第4話 新興住宅地の下手な床屋
不思議な感情に襲われたあと、気がつくと自分の体が随分小さくなった気がした。肌のつやが違う。それになにか我慢ができない衝動が体中にみなぎっていた。でも、それでいて何をしていいのか判断できないもどかしさを常に秘めている感じがしていた。
自分の存在を確認している作業を突然打ち切ったのは理容師の乱雑な振る舞いだった。見ると30歳くらいの男であった。私よりかなり若いはずだがそっさに思い浮かんだのは「おじさん」という言葉だった。この理容師のおじさんははっきり言って仕事が上手ではなかった。しょっちゅう鋏を手から滑らせるし、押さえている手の力が入りすぎていて痛かった。それに、なんどか櫛を床に落とした。
だんだん状況が分かってきた今の自分は小学2年生だ。そういえばその頃住んでいた街にこんな床屋さんがあった。いつも店の前に三毛猫がいて、その猫を踏まないように入るのが大事だった。一度猫にちょっかいをかけようとして思い切りパンチされたことがあったっけ。大人が通るときにはしぶしぶ腰を上げるのに、僕には道を譲ってくれなかった。そうだ、ここを「猫の床屋」と呼んでいたんだった。
この床屋がある街はいわゆる新興住宅地で、駅前にはまだ田んぼや空き地があるのに、その周りには多くのアパートやマンションが並び、さらに増殖を続けている途中だった。
人口は急速に伸びていくのに、それに街として成長が追いつかないといった感じだった。スーパーはいつも混雑、医者に行くのもたいてい半日がかりだった。そうだ、それより深刻な問題があった。小学校は教室が足りず、校庭に増設したプレハブ校舎だった。廊下を走るとがたがた音がする、夏は暑く、冬は寒い校舎だ。それでもあの頃は特に不平や不満をいうことなく、遊びまわっていた。学校帰りに駅裏の田んぼの近くの用水池に行ってザリガニを取るのが楽しみだった。
そんなことを思い出しているうちに理容師は雑な仕事を積み重ねていった。痛いと小声で言うと「ごめんね」とさらに小声で返してくるのだが、それには明らかに誠意がなかった
実は自分の番がくるまでに随分待たされていたのだ。3時間近くは待っていた。私は待合室のドラえもんをほとんど読み終わってしまい、大人向けの漫画を開いてみたが、女の人の裸ばかりでまったくつまらない。そういえばこの頃はプールの時など、男女一緒に着替えたが、南ちゃんの裸だけ妙に気になっていた。しかし、それ以外は記憶にさえ残っていない。あのころはヌードよりもウルトラマンの怪獣の方がずっと気になっていた。この街で「帰ってきたウルトラマン」のロケがあったときは、エキストラとして参加した。サングラスのおじさんが「合図したら、キャーっていて走って」というのを友達と一緒にやった。「怪獣に追われているだから、笑っちゃ駄目だよ」といわれて2回やり直したのを覚えている。でもどこにも怪獣はいなかったし、その回の放送にこのシーンはなかった。
また記憶の暴走が始まったのを、電話のベルが遮った。理容師は妙に恐縮し、ペコペコお辞儀を繰り返していた。最後に「もうしわけございません」と大きな声で言って受話器を置いた。その電話はどうも母からだったようだ。あまりに帰宅が遅いので心配になったようだ。おそらく時間は7時ごろで小学生にとっては十分に遅い時間だった。
理容師はあわてて鋏を動かし、私の頭を左右にひねって髪を切り終わった。
解放されて理容室の扉を開けるとすっかり暗くなっていた。扉の外に母がいた。心配そうな顔をしていた。そしてその後、さらに複雑な顔になっていた。
「もうこの床屋さんに来るのはやめましょうね」
家に帰って鏡をみると左右のもみ上げの長さが明らかに違っていた。母がそれをそろえてくれたので何とか様になった。
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