第3章 遺 跡
「おいおい。勘弁してくれよ」
俺は頭を抱えていた。──いや違うな。正確には
慌ただしい
俺の意識は既に捜索活動の方に移っていて、ロシア管轄空域との
ちなみに、地球上では〝国〟と言う概念が事実上崩壊し、多国籍企業が地を這う
建前上、軍隊はいない筈なのに撃墜されるというのもおかしな話だが、撃墜されても文句は言えない。〈マンタ・レイ〉のような飛行船モドキは、装甲が脆弱だ。──っていうか、無いに等しい。図体もでかくて回避能力も期待できない。重機関銃程度の火力でも簡単に落ちる。だから、地域越えの正式な手続きは面倒だが、重要な手続きだ。可能であればなるべく他国の空域を通過せずに目的地まで到達したい……。
──目的地?
そうだった。俺は目的地を知らないのだ。湊川との通信により、
12番
地球上でもジェット気流上の往路と復路で飛行時間に大幅な違いが出るのと同様、風に逆らって飛ぶのは時間と燃料を食う。核融合炉と蓄電池を用いてプロペラで飛ぶ〈マンタ・レイ〉の場合、燃料については配慮する必要が無いが、問題は時間である。金星のスーパーローテーションは地球上のジェット気流がそよ風に感じるほど強風だし、それに立ち向かうのが非力な飛行船モドキとあっては、滝を登ろうとする金魚のようなものだ。とても歯が立たない。〝河童の川流れ〟ならぬ〝〈マンタ・レイ〉のスーパーローテーション流れだ〟。
──全然語呂が悪いな。そんなことはともかくとして。
重力を最大限に利用し、落下しながら赤道を最速で通過できる進路をアンサンブルで確率計算しているところに2人がやってきた。御影恭子は堂々と。みのりちゃんはおずおずと。
「案外簡単だったわね」
「…………」
言わなくても分かると思うが、一応言っておくと、それが御影恭子の第一声だった。殴ってやろうかと思ったが、ここで関係が悪化するのも何かとマズい。命の恩人──俺だけでなく、みのりちゃんの命の恩人でもあるのは間違いないわけだし。もっとも、みのりにしてみれば、──どこまで本気か知らないが──人質として無理矢理連れ回されるハメになって、いい迷惑だろう。
「で──」
俺は振り向くことも手を休めることもなく、正面の雲海を眺めながら尋ねた。そう言えば、まだ熱赤外線モードだったな。可視にしたところで景色は変わらないが。
「──で、俺たちは何処に行けばいいんだ。
「実はアタシも良くは知らないんだ……」
俺は手を止めた。いや、止まった。ついでに思わず振り向いた。なんだと?
「まあ、〝遺跡〟の残っている場所はそんなに多く無い筈だから、なんとなく想像は付くけど、
「遺跡?」
そうだった。ソーニャに聞かされた金星にあるという遺跡の話。御影恭子はそれを狙っている。硫酸がなんとか、磁性がなんとかという細菌の話だったか? 確かそれはみのりちゃんに調べてもらったから、後で詳細を今一度聞くとして──ともかく今は行き先だ。
「いや。遺跡の話は後で聞く。で、何処に行けばいいんだ」
「とりあえず、南の方かな……」
「とりあえず? おいおい。勘弁してくれよ」
──と、冒頭に戻る。つまりこいつは、御影恭子ってヤツは、あんな派手な大立ち回りを行い、引き返せない状態にしておいて、『行き先はよく知らない』と平然と言ってのけているのである。あまりに馬鹿らしくて、逆に腹も立たない。成り行き任せで行き当たりばったり過ぎる。それでよく科学者が勤まるなぁ。
「……あの、行き先なんですけど」
みのりが申し訳なさそうに口を出す。話に割り込んでくるのがみのりでよかった。湊川なら『痴話げんかの最中すまないが──』とか言いそうなシチュエーションだ。
「
「それはそうだが、その
消えてしまったことにいち早く気づいたのは、他ならぬみのりちゃんである。だから、そこに行ってもどうにもならないことを一番良く知っている筈だ。むろん、そんなことは百も承知で言っているのだろうから、彼女なりに思う所があるのだろう。
それはそうと、軍のバックアップコンピュータが図書館にあるということを御影恭子に隠すつもりで、『図書館で調べもの』と言い直したのだろうが、残念なことに、御影恭子はそのことをおそらく知っている。何処で知ったのかは定かではないが。
「いえ。消えたのでは無いと思います」
みのりは、自らに確認を取るような口調で、更に付け加えた。
「これは、情報操作です。誰かがGPS衛星回線に
「誰かとは?」
「分かりません。でも、おかしいんです。12番
「どういうこと?」
御影恭子が横やりを入れる。
「操作信号は衛星経由の伝達で行われるんですが、電波の視線大気遅延量がズレていることに気づいたんです」
「なんだって?」
「なんですって?」
ハモった。俺は御影恭子と顔を見合わせた。気に入らない。
「電波遅延量なんか体感で分かる程には無いだろう」
「体感じゃありません。操作中のリアルタイムログを見ていて気づいたんです」
「何? あんなモンずっと見てたのか⁉」
回線のアクセスログやらタスクログやら、確かにズラズラと出てくる画面はあるが、あんなものコンピュータが嫌がらせで吐き出している取るに足らないつぶやきであって、止まらずに流れていれば正常とばかり思っていた。異常が起きて画面が止まった時に初めて眺めるモノ──俺は眺めても分からないが──なんだろうと。まさかリアルタイムで逐次見ているとは思わなかった。それを見ながらあの
「うーむ。……だとしても、12番
「違うんです!」
「えっ?」
「12番
みのりの話を要約するとこうだ。12番
「いや、待てよ。もしそうだとしたら、どうして〈マンタ・レイ〉は
「……それは」
みのりがうつむく。
「それは簡単な話よ」
御影恭子が話を引き継ぐ。
「
御影恭子は少し嬉しそうに微笑んだ。
「──つまりは、この作戦は最初から仕組まれていたのよ。あなたもその相棒だったんじゃない?」
「ちっ、違います!」
みのりがそんなことをする筈が──と思う反面、12番
ただ、詮索は後だ。
「もめ事は後にしてくれ。金星表面を周回遅れになる前に、どうにかして地表へ──少なくとも、硫酸雲下の
御影恭子はこちらを見ると、そのまま腕組みをした。みのりは少しほっとしたようだ。
「時間があまり無かったので詳しい位置までは特定出来ていませんが、GPS
「んん?」
みのりの示した2点は大きく離れていた。北緯30~40度に位置する
俺は両手を上げて軽く万歳をした。まさにお手上げ状態だ。
「すみません。補足した衛星データが2つしか無かったので、これ以上絞り込むことができなくて……」
謝られても仕方が無い。そもそも、この無謀な計画は、御影恭子によってなされたものなのだから、みのりちゃんが謝る筋合いのものではない。
で、当の御影恭子は腕組みをしたまま、行き先候補を見比べていたかと思うと、
「北よ。北で間違いない」
と言い放った。
「何を根拠に?」
当然だ。当然の疑問だ。コイツの言うことはあてにならない。
「簡単な話よ。南のこの場所には〝遺跡〟は存在してない。巨大なコロナが2つもあるんだし、もう使い切っていて
「……言っている意味が分からんが?」
「ともかく北に行けばいいのよ」
「納得できんな」
「アンタはパイロット何だから、アタシの指示に従えばいいの」
「何だと⁈」
「元々、そういう約束だったでしょ。お忘れ?」
くそ。やっぱりコイツは一発殴って、その鼻っ柱を折ってやらないと──と、頭に血が上りかけた瞬間にみのりが割って入って来た。
「おそらく、御影さんの判断は正しいと思います」
「みのりは〝遺跡〟の
そう言えば、みのりは〝遺跡〟については機密事項だとか言っていたのだ。俺の
「いいえ。その、詳しくは知らないのですけど──」
「けど?」
「そのぉ──」
「その?」
ここはひとつ、その機密事項とやらを聞かせてもらおうじゃないか……。
「その──ですね。
「なるほど、なるほどね」
うまく
「分かった。北だ。
「2000キロメートル四方程度しか分かりません」
「結構広いな」
「すみません。衛星データの解析ではそこまでしか……」
「いや、謝る必要は──ん? 待てよ?」
「はい?」
「〈マンタ・レイ〉から映した地上画像とかあれば、位置が分かるか?」
そうだった。俺は湊川との交信記録をメモリに入れ、図書館に出かけてゴタゴタに巻き込まれたんだった。早速メモリをみのりに渡すと、みのりは手慣れた手つきで、定位置──航空通信士席──のコンソールを叩く。その第一声が、
「上沢少尉。この記録の保管・所持及び一般住居地域等への持ち出しは、守備隊法第4章第5節服務規程第59条の──」
「分かった、分かった」
ここでそれを言うなよ。
「本来なら破棄すべきメモリですけど、これがあれば地形マッピング同定処理で位置の特定ができそうです。今回は仕方ないですね。活用させて頂きます」
「はっはぁ。そうこなくっちゃ」
「えーっと、モニター越しの僅かな部位にしか地形が映っていないので、有意な一致率水準には達していませんが、該当する場所の上位3地点がここです」
食い入るように見つめる──までも無かった。
* * *
金星で人間の住むことができる環境は限られている。正確に言えば、酸素ボンベひとつだけあれば何も手を加えずに住める環境──などという都合のいい場所は、金星では何処にも存在しておらず、最も少ない経費で自給自足が可能な区域は何処かと考えることになる。地球と同じく、1気圧で20℃程度の環境を探し求めると、地表から50キロメートルちょいの上空に行き着く。もっとも、厳密な1気圧を求めると、気温が60℃にもなりかなり暑い。湿気は無いから爽やかかも知れないが……。逆に気温が20℃の適温の場所──高度57キロメートル程度──は、気圧が0.5気圧となる。
人間の場合、気温が常時60℃の空間に住み続けるのは難しい。──っていうか無理だ。だが、0.5気圧の空間に住む事は可能だ。地球上で考えれば、高度6000メートルの高地であり、訓練と素養さえあれば何とかなる。ただし、気圧と気温が適切だったとしても、金星の大気中には酸素が無いため、呼吸が出来ない。従って、どのみち居住区は、外気を遮断した閉鎖空間にする必要があり、ならば、内部を1気圧にまで加圧してしまってもいい。熱の方はいくら遮蔽しても外部と勝手に交換されてしまうが、空気の方は遮蔽さえできれば任意に対応出来る。
しかし、居住区内を加圧すると今度は、居住空間の浮力を得るのが難しくなる。金星の大気はほぼ二酸化炭素100%、地球の大気は窒素8割、酸素2割であり、仮に同圧力の場合、地球大気は金星大気の6割強の重さしか無いため、上空に浮く事ができる。だが、居住空間の圧力を外気の2倍にすれば、質量も2倍になるため、今度は沈んでいってしまう。
外気圧と居住区の内圧の差が大き過ぎる場合、外壁の損傷や事故──みのりのように故意によるハッチの強制排除も含む──によって短期間のうちに急激に居住区の大気が外に吸い出されてしまう。むろん、対応措置の時間も取れず、事故現場の人間が放り出される危険もあるため、大気差はなるべく小さくしたい。
これら様々な要因が絡み合い、妥協点として高度55キロメートル付近、外気圧が0.7気圧で外気温40℃、居住区の気圧はほぼ同じか若干高めに設定、熱交換機で温度を20℃に保つという方式に落ち着いた。ちなみにこの0.7気圧と言う環境は、宇宙空間で船外活動を行うための
さらに居住区大気は、地球大気とは違い、無窒素雰囲気内で酸素濃度を濃くしている──ただし、声が変わらないところを見ると、単純なヘリウム置換では無いらしい──とか、居住区上部と下部との温度と圧力差を利用した熱交換および温度差発電による排気機構とか、空中都市の生命維持管理には色々と技があるようだが、詳しいことは良く知らない。まあ、一言で言うと『よく出来たシステム』だということだ。周囲には幾重もの
だが、これら事故・事件の記録は、空中都市から離れた場所──つまり、飛行中の航空機や飛行船内では、桁違いに増える。それでも上空へ上って行く方は、比較的安全だ。途中で機体がお釈迦になっても、間違って──あるいは御影恭子のバカのように故意に──飛び出しても、宇宙服を着ていれば即死にはならない。いくら外が真空であったとしても、気圧差は0.7以上にはならないからだ。気圧がマイナスになることは無いから当然と言えば当然のことである。それに、温度が100℃であっても、マイナス100℃であっても、外の大気が薄ければ短期間ならそれほど問題ではない。
問題なのは、地表へ降りる方だ。地表面の90気圧、460℃という環境に放っぽりだされれば、大抵の人間は即死である。聞いた話だと、高圧環境下での人間の活動記録は70気圧が限界であり、加圧に一週間、減圧に二十日かけないと不可能な作業だと言う。もちろん、通常の空気だと窒素でラリってしまうから、窒素をヘリウムに変更した
それならば、内部が常に1気圧の
〈マンタ・レイ〉の巨体は、飛行機というより、潜水艦に近い。機動力が緩慢なのも嫌いだが、どうも、この操縦──いや、操舵感触が気に入らない。事実、〈マンタ・レイ〉の〝潜航〟は、潜水艦のバラストタンクへの注水と同じ原理で潜る。すなわち、船体に
いや、『好きだ』というのは語弊がある。どちらも好きにはなれないが、嫌な中でもマシな方──と言うべきだろう。
* * *
目指す
金星では、スーパーローテーションという猛烈な東風が常に吹いている。地球のようにやれ偏西風だの貿易風だの、上空のジェット
だが、風の動きは、水平方向だけでなく、鉛直方向の上昇下降流も存在する。至極簡単に言えば、夜間で大気が冷えて下降し、日中に上昇するという夜昼間対流という風が赤道ではおきる。太陽で加熱された大気は、熱潮汐波という上下方向に伝わる振動を生み出す。さらに、〈レッド・ランタン〉がある空抜0メートル付近の空域は、硫酸雲のまっただ中にあり、太陽光を大量に吸収する高度でもある。要するに、常に積乱雲の中を飛んでいるようなもので、飛行船モドキの〈マンタ・レイ〉を、赤道を越えて遅滞無く地表の一点に誘導するのは至難の業なのだ。このため、まずは地上からの高度30キロメートル、空抜マイナス25キロメートルの雲下まで降下してからの水平方向移動が得策だが、高圧・高温の場所で長く航行するのはそれなりのリスクがある。
──と、何度も見て来たかのようなことを言っているが、俺も実際に地表に降りるのはもちろん始めてだ。シミュレーションと実際とでは、やはり気持ちが違う。こればっかりは、何度シミュレーションを行おうが、『
で、当のみのりは、乗り込み直後に御影恭子と共に操縦室に顔を見せ、行き先を
「何だよ、これ?」
操縦室内の航空通信士席にみのりが戻って来たのを見て、話を切り出す。
「えっと、おそらく、この軌跡が
「えっ? 近くの
「それは当てになりません」
「しかし、GPS衛星追跡情報だと──ああ?」
そこまで喋ってから気がついた。GPS衛星回線に何者かが
「じゃあこの、ナメクジがのたうった跡みたいな絵は?」
「ナメクジじゃないですぅ」
何か露骨に嫌な顔をされる。ナメクジ嫌いなのか? まあ、あまり好きな奴はいないと思うけど。
「それは、
「──えっとだな。もっと簡単にならないか? その説明」
わけが分からない。
「簡単に言うと……、えーっと……山岳波です」
「ほほぅ」
「山の場所じゃなくて、
「はい。地形の影響は
「だが、
「そうなんですけど、えーっと──
「いや、何でもない。つまりだ。風にたなびいているなら、風を強制的にせき止めたり出来ないじゃないか」
「ですから、
「…………?」
良くは分からないが、ともかくこれを見ていれば、
「ところで、このナメクジ画像の元データは何だ? 衛星は当てにならないんだろ?」
「ひとつだけ
みのりは何故か嬉しそうだった。この手の情報操作はホント好きなんだよなぁ。
「あったか? そんな軍事衛星」
「軍事じゃありません。気象衛星です。気象衛星は軍事衛星ではノイズ扱いとされている硫酸雲や硫酸雨を捉えて公開しています。点状の飛行物体の補足じゃなくて、それ以外の広範囲のデータ処理です。点を消したり移動させたりする
「なるほど。それで、
「
軍事衛星と気象衛星は表裏一体の関係にある。軍事衛星にとって、雨や雲からの
そもそも論から言えば、飛行機がステルス化し秘密裏に行動出来るのは、山岳など地形と比べれば、圧倒的に小さいからだ。小鳥程では無いが、
敵に見つからない様にするため発達した方法は、敵の目を
みのりの言うように、GPS衛星追跡情報が
衛星を
飛行前の航空予報官による
地球上での天気の話が、ここ金星でどれほど役に立つのか、あるいは役に立たないのかは俺にはよく分からない。ただ、みのりの言わんとすることは分かる。
改めて、みのりの作った〝ナメクジ画像〟と、
* * *
降下開始から約1時間。硫酸雲の雲底に到達する。肉眼で金星の地表を拝めるのは、状況が状況だとは言え、やはり少々興奮するものだった。
黄味がかった
本当の色を再現すべく、可視モードを止め、|固定式高度可視・赤外撮像素子《FEVIRI : Fixing Enhanced Visible and Infrared Imager》を使ってRGB合成してやればそれなりの色と明るさにはなる。ただ、どのみち肉眼で見た映像とは違ったイメージになるだろう。それなら、可視モードで見た方が幻想的──いや、地獄の一丁目的な雰囲気が出ていて好ましい。──おぞましいかな?
雲底に達したといっても、空抜マイナス15キロメートル。さらに10キロほど降下しないと、完全には
で、その肝心のみのりは、ずっとレーダー画像やその他情報満載のディスプレイとずっとにらめっこしている。やれやれ……。
「みのりちゃん。で、俺はどっちの方向に飛べばいいんだ?」
ナメクジ画像のディスプレイを見ればおよその見当は付くが、わざと聞いてみる。
「はい。えーっと……このまま西へ。ほぼ真下に
「ほお。そのヨルカイなんとか山というのは、てっぺんが赤いヤツか、青いヤツか?」
「えっ? 色……ですか?」
みのりが顔を上げて正面左を見てきょときょとし、目をぱちくりさせた。中々いいリアクションだ。
「──冗談だよ。レーダーばかり見ている監視兵に言う古典的ジョークだ」
正式には、艦隊の位置をレーダーばかりで確認し、目視をしていないヤツに対して、
『その艦は赤いファンネルか? 青いファンネルか?』
──と聞くのが正しい。ジョークに正しいも何もあったもんじゃないが。
「あ。すみません」
みのりは気まずそうに、ペコリと頭を下げる。気の張り過ぎは禁物だ。気概は分かるが、長期戦となった場合、途中でポッキリ折れる。なにせ3人しかいないからな。御影恭子は素性も含めて分かったもんじゃないから、戦力に入れていいものかどうか分からないが、途中で操縦を替わってもらう必要はあるだろう。おそらく彼女も、交代要員が欲しくて『パイロットを探して』いたのだと思う。
で、その肝心の御影恭子は、〈レッド・ランタン〉から離陸直後は、無線をチェックしたり、後方レーダーを見たりして追っ手の有無を確認していたが、10分もすると、『ここお願い』と、
「今、どのあたり?」
降りて来た俺を察知して、先に話しかけて来たのは御影恭子の方だった。『操縦は誰が?』とか『何しに来たの?』とか聞かないところが彼女らしい。
「空抜……いや、高度35キロメートル程だ。30分もすれば完全に雲海から出られる」
「あら、そう」
実に素っ気ない。彼女は、
「少し聞きたいことがある。〝遺跡〟のことだ」
御影恭子はスレートから目線を離し、上目遣いでこちらを見る。良いアングル──いや、そんな話をしたいのじゃないな。時間は限られている。
「〝遺跡〟のことなら、伊川軍曹の方が専門だと思うけど?」
「彼女は話してはくれない。軍規でな」
「あら、そう──」
やはり素っ気ない。それにしても、コイツは何故みのりのことを知っているのだ。
「──まあ、軍規なら仕方ないわね。パイロットになってもらったことだし、教えてあげる」
「……それはありがたいな」
選択の余地はほとんど無いスカウトだったけどな。
「遺跡とは一体なんだ。RERCの幹部の話だと、お前がその石垣を狙っていると聞いたが……」
「狙っている? アタシが? まさか。狙っているのはRERCでしょ。それと、貴方達もね」
「俺はそんなモノは知らん」
「ははっ。でしょうね。だから、置いて行かれた」
「何っ!」
いや、ケンカ腰になっている場合ではなかった。遺跡に関しての情報を引き出せる相手は、今の時点では彼女しかいない。
「──で、何なんだ。遺跡と言うのは。硫酸なんとか細菌の排泄物とか何とか聞いているが……」
「良く知っているじゃない。硫酸還元磁性細菌が作り出した
「言っていることが分からんな」
掛け値無しに分からん。さっぱりだ。
「遺跡にあるのはね……。大量のモノポールよ」
「モノポール! モノポール──って何だ?」
御影恭子はわざとらしく肩を落として溜息を付いた。いちいち
「磁気単極子。磁石って、普通はN極とS極の2つがあるでしょ。あれが片っぽしかない素粒子。アメーバ並に重いらしいけど……。まあ、アタシも良くは知らないんだけどね」
何だ、大見栄を切ったくせに知らねーのかよ。けんか売っているのかコイツは。
「──その分野はDr.魚崎の専門。RERCが狙っているのもモノポールの方……。アタシはそれを取り囲んで保持している磁性体の配列構造と、磁性体を作り出した硫酸還元磁性細菌の
「そのモノポールを手に入れると、何かご利益があるのか?」
「そうねぇ……。この世のエネルギー問題が全て解決するわね。多分」
「エネルギー問題が解決?」
「そう。無尽蔵のエネルギーが手に入る。
うーむ。やたらと
「それは熱核反応の一種か?」
「陽子崩壊反応だから少し違うみたい。魚崎の話だと、陽子が陽電子と
「それは──つまり……、反物質エンジンが作れるってことか?」
おそらくチグハグなことを言っていると思うが、100%のエネルギー変換効率を持つエンジンは反物質エンジンしか知らない。核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』のシミュレーション搭乗時に、将来のロードマップとして反物質エンジンを嬉々として語っていた
「反物質エンジンは文字通り〝反物質〟が必要でしょう? それは自然界にはほとんど存在してない。今は核融合のエネルギーを利用して、反物質を精製、貯蔵しているだけで、エネルギー源はあくまでも核融合炉。エネルギー変換効率は悪いわ」
「モノポールが反物質に変わるのか?」
「いいえ。モノポールは触媒だから増えも減りもしない。モノポールがあれば、陽子を連続的に崩壊させることが出来るから、そのへんに転がっている石でも100%エネルギーに変えることができる。まさに究極のエネルギー発生機よ」
「究極のエネルギーか。百年以上前から言われ続けているセリフだな……」
どこまで本当かは分からないし、モノポールってヤツの有る無しについては俺は興味が無い。食えそうに無いしな。そういうのは科学者に任せておけば良いと思っている。問題なのは、それが存在すると信じている人がいて、実際に俺たちがその騒動に巻き込まれているという事実だ。要は、資源争いなのだから、貴金属やレアメタルを求めての争奪戦と構造は一緒だ。
──いや、相手がエネルギー資源の争奪戦となると、ことさらタチが悪い。そいつは太古の昔から現代に至るまで、主要な戦争の火種だからだ。〝究極の〟なんて
RERC──共和国エネルギー管理委員会──がその〝究極のエネルギー〟を狙うのは良く分かる。おそらく共和国政府自身がその遺跡を独占することを狙っているのだ。だが、その先が分からない。
「うーむ。どうもよく分からんな。そんなのはRERCだけで秘密裏に掘り出せばいいじゃないか。何故、俺たちを巻き込む必要があるんだ?」
「伊川軍曹から聞いてないの?」
「むっ? 機密事項だとしか聞かされていない」
「あら、そう。貴方……よほど信用されていないみたいね──」
「悪かったな!」
御影恭子は呆れた様に笑った。くそっ。むかつく。
「遺跡を発見したのが、あなた達の
「何っ⁈」
「そして、その
「最後の交信⁈ 遭難したのか? そんな引き継ぎは受けてないぞ」
「遭難──と言えば、遭難ね。もっとも、遭難したのは
「
──そう言えば、そんなことを言っていたような気もする。どんな場面だったかは覚えていないが。
「そこであなた達は〝遺跡〟を発見した。本来なら国連と共和国政府に届け出る必要があるけど、あなた達はそれをしなかった。理由は簡単。分かるわよね?」
「遺跡を──、遺跡を独占すれば、究極のエネルギーを独占出来る……からか?」
「まあ、そういうことね」
御影恭子はまた笑った。ただし、今度はかなり冷たい笑いだった。
──いや、行って帰ってくるだけなら物見遊山で意外と楽しいと聞く。外の景色は何処に行っても同じだが、都市部の飲屋街を歩くのが楽しいらしい。
問題は、帰って来た後だ。報告書を山のように書かねばならない。ヴィーナス・アタック自身に何事も無ければそれだけで済むのだが、事故があったりすると、その原因についての説明が求められるし、それを
だが、公開されているのは、あくまでも
今回は、その
「もうひとつ。聞きたいことがある──」
俺はソーニャの話を思い出していた。
「──
「そんな筈はないわ。硫酸還元磁性細菌は……そうね。コンクリートなら腐食させるけど、人間には直接的な害はない菌よ。大量に発生すれば硫化水素が害になるけど、人の体内で増殖する菌じゃない」
「RERCはお前が犯人だと疑っている。それでお前が姿を
「アタシが?」
「そうだ」
「ふーん」
御影恭子は少しばかり考えごとをしている素振りだったが、ひとり言のように、
「──
とつぶやいた。
「何だ? その、〝シュードゲネ〟っていうのは?」
「ボストーク基地の細菌はかなりジャンク化してたけど、金星の菌の中には特定の遺伝子の発現を促進させかねない
「んん?」
「ともかく。その仕事をしたのはアタシじゃない。信じるか信じないかはあなたの勝手よ」
「うーむ……」
まあ、確かにそうだ。仮にここで彼女が嘘をついていたとしても──、つまり、風邪の原因が彼女だったとしても、それで俺の行動が変わるわけではない。追求しても無意味というものか。
「しかし、アレだな。その何とか還元菌と言うヤツは、モノポールは集めるし、風邪は起こすしと、色々と多芸な菌だな」
「いいえ。それは少し違う」
何の気無しに取り繕った俺の言葉を、御影恭子はにべもなく否定した。
「金星由来の硫酸還元磁性細菌は、モノポールを包み込んで固定させる揺りかごを作り出すように設計されているだけ。モノポールを作り出すことは出来ない」
「さっきは、大量のモノポールがあるって言ってたじゃないか」
「そう。モノポールは人為的に持ち込まれたものよ」
『人為的? それは一体どういう意味だ』──と、問うことは出来なかった。みのりからの連絡が割って入ったからだ。
「上沢少尉。
* * *
『5億年前までは、地上でもこれら細菌が生息出来る環境だった』
──と言うのが、他でもない御影恭子の論文の一節に仮説として書いてある。以前、みのりが見つけ出してくれた論文だ。もちろん、本人に聞けばその詳細を微に入り細を穿つように教えてくれるに違いない。あるいは、ハナから教えてくれないかのどちらかだろう。どちらにせよ、俺は詳細など聞きたくはない。知りたいのは、遭難した
もちろん、御影恭子との約束があるから〝遺跡〟には行かなければならないが、人命救助の方が先だ。緊急に〈レッド・ランタン〉に戻らねばならないような事態が発生していたならばそちらを優先するのは当然のことである。
「よう。上沢か。何しに来た?」
俺は面食らっていた。
「何しにって──無事なのか?」
無事なのは分かるが、一応聞いてみる。
「無事? 妙なことを聞く奴だな。無事に決まってる。だから
──と言うのは、実は昔の話で、
「はっはぁ。理由か? それはここまで来てみれば分かる」
不思議に思い、聞き返した俺に対して、姫島は一言そう言って無線を切った。確かに、そっちに行って聞いた方が話が早そうだ。
* * *
〈マンタ・レイ〉の高度をじわじわと下げながら、ノロノロとした全速力で
「あ! あそこっ!」
通信を終えてから30分。みのりの判断は正しかった。GPS衛星追跡情報には何もない空域に、天目茶碗と称された
──まあ、実際には俺の方が先に目視で見つけていたのだが、それはそれ。声に出して指摘したのはみのりちゃんが最初だ。
距離にしておよそ300キロメートル。戦闘機なら近距離だが、〈マンタ・レイ〉なら小一時間はかかる距離となる。
高度は30キロメートル。仮にここが地球上なら、空は青黒く、雲海は遥か下に横たわっている高度となる。ジェットエンジンで飛行するには限界の高度であり、大地が丸いのがはっきり分かる──そういう高度だ。だが、金星の場合、厚い雲が上空を
もちろん、使い古されたジョークである……。
これとは対象的に、
ただ、地上の構造物とは違い、
係留ワイヤーは着地点に合わせて手動で行う必要がある。〈レッド・ランタン〉のある空抜0メートル高度なら、少々暑いのを我慢すれば酸素ボンベひとつで作業ができるが、ここではそうはいかない。遠隔マニュピレータでワイヤーをたぐり寄せて固定。耐圧ハッチの連結も一部は手動だ。特に図体のでかい〈マンタ・レイ〉ではこれが一苦労で、サイドスラスター無しで10万トンタンカーを港に横付けする技術が求められる。湊川はこの手の操作に滅法強いのだが、俺は苦手だ。第一──なんと言っても地味な作業だしな。
〈マンタ・レイ〉の壮大な車庫入れを前にして、俺は少しばかり憂鬱になっていたのだが、発着場中央からの発光信号を見つけて安心した。
風は
姫島らの的確な誘導と、俺の腕──ここ重要──もあり、着地は難なく終了した。百点満点だ。思ったほどは疲れなかったが、ここから地表までには様々な難関がある。それよりも先に、まずは、姫島から
停止手順に従い、可逆性液体浮揚装置と気密のチェック。
〈マンタ・レイ〉から連結ハッチを通って
「がらんとしてますねぇ」
「ま、繁盛しているとは言い難いな……」
直下のだだっ広い格納庫では、かすかな機械音がするものの基本的に無音で、殺風景だ。何しろ、野球場が4つほど入りそうな空間に、誰一人としていないというのは、あきれるほど淋しい情景だった。施設としては、最大で3千人が一週間寝泊まりできる設備と備蓄がある。
姫島ら
──いや、降下できないほどの致命的な損傷があった場合は、無理をせず空中都市まで引き返すのが鉄則だ。行くのも引くもどうにもならず、進退窮まった状態の時しかこのドックは使われないというのが本当のところだろう。だから、メインテナンスをするためのドックなのに、ドック自身の定期メインテナンスの方が多いと、もっぱらの噂である。宇宙空間のドックの方が無駄な気圧調整が不必要な分、まだマシだ。
搭乗員のメンテナンスも同時に行いたいところだが、降下地点の距離と相対速度からして、それほどのんびりできそうもない。それでも全視界展望ラウンジまで降りて地表を眺めながら、一杯のコーヒーくらいは飲めそうだ。──が、その前に、まず制御室だ。
「上沢。何しに来た?」
姫島は、無線で聞いたのと同様の陽気な声で、再び繰り返した。直径10キロメートル、総重量40億トン近くにもなる
「……そうだな。何から話せばいいものか。とりあえず、コーヒーを飲みにきた」
「はっはっは。
「賞味期限が心配だな」
「それは大丈夫。完全無菌の30年保証。俺もさっき飲んだ。もっとも、味のほうは保証しないぞ」
「そいつは安心だ……」
姫島は俺とのバカ話に応じつつ、ディスプレイに映る〈マンタ・レイ〉の点検項目に目を通している。杭瀬は向かって左の
ちなみに、制御室の入り口から中央の通路を境にして、左側が主操作卓、右側が副操作卓で、完全に二重化されたシステムとなっている。正面の一段高い場所が、いわゆる〝艦長席〟とでも言うべき場所になっていて、姫島はそこの段差にある手すりに手を付き、その手前まで歩んだ俺たちと対峙している格好。みのりちゃんは俺のすぐ右後ろだ。杭瀬は左横。千船は後ろに居る。姫島はいつも通りの笑顔だが、杭瀬と千船は表情がやや
「コーヒーの前に聞きたい。時間もないことだし、単刀直入に言わせてもらう」
俺がそう言うと、
「ん?」
姫島が微笑みをたたえたまま、左眉を上げる。
「
「降下作戦遂行中さ。そろそろ地表に降り立つ頃合いだと思うが? ──杭瀬。状況は?」
「残り1万2千メートル。降下進路を選択中です」
「──ほらな」
杭瀬が見守るディスプレイには、確かに、降下中の〈マンタ・レイ〉の識別信号の表記が光っていた。だが、何かがおかしい。胸騒ぎがする。みのりも無言のままだ。
「降下地点は南半球だった筈だが?」
「表向きはな……」
姫島は目を細める。
「ふん。──で、実際は何の目的の降下なんだ? 目的地は?」
「目的地、目的地か。それは──上沢。お前のほうが知っているんじゃないのか?」
……妙な具合になってきた。何故、こんなところで禅問答みたいな会話を姫島としなければならんのだ。俺は捜索に来たんだ。目的地の追求は二の次、三の次でいい。
──だか、気になるものは気になる。こればっかりは止めようが無い。
「〝遺跡〟──なのか?」
「そうか、それは残念だ」
姫島の腕の動きは素早かった。背中にあったと思われる銃の銃口は、しっかりと俺の眉間に赤い光点を結んでいる。ほぼ同時に左と後ろから、拳銃のコッキング音が響く。明らかに形勢は不利だった。相手は、装甲を脱いだとはいえ戦闘のプロだ。
「どういうことか説明してくれないかな?」
俺は、ゆっくりと両手を上げながら、なるべく冷静に姫島に聞いた。後ろから千船がゆっくりと歩いてくる足音が響く。背後にいるみのりが例の素早い身のこなしを見せるかと思ったが、それは無かった。むしろ、無くて安心した。この状況で事を起こせば必ず死人が出る。多分、最初に死ぬのは俺だ。それだけは決定している。味方に──味方で良いんだよな? ──殺されて死ぬのだけは勘弁願いたい。
「いやな。俺も詳しくは知らんのだが──」
普通ならここは突っ込みを入れるべきセリフだが、この状況で心にそんな余裕はない。
「──うちにスパイがいるらしくてな」
「スパイ?」
「今回の任務は少々イレギュラーな
「アンモビック?」
金属音が気になり、右後ろを少し振り向くと、みのりが後ろ手に手錠をはめられていた。手回しがいい。いや、良すぎる。要するに、俺らは『ここまで来てみれば分かる』という姫島の誘いに乗り、鴨がネギしょった状態でやってきてしまったということらしい。
「共和国政府はうすうす気づいていたようだが、国連機関に別ルートで通じるものがいるのは少々困る」
「それで……、そのスパイが俺だと?」
「いや、そうは思っていない。お前はスパイには向いていない。直情型の気のいいヤツだからな」
姫島はあっさりと否定した。そして、再び笑った。否定の理由が気に入らないが、疑われ続けるよりはマシだろう。
「すまんが、これは
「……それは、──そうだな。この程度で済んでいることに、むしろ感謝すべきかな」
みのりは千船に連れられて、右側のレーダー席に座らされた。千船はその直後、少し頭を下げてみのりに敬礼をする。危害を加える気は無いらしい。まあ、
「ところで、女はどうした?」
「女? ああ……」
すっかり忘れていた。御影恭子はおそらく
「そいつがスパイの可能性が高いだろう」
姫島は、俺の考えを見透かしたかのように応えた。だが、何のために?
千船は、みのりを席に座らせたあと、俺の身体をチェックし始めたが──あ。ヤバいな。こっちもすっかり忘れていた。
「ん? これは⁉」
硬かった表情が幾分和らぎつつあった千船だったが、それが再び元に戻る。俺の左脇のポケットから、見慣れないコンベンショナルダブルアクションの拳銃が一丁。もちろん、軍部から支給された官製品ではない。
「隊長!」
今度は、左の
「〈マンタ・レイ〉の第2モーター上部に発信器があります。それともうひとつ。まだ遠地ですが、レーダーに新たな機影が入ってきました。識別信号ありません。こちらに向かってきます」
姫島は、再び目を細めた。
「お前ぇ……。ひょっとすると──」
「それは違います!」
そう叫んだのは、これまで無言を通したみのりちゃんだった。俺はそのまま後ろ手に手錠をかけられ、その場に座らされる。姫島のレーザーサイトはようやく俺の眉間からおさらばとなったが、この手錠──みのりの場合と違いちょっとキツく締め過ぎじゃないか。
「私たちは、RERCに──連邦国政府の機関に狙われたんです」
「ん? 詳しく聞こうじゃないか。杭瀬!
「およそ……20分です」
「なら、10分程の猶予はあるな」
ここのパッシブレーダーに捉えられて20分で来るとは、足の速い
「
みのりが強い口調で説明する。
「全データがNo Signalになった直後に、
みのりは、〈レッド・ランタン〉で何が起こったかを的確に説明した。その説明で俺も始めて知ったのだが、みのりはソーニャの連れであった例の大男に尋問を受けた後、俺に『外で調べてきます』と報告してすぐさま図書館に出向いて、そこの端末を操作した──のではなく、一旦、共和国の汎用スパコンの
だが、その目論みをぶち壊したヤツがいる。他人事のように言っているが、俺だ。俺のことだ。みのりはそうは言わなかったが、『図書館のメインフレームへのアクセスがバレて……』と言われたら、それは俺が、表玄関から堂々とアクセスしたからに他ならない──ってことは直ぐに分かる。素人考えの行動が
俺は妙な事件に巻き込まれたと思っていたのだが、何のことはない。俺がみのりを危ない目に遭わせていたのだ。その対価が、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンだけだというのは酷過ぎる。この件が終わったら、いずれフランス料理のフルコースでも奢らねばこっちの気が済まない。
──まあ、そんなことはともかく。
姫島は難しそうな顔をしてみのりの──いや、伊川軍曹の説明を聞いていたが、
「分かった」
とだけ返事をし、しばらく黙り込んだ後、こう付け加えた。
「で、あの女──。御影恭子は何者なんだ?」
「それは……」
珍しくみのりの目が泳ぐ。みのりが彼女をどう思っているかは、俺も聞いてみたかったことだ。
「現時点では、分子生物学の研究者という表向きの情報だけしか分かっていません。でも、スパイとも思えないんです。もしそうなら、何と言うか──もっとスムーズに立ち振る舞えると思うんです」
「──というと?」
「スパイ行為の目的が、共和国や国連の機関に〝遺跡〟の情報を伝えるものだとすれば、彼女の行動は派手過ぎます。彗星核の氷の採取は無人採集機でも可能だし、〝遺跡〟の調査にしても、正式に
確かにその通りだ。現に、魚崎なんとかという科学者は
彼女は『パイロットを捜している』と言ったが、単に金星地表面に降下したいだけなら、今回の
みのりの話はさらに続く。
「──恭子……いえ、御影さんの行動を見ていると、ワザと注意を引きつけているようにも思えます。スパイなら情報を盗み出すのが目的で、情報を公開するのが目的じゃありません。えーっと──仮に私がスパイなら、もっと目立たないように、意識にも上らないような行動を取りますけど……」
「派手で悪かったわね」
「ひっ!」
御影恭子がそこにいた。後方の出入り口。みのりは後ろを向くことなく、そのまま固まっている。例によって姫島の動きは早かったが、御影恭子は無抵抗の意思を表すべく、既に両手を上げていた。
「私の詮索をするのもいいけど、
「た、確かに──、
杭瀬が報告をする。
「内輪もめしている暇があったら、まずは急いで後を追った方がいいと思うけど?」
御影恭子が畳み掛ける。
「上沢!」
いきなり姫島から俺に声がかかる。この状況でなんの用だよ。
「──あの
「分からん!」
率直な感想だ。ちらっと見ただけのレーダー画像で分かるほど、俺はスーパーマンではない。
「──分からんが、移動速度が速すぎる。共和国の装
実物は見たことはないが、噂では聞いたことがある。地獄の底まで一直線。片道キップの1時間コースだ。いや、正確には片道では無い。見た目は尖った滑空翼だけが付いた降下専門のグライダーの
「どっちの
「どっち?」
「まあいい。今から出発して、奴らに追いつくことが出来ると思うか?」
姫島は奴らの身柄も拘束するつもりらしい。今度はドンパチ無しに拘束できるとは思えないが、そうであっても捕まえろと言うのが
「〈マンタ・レイ〉では無理だ。巨大で軽過ぎる」
「〈ブーメラン〉は?」
「少しはマシだが、飛行船モドキに変わりは無い。
「あるとすれば? 何だ?」
食いついてきた!
「〈ブラック・タートル〉を使う」
「こんな高々度からか!」
「『追いつけ!』と言われれば、ここの装備ではそれくらいしか思いつかん!」
共和国のAPD──装甲兵員投降機が、
ここ金星の地表は90気圧。1立方メートル当たり100キログラムを超える大気は、気体というよりはむしろ液体に近い。実際に高度3キロメートルより下では、気体でも液体でもない超臨界状態というやつになっているそうだ。もっとも、そこに水面みたいな何らかの境界線があるわけではないので、単に大気がとても濃いという認識で間違いはない。
本当かどうか定かではないが、過去には、わざわざ地球から軽自動車を運んで、パラシュート無しで地表に落っことすCM実験が行われたことがあるという。軽自動車は見事にその形状を維持し、走行に支障ない状態で地表に降り立った。ただし、実際には、地表の途方もない熱によって多くの部品が溶けてしまい、実際の走行は不可能だったらしい。
要するに、自由落下といっても、金星での終端速度はほんの時速20キロメートル程度。地球上での時速300キロメートルとは比べ物にならないくらい遅い。
──などと、見てきたような嘘をついているが、俺の経験は全てシミュレーターで行ったもの。実際に降下し、状況を肌で感じ取るまでは機上の──いや机上の空論でしかない。
〈ブラック・タートル〉の最終的な終端速度も時速20キロメートル程度になるとは言え、降下初めは気圧が低く──といっても既に10気圧ある──かなりの降下速度となるだろう。俺としては、地表付近の大気密度で最適化された翼が、上空でどのような操作性を持つのかが不安でもあるが、
ただひとつだけ安心材料もある。姫島は、地上30キロメートルという高度からの降下に驚いていたが、そいつは〈ブラック・タートル〉のオリジナルの姿を知らないからだ。この機体、熱と圧力にはめっぽう強い。少々
「……分かった」
姫島は一瞬の
「我々の任務は、
「スパイかも知れないヤツと手を組むと言うのか?」
拘束の跡がついた手首をさすりながら、皮肉のひとつも言ってみる。
「俺は本作戦では居残り組だ。
「
援護と奇襲では意味が真逆だぞ。
「箱船? 箱船とは何だ?」
「〝遺跡〟を囲む周辺施設だ。行ってみれば分かる──」
遺跡の話なら断片的に聞いているが、施設があるという話は初耳だった。
「──
「あのぅ──」
そんな都合のいい方法があるわけないだろと言おうとした矢先、レーダー席に座ったままのみのりがおずおずと口を挟む。
「──タイミングによっては可能かもしれません」
「タイミング?」
「込み入った話の最中、申し訳ないんだけど──」
今度は後ろから声がする。御影恭子だ。
「──もう、手は降ろしてもよくて? それに、そんな重要な話をスパイかも知れないアタシの前で話していいの?」
御影恭子は呆れた様子で半分笑い顔である。その声を聞いて、みのりはまた微かにビクっと視線を下に落とした。
「この際、スパイかどうかは問わん。
姫島が応える。
「じゃ、無罪放免ってこと?」
「そういうわけにはいかない。事態が収拾するまで、我々の管理下に入ってもらう」
「何の権限があって?」
「
「ふーん。まあいいわ。アタシは〝遺跡〟の調査ができればいいだけ。何なら監視役にそこのお二人さんを貼付けてもいいわよ」
『そこのお二人さん』呼ばわりされた、杭瀬と千船が顔を見合わせる。姫島が少し困った顔をしている。こういう相手は苦手なようだ。御影恭子はさらに畳み掛ける。
「──まさかアタシをここに残して行こうって言うんじゃないでしょうね? そんなことしたら、
機密を盗むスパイじゃなくて、そりゃ機密漏洩だ。みのりの考察の通り、スパイとは逆の行動を取っているように見える。御影恭子の話はまだ続いていた。
「例え無線機を無力化したとしても、ここから緊急脱出用のシャトルを起動させて逃げるわ。そのときは自動で
「分かった分かった」
姫島は左手を左右に振りながら面倒くさそうに答えた。
「──ったく、連れて行けばいいんだろ。そのかわり変な行動を起こしたら、容赦なくはっ倒すぞ」
「レディに向かって手を上げるなんて、紳士じゃないのね」
「なんだとぉ。戦場にレディもへったくれもあるか!」
「たっ隊長……」
千船が思わず仲裁に入る。性格的にどっちも矛を収めそうも無い両者だからな。やれやれ。俺もこのへんで助け舟を出すことにしよう。それに──、実際に彼女を引っ叩いた経験があるのはこの俺だったりする。少しは罪滅ぼしをせねばなるまい。
「彼女は──御影恭子は、どのみち
実際、ここでモメている暇はそれほどない。そもそも、コーヒー一杯飲む為だけのつもりだった筈なのだ。
「いいだろう。操縦は任せる。だが、くれぐれも変な行動をするなよ」
「なんだ。俺もはっ倒すのか?」
「ハッハッハ。そうして欲しけりゃいくらでもはっ倒してやる。ただし、相手が男の場合は装甲
「──首がモゲるわぃ」
とりあえず、スパイの嫌疑は晴れたようだ。いや、そうじゃないかも知れないが、そう思いたい。少なくとも、事ここに至っては、まずは
* * *
我が隊の
実はこの機体、高温に耐えるべく設計された汎用の
これに対して、敵サンの
もしも降下中の戦闘となったら、こちらが圧倒的に不利だが、どのみち戦闘に供するべき火砲やミサイルなど〈ブラック・タートル〉には何処にも装備されていない。ただし、こちらは〝輸送車〟なので、着地後にそのまま自走できるというアドバンテージがある。相手の
〈箱船〉──と言うのは、〝遺跡〟を取り巻く施設であり、〝遺跡〟の処理を行うものだそうだ。とは言っても、〝遺跡〟自身が何なのかがよく分からないから、それを取り囲む施設がどんなものかすら見当がつかない。御影恭子から得た情報と組み合わせれば、おそらく〝遺跡〟からモノポールを取り出す施設のことだろう。
姫島らの任務は、
〈ブラック・タートル〉の起動ため、俺とみのり、そして御影恭子の3人が〈マンタ・レイ〉に向かう際、途中で通過した馬鹿でかい格納庫には、地表降下のための熱処理装備が取り付けられた〈ブーメラン〉があった。姫島らはどこかの時点で
姫島らが
「〈ブラック・タートル〉のハッチを開けて待っててくれ。10分で来る」
俺たちが
「俺たち3人がまんまと逃げたらどうする?」
一応聞いてみたが、姫島はニヤッと笑い──
「撃ち落とすだけだ」
と答えた。本当にやりかねない奴だから困る。
〈ブラック・タートル〉の操作系は比較的単純だ。マニュアル操作の自動車を運転したことがある人間なら、専門的な知識が無くても地上を走らせる事はできる。操縦も
もっとも、着地点を選ばないのであれば、
10分と言っても、ただ〈ブラック・タートル〉を起動するだけで良いわけではなかった。飛行に必要な──落下に最低限必要なと言うべきか──可変翼は既に取り付けてあるのだが、
〈ブラック・タートル〉は〈マンタ・レイ〉などとは違い、短距離用の
そういうわけで、電力を湯水のように使う可逆性液体浮揚装置は付いていない。そもそも落ちるばかりの〈ブラック・タートル〉に浮揚のための装置は必要ないのだが、この装置と
もちろん、もっと熱い火山のマグマだまりや溶鉱炉の中もあるが、こちらは優に千度を超えてしまうため、最初から有人の機械が作業をすることを想定していない。要するに、460度の二酸化炭素雰囲気中での作業は、有人の金星探査が開始されてから発達した分野であり、技術的に未発達な部分が残っている。
高性能冷蔵庫としても機能する可逆性液体浮揚装置が使えないとなると、残るは
具体的──とは言いながら、俺はこれがどんな物質なのかは良く知らない。見かけは茶色っぽいロウソクみたいな代物で、コイツが溶けて、最終的に気化して完全に無くなるまでは、温度がとりあえずは保たれる。逆に言えば、コイツが全て無くなってしまえば、我々はオーブンの中のチキンみたいにこんがり丸焼けということだ。
さらに言えば、〈ブラック・タートル〉の装甲は、砲弾に耐えるための装甲ではなく、熱を極力遮断する為のもので、ハニカム構造の
もっとも、金星地表付近での戦闘はこれまで起こったことがない──と、共和国政府の公式見解では発表されているのだが……。
* * *
俺とみのり、そして、御影恭子の3人で〈ブラック・タートル〉の
「待たせたな」
──と、やってきた『
……まあ、詮索は止めておこう。
〈ブラック・タートル〉のメイン動力に火を入れる。降下目標座標データは、姫島から伝えられた位置をみのりが既に打ち込んでいる。場所は
〈ブラック・タートル〉の地上走行用アクセルを少し踏み込みながら、同時に申し訳程度の羽を展開する。そろそろと動き出しながら羽を広げる様は、カメムシと言うよりはスズムシみたいだが、羽はスズムシのように上向きには広がらず、水平に展開するだけである。走行音の方は多少の金属音が混じり、スズムシではなくクツワムシのようだ。少々ややこしいのは、コイツは航空機ではなく、基本は輸送車だということだ。
「さて。どこから出る?」
「2時の方向、
みのりが答える。みのりは、我々の後方中央の情報端末席に陣取って、親機である〈マンタ・レイ〉の遠隔制御をしていた。あらゆるものの遠隔制御の腕前はピカイチなのだから──事実、遠隔操縦する
〈マンタ・レイ〉の
我々〈ブラック・タートル〉を操る3人は、密閉された棺桶の中で、
また、降下開始から、活動開始時間の短縮も重要なノウハウだ。基本は〝飽和潜水〟と呼ばれるものの発展形だが、昔のように与圧に数日もかけていてはやってられない。金星で使用する混合ガスは、空中都市を含め最初から無窒素雰囲気だから、時間のかかる
──もっとも、これは加圧時の話で、減圧時には半日くらいかかるらしい。
グリーンランプが付き、静々と上がった
「本当にここでいいのか?」
「ええ。車軸を立てれば問題ありません」
「……なるほど」
まさか俺自身がこいつを操縦するハメになるとは思っていなかったので、
ノロノロと身を屈めて──いや、逆だ。身を延ばして
〈ブラック・タートル〉の
「外部ハッチ展開終了。いつでも出れます」
心配性なもので、今一度シールド類をチェック。外部装甲温度は急上昇中で、温度差による
「何ならアタシが出そか?」
みのりの声にしばらく反応しない俺に、
「大丈夫だ。問題ない……」
俺はそれだけ言って、スルスルと前方に動かす。バックモニターでハッチが閉まるのを確認しながら、車軸を元に戻して次第に走行速度を上げる。
「操縦替わってくれ。
「
俺が操縦輪から手を離すと、御影恭子は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず素直に指示に従った。
「みの──伊川軍曹。降下地点の詳細と、そこまでの風の鉛直プロファイルをくれ。この
「あっ、はい」
間髪を入れずに、メインモニターに3D表示の風向・風速図が出る。
金星の上空で吹き荒れているスーパーローテーションと呼ばれる風は、高度70キロメートルでは秒速100メートルを超えるが、地表面では1メートルにも満たない。よって、早く飛び降りたからといって早く目的地に到達出来るとは限らない。上空の風に乗り、風任せで近づいた後、おもむろに降下を開始した方が早い場合もある。敵サンは既に降下中だから、空中機動で劣る〈ブラック・タートル〉が先回りするためには、地上走行が可能というメリットと共に、未だ上空に留まっているというアドバンテージを利用する必要がある。金星の高度別の風速は常に一定ではない。特に雲底下では熱潮汐波と呼ばれる大気の波が雲層から地表まで運ばれ、風向・風速ともかなり変化する。高々度からの降下では、いわゆる〝風の読み違い〟で、降下ポイントが大きくずれてしまう。空挺部隊やグライダー乗りなら誰もが知っている事実だ。
「おい。降下はまだか?」
「もう少し待って下さい。今、最適降下時間を──計算中です」
モニター越しの姫島の問いかけに、みのりが答えていた。
「よし、出る。発射角は左に──」
「5度……ですか?」
俺が振り向くと、みのりは下から
「そうだ、そのとおり。最初からみのりに聞いておけば早かったな……」
「いえ、今やっと四次元変分法《4D-VAR: 4-Dimensional Variational data Assimilation》での答えが出たんです。確認用に走らせている
「何か分からんが上出来だ。
「最大出力でいつでもOK」
御影恭子が左手を挙げて合図する。『コイツ、何者?』という感情が再び頭をもたげるが、とりあえず今はそんな詮索をしている暇はない。
「姫島、千船、杭瀬。準備完了だ。当機はこれから地獄への降下を開始する。キャビンアテンダントは乗ってないから、各自でシートベルトの確認をしてくれ」
「
同時に千船と杭瀬の苦笑も聞こえる。問題はなさそうだ。
「さてと──、カウントダウンだ。5からでいい」
右手でみのりに合図する。
「はい。5から行きます。5、4──」
「3、2、1──」
それらが緑に変わってゆき──
「……!」
目玉がめり込みそうな加速で、機体は空中に放り出された。一瞬の上昇の後、視野の狭い
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