慢である。

 視線を横にすると、庭が見えた。池があり、松がある。その奥には、畠。もう日が暮れる刻限であろう。その全てが茜色に染まっていた。


「あ、起きた」


 声が聞こえる。


「ねぇ、目が覚めたわよ」


 視界に、顔が入る。小麦色の肌に、胡桃のような眼を持つ娘。


(紀和さんか)


 上役の娘。お転婆で勝気な性格の、愛嬌のある娘だ。その紀和が、弾けるような喜色を、褐色の丸顔に讃えた。


「お父様、お父様」


 甲高い声で叫ぶ。頭に響いたが、それが夢ではない証拠だった。どうやら、俺は生きていたようだ。

 忙しい足音が聞こえ、大須賀の顔が視界に入った。大須賀も笑った。それは、いつもの冷笑ではない。心から喜んでいていてくれている。睦之介には、そう見えた。


「目が覚めたか」


 睦之介は起き上がろうとしたが、大須賀に手で制された。


「まだ休め。君は一日半寝ていたのだ」

「そんなにですか」

「血も失っている。ゆっくり養生するといい」

「しかし、私は大須賀殿の護衛を」

「おいおい。その傷で私を守れるのか?」


 と、大須賀が布団を剥いだ。腹部に傷があった。左脇腹に一撃を受けたのか、その部分だけに血が滲んでいる。

 それを目にした途端、睦之介の身体に痛覚が蘇った。傷が熱く、痛む。


「よく生きていたものですね」


 睦之介は、溜息を交えて言った。


「えらく他人事だな。痛まないのか?」

「痛みはあります。しかし、生きている事の方が驚きで」

「なるほど。不幸中の幸いか、槍の穂先は掠った程度だよ。ただ幅広の槍身だったので、傷が広かった」

「そうですか」


 記憶が少しずつ蘇ってきた。茅の原で刺客に襲われた。まずは二人。その後、槍使いと対峙した。槍使いは茅の中に隠れ、必殺のひと突きを繰り出してきた。その勝負は寸分の差で勝利したが、無傷ではいられなかった。


「ここまでお父様が担いだのよ。力仕事が苦手なお父様が」


 紀和が顔を出した。


「なんと。そのようなご迷惑を」

「気にする必要はない。途中までだ。あの後は知縁のある村に駆け込み、担いでもらったからね」

「申し訳ないです。これでは護衛も出来ません」

「それも心配ない。君が不在の間は、他の者に任せている。兎も角、ゆっくり寝る事だ。傷は浅いし、早く復帰してもらわねば困るよ」


 二人が去り、睦之介は一人になった。目を閉じても、あの時の勝負が思い浮かべる。気を失っていたのは、傷が原因ではなく、その勝負に精魂を使い果たしたからであろう。


(それにしても、あの男は誰だったのか)


 見た顔だった。年頃は四十五を越えたぐらいか。覚えているのは、それだけだ。名前までは思い出せない。

 翌日になると、傷の痛みは薄まっていた。それでも寝ているように、大須賀に上役として命令された。

 驚いた事に、代わりの護衛は鴨井逸平だった。


(何故、逸平が)


 大須賀に付き従う逸平に目を向けると、舌を出してお道化て見せた。逸平の腕は確かだ。力量だけなら、安心して自分の代わりを任せられる男である。問題は、逸平が勤王派であるかどうかだが、その辺りは目付組が厳しく吟味したであろう。

 寝込んでいる間、身の回りの世話をしてくれたのは紀和だった。身体を拭き、傷に軟膏を塗布して包帯を代える。若い娘にそれをされる気恥ずかしさはあるが、紀和が嬉々としてしてくれるので、些か気が楽になった。

 一度、赤橋が見舞いに来た。赤橋は怜悧な顔を和らげて、


「君に頼んで良かったよ」


 と、言ってくれた。他の者ならば、大須賀は死んでいたであろうと。


「お父上も、君が身を呈して守った事を評価していたよ」


 それを聞いた時に、睦之介は皮肉の一つでも言いたくなった。我が子が傷を負った事を評価するというのだ。見舞いも来ずに、心配する素振りもない。だが、赤橋に皮肉を言った所で笑われるだけだ。

 睦之介は話を変えようと、大須賀を襲った槍使いについて訊いた。すると赤橋は些か表情を曇らせ、


倉持伝助くらもち でんすけ


 という名を挙げた。

 倉持。やはり、と睦之介は俯いて小さく唸った。かつて谷原家に仕えていた足軽なのだ。真剛伝流しんごうでんりゅうの免許を持ち、父の護衛をしていた。今から十数年前の話だ。倉持が谷原家を去った理由は知らないが、家士相手に槍を教えていた姿をよく覚えている。


「君の家に仕えていたそうだな」

「ええ。だから気になっていたのかもしれません。ですが、彼も勤王に?」

「その辺りは調査中だが、可能性は高いな」


 今、勤王熱は下士を中心に爆発的に広がっている。そうなる理由が何処にあるのか。考えていかねばならない事の一つだ。

 思えば、下士の事について睦之介は何も知らない。考えた事すらもない。自分は上士で、下士とは住む世界が違うと教えられてきた。

 結局、十日も寝込む事になった。五日目から自由に動けたが、大須賀が許可しなかった。

 しかしその間、睦之介は大須賀と情報を精査する作業に付き合った。定期的に現れる駒の報告を二人で吟味するのだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 負傷から十日目の夜、大須賀の居室に睦之介は呼ばれた。


「相変わらず、攘夷攘夷と叫んでおる」


 大須賀は、駒の報告書に目を落としながら言った。

 情報は怡土勤王党に関するものが多い。駒を党員として潜り込ませているからか、彼らがいつ会合し、どんな話をしているのか筒抜けの状態である。


「何か動きがありましたか?」

「どうやら、党員数名が脱藩した。おぎ藩が海峡を通過する外国船を狙い攘夷を断行するらしい。それに参加するという事だ」

「愚かですね」


 荻藩は、大内大膳大夫政世おおうち だいぜんたゆう まさよが藩主を勤める外様大名である。八十一万石を有する雄藩で、勤王を標榜して時勢を牽引し、京都では我が物顔で振る舞っているという。

 駒からの情報にも、荻藩に関するものもある。荻藩士が怡土藩に潜入し、勤王派の藩士と接触しているのだ。目付組はその情報を掴んではいるが、今の所は黙認している形になっている。


「睦之介殿は攘夷に反対か?」

「ええ。無駄な争いは避けるべきかと思います」

「ほう、攘夷は無駄であると言うのだな」

「現時点では。相手は強大でもありますし、不必要な兵乱を招くだけです。何より愚かなのは、日本人同士の争いでしょう。天誅などは、その好例。外国の圧力を前に手を携えず、あまつさえ斬り合うとは」

「怨念を感じるな」


 と、大須賀は煙管に火を付けながら言った。


「怨念?」

「君は、佐幕と勤王の争いに親友を奪われた。だから、愚かだと感じている」

「さて……」

「隠さなくてもいい」


 大須賀が煙を吐いた。白い靄の奥に、瞑目した大須賀の顔がある。


「仕方ない。〔最愛〕の友人を奪われたのだからな」

「何をいきなり」


 睦之介は狼狽を隠すように、片頬だけで笑ってみせた。だが、それは無駄な足掻きだ。最愛と評した所を見ると、大須賀は楊三郎との関係を掴んでいる。どこから漏れたのか。思い浮かぶのは、出会い茶屋の者ぐらいしか浮かばない。


「護衛をされる以上、君の事は調べ上げている。勿論、お父上に告げ口する気など更々無い。相手が勤王派の息子だとしてもだ」


 また、大須賀が煙を吐いた。どこか金木犀のような、甘みのある香りがする。


「若い頃、私もそうした遊びをした事がある。元来、怡土はそうしたものが盛んな場所だ。だから何も言わない。私の胸の内にしまっておく。墓場までね」

「……」

「しかし、未来は無いぞ。加藤楊三郎は完全な勤王派だ。そして、君は佐幕派として内訌ないこうの片棒を担いでいる。言わば敵同士だ」

「私は佐幕派ではありませんよ。父は佐幕派ですが」

「いいや、世間的には佐幕派だよ君は。何せ、私の護衛だ」

「ただの護衛です。意見を求められるので答えていますが」

「世間はそう見ない。事実、私も赤橋様も言うほど佐幕派ではない。君のお父上は勘違いしているかもしれないがね。しかし、世間は私達を強硬な佐幕派と見ている。それは、目付組が体制側だからだ。勤王派が藩法を破る以上は、探索し処罰するのは当然の事」

「つまり佐幕派である事を自覚しろと言いたいのですか?」

「それが現実だ」


 大須賀が、雁首を叩いて灰を煙管盆に落とした。


「夢見がちな若造に、世知辛い現実を突き付けたいだけかもしれない」

「趣味が悪いですよ」


 大須賀は何も答えない。ただ、新しい煙草を煙管に詰めて火を付けた。


「ただ、この際はっきりと言っておこう。我々は佐幕派ではない。かと言って勤王派でもない。御家と藩を第一に考え行動する、法の執行者だ。今後、君のお父上と対立する事もありえる」

「護衛に過ぎない私にそれを伝えて何を望んでいるのですか、あなたは」


 睦之介が問うと、大須賀は軽く微笑んで煙を吐いた。甘く濃い香りが漂う。


「私の後継者になるのだ、君は。紀和の婿になり、大須賀家と私の全てを引き継ぐ。これは私と赤橋様の願いであり、谷原織部様のご希望でもある」


 その時、紀和の声が聞こえた。色黒で胡桃のような目をした娘が、夕餉の支度が出来たと大須賀と自分の名を呼んでいる。


「もし拒否をしたら?」

「谷原家の醜聞が世に広まる」


 大須賀が目を伏せた。背筋に冷たいものを覚えた。この凄み。これこそが、軍師と呼ばれる所以なのか。

 また、紀和の声がした。中々来ないので怒っているようだ。決して器量良しとは言えない紀和の声がする方に、睦之介は顔を向けていた。

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