第5話 660ccの御料馬車
少し落ち着いたらしき少女は、俺の顔を窺うように上目遣いで聞く
「開場に間に合う?」
「俺が配達に遅れたことがあるか?」
少女は牛乳屋の爺さんが2by4材を切り出して作ってくれたテーブルに指先で触れ、少女のお婆ちゃんが貸してくれた、少女が幼い頃にお気に入りだったという座椅子の匂いを嗅いでいたが、そっと座る。
外に出られない少女。行きたい場所に行けない少女を、外に出ないまま連れて行こう。
俺が言い出した今回の計画には、牛乳屋の老夫婦と少女の祖母も協力してくれた。
今日、明日は配達が無いので軽ワンボックスも空いている。車内の物々は爺さんが以前この軽ワンボックスで車中泊旅行をしようと思って買い揃えていたらしい。
車内のテーブル横には大きなクーラーボックスがあって、老婦人が今日のために作ってくれたお弁当が入っている。
座椅子に座り、ノートPCの電源を入れた少女は、モニターにいつも通りの映像が写るのを見て少しだけ安心した様子で、アイコンのクリックを始めている。俺はスライドドアを閉め、軽ワンボックスの運転席に座った。
ここか富士山麓の御坂峠までのドライブ。バイクで行ったことは何度かあるけど、車での初めての遠出が引きこもりの少女を引きこもったまま富士山まで配達することになるとは思わなかった。
いざ出発するとなると不安材料が次々と頭の中に沸いてくる。トイレはどうすればいいのか、爺ちゃんが満タンにしてくれたガソリンで往復できるか、婆ちゃんがくれたお小遣いでオールナイトのアニソンフェス参加に足りるんだろうか。
色々な心配事を脳内で解決しなくちゃいけないという強迫観念に襲われて、乗り慣れた車で走りなれた道なのになかなか発進できない。 懸念は主にこの少女の面倒事。俺がもう一度地図を見返そうとしたところ、運転席と後部を隔てるカーテンの隙間から手が伸びてきた。
何も言わぬ少女の手は何かを求めるようにくいっくいっと動く。しばらく意味をわかりかねた俺は一つ気付き、助手席に放り出していたコーヒー牛乳の瓶を少女に握らせる。少女の手は引っ込んだ。
俺はもう一本のコーヒーを開けて一口飲み、ドリンクホルダーに置く。軽ワンボックスのサイドブレーキを下ろし、クラッチを踏んでギアを一速に入れる。
いつも通り周囲と後方を確認し、いつもより丁寧にクラッチを戻しながらアクセルを踏みこんだ。
まぁ、何とかなるだろう、きっとこの一本のコーヒーを飲み終わる頃には、悩みより楽しみのほうが大きくなっている。
最初は面倒事だった、この少女とコーヒーを飲む時間が、楽しい時間になっていったように。
引きこもり少女と二人で軽ワンボックスに乗って出発した、東京の町田市から山梨の富士山麓、御坂峠までのドライブ。
まずは道をどうするかという選択肢にブチ当たった。
ここから目的地まで行くには、バイクで走り回ってた頃ならワインディングが多くて走ると面白い道志みちと言われる国道413号を使うことが多かった。
第二の候補としては巡航速度の速い移動が出来る国道246号線。他にも北上して国道20号線に乗るルートもある。
それらの道よりも早く快適に行ける東名高速を使った移動については、選択肢から外すことになった。
牛乳屋の婆ちゃんがこの旅のためにくれたお小遣いは一万円。ガソリンはほぼ満タンだから国道の巡航なら400kmは走れる。食料は老婦人が俺と孫の二人で充分すぎるくらい用意してくれている。
その富士アニソンフェスというのは、タイアップイベントの一種で入場とライブ鑑賞は無料らしい。
現地でグッズを買いあさるようなことをしなければ、もしかしたらこの一万円は丸々俺のポケットに入れられる。
そんな皮算用をしながら、俺は町田の市街地にある少女の自宅から、幹線道路の町田街道に軽ワンボックスを乗り入れた。
富士アニソンフェスが始まるのは夕方。今はまだ朝と昼の間くらい。時間は充分すぎるくらいにある。最初の選択で且つ走り慣れている道志みちに向かうべく、町田と相模大野を結ぶ行幸道路を国道16号線に向けて走った。
16号を北行き方向に曲がったところで突然、運転席がドンドン!という感触と共に揺れる。俺は何事かと後ろのカーテンを開けた。
後部スペースの右後ろにある座椅子に座ってた少女が、膝歩きで俺のすぐ後ろまで来ていた。
少女はすぐにカーテンを閉め、隙間から顔だけ出して言う。
「戻って」
俺が意味をわかりかねて「え?」と言うと、少女は切迫した顔色で言う。
「早くおうちに戻って!非常事態よ!」
しばらく言葉の意味を考えていた俺は、少女の顔色を見て返答した
「トイレか?」
少女は顔を赤くしながらコックリと頷く、二人ともこの旅で最大の問題を忘れていた。
俺は車をターンさせることなく、国道16号に最近出来たニトリの大型ショッピングモールに車を滑り込ませた。
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