第三回 丹下流羽島道場

 翌朝、睦之介は道場に足を運んだ。

 暇をもて余す名門の部屋住みがする事と言えば、博奕か女か己を鍛えるぐらいしかない。女には興味が無く、博奕を打つ元手が無いので、残された道は剣しかなかった。学問などは趣味ではない。

 丹下流羽島道場は、海に面した城下の北側、潮臭さが漂う横浜町よこはままちにある。

 此処には、馬廻組という平士ひらさむらいの屋敷が多い。道場主の羽島作左衛門わじま さくざえもんもまた平士の身分にある。

 小気味良く打ち響く竹刀の音が、門前にまで聞こえていた。外国船が相次いで来航するなど時勢が厳しいものになり、道場に通う者が日々増えているのだ。

 いつものように挨拶をして道場に入ると、門下生達が激しい乱取りを繰り広げていた。飛び交う気勢は怒号にも似て、道場全体が殺気立っている。睦之介は、そっと道場脇に控えた。

 もうすぐ、道場対抗の八幡宮奉納試合があるのだ。出場するのは十五歳未満の者だけであるが、それ以上の者も熱気に圧され、自然地と稽古に力が入っているように見える。

 いい雰囲気だった。だからこそ、睦之介はその中に加わる事をやめた。睦之介は楊三郎と共に、丹下流羽島道場の龍虎と呼ばれる存在である。その自分が中に入ると、多くの者が萎縮し、今の熱気に水を浴びせる事になりかねない。


(ほう……)


 この乱取りの中に、楊三郎の姿をすぐに認めた。素面素手で、若い門弟相手に稽古をつけている。


「流石だ」


 睦之介は、思わず呟いていた。向かってくる竹刀を巧みにかわしながら、隙が見えた箇所を軽く小突く。そして一言二言語りかけると、また打ち込ませている。


(また腕を上げたな)


 楊三郎がいる場所だけは、激しい乱取りを行っている道場内にあって、ある種の神聖な雰囲気を醸しだしてる。

 睦之介は、剣舞のような楊三郎の動きを追っていると、腹の底に抑えていた下心がムクムクと湧き出してきた。今朝の夢が、目の前の楊三郎と重なるのだ。

 妖艶な魅力だった。相手を見据える切れ長の目は、男を誘う花魁おいらんそのもので、頬を滴る汗が光り、その美貌を神々しいものにしている。


(今、誰もいなければ抱き締めたであろう)


 勿論、出来ぬ事だ。それどころか、表で公然と会話する事も出来ない。今や藩内を二分する、政敵同士の子弟なのだ。


「よう、睦之介」


 その時、背後から名を呼ばれた。振り向くと、鴨井逸平かもい いっぺいがそこに立っていた。

 背が低く、顔は四角。目は空豆のようで、鼻が丸い。男前と呼べぬ外見であるが、その実力は睦之介や楊三郎にも勝るとも劣らず、今は道場の師範代を勤めている。


「貴様か」


 そう言うと、逸平が口元に軽い笑みを見せた。逸平は睦之介と同じ二十一歳で、身分は平士と下だが、竹を割った人柄を好んで付き合っている。


「調子はどうだ?」

「ぼちぼち」

「最近怠け気味だぜ、お前」

「忙しいのだ、色々とね」

「部屋住みの分際でか?」

「ああ、部屋住みなりにだ」


 逸平は鼻を鳴らすと、楊三郎を顎でしゃくった。


「久し振りに来てやがる」

「そうみたいだな」


 楊三郎が道場を姿を見せる事は稀だった。というのも、この道場主たる羽島作左衛門が父と近しい関係にあるからだ。時に相談役、時に護衛をしていた。睦之介がこの道場に通うのもそうした関係があるからで、楊三郎が羽島道場から足が遠ざかっている理由もそこにある。


「父親の目を盗んで来ているらしい。この道場が一番だとさ」


 それは、既に知っていた。何せ、二日前には抱き合っていたのである。その秘事を、逸平は知る由もない。


「門弟も嬉しそうにしてるな」

「へん。これじゃ師範代の面目丸潰れじゃねえか」


 と、逸平は舌打ちをした。

 逸平の稽古は厳しい。一方で、優しく丁寧に指導する楊三郎は、門下生に好かれるだろう。しかし、それが剣の道を志す者にとって良いとは限らない。


「気に入らねぇな」

「仕方ない。相手が悪いからな」

「まぁ、そうだろう。こちとら平士。楊三郎は大組で、親爺は中老だ」

「……」

「お前も、あいつの味方い」

「どうだかね」


 逸平と楊三郎の関係は見えない。逸平が発する言葉の端々には嫌悪の色が見て取れるが、はっきり聞いた事はない。ただ、楊三郎は逸平を友達だと思っている。


「そろそろ、俺達も身体を動かすか」

「おっ、師範代殿が自らお相手してくれるのかい?」

「俺か楊三郎以外では物足りんだろう」


 逸平と前に出ると、流石に道場内がどよめき立った。


「師範代と、谷原様が出るぞ」


 などと、門下生が口々にしている。そして、皆が道場脇に引き中央が空いた。羨望の眼差しに、睦之介の自尊心が刺激された。この瞬間が堪らない。そして、剣こそが我が道と思う。

 睦之介は、楊三郎を一瞥した。流石に、こうも登場すれば気付くもので、こちらを見て微笑み一つ頷いた。

 手合せは、すぐに始まった。

 逸平の剣は、力の剣だった。どんどん前に出て打ち込んで来る。昔から全く変わっていない。

 睦之介は、それを躱す。躱せないものは弾いた。

 竹刀から伝わる逸平の力を感じながら、


(楊三郎の剣とは違うな)


 と、改めて思う。

 楊三郎の剣は、技の剣である。流れるように捌き、いつの間にか一本を取っているのだ。

 そして、自分の剣はその中間。力でもあり技でもある。二人の良い所を取り入れた。

 睦之介も前に出た。逸平の力をなしてからの、返しである。

 それは、空を切った。すると、逸平の竹刀が見え、睦之介は身を引きながら横に一閃した。

 それが、見事に胴に入った。歓声と拍手。楊三郎に目をやると、その姿はもう消えていた。


「まだまだ」


 逸平が、すぐに構えた。負けず嫌いの男だ。それがこの男の美点である。

 結局、この日は二本ずつ取って引き分けとなった。

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