第2話 大学前の古い床屋

 どこかでみた気がする懐かしい風景だった。眼鏡を受け取ると理容師は、


 「はいできました」


と元気よく言った。先ほどの職人然とした態度とは違ったもう少し軽い声だった。眼鏡をかけて鏡をみると、明らかに10年以上前の自分の顔があった。それはたまたま開いてしまった古いアルバムの中の写真をみてしまったような感じがした。


 「どうもありがとうございます」


 という自分の声に、瞬間、強い違和感を覚えた。声が若い。しかし、確かに自分の声だった。自分の声帯を振動させ、喉から音が出た感触をその時は不思議に感じた。


 私は冷静さを必死に取り戻そうと努力した。


 「どうかしましたか」


 理容師にも私の動揺は伝わってしまったようだ。私はとっさに笑顔を作った。感情をごまかすのはうまいほうだと自覚していた。最近の仕事にはそういう能力が求められる。


 私は椅子を立ったとき自分の体の軽さを感じた。来ている服もかなり若者向けの派手な模様がついている。そしてこれはどこかに記憶のあるものだった。代金を払おうとかばんの中から財布を捜すが見当たらない。慌ててかばんひっくり返すとどこかで見たことがあるような布地の財布が出てきた。以前使っていた記憶がある。確か酒に酔ってどこかに落としてなくしたものだ。財布を開くと昔の絵柄の札が入っていた。これを出すと、理容師は一枚多いですといっておつりとともに返してくれた。


 私は自分の置かれた状況をだんだん理解してきていた。床屋の古いガラス扉を出て振り返ってみると、やはり、予想したとおり昔よく行った大学の前の床屋だった。腕前の方は疑問符がついたが、何しろ大学の裏門からすぐのところにあり、なぜかあまり流行っていなかったので並ぶことが少ないので私としては便利だったのだ。当時の友人たちに言わせれば、どこか垢抜けない仕上がりになるので行きたくない店だった。私は床屋自体が嫌いだったし、特にこだわりもなかったのでこの店にいつも行っていたのだった。


 店を出た私はたまらない懐かしさに襲われて大学のキャンパスにいくことを禁じえなかった。途中で会う学生たちも昔風のファッションのものばかりだ。女子学生の髪型も、服も懐かしいタイプだし、そしてあの過剰なギャルメイクもない。正門からすぐにある階段で、前から来る若い学生に声をかけられた。


 「おお、またガンちゃんの店で切ったんだな」


 例の理容室はたしかキノシタという名前だったが、何故かガンちゃんの店と呼ばれていた。理容師の名前からそういうのだという説があるが、だれも真実はしらない。


 わたしは曖昧に頷いた。そして声をかけた主を思い出そうとしていた。そして電光のように記憶がつながる。学生時代の悪友の仲田だ。彼は見た目はナイーブだがやることは結構大胆だった。彼は卒業後、商社に就職するがその後、自分で起業して、倒産して、それを何度か繰り返して、そして今はまた何か新しいことをやっていると聞いた。それも何年も前のことだ。最近の消息は知らない。その仲田が学生時代の姿で私に話しかけている。


 「今度また飲もうぜ。飲み放題のいい店を見つけたんだ」


 あの頃、彼とその仲間とは随分飲んだ。飲み放題のいい店の多くは粗悪な酒を安く売っているものだった。決まって悪酔いする。たしか財布をなくすきっかけになったのも仲田の仲間と飲んだときだった。


 仲田が「じゃあな」といって去っていく時の、右手の上げ方を実に懐かしく感じた。


 階段を上り詰めると正面に大きな銀杏の木があった。雄株なのか実がなったのを見たことはない。その周りのベンチにいる学生たちの姿も懐かしい服装の者ばかりだった。私はかつてよく座った位置に腰を下ろした。かつてはここでよく本を読んだり、授業の合間の暇をつぶしたりした。


 「ああ、ここにいたのね」


 声の方に目をやると千鶴がいた。童顔であいらしい笑顔だ。彼女とはそのころいわゆる友だち以上恋人未満の関係だった。屈託のない明るい人で、友だちも多かった。東北の出身で訛りが出ないか心配だという話しを聞いたことがあるが、そんな気配は微塵もなかった。むしろ東京弁の砕けたところがない分、洗練された言葉遣いに聞こえた。


 「ねえ、お茶しない」


 「ああ、いいよ。どこで」


 「駅前のコージーコーナーに行こう」


その店は千鶴が好きな店だった。大学3年の春、勇気を出して自己紹介した時も、満面の笑顔でこの店に行くことを勧めてきた。彼女はそこでいつもショートケーキと紅茶を頼んだ。


 「じゃあ行こうか」


 「うん。行きましょ」


 千鶴が手を差し出したので、それを頼みに立ち上がる。腕に手を回してくる。彼女にとってこれは抵抗のない一連の動作だ。他の男子にはそれをしないようなので私に特別な感情があることは確かなように思っていた。少なくともあの時は。


 喫茶店の席に座って私は千鶴と久しぶりに話した。何十年ぶりだろう。彼女の笑顔はその後のいきさつをすべて忘れてしまうほどすばらしいものだった。授業のこと、彼女の友だちやサークルの先輩の話、流行のテレビ番組、教授の噂、彼女は次から次といろいろなことを話しては笑いこけた。


 その懐かしくも甘い時間を瞬間の追憶が遮った。この時から2年後、私が大学院生になり、千鶴が就職した後のことだ。私は恋人未満の位置でいることに耐えられなくなっていた。彼女の退社後、新宿の街で待ちあせてよく酒をのんだ。そしてよったふりをして。ほほにキスをしたこともあった。千鶴は口では嫌がったがけっして断ることはなかった。


 それから半年後くらいのことだったか。千鶴は珍しく彼女から酒を飲もうと言ってきた。退社時間に合わせて新宿に行くといつもより赤い口紅をつけていたようだった。居酒屋でもテンションが高かった。そして酒量も多かった。気がつけばもう終電が近い。千鶴はそれでも帰ろうとしなかった。千鶴の住むアパートは西荻窪にあった。そこまで送るという申し出に、いつもなら固辞するのだが、「連れて行って」と小声で言ったのだった。確か11月のはじめだっただろうか随分寒さが感じられる夜だった。彼女はかなり酔って足取りがおぼつかなかった。途中何度か抱きかかえて西荻窪の駅にたどり着いた直後に、上りの終電は行ってしまった。私はその時渋谷の近くに住んでいたが、歩いて帰れない距離でもない。タクシー代を払えるほどの財力もない院生の身の上であったから、徒歩で帰る覚悟はしていた。


 千鶴の住むマンションに着いたので、ドアを開けた時点で帰ろうとした。その頃には千鶴もかなり酔いが覚めつつあったのである。ちょっとよっていかないと言ったが、私にはなんというか度胸がなかった。それにこの酔いが大切な歯止めを失わせるような気がしてならなかった。矢張り帰るといって千鶴を置き去りにした。


 私は千万の後悔をしながら家路に向かった。まるで伝書鳩が帰巣本能だけで長い道のりを飛び続けるように。


 その後、ゼミのレポートや指導教授の論文作成の手伝いなどでなかなか千鶴に会えなかった。自然と音信が不通になり、連絡するのが億劫になった。今思えばどうしてあの夜、千鶴を抱きしめなかったのだろう。後で知ったことだが、千鶴はその後里に帰って地元の有力者の息子と結婚したようだ。詳しくはしらないが、同窓会であった複数の友人の情報はみな一致していた。

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