第4章 降 下
高度30キロメートル。地球上ならば成層圏に位置し、漆黒の天空と、青く、そして地球の球たる丸みを感じ取ることができる高度だが、金星の場合は全く事情が異なっている。地表には海が無く、玄武岩質の黒々とした大地が広がり、空は黄味がかった乳白色の雲で覆われ、地球の2倍に輝いて見える筈の太陽など、影も形も見ることが出来ない。そして、最大の違和感は、地表が丸く見えないこと──いや、それどころか、中華鍋の底のように、上向きに湾曲しているようにすら見える。これは目の錯覚などではない。地表に近づけば近づくほど、この違和感は増していく。金星の地表面を『地獄の釜の底』と呼ぶのは、その熱さからだけではなく、実際に地の底──四方を囲まれた丸い盆地──に降り立ったように見えるからだ。その異常な光景の原因は、最大で90気圧にもなる外気にある。
金星に限らず惑星の大気は、下に行くほど圧縮され密度が増す。大気が上から積み重なっているからだ。大気が濃いとそこを通過する光の速度が遅くなる。つまり、上空より地表近くの方が光速が遅い。すると、光が水中に入る時に屈折する原理と同様に、宇宙からやってきた太陽の光は屈折して地表に届く。
──な~んて話をされても訳が分からん。金星に向かう
大気差と呼ばれる現象で、地球上でも地平線は太陽一個分程度は浮き上がって見えているらしい。朝日や夕陽が横に扁平に見えてしまうのもそのせいだ。金星ではこれがもっと極端な形で起こる。惑星の丸みを帳消しにし、凸を凹にしてしまうほど、光をひん曲げてしまう。地表に立てば、地平線は水平より5度上にある。およそ太陽10個分の高さの位置に地平線が来るから、四方を囲まれた盆地に降りてしまったと錯覚しても無理はない。
さらに、地平線周辺の風景は常時蜃気楼が出ているような状態で、理論的には金星の裏側からの光さえやってくる。特に太陽が地平線付近にある時は異様な光景となる。太陽自身は厚い硫酸雲のため輪郭すら見ることはできないが、光の帯は見ることができる。太陽の像は極端に上下に圧縮され帯になるのだ。また、真夜中の状態でも、360度の地平線上に光の帯がうっすらと見える──らしい。
金星の一日は地球時間で言うと117日にも相当するため、数日程度の滞在なら、太陽の位置はほとんど変化しない。昼間ならずっと昼間、夜中ならずっと夜中だ。幸いなことに、〝遺跡〟のある降下ポイントは昼間。地球時間でいうところの、15時頃に相当する。曇天時の地球よりは薄暗いが、
ああ、そうだ。一カ所、高度12.5キロメートル付近に放電霧があるとか言う──。
「はい。その放電霧へ
「放電霧を使うって、どういうこと?」
みのりの言葉に御影恭子が突っ込みを入れる。悪いが、俺は〈ブラック・タートル〉の操縦だけで手一杯。そちらの話に加わることができない。
〝遺跡〟がある
俺は、金星表面の
「金星の地表は鉛が溶けるほどの高温です。だから、金属塩が蒸気として漂っているんです」
「硫酸塩が蒸気になっていることはありえるわね……」
「はい。金属塩は高誘電体なので、レーダー波などを攪乱するんです。さらに、降下中の機体が過飽和状態の放電霧に突入すると、金属塩が機体に張り付いて、無線を含む一切の電波発信機器が使用不能になるんです」
「そ、それって言うのは──」
いやいや、それはヤバいだろ。つい口が出る。
「──
硫酸雨の中を降下する時の擬似的な
「大丈夫です。地表面に近づくと急速に温度が上がるので、すぐ蒸発します。操作系統への影響はありません」
「しかし、そんな話は聞いたことが無い!」
俺は機体を制御するのに必死で、振り向いてみのりの顔を見ている暇はなかった。
「急降下する機体だけに発生するんです。〈マンタ・レイ〉や〈ブーメラン〉では降下速度が遅くて全く問題になりません。今回みたいな高々度からの降下は想定外でしたから……」
「──で、
御影恭子が割り込む。
「
ふむ。確かにそんなこと言っていたな。こっちは今、それどころじゃないが。
高度は地上20キロメートルまで降下。気温300℃、20気圧を越えたあたりから、機体の動きが安定してくる。大気が濃厚になった所為なのか、はたまた、俺が操縦に慣れたのかはよく分からない。水平距離は大方稼げたので、後は着地の心配だけだ。目標地点である〝遺跡〟とそこにあると言う〈箱船〉は、依然として崖の向こう側に姿を隠しており、確認することはできない。そろそろ
多少は振り向く余裕ができたので、後ろのみのりちゃんを覗くと、今度は彼女の方が正念場だった。
「電磁波攪乱の時間は? 一分ほど?」
「いえ、20秒──、いや、現在の降下角度から見て15秒程度だと……」
「姫島。聞いていたか?」
「ああ。聞こえている」
「電文の内容は何と送ればいい?」
「そいつは任せる。
「何だ?」
「──十数秒間は
「視認の方は分かりませんが、電波系統は
みのりが答える。
「それならば話が早い。
「何をする気だ?」
「決まっているだろ。撃ち落とすんだよ」
姫島の不気味な微笑みが見えるようだった。撃ち落とすんなら、『
「おいおい──」
俺としては撃ち落とそうが何しようが、それが命令の一環なら口を挟むつもりは無い。だが、ひとつ確かめたいことがあった。
「──彼らは
「
「んん?」
「援護隊でも奇襲隊でも、
「どういうことだ?」
「詳しく説明している暇はない。ここを開けろ。でなければ後方非常扉を強制的に排除するぞ」
姫島ならやりかねない。──が、『排除するぞ!』と先に警告してくれるだけマシってもんだ。御影恭子は予告無くキャノピーを吹き飛ばしたからな。
「今開ける。だが、
「20気圧からは外気圧と連動させている。ハッチ開閉に支障はないわ」
そうだった。与圧システムの操作をしていたのは御影恭子だった。彼女が指し示す数値を確認して、
姫島らが
俺なんか、危機が迫っていることさえ
放電霧の高度には、言われてみればそれらしいかすかなベールがある。その昔、南極上空を飛行中に見たことのある
いや、
「
とのみのりの声とほぼ同時に、
「なんてヤツだ!」
姫島のうめくようなつぶやきが聞こえる。そうこうしているうちに、
直後に──おそらく、姫島らは第二弾のミサイル照準を合わせている時に──予期せぬ短距離通信がやってくる。
「
みのりが緊張した声で伝える。
「中身は?」
「それが──、暗号電文で解読出来ません……」
「なに?」
「こちらで解読した──」
姫島の声だった。
「──攻撃は中止だ。
姫島は更に付け加えた。
「電文は本作戦専用の暗号だ。お前達では解読できない」
「それは……、我が隊──
「そういうことだ。時期がくればいずれ分かる」
* * *
「どう思う?」
2者間の秘匿回線を使い、みのりに話しかける。高度は地上18キロメートル。大地はますます湾曲し、包まれているような感覚になってくる。御影恭子は何か気になるのか、
「何がですか?」
「姫島の行動だ。姫島が
「分かりません──」
みのりの答えは単純明快だった。
「──分かりませんが、姫島軍曹は、
「それは──、それは確かにそうだな」
姫島ら
彼らが本当に
最大望遠で見る限り、相手は最新の
単機であっても、防護力の無い飛行船モドキである〈マンタ・レイ〉を航行不能にすることは出来る。仮にそれが目的だとしても、
──となれば、敵サンの目的は〝遺跡〟への奇襲ではなく
状況証拠はそうであるのに、何故に姫島軍曹は気づかれてもいい警告を発しないのか?
「この作戦は、我々──我が隊の残留部隊にとっても秘密なのか?
「分かりません。でも、そう考えるのが一番しっくりくるような……」
普段はハキハキしているみのりちゃんが、どうも歯切れが悪い。御影恭子は
「で──、」
秘匿回線を通常回線に戻し、俺は続ける。
「──俺は……俺たちはどう進めば良いんだ?
みのりは
「直進しましょう。
「
「それはそうですが、姫島軍曹は『奴らに追いつく』ために〈ブラック・タートル〉に乗ったんです。最短ルートで〈箱船〉に向かった方が賢明だと思います」
そうだな。俺としても装甲
「姫島? それでいいのか?」
「好きにしろ。俺たちの任は解かれた」
姫島は幾分、ふてくされ気味である。
「そう──なのか?」
「ああ」
それでいいなら最短で行かせてもらう。別ルートを選定をする手間が省ける。
「あっ、と、それより先に──」
と、みのりが話を切り替える。
「〈ブラック・タートル〉も放電霧に突入します。念のため、アンテナ類の通電を遮断した方が良いと思います」
「盛大に放電したりするのか? ショートするくらいに?」
「放電はしますけど、壊れることはまずありません。金星仕様ですし」
「金属塩ってのは何だ?
「違います。金属片そのものじゃありません。金属塩
「
「はい。塩化ナトリウムですから……」
後から聞いた話だが、本当に塩──塩化ナトリウム──が漂っているわけではないらしい。みのり曰く『塩化ナトリウムの融点は800度、沸点は1413度です。金星の気温は低過ぎます』とのことだ。確かに460度じゃあ〝低過ぎる〟かも知れない。実際には
ついでに、金星仕様というのも説明しておかねばなるまい。地球と金星の大気組成で圧倒的に異なっているのは水の存在だ。正確に言えば、酸素は二酸化炭素という形で大量にあるから、水素が圧倒的に足りない。この宇宙で一番多く、普遍的にそこらじゅうある物質の筈なのに、何故か金星にはこいつが足りない。だから、金星では水は貴重で、彗星を受け止める〝水汲み作戦〟が、新入りの最初の仕事になる。これが出来なきゃ『お前は役に立たん!』という烙印を押される。──少なくともパイロットは。
大気中に水蒸気が全くと言っていいほどない──分かり易く言えば、湿度が0という大気中で飛行した場合、航空機と大気との摩擦で発生した静電気は逃げ場がない。冬場の静電気のように、年がら年中帯電している状態だ。この状態は非常に良くない。危険回避と言うよりは無線通信機器の物理的障害と電波障害を防ぐため、常に空中に放電させておく必要がある。そのために
「みのり……、FSDは最大にするのか、それとも──」
「全てオフです! DBD-PAも切って下さい」
こっちの意図することはお見通しだった。──って言うか、オプション翼に装備されている|誘電体障壁プラズマ駆動《DBD-PA: Dielectric Barrier Discharge Plasma Actuator》装置については常時オンなので完全に見落としていた。危ない、危ない。通信機器は全てシャットダウンし、念のため
あれ? この話はみのりから聞いたんじゃ無かったかな? ──まあいい。とりあえず今問題なのは、無動力だと操縦輪がかなり重くなるという点だ。もっとも、急旋回でもしない限りは何とかなる。戦闘中なら生死に関わる問題だが、今はひたすら直進コースなので問題は無い。
高度は残り13キロメートル。外気は40気圧に達しており、
「おっ⁉」
電力系統が切れて静かになった時、そいつは唐突に現れた。視界の狭い
「セントエルモの火──だな……」
悪天時や火山灰の中を飛ぶと見られるコロナ放電。何度か経験したことはあるが、点火し損ねの小型核融合炉プラズマ放電みたいにチョロチョロした炎しか見たことが無く、こんなに大規模で広範囲に及ぶ放電は早々出会えるものではなかった。だが、それも唐突に終わる。
「あっ!」
炎の洗礼を受け、
「どうした?」
「えっ? あっ、はい……
「
「こちらの警告が役に立ったようだな」
「えっ? ええ……」
みのりは浮かない顔である。そりゃそうか。姫島は
──と、みのりに何か話しかけようとした矢先だ。
「このおぉぉっ!」
反射的に操縦輪を引き上げる。が、とてつもなく重い。一生の不覚だった。
ここで機体が破壊されたら誰も生き残れないだろう──いや、
機体後部で爆発音と振動。異常を知らせる別の
──ん? 舵が──効いている? 火球と共に金属片?
冷静さが戻って来た。時間にして2秒ほどだろうか? 眼前にあった陸地は見えず、放射霧と思われる薄いベールを通して雲が見える。おもちゃのような〈ブラック・タートル〉の耐Gスーツの
いや、相手の方が
気を取り直し、直後に操縦輪を押し込んで
「姫島ぁ‼ 状況は⁈」
「初弾はかわした」
インカム越しに姫島の普段通りの声が聞こえる。流石だ。
「
後ろを振り向く余裕は無かったが、目玉だけ動かして横を見ると、御影恭子は必死の形相でGに耐えていた。写真を撮りたいくらいに。この調子だとみのりは──
「もっ、もう──」
失神しているかと思いきや、後部座席でちゃんと生きていた。
「──もう一機……居たんですね」
それでも息絶え絶えの様子だ。俺もこの程度の機首上げで、ここまで強力に減速するとは考えていなかった。いや、頭では分かっていたし、
重力落下に合わせてグライダーのように──〝ように〟ではなく、事実、エンジンの無いグライダーなのだが──落下して行くだけならあまり感じない大気の濃密さも、機体が少し持ち上がるだけで異常な空気抵抗を示す。水中のように粘度があるなら、直進時でもそれなりに感じ取ることができるが、液体とは違い、滑空だけなら地球上での飛行とそれほど変化を感じられない。〝水汲み作戦〟の時と違い──もちろん、火星や宇宙空間での
機体は、
──それは、ともかく。
「くそったれぇ‼」
ともかく俺はムカついていた。敵はこちらが放電霧で耳を塞いでいる時にミサイルを撃って来たに違いない。おそらくこちらの戦法を見ていたのだろう。既に
状況は最悪だった。敵機は後方3キロメートル上空にあり、こっちをピタリとマークしている。不覚にも、いつから忍び寄って来ていたのか、皆目見当がつかない。
敵機は──いや、敵機と言っているが、今回の相手は
機影を見る限り、先行した
そして、そのRERC機はこちらにどんどんと近づいて来ている。相手が速度を上げたというより、こちらが急激な
〈ブラック・タートル〉の滑空比は5程度だから、グライダーではなく〝空飛ぶ
直進コースなら〝遺跡〟到着はこちらの方が早い──とも言い切れない。もしも、崖向こうまで高度が保てず、手前に降りることになれば、後は車輪でのたのたと移動しなければならない。当然崖越えは出来ないから迂回することになり、迂回飛行コースよりも時間がかかるだろう。さてどうしたものか? 〝急がば回れ〟か〝
──悩んだようなフリをしているが、実は全然悩んでいない。直進あるのみだ。相手はいつ二発目のミサイルを打ち込んでくるか分からない連中だ。今は奴らが放電霧に突っ込むタイミングだから攻撃はすぐには無い。本来ならばお返しに
回避行動を取るには予め速力が必要で、そうなると、高度を保ちながら迂回するなんてことは最初から不可能だ。ミサイルが当たらずとも、もう一度回避行動を取れば、どのみち崖手前に降りるしか手段が無い。逆に、地面に降りれば岩場に隠れつつ
とりあえず今は──
「姫島。撃てるか?」
──と、聞いてみる。対抗できる火力を持っているのは彼ら
だが、返って来た回答は意外なものだった。
「はっはぁ。好戦的な奴だな。我々は平和的に解決するつもりだ。杭瀬が彼らと通信をしている」
「通信?」
さっきミサイルをぶっ放した奴の言葉とは思えん。そうでなくとも、『装甲
それ以上に通信というのが解せぬ。
「電波は出ていない筈だが?」
「投光機による発光信号だ」
「投光機? 投降するつもりか?」
──皮肉を入れてみる。
「そうじゃない。誤解を解きたくてな……」
「誤解?」
「そうだ。『我々は敵じゃない』──ということを伝えている」
「…………」
妙なことを言う奴だ。確かに俺たちは敵じゃない。誰かを攻撃するためにここまで来たわけじゃない。だが、不意打ちで先に撃って来たのはあっちだ。誤解もへったくれもあるか!
──いや、そうじゃないか。先行した
「誤解は解けたようだ」
姫島の声が響く。
「
だけだ。『•••―•』すらない。
もう少し正確に言うとそれだけではなく、機体を左右に揺らしてこちらの要請に答えているように見える。拍子抜けだが平和的に解決できたのであればそれが一番だ。俺たちは──いや、俺は、
もっとも、
──というか、それしか帰る手段はあるまい。RERCの
* * *
高度一万メートルを切ると、もうそこは死地だ。元来、金星には地上30キロメートルより上の硫酸雲の中を漂っている菌類しかいないが、そこから外れて下まで降りてくる奴もいる。これがすぐ死ぬかと思えば、以外としぶとい。地球の深海でも、海底火山の周辺の熱水鉱床には
金星では、さらに
オーブンで焼いても天婦羅にしても死なない程の、熱に対して抜群の耐性を持つ金星の菌も、高度一万メートル以下の400度を超える高温になるとお手上げらしく、これまでに生きたまま採取された菌は皆無だ。もちろん、〝まだ発見されていない〟
一体全体、『こんな研究をして何の役に立つんだ』と俺なんかは思ってしまうが、そいつを言い始めると、そういう研究者を守ることが主目的である俺たちの金星勤務が空しくなるので、考えないことにしている。まあ、百年後、二百年後に役に立てば良い。いや、実利に役立たなくてもそれはそれで良いじゃないかとさえ思う。俺だって『何故いつも空を飛んでいるのか?』と問われれば、任務とか使命とか口では言うが、ぶっちゃけ、楽しいからだ。それでいいじゃないか。
高度八千メートル。金星最大の
後ろのRERC機は迂回するコースを取るらしく、左へ回頭して行った。姫島はどうやって彼らを丸め込んだのかサッパリ分からんが、向こうで合流すれば分かることだ。俺は愚直に直進で行く。わざわざ時間をかけて回り込む必要は無い。また、RERC機の形状から推測すると、その機体の滑空比は〈ブラック・タートル〉に比べれば明らかに大きい。こっちが空飛ぶ
問題は崖越えだ。超えられないというのじゃない。超えた後が問題だ。
「みのりちゃん。崖の先はどうなっている?」
「で、ですから、みのりちゃんと言うのは──」
「えっ?」
「──いえ。なんでもありません。その先は高度差400メートルほどの断崖です」
崖の場所は
で、我々は、
例の〝遺跡〟は、断崖直下ではなく、そこからさらに数百メートル沖合にある。みのりが回してくれた
似たようなものをどこかで見たことがあるなと考え、火星で有名な
まあ、火星の話はともかくとして──。
で、肝心の金星のそれは、確かに何らかの意味がありそうな立方体だった。目や口に相当する凸凹が無いだけ逆にリアルに人工物っぽい。ただ、火星のものと比べサイズが小さい。200メートル四方だから、クフ王のピラミッドより少し小さいくらいだろうか? 高さは低く、20~30メートルというところだ。翼幅1キロメートルに近い〈マンタ・レイ〉の方が桁違いにデカイ筈だが、ここからまだその巨体が見えないことを考えると、崖と〝遺跡〟の間にすっぽりと収まっているのかも知れない。〝遺跡〟の向こう側にいるのなら、望遠で見えてもおかしくない位置関係だ。
「不思議なモンだな。こんなものが最近になって発見されたのか……」
「最近じゃありません」
俺のひとり言にみのりちゃんが反応する。
「えっ? それなら何故、今頃調査をするんだ?」
「半世紀前の
「自然にこんなものが出来るのか?」
「はい。マグマが冷えて固まった時にできる
「ふーん。火星の
「火星──ですか? それはちょっと調べて見ないと……」
「ああ、いい。気にしないでくれ」
なるほど──、地表に剥き出しの〝遺跡〟が今頃発見されるのは妙だとは思っていたのだが、自然にできる地形と見分けが付かない代物だったわけだ。そういうことなら仕方が無い。
ここにきて、
大気はいよいよ濃密で、既に60気圧に迫っているが、気圧の絶対量もさることながら、高低差による気圧勾配の大きさが地球とは比べ物にならない。この段階で、降下速度が速くて機体角度が浅い場合は、水面を飛ぶ水切り石のように跳ねてしまうことすらありそうだ。
幸か不幸か、一度
──いや、
* * *
高度六千メートルを切った段階で、地表面の
今のところ、降り立つべき崖向こうは残念ながらレーザーが届かないが、とりあえず、もしもの時の測量をしておいても損はない。転ばぬ先の杖だ。それに、こいつは地表面の情報だけでなく、途中の大気状態や風向きも測ることができる。崖の形状はいきなりの断崖ではなく、崖の縁が少し盛り上がっている。
ふむ。と言うことは……。
「ちょっとだけ進路変更していいか?」
「これ以上、どんな冒険をするの?」
「最速降下を試みる」
「最速? この
「ええ。これ以外に崖向こうに最短で降りられる進入路はありません」
みのりちゃんまで、後ろから口を挟む。確かにみのりの指示は、衛星追尾型の
「最短ではあるが、最速ではないな。それに──」
御影恭子は眉間にしわを寄せたまま、みのりちゃんは心配顔だ。面白い。
「──単調でつまらん!」
そう言って、俺は
「えっ? 何をするんです?」
みのりちゃんが慌てた声を出す。大気による抵抗か、はたまた浮力の所為か、どちらにせよ濃密な大気の影響であることは間違い無さそうだが、これだけ傾けても
「なるほど……
怪訝そうな顔をしていた御影恭子は、手元の計器類と
「でも、崖向こうは
「
言ってから気付いた。御影恭子は学者だった。
ボーラの方は聞いたことがある。アルプス越えでアドリア海やスロベニアの街に吹き込む寒冷なおろし風だ。そう言えば、コイツはあっちの方の出身だったんだっけか?
で、吹き下ろしで急激に落ちた風は、確かにその後ジャンプする。俺も南極で何度か見たことがある。あっちは地吹雪でジャンプが視覚化されるから分かり易い。
だが、御影恭子の考えている
「あの先は崖だ。気流が壁面を伝って降りるには急過ぎる。普通の
「ん? ──じゃあどうなってるの?」
「崖裏で気流が剥離して逆向きの渦巻きを作ってる筈だ。そいつの後面に乗れば、更にその先の
「んん? 剥離した渦巻きが
「いやいや、そうじゃない。剥離した渦は
「いえ。分からないわ。でも──」
御影恭子はやれやれと言うあきれ顔をして付け加えた。
「──お任せするわ。好きにやって頂戴!」
「御影さん!」
みのりが慌てて制止に入るが……すまんな。今の俺の雇い主は御影恭子で、みのりちゃんは名目上は人質なのだ。
金星の風は上空に行くほど強い東風が常に吹いている。高度四千メートルを切ったこの地点では秒速数メートル程度の弱い風になってはいるが、大気密度が70倍も違うのだから、風速は弱くても、その風力は地球上の比ではない。また、降下時の感触から分かったことだが、地表付近の風の上昇・下降流は弱く、コンパクトにまとまっている。弱いというよりは、のんびりしているというべきか。微小な
原理はよく分からん。
目の前にあるのは高々400メートルの断崖だが、地球上の換算すれば、これはアルプス越えの風に匹敵するのではないか? ──というのが、俺の推理、仮説だ。単なる妄想ではない。実際に
計器は既に地上三千メートルを示しているが、これは地表基準面からの高度で、崖上までの高度は千メートルを切っている。この高度で高速飛行をすると、翼端の負圧部分で極まれにオレンジ色の
まさか『
──ドミソは鳴らなかったな。
「このままだと、崖上面に
みのりちゃんが少し焦って、
「分かってる。だが、このままでも山越え気流と
「そう──なんですか?」
懐疑的というより、単に不安なだけという顔だ。まあ、それはそうだろう。通常、人は直線的にモノを見るように出来ている。自分の進むべき先に地面があればどうしても機首を上げたくなる。エンジンの付いた航空機ならそれでいいが、グライダーでは逆に
御影恭子に聞いてみる。
「崖上からの高度は?」
「920」
「崖までの距離は?」
「5000」
即答したところを見ると、とりあえずはこの状況を気にはしているようだ。もちろん、俺も計器は見ているからこの事実は分かっているのだが、彼女の意見も聞いてみたい。
「どう思う?」
「どう思うって? うーん、何とか越えられるんじゃない? 少しお腹を
「擦ったら困るだろ」
「──ええそうね。そのまま崖下に真っ逆さまだから、逆に手前に
「ええっ! そんなぁ‼」
みのりちゃんの顔がますます青くなる。もうちょっとからかって見るか。
「このまま墜落だと
「故意にやったと見なされてテロ扱いかもね。あなた──今はハイジャック犯だから。公式には」
「はっはっは。そうだったなぁ」
「笑いごとじゃありません‼」
御影恭子が話を合わせて来たのは意外で面白かったが、さすがにこれ以上やるとみのりちゃんが可哀想だ。──っていうか、既にキレ気味ですらある。一度キレたところを生で見てみたい気もするが、『みのりちゃんは仕事中は真面目すぎて結構怖い』というのは周知の事実なので、第三者的立場で噂を聞いてる程度が丁度いいのだろう。当事者にはなりたくないしな。
「すまん、すまん。大丈夫だみのりちゃん。翼の揚力ってのは速度の二乗と大気密度に比例するんだ。降下のお陰で速度は充分だし──、外の大気密度は説明する必要ないな」
「えっ? ええ……」
「〈レッド・ランタン〉や
「そんなもの──ですか?」
「そんなものだ。おまけに〈ブラック・タートル〉に取り付けてある使い捨ての可変翼には、ご丁寧にも
「は……はぁ」
「だから大丈夫。崖上10メートルを切ることはない。俺を信じろ」
「……分かりました」
本当に納得したかどうかは分からないが、それでみのりはおとなしくなった。別に色々有ること無いこと並べ立てて誤摩化したわけじゃない。全て本当のことだ。
──が、本当に難しいのは崖越えの後なんだけど、それはあえて言うまい。いずれ分かることだ。
事実、
「崖──越えます」
みのりが安堵の声で地形図を見る。
「
「いや、まだだ。崖下の気流が読み切れてない。
俺と御影恭子はその先を見ている。結局、崖越えまで例の〝遺跡〟は見えずじまいだ。
さて、ジェットコースターは昇り切った。お楽しみはこれからだ。
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