第6章 帰 還

〈スキップジャック〉が英名でかつおを意味している──というのは、どうやら俺の思い違いだったようだ。もちろん辞書を引けば、〝スキップジャック・〟という言葉がかつおだと書いてあることは間違いない。実際、潜水艦や掃海艇の名前にも〈スキップジャック〉という単語は使われていて、それは明らかに〝かつお〟から取った命名だと思われる。

だが、本船の通称〈スキップジャック〉はかつおではなく、米搗虫コメツキムシから取ったものだ。ひっくり返して地面に置くと、手足をバタバタさせた挙げ句、豪快に跳ね上がるアレである。飛び上がる力と速さは確かにすごい。目にも留まらぬ速さで飛び上がる。だが、目標を見定めて跳んでいるかと言うとそうではない。ヤツらはただ闇雲に空へ跳ね上がるのだ。


        *  *  *


静かだった。物音ひとつしない。

──いや、正確には物音とひとつと言うのが正しい。だからといって、爆縮インプロージョン時に轟音がしたというわけでもない。多少の振動と『コーン』と『カーン』の間のような音が瞬間したくらいで、化学燃料ケミカルロケットのような騒々しさはまるで無かった。また、爆縮インプロージョン後のG増加も皆無だった。魚崎の『座標は変わらない』と言う言葉は正しかった考えるべきだろう。つまり、我々は全くもってのだ。

通常、このような状況の場合、実験が失敗に終わったと考えれば簡単に説明がつく。だが、それを否定するに十分な数字が、2つの計器のゼロに現れていた。

ひとつは外気圧計がゼロ──つまり、外が真空であることを示していた。実験が失敗したのなら外気圧は0.7気圧のままの筈。仮に爆縮インプロージョンによって外壁が破壊されたなら90気圧になっていなければおかしい。少なくとも気圧が下がる事態は想定出来ない。

もうひとつは──いやいや、こちらは計器を見て確認する必要すら無かったのだが、重力計がゼロだった。要するに無重量状態。どうやら実験は成功だったらしい。

『どうせ消えて無くなるなら、宇宙空間がいい。後腐れ無いように、第三宇宙速度以上で頼む』とか、思っていたっけな? 正夢にならなきゃいいのだが、はてさて。


「ここどこ?」

誰もが知りたがったことを最初に口走ったのは、御影恭子だった。そういえば、この〈スキップジャック〉の操縦席コックピットには、外を見る窓が無い。制御室との双方向モニターはあるのだが──って、まだ繋がっている⁈ 〈箱船〉内にある外部動力炉は無傷のようだ。

『〈スキップジャック〉がエンジンで、〈箱船〉が船体』という湊川の言葉を借りれば、だと思われていた動力炉は、〈箱船〉という宇宙船の電源装置だったということになる。

ただ、その制御室には誰もいないから外の景色を確認しようがない。制御室から〈スキップジャック〉のカメラを遠隔操作することは可能だが、逆は不可能だ。みのりちゃんならなんとかしそうなのだがな。

「位置なら分かるぞ──」

湊川がGPS計の数値を指差した。

「──東経150……ああ、これはダメだ」

「どうした?」

「時刻を見てみろ」

「ん? あれから3日経ってる?」

GPSは位置情報と共に正確な時間も表示する。だが、それが3日もずれていては話にならない。──いや、待てよ?

「なるほど、そうか……そういうことか」

「何が『そういうことか?』なんだよ?」

「つまり、GPSが狂っているってことさ」

「そんなことは見りゃ分かる」

湊川は憮然した表情で俺を見る。

「まあ話を聞け。俺が地表降下部隊アタッカーズを追いかけて降下を始めた時には、GPSは既に狂っていたんだ」

「はあ? そんな話は聞いてないぞ」

地表降下部隊アタッカーズは遺跡を確認済みだったから、誰も見ていなかったんじゃないか?」

「場所は分かっていたからな。で、何故狂った?」

「GPS衛星回線に誰かが侵入ハッキングしたんだ。おそらくRERCの連中だ」

側だな」

湊川は、RERCの司令部側と駐在部隊側の軋轢あつれきをどこまで知っているのだろうか? まあ、今聞く話ではあるまい。

「多分な。そういうわけで、GPSは当てにならん」

「何よ! 結局何にも分かんないじゃないの!」

「いや、そうとも限らん」

「何が分かったって言うの⁈」

「このGPS信号は金星独自のものだ。少なくとも金星圏内から逸脱しているわけじゃないことは分か──」

「それ、答えになってないでしょ。結局何処なのよ。ここは⁈」

御影恭子は不機嫌だった。怒っているとかそういうのとは違う。単に不機嫌なだけだ。

「……だからあの女は止めとけって言っただろ」

湊川が小声でささやく。

「手ぇ出してねぇよ。それに、アイツが興味を持っているのは〝キン〟だけだって言ったのはお前だろ」


「んー、移動速度なら分かる……」

俺たちが馬鹿な話をしている間に、魚崎が、有用な情報を調べていた。とは言っても単純な話だ。GPSの座標に細工がしてあり、正確な位置がずれているとは言っても、その差分である移動速度は分かる。頻繁に座標位置が変更されているとしたら、移動速度も狂う事になるが、その場合は速度がのですぐに分かる。逆に言えば、ハズレ値が確認されないと言うことは、速度は正しいと言うことだ。

「秒速……4.2キロメートル毎秒」

とりあえず俺はホッとした。金星の脱出速度は10.4キロメートル毎秒だから、どこか無限遠の彼方を目指して漂流したり、人工惑星になって永遠に彷徨さまようことはなさそうだ。湊川が『行き先は火星』とか何とか言っていたので、多少ビビっていたが、援助信号を出して待っていればいずれは帰ることができ──いや、待てよ? 待てよ、待てよ。

「遅すぎやしないか?」

金星を周回するための第一宇宙速度は7.3キロメートル毎秒程度。それに比べれば相当遅い。もちろん、楕円軌道の遠地であったり、金星から遠く離れた軌道なら安定な周回軌道だということはあり得るが、現在位置を知らない状態では何とも言えない。最悪、大気圏内に落ちて燃え尽きる。いや、これほどの巨体が全て燃え尽きるとは考えにくいが、ともかく、ここに残っていればしばらくは安全──とは言い難い。一刻も早く状況を知る必要がある。

「一度外に出よう」

外がどういう状態なのかは分からないが、出てみるしか無い。外は真空のようだが、全員が簡易型ながら宇宙服SSA: Space Suite Assemblyを着ており、単独でも二次酸素房SOP: Secondary Oxygen Packが装備されているので、30分は活動可能だ。また、座席下部に常備してある非常用の生命維持装置LSS: Life Support Systemを装備すれば5時間程度の船外活動ができる。

皆が装備を整えようと、5点式シートベルトを外している時、

「少し……待ってくれないか──」

と言い出したのは魚崎だった。

「──ハッチから……外に出るのは危険だ」

「そりゃ、危険だろうよ。外の状況が全く分からないからな」

と湊川。

「そういう意味ではない。んー、〈スキップジャック〉の下部にはが……完全に制御された形で……存在している。周辺を横切ると、んー、別の宇宙に吸い込まれる可能性が……ある」

「はぁ?」

何やら良く分からんが、ヤバそうな雰囲気だけは分かる。

「──それに……制御磁場の乱れは、んー、微小な密度摂動を引き起こす。……これが、ジーンズ波長を超えると、ぼ、ボイドが──」

「分かった、分かった。出ない出ない。出なきゃいいんだろ」

湊川が両手を挙げる。確かにお手上げ状態だ。

「じゃあ、どうすんのよ⁈」

相変わらず、御影恭子は不機嫌だ。

誰だよ、こんなそりの合わない4人を密室に閉じ込めたのは!


八方塞がりの状況で、魚崎はのろのろと右手を上げ、天井を指差した。

「頭上に……制御室までの、連絡用通路が……ある」

「それを先に言え!」

「はぁああ?」

「早く言ってよ!」

3人で総ツッコミだ。だが、魚崎は平然と──いや、いつものペースでこう言った。

「……非常用」

『いや、だから、今がその非常時だろうがっ‼』

──と言いたかったが、これ以上話を延ばしても何も得るものが無いため、そこはグッと我慢し、俺たち3人は制御室を目指す事にした。3人だ。魚崎は、『実験データを取りながら、に備えて残る』と主張した。不測の事態というのが穏やかではないが、彼が想定している事態の内容とやらを聞いても分かるとは思えない。そういうわけで、彼を〈スキップジャック〉に残し、3人で状況を調べることになった。

──って言うか、コイツと2人っきりで残るとか、勘弁して欲しい。


〈スキップジャック〉の真上には例の実験室ラボがあるから、直線でスイスイと上がっては行けないことは分かっていたが、想像以上に通路は曲がりくねっていた。こんな狭い下水管のような通路を、通常の重力下で移動する気にはなれない。確かに『非常用』と言うだけのことはある。

ひとつだけ幸いだったのは、迷路のような分岐点が無かったことだ。途中、潜水艦の通路にあるような一斉開閉式の水密扉ならぬ気密扉が何カ所かあったが、全て閉まっていた。おそらく、実験室ラボへ通じる非常用通路も兼用となっているのだろう。下手に開けると急加圧でお陀仏だ。宇宙服には急減圧対策はあっても、急加圧対策は無い。最悪、ヘルメット内に可能性もある。ただ、着ている宇宙服は密着型Skinny Typeではなく、昔ながらの硬上部胴体HUT: Hard Upper Torso仕様だから、それほど潰されず平気かもしれない。それでも、30気圧なんて想定で作られてはいない筈だ。不用意に扉を開けるような愚行はしない方が良いに決まっている。

通路の最上階。行き止まりに辿り着くまで、ほんの数分程度だった。無重力なので登りきったという感覚はない。そういう意味では、ここが本当に最上階なのかは一抹の不安があるが、上下方向に出入りするための円形気密ハッチがあるのは、出発点である〈スキップジャック〉の頭上とここだけだった。

ハッチを開ける前に、3人でヘルメットの気密を再チェックをする。硬式の宇宙服はどうしてもかさ張るから、狭い通路では動き辛い。御影恭子だけでも、例の固化粉流体ダイラタント入り防護服プロテクトスーツを着込めば良かったんじゃないかと思う。あれは宇宙服も兼ねていた筈だ。色々と見た目も良いしな。

空気音を確認しつつ、ハッチの開閉輪をゆっくりと回す。空気漏れや、その逆の流入も無く、ハッチは開いた。制御室の左後方の隅。デカデカと避難口escape hatchと書かれた壁文字の下から、我々3人は飛び出た。

当然ながら制御室は無人で、ひっそりと静まり返っていた。総員退去時に、御丁寧にもディスプレイ類も全て含めて、明かりという明かりは全て消して退出している。人工的な明かりは、避難口escape hatchを示す非常灯しかない。

──にも関わらず制御室は明るかった。


「これは……」

俺は窓の外を凝視していた。

「ああ。ヤバいな……」

湊川も追従する。

窓の外には軌道間輸送船OTVから見た時と同様な、黄味がかった金星が見えた。もっとも、あれは3ヶ月間の冷凍睡眠コールド・スリープ後の寝起きだったから、意識朦朧魑魅魍魎曖昧模糊としていて、とてもマトモに〝見た〟とは言えないかもしれないが、到着前のわずかな時間に見た金星と似ている。少なくとも、金星を宇宙から肉眼で見たのは、あの時が始めてで、その一度きりしか無い。明けの明星としてなら何度も見てはいるけどな。

〈スキップジャック〉が──というより、制御室も含め、この〈箱船〉全体が宇宙船だという主張は、魚崎のうさん臭さも手伝って半信半疑だったが、今ここにめでたく証明されたわけだ。実はまだ、俺は冷凍睡眠コールド・スリープ後の虚ろな夢の中にいる──なんてことが無ければ、これは事実だ。おめでとう。最初から無茶振りな有人飛行を成功させるとは、スゴいスゴイ──と、褒めてやりたいところだが、お祝いのパーティは後回しにしなければならないほど、事態は切迫しているように見える。


一言で言えば、金星が近過ぎる。二言目が許されるならば、それに加えて相対速度が遅過ぎる──と言うことだ。軌道要素Orbital Elementsを計算しなければ正確なことは言えないが、いずれ再突入Re-Entryする可能性が高い。

明かりをつけ、端末を再起動し、外部カメラの情報から〈箱船〉の位置情報を取得する。地球の衛星なら、地表面の特徴的な大陸沿岸の画像を元に、自動で位置決めするのが通例だが、金星は陸地が見ないため星図から判断する。もちろん、もっとも使われている手法はGPSに基づいた位置決定だが、改竄クラッキングされている以上、本物の星に道案内してもらうのが一番だ。金星の雲下ではそれもままならず、みのりが即席で作った山岳波Mountain wave検知装置でしのいだが、宇宙空間なら意外と簡単に自分の位置が分かる。

端末ディスプレイの隅っこに写る〈スキップジャック〉の船内画像に、何か訴える様にカメラを見続ける魚崎の目線を感じ、制御室での作業を〈スキップジャック〉の端末から遠隔制御できるよう、実行許可モードを発効する。もしも、再突入Re-Entryが決定的なら、もう一度モノポール・エンジンを発動させ、更なる高みへ跳んでもらわねばなるまい。

「あれは……ヤバくない?」

御影恭子が今頃になって、窓の外を覗きながらそんなことを言い出す。

『そんな事は一目見れば分かる』──と言おうとして、彼女の視線の先が、金星と反対の頭上を向いていることに気付いた。反射的にレーダー画面を見る。上空15キロメートルの距離に、幅500メートルくらいの塊があった。

「これは……RERCの大型船か?」

〈スキップジャック〉の跳躍が、〈箱船〉だけでなく、さらに上空の空間そのものまで持ち上げてしまった──ということになるのだろうが、その影響は一体どこまで続いているのだろうか? もしかすると、たまたま上空にあった浮遊基地フロート・ベースとか、空中都市丸ごととか、さらに上空に浮いていたりしないだろうな? 思わず、レーダーで全方位を索敵する。幸いなことに、100キロメートル全天空でそのような巨大な構造物は存在しなかった。

「悪い知らせがある」

湊川にそのことを報告しようとした時──

「こっちもだ、この〈箱船〉はすぐに墜ちる」

「⁉」

湊川はこちらの報告を聞く前に先制攻撃を放ってきた。

軌道要素Orbital Elementsが出た。現在の高度は三千キロメートルはあるが、再突入Re-Entry軌道に乗ってる。近地点ペリジーまで30分弱だ」

「それは……困ったな」

考え込んでいる俺に対し、湊川は少し楽しそうだ。

「なぁーに、心配することはない。もう一度〈スキップジャック〉を駆動させればいいんだよ。魚崎はまだ〈スキップジャック〉に居るし、準備が終わった頃までに戻れば──」

「いや、話はそう簡単じゃないんだ」

「何だ? 『悪い知らせ』ってヤツか」

「ああ」

「何だよ、それは……」

「〈箱船〉の頭上から鉄球が降ってくる」

「鉄球⁈」

「上空に、例の大型船がまだ居るんだよ。空間ごと持ち上がっちまったらしい」

「爆発したのか?」

「してたら制御室ここはふっ飛んでただろうよ。ともかく、下に降りた方がいい。最初に潰されるのは最上階の制御室ここだ」

「それなら、さっさと〈スキップジャック〉を駆動して──」

「お前、人の話を聞いていないだろ……」

俺は深く溜息をついた。

「〈スキップジャック〉のジャンプは空間そのものを移動させるジャンプだ。どの範囲までを持ち上げるかは知らないが、何度ジャンプしても、あの船との位置関係は変わらない──」

『んー、移動ではない。座標が……』とか、魚崎が文句を言いそうだな。

「──だが、この軌道のままなら、少し待てばあの船との位置関係がずれる。高度が違うからな。こちらが先に進める」

「〈箱船〉に何らかの軌道変更装置は──衝撃デルタブイマニューバは無いのか?」

「無い。湊川……お前の方がこの船には詳しいだろ。〈箱船〉は実験施設だ。宇宙には舞い上がれるが、姿勢制御も含めて推進機スラスター類は周囲に存在しない。さっき確認した」


湊川はここにきて、ようやく事態の深刻さに気付いたようだ。要するに、この〈箱船〉は、将棋の駒で言うところの〝香車〟のようなものだ。前に突っ走ることしか考えられていない。頭を抑えられれば進退窮まってしまう。向こう側に飛び越す事もできない。強いて言えば、相手ごと押し進むことは出来るが、跳ね飛ばしたり回避したりはできない。

仮に、今一度、〈スキップジャック〉を駆動して跳び上がったとしても、上空の脅威はこのままだ。〈箱船〉がどこまで跳ぶのか、跳べるのかはよく分からないが、湊川が言ったように『下手すると火星』かもしれない。火星近辺ならまだいい。人が住んでいるから救難信号を検知すれば、救助艇の一隻や二隻は飛んでくるだろう。何故こんな施設が宇宙空間に浮いているのかビックリするかも知れないが……。

だが、そんな都合のいい強運は滅多にない。太陽系のほとんどはスカスカの宇宙空間だ。救援が到着するまでに数ヶ月かかってもおかしくない。もしかすると宇宙空間での漂流に備えて、〈箱船〉には冷凍睡眠コールド・スリープ設備があるのかも? ──と思い、検索をかけて調べて見たが、そんな装置は発見出来なかった。となれば、太平洋の海底に一人取り残れたダイバーのように、酸素が無くなるか、餓死するか、はたまたサメに食われるか……。サメはいないにしても、余程の幸運が無い限り、生存確率は万にひとつもない。

「どうやって宇宙航行をするつもりだったんだ?」

湊川がつぶやく。

「そいつは俺が聞きたいね。無計画にも程がある……」

実験機としての計画ならあったのだろう。〈箱船〉の実験機としての目的は、そのエンジンとなる〈スキップジャック〉が正常に動作するかを確かめるものだった。動作すれば成功だ。『宇宙まで跳ぶ』ことが目的て『宇宙で活動する』ことは想定されていない。大抵の新型宇宙船の航行実験は、正常に飛ぶこと──飛ばせること自身の確認が第一義の目的で、飛んだ先で何をするかは想定されていないのだ。人類初の宇宙飛行だって、宇宙で何かをするのが目的ではなく、宇宙に出て、そして生きて帰ってくること自身が目的だった筈だ。

──〈スキップジャック〉の動作は確認された。となれば、次は、生きて帰ることを目的とすべきだ。


「二手に分かれよう。俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」

「〈ブラック・タートル〉だと? 俺〝たち〟とは?」

湊川が怪訝な顔をする。

「俺と──」

そういって、俺は、未だに窓の外を見ている彼女を指差した。

「──アイツだ」

「お前、やっぱり──」

「そうじゃない!」

そう言うとは思ったが……。

「ここが何時まで持つかは分からない。お前は今一度、〈スキップジャック〉の起動準備をしてくれ。RERCの船が横滑りして、上空から退いたなら〈スキップジャック〉でジャンプする。計算では20分程度で完全に外れる筈だ」

「大気圏突入10分前だな……。で、お前達は?」

「ジャンプが間に合わなかったり、鉄球の雨で〈スキップジャック〉の制御が不可能となったら、その時は〈ブラック・タートル〉で再突入Re-Entryする」

「そんなことが可能か?」

「〈ブラック・タートル〉は元々が汎用の大気圏再突入機ARESだ。姿勢制御さえ失敗しなければ降下はできる。それに、〈箱船〉はどう見ても再突入Re-Entry能力は無いが、バラバラになるまで熱避けの盾代わりにはなる筈だ」

「どっちつかずの優柔不断な策ね──」

知らぬ間に御影恭子がこちらに来ている。

「──さっさと脱出したらいいんじゃないの?」

「それでいいのか? 何とかという磁性体はまだここに──」

「諦めた」

「はい?」

御影恭子は腕組みをしてサバサバした表情で言い放った。あれだけウダウダ言っていたのに、切り替えが早いヤツだ。竹を割ったような性格──と言うのとは少し違うかもしれないが、決断が早い。そう言えば、コイツは〈収水〉のキャノピーを吹き飛ばし、着水に失敗すれば金星の底まで一直線の死のダイブを躊躇なく決行したヤツだった。

「だからぁ、諦めたからもういいの。〈ブラック・タートル〉で再突入Re-Entryしましょ。こんな機動性も何も無い、ピラミッドみたいな棺桶の中にいるのはもうイヤ」

「棺桶……ねぇ」

俺と湊川は顔を見合わせた。まあ確かに、俺としてみれば、そもそもが地表降下部隊アタッカーズの捜索に来たわけで、この〈箱船〉とか〈スキップジャック〉やらを防衛する意思も義務も必然性も何も無いわけだし、何とか細菌とか磁性体とか、モノポールや原始宇宙にも興味が無いから、さっさと撤退するってのは悪くない話だ。

何とか細菌と何とか磁性体──最後まで覚えられなかったな──は、それを欲していた御影恭子が『いち抜けた』と表明したのだからそれでいい。問題は残り2名だ。

「湊川、俺はこの案に賛成だ。お前はどうする?」

「俺もそれでいい」

即答だった。

「本当にいいのか? この〈箱船〉を守るのがお前の役目じゃ──」

「そんな役目は負ってない」

またまた即答だった。俺が言うのも変な話だが、この船に愛着とか未練とか無いのか。愛着を感じるほど乗り込んじゃいないだろうが……。

「俺の任務は〈スキップジャック〉の初飛行だ。人類初の超光速宇宙船の操縦士パイロットとして飛ぶことだ。そしてその任務は終わった。後は報告書を書くだけだ。──ま、本音を言うと、もう二、三度、跳んで見たかったけどな」

そう言って湊川は、データが入っているであろうメモリーを目の前で左右に振った。任務に忠実と言えば聞こえが良いが、これだけの施設を捨て去ろうという間際に、なんの躊躇も無いというのは如何なものか? 捨てるにしても、限界性能を引き出してバラバラになる一歩手前まで出力を上げるとか、フラッター試験──確か魚崎は『スケール因子ファクターの誤差が増幅』云々言ってたから、フラッターに相当する振動現象は〈スキップジャック〉でも発生するんじゃないか? 想像だが──をしてからにすべきじゃないのか?

クドいようだが、脱出する案にすんなりと賛成した俺が言うべきことじゃないが……。

「ふむ。となると問題は──」

「ふむ。アイツだな──」

「置いて行ったら?」

「…………」

「…………」

御影恭子と魚崎晋。確かに、ソリが合いそうもない2人なのだが、流石に一人だけ置いて行くわけにはいかんだろう。放っておけば、まず間違いなく死ぬ。

『艦長が艦と運命を共にする』っていう話は良く聞くが、設計者が艦と運命を共にしていたら、技術の進歩もへったくれもあったものではない。

「仕方がない。最初の計画通り、俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」

「おいおい。本当に見捨てるつもりか?」

「そうじゃない。俺たちが〈ブラック・タートル〉の離陸準備をしているから、お前は魚崎の説得をしてくれ」

「そんな損な役回りは御免被る」

シャレのつもりかどうかは分からないが、そう言って湊川は、不機嫌そうに腕組みをした。俺はオーバーに両手を広げながらこう言う。

「俺たちは、あの〈ブラック・タートル〉の操縦士パイロット副操縦士コーパイだ。で──」

ここで追加の微笑み。

「──お前は〈スキップジャック〉の操縦士パイロットなんだろ? 副操縦士コーパイなど要らんと言っていたのはどこのどいつだ?」

「くっ。後で覚えてろよ」

湊川は捨て台詞を言い残し、もときた避難口escape hatch──地下の〈スキップジャック〉へと続く円形気密ハッチへ向かった。

「じゃ、俺たちはエレベータで行くから……」

軽く敬礼をし、湊川に睨まれながら、空を跳ぶ。時間として、あと25分。まだ切羽詰まってはいないが、お茶を飲む余裕はなさそうだ。それより問題なのは再突入窓Re-Entry Windowの計算と誘導だ。〈ブラック・タートル〉のオリジナルが汎用の大気圏再突入機ARESだと言っても、着脱式の可変翼や6輪のタイヤなどが付いている。翼の方は多少使い道があるが、タイヤは抵抗にしかならない。取り外しは可能だろうか?

また、ざっと計算した軌道要素Orbital Elementsを見る限り、再突入Re-Entryの角度は、御影恭子に棺桶と呼ばれた〈箱船〉にとっては深く、まがいなりにも滑空再突入Glide Re-Entryが可能な〈ブラック・タートル〉にとっては浅いようだ。仮に〈箱船〉に残った場合、バラバラにならなかったとしても、巨大なGが襲いかかる。ざっと見積もって……30G以上はかかるだろう。下手すると100Gを超える。普通の人間なら12~14Gに耐えるのが精一杯。下っ腹に力入れて、浅く呼吸をして踏ん張り、精々2~3分持てば御の字だ。人間がプレスにならずに戻ってくるには、やはり、〈箱船〉に残る選択肢は無い。ただし、〈ブラック・タートル〉に乗り込んだとしても、適切な帰還回廊Returning corridorを通らねば同じ結末になる。はてさて、どういう作戦で行きますか?

それに、ここは金星だ。空力加熱をしのいで大気圏で燃え尽きなければ何とかなるわけではない。金星の地表面まで落ちてしまったら、それこそ元の木阿弥だ。どこかで浮かびつつ救助を待つ必要があるが、〈ブラック・タートル〉には機体全てを浮かばせるための浮遊気球は付いていない。あるのは脱出用浮遊ポッドだけだ。可能ならば、そんなものを使う前にどこかの空中都市か、最悪でも浮遊基地フロート・ベースに降りたい。管制区によっては非常時でも着陸不可を出す管制官がいたりするが、今はえり好みしている場合ではない──ていうか、何処に降りられるか全然分からん。

ともかく、〈箱船〉から離れればそれでOKという話ではない。やるべき事は山ほどある。


無重力の駐機場で空中にひっくり返っていた〈ブラック・タートル〉に到着後、降下に必要な設定と立ち上げは御影恭子に任せ、俺はタイヤの取り外し作業に向かった。扛重機ジャッキが必要ない分、作業はそれほど苦ではない。〈ブラック・タートル〉のタイヤは700度程度は耐えられる熱硬化性超耐熱エンプラでできた中空Air Freeタイヤだが、大気圏突入時の一千度を超える加熱でどうなるか分からない。気流の乱れも発生させるし、外しておくのが順当だ。

ただ、車軸の方はそのままにしておく。タイヤと同様、取り外しておいた方が無難なのだが、根元の構造が分からぬ以上、下手に取り外して耐熱タイルに穴が開いてはたまらない。それに、車軸の素材はポリイミド系の熱可塑性エンプラと金属粉粒体を無重力下で複合した何とかだったから、タイヤと違って溶けるだけだろう。少なくとも、塊のまま剥離してタイルにぶつかり、致命的な亀裂を生じさせることは無い筈だ。逆に、〈ブラック・タートル〉腹部の亀甲形超耐熱タイルと共に、炭化吸熱体Charring Ablatorとして働いてくれたりしないだろうか──という発想は、虫が良過ぎか?


「上沢。聞こえているか?」

「聞こえている。どうした?」

タイヤ3本を外し終わった時点で、湊川から無線が入る。

「少し困った状況だ。今の状態のまま〈スキップジャック〉を放棄するわけにはいかない」

「まあ、魚崎は設計者だからな。そう簡単に手放すとは──」

「そうじゃない。聞いた話が本当なら、これはかなり危機的クリティカルな状況だ」

「ん? どういうことだ?」

「そ、それは私から説明する。……現在、モノポールから生まれた最初期宇宙は……自己組織化……んー、熱力学的不安定性から生じる自己組織化を……制御することで……辛うじて、余剰次元がコンパクト化されて──」

「手短に頼む。何が、危機的クリティカルなんだ‼」

「……インフレーション宇宙が制御無しで……我々の宇宙内で……一様等方に膨張する。〈箱船〉の座標が……変わるだけでなく、あー、宇宙全体の座標が変わる」

「それは──、さっきの〈スキップジャック〉の跳躍と同じじゃないのか?」

「き、規模が……違う」

「どのくらい?」

「十万……」

「十万キロか? 金星の軌道が変わっちまうな……」

金星の半径は6千キロメートル強。木星の半径が7万キロメートル。地球と月の距離が38万キロメートル。地球と金星間の距離が、最も近くて4千万キロメートル。

十万キロメートルは、惑星間スケールでは微々たるものだが、惑星自体の大きさを考えれば、とんでもない距離だ。それだけの空間を、〈スキップジャック〉が作っちまうってことか?

ただ、〈スキップジャック〉による跳躍は、瞬時に俺たちを宇宙空間にまで運び上げたにも関わらず、〈スキップジャック〉自身はもちろん、〈箱船〉にも何ら損傷は無く、強烈なGも感じなかった。新しい空間を既存の空間の間に作り上げて広げてしまうっていう移動方式だからだと思うが、それならば、金星全体が突然に十万キロずれたとしても、金星そのものに損傷は無いと思われ──

「そうじゃ……ない。十万光年──」

「なに?」

「十万……光年。真空の相転移が終わるまでに、んー、10の28乗倍程度の──」

「詳細はいい。もう一度言ってくれ。どれだけ大きくなるって⁈」

「……量子ゆらぎの増幅で大きく変わるが……平均で十万光年」

「十万光年⁉」

十万光年って……十万光年か? いや、俺は何を言っているんだ。十万光年と言えば……銀河系そのものの直径じゃないか‼

「んー、指数関数的膨張で……膨張向きが我々の、時空曲面内では無い可能性を考慮すれば、平均値はあまり──」

「回避方法は?」

「それは今やってもらってるが、頼みがある──」

業を煮やした湊川が割って入る。

「──時間が欲しい。ギリギリまでここで作業するから、〈ブラック・タートル〉を出して外で待っててくれ」

「分かった」

「ただし、〈スキップジャック〉の下部には近づくな。何が起こるか分からん」

了解ウィルコ

「それともうひとつ。〈箱船〉を90度ほど回転させられないか?」

「……それは」

「仮に──仮にだが、〈スキップジャック〉の制御に失敗すれば、十万光年の巨大な空間が生み出される。空間が星の密集した銀河面Galactic plane内に出来るのは何としても避けたい」

「天の川を避けるということか?」

「そうだ。銀河極Galactic polesがベストだ。うしかい座、アークトゥルスの方角」

「……分からんな」

「座標を送る」

了解ウィルコ。……だが、〈箱船〉の姿勢は──」

「分かってる。推進機スラスターが無いことは聞いた。無茶なのは分かっている。だが頼む。方法を探してくれ」

「……約束は出来ない。──だが、何とかしよう」

「助かる」

無線はそこで切れた。方法は思いつかない。そもそも話が途方もない。銀河を分断するほどの空間が生まれるってどういうことだ? スケールがデカ過ぎで実感がまるで湧かない。失敗すれば俺たちは──十万光年跳ばされるってことか? あるいは、太陽系を含めて、数千億の星々全てが跳ばされるのか?


──いや、いま考えるべき事はそんなことじゃない。俺が行うべき任務ミッションは単純だ。必須の目標は最初の計画通り、〈ブラック・タートル〉を大気圏再突入機ARESに仕立て、湊川と魚崎の脱出まで待機すること。もちろん、2人を拾ったら、そのまま滑空再突入Glide Re-Entryを完遂出来ねばならない。再突入Re-Entry時の最大減速度は速度の二乗、加熱率は三乗に比例するが、突入軌道から考えてヘマしなければ充分耐えられる。逆に、進入角をもう少し深くしないと、再び宇宙に飛び出し、帰還出来なくなる怖れの方が高い。上手くいったとしても、その後の着陸ポイント探しは──なる様にしかならん。

次なる目標は、〈箱船〉の姿勢を変えることだが、湊川と魚崎が巧く──原始宇宙の破棄とでも言うのか? ──を成し遂げれば、無用の手順シーケンスだ。というか、破棄に失敗したなら、〈箱船〉をどう転がそうと、俺たちがどうなるかは分かったもんじゃない。銀河数千億の星々のどこかに居るであろうに迷惑がかからないようにする作業だ。姿勢を変える方法は、推進機スラスターを使うか回転輪機構CMG: Control Moment Gyrosによる角速度制御になるが、どちらもそんな装置は〈箱船〉には付いていない。

確かに、任務ミッションは単純だ。だが、手段がサッパリ分からない。残り時間は20分も無い。考える前に動こう。まずは〈ブラック・タートル〉を外に押し出さねばならん。話はそれからだ。


タイヤの取り外しは、それから2分で終わった。副操縦士コーパイ席にいる御影恭子に手で合図を送りながら、洗車場CARWASHという名の気閘室エアロックへの扉を手動操作で開ける。空気漏れは無い。金星の鍋底90気圧から突然の0気圧に耐えるとは、中々頑丈な作りだ。もっとも、〈箱船〉が当初から宇宙へ行くことを前提にしていたと言うのなら、それくらいはそつなくこなしてもらわねば困る。

御影恭子があやつる〈ブラック・タートル〉は、反作用輪リアクションホイールを使ってこちらを向き、パン、パンと小気味よい推進機スラスター音を響かせて静々と気閘室エアロックへ微速前進する。上手いもんだ。ちなみに、推進機スラスターの推進薬はヒドラジンではなく、人体に優しいHAN系。大気中でも使う可能性のある機体の小型推進機スラスターとしては定番とは言え、高温・高圧は苦手の筈だが、何とか触媒で誤摩化している。

さてと──、問題はここからだ。気閘室エアロックの先は真空の宇宙だ。金星では0.7気圧無窒素雰囲気の中で常に生活しているから、予備呼吸プリブリーズ無し純酸素中運動エクササイズも無しで外に出られるが、気閘室エアロックの開放と同時に体一つで外に出るのはさすがに危険過ぎる。宇宙に吸い出されたまま〈箱船〉に戻って来られなかったら犬死にだ。もちろん安全紐セーフティ・テザーは繋ぐが、一気に吸い出され、反動で回転しながら戻り、紐に巻かれて身動き取れなくなった奴を俺は知っている。そんなことで余計な時間を取られたくない。

また、宇宙服SSAの与圧が0.7気圧のままなのも問題だ。この服は密着型Skinny Typeではないから、与圧が高いと手袋グローブが膨らみ、握力が強くなければ、細かい作業は不可能となる。

ここは妙な冒険をせず、一旦〈ブラック・タートル〉に戻り、必要あらばいつでも飛び出せるように、操縦室コックピット内を0.3気圧にしておくべきだろう。その作業の間に、宇宙服SSA内も0.3気圧純酸素呼吸に変更しておけばいい。また、湊川と魚崎の素早い回収を考えると、貨物室カーゴルームは真空にしておくのがベストだ。

次は〈箱船〉を回転させる策──かなり難問だ。

最初は〈ブラック・タートル〉の小型推進機スラスター反作用輪リアクションホイールを使って〈箱船〉を回転出来ないかと目論んだのだが、何しろ質量比が違い過ぎる。摩擦の無い真空中だから時間さえ気にしなければ回転させることはできるが、少なく見積もっても10時間くらいはかかりそうだ。話にならない。名案は浮かばない。〈箱船〉の外観を見ながら、回転させる手だてを考えよう。

操縦室コックピットに乗り込み、操縦を御影恭子から受け取る。御影恭子に操縦室コックピット内の気圧系統の操作をしてもらっている間に、まずはリモートで内部ハッチとなる洗車場CARWASH後方の扉を閉める。〈箱船〉の破棄は決まっているので無駄な操作ではあるが、宇宙に通じる外部ハッチを開けた途端、どこまで吸い出されるか分かったものではないし、〈スキップジャック〉にいる湊川と魚崎に影響が及ばないとも限らない。ここは安全策を取る。

貨物室カーゴルームの与圧も抜くんじゃないの?」

「それは後だ。そこの空気にはまだ出番がある」

「出番?」

気閘室エアロック内の気圧調整は、安全のためリモートでは操作出来ない。内部ハッチのロック確認信号が緑になった直後に、〈ブラック・タートル〉の電動肢マニピュレーターを展開し、手動で与圧調整装置を最大速減圧に設定して操作する。船外活動者はいないから、減圧症などの問題は出ない。それこそ0.5気圧程度になったら外部ハッチを非常用点火ボルトで吹き飛ばパージしてやろうかと思ったが、点火方法が良く分からなかった。今こそ非常時だってのに、迂闊だな。

気閘室エアロック内与圧ゼロ」

外部ハッチも電動肢マニピュレーターを使い手動で開ける──と、その時だった。気閘室エアロック内の緊急事態アラートを示す赤色回転灯が回り始めた。監視用モニターを確認すると、制御室と〈スキップジャック〉内でも赤色灯が点灯しているのが分かる。多分、音付きだが、真空になっているので聞こえてこない。それと同時に、30センチメートルほど開いた外部ハッチが勝手に閉まり始める。

「おいおい。どうなってる?」

外部ハッチを開けるのは手動が必須だが、閉めるのはリモートで可能だ。緊急事態アラートボタンを押せば、とりあえず、主要な隔壁はリモートで閉まる。

ただ、〈箱船〉に乗っているのは〈ブラック・タートル〉の俺たちと、〈スキップジャック〉の湊川と魚崎合わせて4人しかいない。俺たちは緊急事態アラートボタンなど押していないから、湊川と魚崎のどちらかが発動させたことになるのだが、モニターに映し出される湊川もあちこちキョロキョロと見回しているところをみると、彼らが操作したものでもないらしい。

一体誰が──、

 

「湊川、上沢!」

第5番目の人物──男の声がした。

「姫島⁈」

「上沢か? ──今は出るな。鉄の雨が来る‼」


        *  *  *


閉じかけた外部ハッチの向こう。姫島の装甲服アーマードスーツが下方に向かうのが見えた。その直後。〈箱船〉が僅かにきしんだ──気がする。赤色灯の回転は止まったが、代わりに黄色の非常等が付く。外部ハッチは20センチメートル程度開いたままで止まっている。

「姫島? 姫島⁈」

「上沢⁈ 何が起こった?」

答えたのは姫島ではなく湊川だった。湊川が大写しになったモニターの横。制御室の映像は、画面が霧で白くなった状態で死んでいる。カメラが壊れただけでなく、制御室全体が破壊されたと見るべきだろう。

だが、この程度で済んだのは幸いだった。金星で見た時の炸裂弾の数はかなり多かったから、衛星軌道の違いによる着弾のずれが功を奏したのだろう。さらに、外気が90気圧なら、破壊は〈箱船〉全体に及んでいた可能性も高かった。〈スキップジャック〉のある地下──既に地下ではないが──まで被害が無くとも、洗車場CARWASHにいる俺たちがどうなっていたか分からない。この手の攻撃にありがちな波状攻撃も無さそうだ。

「例のRERCの大型船からの攻撃だ。制御室がやられた」

「あっちにも生存者がいるのか?」

RERCの大型船は、基本的に柔らかい膜で覆われた飛行船だ。炭素繊維強化プラスチックCFRPの骨組みが内部にあるのは間違いないが、それは加圧に耐えるためのもので、急激な減圧──それも90気圧が瞬時にゼロになるような状況は想定していない。おそらく宇宙に出た瞬間、空気房バロネットその他の与圧部が破裂BBした筈だ。制御室でレーダー画像を見た時も、周辺に大小様々な破片が認識できた。少なくとも航行能力は失われている。

「分からん。──だが、姫島がいた」

「姫島? 何故?」

「分からんが……一緒に跳ばされたんじゃないか?」

確か姫島は、RERCの大型船を撃ち落とす気満々で、〈箱船〉周辺に最後まで残っていた筈だ。一緒にここまで跳ばされたとしてもおかしくはない。そんなことより──

「被害は?」

「動力炉からの電力が切れた」

「じゃあ〈スキップジャック〉の──」

「大丈夫だ。電力は等分の間、蓄電装置EDLC: Electrical Double-Layer-Capacitorsでまかなえる」

「駆動時間は?」

「30分」

「なら──、問題は無いな」

「ない」

元々、作戦の残り時間は15分程度だ。それ以上あれば問題ない。それ以上あってもどうにもならない。問題は俺たちの方だ。洗車場CARWASHから宇宙に通じる外部ハッチの動力が死んでいる。このままでは外に出られない。手回しの非常用開閉装置があるにはあるが、これを〈ブラック・タートル〉の電動肢マニピュレーターで回すと、〈ブラック・タートル〉の方が回っちまう。思案している間に、外部ハッチの僅かな隙間の向こうから光がさす。

「姫島?」

「上沢無事か? 他は?」

「4人──、御影と俺はここに。湊川と魚崎はわけあって〈箱船〉の最下部に残っている。全て無事だ。そっちは?」

「俺だけだ。一体どうなってる? ここは何だ。何故宇宙空間にいる?」

「〈箱船〉の周辺の空間ごと跳ばされたんだよ」

「跳ばされた? 何だそれは?」

コイツは──、俺以上に何も知らないようだな……。

「時間がない。詳しい話は〈レッド・ランタン〉に戻った後だ。姫島。この外部ハッチを点火ボルトで吹き飛ばパージしてくれ」

「二度と使えなくなるぞ。いいのか?」

コイツは──、本当に分かってねぇな。

「放っといてもこの〈箱船〉は20分もしないうちに、大気圏内で焼却処分になる」

「何⁈」

「一緒に灰になりたくなかったら、早く開けてくれ」

「分かった。少し待ってろ」

納得したのかどうかは定かではないが、姫島のそこからの行動は早かった。床に光っていたサーチライトが見えなくなった直後、四方の留め金が爆薬で座屈。フリーとなった扉がバネ仕掛けで上にスライドして上がって行く。半分くらい上がったところで、〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルーム後部扉を開ける。溜まっていた空気が開放され、その反動で外へと滑り出す。

「空気の出番ってそういうこと……」

御影恭子がひとり頷く。

「ああ。推進機スラスターを今後どれだけ使うか分からないからな。なるべく節約したい」

飛び出した先は真っ暗な宇宙空間──と言いたい所だが、足元は黄色じみた白い金星の雲で覆い尽くされていた。お尻がムズムズするこの感触はいつまでたっても慣れない。


宇宙空間に浮かんでいる姫島の肩には、例の4連式装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSが付いていた。武器を手にした姫島は物騒だ──が、それを見てひらめいた。今回はその物騒なブツが幸運をもたらすかもしれない。

「姫島。もう一つ頼みがある」

「何だ?」

「〈箱船〉の一点を破壊して欲しい」

「何? 〈箱船〉は放っておいてもお陀仏なんだろ」

「その前に銀河──いや、金星の空中都市を巻き込んで破壊する可能性がある」

10万光年だの銀河系の危機だの、今の姫島に喋っても話がこじれるだけだ。それに、俺だって全て理解したわけじゃない。

「それは一大事だな。何をどうすればいい?」

「〈箱船〉の底面を銀河極GPに向ければいい。アークトゥルスの方角だとか湊川は言っていたが──」

「分かった。だが破壊したって方向は変わらないぞ」

「分かった──のか?」

「何がだ?」

「方向だ」

「あん? うしかい座のアークトゥルス。乙女座スピカの隣だろ」

「ほほぅ。お前に星を見る趣味があったとは知らなかったぞ」

「馬鹿野郎。趣味なんかじゃねぇ。星を覚えなきゃ宇宙空間で闘えねぇ。最低でも全天21ある一等星は必須だ。恒星追跡装置STT: STar Trackerなんてあてにしてたら出遅れるんだよ!」

姫島のドヤ顔が目に浮かんだ。大気圏中心の俺とは違い、海中から宇宙空間までオールマイティに闘う戦闘屋は格が違う。

「それは……悪かった」

「で、何処をどう破壊すればいいんだ」

「〈箱船〉の中心には巨大な実験室ラボ空間がある。その中には30気圧の空気が未だ詰まっている」

「そいつを開放して回転させようって魂胆だな」

「そうだ。だが、電力系統の破壊はマズい。湊川と魚崎が〈スキップジャック〉でをしている。そいつの解体に、暫くは電力が必要だ」

了解ウィルコ。破壊箇所はこっちに任せろ。ただひとつ問題がある」

「何だ?」

「回転を始めさせるのは壁面を破壊すれば出来るが、止める方法が無い──」

「……そうか。そうだな」

〈箱船〉の底面を銀河極GPに向けることは出来ても、銀河極GPで止めることが出来ないということか。

「姫島、上沢。それについては問題ない──」

湊川が会話に割り込んでくる。

「──今、こちらの作業が終わった。後はプログラムを作動させるだけになっている。〈スキップジャック〉が銀河極GPを向いた瞬間に爆縮インプロージョンさせればいい。成功率は五分五分ってとこだ」

何がどうなれば成功なのか分からなかったが、それは今聞くべきことじゃないだろう。

「お前達の脱出方法は?」

「作動後、そっちに──〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルームに乗り移る。〈スキップジャック〉に横付けして待っててくれ。ただし、作動後だぞ。それまでは〈スキップジャック〉の下面には近づくな」

了解ウィルコ

「姫島は壁面破壊後に、上沢の〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルームに先に入って待っててくれ。時間がない。俺たち2人の誘導エスコートをお願いしたい」

了解ウィルコ

「いよいよ大詰めって感じだな」

湊川がつぶやく。

「いや、まだだ──」

俺はそれを否定した。

「──大気圏に突入して生きて帰るまでが任務だ」

「……ああ、そうだな」


        *  *  *


姫島が上方へ飛び去った後、暫くはその場──外部ハッチ前──で待機することにした。最終的には、下方にある〈スキップジャック〉と同じ水平面で待機すべきだが、〈箱船〉が回転し、底面が銀河極GPを向くならば、〈箱船〉の側面が勝手に上昇してくる筈だ。下に降りるのではなく、むしろ上昇しなければならない計算になる。また、姫島がどの部位に穴を開けるかによって回転速度と回転軸が変わるから、現段階で合流位置を特定するのは難しい。こういう場合は無駄に動かないことだ。慌てても良い事は何も無い。

座席をリクライニングにして、頭の後ろで腕を組む。本当は操縦卓コンソールに両足を投げ出したいところだが、如何せん〈ブラック・タートル〉の操縦室コックピットは狭い。膝を折って足を上げることすら苦労する。

「あら? ずいぶんと余裕があるみたいね」

隣の御影恭子が声をかける。そういう彼女も、俺につられてか、腕を上に上げて伸びをしている。

「慌てる乞食は貰いが少ないってね……」

「アタシは何にも手に入れて無いけど──あ」

「どうした?」

こちらを向いて気だるそうにしていた御影恭子の緑かがった瞳に星が輝く。これは──危険な兆候だ。

実験室ラボに穴を開けるのよねぇ?」

「そ、そうだが──」

──あ、ヤベぇ。そういうことか。

「それなら、中に入れるじゃない!」

「いや、ちょっ──」


──遅かった。


御影恭子の判断は早い。それも躊躇が無い。止めようとした時には、〈ブラック・タートル〉側面のハッチは開かれていた。既に、宇宙服の中は0.3気圧の純酸素呼吸に切り替わっていたし、『必要あらばいつでも飛び出せるように、操縦室コックピットを0.3気圧にして』いた──してしまっていたので、減圧による宇宙服の膨張も想定内ではあったのだが……。

先を見越しての行動が悔やまれる事態になろうとは思いもよらなかった。

「アタシは実験室ラボに入って、磁性細菌Desulfovibrio Magneticus取ってくるから、ここで待ってて! 10分で帰る」

「お──」

『──い』を言う暇もなかった。無鉄砲にも程がある。それは承知していたが、そのさらに上手を行くヤツだ。その直後に振動。正確には、〈箱船〉全体の微振動が視認できた。姫島の仕事に違いないが、ここからは火炎やガス流出は確認出来ない。だが、仕事は成功したようだ。僅かずつだが、〈箱船〉が回転し始めている。

そのまた直後。洗車場CARWASH奥からガスの流出を確認する。こちらは御影恭子の仕業だろう。大量ではないから内部扉を点火ボルトで吹き飛ばパージしたわけではないようだが、吹き飛ばした際に生じる気流で突入のタイミングが遅れるのを嫌ったという判断だと思われる。アイツは、もしもその方法が最速なら躊躇無く爆破するだろう。そういうヤツだ。

〈箱船〉の回転速度は思ったより遅く、底面が銀河極GP方向を向くまでに10分少々かかりそうだ。箱船の回転に合わせて推進機スラスターを吹かすのは勿体ない。出しっ放しだった電動肢マニピュレーターで〈箱船〉の外壁に取り付く。

数分後、先に戻って来たのは姫島だった。開け放たれた操縦室コックピットの外部ハッチから中を覗いてくるが、装甲服アーマードスーツを着たままでは、ハッチから頭を入れる事すら不可能だ。

「どうした? 姫君は外出中か?」

どうしたもこうしたも、無線で聞いていただろ。

「忘れ物を取りに行ったよ。貨物室カーゴルームに乗ってくれ。後部扉は開いてる」

「おう。夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うからな」

勝手に決めつけるな。それに、用法が違うぞ。

「ところで、姫島」

「何だ?」

「鉄球が降ってくることに良く気付いたな」

「ああ? ああ──RERCの大型船まで行って来たからな」

「行って来た?」

「人命救助だよ」

「お前の口から人命救助という言葉が出るとはな。で、誰も連れて来ていないというところを見ると──」

「違う違う。中は無人だった」

「無人?」

「ああ。破損箇所から中へ入って見た限り、誰もいなかった。自動操縦モードになっていたしな。リモートで操作されていたようだが、電波が遮断されるとタイマーで鉄球が発射されるようになっていた。多くは解除したんだが、防ぎ切れなくてな」

「それで波状攻撃が無かったってわけか……」

制御室が破壊された後、今一度鉄球が飛んで来ていれば、実験室ラボまで亀裂が達していたかも知れず、その先の展開はまた変わって来ていただろう。これが吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。


〝姫君〟と言われた御影恭子が戻って来たのはそれから5分後のこと。時間内に戻ってくるとは思わなかった。遅れることを期待していたわけではないが、こういう場面では、ギリギリ、あるいは多少は遅れるパターンが多い。

〈箱船〉から飛び出してきた彼女は、右手の親指を上に立てながら、得意満面で出てくる。──実際には、ヘルメットの紫外線防護用シャッターが作動していて、表情を確認することは出来ないのだが、笑っているのはまず間違いない。高々と上げた右手首に取り付けられたテザーには、ランチボックス程度の小箱が付いおり、どうやら採取はうまく行ったらしいからだ。

「大漁、大漁。生きの良いヤツが沢山!」

御影恭子は超ご機嫌である。そのなんとか細菌というのは、イワシか何かなのか?

「ベルトをしろ。これから〈スキップジャック〉横まで降下する」

了解ラジャー!」

時間的には残り2分。タイミング的にはピッタリだ。降下と言ったが、金星を下と見た場合、〈箱船〉は既に横倒しに近い状態になっており、横滑りと言った方が正確かもしれない。〈ブラック・タートル〉の下に巨大な〈箱船〉。さらにその下に金星という状態になっているから、先ほどまで下方に見えていた金星の姿は、ここからは見ることができない。反作用輪リアクションホイールを使って方向転換をし、推進機スラスターを一発放つ。

「ケチケチしてるわねぇ。パァ──っと使わないの?」

上機嫌な御影恭子が言う。さっきまで死んだフナみたいな目をしていたヤツに言われたくはない。ただ、俺としても、地表降下部隊アタッカーズの捜索と交換条件バーターで、細菌採取の道案内を請け負ったという経緯があるから、ひとつの作戦ミッション終了コンプリートしたことは喜ばしいのだが、この後、死んでしまっては元も子もない。

「推進剤は使えば無くなるんだ。無駄に噴かしても良いことは何も無い。それに、停止時にも同量の推進剤を食う。急ぐ理由がなければセーブするのが鉄則だ」

「ふーん、そんなものなの?」

「そんなものだ……」

宇宙空間では、回転式のステーションから投げ出されるとか、デブリに遭遇するとか、何が起こるか分からない。できるだけ推進剤は残しておきたいのが人情だ。推力が無ければ、ほんの数メートル先に浮かぶ仲間を助けられないこともある。大気圏突入までは慎重に、突入後は大胆に動かねばならない。

「残り30秒だ」

湊川の声が無線で届く。

了解ラジャー。こちらも〈スキップジャック〉が視認できる場所で待機している」

〈スキップジャック〉の下方にあった構造物は、切り取られた様に何もかも無くなっていた。元々、〈スキップジャック〉自身は天井に支えられていたもので、そこから下方に向かって伸びた柱などは最初から無かったのだが、〈箱船〉自身を支えていた柱や壁面、エレベータ等は鋭利な刃物で切り取られたような状態だった。

〈スキップジャック〉底面。大型螺旋装置LHDの開放型コイルの中にはが封印されている筈だが、そんなものは何も見えなかった。その下の金星の雲が目映まばゆいだけである。それとも、今あるのは原始宇宙の状態だったか? どちらにせよ、見えないものは見えない。

明るさに慣れてくると、超短パルスレーザー発信器の列が鈍い光を放っているのが分かる。レーザーが見えているわけではない。発振部の熱放射だろう。発振回路のレーザー変換効率はすごぶる良い筈なので、その数千倍のエネルギーが、ゲートが開くのを今か今かと待っている。


「自律的点検システム異常なしオールグリーン。インプロージョン・シーケンスをスタートしますか? 本シーケンスは取り消すこができません」

例の合成音声が響く。だが、その後にあるべき『カウントダウンのタイミングはどちらで行いますか?』は無く、そのまま──

「20、19、18……」

──とカウントダウンを始めた。時刻起動で制御しているらしい。

「湊川。この実験の成功はどうやったら分かる?」

魚崎に聴くべき話だが、話が長そうなので、湊川に聞く。

「何も変わらない。爆縮インプロージョン後、何も変わらなければ成功だ」

「──失敗は?」

「そうだな……。足元に銀河が見えるだろう。我々のな」

「天の川でなく、全景が見えるってことか? そりゃ──、見て見たい気もするな」

「はは。そりゃ、そうだな」

もちろん本心ではないが、見てみたい気がするのは本当だ。ただ、それが現実になった時、その感動を伝えられる相手は近くにはいなくなる。


爆縮インプロージョンスタート」


        *  *  *


作戦は成功とも失敗とも言えなかった。

限りなく成功に近い失敗。あるいは、多少の失敗を含んだ成功。二択で言えば成功だろう。だが、俺の想定している成功とは少し違っていた。


成功したなら『何も変わらない』──湊川はそう言った。だが、爆縮インプロージョンの瞬間、俺たちは背景となっている金星の雲が丸くひしゃげるのを見た。雲がひしゃげたわけではない。超短パルスレーザー発信器の焦点の位置から何者かが飛び出し、球形に拡大しながら広がったようだった。そのナニモノかは透明か、もしくはやや黒い物体で、周囲の光を曲げながら、そして多少の光を吸い込みながら、広がった。一瞬だったので何処まで大きくなったかは覚えていない。『ヤバい! 飲み込まれる‼』と思った瞬間には収縮に転じ、完全に消え去った。消え去ってしまった。

実際には、収縮に転じてから『ヤバい!』という感情が湧いて来たのかも知れない。それほどまでに一連の動作は早かった。まばたきをしていたら気付かなかったかも知れない。

──いや、例え瞬きしていても、その変化に気付かないことはありそうもなかった。その得体の知れないモノが消え去った直後から、機体は猛烈な振動と炎に包まれたからだ。

「くっ‼」

瞬間的に事態を把握した。理屈じゃない。理屈は分からない。分かってたまるか!


これは──、再突入Re-Entry真っ只中だ。


大気圏再突入Atmospheric Re-Entryは、金星に対して横倒しになった〈箱船〉の最上階。破壊された制御室を突入前面として進行していた。〈ブラック・タートル〉の位置は〈箱船〉の最下層──、最後方に位置している。ただし、〈箱船〉の下に潜り込んでいたわけではない。『〈スキップジャック〉下面には近づくな』という湊川の忠告に従い、〈箱船〉最下層のへりに頭を突っ込んだ程度の状態で、〈スキップジャック〉の側面を眺める位置に付けていた。

操縦室コックピットの正面に〈スキップジャック〉が見える位置だから、〈箱船〉の天面と〈ブラック・タートル〉の天面は同じ向きを向いている。〈スキップジャック〉のさらに向こうには金星がデカデカと見えており、金星に対しては頭を下にして倒立している格好だ。

当初の計画ではこの状態で待機し、湊川と魚崎の仕事が終わったなら、後面推進機スラスターを噴かして〈スキップジャック〉の下部に滑り込む──そういう算段だった。

ところが、突然の再突入Re-Entry。〈箱船〉の天面が突入前面であるということは、〈ブラック・タートル〉の天面も突入前面となったことになる。だが、滑空再突入Glide Re-Entryを行う大気圏再突入機ARESの当然の仕様として、再突入Re-Entryを行うための熱防御が施されているのは底面なのである。〝パヴェ・ド・ショコラ〟というシャレた通称を持つ、亀甲形の黒茶色超耐熱タイルがみっしりくっ付いているのは機体の腹部であり、天面──すなわち、背中では無いのだ。

さらに悪いことに、〈ブラック・タートル〉の位置は、〈箱船〉側面の縁であり、〈箱船〉再突入Re-Entryによって生じた後方気流の境界層──自由剪断層Free Shear Layerを横切るような位置となってしまった。簡単に言えば、操縦室コックピットがある頭部に当たる風は弱く、姫島が乗っている貨物室カーゴルームには強い風圧がかかる。再突入Re-Entryに気付いた時、この圧力差によって機体は既に回転を始めていた。反射的に貨物室カーゴルーム底面の推進機スラスターを噴かすと同時に、後方へ流されるのを防ぐため、後部推進機スラスターも噴かす。出し惜しみ無しの最大噴射だ。最初の位置から90度傾いた状態──機体腹部が金星を向いた状態──で、今度は操縦室コックピット天面にある推進機スラスターを3割程度の推力で噴かす。これで〈ブラック・タートル〉の機体は〈箱船〉の下になんとか潜り込む。

〈箱船〉の下に潜り込んで刹那、貨物室カーゴルーム底面と後面の噴射を切り、操縦室コックピット側面にある推進機スラスターを使い、全力の制動をかける。自由剪断層Free Shear Layerの内側では渦流が生じていて、〈箱船〉直下の中心部は、弱いながらも〈箱船〉へ近づく方向の風が吹いているため、外とは逆の操作をしなければならない。あわや〈スキップジャック〉に頭から激突するかと思われる間際、何とか相対速度を殺すことに成功する。

全ては5秒程度の出来事だ。少し判断が遅ければ、自由剪断層Free Shear Layerで文字通り真っ二つに剪断せんだん破壊されたか、きりもみで制御不能のまま航跡ウェーキの遥か後方まで追いやられ、〈箱船〉に二度と追いつけなくなるかだった。

現状でも〈箱船〉直下のフロー内に存在する、実に狭い安全地帯に辛うじて留まっている状態で、気を抜けば前方に激突するか、はたまた後方の航跡ウェーキ再圧縮部分──ネック部分──に捕まり、乱流に呑み込まれて散るかの瀬戸際である。こんな制御で推進機スラスターの推進剤がいつまで持つか分かったものではない。──いや、それ以前に、いつまでこの〈箱船〉が形を保っていられるかすら分からない。事態は急を要する。


「姫島‼ 2人を──」

──と叫んだ時には、操縦室コックピット上部から姫島の装甲服アーマードスーツが発進して行く様が見えた。本来なら前後を入れ替えて、貨物室カーゴルームを〈スキップジャック〉にくっ付けたいところだが、機体の姿勢制御だけで精一杯。また、下手に回頭すると彼らの誘導の邪魔になる怖れもある。

姫島は装甲服アーマードスーツ補助推進機バーニア・スラスターを器用に動かしながら、最短で〈スキップジャック〉に取り付き、出て来た2人を手際よく腰の連結器テザーに結びつけて戻ってくる。〈箱船〉外周は細々としたデブリが枝垂しだれ花火のように落ちて行く。

再突入Re-Entry軌道速度が速い。このままだと再び宇宙へ出るわ」

「分かってる……」

御影恭子の忠告をジョークで返す余裕は無かった。

速度が速いというより、突入角度が浅過ぎる。〈ブラック・タートル〉の非力な推進機スラスターで何とか〈箱船〉の底部に潜り込めたのは不幸中の幸いだったが、逆に言えば、まだその程度のGしかかかっておらず、大気圏上層を上滑りしていると言うことを意味している。

〈スキップジャック〉の爆縮インプロージョン前の計算では、〈箱船〉は金星に落ちる軌道の筈だったが、爆縮インプロージョンによって図らずも生じてしまった僅かな跳躍は、〈箱船〉を再び宇宙へと投げ出す軌道に変えてしまったようだ。コバンザメの様に寄り添っていた〈ブラック・タートル〉もその巻き添えを食って、同じ軌道中を飛んでいる。

このまま宇宙に出たらどうなるか? 軌道間輸送船OTVのような大型船ならいざ知らず、水と食料の備蓄すら──いやいや、それよりも何よりも、酸素ボンベの予備すら満足に無い〈ブラック・タートル〉内で5人が数日間生き延びるのは難しい。何とかして下に降りるしか生きる道はない。


永遠とも思える1分近くが過ぎ、3人が貨物室カーゴルームに辿り着いた時、俺の帰還作戦はほぼ固まっていた。上手くいくかどうかは分からないが、やって見るしかない。

「残りの推力全て使っても、降下は無理よ」

御影恭子はその間、〈箱船〉の予測軌道とそこから離脱する最適ポイントを計算し、推進剤の残量と照らし合わせて結論めいたものを導きだしていた。

「無理? だったら金星とここで泣き別れフライバイするってのか?」

「それは──」

御影恭子は珍しく弱気だった。

「上沢! 回収完了。出せ‼」

姫島の声を合図に、〈ブラック・タートル〉天面にある推進機スラスターを全開放。航跡ウェーキの再圧縮部分をやり過ごし、外部衝撃波Outer Shock Waveを超えない位置を保持しつつ〈箱船〉の後方へ下がる。機首を大きく上げ、今度は逆に機体底面の推進機スラスターを全開放。〈箱船〉は遥か上空に去って行く。

推進剤を9割使い切った後も、軌道速度はほとんど落ちていない。高度が落ちると速度が上がる。しごく真っ当な結論だ。それでも大気制動Aerobrakingだけで再突入Re-Entryを敢行するには、まだまだ高度を下げねばならない。ここで一旦、機体を水平にする。

「降下を諦めたの?」

「何寝ぼけたことを言っている」

「でも──、もう減速に使える装置は残ってないわよ」

「いや。まだ2つある。隠し球は最後まで取っておくものだ」

俺は、不格好に下げ翼フラップがはみ出したままのオプションの可変翼を開いた。

「ああ! なるほど」

彼女も気付いたようだ。

オプションの可変翼には、使い切り固形燃料が詰め込まれた逆噴射装置リバース・スラストが付いている。まさかこんな場面で使う時が来るとは想像だにしていなかったが、無駄弾を撃たない精神がこういう時に役に立つ。

逆進開始Retro Start

遠地点推進機AKM: Apogee Kick Motorほどの推力は無いが、姿勢制御用の小型推進機スラスターとは段違いだ。5点式シートベルトに体が食い込む程度のGと共に、高度がみるみる落ちる。噴射ノズルを前方に固定した20秒の噴射が終わると、用済みになった可変翼を切り離す。

減速のためには空気抵抗を受ける面を出来るだけ大きくする必要があるので、この翼を最後まで残しておくという選択肢もあったが、もともと大気圏再突入Atmospheric Re-Entry用ではないので、翼の末端が鋭角過ぎる。当然ながら極超音速Hypersonic Speed飛行も考慮されておらず──それどころか、金星地表面近くの高圧下低速飛行用だ──最速降下時には衝撃波の外側に翼のほとんどが出てしまうだろう。どのみちこの翼はぶっ壊れる運命にある。

もちろん、最大減速の前段階まで使い倒すという方法もある。それは、〈箱船〉のケツにくっ付いていた1分の間に考えた。だが、そこまで翼が保つのかというのと、その段階まで引っ張った挙げ句、着脱装置が壊れて切り離し不能になるという可能性もあった。壊れた状態でくっ付いたままでは、逆に操縦がし辛くなる。ここは潔く切り捨てる判断をした。

「まだ減速が足りない──あと少し」

御影恭子の報告と共に、上部モニターには予測軌道が描かれる。先ほどよりは軌道高度は落ちたが、まだまだ速度は速い。さらに減速しなければ宇宙へ逆戻りだ。同時に表示されていた〈箱船〉の軌道は、金星の大気圏を既に脱しつつある。

ちなみに、進入角度が浅いとのように大気圏で弾かれ、宇宙へ再び放り出される──というのは良くある誤解で、実際は、減速が足りないまま大気上層をほぼ直進し、地球の丸みのために再び宇宙へ出てしまうというのが正しい。だから、に更なる減速を試みねばならない。そして今が、通過する大気の最下層に近い位置だ。

俺は、衝撃緩衝袋体SABAの誤操作防止カバーを跳ね開け、手動展開ボタンに手をかける。隠し球2球目だ。

「姫島、湊川、魚崎。少々揺れるぞ」

今更ながらアナウンスをしてみる。

了解ラジャー

了解ラジャー

「…………」

「──魚崎はとっくに気絶してる、構わん」

姫島の補足を聴いた後、御影恭子に親指を立ててニカッと合図する。

了解ラジャー。いつでもOK」

御影恭子もニッと笑った。


衝撃緩衝袋体SABA展開!」


──この緩衝体アブソーバーも本来の使われ方は別にある。こいつは金星地表面へ硬着陸ハードランディングせざるを得なくなった時、〈ブラック・タートル〉を包み込む気袋バルーンの集合体である。通常のエアバッグは、機内の人を守るため、機体内部で膨らむものだが、こいつは機体そのものを守るのが目的だから、機体の外周全てを包み込むように膨らむ。膨らんだ後の形状は、全方向からの衝撃に耐えるため、一面当たり6つの小袋で作られた正八面体構造だ。当然ながら、〈ブラック・タートル〉の風防ウィンドシールドも包まれ、視界はゼロになる。駆動系も制御不能──というより、緩衝体アブソーバーに包まれた状態で動かしても役に立たない。

要するに、衝撃緩衝袋体SABAを展開すれば、まさに手も足も出ない亀状態になる。〈ブラック・タートル〉という機体名にはピッタリな状態だと言えなくもない。

本来なら、膨らみつつ軌道変更も可能な、再突入Re-Entry専用の膨張型再突入輸送装置IRV: Inflatable Re-entry Vehicleを使いたい。この装置は、開いた松茸のかさみたいな形状で気袋バルーンが膨らみ、何もしなくても笠が下になり、安定した降下が可能な優れものだ。だが、そんな御立派な装置は本機には付いていない。無い袖は振れぬ。代わりに使った衝撃緩衝袋体BASAは正八面体であるため、前後の区別が無い。必然的に──

「ちょっ! 回転し過ぎ! 何とかならないの⁈」

──となる。

傾斜回転負荷装置Pendulum Rotating Chairに座ったと思えば、大したことない」

と、眉間にしわを寄せている御影恭子にうそぶく。この程度で空間識失調バーティゴになるようでは、宇宙飛行士はおろか、戦闘機パイロットにはなれない──って、いやいや、彼女は学者だった。湊川と姫島はこの程度のことでは平気だと思われるし、魚崎はとっとと御就寝なので、この状況で一番辛いのは彼女かもしれない。とはいえ、一定速度に減速するまでは耐えてもらうしかない。

「お腹に力を入れて、小刻みに呼吸しろ。高Gもそれで凌げる」

「ひっ、ひっ、ふぅー」

「……いや、それじゃない」

──それでもいい気がしてきた。


        *  *  *


不規則な回転で目が回る状態がしばらく続いた後、ようやく帰還回廊Returning corridor赤絨毯レッド・カーペットに辿り着く。衝撃緩衝袋体SABA吹き飛ばパージし、操縦輪Control Wheelを引く。仰角40度に固定。操作性に問題はない。

問題なのは着陸ポイントだ。本来ならば、これから訪れる最大減速時──G最大、最大加熱時でもある──を乗り切った後、無線標識施設VORTACを睨みながら手近な基地に受け入れ要請を行うものだが、如何せん、こういう状態で受け入れ拒否されたら、次を探すまでに奈落の底まで落ちかねない。金星では、奈落の底は文字通り地獄の底を意味する。なるべく早めに落ち着く先を確保したい。

引っ込めていた円盤円錐ディスコーンアンテナを展開し、無線標識局ビーコンの受信と通信を試みる。〈ブラック・タートル〉の背中が焼かれた段階でダメージを受けたのではないかと心配したが、動作に問題はないようだ。この仰角を保ちながらの降下なら、背中のアンテナは大気プラズマの影響を受けることなく、衛星を経由して通信することができる。


「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは、北緯30度帯30 Degrees Northの〈ブラック・タートル〉、〈ブラック・タートル〉、〈ブラック・タートル〉。位置は……不明──」

GPSのデータを読み上げるところだったが、コイツは当てに出来ないんだった。下手に言って混乱させては、逆に救助が遅くなる。風防ウインドシールドもオレンジ色のプラズマに覆われて向こうが見え辛い。もっとも、大仰角で降下中なので、どのみち肉眼では地面は見えない。いやいや、そもそも、雲上から金星の地面を見ることは不可能だ。

「──訳あって再突入Re-Entry中だが、着陸地点から外れた。乗員は5名。緊急着陸を──」

「こちら〈レッド・ランタン〉。上沢少尉ですか?」

ノイズの中から、名指しでご指名。それも聞き慣れた声だ。

「み──、みのりちゃん⁈ どうしてそこに?」

みのりはまだ金星地表面付近でジタバタしている筈。一時間程度ではどうあがいても、近場の浮遊基地フロート・ベースまで上がれればいい方だ。

「え? あ⁉ その話は後で。こちらで進路誘導します」

「分かった。だが、GPS装置が──」

「値は正常です」

「正常?」

言い切った。言い切りやがった。みのりがそう言うんだ。なら、間違いなかろう。

GPSが示す金星地表面からの高度はおよそ140キロメートル弱、空抜で80キロメートル程度だから、風防ウインドシールドから見たプラズマ流の状況とも辻褄が合う。事実、この少し後、高度130キロメートル付近にあるドライアイスの雲層も確認できた。

さて、これから数分がG最大の山場だ。計算では5G、空力加熱は1500度にはなると出ている。温度的にはこの程度なら問題無い。超耐熱タイルだけでも何とかなる上に、相転移吸熱体PTHAによる気化蒸発冷却Ablation coolingシステムもまだ機能している。Gの方は俺は8Gまでなら余裕で大丈夫だが、御影恭子は分からん。もっとも、気絶してもらっても一向に構わない。

みのりの示した進路に添って進みつつ、左右にバンクを切りながら減速する。空抜70キロメートルでG最大。眼球だけ動かして右を見れば、御影恭子は先ほどの『ひっ、ひっ、ふぅー』を続けているようだ。ただ、振動と騒音で実際に声を発しているかどうかまでは聞き取れない。

空抜60キロメートルを切り、重力が3Gまで下がった段階で仰角を下げ、滑空体勢に移行する。白い雲が眼前にあるだけで、何も見えてはこない。〈レッド・ランタン〉もそうだが、大抵の空中都市は雲の中にある。見えないのが普通だ。だが、おかしい。視認出来ないのは良いとしても、〈レッド・ランタン〉にある無線標識施設VORTACからの信号を受信出来ていない。

「みのりちゃん。〈レッド・ランタン〉の位置をこちらでは識別できない。進路は正しいか?」

「進路上に〈レッド・ランタン〉はありません」

「なんだって⁈」

おいおい。まさかの着陸拒否じゃないだろうな? そういえば、俺は人質を取って逃げているハイジャック犯ってことになっているし……。

──不安になってきた。

「そちらには〈ブーメラン〉が待機しています」

「〈ブーメラン〉だって?」

「はい」

「さすがに俺の腕でも〈ブーメラン〉の背中に〈ブラック・タートル〉を着艦ランディングさせることはできんぞ」

既に逆噴射Retro-rocketも使ってしまい、オプションの翼も投げ捨てた。こちらの速度を〈ブーメラン〉に合わせるまで落とし込むことは出来ない。もちろん、飛行船モドキである〈ブーメラン〉の速度を上げてこちらに合わせることも不可能だ。衝突コリジョンはできても、着艦ランディングはできない。

「はい。分かっています。着艦ランディングする必要はありません」

「それはどういう──」

前方に金属的な反射光が一瞬見えた。

『ミサイルか‼』

──と思った。回避のタイミングは既にない。やられた‼


        *  *  *


結論から言うと、確かに着艦ランディングする必要は無かった。そして、前方から飛んでくる物体を回避する必要も無かった。更に言えば、反射光が見えた段階で最大限の回避行動を取ったとしても結果は同じだっただろう。

俺たちは今、〈ブラック・タートル〉ごと展開気球バリュートに吊り下げられ、〈ブーメラン〉に曳航えいこうされている。前方から飛んで来たのはビッグ・ハンド──俺が〝水汲み作戦〟で〈収水〉に乗り、氷の彗星にぶっ放した例のアレ──だった。

何のことは無い。俺たちは、宇宙から降って来た彗星と同じ扱いを受けたのである。そして、曳航されながら〈レッド・ランタン〉に戻るまでの5時間。俺は何することも無く操縦室コックピットに缶詰にされた。

──ま、その間は寝てたんだが、足が伸ばせない分、目覚めたら足がむくんで大変だった。操縦士パイロットがエコノミー症候群で死んだりしたらシャレにならない……。


        *  *  *


あれから2週間。俺は軍法会議での証言やら、報告書レポートの作成やらに追われていた。

テストパイロットとして必要な資質の中で、最も重要なものは操縦技能ではない。機体やその周辺に起こったことを的確に把握・処理し、最終的な結果を正確に報告書レポートに書き残すことだ。主観ではなく客観的に。推測を付加せず事実のみを書く。推測は推測として書く。自分では苦手な方だと感じているが、他人からの評価は以外と良い。

事件に関わった人々からの様々な報告書レポートが上がってくる中で、ヴィーナス・アタックに絡んでどんなたくらみが進行し、誰と誰が敵対し、そして、何が起こったかがおぼろげながらも分かって来た。


連邦共和国の司令部と北緯30度帯30 Degrees Northの我が軍、さらには共和国自身の駐在部隊との間に深い軋轢あつれきはない。ついでに言えば、南緯20度帯20 Degree Southべるロシア隊との関係も良好だ。いやまあ、全く無いと言えば嘘になるのだろうが、それは中央と地方との確執、在住者と移住者による牽制みたいなもので、どこにでもある話だ。それ以上でもそれ以下でもない。

事件の発端は〝遺跡〟の発見だ。これはみのりの──伊川軍曹の報告書レポートに書かれている。内容は〈箱船〉内で聴いたものとほぼ同じ。ただ、最初に〝遺跡〟を見つけたのはみのりでは無いだろういう推測が付いている。これは小隊長殿おやっさん報告書レポートとも絡むのだが、金星地表への降下作戦──いわゆる、ヴィーナス・アタックの予備降下プレ・アタックの段階で、連邦共和国の中枢が率先して自立歩行探査機ドローンを提供するなど、今から思えばおかしな話だった。

ヴィーナス・アタックは主に研究目的で行われるのがで、その実、鉱物資源開発が真の目的であったりするわけだが、建前は建前として、そのスジの研究者が共和国科学振興財団RSPF: Republic Science Promotion Fundationに研究目的と調査内容の申請をする手筈となっている。連邦共和国は後援にはなっているとは言え、直接的な手続きは財団が行い、財団が窓口になって、地表降下部隊アタッカーズを編制するのに適切な地方自治体に話を振ってくる。

共和国政府と財団は──内情は知らないが──別の組織であり、予算枠も全く違うから、財団が共和国政府の自立歩行探査機ドローンを借り受けるには、そこで新たな申請が必要だ。更に、実務を行う部隊──今回の場合は我が隊──にも地表降下部隊アタッカーズ編制の打診・要請や、必要機材の徴発──じゃなかった、調達・提供など書類上の処理だけでも面倒なことが多い。通常なら、申請書は一枚で済ませたいから、『金は払うので、手持ちの自立歩行探査機ドローンで調査してくれ』と頼まれることが多い。共和国政府の自立歩行探査機ドローンを別の部隊に提供するなど、別途に雑務が増えるような仕事はしたがらないものだ。

ところが今回は、財団の方から自発的に自立歩行探査機ドローンの提供を申し込んでいる。それも、どうやら、我が隊だけに行われたものでは無いらしい。各緯度帯ごとに同様な調査が行われたようで、我が隊がたまたまを引き当てたということのようだ。今から考えると、どうみてもとしか思えないのだけどな。


そして、実際に、我が隊の地表降下部隊アタッカーズの降下が決定された時、地球から説明にやってきたのが、魚崎晋である。ヴィーナス・アタックはそれほど頻繁にあるものではないが、オリンピックほど珍しいものではないから、こんな調査のためにわざわざ地球から3ヶ月かけて専門家がやってくるほどの案件ではない。それに、財団に対して研究申請をしたのは魚崎本人ではなく、共和国所属の研究員。それも、共和国エネルギー管理委員会RERCの組織下にある研究部門に属する研究官なのである。

もう、この段階で資源争いの臭いがプンプンするのだが、今回の事故報告書にはそのへんの話は含まれていない。もしかすると、もっと高次ハイレベル報告書レポートには書かれているのかも知れないが、俺にはそこまで読む権限がない。

共和国政府──とりわけ、RERCの〝遺跡〟に対する執着は強かった。ここからは完全に推測になるのだが、〝遺跡〟の存在というか役割に気付いたのは、最初に調査依頼の申請をしたその研究官だろう。彼らはおそらく、ルバコフРыбако́в効果を使った無尽蔵のエネルギー資源として〝遺跡〟を捉えていたに違いない。これは、ソーニャと御影恭子との会話からの憶測だ。


〝遺跡〟の役割は、あちこちにあるから分かった。みのりは確か、惑星科学関係の雑誌か何かに載ってたとか言っていた気がする。調べたわけではいないが、RERCの研究官もこの研究に関わっていたのだろう。完全な形での〝遺跡〟の場所や規模は分からない。いや、そもそも本当に存在するのか否かも分からない。だから、金星中を調べ回った。そして見つかったのが、北緯30度帯30 Degrees Northテルス島Tellus Island

だが、この情報はRERCの中枢──共和国政府の中枢には届かなかった。現地の駐在部隊──例のむっつりスケベの将校オフィサーがいる部隊が、この情報を独り占めしたのだと思われる。そりゃ、巨大な利権が絡むからそういうことがあってもおかしくない。ってことは、直轄の司令部からやって来たソーニャと共に〈レッド・ランタン〉の管制室を彼が占拠しにやって来た時には、内心ヒヤヒヤものだったと考えられる。〈箱船〉での小隊長殿おやっさんとの会話からして、地表降下部隊アタッカーズの計画と降下地点は既に分かっていた筈だからだ。


要するに──だ。あの時、ソーニャが尋問すべき相手は、何にも知らなかった俺じゃなくて、隣にいた身内の将校オフィサーだったということだ。俺が図書館でみのりと共に殺されかけたことだって、俺が不用心に機密のメインフレームにアクセスしてしまったため、秘密裏に事を進めていた駐在部隊の奴らに、俺たちがRERC中枢の人間かあるいは内通者と勘違いされたと考えれば合点がいく。巨漢の将校オフィサーと図書館でみのりに投げ飛ばされた男は顔見知りだったわけだし……。

つまり、RERC組織の内輪揉うちわもめのトバッチリが、要請を受けて行動しただけの俺たちに降ってきたわけで、もう『勝手にやってくれ!』と言いたい。


──いやいや、RERCの内輪揉うちわもめだけでは話が完結しない点がある。小隊長殿おやっさんの存在だ。小隊長殿おやっさんがRERCの駐在部隊側にと考えれば一応スジは通るのだが、小隊長殿おやっさんが主張した国連本部からの勧告リコメンドは確かに存在し、国連UNの〈ニアリーイコール〉という非公認組織からの援助の記録も残っていたのである。

で、その内容は──って言うと、俺たち下っ端には開示されていない。だが、たかが一地方のRERC駐在部隊が国連UNを言いくるめて味方に付け、非公認とは言え、支援を受けるまでを内密に行えるとは到底思えない。何か別軸での作戦が展開されていたと考えられる。もちろん小隊長殿おやっさんはその作戦を知っていたのだろう。知っていたと考えねば辻褄が合わない。下手すると、軌道間輸送船OTVに乗る前から魚崎と共にこの任務を託されて来たんじゃないだろうか? RERC組織内のエネルギー資源争奪戦に、国連組織が〝漁父の利〟を得ようとして首を突っ込んだ。おおむね、そんなところだろう。

そして、小隊長殿おやっさん国連UNの関与を知っていたが、副隊長の谷上中尉は知らなかった。知らせてはいけなかったのかも知れない。よって、谷上中尉は共和国政府中枢からの『地表降下部隊アタッカーズの独断行動』というホットラインを信じ、小隊長殿おやっさんの行動がクーデターに近いものだと判断。〝遺跡〟の奪還を試みたということになる。

この行動は軍規に基づいても間違っておらず、軍法会議でも何ら罪に問われることは無かった。小隊長殿おやっさんについても国連本部からの勧告リコメンドが本物であったことが証明され、無罪放免。どちらも正規ルートの指示で動いており、指示系統の混乱が今回の事態を招いたということで処理された。

ついでに言うと、俺の〝ハイジャック〟の件もウヤムヤのまま処理されることになった。今回のことは、全て事件ではなく事故──上層部はそういう事で話を進めようとしている。仮に、俺の件を事件として扱うと、部外者を呼んで聴聞会を開かねばならず、そこでという懸念があったらしい。何しろ正直者の上に馬鹿が付く程だからなぁ、俺は。これはこれで良かったのか悪かったのか分からんが、まあ良かったと言うことにしておこう。


自らの罪がご破算になり、つかの間ホッとした後、俺は、小隊長殿おやっさんに、国連UNから示された勧告リコメンドが一体どんな内容で、どんな作戦命令だったのか訊いてみたくなった。だが……訊いても答えてはくれないだろうなぁ……。

そうそう。この点は、話を知ってそうな姫島にも訊いてみた。だが、姫島は『〝遺跡〟に近づくヤツがいれば阻止しろ。ただし、〈レッド・ランタン〉を含め、上空の奴らに気取られるな』という命令しか受けていなかった。だから、俺たちのことを──同じ部隊だというのに! ──完全に敵と認識していた。姫島が、未確認機アンノーンに対して、その処遇に苦慮したのは、通信を〈レッド・ランタン〉に傍受されるのを嫌ったという背景があったわけだ。結局、先行した未確認機アンノーンは墜落し、俺たちを攻撃した2機目のRERC所属の装甲兵員投降機APDと交戦する前に、小隊長殿おやっさんからの攻撃中止命令が出された。『そいつは味方だ』──と言うわけだ。では、1機めの未確認機アンノーンは何だったのか? これに対する明確な答えは未だに無い。

同様に湊川にも話を訊いてみたが、アイツは『俺は人類初の超光速宇宙船の操縦士パイロットになるんだ。スゲーだろ!』ということしか頭に無かった。背後にある色々な陰謀など全く考えていない。お気楽なヤツだ。まあ、浮遊基地フロート・ベース消失とか、〈レッド・ランタン〉管制室の占拠とかを知らずに、何事も無く金星地表面まで降りた地表降下部隊アタッカーズの一員だから仕方が無いことかも知れない。

だが、残念な事に、人類で始めて超光速船を操縦ドライブした男という称号は闇に葬り去られることになりそうだ。今回の事故報告書が公に公開されることは無い。よって、湊川の実績も表沙汰にならない。遥か未来を思えば、情報公開法によって全関係者の死後50年経ってから知られる事になるだろうが、刹那に生きる湊川にとってはそれでは不満だろう。慰めにはならんが、『お疲れさん』と言うしか無い。

そう言えば、〈スキップジャック〉が宇宙船のエンジンだったと正しく認識していた人物は、以外に少ない。共和国政府はもちろん、例のむっつりスケベの将校オフィサーすら、ルバコフ効果を使った陽子崩壊反応炉だと思っていたようだ。まあ、そう思ってもらわないと、協力はしてもらえなかっただろう。この点は御影恭子が言っていたように、〝宇宙船〟という言葉をほとんどの人間が隠語として理解していたようだ。戦車のことを〝タンク〟と言っているのだと思ったら、本当に水槽タンクのことだった。あらビックリ──みたいな展開。

それにしても小隊長殿おやっさんは、連邦共和国の司令部と味方である谷上中尉には作戦を秘匿し、共に行動している共和国の駐在部隊には、作戦の目的を偽って行動していたわけだから、とんだ二枚舌、三枚舌っぷりだ。俺には無理だし、俺を地表降下部隊アタッカーズの一員にしなかったのは正しい判断だと言えるだろう。

今回のヴィーナス・アタックの裏で何が起きていたのか? 何の目的があったのか? 俺が理解出来たのはこのくらいだ。これでもほんの一部だろうが、それでも頭が痛くなる。


さて、頭が痛くなる知略・謀略はこのくらいにして、では、金星地表面で〈スキップジャック〉が作動した時、一体何が起きたのかも説明しておこう。〈スキップジャック〉の中の俺たちは、その爆心地に居ながら──いや、爆心地に居たが故に、何が起きたかを正確に把握できていない。外から見ていた地表降下部隊アタッカーズの面々の方が、その状況を把握している。その中でも姫島は、〈箱船〉の外に居ながら宇宙にまで舞い上がっており、装甲服アーマードスーツに取り付けられたカメラがその一部始終を記録していた。

──とはいっても、ほんの一瞬の出来事だ。俺たちが宇宙で見たような、少し暗めの透明な球が一瞬で広がる。周囲に居た他の地表降下部隊アタッカーズとRERCの2機の〈ブラック・タートル〉はその向こう側に押しやられると同時に、〈箱船〉は上昇する。発生した球はそのままオレンジ色の火球になり、その上にまた2段目、3段目の球が次々に形成されたところで、次の瞬間はいきなり宇宙空間だ。この間およそ0.5秒。静止画像にして60枚程度である。

地表降下部隊アタッカーズが乗った〈マンタ・レイ〉からの映像も残っている。こちらは球体が広がったというより、急速に〈箱船〉が遠ざかったかと思えば、数段の球が発生して〈箱船〉がパッと消えていた。俺たちは一旦消えたのだ──この世から。これは決して誇張ではない。姫島の映像ではその直後に宇宙空間に出現したことになっているが、みのりらの報告書レポートでは、俺たちが宇宙空間に現れたのは、その3日後なのである。これは、〈スキップジャック〉から取り出されたブラックボックスのGPS記録にも残されている。宇宙に飛び出た瞬間までは連続的に時が刻まれていたが、宇宙でGPS信号を受けた瞬間に、3日後の時間へと書き変わったのが記録されている。つまり、俺たちは、場所を跳躍しただけでなく、時間も跳躍したのである。湊川はますます悔しがっていた。『俺は人類初のタイムトラベラーでもあるんだぞっ!』ってな。ま、それが公式に認められるのは死後50年経ってからだ。もう一度繰り返そう。慰めにはならんが、『本当にお疲れさん』と言うしか無い。

ちなみに、〈箱船〉は金星の外大気をかすめた後、金星とほぼ同じ長軸軌道を持つ人工惑星になった。調査隊も向かったが、実験室ラボまでは完全に破壊されており、モノポールが詰まっているという顆粒状金属系材料BNMは影も形も無かった。ソーニャの悔しそうな顔が目に浮かぶ。〈スキップジャック〉はほぼ原型のまま残っていたが、当然ながら電力は死んでおり、圧縮されたはどこにも存在していなかった。

その原始宇宙はどうなったか? どう処分したのかは、魚崎の報告書レポート書かれている。はっきり言おう。全く分からん。一言で言えば、俺たちと平行の別の次元へ切り離して捨てたのだそうだ。分かるかそんなの。で、その宇宙はおそらくその後インフレーションを起こし、現在も膨張中であるらしい。つまり、魚崎は別の宇宙の創造主になったのだ。もしも、に知的生命体が生まれたら、教えてやりたい。『お前達の宇宙を作った神は、黒ブチ眼鏡の変なオッサンだぞ』と。


さてさて。では、そもそもの諸悪の原因となった〝遺跡〟とは何だったのか?


〈レッド・ランタン〉に戻った翌日。実際には4日後になるが、俺は湊川に一枚の写真を見せられた。北緯30度帯30 Degrees Northテルス島Tellus Island全景。〈箱船〉があった場所の最新画像だ。

「なんじゃこりゃ⁉」

「〝パエトーン・コロナ〟と命名されるだろうな」

「コロナって……あのコロナか?」

〈箱船〉があった入り江は跡形も無かった。それどころか、手前の切り立った断崖すら消えていた。代わりに、半径30キロメートルはある円形の丘──金星特有の円形状の丘が出来ていた。〈箱船〉が跳び上がった後、ここには巨大な円形状のくぼみが出来た。そこに地下からのマグマが沸き上がり、あたかも穴を塞いでカサブタを作るかのようにマグマの丘が出来たらしい。直径30キロメートルはコロナとしては非常に小型であり、どちらかというと、もっと小型の〝パンケーキ〟と呼ばれる地形に近い。

これは魚崎の立てた仮説だが、〝遺跡〟はまさしく、外宇宙へ飛び立つための宇宙船の燃料庫であり、その宇宙船の発射痕がコロナなのだと……。つまり、かつて金星には金星人が住んでおり、今から5億年前、彼らは故郷を捨てて何処かに行ってしまったのだという。金星の地表は5億年より前の古い地層が露出した場所がほとんどない。金星人の移住計画が、金星の地表面を、ことごとくマグマの海にしまったのではないかという仮説だ。

『そんなアホな!』と切り捨てるのは容易い。だが、5億年前に何らかのて、今の状態になった──と考えるのも、また同様に不自然な仮説である事に変わりはない。

「じゃあ、その金星人とやらは何処に行ったんだ?」

「あんなものを操れる連中だ。銀河系全体に広がっているだろうよ」

──確かに、金星最大のアルテミス・コロナArtemis Coronaは2600キロメートルにも達する巨大な丘だ。そいつが宇宙船の発射痕なのだとしたら、億単位の金星人が乗っていたとしても驚くには値しない。だが、コロナは金星全土のあちこちにある。もしかすると5億年前に戦争が起き、宇宙に出て行く前に死に絶えてしまったのではないかとも思える。あるいは、個別にあちこちに飛び去ってしまったのかも知れない。

ひとつ言えるのは、残された〝遺跡〟はあれが最後だったということだ。地下深くに埋まっている〝遺跡〟とかあれば話は別だが、再実験を行う機会は永遠に失われたことになる。もともとが他人──金星人──の置き土産なのだから、そんなものあてにせず、人類が自力でモノポールを作り、貯蔵出来る技術が発達するまで、追実験は出来ないって方が健全だろう。


争いの種は泡と消えた。これで良かったのだ。


        *  *  *


──さらに1週間後。3ヶ月に一度の軌道間輸送船OTV交代日。俺たちは小隊長殿おやっさんを先頭に、儀礼用肩章を付け、一列に並んでいた。どうもこういう堅苦しいのは苦手だ。俺たち──小隊長殿おやっさんに俺と湊川、そして装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊など──は金星居残り組だが、伊川みのり軍曹は帰ることになった。本来ならば、残り半年ほど勤務する予定だったのだが、今回のような事故が起きて、急遽、地球に逆戻りと相成った。もう少しからかって──いやいや、指導してやろうと思っていたのに残念だ。

「オメーも一緒に帰りたいんじゃねぇのか?」

隣の湊川が、あごで乗船タラップを示す。その先はみのりではなく、御影恭子だ。

「言っとくがな──。俺は手は出しとらんぞ」

「分かった、分かった。そういうことにしておこう」

「勝手に納得するな!」

手を出していないのは本当だ。正確に言うと、手を出しているような暇が無かったと言うべきか? 仕事で付き合うには、御影恭子のような、何をやらかすか分からん相手は困り者だが、プライベートなら話は別だ。彼女が帰ってしまうのも、ある意味残念ではある。ついでに、魚崎なんとかも、役目が終わって帰るようだが、こっちは全く無問題だ。とっとと帰ってくれ。


衛星軌道上にある軌道間輸送船OTVへの運搬船トランスポーターのドアが全て閉まる。俺たちは貨物上屋Transfer Shedsの展望デッキに並んで敬礼。〈レッド・ランタン〉最上階の発着場。そのまた端にある、垂直離着陸機用の発射台Launch Padから轟音とともに運搬船トランスポーターが上昇していく。地球と違って、ここは万年雲の中。機影は直ぐにオレンジ色の火球だけになり、それもまた直ぐに見えなくなる。残るのは遠雷のような音だけだ。──にこやかに笑って帽子を振る儀式は、金星では止めてもいいんじゃないだろうか?


「さてと……」

俺は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。来た早々、色々あり過ぎた。音すら聞こえなくなった雲の彼方を見ながら、俺は帽子を被り直し、きびすを返した。二、三歩歩き、また振り返る。窓の外は黄色がかった白い雲以外、なにも無かった。

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