第3話 結婚式前の地方都市の床屋
苦い思い出の後味の悪さを噛みしめているうちにふと違和感を感じた。それは柔らかい感覚だった。千鶴のことを思っていたからであろうか。明らかに女性の肌のぬくもりを感じたのである。ふと気づくとそこは記憶の隅にあった地方都市の床屋であった。自分の肩の辺りに触れていたのは若い女性の腕だった。その理容師は最近結婚したばかりの若い女性で笑顔がとても素敵だった。実は、彼女には自分もこのあと結婚式を控えていることを話していた。この床屋のすぐ近くにあるホテルで式を明日に控えているのである。すべての準備は終わっているし、挙式の段取りから引き出物の内容まで手配に抜かりはなかった。でも、私には気になることがあった亜美、それが結婚相手の名前なのだが、その様子がどうも最近おかしいのである。疑いの気持ちが少しずつ芽生えてきた。私は彼女の心変わりを疑っていたのである。
私は女の理容師がわずかに力を入れるのを感じ取り、首を傾けていた。それはとても優しい感触だった。
「お客さんも結婚するんですから、おせっかいなこととは思いますが、ちょっとお話しておきたいと思います」
理容師ははさみを休めずにそういった。
「なんですか」
「結婚する前の女はかなり敏感になるんです。なにかいろいろ不安になると言うか」
「マリッジブルーってやつですか」
「そうとも言うのかもしれません。でも、本当はそんなに単純にまとめられるものじゃないんです」
「はあ」
「女にとって結婚は大きな節目です。それである程度人生が決まってしまうというか・・・見合い結婚しかなかった時代はそれでもあきらめられたんだと思うんです。親が決めた結婚だからってね。それにそれが当たり前だったでしょ」
「そういいますね」
「でもね。今の結婚は結局、本人が最終的には決めるでしょ。お客さんは失礼ですが恋愛結婚ですか」
「まあ、そんなやつです」
「それならなおさら、結婚前の奥さん、になる人が、憂鬱なるのは当たり前なんですよ」
「そうなんですか」
私は心から納得してしまった。そして、ふと気づいたことがあった。
「あれ、亜美のこと話しましたっけ」
「亜美さんっていうんですね。私はなんとなく感じたんですよ。はさみを動かしているうちにね」
私は鏡に映った理容師の顔を見た。するとそれが限りなく亜美と同一人物に見えてきた。
「わかりました。亜美のこと、彼女のことを大切にします」
と私がつぶやいたと思った時、鏡の前の風景は再び溶解し始めた。
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