鏡の前
斉藤小門
第1話 朦朧とした世界
床屋に行くのは実はあまり好きではなかった。鏡の前でなされるままにじっとしているのがなんともじれったかったのだ。私は視力が極端に弱いので、眼鏡を取ってしまうとすべてがぼやけてしまう。鏡に映った自分の顔の輪郭すらわからない。かろうじて目鼻のある位置を判断できるくらいだ。それもかなり推測が混じる。そんな危うげな世界の中に放置される約1時間はとても不安な時空の間だった。
ある日、私は決意して二ヶ月に一度行く床屋の扉を開いた。無愛想な理容師が先客の髭を剃りながら、少しだけ目線を向けて私を確認すると、少し待ってくれというようなことをつぶやいた。はっきり聞き取れなかったが、言いたいことは明らかだった。私は彼の指示通り順番待ちのためにもうけられた椅子に座った。乱雑に並べられたスポーツ新聞や、週刊誌がその横の本棚に並べられていた。私はその一つを手にとった。金髪に染めた化粧の濃い、それでも少女の面影があるアイドルが露出度の高い水着を着たグラビアのページまで開いて本棚に戻した。床屋の待合は私の嫌いな場所の上位に属する。
なかなか順番は回ってこなかった。先客は世間話を次から次と理容師に話しかける。理容師はそれにいちいち大げさに答え、そのたびに手が止まった。だから、なかなか仕事が捗らない。すでに私の存在は忘れ去られているようだった。
置かれている状況に十分嫌気がさしたころ、調髪の終わった先客は大げさに理容師の腕をほめた。ほめられた理容師はだらしなく愛想笑いを返していた。その客を見送った理容師は振り向きざまにどうぞとその片手を席に向けて私を招いた。これから先は私にとって理容師に支配される時間の始まりだった。
席に座るといきなり眼鏡を取り上げられた。これで私は朦朧とした世界に投げ込まれたことになる。
「今日はどのようにします」
理容師は感情があるようでないような、ある意味年季がこもった職人口調で私に尋ねた。私は、ただ
「普通でお願いします」
といつものように答えると、
「じゃ、前は自然な感じで、後ろは刈り上げずに、でいいすね」
とだけ言って、私のうなずくだけの反応を合図に仕事を始めた。先ほどまで客とああだこうだと話していた同じ人物とは思えないほど、無口になっていた。
頭の上で理容師のはさみが絶え間なく動き続ける。目の前の鏡をみても自分の輪郭を確認するのがやっとの状態の私は、いつものようにこの状況に必死に順応しようとする。そのうち、それがどうでもよくなり、やがて意識まで朦朧としてくる。そういえば昨日は妻と些細なことで喧嘩をして睡眠不足になっていた。目を凝らしてもよくは見えない風景の中で、私は急速に睡魔に襲われてしまった。
肩を軽く叩かれた気がして、目を覚ますと風景が一変していることに気づいた。どこかで見たことがある風景である。しかし、私の強い近視の視界ではそれを特定することはできなかった。そもそもこれほど急に店の様子が変わるはずがない。私は自分が夢の世界に入ってしまったと考えることにした。
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