第3章 遺 跡

「おいおい。勘弁してくれよ」

俺は頭を抱えていた。──いや違うな。正確にはあきれていた──というのが正しい。


慌ただしい出発departureの後、航空交通管制圏そして管制区も離れた時点で自動操縦に切り替えた俺は、いつも通り操縦卓コンソールに両足を投げ出し、座席をリクライニングにした。〈レッド・ランタン〉の飛行情報区FIR内ではあるが、無線が使えないNo Radioというていで出て来たから聞こえないフリをすればいい。ちなみに、無線回線の電源を落としたのはやはりみのりちゃんで、今は完全復旧している。

俺の意識は既に捜索活動の方に移っていて、ロシア管轄空域との捜索救助SAR協定がどうなっていたか、航空路誌AIPを確認していた。航空路誌AIP国際民間航空機関ICAO用であるが、金星ここでは全ての航空機が──表向きは──民間用だ。

ちなみに、地球上では〝国〟と言う概念が事実上崩壊し、多国籍企業が地を這うつたのように時間と場所を越えて地上を覆っている。国境線は単なる記号に過ぎない。だが、金星ここでは地域毎の支配構造が未だに続いている。他の地域から見れば、今回のゴタゴタは北緯30度帯30 Degrees North地域での内紛でしかなく、区域を超えて勝手な振る舞いをすれば、強制送還か、下手をすれば撃墜される。

建前上、軍隊はいない筈なのに撃墜されるというのもおかしな話だが、撃墜されても文句は言えない。〈マンタ・レイ〉のような飛行船モドキは、装甲が脆弱だ。──っていうか、無いに等しい。図体もでかくて回避能力も期待できない。重機関銃程度の火力でも簡単に落ちる。だから、地域越えの正式な手続きは面倒だが、重要な手続きだ。可能であればなるべく他国の空域を通過せずに目的地まで到達したい……。


──目的地?


そうだった。俺は目的地を知らないのだ。湊川との通信により、地表降下部隊アタッカーズの目的地はセレス・コロナCeres Coronaの少し手前の地域だということは分かっている。だが、どう考えても彼らはそこまで到達していないだろう。すると、地表降下部隊アタッカーズが最後に通信を絶った赤道帯の12番浮遊基地フロート・ベースに急行するのが良さそうだ──とは簡単にはいかない。12番浮遊基地フロート・ベースは忽然と消えてしまったというのも理由のひとつだが、その前に、そもそも浮遊基地フロート・ベースというだけあって、コイツは大気中を漂っている存在であり定点に留まっていない。

12番浮遊基地フロート・ベースは消滅時にルサルカ海上空にあったが、現在は既にセレス・コロナCeres Corona直上か、もう少し先のテチス高地にさしかかる地点まで移動している筈である。もちろん、の話だ。つまり、消滅時の地表付近を捜索するか、はたまた、12番浮遊基地フロート・ベースを捜索するかで、進路が変わる。ただ、どのみち急がねばならない。〈レッド・ランタン〉もスーパーローテーションにより、4日で金星を東西に一周しており、既にウルフルン諸島上空からアフロディテ大陸のアトラ高地北空域近くにまで進んできている。そのまま放っておけば、おのずとセレス・コロナCeres Coronaと同じ経度に達するが、その時点で地表付近まで降りていなければ、風に逆らって逆走する羽目になる。

地球上でもジェット気流上の往路と復路で飛行時間に大幅な違いが出るのと同様、風に逆らって飛ぶのは時間と燃料を食う。核融合炉と蓄電池を用いてプロペラで飛ぶ〈マンタ・レイ〉の場合、燃料については配慮する必要が無いが、問題は時間である。金星のスーパーローテーションは地球上のジェット気流がそよ風に感じるほど強風だし、それに立ち向かうのが非力な飛行船モドキとあっては、滝を登ろうとするのようなものだ。とても歯が立たない。〝河童の川流れ〟ならぬ〝〈マンタ・レイ〉のスーパーローテーション流れだ〟。

──全然語呂が悪いな。そんなことはともかくとして。


重力を最大限に利用し、落下しながら赤道を最速で通過できる進路をアンサンブルで確率計算しているところに2人がやってきた。御影恭子は堂々と。みのりちゃんはおずおずと。

「案外簡単だったわね」

「…………」

言わなくても分かると思うが、一応言っておくと、それが御影恭子の第一声だった。殴ってやろうかと思ったが、ここで関係が悪化するのも何かとマズい。命の恩人──俺だけでなく、みのりちゃんの命の恩人でもあるのは間違いないわけだし。もっとも、みのりにしてみれば、──どこまで本気か知らないが──人質として無理矢理連れ回されるハメになって、いい迷惑だろう。

「で──」

俺は振り向くことも手を休めることもなく、正面の雲海を眺めながら尋ねた。そう言えば、まだ熱赤外線モードだったな。可視にしたところで景色は変わらないが。

「──で、俺たちは何処に行けばいいんだ。地表降下部隊アタッカーズは何処にいるんだ?」

「実はアタシも良くは知らないんだ……」

俺は手を止めた。いや、止まった。ついでに思わず振り向いた。なんだと?

「まあ、〝遺跡〟のはそんなに多く無い筈だから、なんとなく想像は付くけど、地表降下部隊アタッカーズのアプローチの仕方までは分からない」

「遺跡?」

そうだった。ソーニャに聞かされた金星にあるという遺跡の話。御影恭子はそれを狙っている。硫酸がなんとか、磁性がなんとかという細菌の話だったか? 確かそれはみのりちゃんに調べてもらったから、後で詳細を今一度聞くとして──ともかく今は行き先だ。

「いや。遺跡の話は後で聞く。で、何処に行けばいいんだ」

「とりあえず、南の方かな……」

「とりあえず? おいおい。勘弁してくれよ」


──と、冒頭に戻る。つまりこいつは、御影恭子ってヤツは、あんな派手な大立ち回りを行い、引き返せない状態にしておいて、『行き先はよく知らない』と平然と言ってのけているのである。あまりに馬鹿らしくて、逆に腹も立たない。成り行き任せで行き当たりばったり過ぎる。それでよく科学者が勤まるなぁ。

「……あの、行き先なんですけど」

みのりが申し訳なさそうに口を出す。話に割り込んでくるのがみのりでよかった。湊川なら『痴話げんかの最中すまないが──』とか言いそうなシチュエーションだ。

地表降下部隊アタッカーズが降りた12番浮遊基地フロート・ベースは、私が誘導したので、本来の位置はある程度把握出来ています。軍──いや、調をするために持ち込んだ浮遊基地フロート・ベースの自立航法バックアップデータもありますから、現在位置も特定可能です。まずはそこに行きましょう」

「それはそうだが、その浮遊基地フロート・ベースが忽然と消えてしまったんだろ? そのまま素直に考えると、もうそこには12番浮遊基地フロート・ベースは存在しない──って考えるべきじゃないのか?」

消えてしまったことにいち早く気づいたのは、他ならぬみのりちゃんである。だから、そこに行ってもどうにもならないことを一番良く知っている筈だ。むろん、そんなことは百も承知で言っているのだろうから、彼女なりに思う所があるのだろう。

それはそうと、軍のバックアップコンピュータが図書館にあるということを御影恭子に隠すつもりで、『図書館で調べもの』と言い直したのだろうが、残念なことに、御影恭子はそのことをおそらく知っている。何処で知ったのかは定かではないが。

「いえ。消えたのでは無いと思います」

みのりは、自らに確認を取るような口調で、更に付け加えた。

「これは、情報操作です。誰かがGPS衛星回線に侵入ハッキングして、位置情報そのものを変えたのではないかと──」

「誰かとは?」

「分かりません。でも、おかしいんです。12番浮遊基地フロート・ベースを誘導していた時のタイムラグが感覚と合わないんです」

「どういうこと?」

御影恭子が横やりを入れる。

「操作信号は衛星経由の伝達で行われるんですが、電波の視線大気遅延量がズレていることに気づいたんです」

「なんだって?」

「なんですって?」

ハモった。俺は御影恭子と顔を見合わせた。気に入らない。

「電波遅延量なんか体感で分かる程には無いだろう」

「体感じゃありません。操作中のリアルタイムログを見ていて気づいたんです」

「何? あんなモンずっと見てたのか⁉」

回線のアクセスログやらタスクログやら、確かにズラズラと出てくる画面はあるが、あんなものコンピュータが嫌がらせで吐き出している取るに足らないつぶやきであって、止まらずに流れていれば正常とばかり思っていた。異常が起きて画面が止まった時に初めて眺めるモノ──俺は眺めても分からないが──なんだろうと。まさかリアルタイムで逐次見ているとは思わなかった。それを見ながらあの浮遊基地フロート・ベースを操作していたとは恐れ入る。

「うーむ。……だとしても、12番浮遊基地フロート・ベースにはロシア隊が向かっている──」

「違うんです!」

「えっ?」

「12番浮遊基地フロート・ベースは最初から位置が改竄かいざんされていたんです」


みのりの話を要約するとこうだ。12番浮遊基地フロート・ベースはルサルカ海上空で地表降下部隊アタッカーズを乗せた〈マンタ・レイ〉一番機とランデブーする予定となっていた。だが、元々、12番浮遊基地フロート・ベースはルサルカ海上空にはおらず、別の場所を航行していて──おや?

「いや、待てよ。もしそうだとしたら、どうして〈マンタ・レイ〉は浮遊基地フロート・ベースに降りることが出来たんだ。行ってみたら何にもなくて待ちぼうけを食らってた筈だろ」

「……それは」

みのりがうつむく。

「それは簡単な話よ」

御影恭子が話を引き継ぐ。

地表降下部隊アタッカーズは12番浮遊基地フロート・ベースと言うことよ。つまりは──」

御影恭子は少し嬉しそうに微笑んだ。

「──つまりは、この作戦は最初から仕組まれていたのよ。あなたもその相棒だったんじゃない?」

「ちっ、違います!」

みのりがそんなことをする筈が──と思う反面、12番浮遊基地フロート・ベースを操作していたことを考えると、ひょっとするとそうなのでないかと言う気持ちもある。ソーニャ率いるRERCがみのりに目をつけたのは──なるほど、そういうことか。

ただ、詮索は後だ。

「もめ事は後にしてくれ。金星表面を周回遅れになる前に、どうにかして地表へ──少なくとも、硫酸雲下の浮遊基地フロート・ベース高度にまで降りていたい。座標は何処に設定すればいい」

御影恭子はこちらを見ると、そのまま腕組みをした。みのりは少しほっとしたようだ。

「時間があまり無かったので詳しい位置までは特定出来ていませんが、GPS高度計アルティメーターの干渉測位の解析ではこのへん……、あるいは、このへんです」

「んん?」

みのりの示した2点は大きく離れていた。北緯30~40度に位置するテルス島Tellus Island周辺と、地表降下部隊アタッカーズが元々目指していた筈の、南緯30~40度に位置するセレス・コロナCeres Coronaアルテミス・コロナArtemis Coronaの中間だ。赤道を挟んで北と南の泣き別れ。これじゃあ、体が2つ無い限り行きようがない。

俺は両手を上げて軽く万歳をした。まさにお手上げ状態だ。

「すみません。補足した衛星データが2つしか無かったので、これ以上絞り込むことができなくて……」

謝られても仕方が無い。そもそも、この無謀な計画は、御影恭子によってなされたものなのだから、みのりちゃんが謝る筋合いのものではない。

で、当の御影恭子は腕組みをしたまま、行き先候補を見比べていたかと思うと、

「北よ。北で間違いない」

と言い放った。

「何を根拠に?」

当然だ。当然の疑問だ。コイツの言うことはあてにならない。

「簡単な話よ。南のこの場所には〝遺跡〟は存在してない。巨大なコロナが2つもあるんだし、もう使いて欠片かけらも残ってないわ」

「……言っている意味が分からんが?」

「ともかく北に行けばいいのよ」

「納得できんな」

「アンタはパイロット何だから、アタシの指示に従えばいいの」

「何だと⁈」

「元々、そういう約束だったでしょ。お忘れ?」

くそ。やっぱりコイツは一発殴って、その鼻っ柱を折ってやらないと──と、頭に血が上りかけた瞬間にみのりが割って入って来た。

「おそらく、御影さんの判断は正しいと思います」

「みのりは〝遺跡〟の在処ありかを知っているのか?」

そう言えば、みのりは〝遺跡〟については機密事項だとか言っていたのだ。俺のあずかり知らないところで、何か色々と企みが進行しているらしい。

「いいえ。その、詳しくは知らないのですけど──」

「けど?」

「そのぉ──」

「その?」

ここはひとつ、その機密事項とやらを聞かせてもらおうじゃないか……。

「その──ですね。南緯30度帯30 Degrees South周辺は既にロシア隊が捜索に行っていて、風に乗ってこの空域もいずれは捜索の範囲になります。だから、私たちが行く必要はありません。もうひとつの可能性のある北緯30度帯30 Degrees Northを捜索すべきだと考えます」

「なるほど、なるほどね」

うまくかわされた。だが、確かにもっともな意見ではある。いずれ捜索隊が赴く場所にのこのこ出て行くのは無駄だ。ロシア隊の先回りが出来るのであれば、それはそれで意味があるが、あちらさんの方が先発隊で、なおかつ、近距離からのお出ましなのだから、到底追いつけない。ならば、まだ捜索されていない場所に降りた方が賢明だろう。我々はバックアップ──勝手にそう名乗っているだけだが──だからな。

「分かった。北だ。テルス島Tellus Island周辺の捜索に向かう。どこまで詳細な位置が分かる?」

「2000キロメートル四方程度しか分かりません」

「結構広いな」

「すみません。衛星データの解析ではそこまでしか……」

「いや、謝る必要は──ん? 待てよ?」

「はい?」

「〈マンタ・レイ〉から映した地上画像とかあれば、位置が分かるか?」

そうだった。俺は湊川との交信記録をメモリに入れ、図書館に出かけてゴタゴタに巻き込まれたんだった。早速メモリをみのりに渡すと、みのりは手慣れた手つきで、定位置──航空通信士席──のコンソールを叩く。その第一声が、

「上沢少尉。この記録の保管・所持及び一般住居地域等への持ち出しは、守備隊法第4章第5節服務規程第59条の──」

「分かった、分かった」

ここでそれを言うなよ。

「本来なら破棄すべきメモリですけど、これがあれば地形マッピング同定処理で位置の特定ができそうです。今回は仕方ないですね。活用させて頂きます」

「はっはぁ。そうこなくっちゃ」

何故なにゆえここで、このタイミングでみのりちゃんに怒られねばならんのだ? ──と言う疑問も少しばかり脳裏に浮かんだが、まあ、それはいい。結論は意外と早く出て来た。

「えーっと、モニター越しの僅かな部位にしか地形が映っていないので、有意な一致率水準には達していませんが、該当する場所の上位3地点がここです」

食い入るように見つめる──までも無かった。テルス島Tellus Island周辺部にある地点は1カ所。そして、他の2カ所は、イシュタル大陸とアイノ海にあり、〈マンタ・レイ〉の巡航速度から考えて、あの時間で到底到達出来る地点ではなかったからだ。


        *  *  *


金星で人間の住むことができる環境は限られている。正確に言えば、酸素ボンベひとつだけあれば何も手を加えずに住める環境──などという都合のいい場所は、金星では何処にも存在しておらず、で自給自足が可能な区域は何処かと考えることになる。地球と同じく、1気圧で20℃程度の環境を探し求めると、地表から50キロメートルちょいの上空に行き着く。もっとも、厳密な1気圧を求めると、気温が60℃にもなりかなり暑い。湿気は無いから爽やかかも知れないが……。逆に気温が20℃の適温の場所──高度57キロメートル程度──は、気圧が0.5気圧となる。

人間の場合、気温が常時60℃の空間に住み続けるのは難しい。──っていうか無理だ。だが、0.5気圧の空間に住む事は可能だ。地球上で考えれば、高度6000メートルの高地であり、訓練と素養さえあれば何とかなる。ただし、気圧と気温が適切だったとしても、金星の大気中には酸素が無いため、呼吸が出来ない。従って、どのみち居住区は、外気を遮断した閉鎖空間にする必要があり、ならば、内部を1気圧にまで加圧してしまってもいい。熱の方はいくら遮蔽しても外部と勝手に交換されてしまうが、空気の方は遮蔽さえできれば任意に対応出来る。

しかし、居住区内を加圧すると今度は、居住空間の浮力を得るのが難しくなる。金星の大気はほぼ二酸化炭素100%、地球の大気は窒素8割、酸素2割であり、仮に同圧力の場合、地球大気は金星大気の6割強の重さしか無いため、上空に浮く事ができる。だが、居住空間の圧力を外気の2倍にすれば、質量も2倍になるため、今度は沈んでいってしまう。六角形ヘックスモジュールの中央部には災害時を想定して酸素とヘリウムの混合気体が満載されており、これがモジュール全体の浮力を稼いでいるとは言え、外気圧とモジュール全体の内圧との差が大きいことはあまり良い事ではない。

外気圧と居住区の内圧の差が大き過ぎる場合、外壁の損傷や事故──みのりのように故意によるハッチの強制排除も含む──によって短期間のうちに急激に居住区の大気が外に吸い出されてしまう。むろん、対応措置の時間も取れず、事故現場の人間が放り出される危険もあるため、大気差はなるべく小さくしたい。

これら様々な要因が絡み合い、妥協点として高度55キロメートル付近、外気圧が0.7気圧で外気温40℃、居住区の気圧はほぼ同じか若干高めに設定、熱交換機で温度を20℃に保つという方式に落ち着いた。ちなみにこの0.7気圧と言う環境は、宇宙空間で船外活動を行うための予備呼吸プリブリーズ待機時の気圧と同じであり、上るにしても潜るにしても何かと都合がいい気圧である。外気温40℃の基準は、熱交換機の故障を想定して、これ以上暑いと人間のタンパク質が変性して元に戻らなくなるとかなんとか、医学的な要請から決められたようだ。ゆでたまごを冷やしても生卵には戻らないとかいう理屈らしい。

さらに居住区大気は、地球大気とは違い、無窒素雰囲気内で酸素濃度を濃くしている──ただし、声が変わらないところを見ると、単純なヘリウム置換では無いらしい──とか、居住区上部と下部との温度と圧力差を利用した熱交換および温度差発電による排気機構とか、空中都市の生命維持管理には色々と技があるようだが、詳しいことは良く知らない。まあ、一言で言うと『よく出来たシステム』だということだ。周囲には幾重もの安全対策フールセーフティが施されており、ここに住んでいる限り、大抵の事故は居住区全体に広がるような事態にはならない。我々の住む〈レッド・ランタン〉内に関して言えば、年に数件のボヤがある程度であり、記録としてはブロックごと閉鎖という事態すら起こした事が無いようだ。

だが、これら事故・事件の記録は、空中都市から離れた場所──つまり、飛行中の航空機や飛行船内では、桁違いに増える。それでも上空へ上って行く方は、比較的安全だ。途中で機体がお釈迦になっても、間違って──あるいは御影恭子のバカのように故意に──飛び出しても、宇宙服を着ていれば即死にはならない。いくら外が真空であったとしても、気圧差は0.7以上にはならないからだ。気圧がマイナスになることは無いから当然と言えば当然のことである。それに、温度が100℃であっても、マイナス100℃であっても、外の大気が薄ければ短期間ならそれほど問題ではない。

問題なのは、地表へ降りる方だ。地表面の90気圧、460℃という環境に放っぽりだされれば、大抵の人間は即死である。聞いた話だと、高圧環境下での人間の活動記録は70気圧が限界であり、加圧に一週間、減圧に二十日かけないと不可能な作業だと言う。もちろん、通常の空気だと窒素でラリってしまうから、窒素をヘリウムに変更した混合ガスHelioxが必須となる。『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』の姫島の話では、加圧がキツいと高圧神経症候群HPNS: High Pressure Nervous Syndromeで吐き気がするらしく、痙攣発作を起こした者も何人か知っていると言う。装甲兵アーマードソルジャーが痙攣しているのだから危険極まりない。

それならば、内部が常に1気圧の装甲服アーマードスーツにすればいい。完全な気密性を保ち、外動力で動く装甲服アーマードスーツなのだから、既に実用化されている大気圧宇宙服ASS: Atmospheric Space Suitと同等の機能を持つ装甲服アーマードスーツにすれば、予備呼吸プリブリーズも必要なくなり一石二鳥なのに──と素人考えでは思うのだが、装甲服アーマードスーツの内圧を1気圧程度にすると、今度は外気圧との差によって圧壊あっかいの可能性が増える。命の危険を考えれば、こちらの方がリスクが高いそうだ。装甲兵アーマードソルジャーは手足を動かす必要があることから、潜水艦のような分厚い装甲を関節部などに使う事ができないので、どうしても内圧を上げて対処することになる。大気圧宇宙服ASSの場合は最大で1気圧の差に耐えるだけでいいが、金星表面に降りる装甲服アーマードスーツの内圧が1気圧の場合、最大で89気圧の差に耐えねばならない点が問題なのだ。

圧壊あっかいは怖い。全くもって前兆ぜんちょうが無いからだ。もちろん、あちこちがきしむということはあるが、それは序章であり前兆ではない。破壊は一気にやってくる。俺は飛行機乗りだから経験はないが──いや、潜水艦乗りでも圧壊あっかいはいないだろうが──、潜水艦乗りはあんな閉鎖空間でよく精神的に耐えられるものだと感心する。周囲が見渡せないというのは飛行機乗りにとっては苦痛でしかない。

〈マンタ・レイ〉の巨体は、飛行機というより、潜水艦に近い。機動力が緩慢なのも嫌いだが、どうも、この操縦──いや、操感触が気に入らない。事実、〈マンタ・レイ〉の〝潜航〟は、潜水艦のバラストタンクへの注水と同じ原理で潜る。すなわち、船体に空気房バロネットと言う外気取り入れ口があり、外気を注気して降りて行く。飛行船でも同様な空気房バロネットが船首と船尾に1つずつ備わっているが、〈マンタ・レイ〉は縦長な飛行船と違い、翼の方が長いので、翼全体の前面と後面に横長に空気房バロネットが分散して付いている。これにより、機体上下動ピッチングのみならず機体軸回転ローリングも可能となっているが、何しろ動作が緩慢なので、昇降舵エレベータ補助翼エルロンとは違う機動となる。〈マンタ・レイ〉は飛行機と飛行船の合体というか、どちらでもないコウモリのような存在なので、補助的に──どっちが補助なのかは分からないが──昇降舵エレベータ補助翼エルロンも付いていて、それらは全てコンピュータ制御で操作するのが基本だが、俺としては、マニュアルで操作するのが好きだ。

いや、『好きだ』というのは語弊がある。どちらも好きにはなれないが、嫌な中でもマシな方──と言うべきだろう。


        *  *  *


目指すテルス島Tellus Islandは我々が統括している北緯30度帯30 Degrees Northに属している。どうやって赤道を越えようかと思案せずに済んだだけ儲けものだ。赤道越えは、管轄空域だの捜索救助SAR協定だのという行政的な手続きを考えなきゃならないという政治的な問題だけではなく、物理的に移動が面倒なのだ。

金星では、スーパーローテーションという猛烈な東風が常に吹いている。地球のようにやれ偏西風だの貿易風だの、上空のジェット気流ストリームだなどという様々な風を考慮する必要は無い。50度以上の極域を除き、空抜0メートル付近では秒速60メートルの東風があまねく吹いている。だが、我々は〈レッド・ランタン〉に住んでいる限り、その風をあまり感じない。理由は簡単で、空中都市はその名の通り全て空中にあり、その風に乗って移動しているからだ。風に漂う気球は、風に乗っているからこそ無風だといえる。

だが、風の動きは、水平方向だけでなく、鉛直方向の上昇下降流も存在する。至極簡単に言えば、夜間で大気が冷えて下降し、日中に上昇するという夜昼間対流という風が赤道ではおきる。太陽で加熱された大気は、熱潮汐波という上下方向に伝わる振動を生み出す。さらに、〈レッド・ランタン〉がある空抜0メートル付近の空域は、硫酸雲のまっただ中にあり、太陽光を大量に吸収する高度でもある。要するに、常に積乱雲の中を飛んでいるようなもので、飛行船モドキの〈マンタ・レイ〉を、赤道を越えて遅滞無く地表の一点に誘導するのは至難の業なのだ。このため、まずは地上からの高度30キロメートル、空抜マイナス25キロメートルの雲下まで降下してからの水平方向移動が得策だが、高圧・高温の場所で長く航行するのはそれなりのリスクがある。相転移吸熱体PTHAによる熱処理も永久に持つわけではない。そこで、地表というアタックポイントへの根拠地ベースキャンプとしての浮遊基地フロート・ベースが存在するわけだ。なかなかうまく出来ている。


──と、何度も見て来たかのようなことを言っているが、俺も実際に地表に降りるのはもちろん始めてだ。シミュレーションと実際とでは、やはり気持ちが違う。こればっかりは、何度シミュレーションを行おうが、『これは演習ではないThis is not a drill』と言う状況に慣れることはない。ただし、作業自身がシミュレーションと異なっているわけではないから、操作は淡々と進む。要は空気房バロネットの加圧送風機の操作と、自立型航行装置とGPS高度計アルティメーターの確認。機体外周の気圧や温度のモニター。Sバンド・デジタルアレイレーダーAMDR-Sによる索敵──いや、敵は表向きはいない筈だから捜索活動と、翼面下部に取り付けられた位相整合式Lバンド合成開口レーダーPALSARおよび1μm帯近赤外レーザーによる地表面の探査等々……。地味だが気の抜けない作業が続く。半自動化というか99%は自動化されているとはいえ、最終判断は人間が行わなければならない。このへんの処理は、どちらかというと俺よりみのりちゃんの方が専門で、彼女が〝人質として〟であったとしても、〈マンタ・レイ〉に乗っているというのは心強い。


で、当のみのりは、乗り込み直後に御影恭子と共に操縦室に顔を見せ、行き先をテルス島Tellus Islandに決めた後は、作戦指揮室OIC──簡易なものだが、操縦室とは別にある──の端末を使って何やらスクリプトを書いていた。その間、約15分。が操縦席右上のモニター内に出てくる。金星地表の地図上に、何かモヤモヤとした、まるで彗星というか、尾を引いた火の玉というか、そういう画像が多数……。

「何だよ、これ?」

操縦室内の航空通信士席にみのりが戻って来たのを見て、話を切り出す。

「えっと、おそらく、この軌跡が浮遊基地フロート・ベースの位置を表していることになる筈です。理論的には」

「えっ? 近くの浮遊基地フロート・ベースの位置はここに──」

「それは当てになりません」

「しかし、GPS衛星追跡情報だと──ああ?」

そこまで喋ってから気がついた。GPS衛星回線に何者かが侵入ハッキングしたとみのりは考えている。ならば、その情報が当てにならないと考えるのは当然のことだ。

「じゃあこの、ナメクジがのたうった跡みたいな絵は?」

「ナメクジじゃないですぅ」

何か露骨に嫌な顔をされる。ナメクジ嫌いなのか? まあ、あまり好きな奴はいないと思うけど。

「それは、浮遊基地フロート・ベースにぶつかった大気が起こす内部重力波のエネルギー鉛直伝搬を捉えたものです。浮遊基地フロート・ベースは風に流されていますけど、鉛直に数キロの幅があるので、上下で風速差があります。それと、水平方向でも10キロメートル程度の幅がありますから、波動が上下に伝搬するんです」

「──えっとだな。もっと簡単にならないか? その説明」

わけが分からない。

「簡単に言うと……、えーっと……山岳波です」

「ほほぅ」

山岳波Mountain waveならなじみ深い。いや、あまりお馴染みさんにはなりたくは無い。要は、風が山に当たって大きくうねる乱気流タービュランスの波で、飛行前の飛行計画確認ブリーフィング時では、発生場所を頭に叩き込んでおく必要がある。いつも起こっているわけではないから、衛星での波状雲を見たり、先行部隊の機上気象報告PIREPを参考にする。地形の影響だから、たとえ快晴であっても生じ得る厄介者だ。まあ、悪さをするばかりではない。逆に言えば地形によって生じるのだから、発生箇所が特定し易く、上昇流をうまく捕まえれば、グライダーで数千キロも連続で飛び続けることが可能だ──って、あれ?

「山の場所じゃなくて、浮遊基地フロート・ベースの位置を表示していると言うことだが?」

「はい。地形の影響は反射波地図情報クラッター・マップを使ってあらかじめ除去しました。残る巨大な構造物は浮遊基地フロート・ベースだけです」

「だが、浮遊基地フロート・ベースは普通は風任せに浮いている代物だろ? 阻塞そさい気球みたいに係留されているわけじゃないんだし」

「そうなんですけど、えーっと──阻塞そさい気球ってなんですか?」

「いや、何でもない。つまりだ。風にたなびいているなら、風を強制的にせき止めたり出来ないじゃないか」

「ですから、浮遊基地フロート・ベースは鉛直に数キロの幅があるので、上下で風速差があるのと、発生した内部重力──いえ、山岳波は確かに僅かなんですが、金星の分厚い大気層を上がるにつれて振幅が格段に増幅されるんです」

「…………?」

良くは分からないが、ともかくこれを見ていれば、浮遊基地フロート・ベースの位置はある程度正しく分かるらしい。どのみち、硫酸雲下に潜って浮遊基地フロート・ベースが1000キロメートル以内の距離に入ってくれば、〈マンタ・レイ〉のSバンドレーダーで位置特定は可能だろう。

「ところで、このナメクジ画像の元データは何だ? 衛星は当てにならないんだろ?」

「ひとつだけ侵入ハッキングできない衛星があるんです。侵入ハッキングして秘密裏に操作してもすぐバレちゃう衛星が……」

みのりは何故か嬉しそうだった。この手の情報操作はホント好きなんだよなぁ。

「あったか? そんな軍事衛星」

「軍事じゃありません。気象衛星です。気象衛星は軍事衛星ではノイズ扱いとされている硫酸雲や硫酸雨を捉えて公開しています。点状の飛行物体の補足じゃなくて、それ以外の広範囲のデータ処理です。点を消したり移動させたりする改竄クラッキングは気づかれにくいですけど、相手が大気層全体だったら、するのは不可能です」

「なるほど。それで、山岳波Mountain waveか……」

山岳波Mountain waveです」


軍事衛星と気象衛星は表裏一体の関係にある。軍事衛星にとって、雨や雲からの反射波エコーはノイズ以外の何者でもない。これらの影響を極力排し、航空機のみを捉えようとする。反対に気象衛星は、個別の航空機を無いものとして処理しなければならない。もちろん、航空機と雨粒では大きさが全く違うから、これらを捉えるためのレーダー周波数が違うのだが、航空機側も軍事衛星にやすやすと見付けられることを是としているわけではない。当然ながらステルス技術が発展し、狐と狸の化かし合いが起こる。巨大な航空機であってもレーダー反射強度は小鳥並みとなり、本物の渡り鳥や虫が映るエンジェルエコーやシークラッターと見分けが付かなくなった。まあ、金星なら海面の砕波さいはによる海面反射シークラッターは無いだろう。また、航空機と小鳥なら、速度が全く違うため、ドップラーレーダーで周波数遷移を確認すればなんとかなるが、当然ながら視線方向に垂直な方向──要するに近づくか離れるかの方向──の速さのみが選別対象となる。人工衛星からの視点では、ミサイルのように金星上を急上昇・急下降する物体でない限り、干渉合成開口レーダーInSARを使っても、その選別は難しい。

そもそも論から言えば、飛行機がステルス化し秘密裏に行動出来るのは、山岳など地形と比べれば、圧倒的に小さいからだ。小鳥程では無いが、入道雲Cbよりは小さい。少々危険だが、視認索敵はもちろんのこと、レーダーから逃れる為にも、雲中に潜るのは常套手段だ。雲と同パターンの反射波を出して攪乱するステルス機さえ存在する。

敵に見つからない様にするため発達した方法は、敵の目をあざむく方法だけではない。もっと積極的に、敵の目を潰す方法も発展している。戦争のセオリーとしては、まず開戦時に敵の軍事衛星の無力化、レーダーサイトの破壊、通信・放送施設の占拠が真っ先に行われる。レーダーなどは能動的アクティブにマイクロ波を出しているから、そのマイクロ波にホーミングするミサイルARMもある。だからと言って、レーダーの前面に分厚い装甲を施すのは不可能だ。目を守るために目隠しをしてしまっては、目を使う事ができない。総じて、索敵を行う機器は防御が甘い。


みのりの言うように、GPS衛星追跡情報が改竄クラッキングにより当てにならないとなれば、我々の捜索能力は眼鏡を外された近視眼状態にあり、上空を飛ぶ豆粒のような航空機が、近視眼では確認出来ないのと同様、〈マンタ・レイ〉のSバンドレーダーだけで浮遊基地フロート・ベースを発見するのは、奇跡でも起きない限り、まず不可能だ。だが、そんな状態でも航空機を見つけることはできる。のだ。

衛星を侵入ハッキングし、航空機──今回の場合は、浮遊基地フロート・ベース──の位置情報を消したり移動させたりして攪乱することはそれほど難しくは無い。相手がだからだ。だが、そこから派生する飛行機雲は線であり、条件によっては速やかに面となる。雲粒を見ているのは気象衛星だから、こちらも軍事衛星と同様に侵入ハッキングすることは出来る。むしろ、軍事衛星よりも侵入ハッキングは容易いだろう。だからと言って、飛行機雲は簡単には消せない。正確には、不自然にならないように改竄クラッキングすることが困難と言うべきだろう。航空機が一機消え失せようが、撃墜されようが、自然界には何ら影響が無い──と思うのは早計だ。航空機の損失は、それほど影響は無いかも知れないが、そこから発生すべき飛行機雲の有無は、自然界の気候を変える。気候と言う表現が大袈裟なら、明日の天気が飛行機雲の有無で変わることがあり得る。こうなると、誤摩化しが効かない。天気の変化は点では終わらず広範囲に渡るからだ。


飛行前の航空予報官による航空気象解説WX-BRIEFの聴講は必須だが、逆に、航空予報官側も、我々の飛行経路をチェックしている。聞いた話だと、その経路情報をスパコンに入れ込んで、予報の修正をしているらしい。我々は安全な飛行のために予報を聞くのだが、予報官は、次の予報のために我々の飛行経路を聞いてくる。こうなると、鶏が先か卵が先かの話なので、その昔、『じゃあ、飛行経路を変えたら、明日の天気が変わるのか?』と冗談まじりに担当の予報官に聞いたら、その予報官は真面目な顔して『その通りだ』と答えてくれたのを覚えている。軍事行動で予めの飛行経路をまともに教えられるわけ無いだろうとも思うが、彼らは大真面目だ。そのうち、『我々の天気予報が当たらないのは、君たちが申請通りに飛行しないからだ』と言われそうだ。──まあ、冗談はともかくとして。

地球上での天気の話が、ここ金星でどれほど役に立つのか、あるいは役に立たないのかは俺にはよく分からない。ただ、みのりの言わんとすることは分かる。浮遊基地フロート・ベースによって飛行機雲が作られることはないようだが、微小な山岳波Mountain waveを発生させるらしい。発生時は微小でも、上方に伝搬すると振幅が増大し、やがて上空で砕波さいはする。当初は数キロ程度の規模だった揺らぎが、最終的にはおそらく数十キロから数百キロメートル程度の規模になる。こいつをかき消すことは出来ない。衛星のデータをいじり回せば原理的には可能なのだろうが、よほど周到にやらないと一発でその不自然さに気づく。さらに、例え不自然さを全く感じない改竄クラッキングが可能だったとしても、それによってになってしまっては修正の意味がない。天気は改竄クラッキングのしようがないのだ。


改めて、みのりの作った〝ナメクジ画像〟と、改竄クラッキングが疑われるGPS衛星追跡情報とを比べてみる。ほとんどは一致しているが──なるほど。地表降下部隊アタッカーズが向かった筈の12番浮遊基地フロート・ベースのあるべき地点には、何も無さそうだ。もっとも、GPS衛星追跡情報は、数メートル単位のピンポイントの位置情報だが、ナメクジ画像は数十キロメートル単位のボヤッとした面だし、ノイズも多いので、どこまで正しいのかは何とも言えない。何しろ、気象衛星は、空抜0メートル準静止軌道──地表から10万キロメートル上空を地球時間の4.5日程度で一周──で回っている。地球の静止軌道は3万6千キロメートルだから、3倍くらいの遠さだ。解像度は望むべくもない。ちなみに、金星はほとんど自転していないので、本当の意味での〝静止衛星〟は存在出来ない。正に、無い無い尽くしの感があるが──、それでも、今はこれを信じるしかあるまい。


        *  *  *


降下開始から約1時間。硫酸雲の雲底に到達する。肉眼で金星の地表を拝めるのは、状況が状況だとは言え、やはり少々興奮するものだった。風防ディスプレイWS-HUDを透過ガラス同様の可視モードにしても罰は当たらないだろう。

黄味がかったもやの向こうに、少しずつ黒い大地が現れてくる。実際に黒いのかどうかは、可視モードでは良く分からない。上空から降り注ぐ光は硫酸雲のフィルタにより大きく減衰し、ナトリウム灯で照らされたトンネル内のような光景が広がっている。金星軌道における太陽定数は地球の倍程度。大気外で比較するならそれだけの光量差があるが、分厚い雲下では逆に、地球晴天時の半分以下になってしまう。

を再現すべく、可視モードを止め、|固定式高度可視・赤外撮像素子《FEVIRI : Fixing Enhanced Visible and Infrared Imager》を使ってRGB合成してやればそれなりの色と明るさにはなる。ただ、どのみち肉眼で見た映像とは違ったイメージになるだろう。それなら、可視モードで見た方が幻想的──いや、地獄の一丁目的な雰囲気が出ていて好ましい。──おぞましいかな?

雲底に達したといっても、空抜マイナス15キロメートル。さらに10キロほど降下しないと、完全にはもやからは抜け出せない。外気温は150℃程度の〝低温〟で、気圧も3気圧程度だから、機体もまだまだ問題なく降下できる。陸地──どこもかしこも陸地だが──も光学系のセンサーで捉えられるようになり、外気が20気圧を越えるころまでは手を抜くことができる高度だ。もっとも、その間に『12番浮遊基地フロート・ベースとランデブーする』という大切なミッションがあるのだが、そこまでのエスコートはみのりちゃんに任せておこう。

で、その肝心のみのりは、ずっとレーダー画像やその他情報満載のディスプレイとずっとにらめっこしている。やれやれ……。


「みのりちゃん。で、俺はどっちの方向に飛べばいいんだ?」

ナメクジ画像のディスプレイを見ればおよその見当は付くが、わざと聞いてみる。

「はい。えーっと……このまま西へ。ほぼ真下に晶子Akikoクレーター、9時の方向にヨルカイ・エストサン山Yolkai-Estsan Monsサパス山Sapas Monsが重なって見える筈です」

「ほお。そのヨルカイなんとか山というのは、てっぺんが赤いヤツか、青いヤツか?」

「えっ? 色……ですか?」

みのりが顔を上げて正面左を見てきょときょとし、目をぱちくりさせた。中々いいリアクションだ。

「──冗談だよ。レーダーばかり見ている監視兵に言う古典的ジョークだ」

正式には、艦隊の位置をレーダーばかりで確認し、目視をしていないヤツに対して、

『その艦は赤いファンネルか? 青いファンネルか?』

──と聞くのが正しい。ジョークに正しいも何もあったもんじゃないが。

「あ。すみません」

みのりは気まずそうに、ペコリと頭を下げる。気の張り過ぎは禁物だ。気概は分かるが、長期戦となった場合、途中でポッキリ折れる。なにせ3人しかいないからな。御影恭子は素性も含めて分かったもんじゃないから、戦力に入れていいものかどうか分からないが、途中で操縦を替わってもらう必要はあるだろう。おそらく彼女も、交代要員が欲しくて『パイロットを探して』いたのだと思う。

で、その肝心の御影恭子は、〈レッド・ランタン〉から離陸直後は、無線をチェックしたり、後方レーダーを見たりして追っ手の有無を確認していたが、10分もすると、『ここお願い』と、貨物室カーゴルームへ。そう言えば、最初見たのも〈ブーメラン〉の貨物室カーゴルームだったな。あいつは貨物室で一人っきりになるのがそんなに好きなのか。やれやれ……。


乱気流タービュランス予測で顕著現象Extreme Eventが無いことを確認した後、俺は操縦をオートパイロットに切り替え、操縦室をみのりに任せて貨物室カーゴルームに行く事にした。もやが完全に晴れる高度に達するまで約30分。特に緊急を要する操作も、見ておくべき光景もない。それよりも、みのりには内緒で──と言うか、みのりは絶対に教えてくれないであろう〝遺跡〟について、御影恭子に聞いておく必要があると判断した。そもそもは、そいつが、地表降下部隊アタッカーズ失踪の直接的な原因だと考えられるからだ。


「今、どのあたり?」

降りて来た俺を察知して、先に話しかけて来たのは御影恭子の方だった。『操縦は誰が?』とか『何しに来たの?』とか聞かないところが彼女らしい。

「空抜……いや、高度35キロメートル程だ。30分もすれば完全に雲海から出られる」

「あら、そう」

実に素っ気ない。彼女は、貨物室カーゴルーム壁面にある担架のような簡易椅子を引き出して座り、垂直離陸VTOL機から乗り込む際に持ち込んだと思われるバックパックから、スレート端末を取り出して何やら見ている。マイペースなヤツだな。

「少し聞きたいことがある。〝遺跡〟のことだ」

御影恭子はスレートから目線を離し、上目遣いでこちらを見る。良いアングル──いや、そんな話をしたいのじゃないな。時間は限られている。

「〝遺跡〟のことなら、伊川軍曹の方が専門だと思うけど?」

「彼女は話してはくれない。軍規でな」

「あら、そう──」

やはり素っ気ない。それにしても、コイツは何故みのりのことを知っているのだ。

「──まあ、軍規なら仕方ないわね。パイロットになってもらったことだし、教えてあげる」

「……それはありがたいな」

選択の余地はほとんど無いスカウトだったけどな。

「遺跡とは一体なんだ。RERCの幹部の話だと、お前がそのを狙っていると聞いたが……」

「狙っている? アタシが? まさか。狙っているのはRERCでしょ。それと、貴方達もね」

「俺はそんなモノは知らん」

「ははっ。でしょうね。だから、置いて行かれた」

「何っ!」

いや、ケンカ腰になっている場合ではなかった。遺跡に関しての情報を引き出せる相手は、今の時点では彼女しかいない。

「──で、何なんだ。遺跡と言うのは。硫酸なんとか細菌の排泄物とか何とか聞いているが……」

「良く知っているじゃない。硫酸還元磁性細菌が作り出した磁鉄鉱マグネタイトナノ粒子の巨大な塊。でも、それは半分正解で、半分不正解。遺跡のはそれだけじゃないわ。マグネタイトは単なるコーティング材。薬にまぶされた糖衣とういみたいなもの……」

「言っていることが分からんな」

掛け値無しに分からん。さっぱりだ。

「遺跡にあるのはね……。大量のモノポールよ」

「モノポール! モノポール──って何だ?」

御影恭子はわざとらしく肩を落として溜息を付いた。いちいちシャクにさわるヤツだ。

「磁気単極子。磁石って、普通はN極とS極の2つがあるでしょ。あれが片っぽしかない素粒子。アメーバ並に重いらしいけど……。まあ、アタシも良くは知らないんだけどね」

何だ、大見栄を切ったくせに知らねーのかよ。けんか売っているのかコイツは。

「──その分野はDr.魚崎の専門。RERCが狙っているのもモノポールの方……。アタシはそれを取り囲んで保持している磁性体の配列構造と、磁性体を作り出した硫酸還元磁性細菌のncノンコーディングRNA遺伝子の配列構造を知りたいだけ」

「そのモノポールを手に入れると、何かご利益があるのか?」

「そうねぇ……。この世のエネルギー問題が全て解決するわね。多分」

「エネルギー問題が解決?」

「そう。無尽蔵のエネルギーが手に入る。ルバコフРыбако́в効果でね」

うーむ。やたらとルバコフРыбако́вの発音が良かった気がするが気のせいか?

「それは熱核反応の一種か?」

「陽子崩壊反応だから少し違うみたい。魚崎の話だと、陽子が陽電子とπ中間子パイオンになり、陽電子は電子と対消滅。π中間子パイオンもすぐさま光子になるらしいから、水素原子さえあれば100%の効率で質量をエネルギーに変換出来ると言ってたわ」

「それは──つまり……、反物質エンジンが作れるってことか?」

おそらくチグハグなことを言っていると思うが、100%のエネルギー変換効率を持つエンジンは反物質エンジンしか知らない。核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』のシミュレーション搭乗時に、将来のロードマップとして反物質エンジンを嬉々として語っていた太陽系外宇宙技術研究所NOL: National Outer-space Laboratoryの研究者を思い出す。夢を語るのは構わないが、そんな数十年先の話をされても、俺はそのころは引退してるぜ──とか考えていた。

「反物質エンジンは文字通り〝反物質〟が必要でしょう? それは自然界にはほとんど存在してない。今は核融合のエネルギーを利用して、反物質を精製、貯蔵しているだけで、エネルギー源はあくまでも核融合炉。エネルギー変換効率は悪いわ」

「モノポールが反物質に変わるのか?」

「いいえ。モノポールは触媒だから増えも減りもしない。モノポールがあれば、陽子を連続的に崩壊させることが出来るから、そのへんに転がっている石でも100%エネルギーに変えることができる。まさに究極のエネルギー発生機よ」

「究極のエネルギーか。百年以上前から言われ続けているセリフだな……」

どこまで本当かは分からないし、モノポールってヤツの有る無しについては俺は興味が無い。食えそうに無いしな。そういうのは科学者に任せておけば良いと思っている。問題なのは、それが存在すると信じている人がいて、実際に俺たちがその騒動に巻き込まれているという事実だ。要は、資源争いなのだから、貴金属やレアメタルを求めての争奪戦と構造は一緒だ。

──いや、相手がエネルギー資源の争奪戦となると、ことさらタチが悪い。そいつは太古の昔から現代に至るまで、主要な戦争の火種だからだ。〝究極の〟なんて枕詞まくらことばがつくほどなんだから熾烈な争いがおこるのは必至だろう。

RERC──共和国エネルギー管理委員会──がその〝究極のエネルギー〟を狙うのは良く分かる。おそらく共和国政府自身がその遺跡を独占することを狙っているのだ。だが、その先が分からない。

「うーむ。どうもよく分からんな。そんなのはRERCだけで秘密裏に掘り出せばいいじゃないか。何故、俺たちを巻き込む必要があるんだ?」

「伊川軍曹から聞いてないの?」

「むっ? 機密事項だとしか聞かされていない」

「あら、そう。貴方……よほど信用されていないみたいね──」

「悪かったな!」

御影恭子は呆れた様に笑った。くそっ。むかつく。

「遺跡を発見したのが、あなた達の地表降下部隊アタッカーズだったからよ。前回のね」

「何っ⁈」

「そして、その地表降下部隊アタッカーズと最後の交信をしたのが、伊川軍曹」

「最後の交信⁈ 遭難したのか? そんな引き継ぎは受けてないぞ」

「遭難──と言えば、遭難ね。もっとも、遭難したのは自立歩行探査機ドローンだけど」

自立歩行探査機ドローンか……」


地表降下部隊アタッカーズが降下する前には、あらかじめ現地の状況を調査するため、降下予定地点に緊急避難用物資と共に複数体の自立歩行探査機ドローンが投入される。彼らは人間程には融通が利かない──しばしば人工知能AIを切って遠隔操作が必要になる──が、管制官の指示に従って本番さながらに動くように出来ている。居残り組とはいえ、今回の作戦にみのりが加わっている以上、そのリハーサルにみのりが参加していてもおかしくは無い。

──そう言えば、そんなことを言っていたような気もする。どんな場面だったかは覚えていないが。

「そこであなた達は〝遺跡〟を発見した。本来なら国連と共和国政府に届け出る必要があるけど、あなた達はそれをしなかった。理由は簡単。分かるわよね?」

「遺跡を──、遺跡を独占すれば、究極のエネルギーを独占出来る……からか?」

「まあ、そういうことね」

御影恭子はまた笑った。ただし、今度はかなり冷たい笑いだった。


地表降下部隊アタッカーズ降下前の作戦会議ブリーフィングでは、どの国のどの隊が降下する場合であったとしても、公開されるのが原則だ。逆に言えば、あまり興味の湧かない降下目的であったとしても、緯度別に分割された管理地域別の代表者最低2名は作戦会議ブリーフィングに参加することが義務づけられている。これが結構面倒くさい。

──いや、行って帰ってくるだけなら物見遊山で意外と楽しいと聞く。外の景色は何処に行っても同じだが、都市部の飲屋街を歩くのが楽しいらしい。

問題は、帰って来た後だ。報告書を山のように書かねばならない。ヴィーナス・アタック自身に何事も無ければそれだけで済むのだが、事故があったりすると、その原因についての説明が求められるし、それを作戦会議ブリーフィングの段階で事前に指摘できなかったのかなど、色々と根掘り葉掘り聞かれる。その時には、普段は誰も読みやしない議事録も引っ張り出されてくるから、参加しただけで何にも発言してなかったりすると『お前は何をしに行ったのだ!』と大目玉を食らう。俺は、今回のアタックのための事前資料としてこれらを読まされただけだが、資料をめくるだけで『面倒くさいな』と嫌気がさした。

だが、公開されているのは、あくまでも地表降下部隊アタッカーズ降下前の作戦会議ブリーフィングであって、予定着陸点の予備降下プレ・アタックについては、各隊に任されている。そもそも、予備降下プレ・アタックの情報を元にして作戦会議ブリーフィングを行うのであるから、予備降下プレ・アタック時には、他機関へ報告するような情報が何も無いのが普通だ。それでこその予備──下調べなのである。

今回は、その予備降下プレ・アタックの段階で大きな発見があり、それを──にわかには信じられないが──我が隊が機密事項として隠していることになる。では、何故、機密事項である筈の〝遺跡〟の情報が御影恭子やRERCの連中に漏れているのかという疑問は残るが、話のスジとしてはそういうことになる。みのりが何か隠しているのは間違いないのだが、だからと言ってこの話を鵜呑みにできるほど、御影恭子を信用していいとも思えない。そもそも、こいつは──、そう言えば……。


「もうひとつ。聞きたいことがある──」

俺はソーニャの話を思い出していた。

「──南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地で風邪が流行っているそうだ。硫酸なんとか細菌によってな……」

「そんな筈はないわ。硫酸還元磁性細菌は……そうね。コンクリートなら腐食させるけど、人間には直接的な害はない菌よ。大量に発生すれば硫化水素が害になるけど、人の体内で増殖する菌じゃない」

「RERCはお前が犯人だと疑っている。それでお前が姿をくらましたと……」

「アタシが?」

「そうだ」

「ふーん」

御影恭子は少しばかり考えごとをしている素振りだったが、ひとり言のように、

「──偽遺伝子Pseudogeneを発現させたのかもね」

とつぶやいた。

「何だ? その、〝シュードゲネ〟っていうのは?」

「ボストーク基地の細菌はかなりジャンク化してたけど、金星の菌の中には特定の遺伝子の発現を促進させかねないncノンコーディングRNAを含んだものもあってね」

「んん?」

「ともかく。その仕事をしたのはアタシじゃない。信じるか信じないかはあなたの勝手よ」

「うーむ……」

まあ、確かにそうだ。仮にここで彼女が嘘をついていたとしても──、つまり、風邪の原因が彼女だったとしても、それで俺の行動が変わるわけではない。追求しても無意味というものか。

「しかし、アレだな。その何とか還元菌と言うヤツは、モノポールは集めるし、風邪は起こすしと、色々と多芸な菌だな」

「いいえ。それは少し違う」

何の気無しに取り繕った俺の言葉を、御影恭子はにべもなく否定した。

「金星由来の硫酸還元磁性細菌は、モノポールを包み込んで固定させる揺りかごを作り出すようにだけ。モノポールを作り出すことは出来ない」

「さっきは、大量のモノポールがあるって言ってたじゃないか」

「そう。モノポールは人為的に持ち込まれたものよ」

『人為的? それは一体どういう意味だ』──と、問うことは出来なかった。みのりからの連絡が割って入ったからだ。

「上沢少尉。浮遊基地フロート・ベースからと思われる信号をキャッチしました」


        *  *  *


浮遊基地フロート・ベースは意外にもあっさりと見つかった。まだ肉眼では捉えてはいないが、こちらから捜すまでもなく、向こうから呼びかけてくれていた。高度30キロメートル。外気は10気圧、230℃。硫酸のもやも消散し、ここから下がいわゆる金星の〝釜の中〟と言われている場所だ。もちろん、地上で恒常的に生きている生物はいない。金星の環境に順応した硫酸還元磁性細菌ですら、雲下では短期間しか生存できない。ならば、どうしてそいつの老廃物だか生成物だかのモノポール入り磁鉄鉱の塊が地上にあるのか?


『5億年前までは、地上でもこれら細菌が生息出来る環境だった』


──と言うのが、他でもない御影恭子の論文の一節に仮説として書いてある。以前、みのりが見つけ出してくれた論文だ。もちろん、本人に聞けばその詳細を微に入り細を穿つように教えてくれるに違いない。あるいは、ハナから教えてくれないかのどちらかだろう。どちらにせよ、俺は詳細など聞きたくはない。知りたいのは、遭難した地表降下部隊アタッカーズの居場所だけだ。それがこうもあっさりと見つかったと言うのは、意に反していささか拍子抜けだが、地表に降り立つ必要がないならそれに越したことはない。──いや、正直に言えば、少し残念ではある。

もちろん、御影恭子との約束があるから〝遺跡〟には行かなければならないが、人命救助の方が先だ。緊急に〈レッド・ランタン〉に戻らねばならないような事態が発生していたならばそちらを優先するのは当然のことである。


「よう。上沢か。何しに来た?」

俺は面食らっていた。浮遊基地フロート・ベースからの信号と聞いて、てっきり救難信号SOSだろうと考えていた。だが、実際に俺の耳に飛び込んで来たのは、姫島の陽気な声だった。どうやら千船と杭瀬もいるらしい。要するに『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』御一行様である。声の陽気さからして、遭難ともまるで無縁のようだ。怪我人がいるようにも思えない。

「何しにって──無事なのか?」

無事なのは分かるが、一応聞いてみる。

「無事? 妙なことを聞く奴だな。無事に決まってる。だから浮遊基地ここに居るんだ」


浮遊基地フロート・ベースはその名の通り、〈レッド・ランタン〉のような空中都市と過酷な金星地表とを結ぶベースキャンプの役目を果たしている。軍事的な拠点という意味でも、登山を開始する──いや、この場合は下山を開始すると言うべきかもしれないが、ともかく、そういう意味においても文字通りベースである。となれば、誰かが地表降下部隊アタッカーズとの中継役としてここに残らなければならない。

──と言うのは、実は昔の話で、人工知能AIを搭載した浮遊基地フロート・ベースなら、その役目は浮遊基地フロート・ベース自身に任せておける筈だった。事実、先立って行われた作戦会議ブリーフィングでもそういう説明になっている。第一、残ったところで、地表降下部隊アタッカーズとは違い、浮遊基地フロート・ベースは風に流されるから、再びランデブーするのは最短で一週間後だ。つまり、降下時に立ち寄った浮遊基地フロート・ベースに再び戻るような作戦の場合、地表降下部隊アタッカーズの撤収時刻が著しく制限されるわけで、近頃は〝とりあえず来た電車に乗る〟ように、順繰りに巡って来た浮遊基地フロート・ベースまで戻るのが通例である。そういうわけで、降下時に立ち寄った浮遊基地フロート・ベースには──浮遊基地フロート・ベース自身に必要な備蓄用の資材等は別として──何も残さずに全員が降下する。下手に人員が残ると、そこから引き上げるための追加作戦が必要になって二度手間だ。予算的にも文句を言われるので、特別な事情がない限りそんなことはしない──筈なのだが。

「はっはぁ。理由か? それはここまで来てみれば分かる」

不思議に思い、聞き返した俺に対して、姫島は一言そう言って無線を切った。確かに、そっちに行って聞いた方が話が早そうだ。


        *  *  *


〈マンタ・レイ〉の高度をじわじわと下げながら、ノロノロとした全速力で浮遊基地フロート・ベースに向かう。外気圧が高くなった分、ヘリウムガスの体積は小さくなるから、空気房バロネットへのバルブを開けておけば、ある程度高度が下がると後は自動で降りて行く。逆に外気を取り入れなければ、気圧差が増し、軽さと強さを兼ね備えた炭素繊維強化樹脂CFRP: Carbon Fiber Reinforced Plasticsの外骨格と言えども、あっという間に崩壊すること必至だ。皮膜となっている炭素微細管CNT: Carbon NanoTube繊維は、引っ張り強度はピカイチだが、圧縮する向きの力には何の支えにもならない。ガス圧の調整や、外気の空気房バロネットへの取り込みはコンピュータ制御だから特に気にする必要は無い。時折聞こえるバルブ開閉音に耳を澄ませるだけでいい。実際には、それさえもモニターに現れているから、耳で聞く必要は無いのだが、異常を検知するには通常の状態を認識している必要があり、これは耳からの情報が意外と役に立つ。『何かおかしい』と第六感が騒ぎだす理由を突き詰めれば、それは超常現象的な何かではなく、かすかな音や臭い、振動がいつもと違うという、元々人間に備わっている五感に対する違和感に帰着することが案外と多いものだ。

「あ! あそこっ!」

通信を終えてから30分。みのりの判断は正しかった。GPS衛星追跡情報には何もない空域に、天目茶碗と称された浮遊基地フロート・ベースが見えてくる。例の〝ナメクジ画像〟と位置的にピッタリである。もっとも、画像そのものが数十キロの幅を持っているので、ピッタリというのは語弊があるかも知れない。だが、Sバンドレーダーと双眼鏡と、地形解析データのブリンキング処理まで行って、それを最初に見つけたのはみのりだった。

──まあ、実際には俺の方が先に目視で見つけていたのだが、それはそれ。声に出して指摘したのはみのりちゃんが最初だ。


距離にしておよそ300キロメートル。戦闘機なら近距離だが、〈マンタ・レイ〉なら小一時間はかかる距離となる。芥子粒けしつぶほどに見える浮遊基地フロート・ベースは蜃気楼のように平べったく、ユラユラと陽炎かげろうのように浮かんでいた。

高度は30キロメートル。仮にここが地球上なら、空は青黒く、雲海は遥か下に横たわっている高度となる。ジェットエンジンで飛行するには限界の高度であり、大地が丸いのがはっきり分かる──そういう高度だ。だが、金星の場合、厚い雲が上空をふさいでおり、地球よりわずかに小さい筈の大地が全く丸く見えない。大気差現象で周辺の陸地が浮き上がって見えるからだ。原理的には、視線の先をずぅーっと追って行くと、光が一周して自分の後頭部が見えることがあるそうだ。

もちろん、使い古されたジョークである……。


浮遊基地フロート・ベースに近づくにつれ、その巨大さに目がいく。実際には〈レッド・ランタン〉の方が巨大な構造物なのだが、そちらは、1平方キロメートルほどある六角形のモジュールが多数組合わさって作られた複合体だ。モジュールだけでなく、多数のジョイント、ケーブル、エレベータ、天頂部分の発着場などが複雑に絡み合っていて、単一の構造物というイメージではない。巨大な都市ではあるが、ひとつの巨大な構造物と認識できない。

これとは対象的に、浮遊基地フロート・ベース一瞥いちべつしただけでは表面の凹凸に気づかない。まさに半円球の気球そのものである。よく見ると、〝お椀の淵〟に相当する上部側面には、直径30メートル級の巨大なパラボラアンテナが四方八方に配置されており、蒸着ロジウムが鈍い光を放っているのだが、それらは薔薇ばらに埋もれたかすみ草のように目立たない存在である。

浮遊基地フロート・ベースの頭部を占める発着場へのアプローチは簡単だ。滑走路の方角というものは無い。円形のどこからでも接近アプローチできる。一時的な突風ガストがあれば、風に煽られるのは〈マンタ・レイ〉の方だが、浮遊基地フロート・ベースの周囲には何も無く、一時的に下方に落ちても全く問題がないため、空母への戦闘機の着艦とかに比べて遥かに楽だ。10キロメートルもある発着場なら、着艦フックarresting hookすら必要ない。

ただ、地上の構造物とは違い、浮遊基地フロート・ベースの巨大さに比べて慣性質量はさほど大きく無く──複合型制振装置は存在しているものの──風による揺れは浮遊基地フロート・ベース内でも結構感じとることができる。また、外気圧も10気圧ほどになっているから、〈マンタ・レイ〉の巨体は、より飛行船らしい動きをするようになっている。このため、制動のためのワイヤーは不要だが、一点に静止させておくための〝もやいづな〟は必要だ。

係留ワイヤーは着地点に合わせて手動で行う必要がある。〈レッド・ランタン〉のある空抜0メートル高度なら、少々暑いのを我慢すれば酸素ボンベひとつで作業ができるが、ここではそうはいかない。遠隔マニュピレータでワイヤーをたぐり寄せて固定。耐圧ハッチの連結も一部は手動だ。特に図体のでかい〈マンタ・レイ〉ではこれが一苦労で、サイドスラスター無しで10万トンタンカーを港に横付けする技術が求められる。湊川はこの手の操作に滅法強いのだが、俺は苦手だ。第一──なんと言っても地味な作業だしな。

〈マンタ・レイ〉の壮大な車庫入れを前にして、俺は少しばかり憂鬱になっていたのだが、発着場中央からの発光信号を見つけて安心した。装甲服アーマードスーツを装着した姫島が手を振っている。よく考えれば、湊川が操縦した〈マンタ・レイ〉の正機でも、彼らが先に降りて誘導する手筈だったし、実際、そうしたのだろう。よくよくみれば、数百メートル離れた位置に二体の装甲兵アーマードソルジャーの姿も見える。千船と杭瀬らしいが、どっちがどっちかはよく分からない。姫島の装甲服アーマードスーツは飾り羽が頭部に付いているから、望遠でみれば簡単に識別できる。要は、彼らの間に降り立てば、昇降ハッチの連結から、翼面フック固定の面倒まで行ってくれるということだろう。致せり尽くせりでとても助かる。

風は無風Calmから精々秒速1メートル程度の東風。地表を基準にするなら秒速30メートルから40メートル近い風が吹いている筈だが、一緒に回っている身であれば、そんなものは感じない。浮遊基地フロート・ベースが巨大で垂直方向にも数キロメートル程度の高さがあるため、その頭頂部はほとんどが東風だ。要するに、金星では下層になるほど東風が弱くなっていくので、相対的に頭頂部が東風、最下層は西風が吹く。お茶碗のように、下にいくほど幅が狭くなっているから、風の釣り合う高度面はかなり上の方であり、発着場近辺では、いつもこんな感じで弱い東風が吹いている。〈レッド・ランタン〉と同様、そういう設計になっていると言ってしまえばそれまでだ。モーターの出力を絞ってバランスを取り、ゆっくりとした東風を身に受けて近づけば良い。実に単純だ。

姫島らの的確な誘導と、俺の腕──ここ重要──もあり、着地は難なく終了した。百点満点だ。思ったほどは疲れなかったが、ここから地表までには様々な難関がある。それよりも先に、まずは、姫島から地表降下部隊アタッカーズの行方を聞かねばならない。少なくとも先発した〈マンタ・レイ〉の正機はここにはいないようである……。

停止手順に従い、可逆性液体浮揚装置と気密のチェック。相転移吸熱体PTHAは、この程度の外気温では出番がないから点検をちょっとサボったのは秘密だ。最後のモーター系統の油圧をチェックをしながら、監視モニターに目をやる。姫島は『来てみれば分かる』と言ったが、浮遊基地フロート・ベースの外観に特に変わった点はない。みのりはテキパキと通信機器関連のシャットダウンをしているが、御影恭子はここには興味が無いのか、貨物室カーゴルームから操縦席には顔を出さなかった。名目上だが仮にも副操縦士コーパイだろ──という愚痴は何の効果もない。あいつは一体何者なんだろうか? とても普通の科学者とは思えないが……?


〈マンタ・レイ〉から連結ハッチを通って浮遊基地フロート・ベースへ降りる。みのりちゃんも一緒だ。

「がらんとしてますねぇ」

「ま、繁盛しているとは言い難いな……」

直下のだだっ広い格納庫では、かすかな機械音がするものの基本的に無音で、殺風景だ。何しろ、野球場が4つほど入りそうな空間に、誰一人としていないというのは、あきれるほど淋しい情景だった。施設としては、最大で3千人が一週間寝泊まりできる設備と備蓄がある。浮遊基地フロート・ベースの建造時と国際金星観測年IVY : International Venus-physical Yearにはそういう状態だったと聞いているが、今は見る影もない。共に半世紀も前の話だ。

姫島ら装甲兵アーマードソルジャー部隊は既に装備を解き、階下の制御室に入っている。〈マンタ・レイ〉の点検は基本的にコンピュータ任せだ。外は生身の人間の活動できる場所ではない。洗車機のようなスキャナが立ち上がり、機体外部のチェックをするのに最低で20分はかかる。機体を完全に格納出来るドックも備わってはいるが、エスカレーターを10台並べたような巨大なベルトがカタツムリのような速度で動いて格納庫が開き、機体を入れるまでに1時間。ドック内を人間が歩けるまでの温度と気圧に引き下げるのに更に1時間もかかるとあっては、とても付き合ってはいられない。降下に致命的な損傷が見つかれば別だが、普段は開かずの扉となっている。

──いや、降下できないほどの致命的な損傷があった場合は、無理をせず空中都市まで引き返すのが鉄則だ。行くのも引くもどうにもならず、進退窮まった状態の時しかこのドックは使われないというのが本当のところだろう。だから、メインテナンスをするためのドックなのに、ドック自身の定期メインテナンスの方が多いと、もっぱらの噂である。宇宙空間のドックの方が無駄な気圧調整が不必要な分、まだマシだ。

搭乗員のメンテナンスも同時に行いたいところだが、降下地点の距離と相対速度からして、それほどのんびりできそうもない。それでも全視界展望ラウンジまで降りて地表を眺めながら、一杯のコーヒーくらいは飲めそうだ。──が、その前に、まず制御室だ。


「上沢。何しに来た?」

姫島は、無線で聞いたのと同様の陽気な声で、再び繰り返した。直径10キロメートル、総重量40億トン近くにもなる浮遊基地フロート・ベースの制御室は、その図体に似合わず、せいぜいテニスコート半分程度の広さしか無い。格納庫の下、中央エレベータシャフトの上部に位置しているから、外を見る窓すら存在しない。まあ、航空機のコックピットが、その大きさに応じて決められてはいないのと同様で、要は管制に必要な人数が問題であり、図体の大きさは問題ではない。そもそも無人で遠隔でも操作できるように設計された浮遊基地フロート・ベースなら、専用のスペースさえ必要ないくらいだ。ここ──そして、直下にある備蓄品倉庫と待機施設──は、どちらかというと、緊急避難所的な設備であり、上空への緊急脱出用のシャトルも直結されている。


「……そうだな。何から話せばいいものか。とりあえず、コーヒーを飲みにきた」

「はっはっは。コーヒーCOなら隣に何ガロンもあるぞ。合成品レプリカだがな」

「賞味期限が心配だな」

「それは大丈夫。完全無菌の30年保証。俺もさっき飲んだ。もっとも、味のほうは保証しないぞ」

「そいつは安心だ……」

姫島は俺とのバカ話に応じつつ、ディスプレイに映る〈マンタ・レイ〉の点検項目に目を通している。杭瀬は向かって左の主制御卓メイン・コンソールに座り、パッシブレーダーのモニターをしているように見える。千船は俺たちの後にここにやってきて、何を考えているのか知らないが、そのまま入り口付近の壁に肩を預けて立っている。

ちなみに、制御室の入り口から中央の通路を境にして、左側が主操作卓、右側が副操作卓で、完全に二重化されたシステムとなっている。正面の一段高い場所が、いわゆる〝艦長席〟とでも言うべき場所になっていて、姫島はそこの段差にある手すりに手を付き、その手前まで歩んだ俺たちと対峙している格好。みのりちゃんは俺のすぐ右後ろだ。杭瀬は左横。千船は後ろに居る。姫島はいつも通りの笑顔だが、杭瀬と千船は表情がややかたい。


「コーヒーの前に聞きたい。時間もないことだし、単刀直入に言わせてもらう」

俺がそう言うと、

「ん?」

姫島が微笑みをたたえたまま、左眉を上げる。

地表降下部隊アタッカーズはどこに行った? 小隊長殿おやっさんはどこだ?」

「降下作戦遂行中さ。そろそろ地表に降り立つ頃合いだと思うが? ──杭瀬。状況は?」

「残り1万2千メートル。降下進路を選択中です」

「──ほらな」

杭瀬が見守るディスプレイには、確かに、降下中の〈マンタ・レイ〉の識別信号の表記が光っていた。だが、何かがおかしい。胸騒ぎがする。みのりも無言のままだ。

「降下地点は南半球だった筈だが?」

「表向きはな……」

姫島は目を細める。

「ふん。──で、実際は何の目的の降下なんだ? 目的地は?」

「目的地、目的地か。それは──上沢。お前のほうが知っているんじゃないのか?」

……妙な具合になってきた。何故、こんなところで禅問答みたいな会話を姫島としなければならんのだ。俺は捜索に来たんだ。目的地の追求は二の次、三の次でいい。地表降下部隊アタッカーズが何やら極秘の任務で降下中というならば、それはそれでもいい。確かめる必要もない。

──だか、気になるものは気になる。こればっかりは止めようが無い。


「〝遺跡〟──なのか?」

「そうか、それは残念だ」


姫島の腕の動きは素早かった。背中にあったと思われる銃の銃口は、しっかりと俺の眉間に赤い光点を結んでいる。ほぼ同時に左と後ろから、拳銃のコッキング音が響く。明らかに形勢は不利だった。相手は、装甲を脱いだとはいえ戦闘のプロだ。飛行機乗りパイロットは飛行機から降りればただの人だからな。いやいや、そういう話でもないだろう。そもそも、何なんだよ、このシチュエーションは!

「どういうことか説明してくれないかな?」

俺は、ゆっくりと両手を上げながら、なるべく冷静に姫島に聞いた。後ろから千船がゆっくりと歩いてくる足音が響く。背後にいるみのりが例の素早い身のこなしを見せるかと思ったが、それは無かった。むしろ、無くて安心した。この状況で事を起こせば必ず死人が出る。多分、最初に死ぬのは俺だ。それだけは決定している。味方に──味方で良いんだよな? ──殺されて死ぬのだけは勘弁願いたい。

「いやな。俺も詳しくは知らんのだが──」

普通ならここは突っ込みを入れるべきセリフだが、この状況で心にそんな余裕はない。

「──うちにスパイがいるらしくてな」

「スパイ?」

「今回の任務は少々イレギュラーな秘匿ひとく任務だ。だが、我々の行動が、金星ここの連邦共和国政府のみならず、国連監視検証査察委員会《UNMOVIC: United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission》にも筒抜けのようでな」

「アンモビック?」

金属音が気になり、右後ろを少し振り向くと、みのりが後ろ手に手錠をはめられていた。手回しがいい。いや、良すぎる。要するに、俺らは『ここまで来てみれば分かる』という姫島の誘いに乗り、鴨がネギしょった状態でやってきてしまったということらしい。

「共和国政府はうすうす気づいていたようだが、国連機関に別ルートで通じるものがいるのは少々困る」

「それで……、そのスパイが俺だと?」

「いや、そうは思っていない。お前はスパイには向いていない。直情型の気のいいヤツだからな」

姫島はあっさりと否定した。そして、再び笑った。否定の理由が気に入らないが、疑われ続けるよりはマシだろう。

「すまんが、これは小隊長殿おやっさんの命令でな。ここに来て〝遺跡〟に近づこうとする奴がいれば、暫くは身柄を拘束こうそくしろとな……。それと、もうひとつ。お前が乗ってきた〈マンタ・レイ〉からは7500ハイジャック応答コードSquawkが発信されている。俺たちではなく、共和国政府の特殊強襲部隊SAT: Special Assault Teamに突入されたとしても文句は言えぬ立場だぞ」

「……それは、──そうだな。この程度で済んでいることに、むしろ感謝すべきかな」


みのりは千船に連れられて、右側のレーダー席に座らされた。千船はその直後、少し頭を下げてみのりに敬礼をする。危害を加える気は無いらしい。まあ、小隊長殿おやっさんの命令なら仕方が無い。俺でもこうするだろう。とはいえ、姫島のレーザーサイトの光点は、俺の眉間から微動だにしていない。そろそろ眉間から煙が出てきそうな頃合いだ。

「ところで、女はどうした?」

「女? ああ……」

すっかり忘れていた。御影恭子はおそらく貨物室カーゴルームに入ったまま──いや、既にこうなることを予知していたのかもしれない。もしかすると──、

「そいつがスパイの可能性が高いだろう」

姫島は、俺の考えを見透かしたかのように応えた。だが、何のために?

千船は、みのりを席に座らせたあと、俺の身体をチェックし始めたが──あ。ヤバいな。こっちもすっかり忘れていた。

「ん? これは⁉」

硬かった表情が幾分和らぎつつあった千船だったが、それが再び元に戻る。俺の左脇のポケットから、見慣れないコンベンショナルダブルアクションの拳銃が一丁。もちろん、軍部から支給された官製品ではない。


「隊長!」

今度は、左の主制御卓メイン・コンソールに座っていた杭瀬からだ。

「〈マンタ・レイ〉の第2モーター上部に発信器があります。それともうひとつ。まだ遠地ですが、レーダーに新たな機影が入ってきました。識別信号ありません。こちらに向かってきます」

姫島は、再び目を細めた。

「お前ぇ……。ひょっとすると──」

「それは違います!」

そう叫んだのは、これまで無言を通したみのりちゃんだった。俺はそのまま後ろ手に手錠をかけられ、その場に座らされる。姫島のレーザーサイトはようやく俺の眉間からおさらばとなったが、この手錠──みのりの場合と違いちょっとキツく締め過ぎじゃないか。

「私たちは、RERCに──連邦国政府の機関に狙われたんです」

「ん? 詳しく聞こうじゃないか。杭瀬! 未確認機アンノーンの管制圏内への侵入時間は?」

「およそ……20分です」

「なら、10分程の猶予はあるな」

ここのパッシブレーダーに捉えられて20分で来るとは、足の速い未確認機アンノーンだ。飛行船モドキではこうはいかない。

地表降下部隊アタッカーズは──我々の目から消えたんです。〈レッド・ランタン〉の管制室からは全く認識出来ない状態になったんです」

みのりが強い口調で説明する。

「全データがNo Signalになった直後に、共和国エネルギー管理委員会RERC: Republic Energy Regulatory Commissionの部隊が管制室にやってきて──」


みのりは、〈レッド・ランタン〉で何が起こったかを的確に説明した。その説明で俺も始めて知ったのだが、みのりはソーニャの連れであった例の大男に尋問を受けた後、俺に『外で調べてきます』と報告してすぐさま図書館に出向いて、そこの端末を操作した──のではなく、一旦、共和国の汎用スパコンの裏口バックドア──裏口バックドアがあるのか──に入ってから、尋問を受けた大男のID──どうやって調べたんだ? ──で、消えた〈マンタ・レイ〉の情報を引き出そうとしたらしい。共和国側が、〈レッド・ランタン〉のメインフレームバックアップの在処を聞き出し、その不正侵入ハッキングに成功したという体を装ったのだ。さすがは情報軍のエースだけのことはある。

だが、その目論みをぶち壊したヤツがいる。他人事のように言っているが、俺だ。俺のことだ。みのりはそうは言わなかったが、『図書館のメインフレームへのアクセスがバレて……』と言われたら、それは俺が、表玄関から堂々とアクセスしたからに他ならない──ってことは直ぐに分かる。素人考えの行動があだになっていたわけだ。つまりあの時、銃を突きつけられるべきだったのは俺だったことになる。

俺は妙な事件に巻き込まれたと思っていたのだが、何のことはない。俺がみのりを危ない目に遭わせていたのだ。その対価が、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンだけだというのは酷過ぎる。この件が終わったら、いずれフランス料理のフルコースでも奢らねばこっちの気が済まない。

──まあ、そんなことはともかく。


姫島は難しそうな顔をしてみのりの──いや、伊川軍曹の説明を聞いていたが、

「分かった」

とだけ返事をし、しばらく黙り込んだ後、こう付け加えた。

「で、あの女──。御影恭子は何者なんだ?」

「それは……」

珍しくみのりの目が泳ぐ。みのりが彼女をどう思っているかは、俺も聞いてみたかったことだ。

「現時点では、分子生物学の研究者というだけしか分かっていません。でも、スパイとも思えないんです。もしそうなら、何と言うか──もっとスムーズに立ち振る舞えると思うんです」

「──というと?」

「スパイ行為の目的が、共和国や国連の機関に〝遺跡〟の情報を伝えるものだとすれば、彼女の行動は派手過ぎます。彗星核の氷の採取は無人採集機でも可能だし、〝遺跡〟の調査にしても、正式に地表降下部隊アタッカーズのメンバーに加われた筈なんです──」


確かにその通りだ。現に、魚崎なんとかという科学者は地表降下部隊アタッカーズと一緒に降りている。ヤツの専門は宇宙量子の物性がなんとかと言うわけの分からない分野だったが、御影恭子の研究は硫酸なんとか細菌という、昔、金星の地表に住み着いていた──と彼女が仮説を述べている生物学の分野だ。どちらかと言えば、魚崎某より御影恭子の方が、地表降下部隊アタッカーズに同行するには適役ではないのか?

彼女は『パイロットを捜している』と言ったが、単に金星地表面に降下したいだけなら、今回の地表降下部隊アタッカーズと共に行くのが理にかなっている。危険も随分と少ない。

みのりの話はさらに続く。

「──恭子……いえ、御影さんの行動を見ていると、ワザと注意を引きつけているようにも思えます。スパイなら情報を盗み出すのが目的で、情報を公開するのが目的じゃありません。えーっと──仮に私がスパイなら、もっと目立たないように、意識にも上らないような行動を取りますけど……」


「派手で悪かったわね」

「ひっ!」

御影恭子がそこにいた。後方の出入り口。みのりは後ろを向くことなく、そのまま固まっている。例によって姫島の動きは早かったが、御影恭子は無抵抗の意思を表すべく、既に両手を上げていた。

「私の詮索をするのもいいけど、未確認機アンノーンはここには来ないみたいよ。直接、地表降下部隊アタッカーズを追撃する気じゃない?」

「た、確かに──、未確認機アンノーンは高度を急速に下げています」

杭瀬が報告をする。

「内輪もめしている暇があったら、まずは急いで後を追った方がいいと思うけど?」

御影恭子が畳み掛ける。

「上沢!」

いきなり姫島から俺に声がかかる。この状況でなんの用だよ。

「──あの未確認機アンノーンは何だか分かるか?」

「分からん!」

率直な感想だ。ちらっと見ただけのレーダー画像で分かるほど、俺はスーパーマンではない。

「──分からんが、移動速度が速すぎる。共和国の装甲兵員投降機APD: Armoured Personnel Dropperじゃないのか?」

実物は見たことはないが、噂では聞いたことがある。地獄の底まで一直線。片道キップの1時間コースだ。いや、正確には片道では無い。見た目は尖った滑空翼だけが付いた降下専門のグライダーのたぐいであるが、復路用に窒素ガスで膨らむ膨張浮揚翼インフレータブルウイングが内蔵されている。復路の機動性は落ちるものの、これ単独で浮遊基地フロート・ベースまで往復できる優れものだ。ちなみに、ついつい〝兵員〟と言う癖が抜けていないが、正式には救急救命士などの文民も乗るから〝人員〟投降機である。

「どっちの装甲兵員投降機APDだと思う?」

「どっち?」

「まあいい。今から出発して、奴らに追いつくことが出来ると思うか?」

姫島は奴らの身柄も拘束するつもりらしい。今度はドンパチ無しに拘束できるとは思えないが、そうであっても捕まえろと言うのが小隊長殿おやっさんの命令なのだろうか?

「〈マンタ・レイ〉では無理だ。巨大で軽過ぎる」

「〈ブーメラン〉は?」

「少しはマシだが、飛行船モドキに変わりは無い。空気房バロネットを最大にしてもあの図体だ。フルスロットルでも離される。追いつく方法があるとすれば──」

「あるとすれば? 何だ?」

食いついてきた!

「〈ブラック・タートル〉を使う」

「こんな高々度からか!」

「『追いつけ!』と言われれば、ここの装備ではそれくらいしか思いつかん!」


共和国のAPD──装甲兵員投降機が、揚重筐体リィフティング・ボディを採用したグライダーの亜種だとするならば、我が隊の〈ブラック・タートル〉は、滑空時に使用する着脱可能な翼を取り付けた空挺機動兵員輸送車AMPC: Airborne Maneuver Personnel Carrier──有り体に言えば、〝空飛ぶ戦車〟だと思ってもらえば良い。〝空飛ぶ戦車〟は飛行機と戦車が発明された大昔から、高速な移動性能と優れた防御力を併せ持つ機体として幾度となく開発が行われてきたが、亀のように機動性が悪く、紙のように薄い装甲を併せ持つものしかできず、実用化されたものは皆無だった。だが、それは地球の大気があまりにも薄かったからだ。

ここ金星の地表は90気圧。1立方メートル当たり100キログラムを超える大気は、気体というよりはむしろ液体に近い。実際に高度3キロメートルより下では、気体でも液体でもない超臨界状態というやつになっているそうだ。もっとも、そこに水面みたいな何らかの境界線があるわけではないので、単に大気がとても濃いという認識で間違いはない。

本当かどうか定かではないが、過去には、わざわざ地球から軽自動車を運んで、パラシュート無しで地表に落っことすCM実験が行われたことがあるという。軽自動車は見事にその形状を維持し、走行に支障ない状態で地表に降り立った。ただし、実際には、地表の途方もない熱によって多くの部品が溶けてしまい、実際の走行は不可能だったらしい。

要するに、自由落下といっても、金星での終端速度はほんの時速20キロメートル程度。地球上での時速300キロメートルとは比べ物にならないくらい遅い。

──などと、見てきたような嘘をついているが、俺の経験は全てシミュレーターで行ったもの。実際に降下し、状況を肌で感じ取るまでは機上の──いや机上の空論でしかない。

〈ブラック・タートル〉の最終的な終端速度も時速20キロメートル程度になるとは言え、降下初めは気圧が低く──といっても既に10気圧ある──かなりの降下速度となるだろう。俺としては、地表付近の大気密度で最適化された翼が、上空でどのような操作性を持つのかが不安でもあるが、未確認機アンノーンに追いつくにはこの選択肢しか見当たらない。

ただひとつだけ安心材料もある。姫島は、地上30キロメートルという高度からの降下に驚いていたが、そいつは〈ブラック・タートル〉の姿を知らないからだ。この機体、熱と圧力にはめっぽう強い。少々もろいが──なぁに、敵の弾が当たらなければどうってことはない。


「……分かった」

姫島は一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、杭瀬と千船に指示をし、我々を解放した。

「我々の任務は、地表降下部隊アタッカーズへ近づくものの報告と、場合によっては撃退だ。お前達にも手伝ってもらう」

「スパイかも知れないヤツと手を組むと言うのか?」

拘束の跡がついた手首をさすりながら、皮肉のひとつも言ってみる。

「俺は本作戦では居残り組だ。地表降下部隊アタッカーズの命に関わるというのなら話は別だが、遅滞なくその……秘匿の作戦とやらを遂行しているというのなら結構なことだ。その情報だけで俺は充分だ。ここに居座るか、あるいは引き返したってかまいはしない」

未確認機アンノーンが共和国の装甲兵員投降機APDなら、彼らの目的は〈箱船〉への援護隊か奇襲隊だ。平和的に解決するとは思えん」

援護と奇襲では意味が真逆だぞ。まもるのかおそうのかどっちかにしてくれ。それに──

「箱船? 箱船とは何だ?」

「〝遺跡〟を囲む周辺施設だ。行ってみれば分かる──」

遺跡の話なら断片的に聞いているが、施設があるという話は初耳だった。

「──地表降下部隊アタッカーズはそこに向かっている。まずは地表降下部隊アタッカーズに追っ手がいることを警告をせねばならんが、未確認機アンノーンに気づかれずに送信する方法があればな……」


「あのぅ──」

そんな都合のいい方法があるわけないだろと言おうとした矢先、レーダー席に座ったままのみのりがおずおずと口を挟む。

「──タイミングによっては可能かもしれません」

「タイミング?」

「込み入った話の最中、申し訳ないんだけど──」

今度は後ろから声がする。御影恭子だ。

「──もう、手は降ろしてもよくて? それに、そんな重要な話をの前で話していいの?」

御影恭子は呆れた様子で半分笑い顔である。その声を聞いて、みのりはまた微かにビクっと視線を下に落とした。

「この際、スパイかどうかは問わん。未確認機アンノーンの追撃の方が先だ」

姫島が応える。

「じゃ、無罪放免ってこと?」

「そういうわけにはいかない。事態が収拾するまで、我々の管理下に入ってもらう」

「何の権限があって?」

7500ハイジャック犯の身柄拘束──っていう線で充分だ」

「ふーん。まあいいわ。アタシは〝遺跡〟の調査ができればいいだけ。何なら監視役にそこのお二人さんを貼付けてもいいわよ」

『そこのお二人さん』呼ばわりされた、杭瀬と千船が顔を見合わせる。姫島が少し困った顔をしている。こういう相手は苦手なようだ。御影恭子はさらに畳み掛ける。

「──まさかアタシをここに残して行こうって言うんじゃないでしょうね? そんなことしたら、未確認機アンノーンだけでなく、緊急回線の大出力でここでの話をバラすわよ」

機密を盗むスパイじゃなくて、そりゃ機密漏洩だ。みのりの考察の通り、スパイとは逆の行動を取っているように見える。御影恭子の話はまだ続いていた。

「例え無線機を無力化したとしても、ここから緊急脱出用のシャトルを起動させて逃げるわ。そのときは自動で緊急無線標識ELT: Emergency Locator Transmitterから遭難信号が発せられるから、否が応でも皆が知るところにな──」

「分かった分かった」

姫島は左手を左右に振りながら面倒くさそうに答えた。

「──ったく、連れて行けばいいんだろ。そのかわり変な行動を起こしたら、容赦なくはっ倒すぞ」

「レディに向かって手を上げるなんて、紳士じゃないのね」

「なんだとぉ。戦場にレディもへったくれもあるか!」

「たっ隊長……」


千船が思わず仲裁に入る。性格的にどっちも矛を収めそうも無い両者だからな。やれやれ。俺もこのへんで助け舟を出すことにしよう。それに──、実際に彼女を引っ叩いた経験があるのはこの俺だったりする。少しは罪滅ぼしをせねばなるまい。

「彼女は──御影恭子は、どのみち副操縦士コーパイとして席に着いてもらう必要がある。伊川軍曹のアシストも必要だ。行くんだったら早い方がいい。敵サンはどんどん降下中だぞ」

実際、ここでモメている暇はそれほどない。そもそも、コーヒー一杯飲む為だけのつもりだった筈なのだ。

「いいだろう。操縦は任せる。だが、くれぐれも変な行動をするなよ」

「なんだ。俺もはっ倒すのか?」

「ハッハッハ。そうして欲しけりゃいくらでもはっ倒してやる。ただし、相手が男の場合は装甲アームでだ」

「──首がモゲるわぃ」

とりあえず、スパイの嫌疑は晴れたようだ。いや、そうじゃないかも知れないが、そう思いたい。少なくとも、事ここに至っては、まずは地表降下部隊アタッカーズへの追っ手を見極めるのが先だ。


        *  *  *


我が隊の空挺機動兵員輸送車AMPC: Airborne Maneuver Personnel Carrier〈ブラック・タートル〉は、名前の通り、ずんぐりむっくりの、乗員3名、兵員12名まで収容可能な装輪装甲車である。形状は亀というよりカメムシに近い。外径より断面幅の方が広い6輪のタイヤが、さらに虫っぽさを醸し出している。悪路走行時には、車軸を立たることもできる。背中には着脱式の可変翼がついているが、降下時の方向舵になる程度のもので、揚力を得ることはほぼ不可能だと思っていい。その割にはそこそこ立派な翼端板Wingletがついている。ちなみに、〈ブラック・タートル〉の〝ブラック〟の意味は、腹部にあたる部分に、亀甲形の黒茶色のセラミックタイルがみっしりと並んでいることに由来している。このセラミックは〝パヴェ・ド・ショコラ〟とかいうシャレた別名の超耐熱タイルであり、タイルの耐熱温度を超過した際においても融解しながら内部を守る吸熱体Ablatorの役目も果たす。

実はこの機体、高温に耐えるべく設計された汎用の大気圏再突入機ARES: Atmospheric Re-Entry Shipがオリジナルであり、金星への地表降下船として改造された派生機だ。それが証拠に、機体のあちこちに小型推進機スラスターが付いている。もっとも、金星の濃密な大気中ではその出番はあまり無く、オプションの可変翼に頼るしか無いのだが、正に〝取って付けた〟代物だから、操作性はすこぶる悪い。

これに対して、敵サンの装甲兵員投降機APD: Armoured Personnel Dropper──まだ、共和国の装甲兵員投降機APDと決まったわけではないし敵かどうかも分からないが──は、とりあえず飛行物体として設計されているから、そこそこの空中軌道マニューバは期待できる。

もしも降下中の戦闘となったら、こちらが圧倒的に不利だが、どのみち戦闘に供するべき火砲やミサイルなど〈ブラック・タートル〉には何処にも装備されていない。ただし、こちらは〝輸送車〟なので、着地後にそのまま自走できるというアドバンテージがある。相手の着地ランディング後の移動手段はまったく見当がつかないが、装甲兵員投降機APDを乗り捨てて、他の移動手段に切り替える手間が発生するなら、その分の時間ロスは生じるだろう。


〈箱船〉──と言うのは、〝遺跡〟を取り巻く施設であり、〝遺跡〟のを行うものだそうだ。とは言っても、〝遺跡〟自身が何なのかがよく分からないから、それを取り囲む施設がどんなものかすら見当がつかない。御影恭子から得た情報と組み合わせれば、おそらく〝遺跡〟からモノポールを取り出す施設のことだろう。

姫島らの任務は、前衛フォワードとして浮遊基地フロート・ベースに留まり、作戦中に〈箱船〉に近づこうとする勢力を排除することにある。その網に俺たちはまんまとハマったということになるが、足の速い未確認機アンノーンには対応出来なかったというわけだ。いやはや、何とも間抜けな話ではある。ただ、こちらの足が全く無かったわけではない。

〈ブラック・タートル〉の起動ため、俺とみのり、そして御影恭子の3人が〈マンタ・レイ〉に向かう際、途中で通過した馬鹿でかい格納庫には、地表降下のための熱処理装備が取り付けられた〈ブーメラン〉があった。姫島らはどこかの時点で地表降下部隊アタッカーズの本隊と合流する算段だったと考えるのが妥当なのだが、いかんせん、〈ブーメラン〉はいくら強化したとしても飛行船モドキである。さらに、敵サンの装甲兵員投降機APDは噂の段階の代物で、そんな機体を投入する筈が無いと踏んだのだろう。

姫島らが未確認機アンノーンを見逃したとしても、装甲兵アーマードソルジャー隊はもう一分隊、地表降下部隊アタッカーズと共に行動しているから、直接的な〈箱船〉の警護は彼らに委ねられていることになる。うまく行けば、前後で挟み撃ちに出来るかもしれない。そういう戦術的なことはさておいて、この作戦オペレーションは好きになれない。俺の一番嫌いな『エネルギー資源の争奪戦』そのものだ。気に入らない。これじゃあ、金星の地表に群がる俗物たちと同じだ。


「〈ブラック・タートル〉のハッチを開けて待っててくれ。10分で来る」

俺たちが浮遊基地フロート・ベースの制御室を離れる際、姫島はそう言った。

「俺たち3人がまんまと逃げたらどうする?」

一応聞いてみたが、姫島はニヤッと笑い──

「撃ち落とすだけだ」

と答えた。本当にやりかねない奴だから困る。特殊強襲部隊SAT: Special Assault Teamに強襲された方が、人質の救出を優先するだけまだマシだ。


〈ブラック・タートル〉の操作系は比較的単純だ。マニュアル操作の自動車を運転したことがある人間なら、専門的な知識が無くても事はできる。操縦も操縦桿Control Stickではなく操縦輪Control Wheelだからイメージし易い。だが、オプションの可変翼による空中軌道マニューバは難しい。直ぐに失速ストールする。特に金星ここでは降下による気圧の変化が半端ないから操作感覚が急激に変わる。そもそも、操縦輪を採用している時点でそれほどの機動性は考えられていないと見ていい。

もっとも、着地点を選ばないのであれば、着地ランディングは難しくない。機体の水平さえ保っていれば、濃密な大気のおかげで、精々2、3回のバウンドで無事に着地することができる。着地時には衝撃緩衝袋体SABA: Shock Absorbing Buffers of Airbagが自動で展開されるから、ぶっちゃけ頭から突っ込んでも機器等には問題がないように設計されている──らしいが、後々、俺の操縦士パイロットとしての評判がガタ落ちになるので、それだけは何としても避けたい。それに、〝機器等〟が壊れなくても、人間関係が壊れることは良くあることだ。ま、今回の搭乗者6名の中で、俺が今後の人間関係を気にする必要があるのは、みのりちゃんくらいなものだ。一応〈ブラック・タートル〉でも隣に座ることになる御影恭子とも、本作戦が一段落するまでは良好な関係を保っていたい。いや、今が良好かと言われるとなんとも言い難いものがあるが……。


10分と言っても、ただ〈ブラック・タートル〉を起動するだけで良いわけではなかった。飛行に必要な──落下に最低限必要なと言うべきか──可変翼は既に取り付けてあるのだが、相転移吸熱体PTHA: Phase Transition Heat Absorberの取り付けがまだだった。こいつの予備ロットを可能な限り後部アタッチメントにくっ付けておくべきだろう。

〈ブラック・タートル〉は〈マンタ・レイ〉などとは違い、短距離用の輸送車コミューターだ。本来ならば、着地地点が限られる巨大な〈マンタ・レイ〉を上空数百メートルに浮かべたまま、地表降下部隊アタッカーズを地表へ上陸させる為の輸送車だから、こんな高度からの降下、そして数時間にも及ぶ運用などはハナっから想定されていない。動力にしても、その大きさからして重水素融合炉は使えず、昔ながらのバッテリーで動いている。昔ながらと言えば、原子力熱電池も備わってはいるが、こちらは最低限の生命維持用で、飛行に必要な動力には成り得ない。

そういうわけで、電力を湯水のように使う可逆性液体浮揚装置は付いていない。そもそも落ちるばかりの〈ブラック・タートル〉に浮揚のための装置は必要ないのだが、この装置と熱可塑性液化ガスTLG: Thermoplasticity Liquefied Gasと組み合わせは機体の冷却──正確には外気との熱交換を行う役割も担っている。金星地表での作業は、熱対策が一番の重要事項だ。もちろん気圧対策も重要だが、地球での深海一万メートル──千気圧の圧力に耐えて潜る潜水艦はかなり昔から活躍しており、気圧対策の方は既にとして確立されている。これとは異なり、常時400度を超える場所での作業は、地球上では消防隊が短時間必要とするくらいで、実はあまり存在しない。

もちろん、もっと熱い火山のマグマだまりや溶鉱炉の中もあるが、こちらは優に千度を超えてしまうため、最初から有人の機械が作業をすることを想定していない。要するに、460度の二酸化炭素雰囲気中での作業は、有人の金星探査が開始されてから発達した分野であり、技術的に未発達な部分が残っている。


高性能冷蔵庫としても機能する可逆性液体浮揚装置が使えないとなると、残るは相転移吸熱体PTHAだけだ。こちらは電気式の冷蔵庫ではなく、言わば保冷剤の一種である。氷が溶けて水になる間は、常に0度を保ち続けるように、形状を変えながらも温度を変えない物質──具体的には超高分子結晶性ポリマーなるものが詰まっている。相手が宇宙船乗りなら、内部循環式の気化蒸発冷却Ablation coolingシステムみたいなものと言えば分かってくれるだろう。

具体的──とは言いながら、俺はこれがどんな物質なのかは良く知らない。見かけは茶色っぽいロウソクみたいな代物で、コイツが溶けて、最終的に気化して完全に無くなるまでは、温度がとりあえずは保たれる。逆に言えば、コイツが全て無くなってしまえば、我々はオーブンの中のチキンみたいにこんがり丸焼けということだ。

さらに言えば、〈ブラック・タートル〉の装甲は、砲弾に耐えるための装甲ではなく、熱を極力遮断する為のもので、ハニカム構造の真空空洞Vacuum Cavityと、非結晶断熱多孔質セラミックのサンドイッチ構造で出来ている。全体はかなり厚いが意外と軽い。少々の火器になら充分耐えられるが、へこみが出来ると断熱効果が著しく下がるので、貫通せずとも致命的になる。

もっとも、金星地表付近での戦闘はこれまで起こったことがない──と、共和国政府の公式見解では発表されているのだが……。


        *  *  *


俺とみのり、そして、御影恭子の3人で〈ブラック・タートル〉の操縦席コックピットに乗り込む。5点式のベルトが宇宙軍仕様でいかつい。前面の溶融シリカガラスで出来た風防ウィンドシールドも平面的で上下の視野が狭い。後方視界はレーダーとカメラで万全──って言うのは理屈ではそうだが、首を回して肉眼で確認できないと言うのは精神安定上よくない。そういう俺も、〈マンタ・レイ〉とかの巨大機では視野が狭くても全く気にならないから、随分と感覚的なもんだとは思う。小型機になればなるほど、全天の広い視野が欲しいのは何故だろうか?


「待たせたな」

──と、やってきた『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』はフル装備だった。どこで使うんだその4連式装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADS: Armored Man-Portable Air-Defense Systemsは。──っていうか、いつ仕入れたんだ!

……まあ、詮索は止めておこう。


〈ブラック・タートル〉のメイン動力に火を入れる。降下目標座標データは、姫島から伝えられた位置をみのりが既に打ち込んでいる。場所はテルス島Tellus Islandの北西。地形的には入り江状になっている場所で、ここから望遠で拡大しても、手前の断崖が邪魔をして見ることはできない。

地表降下部隊アタッカーズは入り江に既に入り込んだらしく、排気熱の検出もできない状態になっている。未確認機アンノーンはここより10キロメートル程度は下にいるだろうか? 気圧の影響で降下速度は落ちているが、依然として足は速い。可視赤外撮像機放射計VIIRS: Visible Infrared Imaging Radiometer Suiteが捉えた翼は赤く焼けており、何らかの動的熱制御システムAHCS: Active Heat Control Systemが付いているようだ。熱分布がスジ状になっていることからして、放熱羽板Thermal Louverを持った本格的なものらしい。こっちは氷嚢ひょうのうのような吸熱体でなんとかしのごうとしているのに、敵サンは──しつこいが、敵と決まったわけではない──豪華エアコン付きらしい。


〈ブラック・タートル〉の地上走行用アクセルを少し踏み込みながら、同時に申し訳程度の羽を展開する。そろそろと動き出しながら羽を広げる様は、カメムシと言うよりはスズムシみたいだが、羽はスズムシのように上向きには広がらず、水平に展開するだけである。走行音の方は多少の金属音が混じり、スズムシではなくクツワムシのようだ。少々ややこしいのは、コイツは航空機ではなく、基本は輸送車だということだ。地上走行タキシングではつい左手が膝元の操舵輪ステアリングホイールを探してしまうが、実際は正面にある操縦輪がそのまま方向舵になる。ついでに、車軸を立てたり、超信地旋回したり、普通に後退したりしてみる。航空機の地上走行タキシングでは後退することはまずあり得ない──逆噴射を使った後退など余程のことが無いかきりやらない──から、この動きは新鮮だ。シミュレーションでは何度か操作したとはいえ、やはり実機は楽しい。まあ、遊びでやっているわけではなく、機体チェックの一環である──が、隣で御影恭子がジト目でこちらを見ている気がして、確認程度で早々に切り上げる。


「さて。どこから出る?」

「2時の方向、〇二まるふたハッチです」

みのりが答える。みのりは、我々の後方中央の情報端末席に陣取って、親機である〈マンタ・レイ〉の遠隔制御をしていた。あらゆるものの遠隔制御の腕前はピカイチなのだから──事実、遠隔操縦する無人航空機UAV: Uninhabited Air Vehicleを標的とした実弾演習で、みのりが操縦したものを撃ち落としたものは、まだ誰もいない──、実機の操縦も巧いだろうと思うのだが、それがそうでもないらしい。というか、操縦席に座ることすら固辞しているそうである。もしかすると、情報端末席からリモート操作すれば、操縦は俺なんかより巧いんじゃないかとさえ思っている。そんなことはともかく……。

〈マンタ・レイ〉の貨物室カーゴルームから続くハッチは大小合わせて20もある。中央の巨大なヤツは翼幅300メートルある〈ブーメラン〉をそのまま出せるように設計されたと聞くが、そうなると、貨物室カーゴルーム全てに外気が入ることとなり後々面倒なことになる。そうでなくてもここと外では気圧差が9気圧はあるのだから、宇宙で1気圧の与圧よあつを抜くより時間がかかる。もちろん、いきなり開けたら突風でどうなるか分かったものではない。よって、〈ブラック・タートル〉となるべく大きさのピッタリな気閘室エアロックに入る必要がある。

我々〈ブラック・タートル〉を操る3人は、密閉された棺桶の中で、圧壊あっかいに怯えつつも快適な操縦室コックピット内に陣取っていればよい──というか、この場所に残るしか生きる術は無いのだが、装甲兵アーマードソルジャー隊の場合は、貨物室カーゴルームから地表面に降りることが可能だ。だが、彼らは快適とは言い難いだろう。装甲兵とは言いながら、その装甲は〈ブラック・タートル〉のソレとは段違いに薄い。よって、圧壊あっかいの危険も熱による危険も格段に高くなる。そのため、装甲兵アーマードソルジャー隊が地表面に降りるに際しては、装甲内になるべく与圧よあつをかけ、装甲内外の気圧差を減らして降りる。どの程度かけるかは各軍で色々とノウハウがあるようだ。

また、降下開始から、活動開始時間の短縮も重要なノウハウだ。基本は〝飽和潜水〟と呼ばれるものの発展形だが、昔のように与圧に数日もかけていてはやってられない。金星で使用する混合ガスは、空中都市を含め最初から無窒素雰囲気だから、時間のかかる脱窒素パージ過程が省けるとはいえ、1時間弱で活動が開始できるというのは驚異的なスピードと言えるだろう。

──もっとも、これは加圧時の話で、減圧時には半日くらいかかるらしい。


グリーンランプが付き、静々と上がった〇二まるふたハッチの向こうの空間は意外に狭かった。ハッチ全幅を考えると、可変翼を折り畳んでも車輪が入らない。

「本当にここでいいのか?」

「ええ。車軸を立てれば問題ありません」

「……なるほど」

まさか俺自身がこいつを操縦するハメになるとは思っていなかったので、気閘室エアロックへの侵入方法まではチェックしていなかった。どうも地ベタをコソコソ走るモノは性に会わん。地面に束縛されている気がする。

ノロノロと身を屈めて──いや、逆だ。身を延ばして気閘室エアロックに入る。気閘室エアロックの天井もそれほど高くないので、〈ブラック・タートル〉頭上のアクセントとなっている円盤円錐ディスコーンアンテナがぶつかりそうになる。起動時チェックで開いたままなのを忘れていた。うーむ、意外と調整が難しい。なんとか外部ハッチまで辿り着くと、みのりが遠隔で内部ハッチを閉める。どうせなら、〈ブラック・タートル〉の気閘室エアロック入室自身を遠隔で操縦してもらいたかった。外に飛び出してからは俺がやるからさ──と、ねたましく振り返ってみのりの顔をみても、きょとんとしているだけだ。ちなみに、本来なら助けてくれるべき副操縦士コーパイの御影恭子は、姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊と貨物室カーゴルームの加圧操作の手順についてやりとりをしている。本来はみのりの仕事だろうとも思うが、さすがに、〈マンタ・レイ〉の遠隔制御をしながらの対応は酷だろう。

〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルーム可搬式減圧室Decompression Chambersも兼ねている。減圧室で数時間から、下手をすると数日過ごすことになる彼らは、しばしばここを〝ベル〟と呼んでいるのだが、何故そんな呼び方なのかはよくは知らない。それにしても、さっきまで銃口を突きつけていた相手に対し、そこまで身を委ねて良いものかと、半ば呆れる。急速加圧は下手すると命に関わるわけだし──。まあ、そこは海千山千の姫島だ。ちゃんと見抜いているに違いない。


気閘室エアロックに外気が入ってくると、かすかにきしみ音がする。〈ブラック・タートル〉の外肋骨式OFS: Outer Framing Systemセラミック装甲のパーツがぶつかりあう音で、一度くっ付いてしまうと地表付近までは音はしない。音が収まった頃に前方のハッチが開きだす。気閘室エアロックの内部ハッチは上部スライド開閉だったが、外部ハッチは壁面がそのまま下開きになり、同時に下界への誘導路となる。

「外部ハッチ展開終了。いつでも出れます」

心配性なもので、今一度シールド類をチェック。外部装甲温度は急上昇中で、温度差による陽炎かげろう気閘室エアロック内に渦巻いている。

「何ならアタシが出そか?」

みのりの声にしばらく反応しない俺に、貨物室カーゴルームの与圧設定は終わった御影恭子が反応する。

「大丈夫だ。問題ない……」

俺はそれだけ言って、スルスルと前方に動かす。バックモニターでハッチが閉まるのを確認しながら、車軸を元に戻して次第に走行速度を上げる。

「操縦替わってくれ。二七〇ふたななまる電磁射出機カタパルトポイントまででいい」

了解ウィルコ

俺が操縦輪から手を離すと、御影恭子は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず素直に指示に従った。

「みの──伊川軍曹。降下地点の詳細と、そこまでの風の鉛直プロファイルをくれ。この浮遊基地フロート・ベースで得られたデータだけでいい」

「あっ、はい」

間髪を入れずに、メインモニターに3D表示の風向・風速図が出る。浮遊基地フロート・ベースには巨大な風向鉛直分布測定装置フラットアレイ・ドップラーソーダーが付いているから地表までの風が手に取るように分かる。本来ならば衛星経由で、どこからでも同質の画像が得られる筈なのだが、衛星を乗っ取られたとあっては、そちらを参考にするのは危険だった。もちろん、〈ブラック・タートル〉にも簡易的な装置は付いているが、精々数キロ先の進行方向しか分からない。今確認したいのは、飛び降りるタイミングだ。


金星の上空で吹き荒れているスーパーローテーションと呼ばれる風は、高度70キロメートルでは秒速100メートルを超えるが、地表面では1メートルにも満たない。よって、早く飛び降りたからといって早く目的地に到達出来るとは限らない。上空の風に乗り、風任せで近づいた後、おもむろに降下を開始した方が早い場合もある。敵サンは既に降下中だから、空中機動で劣る〈ブラック・タートル〉が先回りするためには、地上走行が可能というメリットと共に、というアドバンテージを利用する必要がある。金星の高度別の風速は常に一定ではない。特に雲底下では熱潮汐波と呼ばれる大気の波が雲層から地表まで運ばれ、風向・風速ともかなり変化する。高々度からの降下では、いわゆる〝風の読み違い〟で、降下ポイントが大きくずれてしまう。空挺部隊やグライダー乗りなら誰もが知っている事実だ。


「おい。降下はまだか?」

「もう少し待って下さい。今、最適降下時間を──計算中です」

モニター越しの姫島の問いかけに、みのりが答えていた。電磁射出機EmALS: Electromagnetic Aircraft Launch Systemポイントには既に着いており、御影恭子の手によって、畳み込まれた翼は展開され動作チェックも終わっている。みのりの『計算中』と言うのは半分本当で、半分嘘である。俺が、モニターを見ながら腕を組んでいるだけだ。要するに、俺のゴーサイン待ちである。

「よし、出る。発射角は左に──」

「5度……ですか?」

俺が振り向くと、みのりは下からうかがうような目で、操作端末パッドをこちらに見せた。大量の仮想降下軌跡群と共に、角度計算の統計グラフがあり、その中央値がほぼ5度を示している。前言撤回だ。みのりの『計算中』と言う言葉は全て本当だった。

「そうだ、そのとおり。最初からみのりに聞いておけば早かったな……」

「いえ、今やっと四次元変分法《4D-VAR: 4-Dimensional Variational data Assimilation》での答えが出たんです。確認用に走らせているアンサンブル・カルマンフィルタEnKF: Ensemble Kalman Filterの解析結果はまだ出てなくて自信がないのですが──」

「何か分からんが上出来だ。電磁射出機カタパルトの方は──」

「最大出力でいつでもOK」

御影恭子が左手を挙げて合図する。『コイツ、何者?』という感情が再び頭をもたげるが、とりあえず今はそんな詮索をしている暇はない。

「姫島、千船、杭瀬。準備完了だ。当機はこれから地獄への降下を開始する。キャビンアテンダントは乗ってないから、各自でシートベルトの確認をしてくれ」

了解ラジャー。遅いから外に出て後ろから押そうかと思ってたがな……」

同時に千船と杭瀬の苦笑も聞こえる。問題はなさそうだ。

「さてと──、カウントダウンだ。5からでいい」

右手でみのりに合図する。

「はい。5から行きます。5、4──」

電磁射出機カタパルト横の3連紅緑灯が赤く灯る。

「3、2、1──」

それらが緑に変わってゆき──

「……!」

目玉がめり込みそうな加速で、機体は空中に放り出された。一瞬の上昇の後、視野の狭い風防ウインドシールド全てに暗い地表が映し出される。


サイは投げられた。もはや後戻りはできない。

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