ワンボックス

トネ コーケン

第1話 運び屋の少年

 さっきまで乱れていた呼吸が落ち着いてきた。

 視覚、聴覚、触覚、すべての感覚が研ぎ澄まされていく。

 味覚さえ口中に分泌する興奮物質が発する十円玉のような味を感じさせた。 

 路面の情報がステアリングの微かな震えとなってグローブ越しに掌に入力される。

 薄暮時の光量不足で輪郭が朧げな障害物の形が、脳内の記憶によって補正されていくのがわかる。

 俺は左手をステアリングから落とし、シフトレバーを四速から三速、続いて二速に吸い込ませた。

 二速をキープしたままミッドシップの有利で左右の障害物を避けながら、細い走路を駆け抜ける。停止位置が視界に入った。ブレーキに置く足の重みを薄紙一枚分足したり引いたり調整しながら、猛禽が音も無く舞い降りるようにターゲットの至近に停止させる。

 ギアをニュートラルに落とし、サイドブレーキレバーを引いてから車外に出る。シートベルトを締めない稼業。ベルト無しの事故で深手を負う可能性より、着脱の時間を浪費することが命取りになることが多い。そんな職場。

 受け渡しの場には向こう側の人間が居た。珍しいケース。普段は無人のまま積荷の授受は終わる。

 それも俺には関係ないこと。積まれる荷物とそれを受ける人間には干渉しない。手順は何ら変わらない。

 後部のスライドドアを開け、グローブ越しにひんやりした感触が伝わってくる荷物を取り出す。俺とは違う人生の重みを刻んだであろう相手に届け物を渡した。無人の時には不要な合言葉を発する

「おはようございます町田乳業です!お婆ちゃん今日もいい天気だね!」


 朝早くから植木の手入れをしていた老婦人は、俺が軍手をはめた手で渡した牛乳を受け取り、ニッコリと笑った。

 

 東京都下、町田市の南部で朝から軽ワンボックスに乗って牛乳を配るバイトを始めたのは、三ヶ月ほど前だった。

 高校三年とはいえ私大付属の高校。なんとか内部推薦を貰い灰色の受験生活を回避できた俺は、梅雨時の誕生日に合わせて自動車免許を取った。

 免許取得を聞きつけて配達バイトを頼んできたのは、町田駅近くの団地で生まれ育った俺の家の近所にある牛乳屋。 

 二十一世紀を迎えた今もなお宅配牛乳というのは需要があり、店の老夫婦だけでは捌き切れないお客を抱えてるらしい。

 免許を取り、大学進学を決め、さっそく遊び金を稼ぐべくバイト情報誌を見ていた俺は、その牛乳屋夫婦と長らくの付き合いのある親に半ば強制されるように、軽バンで牛乳を配達するバイトを始めた。

 とにかく自分の車とそれで遊びに行く金が欲しくて、高校生が学業と両立するには無理のあるバイトを探してた俺に、牛乳配達をさせた親の気持ちもわかる。

 どっちにせよ免許取得の費用を親に出して貰った手前、断れない立場の俺は、まだ空が暗いうちに始めて朝の通学時間前には終わる、まことに健全で健康的なバイトを始めた。

 

 牛乳配達のバイトも、一度道順と各配達先で違う品物の種類と数を覚えてしまえば楽なもの。

 乳業会社のトラックが来た後、品数をチェックして手で積み込むのは、肉体労働やスポーツに縁のなかった身にはなかなかの力仕事だが、荷積みの疲労が腕から抜ければ、最初はカッコ悪い商用車だと思ってたホンダ・アクティの運転を楽しむ余裕さえ生まれる。

 早朝という時間の関係上、接客らしきものがほとんど無いのもありがたい。最初は遅配、誤配をしたこともあったが、配達先の客も店とは長らくの付き合い。

 品物より新しく配達を始めた若いお兄ちゃんを気遣ってくれる人が多く、時には牛乳箱にお疲れさまの手紙と共にお菓子の袋など入ってたりする。

 あちこちにコンビニがあって駅前に出れば西友が24時間開いている、町田市街地で割高な宅配牛乳を頼むのは、外に買い物に出たり重い物を買って帰るのが負担になる高齢者が多く、そのうちの何人かは俺のことをヨチヨチ歩きの頃から知っている。

 牛乳屋のお爺ちゃんとお婆ちゃんには、くれぐれも運転だけには気をつけてねと言われてるので、出来るだけその通りにしている。

 毎日の配達ルートを走ってるうちに、危ない場所はある程度わかってきた。

 

 牛乳を受け取った老婦人は、次の配達先に向かうべく軽ワンボックスに乗ろうとする俺を呼び止めた。

 

「今日も追加、いいかしら?」 

 

 お客様からの注文とあっては受けないわけにはいかない。何よりこの御婦人も俺が幼稚園に行ってた頃から世話になっている。


「コーヒー牛乳を二本ですね、あとで届けに行きます」

「お願いします、今日も鍵、開いてるから」

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