第四回 九月九日

 楊三郎から呼び出されたのは、それから三日後の事だった。

 他人の名を借りて、便りが届いた。何の変哲もない時候の挨拶と近況報告であるが、それは巧妙に符牒化された、二人だけに判る逢引の合図だった。

 待ち合わせの場所は、馴染みにしている師吉町の出会茶屋だ。


(楊三郎の奴、我慢できなくなったか)


 睦之介はそうほくそ笑みながら、約束の日に店を訪れた。

 出迎えた番頭に、睦之介は目配せした。案内されたのは、いつもの離れの部屋である。離れには誰にも近付く事はない。その為に、店には口止め料を上乗せしてかなりの銭を払っている。

 楊三郎が先に来ていた。


「待たせたな」


 そう声を掛けると、楊三郎は軽く微笑み首を横にした。

 白い肌。豊かな頬。切れ長の目。相変わらず、見入ってしまう美貌である。

 睦之介は、楊三郎の向かいに座った。


「ほう」


 盆の上に、一輪挿しが置かれていた。活けられていたのは、淡く桃色の菊である。


「菊か。縁起でもねぇな」

「ふふ。私は好きですよ」

「これはお前が用意したのか?」

「今日は重陽ちょうようの節句ですからね」


 そう言って差し出された猪口には、菊の花弁が置かれていた。


「そうか、今日は九月九日か」


 楊三郎が銚子を傾けると、酒に花弁が浮かんだ。


「趣味じゃねぇさ、俺には」


 そう言って、睦之介は花弁ごと飲み干した。


「睦之介さん、今日は大切な話があって呼んだのです」

「話?」


 睦之介は、肴の豆腐に箸を伸ばしながら、


(親父の事か)


 と、思った。

 最近、怡土藩も時勢の煽りを受け、政争が日々激しくなっている。その一因には、藩主・原田右近将監種堅はらだ うこんえのしょうげん たねかたが旗幟を鮮明していない事が原因だった。政争に興味を持たず、風流事にうつつを抜かしているのだという。故に、佐幕と勤王の争いが続く。藩主が肩入れすれば、明日にでも政争に終止符を打てるというのに。


(優柔不断で凡庸な藩主)


 口には出さないが、睦之介はかねてからそう思っているし、皆もそう思っている事だろう。


「早く言えよ」

「どうやら私は、京師みやこに行かねばならないようです」


 思わぬ告白に、猪口を口に運ぶ手が止まった。


「何故、部屋住みのお前が急に」

「父に命じられました。京都留守居の叔父を助けよと」


 京都留守居は曲渕信濃まがりぶち しなのという、楊三郎の叔父である。熱烈な勤王派であり、京都で蠢動しているという話は、父から一度だけ聞いた事があった。


「つまり、お前も勤王の為に働けという事か?」

「そうだと思います」

「今の京は魑魅魍魎が跋扈し、天誅と申して人斬りが盛んだとか。危険だぞ」

「だからでしょうね」

「だから……って、甚左衛門様はお前に人斬りをさせるつもりなのか?」

「おそらく」

「馬鹿な」


 睦之介は、吐き捨てるように言った。


「お前は剣の才能がある。俺とは違う。天性のものだ。それを民を救う為ではなく、政争の為の人斬りなんぞに使っていいのか」

「勿論、嫌ですよ」


 楊三郎の語気が、幾分か強くなった。


「ですが、父の命令に否とは申せません。それは睦之介さんとて同じでしょう」

「……」


 そう言われ、睦之介は答えに窮した。父親には反発している。しかし、それは掌の上でのささやかなものに過ぎず、絶対的な命令を下されれば従う他に道は無い。もし、それに叛こうものなら勘当であり、生きる糧を持たない自分に、それを選ぶ勇気は無かった。


「そうか……。お前は志士になるのか」


 それは、即ち敵になるという事だった。睦之介は佐幕でも勤王でもない。ただ父が佐幕なだけだ。楊三郎も同じである。ただ父が勤王なだけだ。言わば、互いの親が勝手に対立しているのである。しかし、楊三郎が勤王の為に働くとなれば、父と直接的な敵対関係になる。そうなれば、流石に楊三郎は敵ではないと言い切れなくなるのではないか。佐幕に深い思い入れはないが、谷原織部の三男という血と育てられた恩は否定できない。


「私に勤王の志はありません」

「なら、京都なんぞに行くなよ」

「それは言っても栓なき事です」

「そうだが」


 睦之介は、二杯目も一気に煽った。


「私は父の傀儡くぐつなのです。父の出世の為に、口の端にも乗せれぬ穢れた真似もしました」

「楊三郎、お前」


 穢れた真似。それは、簡単に想像出来た。加藤甚左衛門は出世の為に、藩の重鎮に我が子を抱かせたのだ。だから初めて抱いた夜、楊三郎に慣れたものを感じたのだ。


「睦之介さんは、私を奪って逃げて下さいますか」


 楊三郎が睦之介を見据えて言った。


「二人の腕があれば追っ手から逃げ切れます。それに世情は乱れていますから、私達が生きる場所は何処にでもありましょう」

「……」


 冗談は言ってはいない。それはすぐに判った。楊三郎の表情にも声色にも、切実なものがある。故に、何も答えられなかった。


「やはり、無理ですよね」


 楊三郎が笑った。たおやかで可憐で、少し意地悪な笑みだ。

 睦之介は抱き締めていた。菊の湯に浸かったのか、よい香りが鼻腔を突いた。


「私は、必ず戻ります。何年後なるか判りませぬが。出来れば、九月九日。重陽の節句に。喩え魂魄になろうとも」

「何を言うのだ、お前は」

「だから。だから、今夜は存分に可愛がって下さいませ……」


 耳元で、楊三郎がそう呟いた。

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