第4章 降 下

高度30キロメートル。地球上ならば成層圏に位置し、漆黒の天空と、青く、そして地球の球たる丸みを感じ取ることができる高度だが、金星の場合は全く事情が異なっている。地表には海が無く、玄武岩質の黒々とした大地が広がり、空は黄味がかった乳白色の雲で覆われ、地球の2倍に輝いて見える筈の太陽など、影も形も見ることが出来ない。そして、最大の違和感は、地表が丸く見えないこと──いや、それどころか、中華鍋の底のように、上向きに湾曲しているようにすら見える。これは目の錯覚などではない。地表に近づけば近づくほど、この違和感は増していく。金星の地表面を『地獄の釜の底』と呼ぶのは、その熱さからだけではなく、実際に地の底──四方を囲まれた丸い盆地──に降り立ったように見えるからだ。その異常な光景の原因は、最大で90気圧にもなる外気にある。

金星に限らず惑星の大気は、下に行くほど圧縮され密度が増す。大気が上から積み重なっているからだ。大気が濃いとそこを通過する光の速度が遅くなる。つまり、上空より地表近くの方が光速が遅い。すると、光が水中に入る時に屈折する原理と同様に、宇宙からやってきた太陽の光は屈折して地表に届く。


──な~んて話をされても訳が分からん。金星に向かう軌道間輸送船OTVの中。到着直前のに、睡眠学習のような講義で無理矢理詰め込まれた、有り難い知識のひとつだ。結局、どういうことだと聞くと、何のことはない。『地平線が浮き上がって見える』ということだ。

大気差と呼ばれる現象で、地球上でも地平線は太陽一個分程度は浮き上がって見えているらしい。朝日や夕陽が横に扁平に見えてしまうのもそのせいだ。金星ではこれがもっと極端な形で起こる。惑星の丸みを帳消しにし、凸を凹にしてしまうほど、光をひん曲げてしまう。地表に立てば、地平線は水平より5度上にある。およそ太陽10個分の高さの位置に地平線が来るから、四方を囲まれた盆地に降りてしまったと錯覚しても無理はない。

さらに、地平線周辺の風景は常時蜃気楼が出ているような状態で、理論的には金星の裏側からの光さえやってくる。特に太陽が地平線付近にある時は異様な光景となる。太陽自身は厚い硫酸雲のため輪郭すら見ることはできないが、は見ることができる。太陽の像は極端に上下に圧縮され帯になるのだ。また、真夜中の状態でも、360度の地平線上に光の帯がうっすらと見える──らしい。

金星の一日は地球時間で言うと117日にも相当するため、数日程度の滞在なら、太陽の位置はほとんど変化しない。昼間ならずっと昼間、夜中ならずっと夜中だ。幸いなことに、〝遺跡〟のある降下ポイントは昼間。地球時間でいうところの、15時頃に相当する。曇天時の地球よりは薄暗いが、有視界飛行VFR: Visual Flight Rulesが困難なほどではない。また、高度30キロメートル以下は雲らしい雲もないので、視程もそれなりに良好で、常に有視界気象状態VMC: Visual Metrorogical Conditionを満たしている。

ああ、そうだ。一カ所、高度12.5キロメートル付近に放電霧があるとか言う──。


「はい。その放電霧へ未確認機アンノーンが突入する時を狙うんです」

「放電霧を使うって、どういうこと?」

みのりの言葉に御影恭子が突っ込みを入れる。悪いが、俺は〈ブラック・タートル〉の操縦だけで手一杯。そちらの話に加わることができない。

〝遺跡〟があるテルス島Tellus Islandまでの距離を縮めるべく、最良滑空比で〈ブラック・タートル〉飛ばそうとしつつ、しかしながら、スーパーローテーションの風に乗ることを考えればなるべく上空に留まった方が良いので、最小沈下率で進むべきかとか、考えること、見るべき計器類が山ほどある。加えて、〈ブラック・タートル〉は結構な暴れ馬だ。もともとが大気圏再突入機ARESだからなのか、気圧が高いと敏感に機体が揺れる。いや、この機体は、もっと低空──すなわち、70気圧以上の制御に最適化されているのかも知れず、それならば、気圧が低過ぎることになる。どちらにせよ、操縦が難しいことには変わりがない。シミュレーションでは70気圧以上の低高度の場面しか練習してないから、そこまでは感のみで何とか切り抜けるしかない。

俺は、金星表面のテセラTesseraと呼ばれる地形を目で追いながら、降下ポイントを見失わないように、何とか〈ブラック・タートル〉を飛ばしていた。未確認機アンノーンの位置と状態の確認はみのりが行い、機体状態のチェックや貨物室カーゴルームの与圧確認は御影恭子の担当である。


「金星の地表は鉛が溶けるほどの高温です。だから、金属塩が蒸気として漂っているんです」

「硫酸塩が蒸気になっていることはありえるわね……」

「はい。金属塩は高誘電体なので、レーダー波などを攪乱するんです。さらに、降下中の機体が過飽和状態の放電霧に突入すると、金属塩が機体に張り付いて、無線を含む一切の電波発信機器が使用不能になるんです」

「そ、それって言うのは──」

いやいや、それはヤバいだろ。つい口が出る。

「──着氷アイシングと同じじゃないのか? 機体が重くなる。除氷装置Anti-icing Systemは無いのか?」

硫酸雨の中を降下する時の擬似的な着氷アイシングは知っていたが、地表付近で金属塩がくっ付くなどという現象が起こるとは、ついぞ聞いたことが──いや、確か金星の高山では黄鉄鉱の霜が降りるとか言っていたな。ともかく、それは重要な情報だぞ!

「大丈夫です。地表面に近づくと急速に温度が上がるので、すぐ蒸発します。操作系統への影響はありません」

「しかし、そんな話は聞いたことが無い!」

俺は機体を制御するのに必死で、振り向いてみのりの顔を見ている暇はなかった。

「急降下する機体だけに発生するんです。〈マンタ・レイ〉や〈ブーメラン〉では降下速度が遅くて全く問題になりません。今回みたいな高々度からの降下は想定外でしたから……」

「──で、未確認機アンノーンの放射霧突入時に何をするの?」

御影恭子が割り込む。

地表降下部隊アタッカーズ未確認機アンノーンが向かっているという警告を送信するんです。姫島軍曹がおっしゃってました。『未確認機アンノーンに気づかれずに送信する方法』が無いかって……」

ふむ。確かにそんなこと言っていたな。こっちは今、それどころじゃないが。


高度は地上20キロメートルまで降下。気温300℃、20気圧を越えたあたりから、機体の動きが安定してくる。大気が濃厚になった所為なのか、はたまた、俺が操縦に慣れたのかはよく分からない。水平距離は大方稼げたので、後は着地の心配だけだ。目標地点である〝遺跡〟とそこにあると言う〈箱船〉は、依然として崖の向こう側に姿を隠しており、確認することはできない。そろそろ接近アプローチの仕方を考えねばなるまい。

多少は振り向く余裕ができたので、後ろのみのりちゃんを覗くと、今度は彼女の方が正念場だった。未確認機アンノーンが放電霧の高度、12.5キロメートルに近づいている。仮に俺たちが〝遺跡〟を視認できる位置にいたならば、メーザー通信とかで未確認機アンノーンに知られずに送信できる筈だが、現実はそんなに甘くない。それに、実際に見通せる場所にあったとしても、メーザーの指向性ゆえ、地表降下部隊アタッカーズがそれに気付く可能性は低いだろう。敵に知られない通信──通信があったことすら知られてはいけない通信──というのは、敵のいる領域に電波が届かない通信というのが最適であるが、同時に受信側もピンポイントで聞き耳を立てていないと気づかない通信となってしまう。みのりが考えた方法は、敵がを狙って通信を完了させてしまおうというものだ。

「電磁波攪乱の時間は? 一分ほど?」

「いえ、20秒──、いや、現在の降下角度から見て15秒程度だと……」

「姫島。聞いていたか?」

操縦席コックピットの中の会話は有線で貨物室カーゴルームの姫島らまで聞こえている筈だ。

「ああ。聞こえている」

「電文の内容は何と送ればいい?」

「そいつは任せる。未確認機アンノーンの情報が地表降下部隊アタッカーズへ伝わるならどんな形態でもいい。それよりもだな──」

「何だ?」

「──十数秒間は未確認機アンノーンの目と耳が塞がれるのは確かなのか?」

「視認の方は分かりませんが、電波系統は遮断シャットダウンされます」

みのりが答える。

「それならば話が早い。貨物室カーゴルームを開けてくれ」

「何をする気だ?」

「決まっているだろ。撃ち落とすんだよ」

姫島の不気味な微笑みが見えるようだった。撃ち落とすんなら、『未確認機アンノーンに気付かれないように通信』とか、そんな小細工は全く必要ないだろ……。

「おいおい──」

俺としては撃ち落とそうが何しようが、それが命令の一環なら口を挟むつもりは無い。だが、ひとつ確かめたいことがあった。

「──彼らは地表降下部隊アタッカーズの援護隊か奇襲隊かのどちらかなんだろ? 確認しなくてもいいのか?」

地表降下部隊アタッカーズに対する援護や奇襲じゃない」

「んん?」

「援護隊でも奇襲隊でも、地表降下部隊アタッカーズにとってはどっちも敵だ。だが、安心しろ。信管は抜いてある。奴らを航行不能にするだけだ」

「どういうことだ?」

「詳しく説明している暇はない。ここを開けろ。でなければ後方非常扉を強制的に排除するぞ」

姫島ならやりかねない。──が、『排除するぞ!』と先に警告してくれるだけマシってもんだ。御影恭子は予告無くキャノピーを吹き飛ばしたからな。

「今開ける。だが、貨物室カーゴルームの与圧は大丈夫か?」

貨物室カーゴルーム可搬式減圧室Decompression Chambersになっていた筈だ。外気との圧力差が大きければ、それだけ危険が伴う。装甲服アーマードスーツを来ているとはいえ、無用なトラブルは避けたい。だが、答えが返って来たのは姫島からではなく、右隣からだった。

「20気圧からは外気圧と連動させている。ハッチ開閉に支障はないわ」

そうだった。与圧システムの操作をしていたのは御影恭子だった。彼女が指し示す数値を確認して、貨物室カーゴルーム後方の主扉を開ける。気流の流れが微妙に変わるが、操縦に支障が出る程ではない。カメラで確認すると、姫島と千船の2名が主扉左右から側面の手すりにワイヤーを絡めて上に出て行くのが見えた。杭瀬は待機である。あるいは我々の見張り役かも知れない。


姫島らが未確認機アンノーン狙撃の準備をしている間、みのりは、その未確認機アンノーンの位置情報や形状、降下推定経路などモニターに表示させながら、地表降下部隊アタッカーズへの送信のタイミングを見計らっていた。ギリギリまで情報収集すれば正確な情報となるが、送信時刻に間に合わねば意味がない。だからといって、早めにパッキングしてしまうと、有益な情報に成り得ない。事実、未確認機アンノーンは直進コースの崖越えを避けるように左側──10時の方向──へ旋回しつつあり、低地から迂回して接近しようとしているように見える。だが、〝遺跡〟確認後に進路を変えることも考えられるから、進入路はまだ分からない。もっとも、その〝遺跡〟がどんなモノなのか、俺は知らないのだが。

俺なんか、危機が迫っていることさえ地表降下部隊アタッカーズに伝えられれば、それだけで御の字なんじゃないかと考えるのだが、みのりちゃんはそれでは不満らしい。それに、姫島らが未確認機アンノーンを撃墜すれば──いや、撃墜出来なくとも、未確認機アンノーンはこちらの攻撃によって軌道コースを変えるだろうから、そんなに頑張っても意味ないんじゃないかと思う。まあ、この仕事は彼女のテリトリーだ。黙って見ていることにしよう。──って言うか、それ以上のことは何もできない。


放電霧の高度には、言われてみればそれらしいかすかなベールがある。その昔、南極上空を飛行中に見たことのある真珠母雲Mother of pearl cloudsのようでもあるが、あれより薄い。そして、何よりも綺麗ではない。南極のヤツは極低温で生じた雲だが、目の前に漂っているのは、高温で蒸発した金属塩なのだ。そのベールの中に未確認機アンノーンが突入した瞬間光った──ような気がしたが、錯覚だったかもしれない。光ったとしても極僅かだっただろう。みのりは間髪入れずデータ送信をする。もちろん、敵味方識別信号IFF: Identification Friend or Foe付きの暗号文。送信だけなら5秒あれば足りるが、自動応答装置トランスポンダからの返信が遅れれば未確認機アンノーンにも気づかれる。

いや、自動応答装置トランスポンダからの返信が遅れるのは問題にはならなかった。返信を傍受しようがしまいが、彼らは必ず我々に気付く。みのりの送信と共に、ミサイルが2本。白い軌跡を残しながら未確認機アンノーンに急接近していたからだ。未確認機アンノーンは距離にして約8キロメートル。装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSの射程ギリギリだが、〈ブラック・タートル〉の方が彼らより上空にいるため、届かないってことはないだろう。


自動応答装置トランスポンダからの応答来ました!」

とのみのりの声とほぼ同時に、未確認機アンノーンのモニターマークにかかっていた電波攪乱のサインが消える。ミサイルはあと少しで届くという段階で、未確認機アンノーンは急激な回避行動に出た。放電霧を抜けたとはいえ反応が早過ぎる。翼が折れるのではないかと思う程の機首上げ制動──コブラHarrier機動──をかけ、そのまま機体軸回転ローリングして2本のミサイルをやり過ごしたのだ。相手は戦闘機じゃない。言ってみれば、たかが硬めのグライダーだ。案の定、そのまま失速ストールしてお尻から落ちて行くが、ミサイルの方も旋回して戻るだけの燃料は残っていなかった。180度旋回した時点で力尽き落ちていく。

「なんてヤツだ!」

姫島のうめくようなつぶやきが聞こえる。そうこうしているうちに、未確認機アンノーンは失速の急降下で得た速度を逆に利用し、機首を前にして機体を立て直した。実に手際がいい。一体どんなヤツが操縦しているのか?

直後に──おそらく、姫島らは第二弾のミサイル照準を合わせている時に──予期せぬ短距離通信がやってくる。

地表降下部隊アタッカーズから──長田大尉からの電文です!」

みのりが緊張した声で伝える。

「中身は?」

「それが──、暗号電文で解読出来ません……」

「なに?」

「こちらで解読した──」

姫島の声だった。

「──攻撃は中止だ。貨物室カーゴルームに戻る」

姫島は更に付け加えた。

「電文は本作戦専用の暗号だ。お前達では解読できない」

「それは……、我が隊──北緯30度帯30 Degrees Northにも秘密なのか?」

「そういうことだ。時期がくればいずれ分かる」


        *  *  *


「どう思う?」

2者間の秘匿回線を使い、みのりに話しかける。高度は地上18キロメートル。大地はますます湾曲し、包まれているような感覚になってくる。御影恭子は何か気になるのか、未確認機アンノーンを目で追いながら、考えごとをしている風だった。

「何がですか?」

「姫島の行動だ。姫島が地表降下部隊アタッカーズ未確認機アンノーンの警告をするのは分かる。相手が何者か、何をするつもりなのか皆目分からないからな。だが、未確認機アンノーンだけでなく、俺たちにまで暗号を使わなければならない理由は何だ?」

「分かりません──」

みのりの答えは単純明快だった。

「──分かりませんが、姫島軍曹は、未確認機アンノーンにも、我々や〈レッド・ランタン〉にいる我が隊の仲間たちにもならば、いつでも発信できた筈なんです。浮遊基地フロート・ベースにいる時に……」

「それは──、それは確かにそうだな」


姫島ら装甲兵隊アーマードソルジャーは、浮遊基地フロート・ベースで〝遺跡〟に近づく機体を見張っていた。金星ここの共和国政府とアンモビックUNMOVICとか言う国連査察委員会のスパイを探しているとも話した。我々の嫌疑は晴れた──実際は分からない──が、未確認機アンノーンの〝遺跡〟への到達を阻止しようとした。

彼らが本当に前衛フォワードとして残っていたならば、未確認機アンノーンを確認した段階で、地表降下部隊アタッカーズへ警告すべきだ。この警告が未確認機アンノーンに傍受されたとしても、大きな問題はない。もちろん、そっと近づいて不意打ちで仕留めることが出来なくなるという戦術的不利益はある。だが、敵の戦力は小さい。奇襲を考えるよりは、こちらの戦力を示し、『戦わずして勝つ』のが一番だ。

最大望遠で見る限り、相手は最新の装甲兵員投降機APDと思われるが、単機であることに間違いは無いし、所詮は〈ブラック・タートル〉同様の降下専用小型機のたぐいである。兵員は操縦者も含めて10名程度だろう。フル装備だとしてもたかが知れている。そんな彼らが、後方の浮遊基地フロート・ベースに敵装甲兵アーマードソルジャー隊一分隊、前方の〝遺跡〟には二個分隊がいて、手ぐすね引いて待っていると知れば、そのまま突っ込んで行くとは思えない。

単機であっても、防護力の無い飛行船モドキである〈マンタ・レイ〉を航行不能にすることは出来る。仮にそれが目的だとしても、地表降下部隊アタッカーズは既に地上で展開されている頃合いだ。駐機中の輸送機を航行不能にしたところで戦力ダウンにはならない。逆に背水の陣で怒りを買い、ボコボコにされるのがオチである。

──となれば、敵サンの目的は〝遺跡〟への奇襲ではなく潜入任務Sneaking Missionと考えるのが妥当で、見つかったら作戦中止Mission Abortである。装甲兵アーマードソルジャー一分隊と、既に地上部隊を展開している二個分隊の計三個分隊対し、火力で圧倒するためには、最低一個中隊は欲しい。みのりはそのくらいのことは即座に気付いたのだろう。ならば『謀を伐つ』戦術に出れば良い。簡単に言ってしまえば、『手の内はバレているぞ!』と知らしめれば良いのだ。

状況証拠はそうであるのに、何故に姫島軍曹はを発しないのか? 潜入任務Sneaking Missionをご破算にするためなら、地表降下部隊アタッカーズに対してだけでなく、浮遊基地フロート・ベースから〈レッド・ランタン〉にいる我が隊に対しても情報が筒抜けだというアピールを大々的に行ってもいいくらいだ。


「この作戦は、我々──我が隊の残留部隊にとっても秘密なのか? 地表降下部隊アタッカーズの遭難は偽装で、偽装工作の対象は我々さえ含まれているってことか?」

「分かりません。でも、そう考えるのが一番しっくりくるような……」

普段はハキハキしているみのりちゃんが、どうも歯切れが悪い。御影恭子は地表降下部隊アタッカーズが遺跡の独占を狙っていると考えているようだった。俺も最初は半信半疑だったが、確かにこの仮説が一番しっくり来る。姫島の野郎に直接聞いてみてもいいが『時期がくればいずれ分かる』って言うくらいだから教えてはくれないだろう。何か深い事情があるに違いない──程度に今は考えておく。


「で──、」

秘匿回線を通常回線に戻し、俺は続ける。地表降下部隊アタッカーズの真の目的は分からないまま保留にするとしても、分からないままでは済ませられない問題がある。

「──俺は……俺たちはどう進めば良いんだ? 装甲兵員投降機APDを追跡する進路を進むのか? それとも最初の計画通り、先回りすることを目指すのか?」

みのりは未確認機アンノーンが放電霧を通過後も、その軌道を注視しているようだったが、少しだけ顔を上げ、少々考えてからこう答えた。

「直進しましょう。未確認機アンノーンもそろそろこちらの死角に入ります。後追いすると待ち伏せされるかも知れません」

地表降下部隊アタッカーズにもバレているんだ。未確認機アンノーンに逃げ場は無いよ」

「それはそうですが、姫島軍曹は『奴らに追いつく』ために〈ブラック・タートル〉に乗ったんです。最短ルートで〈箱船〉に向かった方が賢明だと思います」

そうだな。俺としても装甲アームでぶん殴られるのは御免被りたいからな。

「姫島? それでいいのか?」

「好きにしろ。俺たちの任は解かれた」

姫島は幾分、ふてくされ気味である。

「そう──なのか?」

「ああ」

それでいいなら最短で行かせてもらう。別ルートを選定をする手間が省ける。


「あっ、と、それより先に──」

と、みのりが話を切り替える。

「〈ブラック・タートル〉も放電霧に突入します。念のため、アンテナ類の通電を遮断した方が良いと思います」

「盛大に放電したりするのか? ショートするくらいに?」

「放電はしますけど、壊れることはまずありません。金星仕様ですし」

「金属塩ってのは何だ? 電波欺瞞紙チャフが浮遊しているようなものか?」

「違います。金属片そのものじゃありません。金属塩粉塵ヒュームです。金属塩って言うのは──例えば、食卓のおしおだって立派な金属塩です」

しお?」

「はい。塩化ナトリウムですから……」

後から聞いた話だが、本当に塩──塩化ナトリウム──が漂っているわけではないらしい。みのり曰く『塩化ナトリウムの融点は800度、沸点は1413度です。金星の気温は低過ぎます』とのことだ。確かに460度じゃあ〝低過ぎる〟かも知れない。実際にはテルルTeとかその他色々と妙な金属の名前を教えてくれたが、全部忘れてしまった。いや、正確にいうと『厳密には金属とも言えない半金属というもので──』というみのりちゃんの御高説が始まったあたりから聞く耳が閉店してしまったというのが正しい。


ついでに、というのも説明しておかねばなるまい。地球と金星の大気組成で圧倒的に異なっているのは水の存在だ。正確に言えば、酸素は二酸化炭素という形で大量にあるから、水素が圧倒的に足りない。この宇宙で一番多く、普遍的にそこらじゅうある物質の筈なのに、何故か金星にはこいつが足りない。だから、金星では水は貴重で、彗星を受け止める〝水汲み作戦〟が、新入りの最初の仕事になる。これが出来なきゃ『お前は役に立たん!』という烙印を押される。──少なくともパイロットは。

大気中に水蒸気が全くと言っていいほどない──分かり易く言えば、湿度が0という大気中で飛行した場合、航空機と大気との摩擦で発生した静電気は逃げ場がない。冬場の静電気のように、年がら年中帯電している状態だ。この状態は非常に良くない。危険回避と言うよりは無線通信機器の物理的障害と電波障害を防ぐため、常に空中に放電させておく必要がある。そのために放電索Static dischargerと呼ばれるとげを翼面に多数装備する。地球上なら精々数十本の棘をぶら下げておくだけで事足りるが、金星の帯電対策はその程度では話にならない。本数もさることながら、帯電圧を逆に加圧して放電させるための強制放電索FSD: Forced Static Dischargerが装備されている。ただ、今回の場合、そいつをどうすべきなのか分からない。

「みのり……、FSDは最大にするのか、それとも──」

「全てオフです! DBD-PAも切って下さい」

こっちの意図することはお見通しだった。──って言うか、オプション翼に装備されている|誘電体障壁プラズマ駆動《DBD-PA: Dielectric Barrier Discharge Plasma Actuator》装置については常時オンなので完全に見落としていた。危ない、危ない。通信機器は全てシャットダウンし、念のため円盤円錐ディスコーンアンテナをたたんて収納する。エンジンはそもそもついて無いので切る必要なし。この際だ、電動機駆動Moter Drive Systemの油圧制御も切っておこう。正確には油圧ではなく、ガリウムなど低融点合金を使った駆動系だ。みのり曰く『油は地表の高温に耐えられない』そうだ。外気に酸素が無いので燃える心配は少ないが、高温で沸騰気化Vapor lockし、操縦が出来なくなってしまう。外気圧が高いから沸騰温度も高くなる筈ではとか質問したら、そのへんの蘊蓄うんちくを沢山聞かされて……。

あれ? この話はみのりから聞いたんじゃ無かったかな? ──まあいい。とりあえず今問題なのは、無動力だと操縦輪がかなり重くなるという点だ。もっとも、急旋回でもしない限りは何とかなる。戦闘中なら生死に関わる問題だが、今はひたすら直進コースなので問題は無い。


高度は残り13キロメートル。外気は40気圧に達しており、はがねで出来た昔の潜水艦の可潜深度に相当する。それ以上に深刻なのは370度という、油も沸騰する外気温だ。薄暗い大気はやや赤みをおび、陽炎がところどころで揺らめく様をみていると、自分が天ぷら鍋フライヤーに放り込まれたような錯覚におちいる。相転移吸熱体PTHAの消費量は数パーセントでまだまだ序の口だが、どの程度地表に留まるか分からない状況では、なるべく温存しておくしかない。また、三次元交差TDCP: Three-Dimensional Cross-Ply積層された炭素繊維強化樹脂CFRPの外骨格の本領はこれから発揮されることになる。地表面では90気圧を超えるのだから──


「おっ⁉」

電力系統が切れて静かになった時、そいつは唐突に現れた。視界の狭い風防ウィンドシールド越しに見える機体から──いや、風防ウィンドシールド自身からも青白い炎が立ち上がる。炎というと文字通り燃え上がるイメージだが、こいつはエアロゲルで包み込まれるような何ともいえない光だ。青白いのに温かさを感じる。音は無い。

「セントエルモの火──だな……」

悪天時や火山灰の中を飛ぶと見られるコロナ放電。何度か経験したことはあるが、点火し損ねの小型核融合炉プラズマ放電みたいにチョロチョロした炎しか見たことが無く、こんなに大規模で広範囲に及ぶ放電は早々出会えるものではなかった。だが、それも唐突に終わる。


「あっ!」

炎の洗礼を受け、円盤円錐ディスコーンアンテナを展開した直後にみのりが声を上げる。みのりの場合、視線の先はディスプレイのことが多いので、何に対して叫んでいるのかがよく分からんことが多くて困る。

「どうした?」

「えっ? あっ、はい……未確認機アンノーンが──」

未確認機アンノーン?」

未確認機アンノーンは我々が放電霧に突入する直前に視界から消えた筈──と思っていたら、その消えた先の崖裏から黒煙が上がり始めた。始めやがったか!

「こちらの警告が役に立ったようだな」

「えっ? ええ……」

みのりは浮かない顔である。そりゃそうか。姫島は未確認機アンノーンを攻撃する際『奴らを航行不能にするだけ』とは言ったが、死傷者が出ない保証は無い。操縦室コックピットに少々の穴が開いただけでも気圧と熱で操縦士パイロットは簡単に死んでしまう。だが、姫島は『攻撃は中止』と言っていた筈だ。地表降下部隊アタッカーズからの──小隊長殿おやっさんからの返信があったのだから、この中止命令は地表降下部隊アタッカーズの総意の筈だ。一体どういうことで──


──と、みのりに何か話しかけようとした矢先だ。警報アラートが鳴る。ミサイル警報装置MAWS: Missile Approach Warning Systemだ。それも、未確認機アンノーンからのものじゃない。12時の方向──つまりである!


「このおぉぉっ!」


反射的に操縦輪を引き上げる。が、とてつもなく重い。一生の不覚だった。電動機駆動Moter Drive Systemが死んだままになっている。副操縦士コーパイ席についている御影恭子がそれに気付き、スイッチを入れるが瞬時には作動しない。〈ブラック・タートル〉はもともと機動力の無い機体だ。いや、そもそもこいつは兵員輸送機であって航空機ですらない。それに加えて『ワレ、操舵不能』となれば、もう万事休すである。最善を尽くしての末路ならまだ良いが、こんな馬鹿げたケアレスミスでは死にたくない。

ここで機体が破壊されたら誰も生き残れないだろう──いや、装甲兵アーマードソルジャー隊は何とかなるかも知れぬ。彼らは貨物室カーゴルームだから、俺の痛恨のミスを吹聴することは無──いやいや、ブラックボックスに行動がしっかりと記録されているっっっ!

機体後部で爆発音と振動。異常を知らせる別の警報アラートが鳴り響き、貨物室カーゴルームの気温が急激に上がる。──と、ほぼ同時に舵が軽くなる。油圧系統がイカれたとあっては、もはや電動機駆動MDSがどうしたという話ではない。狭い風防ウインドシールドから上空に散乱した火球と金属の破片が見えた。外気の流入は操縦室コックピット内にはまだ無いが、二発目を食らったら完全にアウトだ。姫島たちはどうなっただろうか?


──ん? 舵が──効いている? 火球と共に金属片?


冷静さが戻って来た。時間にして2秒ほどだろうか? 眼前にあった陸地は見えず、放射霧と思われる薄いベールを通して雲が見える。おもちゃのような〈ブラック・タートル〉の耐Gスーツの加圧袋Bladderが膨らんで足が締め付けられている。つまり、ちゃんと機首が上がっているということだが……。素早く計器に目を走らせると、それは確信に変わる。何のことはない。俺は先ほど目の前で見た未確認機アンノーンの回避行動とほぼ同じ動作を、反射的に行ったのだった。

いや、相手の方がローリングコブラRolling harrierになっているだけ高度な技だった。くそぉ、技で負けている。機体の機動力の差があるとはいえ、これは屈辱だ! ──てなことを考えている場合じゃないだろっ‼


気を取り直し、直後に操縦輪を押し込んでコブラHarrier機動状態のまま機体の頭を抑えつつ、貨物室カーゴルームと連絡をとる。

「姫島ぁ‼ 状況は⁈」

「初弾はかわした」

インカム越しに姫島の普段通りの声が聞こえる。流石だ。

了解ウィルコ。後方は任せる」

貨物室カーゴルームの状況はおよそ分かった。被弾したんじゃない。装甲兵アーマードソルジャー隊が貨物室カーゴルームの後方主扉から手持ちの赤外欺瞞弾フレア電波欺瞞紙チャフをバラまいたのだ。

後ろを振り向く余裕は無かったが、目玉だけ動かして横を見ると、御影恭子は必死の形相でGに耐えていた。写真を撮りたいくらいに。この調子だとみのりは──

「もっ、もう──」

失神しているかと思いきや、後部座席でちゃんと生きていた。無人航空機UAVの遠隔操縦ばかりで操縦席に座らないみのりちゃんは、てっきりGに弱いのだと勝手に思っていたが、そうでもないらしい。

「──もう一機……居たんですね」

それでも息絶え絶えの様子だ。俺もこの程度の機首上げで、ここまで強力に減速するとは考えていなかった。いや、頭では分かっていたし、演習シミュレーションも幾度かしたので少しは分かっていたが、見込みが甘かった。要はのだ。

重力落下に合わせてグライダーのように──〝ように〟ではなく、事実、エンジンの無いグライダーなのだが──落下して行くだけならあまり感じない大気の濃密さも、機体が少し持ち上がるだけで異常な空気抵抗を示す。水中のように粘度があるなら、直進時でもそれなりに感じ取ることができるが、液体とは違い、滑空だけなら地球上での飛行とそれほど変化を感じられない。〝水汲み作戦〟の時と違い──もちろん、火星や宇宙空間での作戦ミッションとも違い──濃密な大気中での機動マニューバはやったことが無かった。逆に機動力が無い機体だったから良かったものの、〈収水〉のような機体だったら6G程度では済むはずもなく、直後に意識消失Blackoutか下手をすると機体が空中分解していただろう。外に脱出することも不可能なこんな場所では、どちらにせよ生還できるとは思えない状況だ。

機体は、失速ストール寸前になりながらも、なだらかな丘を超えるように機首を下げた。未確認機アンノーンが行ったようなのように尾っぽから後退する事態まで想定したが、何とか持ち堪えた形だ。どのみち、この機体では、そんな機動マニューバをするには重過ぎる……いや、この大気中なら可能なのか?

──それは、ともかく。


「くそったれぇ‼」

ともかく俺はムカついていた。敵はこちらが放電霧で時にミサイルを撃って来たに違いない。おそらくこちらの戦法を見ていたのだろう。既に能動型位相配列レーダーAPAR: Active Phased Array Radarは起動させた。俺自身、いつスイッチを入れたか分からないくらい反射的に。

状況は最悪だった。敵機は後方3キロメートル上空にあり、こっちをピタリとマークしている。不覚にも、いつから忍び寄って来ていたのか、皆目見当がつかない。未確認機アンノーンばかり気にしていたらこのザマだ。姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊の動きが無かったら、既にこの機体は四散していたと思われるが、装甲兵アーマードソルジャー隊の誰かが我々よりは先に気付いたのだろう。後方主扉が開いたままになっていたのが幸いしたのだ。でなければ、あんなに早く動けるわけがない。


敵機は──いや、敵機と言っているが、今回の相手は未確認機アンノーンではない。敵味方識別信号IFF──じゃなかった、Sモードの応答装置Transponderでは、共和国のという扱いになっている。ただし、相手は共和国エネルギー管理委員会RERC所有の機体であり、相当うさん臭い──って言うか、ミサイルを撃ってくる民間機などあるわけ無い。

機影を見る限り、先行した未確認機アンノーンと同じ機体に見える。とすれば、一個中隊が分散して降下していたとも考えることができるが、どうも不自然だ。戦力を集中させるべきなのに、個々に戦力を投入する。しかも、奇襲作戦か潜入任務Sneaking Missionでそれを行うという点が全く持って理解出来ない。一個中隊なら投降機は通常三機編隊Kette。もう一機別働隊がいるのではないかと勘ぐったが、その姿は無かった。少なくとも〈ブラック・タートル〉のレーダーAPARの届く150キロメートル範囲は、RERC機以外は、我々が降下を開始した浮遊基地フロート・ベースが見えているだけで、鳥一羽さえ飛んでいない。ま、鳥が飛んでいたら逆に驚くがな。

そして、そのRERC機はこちらにどんどんと近づいて来ている。相手が速度を上げたというより、こちらが急激な機首上げフレアーを行って減速したからだ。〈ブラック・タートル〉は要はグライダーだから、上昇気流がない限り、水平速度を上げるには降下するしかないが、既に50気圧程にもなった濃密な大気中では、垂直降下をしたとしても終端速度Terminal Velocityから考えてそれほど速度は稼げない。地表までまだ一万メートル近くあるこの場なら、失速しても地面に激突する心配はさらさら無いが、問題は〝遺跡〟までの距離だ。

〈ブラック・タートル〉の滑空比は5程度だから、グライダーではなく〝空飛ぶ煉瓦レンガ〟並である。直進コース──すなわち、最短ルートの崖越えまで高度が保てるか怪しくなってしまった。かと言って、先行した未確認機アンノーンのような迂回コースを取れば、目標地点から大きく外れた地点に着地することになり、後方のRERC機にすら抜かれる可能性もある。

直進コースなら〝遺跡〟到着はこちらの方が早い──とも言い切れない。もしも、崖向こうまで高度が保てず、手前に降りることになれば、後は車輪でのたのたと移動しなければならない。当然崖越えは出来ないから迂回することになり、迂回飛行コースよりも時間がかかるだろう。さてどうしたものか? 〝急がば回れ〟か〝巧遅こうち拙速せっそくかず〟か?


──悩んだようなフリをしているが、実は全然悩んでいない。直進あるのみだ。相手はいつ二発目のミサイルを打ち込んでくるか分からない連中だ。今は奴らが放電霧に突っ込むタイミングだから攻撃はすぐには無い。本来ならばお返しに空中機雷まきびしでも置いて行くのだが、この〈ブラック・タートル〉には対抗し得る火力が皆無だから、我慢して攻撃を回避するしかない。

回避行動を取るには予め速力が必要で、そうなると、高度を保ちながら迂回するなんてことは最初から不可能だ。ミサイルが当たらずとも、もう一度回避行動を取れば、どのみち崖手前に降りるしか手段が無い。逆に、地面に降りれば岩場に隠れつつ装甲兵アーマードソルジャー隊が動けるから反撃のチャンスはある。〝遺跡〟に近づくRERC機を崖上から狙い打つポジションに付ければ、地表降下部隊アタッカーズと連携して挟み撃ちに出来るかもしれない。地表降下部隊アタッカーズの装備は不明だが、皆無ではないだろう。未確認機アンノーンの黒煙がそれを物語っている。

とりあえず今は──

「姫島。撃てるか?」

──と、聞いてみる。対抗できる火力を持っているのは彼ら装甲兵アーマードソルジャー隊だけだ。先ほどの赤外欺瞞弾フレア電波欺瞞紙チャフの放出。更には跨乗デサント状態での装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADS発射など、兵員輸送車に乗車したままの戦闘は基本の筈。空中にある空挺機動兵員輸送車AMPCでは勝手が違うとは言え、本質は変わらないだろう。角礫地かくれきちを高速走行中で行う射撃よりは容易たやすいはずだ。

だが、返って来た回答は意外なものだった。

「はっはぁ。好戦的な奴だな。我々は解決するつもりだ。杭瀬が彼らと通信をしている」

「通信?」

さっきミサイルをぶっ放した奴の言葉とは思えん。そうでなくとも、『装甲アームではっ倒す』だの、逃げたら『撃ち落とす』だの言ってた奴だ。

それ以上に通信というのが解せぬ。貨物室カーゴルームには外向けの通信装置は無い。よしんば有ったとしても、電波が発信されていれば──いや、電波による通信はどのみち無理だった。モニター越しに望遠で見たRERC機は、今まさに〝セントエルモの火〟に包まれている。通信系統は全滅だろう。

「電波は出ていない筈だが?」

「投光機による発光信号だ」

「投光機? 投降するつもりか?」

──皮肉を入れてみる。

「そうじゃない。誤解を解きたくてな……」

「誤解?」

「そうだ。『我々は敵じゃない』──ということを伝えている」

「…………」

妙なことを言う奴だ。確かに俺たちは敵じゃない。誰かを攻撃するためにここまで来たわけじゃない。だが、不意打ちで先に撃って来たのはあっちだ。誤解もへったくれもあるか!

──いや、そうじゃないか。先行した未確認機アンノーンを警告なく撃ったのはこちらだから、この戦闘は不可避だったのかもしれぬ。ここまでこじれてしまった状態で『話せば分かる』と言っても通用するかどうか──


「誤解は解けたようだ」

姫島の声が響く。貨物室カーゴルームのカメラ映像を見ても、杭瀬らしき装甲兵アーマードソルジャーの背中が見えるだけで、送信しているという肝心の光信号は見えない。望遠でモニター越しに見えるRERC機からの返答はただひとつ。

•―•ラジャー

だけだ。『•••―•』すらない。

もう少し正確に言うとそれだけではなく、機体を左右に揺らしてこちらの要請に答えているように見える。拍子抜けだが平和的に解決できたのであればそれが一番だ。俺たちは──いや、俺は、地表降下部隊アタッカーズの捜索と救助のためにここまで来たのだ。姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊を含めた地表降下部隊アタッカーズ自身の降下目的、共和国エネルギー管理委員会RERCの目的、そして御影恭子の目的はそれぞれだろうが、そんなこと知ったことではない。

もっとも、地表降下部隊アタッカーズが無事だと分かった時点で、俺の目的は達成されているので、今は御影恭子との約束で降下しているようなものだが、ここまで来たら乗りかかった船──いや、落ちつつある輸送車だ。地表降下部隊アタッカーズと共に〈レッド・ランタン〉に帰投するまで付き合うこととしよう。

──というか、それしか帰る手段はあるまい。RERCの装甲兵員投降機APDには付いている復路用の膨張浮揚翼インフレータブルウイングはもちろんのこと、風任せで上昇する浮遊気球すら、この〈ブラック・タートル〉には付いていないのである。


        *  *  *


高度一万メートルを切ると、もうそこは死地だ。元来、金星には地上30キロメートルより上の硫酸雲の中を漂っている菌類しかいないが、そこから外れて下まで降りてくる奴もいる。これがすぐ死ぬかと思えば、以外としぶとい。地球の深海でも、海底火山の周辺の熱水鉱床には超好熱菌Extreme Thermophileと呼ばれる微生物が生息していて、150度でも平気な奴がいるらしい。

金星では、さらに超々好熱菌Ultra-Hyperthermophileというものがいて、300度を越えても生きている奴がいる。面白いことに、同じ温度でも高圧で硫酸塩が多い環境であるほど長生きする特性があり、まさに金星の気候に即した進化をしている──と、みのりからもらった御影恭子博士の論文に書いてあった。ただし彼女の説だと、金星にいる菌がオリジナルで、地球に降り立った菌のほうが退化Degeneratedしてしまった怠け者であるということらしい。

オーブンで焼いても天婦羅にしても死なない程の、熱に対して抜群の耐性を持つ金星の菌も、高度一万メートル以下の400度を超える高温になるとお手上げらしく、これまでに生きたまま採取された菌は皆無だ。もちろん、〝まだ発見されていない〟究極の好熱菌Ultimatethermophileが存在している可能性はあり得るものの、熱変性とやら──生卵が熱で固まるとかそういうことか? ──を考えると、見つかっている超々好熱菌Ultra-Hyperthermophileをそのまま強化しただけでは駄目で、菌を構成しているタンパク質と代謝系そのものを大幅に変えなければ生きていくことは難しい──と、その論文は続けられていた。

一体全体、『こんな研究をして何の役に立つんだ』と俺なんかは思ってしまうが、そいつを言い始めると、そういう研究者を守ることが主目的である俺たちの金星勤務が空しくなるので、考えないことにしている。まあ、百年後、二百年後に役に立てば良い。いや、実利に役立たなくてもそれはそれで良いじゃないかとさえ思う。俺だって『何故いつも空を飛んでいるのか?』と問われれば、任務とか使命とか口では言うが、ぶっちゃけ、楽しいからだ。それでいいじゃないか。


高度八千メートル。金星最大の活火山Maat Monsの標高が、このくらいだったはずだ。つまり、場所によっては既に地表に降りていてもおかしくない高度にまで降りて来ているということになる。ピカピカの黄鉄鉱の霜ってヤツを見てみたかったが、周囲には高い山は無く、レーダー反射にもそれらしい信号は映っていない。

後ろのRERC機は迂回するコースを取るらしく、左へ回頭して行った。姫島はどうやって彼らを丸め込んだのかサッパリ分からんが、向こうで合流すれば分かることだ。俺は愚直に直進で行く。わざわざ時間をかけて回り込む必要は無い。また、RERC機の形状から推測すると、その機体の滑空比は〈ブラック・タートル〉に比べれば明らかに大きい。こっちが空飛ぶ煉瓦レンガなら、あっちは空飛ぶかわらだ。一文字違いだが、神護寺から投げるかわらけはとても良く飛ぶ。もしもRERC機の真似をして同じように迂回したら、崖を回り込む前に地表に落ちてしまい、後はひたすら地面をのたりのたりと走らねばならなくなる。その間に彼らは上空を悠々と飛び抜け、先を越されるに違いない。競争しているつもりはないが、わざわざ後塵を拝するつもりもない。

問題は崖越えだ。超えられないというのじゃない。超えた後が問題だ。


「みのりちゃん。崖の先はどうなっている?」

「で、ですから、みのりちゃんと言うのは──」

「えっ?」

「──いえ。なんでもありません。その先は高度差400メートルほどの断崖です」

崖の場所はテルス島Tellus Islandの北西。本来ならばその先は海──と言いたいところだが、残念なことに金星に海はない。よって、海抜何メートルという表現はできず、代わりに金星の平均半径を基準面としている。地球みたいに海面を基準とできれば分かり易いとは思うが、地球の基準海面も、実は実際の海面より1メートル程度下にある。標準高を決めた昔はそこが本当の海抜ゼロメートルだったそうだが、現在は海水が熱膨張していて、実情に合わない。国際度量衡委員会CIPM: Comité International des Poids et Mesuresとかが基準を変えるだの変えないだのと総会で議論しているが、会議は踊ってばかりで全然決まらない。要するに、結局──どちらも分かり辛い。

で、我々は、テルス島Tellus Island北西の、これまた北西に伸びた半島の付け根部分──西向きに開けた入り江になっている場所を目指している。もしも、基準面から下に海があれば、さぞかし良い漁港になっていただろうと思われる場所だ。背後が断崖で平地が少ないから、漁港というよりは軍港にもってこいかも知れない。


例の〝遺跡〟は、断崖直下ではなく、そこからさらに数百メートル沖合にある。みのりが回してくれた金星軌道メーザー高度計VOMA: the Venus Orbiting Maser Altimeterによる地形図では……なるほど。自然の地形としては不自然で巨大な立方体がそこにあった。

似たようなものをどこかで見たことがあるなと考え、火星で有名な人面岩Cydonia Faceを思い出す。数少ない火星の観光スポットで、お偉いさんジェネラルが来ると上空を周回するのが習わしだった。ただ、実際にその上空を飛んでみると分かるが、どこが人面なのかサッパリ分からん代物で、『ちっとも顔に見えん!』とか不満を言われたが、そんなことを俺たちに言われても困る。こちとら飽きるほど遊覧飛行をさせられて、その質問にもウンザリなんだって。

まあ、火星の話はともかくとして──。

で、肝心の金星のそれは、確かに何らかの意味がありそうな立方体だった。目や口に相当する凸凹が無いだけ逆にリアルに人工物っぽい。ただ、火星のものと比べサイズが小さい。200メートル四方だから、クフ王のピラミッドより少し小さいくらいだろうか? 高さは低く、20~30メートルというところだ。翼幅1キロメートルに近い〈マンタ・レイ〉の方が桁違いにデカイ筈だが、ここからまだその巨体が見えないことを考えると、崖と〝遺跡〟の間にすっぽりと収まっているのかも知れない。〝遺跡〟の向こう側にいるのなら、望遠で見えてもおかしくない位置関係だ。

「不思議なモンだな。こんなものが最近になって発見されたのか……」

「最近じゃありません」

俺のひとり言にみのりちゃんが反応する。

「えっ? それなら何故、今頃調査をするんだ?」

「半世紀前の国際金星観測年IVYに、上空から調査されています。でも、自然地形だと結論付けられていたんです」

「自然にこんなものが出来るのか?」

「はい。マグマが冷えて固まった時にできる方状節理ほうじょうせつりという地形です。金星には割と沢山あります。一見するとピラミッドに見える地形もありますし、地球にもありますよ」

「ふーん。火星の人面岩Cydonia Faceもそうか?」

「火星──ですか? それはちょっと調べて見ないと……」

「ああ、いい。気にしないでくれ」

なるほど──、地表に剥き出しの〝遺跡〟が今頃発見されるのは妙だとは思っていたのだが、自然にできる地形と見分けが付かない代物だったわけだ。そういうことなら仕方が無い。


ここにきて、炭素繊維強化樹脂CFRPの外骨格が時折〝カーン〟と軋みを上げ始める。直後に外肋骨式OFSセラミック装甲が〝ピキピキ〟と音を立てる。気持ちのいいものではないが、これはこれで想定内だ。怖いのは音がしなくなった後からである。

大気はいよいよ濃密で、既に60気圧に迫っているが、気圧の絶対量もさることながら、高低差による気圧勾配の大きさが地球とは比べ物にならない。この段階で、降下速度が速くて機体角度が浅い場合は、水面を飛ぶ水切り石のように跳ねてしまうことすらありそうだ。

幸か不幸か、一度失速ストール寸前までいった〈ブラック・タートル〉の降下速度は遅い。従って、降下進入角も深くして速度を稼ぐ必要がある反面、崖越えを目指す以上、それほど深くできるわけではない。大気圏突入時の大型帰還船ほどではないが、進入すべき〝窓〟がシビアに決まっているわけだ。もっとも、機体角度を間違えると燃え尽きてしまうような心配は無い分、気は楽だ。仮に、崖上に着地でも、その後の〝遺跡〟到着に時間がかかるだけだから、生命の危険は無い。

──いや、相転移吸熱体PTHAを使い切ってしまって丸焼けという事態はあり得るな……。


        *  *  *


高度六千メートルを切った段階で、地表面のレーザー測量機LIDAR: Laser Imaging Detection and Rangingによるスキャンを開始する。もちろん、金星軌道メーザー高度計VOMAによる地表面データを常時見ているが、軌道上からの観測によって作られたデータであるから、全地表を走査するのに数日はかかるし、格子メッシュ間隔が水平50メートル、鉛直1メートルと大きいのが難点だ。センチメートル単位で情報が欲しいなら、飛行しながらのレーザー測量しか無い。GPS衛星が当てにならないから、金星軌道メーザー高度計VOMAとの絶対値比較はできないにせよ、機体との距離は完璧に分かる。有視界飛行VFRによる着陸ならこれで何ら問題は無い。

今のところ、降り立つべき崖向こうは残念ながらレーザーが届かないが、とりあえず、もしもの時の測量をしておいても損はない。転ばぬ先の杖だ。それに、こいつは地表面の情報だけでなく、途中の大気状態や風向きも測ることができる。崖の形状はいきなりの断崖ではなく、崖の縁が少し盛り上がっている。丘陵きゅうりょうの先が崖という風景だ。

ふむ。と言うことは……。

レーザー測量機LIDARを崖上空の空間に振ってみる。やっぱり……。


「ちょっとだけ進路変更していいか?」

副操縦士コーパイ席で『何してるの?』と言わんばかりの怪訝そうな顔でこちらを見ていた御影恭子に聞く。〝聞く〟というのは正しくないな。例え『駄目』と言われてもするつもりなのだから、これはお伺いではなく決意表明だ。

「これ以上、どんな冒険をするの?」

「最速降下を試みる」

「最速? この着陸進行ランディングアプローチが最適だと思うけど……」

「ええ。これ以外に崖向こうに最短で降りられる進入路はありません」

みのりちゃんまで、後ろから口を挟む。確かにみのりの指示は、衛星追尾型の広域航法RNAV: aRea NAVigationより正確かもしれないが、それはハイウェイのど真ん中を行くような正確さでしかない。

「最短ではあるが、最速ではないな。それに──」

御影恭子は眉間にしわを寄せたまま、みのりちゃんは心配顔だ。面白い。

「──単調でつまらん!」

そう言って、俺は操縦輪Control Wheelを押し込んだ。崖越え後のことを考え、僅かに左にバンクを切る。機首が下を向き、視界には黒々とした岩肌が入ってくる。見た目には崖越えどころか岩場に激突のコースだ。

「えっ? 何をするんです?」

みのりちゃんが慌てた声を出す。大気による抵抗か、はたまた浮力の所為か、どちらにせよ濃密な大気の影響であることは間違い無さそうだが、これだけ傾けても空力制動Air brake──いや、急降下制動Dive brakeがかかりっぱなしであるかのように速度が出ない。主翼に取り付けられた翼端板Wingletは飾りかと思っていたが、高密度大気中では僅かな翼端渦でも降下に支障が出るということだろう。だが、ここまで降りてくると、ロケットエンジンでも無い限り、高速飛行をするのは難しいのかも知れない。速度が出たら出たで制御がとても難しそうだ。もっとも、エンジンの無い〈ブラック・タートル〉には無用な心配事である。


「なるほど……斜面上昇流スロープリフトね」

怪訝そうな顔をしていた御影恭子は、手元の計器類とレーザー測量機LIDARの観測データを見ながら頷いた。だが、表情はそのままだ。何かを憂いている女性は美しいねぇ。

「でも、崖向こうは下降流Boraが起きてるはずだし、跳水現象Hydraulic Jumpが起こっている場所までは行けないんじゃないの? 失敗すると手前で落ちることになりそう……」

跳水現象Hydraulic Jump? 学者が使いそうな言葉だな」

言ってから気付いた。御影恭子は学者だった。

ボーラの方は聞いたことがある。アルプス越えでアドリア海やスロベニアの街に吹き込む寒冷なおろし風だ。そう言えば、コイツはあっちの方の出身だったんだっけか?

で、吹き下ろしで急激に落ちた風は、確かにその後ジャンプする。俺も南極で何度か見たことがある。あっちは地吹雪でジャンプが視覚化されるから分かり易い。

だが、御影恭子の考えている跳躍ジャンプのイメージと俺の考えている上昇流リフトのイメージは、どうやら少し違う気がする。まあ、俺は俺の流儀でやらせてもらおう。雇い主は彼女だが、主操縦士パイロットは俺だ。

「あの先は崖だ。気流が壁面を伝って降りるには急過ぎる。普通の下降流Downslope windにはなってない」

「ん? ──じゃあどうなってるの?」

「崖裏で気流が剥離して逆向きの渦巻きを作ってる筈だ。そいつの後面に乗れば、更にその先の上昇流リフトまで行ける。かなり強力で垂直なヤツだ。手前に回転流ローターがある程の」

「んん? 剥離した渦巻きが回転流ローターになってる?」

「いやいや、そうじゃない。剥離した渦は上昇流リフト下部までの定期便で、崖下を移動するだけだ。ここからは直接的には見えない。回転流ローターは急激な上昇流リフトの手前にできる。ここから見ればほぼ正面。レーザー測量機LIDARを見れば分かるだろ」

「いえ。分からないわ。でも──」

御影恭子はやれやれと言うあきれ顔をして付け加えた。

「──お任せするわ。好きにやって頂戴!」

「御影さん!」

みのりが慌てて制止に入るが……すまんな。今の俺の雇い主は御影恭子で、みのりちゃんはなのだ。


金星の風は上空に行くほど強い東風が常に吹いている。高度四千メートルを切ったこの地点では秒速数メートル程度の弱い風になってはいるが、大気密度が70倍も違うのだから、風速は弱くても、その風力は地球上の比ではない。また、降下時の感触から分かったことだが、地表付近の風の上昇・下降流は弱く、コンパクトにまとまっている。弱いというよりは、のんびりしているというべきか。微小な乱気流タービュランスさえなにやら牧歌的で、跳ね馬ではなく、らくだに乗っているようだ。

原理はよく分からん。軌道間輸送船OTVでの睡眠学習のような講義で、大気が高密度で、かつ、地表面の高温により鉛直方向の気圧傾度が緩やかで、大気の上下振動数が小さいとかなんとか言ってたような気がする。

目の前にあるのは高々400メートルの断崖だが、地球上の換算すれば、これはアルプス越えの風に匹敵するのではないか? ──というのが、俺の推理、仮説だ。単なる妄想ではない。実際にレーザー測量機LIDARのデータを見ての俺の判断だ。もしも地球上でこの表示を見たなら『誰だ! 表示目盛りスケールを10分の1にしたヤツは!』と整備兵メカニックをドヤしつけていたことだろう。

計器は既に地上三千メートルを示しているが、これは地表基準面からの高度で、崖上までの高度は千メートルを切っている。この高度で高速飛行をすると、翼端の負圧部分で極まれにオレンジ色の水蒸気ヴェイパーを引く──らしいが確認は出来なかった。そもそもそれは水蒸気ヴェイパーではなく、大気の二酸化炭素がそう見えるらしい。固体燃料系の茶色い排気とは違い、翼端から離れた瞬間に見えなくなるそうだが、そいつを確認するには金星は温度が高過ぎる。低温の液体燃料LH2/LOXを使ったロケットなら、そいつの周りには白いドライアイスが張り付き、外側に茶色いガスが渦巻く情景が見られるだろう。


強化型対地接近警報装置EGPWS: Enhanced Ground Proximity Warning Systemの音声が『地形注意Caution terrain』だの『降下するなDon't sink』だのと叫び始める。地表に降り立つ事がほとんどない金星ではなかなか聞けない貴重な警報だ。グライダーにこんな装置つけても仕方ないだろうと思うが、官製の規格品だから仕方がない。

まさか『機首起こせPull up』とは言わないだろうな。そいつは逆効果だ。

──ドミソは鳴らなかったな。

「このままだと、崖上面に硬着地ハードランディングです」

みのりちゃんが少し焦って、強化型対地接近警報装置EGPWSに加勢する。総突っ込みの夫婦漫才みたいだ。『墜落です』と言わないだけマシか。

「分かってる。だが、このままでも山越え気流と地面効果グランド・エフェクトで超えることはできる」

「そう──なんですか?」

懐疑的というより、単に不安なだけという顔だ。まあ、それはそうだろう。通常、人は直線的にモノを見るように出来ている。自分の進むべき先に地面があればどうしても機首を上げたくなる。エンジンの付いた航空機ならそれでいいが、グライダーでは逆に失速ストールする。ミサイルが来た時は、ついいつもの癖が出てしまったが、今の俺の頭ん中は完全にグライダー仕様──〈ブラック・タートル〉仕様に切り替わっている。同じあやまちは繰り返さない。


御影恭子に聞いてみる。

「崖上からの高度は?」

「920」

「崖までの距離は?」

「5000」

即答したところを見ると、とりあえずはこの状況を気にはしているようだ。もちろん、俺も計器は見ているからこの事実は分かっているのだが、彼女の意見も聞いてみたい。

「どう思う?」

「どう思うって? うーん、何とか越えられるんじゃない? 少しお腹をこするかもしれないけど」

「擦ったら困るだろ」

「──ええそうね。そのまま崖下に真っ逆さまだから、逆に手前にちた方がマシね」

「ええっ! そんなぁ‼」

みのりちゃんの顔がますます青くなる。もうちょっとからかって見るか。

「このまま墜落だと正常飛行衝突CFIT: Controlled Flight Into Terrain扱いかなぁ」

「故意にやったと見なされてテロ扱いかもね。あなた──今はハイジャック犯だから。公式には」

「はっはっは。そうだったなぁ」

「笑いごとじゃありません‼」

御影恭子が話を合わせて来たのは意外で面白かったが、さすがにこれ以上やるとみのりちゃんが可哀想だ。──っていうか、既にキレ気味ですらある。一度キレたところを生で見てみたい気もするが、『みのりちゃんは仕事中は真面目すぎて結構怖い』というのは周知の事実なので、第三者的立場で噂を聞いてる程度が丁度いいのだろう。当事者にはなりたくないしな。


「すまん、すまん。大丈夫だみのりちゃん。翼の揚力ってのは速度の二乗と大気密度に比例するんだ。降下のお陰で速度は充分だし──、外の大気密度は説明する必要ないな」

「えっ? ええ……」

「〈レッド・ランタン〉や浮遊基地フロート・ベースのある空域でこの状態ならとっくに墜ちてるが、ここまで降りてくると、このくらい遅くても平気なんだよ」

「そんなもの──ですか?」

「そんなものだ。おまけに〈ブラック・タートル〉に取り付けてある使い捨ての可変翼には、ご丁寧にも伸展式下げ翼Fowler flapまで付いてる。一度出したらそのままの機械式だけどな」

「は……はぁ」

「だから大丈夫。崖上10メートルを切ることはない。俺を信じろ」

「……分かりました」

本当に納得したかどうかは分からないが、それでみのりはおとなしくなった。別に色々有ること無いこと並べ立てて誤摩化したわけじゃない。全て本当のことだ。

──が、本当に難しいのは崖越えの後なんだけど、それはあえて言うまい。いずれ分かることだ。


事実、丘陵きゅうりょう越えは難しくなかった。日射が無いから熱上昇気流サーマルは無いが、東風の山越え気流は安定している。御影恭子の指摘通りだ。それでも、崖上の高度30メートルを切った時には緊張していた。俺ではなく、みのりちゃんが……。速度は規定の着陸進入速度Threshold speedを大きく超えており、高度を少し上げることは可能だったが、その後のことを考えて高速のまま通過する。〝高速〟といっても、亀が歩むほどにノロい。飛んでいるという感じではなく、むしろ泳いでいる感じだ。地表の黒々とした岩石群も海底の雰囲気を醸し出している。装甲兵アーマードソルジャー隊をここで降下させ、〈ブラック・タートル〉はそのまま着陸復行ゴーアラウンドすることが出来そうな高度だ。幸か不幸か──いや、幸に違いないが、今回は幸いにもそういう作戦局面シチュエーションではない。

「崖──越えます」

みのりが安堵の声で地形図を見る。

下げ翼フラップは? 出す?」

「いや、まだだ。崖下の気流が読み切れてない。レーザー測量機LIDARを見てからだ」

俺と御影恭子はその先を見ている。結局、崖越えまで例の〝遺跡〟は見えずじまいだ。


さて、ジェットコースターは昇り切った。お楽しみはこれからだ。

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