第6章 帰 還
〈スキップジャック〉が英名で
だが、本船の通称〈スキップジャック〉は
* * *
静かだった。物音ひとつしない。
──いや、正確には物音とひとつしなくなったと言うのが正しい。だからといって、
通常、このような状況の場合、実験が失敗に終わったと考えれば簡単に説明がつく。だが、それを否定するに十分な数字が、2つの計器のゼロに現れていた。
ひとつは外気圧計がゼロ──つまり、外が真空であることを示していた。実験が失敗したのなら外気圧は0.7気圧のままの筈。仮に
もうひとつは──いやいや、こちらは計器を見て確認する必要すら無かったのだが、重力計がゼロだった。要するに無重量状態。どうやら実験は成功だったらしい。
『どうせ消えて無くなるなら、宇宙空間がいい。後腐れ無いように、第三宇宙速度以上で頼む』とか、思っていたっけな? 正夢にならなきゃいいのだが、はてさて。
「ここどこ?」
誰もが知りたがったことを最初に口走ったのは、御影恭子だった。そういえば、この〈スキップジャック〉の
『〈スキップジャック〉がエンジンで、〈箱船〉が船体』という湊川の言葉を借りれば、外部だと思われていた動力炉は、〈箱船〉という宇宙船の内部電源装置だったということになる。
ただ、その制御室には誰もいないから外の景色を確認しようがない。制御室から〈スキップジャック〉のカメラを遠隔操作することは可能だが、逆は不可能だ。みのりちゃんならなんとかしそうなのだがな。
「位置なら分かるぞ──」
湊川がGPS計の数値を指差した。
「──東経150……ああ、これはダメだ」
「どうした?」
「時刻を見てみろ」
「ん? あれから3日経ってる?」
GPSは位置情報と共に正確な時間も表示する。だが、それが3日もずれていては話にならない。──いや、待てよ?
「なるほど、そうか……そういうことか」
「何が『そういうことか?』なんだよ?」
「つまり、GPSが狂っているってことさ」
「そんなことは見りゃ分かる」
湊川は憮然した表情で俺を見る。
「まあ話を聞け。俺が
「はあ? そんな話は聞いてないぞ」
「
「場所は分かっていたからな。で、何故狂った?」
「GPS衛星回線に誰かが
「司令部側だな」
湊川は、RERCの司令部側と駐在部隊側の
「多分な。そういうわけで、GPSは当てにならん」
「何よ! 結局何にも分かんないじゃないの!」
「いや、そうとも限らん」
「何が分かったって言うの⁈」
「このGPS信号は金星独自のものだ。少なくとも金星圏内から逸脱しているわけじゃないことは分か──」
「それ、答えになってないでしょ。結局何処なのよ。ここは⁈」
御影恭子は不機嫌だった。怒っているとかそういうのとは違う。単に不機嫌なだけだ。
「……だからあの女は止めとけって言っただろ」
湊川が小声でささやく。
「手ぇ出してねぇよ。それに、アイツが興味を持っているのは〝キン〟だけだって言ったのはお前だろ」
「んー、移動速度なら分かる……」
俺たちが馬鹿な話をしている間に、魚崎が、有用な情報を調べていた。とは言っても単純な話だ。GPSの座標に細工がしてあり、正確な位置がずれているとは言っても、その差分である移動速度は分かる。頻繁に座標位置が変更されているとしたら、移動速度も狂う事になるが、その場合は速度が大きく外れるのですぐに分かる。逆に言えば、ハズレ値が確認されないと言うことは、速度は正しいと言うことだ。
「秒速……4.2キロメートル毎秒」
とりあえず俺はホッとした。金星の脱出速度は10.4キロメートル毎秒だから、どこか無限遠の彼方を目指して漂流したり、人工惑星になって永遠に
「遅すぎやしないか?」
金星を周回するための第一宇宙速度は7.3キロメートル毎秒程度。それに比べれば相当遅い。もちろん、楕円軌道の遠地であったり、金星から遠く離れた軌道なら安定な周回軌道だということはあり得るが、現在位置を知らない状態では何とも言えない。最悪、大気圏内に落ちて燃え尽きる。いや、これほどの巨体が全て燃え尽きるとは考えにくいが、ともかく、ここに残っていればしばらくは安全──とは言い難い。一刻も早く状況を知る必要がある。
「一度外に出よう」
外がどういう状態なのかは分からないが、出てみるしか無い。外は真空のようだが、全員が簡易型ながら
皆が装備を整えようと、5点式シートベルトを外している時、
「少し……待ってくれないか──」
と言い出したのは魚崎だった。
「──ハッチから……外に出るのは危険だ」
「そりゃ、危険だろうよ。外の状況が全く分からないからな」
と湊川。
「そういう意味ではない。んー、〈スキップジャック〉の下部には宇宙の種火が……完全に制御された形で……存在している。周辺を横切ると、んー、別の宇宙に吸い込まれる可能性が……ある」
「はぁ?」
何やら良く分からんが、ヤバそうな雰囲気だけは分かる。
「──それに……制御磁場の乱れは、んー、微小な密度摂動を引き起こす。……これが、ジーンズ波長を超えると、ぼ、ボイドが──」
「分かった、分かった。出ない出ない。出なきゃいいんだろ」
湊川が両手を挙げる。確かにお手上げ状態だ。
「じゃあ、どうすんのよ⁈」
相変わらず、御影恭子は不機嫌だ。
誰だよ、こんなそりの合わない4人を密室に閉じ込めたのは!
八方塞がりの状況で、魚崎はのろのろと右手を上げ、天井を指差した。
「頭上に……制御室までの、連絡用通路が……ある」
「それを先に言え!」
「はぁああ?」
「早く言ってよ!」
3人で総ツッコミだ。だが、魚崎は平然と──いや、いつものペースでこう言った。
「……非常用」
『いや、だから、今がその非常時だろうがっ‼』
──と言いたかったが、これ以上話を延ばしても何も得るものが無いため、そこはグッと我慢し、俺たち3人は制御室を目指す事にした。3人だ。魚崎は、『実験データを取りながら、不測の事態に備えて残る』と主張した。不測の事態というのが穏やかではないが、彼が想定している事態の内容とやらを聞いても分かるとは思えない。そういうわけで、彼を〈スキップジャック〉に残し、3人で状況を調べることになった。
──って言うか、コイツと2人っきりで残るとか、勘弁して欲しい。
〈スキップジャック〉の真上には例の
ひとつだけ幸いだったのは、迷路のような分岐点が無かったことだ。途中、潜水艦の通路にあるような一斉開閉式の水密扉ならぬ気密扉が何カ所かあったが、全て閉まっていた。おそらく、
通路の最上階。行き止まりに辿り着くまで、ほんの数分程度だった。無重力なので登りきったという感覚はない。そういう意味では、ここが本当に最上階なのかは一抹の不安があるが、上下方向に出入りするための円形気密ハッチがあるのは、出発点である〈スキップジャック〉の頭上とここだけだった。
ハッチを開ける前に、3人でヘルメットの気密を再チェックをする。硬式の宇宙服はどうしてもかさ張るから、狭い通路では動き辛い。御影恭子だけでも、例の
空気音を確認しつつ、ハッチの開閉輪をゆっくりと回す。空気漏れや、その逆の流入も無く、ハッチは開いた。制御室の左後方の隅。デカデカと
当然ながら制御室は無人で、ひっそりと静まり返っていた。総員退去時に、御丁寧にもディスプレイ類も全て含めて、明かりという明かりは全て消して退出している。人工的な明かりは、
──にも関わらず制御室は明るかった。
「これは……」
俺は窓の外を凝視していた。
「ああ。ヤバいな……」
湊川も追従する。
窓の外には
〈スキップジャック〉が──というより、制御室も含め、この〈箱船〉全体が宇宙船だという主張は、魚崎のうさん臭さも手伝って半信半疑だったが、今ここにめでたく証明されたわけだ。実はまだ、俺は
一言で言えば、金星が近過ぎる。二言目が許されるならば、それに加えて相対速度が遅過ぎる──と言うことだ。
明かりをつけ、端末を再起動し、外部カメラの情報から〈箱船〉の位置情報を取得する。地球の衛星なら、地表面の特徴的な大陸沿岸の画像を元に、自動で位置決めするのが通例だが、金星は陸地が見ないため星図から判断する。もちろん、もっとも使われている手法はGPSに基づいた位置決定だが、
端末ディスプレイの隅っこに写る〈スキップジャック〉の船内画像に、何か訴える様にカメラを見続ける魚崎の目線を感じ、制御室での作業を〈スキップジャック〉の端末から遠隔制御できるよう、実行許可モードを発効する。もしも、
「あれは……ヤバくない?」
御影恭子が今頃になって、窓の外を覗きながらそんなことを言い出す。
『そんな事は一目見れば分かる』──と言おうとして、彼女の視線の先が、金星と反対の頭上を向いていることに気付いた。反射的にレーダー画面を見る。上空15キロメートルの距離に、幅500メートルくらいの塊があった。
「これは……RERCの大型船か?」
〈スキップジャック〉の跳躍が、〈箱船〉だけでなく、さらに上空の空間そのものまで持ち上げてしまった──ということになるのだろうが、その影響は一体どこまで続いているのだろうか? もしかすると、たまたま上空にあった
「悪い知らせがある」
湊川にそのことを報告しようとした時──
「こっちもだ、この〈箱船〉はすぐに墜ちる」
「⁉」
湊川はこちらの報告を聞く前に先制攻撃を放ってきた。
「
「それは……困ったな」
考え込んでいる俺に対し、湊川は少し楽しそうだ。
「なぁーに、心配することはない。もう一度〈スキップジャック〉を駆動させればいいんだよ。魚崎はまだ〈スキップジャック〉に居るし、準備が終わった頃までに戻れば──」
「いや、話はそう簡単じゃないんだ」
「何だ? 『悪い知らせ』ってヤツか」
「ああ」
「何だよ、それは……」
「〈箱船〉の頭上から鉄球が降ってくる」
「鉄球⁈」
「上空に、例の大型船がまだ居るんだよ。空間ごと持ち上がっちまったらしい」
「爆発したのか?」
「してたら
「それなら、さっさと〈スキップジャック〉を駆動して──」
「お前、人の話を聞いていないだろ……」
俺は深く溜息をついた。
「〈スキップジャック〉のジャンプは空間そのものを移動させるジャンプだ。どの範囲までを持ち上げるかは知らないが、何度ジャンプしても、あの船との位置関係は変わらない──」
『んー、移動ではない。座標が……』とか、魚崎が文句を言いそうだな。
「──だが、この軌道のままなら、少し待てばあの船との位置関係がずれる。高度が違うからな。こちらが先に進める」
「〈箱船〉に何らかの軌道変更装置は──
「無い。湊川……お前の方がこの船には詳しいだろ。〈箱船〉は実験施設だ。宇宙には舞い上がれるが、姿勢制御も含めて
湊川はここにきて、ようやく事態の深刻さに気付いたようだ。要するに、この〈箱船〉は、将棋の駒で言うところの〝香車〟のようなものだ。前に突っ走ることしか考えられていない。頭を抑えられれば進退窮まってしまう。向こう側に飛び越す事もできない。強いて言えば、相手ごと押し進むことは出来るが、跳ね飛ばしたり回避したりはできない。
仮に、今一度、〈スキップジャック〉を駆動して跳び上がったとしても、上空の脅威はこのままだ。〈箱船〉がどこまで跳ぶのか、跳べるのかはよく分からないが、湊川が言ったように『下手すると火星』かもしれない。火星近辺ならまだいい。人が住んでいるから救難信号を検知すれば、救助艇の一隻や二隻は飛んでくるだろう。何故こんな施設が宇宙空間に浮いているのかビックリするかも知れないが……。
だが、そんな都合のいい強運は滅多にない。太陽系のほとんどはスカスカの宇宙空間だ。救援が到着するまでに数ヶ月かかってもおかしくない。もしかすると宇宙空間での漂流に備えて、〈箱船〉には
「どうやって宇宙航行をするつもりだったんだ?」
湊川がつぶやく。
「そいつは俺が聞きたいね。無計画にも程がある……」
実験機としての計画ならあったのだろう。〈箱船〉の実験機としての目的は、そのエンジンとなる〈スキップジャック〉が正常に動作するかを確かめるものだった。動作すれば成功だ。『宇宙まで跳ぶ』ことが目的て『宇宙で活動する』ことは想定されていない。大抵の新型宇宙船の航行実験は、正常に飛ぶこと──飛ばせること自身の確認が第一義の目的で、飛んだ先で何をするかは想定されていないのだ。人類初の宇宙飛行だって、宇宙で何かをするのが目的ではなく、宇宙に出て、そして生きて帰ってくること自身が目的だった筈だ。
──〈スキップジャック〉の動作は確認された。となれば、次は、生きて帰ることを目的とすべきだ。
「二手に分かれよう。俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」
「〈ブラック・タートル〉だと? 俺〝たち〟とは?」
湊川が怪訝な顔をする。
「俺と──」
そういって、俺は、未だに窓の外を見ている彼女を指差した。
「──アイツだ」
「お前、やっぱり──」
「そうじゃない!」
そう言うとは思ったが……。
「ここが何時まで持つかは分からない。お前は今一度、〈スキップジャック〉の起動準備をしてくれ。RERCの船が横滑りして、上空から退いたなら〈スキップジャック〉でジャンプする。計算では20分程度で完全に外れる筈だ」
「大気圏突入10分前だな……。で、お前達は?」
「ジャンプが間に合わなかったり、鉄球の雨で〈スキップジャック〉の制御が不可能となったら、その時は〈ブラック・タートル〉で
「そんなことが可能か?」
「〈ブラック・タートル〉は元々が汎用の
「どっちつかずの優柔不断な策ね──」
知らぬ間に御影恭子がこちらに来ている。
「──さっさと脱出したらいいんじゃないの?」
「それでいいのか? 何とかという磁性体はまだここに──」
「諦めた」
「はい?」
御影恭子は腕組みをしてサバサバした表情で言い放った。あれだけウダウダ言っていたのに、切り替えが早いヤツだ。竹を割ったような性格──と言うのとは少し違うかもしれないが、決断が早い。そう言えば、コイツは〈収水〉のキャノピーを吹き飛ばし、着水に失敗すれば金星の底まで一直線の死のダイブを躊躇なく決行したヤツだった。
「だからぁ、諦めたからもういいの。〈ブラック・タートル〉で
「棺桶……ねぇ」
俺と湊川は顔を見合わせた。まあ確かに、俺としてみれば、そもそもが
何とか細菌と何とか磁性体──最後まで覚えられなかったな──は、それを欲していた御影恭子が『いち抜けた』と表明したのだからそれでいい。問題は残り2名だ。
「湊川、俺はこの案に賛成だ。お前はどうする?」
「俺もそれでいい」
即答だった。
「本当にいいのか? この〈箱船〉を守るのがお前の役目じゃ──」
「そんな役目は負ってない」
またまた即答だった。俺が言うのも変な話だが、この船に愛着とか未練とか無いのか。愛着を感じるほど乗り込んじゃいないだろうが……。
「俺の任務は〈スキップジャック〉の初飛行だ。人類初の超光速宇宙船の
そう言って湊川は、データが入っているであろうメモリーを目の前で左右に振った。任務に忠実と言えば聞こえが良いが、これだけの施設を捨て去ろうという間際に、なんの躊躇も無いというのは如何なものか? 捨てるにしても、限界性能を引き出してバラバラになる一歩手前まで出力を上げるとか、フラッター試験──確か魚崎は『スケール
クドいようだが、脱出する案にすんなりと賛成した俺が言うべきことじゃないが……。
「ふむ。となると問題は──」
「ふむ。アイツだな──」
「置いて行ったら?」
「…………」
「…………」
御影恭子と魚崎晋。確かに、ソリが合いそうもない2人なのだが、流石に一人だけ置いて行くわけにはいかんだろう。放っておけば、まず間違いなく死ぬ。
『艦長が艦と運命を共にする』っていう話は良く聞くが、設計者が艦と運命を共にしていたら、技術の進歩もへったくれもあったものではない。
「仕方がない。最初の計画通り、俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」
「おいおい。本当に見捨てるつもりか?」
「そうじゃない。俺たちが〈ブラック・タートル〉の離陸準備をしているから、お前は魚崎の説得をしてくれ」
「そんな損な役回りは御免被る」
シャレのつもりかどうかは分からないが、そう言って湊川は、不機嫌そうに腕組みをした。俺はオーバーに両手を広げながらこう言う。
「俺たちは、あの〈ブラック・タートル〉の
ここで追加の微笑み。
「──お前は〈スキップジャック〉の
「くっ。後で覚えてろよ」
湊川は捨て台詞を言い残し、もときた
「じゃ、俺たちはエレベータで行くから……」
軽く敬礼をし、湊川に睨まれながら、空を跳ぶ。時間として、あと25分。まだ切羽詰まってはいないが、お茶を飲む余裕はなさそうだ。それより問題なのは
また、ざっと計算した
それに、ここは金星だ。空力加熱を
ともかく、〈箱船〉から離れればそれでOKという話ではない。やるべき事は山ほどある。
無重力の駐機場で空中にひっくり返っていた〈ブラック・タートル〉に到着後、降下に必要な設定と立ち上げは御影恭子に任せ、俺はタイヤの取り外し作業に向かった。
ただ、車軸の方はそのままにしておく。タイヤと同様、取り外しておいた方が無難なのだが、根元の構造が分からぬ以上、下手に取り外して耐熱タイルに穴が開いてはたまらない。それに、車軸の素材はポリイミド系の熱可塑性エンプラと金属粉粒体を無重力下で複合した何とかだったから、タイヤと違って溶けるだけだろう。少なくとも、塊のまま剥離してタイルにぶつかり、致命的な亀裂を生じさせることは無い筈だ。逆に、〈ブラック・タートル〉腹部の亀甲形超耐熱タイルと共に、
「上沢。聞こえているか?」
「聞こえている。どうした?」
タイヤ3本を外し終わった時点で、湊川から無線が入る。
「少し困った状況だ。今の状態のまま〈スキップジャック〉を放棄するわけにはいかない」
「まあ、魚崎は設計者だからな。そう簡単に手放すとは──」
「そうじゃない。聞いた話が本当なら、これはかなり
「ん? どういうことだ?」
「そ、それは私から説明する。……現在、モノポールから生まれた最初期宇宙は……自己組織化……んー、熱力学的不安定性から生じる自己組織化を……制御することで……辛うじて、余剰次元がコンパクト化されて──」
「手短に頼む。何が、
「……インフレーション宇宙が制御無しで……我々の宇宙内で……一様等方に膨張する。〈箱船〉の座標が……変わるだけでなく、あー、宇宙全体の座標が変わる」
「それは──、さっきの〈スキップジャック〉の跳躍と同じじゃないのか?」
「き、規模が……違う」
「どのくらい?」
「十万……」
「十万キロか? 金星の軌道が変わっちまうな……」
金星の半径は6千キロメートル強。木星の半径が7万キロメートル。地球と月の距離が38万キロメートル。地球と金星間の距離が、最も近くて4千万キロメートル。
十万キロメートルは、惑星間スケールでは微々たるものだが、惑星自体の大きさを考えれば、とんでもない距離だ。それだけの空間を、〈スキップジャック〉が作っちまうってことか?
ただ、〈スキップジャック〉による跳躍は、瞬時に俺たちを宇宙空間にまで運び上げたにも関わらず、〈スキップジャック〉自身はもちろん、〈箱船〉にも何ら損傷は無く、強烈なGも感じなかった。新しい空間を既存の空間の間に作り上げて広げてしまうっていう移動方式だからだと思うが、それならば、金星全体が突然に十万キロずれたとしても、金星そのものに損傷は無いと思われ──
「そうじゃ……ない。十万光年──」
「なに?」
「十万……光年。真空の相転移が終わるまでに、んー、10の28乗倍程度の──」
「詳細はいい。もう一度言ってくれ。どれだけ大きくなるって⁈」
「……量子ゆらぎの増幅で大きく変わるが……平均で十万光年」
「十万光年⁉」
十万光年って……十万光年か? いや、俺は何を言っているんだ。十万光年と言えば……銀河系そのものの直径じゃないか‼
「んー、指数関数的膨張で……膨張向きが我々の、時空曲面内では無い可能性を考慮すれば、平均値はあまり──」
「回避方法は?」
「それは今やってもらってるが、頼みがある──」
業を煮やした湊川が割って入る。
「──時間が欲しい。ギリギリまでここで作業するから、〈ブラック・タートル〉を出して外で待っててくれ」
「分かった」
「ただし、〈スキップジャック〉の下部には近づくな。何が起こるか分からん」
「
「それともうひとつ。〈箱船〉を90度ほど回転させられないか?」
「……それは」
「仮に──仮にだが、〈スキップジャック〉の制御に失敗すれば、十万光年の巨大な空間が生み出される。空間が星の密集した
「天の川を避けるということか?」
「そうだ。
「……分からんな」
「座標を送る」
「
「分かってる。
「……約束は出来ない。──だが、何とかしよう」
「助かる」
無線はそこで切れた。方法は思いつかない。そもそも話が途方もない。銀河を分断するほどの空間が生まれるってどういうことだ? スケールがデカ過ぎで実感がまるで湧かない。失敗すれば俺たちは──十万光年跳ばされるってことか? あるいは、太陽系を含めて、数千億の星々全てが跳ばされるのか?
──いや、いま考えるべき事はそんなことじゃない。俺が行うべき
次なる目標は、〈箱船〉の姿勢を変えることだが、湊川と魚崎が巧く──原始宇宙の破棄とでも言うのか? ──を成し遂げれば、無用の
確かに、
タイヤの取り外しは、それから2分で終わった。
御影恭子が
さてと──、問題はここからだ。
また、
ここは妙な冒険をせず、一旦〈ブラック・タートル〉に戻り、必要あらばいつでも飛び出せるように、
次は〈箱船〉を回転させる策──かなり難問だ。
最初は〈ブラック・タートル〉の小型
「
「それは後だ。そこの空気にはまだ出番がある」
「出番?」
「
外部ハッチも
「おいおい。どうなってる?」
外部ハッチを開けるのは手動が必須だが、閉めるのはリモートで可能だ。
ただ、〈箱船〉に乗っているのは〈ブラック・タートル〉の俺たちと、〈スキップジャック〉の湊川と魚崎合わせて4人しかいない。俺たちは
一体誰が──、
「湊川、上沢!」
第5番目の人物──男の声がした。
「姫島⁈」
「上沢か? ──今は出るな。鉄の雨が来る‼」
* * *
閉じかけた外部ハッチの向こう。姫島の
「姫島? 姫島⁈」
「上沢⁈ 何が起こった?」
答えたのは姫島ではなく湊川だった。湊川が大写しになったモニターの横。制御室の映像は、画面が霧で白くなった状態で死んでいる。カメラが壊れただけでなく、制御室全体が破壊されたと見るべきだろう。
だが、この程度で済んだのは幸いだった。金星で見た時の炸裂弾の数はかなり多かったから、衛星軌道の違いによる着弾のずれが功を奏したのだろう。さらに、外気が90気圧なら、破壊は〈箱船〉全体に及んでいた可能性も高かった。〈スキップジャック〉のある地下──既に地下ではないが──まで被害が無くとも、
「例のRERCの大型船からの攻撃だ。制御室がやられた」
「あっちにも生存者がいるのか?」
RERCの大型船は、基本的に柔らかい膜で覆われた飛行船だ。
「分からん。──だが、姫島がいた」
「姫島? 何故?」
「分からんが……一緒に跳ばされたんじゃないか?」
確か姫島は、RERCの大型船を撃ち落とす気満々で、〈箱船〉周辺に最後まで残っていた筈だ。一緒にここまで跳ばされたとしてもおかしくはない。そんなことより──
「被害は?」
「動力炉からの電力が切れた」
「じゃあ〈スキップジャック〉の──」
「大丈夫だ。電力は等分の間、
「駆動時間は?」
「30分」
「なら──、問題は無いな」
「ない」
元々、作戦の残り時間は15分程度だ。それ以上あれば問題ない。それ以上あってもどうにもならない。問題は俺たちの方だ。
「姫島?」
「上沢無事か? 他は?」
「4人──、御影と俺はここに。湊川と魚崎はわけあって〈箱船〉の最下部に残っている。全て無事だ。そっちは?」
「俺だけだ。一体どうなってる? ここは何だ。何故宇宙空間にいる?」
「〈箱船〉の周辺の空間ごと跳ばされたんだよ」
「跳ばされた? 何だそれは?」
コイツは──、俺以上に何も知らないようだな……。
「時間がない。詳しい話は〈レッド・ランタン〉に戻った後だ。姫島。この外部ハッチを点火ボルトで
「二度と使えなくなるぞ。いいのか?」
コイツは──、本当に分かってねぇな。
「放っといてもこの〈箱船〉は20分もしないうちに、大気圏内で焼却処分になる」
「何⁈」
「一緒に灰になりたくなかったら、早く開けてくれ」
「分かった。少し待ってろ」
納得したのかどうかは定かではないが、姫島のそこからの行動は早かった。床に光っていたサーチライトが見えなくなった直後、四方の留め金が爆薬で座屈。フリーとなった扉がバネ仕掛けで上にスライドして上がって行く。半分くらい上がったところで、〈ブラック・タートル〉の
「空気の出番ってそういうこと……」
御影恭子がひとり頷く。
「ああ。
飛び出した先は真っ暗な宇宙空間──と言いたい所だが、足元は黄色じみた白い金星の雲で覆い尽くされていた。お尻がムズムズするこの感触はいつまでたっても慣れない。
宇宙空間に浮かんでいる姫島の肩には、例の4連式
「姫島。もう一つ頼みがある」
「何だ?」
「〈箱船〉の一点を破壊して欲しい」
「何? 〈箱船〉は放っておいてもお陀仏なんだろ」
「その前に銀河──いや、金星の空中都市を巻き込んで破壊する可能性がある」
10万光年だの銀河系の危機だの、今の姫島に喋っても話がこじれるだけだ。それに、俺だって全て理解したわけじゃない。
「それは一大事だな。何をどうすればいい?」
「〈箱船〉の底面を
「分かった。だが破壊したって方向は変わらないぞ」
「分かった──のか?」
「何がだ?」
「方向だ」
「あん? うしかい座のアークトゥルス。乙女座スピカの隣だろ」
「ほほぅ。お前に星を見る趣味があったとは知らなかったぞ」
「馬鹿野郎。趣味なんかじゃねぇ。星を覚えなきゃ宇宙空間で闘えねぇ。最低でも全天21ある一等星は必須だ。
姫島のドヤ顔が目に浮かんだ。大気圏中心の俺とは違い、海中から宇宙空間までオールマイティに闘う戦闘屋は格が違う。
「それは……悪かった」
「で、何処をどう破壊すればいいんだ」
「〈箱船〉の中心には巨大な
「そいつを開放して回転させようって魂胆だな」
「そうだ。だが、電力系統の破壊はマズい。湊川と魚崎が〈スキップジャック〉で爆破物処理をしている。そいつの解体に、暫くは電力が必要だ」
「
「何だ?」
「回転を始めさせるのは壁面を破壊すれば出来るが、止める方法が無い──」
「……そうか。そうだな」
〈箱船〉の底面を
「姫島、上沢。それについては問題ない──」
湊川が会話に割り込んでくる。
「──今、こちらの作業が終わった。後はプログラムを作動させるだけになっている。〈スキップジャック〉が
何がどうなれば成功なのか分からなかったが、それは今聞くべきことじゃないだろう。
「お前達の脱出方法は?」
「作動後、そっちに──〈ブラック・タートル〉の
「
「姫島は壁面破壊後に、上沢の〈ブラック・タートル〉の
「
「いよいよ大詰めって感じだな」
湊川がつぶやく。
「いや、まだだ──」
俺はそれを否定した。
「──大気圏に突入して生きて帰るまでが任務だ」
「……ああ、そうだな」
* * *
姫島が上方へ飛び去った後、暫くはその場──外部ハッチ前──で待機することにした。最終的には、下方にある〈スキップジャック〉と同じ水平面で待機すべきだが、〈箱船〉が回転し、底面が
座席をリクライニングにして、頭の後ろで腕を組む。本当は
「あら? ずいぶんと余裕があるみたいね」
隣の御影恭子が声をかける。そういう彼女も、俺につられてか、腕を上に上げて伸びをしている。
「慌てる乞食は貰いが少ないってね……」
「アタシは何にも手に入れて無いけど──あ」
「どうした?」
こちらを向いて気だるそうにしていた御影恭子の緑かがった瞳に星が輝く。これは──危険な兆候だ。
「
「そ、そうだが──」
──あ、ヤベぇ。そういうことか。
「それなら、中に入れるじゃない!」
「いや、ちょっ──」
──遅かった。
御影恭子の判断は早い。それも躊躇が無い。止めようとした時には、〈ブラック・タートル〉側面のハッチは開かれていた。既に、宇宙服の中は0.3気圧の純酸素呼吸に切り替わっていたし、『必要あらばいつでも飛び出せるように、
先を見越しての行動が悔やまれる事態になろうとは思いもよらなかった。
「アタシは
「お──」
『──い』を言う暇もなかった。無鉄砲にも程がある。それは承知していたが、そのさらに上手を行くヤツだ。その直後に振動。正確には、〈箱船〉全体の微振動が視認できた。姫島の仕事に違いないが、ここからは火炎やガス流出は確認出来ない。だが、仕事は成功したようだ。僅かずつだが、〈箱船〉が回転し始めている。
そのまた直後。
〈箱船〉の回転速度は思ったより遅く、底面が
数分後、先に戻って来たのは姫島だった。開け放たれた
「どうした? 姫君は外出中か?」
どうしたもこうしたも、無線で聞いていただろ。
「忘れ物を取りに行ったよ。
「おう。夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うからな」
勝手に決めつけるな。それに、用法が違うぞ。
「ところで、姫島」
「何だ?」
「鉄球が降ってくることに良く気付いたな」
「ああ? ああ──RERCの大型船まで行って来たからな」
「行って来た?」
「人命救助だよ」
「お前の口から人命救助という言葉が出るとはな。で、誰も連れて来ていないというところを見ると──」
「違う違う。中は無人だった」
「無人?」
「ああ。破損箇所から中へ入って見た限り、誰もいなかった。自動操縦モードになっていたしな。リモートで操作されていたようだが、電波が遮断されるとタイマーで鉄球が発射されるようになっていた。多くは解除したんだが、防ぎ切れなくてな」
「それで波状攻撃が無かったってわけか……」
制御室が破壊された後、今一度鉄球が飛んで来ていれば、
〝姫君〟と言われた御影恭子が戻って来たのはそれから5分後のこと。時間内に戻ってくるとは思わなかった。遅れることを期待していたわけではないが、こういう場面では、ギリギリ、あるいは多少は遅れるパターンが多い。
〈箱船〉から飛び出してきた彼女は、右手の親指を上に立てながら、得意満面で出てくる。──実際には、ヘルメットの紫外線防護用シャッターが作動していて、表情を確認することは出来ないのだが、笑っているのはまず間違いない。高々と上げた右手首に取り付けられた
「大漁、大漁。生きの良いヤツが沢山!」
御影恭子は超ご機嫌である。そのなんとか細菌というのは、イワシか何かなのか?
「ベルトをしろ。これから〈スキップジャック〉横まで降下する」
「
時間的には残り2分。タイミング的にはピッタリだ。降下と言ったが、金星を下と見た場合、〈箱船〉は既に横倒しに近い状態になっており、横滑りと言った方が正確かもしれない。〈ブラック・タートル〉の下に巨大な〈箱船〉。さらにその下に金星という状態になっているから、先ほどまで下方に見えていた金星の姿は、ここからは見ることができない。
「ケチケチしてるわねぇ。パァ──っと使わないの?」
上機嫌な御影恭子が言う。さっきまで死んだフナみたいな目をしていたヤツに言われたくはない。ただ、俺としても、
「推進剤は使えば無くなるんだ。無駄に噴かしても良いことは何も無い。それに、停止時にも同量の推進剤を食う。急ぐ理由がなければセーブするのが鉄則だ」
「ふーん、そんなものなの?」
「そんなものだ……」
宇宙空間では、回転式のステーションから投げ出されるとか、デブリに遭遇するとか、何が起こるか分からない。できるだけ推進剤は残しておきたいのが人情だ。推力が無ければ、ほんの数メートル先に浮かぶ仲間を助けられないこともある。大気圏突入までは慎重に、突入後は大胆に動かねばならない。
「残り30秒だ」
湊川の声が無線で届く。
「
〈スキップジャック〉の下方にあった構造物は、切り取られた様に何もかも無くなっていた。元々、〈スキップジャック〉自身は天井に支えられていたもので、そこから下方に向かって伸びた柱などは最初から無かったのだが、〈箱船〉自身を支えていた柱や壁面、エレベータ等は鋭利な刃物で切り取られたような状態だった。
〈スキップジャック〉底面。
明るさに慣れてくると、超短パルスレーザー発信器の列が鈍い光を放っているのが分かる。レーザーが見えているわけではない。発振部の熱放射だろう。発振回路のレーザー変換効率はすごぶる良い筈なので、その数千倍のエネルギーが、ゲートが開くのを今か今かと待っている。
「自律的点検システム
例の合成音声が響く。だが、その後にあるべき『カウントダウンのタイミングはどちらで行いますか?』は無く、そのまま──
「20、19、18……」
──とカウントダウンを始めた。時刻起動で制御しているらしい。
「湊川。この実験の成功はどうやったら分かる?」
魚崎に聴くべき話だが、話が長そうなので、湊川に聞く。
「何も変わらない。
「──失敗は?」
「そうだな……。足元に銀河が見えるだろう。我々のな」
「天の川でなく、全景が見えるってことか? そりゃ──、見て見たい気もするな」
「はは。そりゃ、そうだな」
もちろん本心ではないが、見てみたい気がするのは本当だ。ただ、それが現実になった時、その感動を伝えられる相手は近くにはいなくなる。
「
* * *
作戦は成功とも失敗とも言えなかった。
限りなく成功に近い失敗。あるいは、多少の失敗を含んだ成功。二択で言えば成功だろう。だが、俺の想定している成功とは少し違っていた。
成功したなら『何も変わらない』──湊川はそう言った。だが、
実際には、収縮に転じてから『ヤバい!』という感情が湧いて来たのかも知れない。それほどまでに一連の動作は早かった。
──いや、例え瞬きしていても、その変化に気付かないことはありそうもなかった。その得体の知れないモノが消え去った直後から、機体は猛烈な振動と炎に包まれたからだ。
「くっ‼」
瞬間的に事態を把握した。理屈じゃない。理屈は分からない。分かってたまるか!
これは──、
当初の計画ではこの状態で待機し、湊川と魚崎の仕事が終わったなら、後面
ところが、突然の
さらに悪いことに、〈ブラック・タートル〉の位置は、〈箱船〉側面の縁であり、〈箱船〉
〈箱船〉の下に潜り込んで刹那、
全ては5秒程度の出来事だ。少し判断が遅ければ、
現状でも〈箱船〉直下の
「姫島‼ 2人を──」
──と叫んだ時には、
姫島は
「
「分かってる……」
御影恭子の忠告をジョークで返す余裕は無かった。
速度が速いというより、突入角度が浅過ぎる。〈ブラック・タートル〉の非力な
〈スキップジャック〉の
このまま宇宙に出たらどうなるか?
永遠とも思える1分近くが過ぎ、3人が
「残りの推力全て使っても、降下は無理よ」
御影恭子はその間、〈箱船〉の予測軌道とそこから離脱する最適ポイントを計算し、推進剤の残量と照らし合わせて結論めいたものを導きだしていた。
「無理? だったら金星とここで
「それは──」
御影恭子は珍しく弱気だった。
「上沢! 回収完了。出せ‼」
姫島の声を合図に、〈ブラック・タートル〉天面にある
推進剤を9割使い切った後も、軌道速度はほとんど落ちていない。高度が落ちると速度が上がる。しごく真っ当な結論だ。それでも
「降下を諦めたの?」
「何寝ぼけたことを言っている」
「でも──、もう減速に使える装置は残ってないわよ」
「いや。まだ2つある。隠し球は最後まで取っておくものだ」
俺は、不格好に
「ああ! なるほど」
彼女も気付いたようだ。
オプションの可変翼には、使い切り固形燃料が詰め込まれた
「
減速のためには空気抵抗を受ける面を出来るだけ大きくする必要があるので、この翼を最後まで残しておくという選択肢もあったが、もともと
もちろん、最大減速の前段階まで使い倒すという方法もある。それは、〈箱船〉のケツにくっ付いていた1分の間に考えた。だが、そこまで翼が保つのかというのと、その段階まで引っ張った挙げ句、着脱装置が壊れて切り離し不能になるという可能性もあった。壊れた状態でくっ付いたままでは、逆に操縦がし辛くなる。ここは潔く切り捨てる判断をした。
「まだ減速が足りない──あと少し」
御影恭子の報告と共に、上部モニターには予測軌道が描かれる。先ほどよりは軌道高度は落ちたが、まだまだ速度は速い。さらに減速しなければ宇宙へ逆戻りだ。同時に表示されていた〈箱船〉の軌道は、金星の大気圏を既に脱しつつある。
ちなみに、進入角度が浅いと水切り石のように大気圏で弾かれ、宇宙へ再び放り出される──というのは良くある誤解で、実際は、減速が足りないまま大気上層をほぼ直進し、地球の丸みのために再び宇宙へ出てしまうというのが正しい。だから、大気中にいる間に更なる減速を試みねばならない。そして今が、通過する大気の最下層に近い位置だ。
俺は、
「姫島、湊川、魚崎。少々揺れるぞ」
今更ながらアナウンスをしてみる。
「
「
「…………」
「──魚崎はとっくに気絶してる、構わん」
姫島の補足を聴いた後、御影恭子に親指を立ててニカッと合図する。
「
御影恭子もニッと笑った。
「
──この
要するに、
本来なら、膨らみつつ軌道変更も可能な、
「ちょっ! 回転し過ぎ! 何とかならないの⁈」
──となる。
「
と、眉間にしわを寄せている御影恭子にうそぶく。この程度で
「お腹に力を入れて、小刻みに呼吸しろ。高Gもそれで凌げる」
「ひっ、ひっ、ふぅー」
「……いや、それじゃない」
──それでもいい気がしてきた。
* * *
不規則な回転で目が回る状態がしばらく続いた後、ようやく
問題なのは着陸ポイントだ。本来ならば、これから訪れる最大減速時──G最大、最大加熱時でもある──を乗り切った後、
引っ込めていた
「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは、
GPSのデータを読み上げるところだったが、コイツは当てに出来ないんだった。下手に言って混乱させては、逆に救助が遅くなる。
「──訳あって
「こちら〈レッド・ランタン〉。上沢少尉ですか?」
ノイズの中から、名指しでご指名。それも聞き慣れた声だ。
「み──、みのりちゃん⁈ どうしてそこに?」
みのりはまだ金星地表面付近でジタバタしている筈。一時間程度ではどうあがいても、近場の
「え? あ⁉ その話は後で。こちらで進路誘導します」
「分かった。だが、GPS装置が──」
「値は正常です」
「正常?」
言い切った。言い切りやがった。みのりがそう言うんだ。なら、間違いなかろう。
GPSが示す金星地表面からの高度はおよそ140キロメートル弱、空抜で80キロメートル程度だから、
さて、これから数分がG最大の山場だ。計算では5G、空力加熱は1500度にはなると出ている。温度的にはこの程度なら問題無い。超耐熱タイルだけでも何とかなる上に、
みのりの示した進路に添って進みつつ、左右にバンクを切りながら減速する。空抜70キロメートルでG最大。眼球だけ動かして右を見れば、御影恭子は先ほどの『ひっ、ひっ、ふぅー』を続けているようだ。ただ、振動と騒音で実際に声を発しているかどうかまでは聞き取れない。
空抜60キロメートルを切り、重力が3Gまで下がった段階で仰角を下げ、滑空体勢に移行する。白い雲が眼前にあるだけで、何も見えてはこない。〈レッド・ランタン〉もそうだが、大抵の空中都市は雲の中にある。見えないのが普通だ。だが、おかしい。視認出来ないのは良いとしても、〈レッド・ランタン〉にある
「みのりちゃん。〈レッド・ランタン〉の位置をこちらでは識別できない。進路は正しいか?」
「進路上に〈レッド・ランタン〉はありません」
「なんだって⁈」
おいおい。まさかの着陸拒否じゃないだろうな? そういえば、俺は人質を取って逃げているハイジャック犯ってことになっているし……。
──不安になってきた。
「そちらには〈ブーメラン〉が待機しています」
「〈ブーメラン〉だって?」
「はい」
「さすがに俺の腕でも〈ブーメラン〉の背中に〈ブラック・タートル〉を
既に
「はい。分かっています。
「それはどういう──」
前方に金属的な反射光が一瞬見えた。
『ミサイルか‼』
──と思った。回避のタイミングは既にない。やられた‼
* * *
結論から言うと、確かに
俺たちは今、〈ブラック・タートル〉ごと
何のことは無い。俺たちは、宇宙から降って来た彗星と同じ扱いを受けたのである。そして、曳航されながら〈レッド・ランタン〉に戻るまでの5時間。俺は何することも無く
──ま、その間は寝てたんだが、足が伸ばせない分、目覚めたら足がむくんで大変だった。
* * *
あれから2週間。俺は軍法会議での証言やら、
テストパイロットとして必要な資質の中で、最も重要なものは操縦技能ではない。機体やその周辺に起こったことを的確に把握・処理し、最終的な結果を正確に
事件に関わった人々からの様々な
連邦共和国の司令部と
事件の発端は〝遺跡〟の発見だ。これはみのりの──伊川軍曹の
ヴィーナス・アタックは主に研究目的で行われるのが建前で、その実、鉱物資源開発が真の目的であったりするわけだが、建前は建前として、そのスジの研究者が
共和国政府と財団は──内情は知らないが──別の組織であり、予算枠も全く違うから、財団が共和国政府の
ところが今回は、財団の方から自発的に
そして、実際に、我が隊の
もう、この段階で資源争いの臭いがプンプンするのだが、今回の事故報告書にはそのへんの話は含まれていない。もしかすると、もっと
共和国政府──とりわけ、RERCの〝遺跡〟に対する執着は強かった。ここからは完全に推測になるのだが、〝遺跡〟の存在というか役割に気付いたのは、最初に調査依頼の申請をしたその研究官だろう。彼らはおそらく、
〝遺跡〟の役割は、あちこちにある遺跡の欠片から分かった。みのりは確か、惑星科学関係の雑誌か何かに載ってたとか言っていた気がする。調べたわけではいないが、RERCの研究官もこの研究に関わっていたのだろう。完全な形での〝遺跡〟の場所や規模は分からない。いや、そもそも本当に存在するのか否かも分からない。だから、金星中を調べ回った。そして見つかったのが、
だが、この情報はRERCの中枢──共和国政府の中枢には届かなかった。現地の駐在部隊──例のむっつりスケベの
要するに──だ。あの時、ソーニャが尋問すべき相手は、何にも知らなかった俺じゃなくて、隣にいた身内の
つまり、RERC組織の
──いやいや、RERCの
で、その内容は──って言うと、俺たち下っ端には開示されていない。だが、たかが一地方のRERC駐在部隊が
そして、
この行動は軍規に基づいても間違っておらず、軍法会議でも何ら罪に問われることは無かった。
ついでに言うと、俺の〝ハイジャック〟の件もウヤムヤのまま処理されることになった。今回のことは、全て事件ではなく事故──上層部はそういう事で話を進めようとしている。仮に、俺の件を事件として扱うと、部外者を呼んで聴聞会を開かねばならず、そこで俺が何を言うか分からないという懸念があったらしい。何しろ正直者の上に馬鹿が付く程だからなぁ、俺は。これはこれで良かったのか悪かったのか分からんが、まあ良かったと言うことにしておこう。
自らの罪がご破算になり、つかの間ホッとした後、俺は、
そうそう。この点は、話を知ってそうな姫島にも訊いてみた。だが、姫島は『〝遺跡〟に近づくヤツがいれば阻止しろ。ただし、〈レッド・ランタン〉を含め、上空の奴らに気取られるな』という命令しか受けていなかった。だから、俺たちのことを──同じ部隊だというのに! ──完全に敵と認識していた。姫島が、
同様に湊川にも話を訊いてみたが、アイツは『俺は人類初の超光速宇宙船の
だが、残念な事に、人類で始めて超光速船を
そう言えば、〈スキップジャック〉が宇宙船のエンジンだったと正しく認識していた人物は、以外に少ない。共和国政府はもちろん、例のむっつりスケベの
それにしても
今回のヴィーナス・アタックの裏で何が起きていたのか? 何の目的があったのか? 俺が理解出来たのはこのくらいだ。これでもほんの一部だろうが、それでも頭が痛くなる。
さて、頭が痛くなる知略・謀略はこのくらいにして、では、金星地表面で〈スキップジャック〉が作動した時、一体何が起きたのかも説明しておこう。〈スキップジャック〉の中の俺たちは、その爆心地に居ながら──いや、爆心地に居たが故に、何が起きたかを正確に把握できていない。外から見ていた
──とはいっても、ほんの一瞬の出来事だ。俺たちが宇宙で見たような、少し暗めの透明な球が一瞬で広がる。周囲に居た他の
ちなみに、〈箱船〉は金星の外大気をかすめた後、金星とほぼ同じ長軸軌道を持つ人工惑星になった。調査隊も向かったが、
その原始宇宙はどうなったか? どう処分したのかは、魚崎の
さてさて。では、そもそもの諸悪の原因となった〝遺跡〟とは何だったのか?
〈レッド・ランタン〉に戻った翌日。実際には4日後になるが、俺は湊川に一枚の写真を見せられた。
「なんじゃこりゃ⁉」
「〝パエトーン・コロナ〟と命名されるだろうな」
「コロナって……あのコロナか?」
〈箱船〉があった入り江は跡形も無かった。それどころか、手前の切り立った断崖すら消えていた。代わりに、半径30キロメートルはある円形の丘──金星特有の円形状の丘が出来ていた。〈箱船〉が跳び上がった後、ここには巨大な円形状の
これは魚崎の立てた仮説だが、〝遺跡〟はまさしく、外宇宙へ飛び立つための宇宙船の燃料庫であり、その宇宙船の発射痕がコロナなのだと……。つまり、かつて金星には金星人が住んでおり、今から5億年前、彼らは故郷を捨てて何処かに行ってしまったのだという。金星の地表は5億年より前の古い地層が露出した場所がほとんどない。金星人の移住計画が、金星の地表面を、ことごとくマグマの海にしまったのではないかという仮説だ。
『そんなアホな!』と切り捨てるのは容易い。だが、5億年前に何らかの天変地異が金星全体で同時多発的に生じて、今の状態になった──と考えるのも、また同様に不自然な仮説である事に変わりはない。
「じゃあ、その金星人とやらは何処に行ったんだ?」
「あんなものを操れる連中だ。銀河系全体に広がっているだろうよ」
──確かに、金星最大の
ひとつ言えるのは、残された〝遺跡〟はあれが最後だったということだ。地下深くに埋まっている〝遺跡〟とかあれば話は別だが、再実験を行う機会は永遠に失われたことになる。もともとが他人──金星人──の置き土産なのだから、そんなものあてにせず、人類が自力でモノポールを作り、貯蔵出来る技術が発達するまで、追実験は出来ないって方が健全だろう。
争いの種は泡と消えた。これで良かったのだ。
* * *
──さらに1週間後。3ヶ月に一度の
「オメーも一緒に帰りたいんじゃねぇのか?」
隣の湊川が、
「言っとくがな──。俺は手は出しとらんぞ」
「分かった、分かった。そういうことにしておこう」
「勝手に納得するな!」
手を出していないのは本当だ。正確に言うと、手を出しているような暇が無かったと言うべきか? 仕事で付き合うには、御影恭子のような、何をやらかすか分からん相手は困り者だが、プライベートなら話は別だ。彼女が帰ってしまうのも、ある意味残念ではある。ついでに、魚崎なんとかも、役目が終わって帰るようだが、こっちは全く無問題だ。とっとと帰ってくれ。
衛星軌道上にある
「さてと……」
俺は、自分に言い聞かせるように
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