第2話 箱の少女

 お婆ちゃんは何か言いたげに玄関を振り返った。

 俺とお婆ちゃんの視線は玄関の引き戸ではなく、その隣。カーテンが締め切られた窓に向いていた。

 俺は慌しく一礼して軽ワンボックスに乗り、お婆ちゃんの家を後にした。


 牛乳配達というものは大概、配達に必要なだけの数の牛乳をキッチリ積んでいて、追加の注文を受けてもすぐに出せる余分な牛乳が無い。

 新聞や郵便の何倍も複雑な数量を記憶、管理する配達仕事。そうすることで後で過不足から配達間違いが無かった検算する。

 通常は追加の注文を受けても翌日以降の対応となることが多いが、この配達先だけは今日中に届けなくてはいけない事情がある。

 夏の空が明るくなる頃、配達を終えて町田駅近くの営業所に帰る。 

 今日も余りなし、足りない牛乳なし、連絡事項もなし、店では社長夫婦が待っててくれた。

 空き瓶の入った牛乳箱や保冷材を車から降ろした俺が、片付けを始めようとすると、お爺ちゃんが牛乳箱を手に取る。


「私がやっておく」


 牛乳を配達する者はそれを飲む物より健康である、というラーメンマンの言葉通り、七十近い年齢ながら苦も無く肉体労働をするお爺ちゃんは、冷蔵庫で明日の配達分を揃えているお婆ちゃんに目配せした。


 「はいこれお願いね、ゆっくり行ってらっしゃい。学校、もう夏休みでしょ?」


 お婆ちゃんは俺が何も言わないうちから、追加注文分のコーヒー牛乳を差し出す。

 俺はお爺ちゃんお婆ちゃんに礼を言ってホンダの軽ワンボックスに乗り、コーヒー牛乳二本だけの配達に向かった。


 家主の老婦人が言った通り、配達先の玄関は鍵が開いていた。

 軽ワンボックスを路地に停めた俺は、コーヒー牛乳二本を片手にガラスの引き戸を開ける。

 木造平屋の一戸建て。ここ数十年で商業都市になった町田に旧くから居る地主の家。

 普通の勤め人をしている父母と一緒に、三才で町田に越してきた団地住まいの俺とは違う。生活環境も経済状況も。

 家主の老婦人がここ最近の日課である詩吟の教室に出かけた後の家。誰も居ない廊下を歩く。

 勝手知った家。牛乳配達を始め、この家の追加注文を受けるようになってから、ほぼ毎朝来るようになった部屋。

 廊下横の襖のうちの一枚を叩く。中からイビキのようなうめき声のような音が聞こえた、許可されたものと判断して襖を開けた。

 冷房の効きすぎた薄暗い和室からは女の寝床の匂いがした。

 畳の上には万年床と雑誌、DVD、amazonや楽天のダンボール箱が散らばり、踏まないように歩くのに苦労した。

 部屋の隅に置かれた分厚い無垢材の座り机の前に、この部屋の主が居た。


 小柄な部屋主は面倒くさそうに振り返る。

 夏だというのにジャージの上に毛玉のついたフリース。二つの三つ編みが荒縄みたいにほつれた長い黒髪。アニメでよく見かける下半分だけフレームのある分厚い眼鏡越しに俺を見る。

「婆ちゃんまたコーヒー買ったんだ~?いらないっていってるのにな~」

 俺の手からコーヒー牛乳を受け取った部屋主は 言葉に反し早速コーヒーの封を開ける。それから俺を見て、もう一本のコーヒーを座り机の端に置いた。

 届け物の終わった俺が何も言わずに立ち去ろうとすると、部屋主の少女は開けてないコーヒーに手を伸ばし、瓶底を机にゴン、ゴン、と打ちつけながら俺を見る。

 俺は大きな座り机の前、部屋主の横に2mほどの距離を置いてあぐらをかいた。

 それなりの部屋に置かれていれば相応の風格を放っていそうな無垢材の机は部屋の床以上に乱雑だった。

 中央に置かれたノートPCを中心に、アニメ雑誌やお菓子の袋、お婆ちゃんが用意したらしき朝食の盆が置かれていた。

 俺にコーヒーを勧めた三つ編みの少女は、自分のコーヒーをグビっと飲みながら言った。


「今、何してるの?」

「見ての通りバイトをしてる、学校が夏休みで」


 少女はそこで体を子供のイヤイヤみたいに捩り、手を振って話を遮る。


「学校の話はやめて、お願いだから」


 少女はこの部屋で終わらない夏休みを過ごしていた。

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