第2章 事 故
謹慎一週間。それが俺に下された処分だった。
人命救助をしたのに謹慎処分というのは、つくづく割に合わない仕事だと思うが、救助の仕方が危険行為と見なされた。確かに一歩間違えれば、御影恭子は〈収水〉のエンジンでこんがり丸焼けだった可能性がある。さらに、
もちろん、俺にだって言い分がある。御影恭子のケブラー繊維で出来た
そういうわけで、懲戒委員会においての『〈収水〉洗浄後に御影恭子と何を話していた?』という質問には、『取り立てて何も……』とだけ答えた。ここであいつに恩を売っておくのも、後々何かの役に立つんじゃないかな?
それに、そんなどうでもいい事は聞いて来るのに、俺の見た
なお、謹慎が七日程度──それも、基地内待機で済んだのは、
とは言え、たった一週間でも謹慎は謹慎だ。せっかくの休みだと言うのに、外を出歩けないというのは少々気が滅入る。それ以上に残念なのは、金星地表への降下作戦──いわゆる、〝ヴィーナス・アタック〟への参加が絶望的になったことだ。作戦は、持ち回りで各分隊単位で行われていて、来週が俺たちの番だった。せっかく金星まで来たんだ。一度は、地表に足を下ろしたいじゃないか。次にお鉢が回ってくるのは、約半年後だから、まだ何度かチャンスはあるものの、少し──いや、かなり残念だ。
俺は色々な思慮が混ざり合った憂鬱な気持ちで、夕食のカレーを食べながら、そうか今日は金曜日かなどと思いつつ、謹慎二日目の明るい夜を迎えていた。
* * *
金星での時間の概念は少々複雑だ。
そもそも、惑星の自転周期をその惑星の一日と決めるのならば、金星の場合、地球の243日に相当する。金星の公転周期は225日だから、金星の一日は、公転周期のそれよりも長い。すなわち、金星の一日は金星の一年よりも長いことになる。
だが、我々は金星の地表に住んでいるわけではない。空中都市は地表から55キロメートルほど上空に浮いており、風まかせで移動している。そして、その風がめっぽう速い。スーパーローテーションと呼ばれるその風は、空中都市付近の高度では、秒速60メートルに達し、4~5日で金星を東西に一周している。〝4~5日〟と曖昧なのは、空中都市の高度が気圧によって上下するからだ。
ただし、空中都市にそんな風が吹き付けられているわけではない。風と共に流されているのだから、外はほぼ無風だ。つまり、風と共に居住区も、4~5日で金星を一周しているのである。
また、空中都市は
結局、金星では、全ての空中都市に都合のいい時刻基準は存在しないため、地球で使われている
地球上でも、超音速で飛んでいれば、太陽が西から昇る場面に出くわす事があるし、衛星軌道上では、一日に数十回の夜明けが訪れるので、宇宙空間で仕事をしたことのある人間は、この手の感覚には既に慣れっこになっている。軍用の二四時間表示時計の針を見れば、外の明るさに関係なく目が覚めたり眠くなったりするようになるのだ。人間の適応能力を甘く見てはいけない。
まあ、謹慎と言っても、何か重労働を課せられるわけではないため、時間はたっぷりある。懲罰と言うよりは、むしろご褒美に近い。俺は手に入れた時間を使い、御影恭子の素性を調べてみることにした。どう考えても、あの大胆な行動は、いち研究者のソレではない。それに、湊川が言っていた、彼女にまつわる『良からぬ噂』というのも気になる。こちらの方は湊川に直接聞くのが一番なのだが、奴は今回のヴィーナス・アタックに使用される降下母船〈マンタ・レイ〉の操縦を任されていて、
とりあえず、登録研究者ネットワークで調べてみたが、彼女の最新の研究が『硫酸還元磁性細菌の遺伝子操作による微小磁化結晶体の精製について』という、タイトルだけで
連絡方法ならば色々とあるだろうに、わざわざ出向いて来たということは、口頭で直接伝えなければならないことがあるのだろう。夜中なので──と言っても明るいが──食堂も開いておらず、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンを
「みのりちゃん。意外と早かったな」
「ですから、その〝みのりちゃん〟と言うのはちょっと……」
「えっ? ちょっと何?」
「──いや、何でも無いです。頼まれていた御影さんの経歴と研究内容が大体分かりました」
「手間かけさせてゴメンな」
「いえ。とんでもない。私も今回の件でちょっと引っかかった部分があって……」
「ん?」
「あ。それについては後で話します。御影さんは
「ほぉ⁈」
──そう言えば、湊川もそんなことを言っていたな。
みのりはクリームパンを頬張りつつ、論文のコピーをテーブルに広げて説明してくれたが、学術論文なんてのは見ても眠くなるだけだ。夜中だしな。明るいけど。
「──で、その前は、マリアナ海溝周辺の熱水鉱床に住むバクテリアの調査に参加してます。御影さんはそこで採取した新種の
「その──えーっと、ナントカ細菌ってのと、金星がどう関係するんだ?」
「はい。私も完全に理解したわけではないのですけど、御影さんのこの論文では、新種の硫酸還元磁性細菌は、元々金星にいたものだという仮説を立てているんです。遺伝子構造が金星由来のものに近いと書かれています」
「なるほど……」
金星には、地球とは別の進化を辿った生命体がいる。発見されたのは金星の硫酸雲の中を漂っている菌類のみだったが『生命は地球上に限定されるのか?』という、有史以来の人類の問いかけに決着がついたことは大きかった。この発見により、火星より遥かに移住が困難と思われる金星に、多数の研究者が住み着いたのは知っての通りだ。
だが、それも今は昔。現在は研究者ではなく、多くの
昔から色々とキナ臭い動きが絶えない場所ではあったが、最近になって、各国のヴィーナス・アタックの回数がにわかに増えてきた。それも、地表面全体をしらみつぶしに探すような探査だ。
そういう意味では、御影恭子はまともな研究者のようだ。行動はちっともまともじゃないが、動機は俗物的じゃない。細菌を追って
もう一人の研究者──魚崎ナントカの方は怪しいがな。
「それと、他にも調べものをしたんですけど……」
みのりの声が少しためらっているように感じる。
「引っかかった──というヤツ?」
「はい。御影さんの採取した彗星の氷に関しての
「あれだけやって成果無しか。こちとら、お陰で色々と迷惑を
「はい……。ただ、報告書にはパンスペルミア仮説のような『生命体は認められず』ではなくて『生命体による
「
「そうなんです。後から混入された可能性を調べてみた──みたいな文章で」
「うーむ?」
みのりの指し示すコメント欄には、確かにそう記述されていた。報告書もA4一枚の素っ気ないもので、これのために危険を冒して飛び降りたのだとすると、少しばかり不可解な行動ではある。そもそも、彗星の氷を調べたいのならば、金星への
「ところで……。パンスペルミアってのは何だ?」
「えっ? ああ。えっと、生命体は彗星や隕石に乗って宇宙からやって来たって言う説です。異端の説なんですけど、結構本気で調べている人がいるみたいなんですよ」
「ふーん」
みのりの知識は色々と幅が広くて面白いな。
「えーっと、それから、御影さんも作戦時の落下事故公聴会で質問を受けているんですが──」
「あれは事故じゃない。彼女が故意に飛び出したんだ!」
「え? ああ──ええ。分かっています。でも、公式には事故として扱われていますから……」
そうなのだ。俺がこんな目に遭っているのも、全ては御影恭子の身勝手な行動によるものなのだが、本件は〈収水〉緊急脱出装置の暴発として処理されている。もちろん、故意にやったとなれば、事故ではなく事件として扱われることになり、色々と面倒な手続きが必要だ。下手すると小規模ながら各国の審議官立ち会いのもとで軍法会議の扱いとなり、時間だけが奪われて誰も得をしない状態となる。我が隊のヴィーナス・アタックも中止となることは確実だった。そこで
「もしかして、御影恭子は『自分が勝手に飛び出した』とか何とか言ったんじゃないだろうな?」
もしそうなら、せっかくの口裏合わせが台無しだ。
「いえ。それは無いのですが、公聴会メンバーの質問の中に『〈収水〉洗浄後に上沢小尉に何を伝えた?』というのがあったんです」
「はぁ? で、彼女は何と……」
「『特に何も』と回答しています──」
どうして、どいつもこいつも、機体洗浄庫での会話を聞きたがるんだ? 確かに、〈収水〉搭乗中と〈ブーメラン〉コックピットでの会話は録音されているから、会話記録が無いのはここでの会話だけなのだが。
「何か重要な会話でもあったんですか?」
「いや、特に何にも無い。俺の公聴会の記録も見ただろ?」
「ええ……そうですけど」
「何だ? みのりちゃんまで俺を疑っているのか?」
「いえ。そういうわけじゃありませんけど……」
やれやれ。とんだとばっちりだ。
『その
『えーっ!』
──っていう会話に重要な秘密があるとは思えんが、今更、そいつを
『○△大統領の暗殺計画は××日と決まった』
『了解。引き続き任務を遂行せよ』
──とかだったら、逆に信じてくれるのだろうか?
「ありがとう、みのりちゃん。恩に着るぜ」
「あっ、待って下さい。もうひとつ、気になることがあるんです!」
席を立とうとした俺に、焦った声でみのりが付け加える。
「〈収水〉のフライトレコーダーに──ほんの僅かなので、私の勘違いかも知れないんですけど──改ざんの痕跡が見られるんです」
「何⁉」
「レコーダーメモリの残存電位が少し浮いている箇所があって、その記録時刻が〈収水〉の急速降下時に該当するんです」
「ということは、俺が見た
「断定はできませんけど……」
フライトレコーダーの中身は、機密性、完全性共にレベル3で保持されている。そんなものホイホイと改ざんされたらレコーダーの意味が無いから当然だ。だから、データ自身にアクセスできる権限もかなり制限されていて──って、おい!
「ちょっと待った! 何故それに気づいた? フライトレコーダーの中身なんて、そうそう覗けるものじゃないぞ」
「えっ? えーっと。それは秘密です。ちょっとした裏技があるんです」
怪しい……。怪しいが、みのりの能力なら、そのくらいのことはやってのけそうな気がする。というか、それだからこっそり頼んだんだ。だか、それは明らかに軍規違反だと思うが──まあ、いいか。
「うーん。まあいい。いずれにせよ、この事件──色々と裏がありそうだ」
「はい!」
「──何だか、やけに嬉しそうだな?」
「はい‼ あ、いや。あの……、私ってミステリー小説とか大好きなので、こういう調べものはちょっとばかり興味があって、つい……」
「なるほどね」
まあ、ミステリー好きが嵩じて情報処理・検索能力に長けた結果になったというのならば、それはそれで良しとすべきだろうな。実際役に立っているわけだし。
みのりの報告はここまでだった。御影恭子の素性はそれなりに分かったが、どうも全体像がよく分からない。まだまだ謎が多過ぎる。みのりは、『何か分かったら、また報告します!』と、探偵ごっこを楽しんでいるようだった。ほどほどにと建前を言いつつ、引き続きの捜査をお願いしたのは言うまでもない。
* * *
それから2日後。俺は、ヴィーナス・アタックの
当然ながら、作戦内容の詳細などには興味が持てなかった。それに今回も、いわゆる資源調査団の輸送が主たる任務だ。調査と言っても、地表に突然現れたモノリスを調査するわけでも、地中深くボーリングするわけでもない。ジオイド異常のある区域の調査──ということになっているが、そこには重い金属塊がタンマリ眠っていると言うことだろう。
研究者によると、金星表面にある重金属の量は、シミュレーション解析で得られた理論値より多いらしい。多いと言っても、理論値の数%多い程度とか言っていたが、ともかく多いらしい。もっとも、地球もそうなのだ──とも言っていた。
太陽系というのは、そもそもが星間ガスの収縮から始まっていて、中心の太陽がその大部分をからめ取ってしまう。惑星になるのは、辺境に残った搾りカスだ。それらが重力によって収縮しながら火の玉になる。まあ、火の玉と言っても、太陽みたいに核融合を起こすほどの量は無いから、煮えたぎったマグマの塊のようなものが出来る。そういう球体スープ状のものが出来ると、当然ながら中心に重いものが集まる。重いものが沈み、軽いものが浮く。当然の摂理だ。
辺境の残った搾りカスの素性というのは、未だに原始のままフラフラしている小惑星を調べれば分かる。太陽系が生まれてこの方、太陽にも、木星にも落ちず、ましてや隕石として地球に落ちることもなく、40数億年もの間ひとりぼっちで居た天涯孤独の岩石──それが小惑星だ。コイツを調べれば地球や金星を形作っている元素の割合というのも分かる。だが、一旦、スープ状になって、重いものと軽いものが重力によって分離されてしまうと、表面には軽い元素ばかりが残る。よって、小惑星に含まれる鉄の量は、地球の岩石に含まれる鉄の量より圧倒的に多い。正確に言えば、地球表面の岩石に含まれる鉄の量よりも多い──ということだ。逆に言えば、地球の中心は重い鉄ばかりである。見たわけじゃないけど、そういうものらしい。
アツアツの味噌汁は、最初はウネウネと対流してそれなりに混ざっているが、冷めてくると具はもちろんのこと、味噌も底に沈殿して、表面には出汁の効いた食塩水しか残らない。もう一度、味噌汁を味噌汁らしくするには、強制的に箸でかき混ぜてやるしか無い。地球の場合、その役目を負ったのは月である。月によって再度かき混ぜられたのだ。
──いや、見たわけじゃないけど。
地球が冷えてそのまま固まろうとした矢先、月が──月の元になった小惑星がぶつかった。一旦は融合したが、反動で千切れた部分が今の月になり、良い塩梅でかき混ぜられた地球が出来た。だからこそ、そのまま冷えていった火星なんかより、地表面に露出する重金属類の割合が多い。
だが、金星は、そんな再加熱の要因が全く無い。巨大な何かがぶつかった形跡もない。分かっている事実は、地表面がかき混ぜられた年代が異様に新しいという事だ。ほんの──と言っていいのか俺にはタイムスケールがよく分からんのだけれども、ほんの5億年程度前のことらしい。それが証拠に、金星は、地球と比べても、
別に正義漢ぶるつもりは全くないが、調査と称してお宝をかすめ取ろうという魂胆が気に食わん。正々堂々と『俺は金を掘りに来た。文句があるか!』と言えば良い。欲望丸出しで掘っているならば気にならない。それはそれで、そいつの人生だ。それに、必ずしも鉱脈を掘り当てるとは限らない。山師とはよく言ったもので、正にハイリスク・ハイリターンの世界。運不運も含めて命がけで挑戦するならば、何も言わない。
何かこう──、最初からそう言えばいいのに、『我々は科学調査を……』とか何とか誤摩化し、建前を取り繕ってまで掘ろうとする
ちなみに、俺が気に食わない理由がもう一つある。この長い前振りの話をしているのが、例の魚崎って奴なのだ。魚崎晋。コイツは確か、宇宙量子の物性がなんたらというのが専門だったんじゃないのか? なぜ、地学だか惑星科学だか知らんが、こんな専門外の話を延々としているんだ。それこそ、『この採掘は科学的な目的なんです。本当です』って言いわけを延々としている風にしか聞こえない。それに、いちいち『あー』だの『んー』だの、考えながらボソボソと話す話し方もイラつく。
本来なら、『そんな話はいいから、ミッションだけ教えろ!』とヤジを飛ばしたい所だし、実際何度かそういうことをやって、その度に
魚崎が登壇したとき、彼女──御影恭子も来ているんじゃないかと見回したが、オブザーバー席も含め、どこにもいなかった。御影恭子の興味は硫酸雲中のウイルスとか何かだから、金星地表面には興味が無いと考えるのが妥当だろう。硫酸の雨は、地表面に届く前に熱で蒸発してしまう。金星表面は暗くて猛烈に熱い乾いた大地なのである。
アイツとなら──御影恭子となら、色々な方面で色々と仲良くできそうな気がしたのだが……。
まあ、そんな事を考えていても仕方が無いので、今回の
その後ろにいる、角刈りの三人組。姫島と千船と杭瀬。コイツらは知っている。『
直接的に行動を共にしたことは無いが、太平洋上の訓練で、シンクロ芸を披露していた。もちろん、
その席の前に
ついでに述べておくと、一番前の席で、甲斐甲斐しくメモを取っているのは、みのりちゃんだ。といっても、彼女は
少し話が逸れたが、今回の
──いや、今、目の前でペラペラ──ではなく、何度もつっかえながらボソボソと喋っている魚崎も含めて14名だ。
俺はこの編成に、少々違和感を感じていた。最初は言語化出来ない、モワモワとした、本当に違和感としか言いようの無いものだったが、魚崎から
どうも言いにくいことなのだが、これは何かの強襲──いや、急襲部隊だ。そう考えるのが一番しっくり来る。少なくとも輸送機か何かの
その逆に、機動力が有り過ぎる反面、防御力は弱い。車輪や
もちろん、本作戦は表向きは、『ジオイド異常のある区域の探査』であるから、輸送力を必要としないのは当然としても、それを言うなら機動力も必要ないだろう。
やはり何か裏がある。そう考えるのが自然だ。ちなみに、この場で裏事情を話せないのは、この
『まぁ、気づいているとは思うが──』
から始まる一連の言葉で、本当の
いやぁ、行きたかったなこの
いやまあ、置いてけぼりを食らったヒガミ根性から出た感情だ。聞き流してくれたら幸いだ……。
* * *
「GPS
「〈レッド・ランタン〉より、〈マンタ・レイ〉一番機へ。短波およびレーザー相互受信に問題はありません。衛星経由通信も確認。
「このまえみたいに、EUの予備衛星が死んでたりしないの?」
「大丈夫です。異常箇所は遠隔で焼き切って修理済み──と報告が入っています。通信試験も3日前に終了しました」
「
「チェック」
「緊急脱出装置
「チェック」
「
「モニターで確認しました。問題ありません」
──そう考えないとやってられない。
そうこうしているうちに、巨大な〈マンタ・レイ〉はゆっくりと滑走を開始する。いや、ゆっくりではない。機体が大き過ぎて距離感が狂うのだ。〈マンタ・レイ〉も〈ブーメラン〉と同様、硬式ハイブリッド飛行船という部類に属する。いわゆる、重飛行船というやつだ。飛行船と名前がついているは言え、船体の比重は周囲の大気より重く、ガスの浮力だけで浮く事はできない。さらに、ヴィーナス・アタック用に調整された機体は、地表面の90気圧まで対応できるように、ヘリウムガスではなく大量の窒素ガスが封入されている。高度10キロメートル以下──気圧にして50気圧以上──で周囲の大気と釣り合うように最適化されていると考えればいい。そのため、空重量であっても最大積載の貨物を満載した輸送機並に重い。離陸時に思わず腰を引いて操縦席を座り直してしまうくらいに重いのだ。もっとも、最悪、滑走路の端から〝突き落とす〟方法でも離陸は可能だ。それを離陸と言っていいかどうかは別にして。
それにしても巨大な機体だ。
形こそ違うが、地球上では成層圏上に、同規模の軽飛行船が数機浮かんではいる。だが、眼前で見る機会はほとんどない。誰もそんなところに住もうとしないし、住める環境でもないからだ。一時期、この飛行船モドキを母体とした成層圏プラットホーム構想とか流行ったのだが、構想は構想のままで終わってしまっている。地上に住めるのに、わざわざ空中都市を作る必要は無い──意外と、地球の人々はドライで現実的なのだ。
これが金星の場合、否が応でも空中に住むしか方法がない。そういう背水の陣がなければ、人は動かないということらしい。逆に言えば、そういう困難な場所に降り立っても、人間は、それはそれで何とか対応してしまうものらしい。
次第に離れて行く〈マンタ・レイ〉に対し、醒めた目でにこやかに手を振りながら、俺はそんなことを考えていた。湊川のヤツは律儀にも、管制塔の上を一周してから、機体を左右に揺らして〝バイバイ〟してから潜航していった。機体がデカ過ぎて翼のしなりが脈を打って何度も往復するのが見える。〝バイバイ〟は滑走路スレスレの管制塔脇で行うのが慣例というか度胸試しになっている。あんまり近過ぎると後で怒られるのだがな。
潜航後、〈マンタ・レイ〉は直ぐに見えなくなった。晴れることの無い雲中を進む船だから、直ぐに消えてしまうのは当然なのだが、見送る側のことも少しは考えて欲しい。レーザー光で軌跡を造るとかの演出はどうだろうか?
まあ、そんな悠長なことを考えていられるのは、俺が本作戦に直接は参加していないからだ。みのりちゃんは、出て行く〈マンタ・レイ〉を肉眼で見ることなく、インフォメーション・ディスプレイを凝視して、指示を出し続けている。補助の割にはメインで頑張ってるな。最初から気合いを入れていたら、途中でヘタるぞ──と思う。
ヴィーナス・アタック──つまり、金星地表面への降下と一言に言っても、〈マンタ・レイ〉は
ただ、考慮すべきなのは水平方向の風だけではない。降下するとなれば、上昇流・下降流も考えねばならず、事態はより複雑だ。モーター駆動のプロペラは腹部に並んで4機、上面後部に2機。全て
もっとも──敵などいない筈だが?
レーダーで捉えられるだけとなった〈マンタ・レイ〉は、次第に南東へと進路を変える。実際は降下しながら南に全速前進なのだが、下降するに従って東風が弱くなるから、相対的に〈レッド・ランタン〉より東に進む。正確には、〈レッド・ランタン〉の方がより速く西に進んでいるということで、地上基準にすれば、どちらも西に流されていることに変わりはない。地上座標と空抜座標とがごちゃごちゃになるから、どうもややこしい。ついでに言うと、高度の表現に関しても、30キロメートル──三万メートル以下の表現ではフィートを使う事も多く、これまたややこしい。
〈マンタ・レイ〉はこれから、アフロディテ大陸の極東部上空からマアト山付近で赤道を超え、一度ルサルカ海──海と言っても水は無いが──に出てから、ダイアナ渓谷の先、セレス・コロナへ向かう。ルサルカ海上空で、地上からの高度30キロメートル、空抜マイナス20キロメートルで雲の下に出る。そこからの眺めが素晴らしい──らしいが、モニターで見ただけの俺はどうもピンと来ない。金星の荒涼とした大地をこの目で見ないと、やはりこんなトコまで来た意味が無いという気がする。実際は荒涼では無くて、荒暖──いや、荒熱ではあるが。ちなみに、高熱ではあるが、灼熱では無い。金星の地表面は、晴れることの無い厚い雲の下にあり、地球でのどん曇りのように常に薄暗いのである。この空域に〈マンタ・レイ〉が至るまでに、優に3時間。それまでは風速の実況と予報を見て、管制室と連絡を取りながらの微調整の降下が続く。実に面倒な作業だ。
雲下の金星地表面を眺めてみたい気持ちは当然あるが、この手の──風を読みながらの操縦はどうも嫌いなのだ。9割は風任せ。制御出来るのは、残り1割しか無い。だから、一度タイミングを逸すると、取り返しが難しい。合気道みたいなもので、相手の力をほとんど借りるため、腕力は要らないが、間合いに関しては的確な判断が要求される。決して、苦手なわけじゃない。単に、嫌いなんだ。俺はどちらかというと、推力任せの強引な方が性分に合っている。合気道よりはボクシング──それもヘビー級だな。
3時間後。基地内でだらだらとブランチを食べ、そろそろ雲を抜ける時間だなと暇つぶしに管制室に顔を出すと、みのりちゃんは管制官の任を解かれていたが、別の作業をしていた。
〈マンタ・レイ〉はルサルカ海上空で、赤道帯の12番
陸に上がった漁師が只の呑んだくれのオヤジになってしまうように、出撃していない
管制室にある無数のモニターの一つ。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像に、黒い点が見え始める。同時に、うっすらと地上の風景が、ベールを剥ぐように現れてくる。そうは言っても、うす黄色い大気を通して見る岩だらけの大地だ。目の保養にはならない。みのりちゃんの眼前にあるモニターには、その逆の光景が映し出されていた。つまり、何も無い黄白色の雲間から、キラキラと光る機影が見えて来てくる。〈マンタ・レイ〉の機体は、上下動での温度変化を極力避けるため、多くの輻射を反射するように銀色にコーティングされている。12番
〈マンタ・レイ〉の銀色の機体とは対称的に、常に黄白色の雲海下にある
そのフタの上、〈マンタ・レイ〉はさして苦労することなくフワリと舞い降りた。多少は飛行船らしさが増したらしい。しばらくはここで休憩。機体に異常がなければ、再降下地点まで東風で運ばれた後、地表面へとアタックをかける。
「さてと……」
俺は、管制室の隅っこに陣取り、〈マンタ・レイ〉との通信回線を開いた。公式ではなく、どちらかというと
「よお。元気か──」
俺は、湊川に声をかける。
「退屈だったよ。もうもうとしたところを西へ西へと。──途中で引き返そうかと思ったぜ」
「なんだそりゃ」
「落語のネタだよ」
よく分からんことを言う奴だ。
「それはそうと──」
俺は早速、本題に入る。
「──今回の作戦の本当の目的はなんだ?」
「あん?」
「
「……調査だよ。調査。岩石のな。お前も聞いてただろ?」
「……そうだったな」
湊川はあくまでもシラを切るつもりだ。まあ、俺が反対の立場でもそうするだろう。おおっぴらに出来ない機密事項だからこそ、作戦開始後に知らされる。もしかすると、
ここは、質問を変えてみるべきだな。
「〈マンタ・レイ〉は
〈マンタ・レイ〉の巨体を地面まで降ろすには、平らな場所を探さねばならない。単に人が降りるだけでよければ、〈マンタ・レイ〉を中空に浮かせ、汎用の地表降下機〈ブラック・タートル〉で降下すればいい。
「降りるさ。──だが、
「何だって?」
「近づき過ぎるとな──噴火するそうだ」
「ほほぉ。初耳だな……」
金星には地球と同様、活火山がいくつか存在している。マグマが流れた地形も多い。それは知っているが、
「──となると、調査隊の編成は、
「少し違うが、まあそんなとこだ。上沢──お前の出番は無い。無い方がいい」
「……そうか、それは残念だな」
地上戦のみで空爆は必要ないと言うことか? 急襲ではなく潜入なのかも知れないな。
湊川との会話はそれっきりで、
俺は自室に戻って、
〈マンタ・レイ〉の本当の着陸ポイントはどこだろうか?
『
身も蓋もないことを言えば、『誘導しているみのりちゃんに聞けばいいじゃないか?』──と言うことになる。だが、ああ見えて機密性2以上の事項は、命令者の許可無しには絶対に喋らない。どれだけ相手が〝身内〟であってもだ。特に今回、俺はこの作戦から外されているわけで、どんなに口説いても教えてはくれないだろう。今のところ、管制室への立ち入りが制限されているわけではないので、後ろから見ていれば、いずれはその全貌が明らかになる筈だが、それだと──えーっと、この〝ゲーム〟に負けたような気がする。
ゲーム。そう、この頃はまだ余裕があった。単なるゲームだと思っていた。
強襲だの急襲だの言っているが、全ては言葉の
また、どこからか武器が横流しされていて、ロケットランチャーなど、あり得ない攻撃を食らうということも、地球上なら考慮すべきだが、ここではそれもあり得ない。地球からの物資輸送は、基本的に3ヶ月に一度の
要するに、金星の地表でドンパチするのは、物理的にも、法律的にも無理──一言で言えばそういうことだ。どちらかと言えば、管制室があるこの空中都市の方が危険だということになる。少なくとも、空中都市の居住区内部は生身の人間が歩けるスペースがあるのだから、発砲事件やクーデターが起こるとすればここである。
「さてと……」
まさか今から2時間も管制室内を熊のようにウロつくわけにはいかない。ともあれ、2時間あれば結論が出る問題なのだ。俺はとりあえず、そのまま自室にこもる事にした。謹慎中の身だしな……。
* * *
アラームが鳴っていた。どうやら俺は、自室のベットで仰向けになった瞬間に寝てしまったらしい。床にスッ転がっている目覚まし時計を見つけ出し、頭のボタンを張り手で止めた──が、まだ鳴っている。いや、待てよ? これは、この部屋から鳴っているのではない。俺の知っている目覚ましの音じゃないし……。
寝ぼけていられたのはそこまでだった。こいつは緊急を知らせるアラームだ。先ほどぶっ叩いた目覚まし時計を引っ掴み、時刻を確認すると、あれから1時間半が過ぎている。〈マンタ・レイ〉御一行は、未だ
ベッドから跳ね起き、ドアを開けると、アラーム音は更に大きく鳴り響いている。急いで管制室へ飛び込むと、既に
ただ、言い訳をするなら、
残念ながら、俺はまだ
むろん、モニター類に何も映って無い映像が映っている──のではない。管制室に届く映像は、現地のカメラからのものだ。カメラそのものが消えてしまえば、そこに映る映像がある筈も無い。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像も、
俺はみのりちゃん──いや、伊川軍曹の方を見た。彼女は必死で、だが冷静に、〈マンタ・レイ〉のクルー、すなわち
何が起こったのか聞きたかったが、そんな雰囲気ではなかった。現在の小隊を束ねるのは、副隊長の谷上中尉になるのだが、何やら難しい顔をして、ホットラインの赤電話──繋がる先は共和国政府の中枢らしい──の真っ最中なので、話を聞ける状態ではない。もちろん、主席飛行管制官、伊川軍曹を含む次席級の管制官3名に、発着オペレータ、運行管理官等々……。管制室勤務の10名程がそこにいるのだが、みのりちゃんを除きほとんどインカム越しにしか会話をした事がない。
出撃する側とさせる側とは、明らかに仕事の内容も隊員の気質も違う。むろん、同じ釜の飯を食う仲間であり同僚なのではあるが、双方の立場の違いから、しばしば対立もする。そういう場面では、常に
我々飛行機乗り組は管制室の異常な空気を感じてはいたが、遠巻きに眺めているだけ──いや、それで良いわけが無い。
谷上中尉の電話が切れるや否や、同僚をかき分け、俺は中尉の前に歩み寄った。駆け寄ったと言っても良い。こういう馬鹿な役目は俺の仕事だ。
「バックアップ組で捜索に行きます。許可を!」
空っぽの頭で、口から出た言葉がこれだった。理由も状況も分からんが、
谷上中尉は、座ったまま
「捜索は、
確かに、
「消えたのは我が隊です。捜索の先発隊として彼らに頼むのは分かりますが──」
「──頼む? 頼んでなどいない」
「は?」
谷上中尉は指を組んだまま、忙しなく人差し指を動かしている。
「予定調和だったようだな──」
「どういう……ことですか?」
中尉はインテリタイプではなく、実際にインテリである。たまに言っていることが分からない。
「つまりだ──」
中尉は小声でささやいた。
「──ハメられたってことだよ」
『誰に?』と聞こうとしたが、その答えは向こうからやってきた。
「本小隊の責任者は誰か?」
「現在は、小職ですが……」
谷上中尉はゆるりと立ち上がり、敬礼をした。俺が後ろを振り返ると、2メートルはあろうかと思われるゴツい体格の
ただし、男の方は、〈レッド・ランタン〉駐在部隊──
この女、どこかで? ──と思った瞬間に思い出した。ヴィーナス・アタックの
彼女は谷上中尉に対し、ピシリと敬礼をした。中々堂に入っている。
「本件は我々が捜査します。管制室のシステムは現状のまま停止。全データは我々が預かります」
彼女の声が、
「ちょっと待ってくれ!」
つい声が出た。とりあえず厄介事を目にすると口を挟まずにはいられないのが、俺の悪い性分だ。彼女がこちらを見るのはいいとして、後ろの大男の睨みが半端なく鋭い。
「今遭難しているのは我が小隊のメンバーだ。我々が捜索に加わるのがスジってもんだろ」
理由の無い怒りが込み上げて来た。──いや、理由はある。何が何だか分からないうちに、無関係な奴らにその捜索の手かがりすら押さえられようとしている。何が起きたのかくらいは知る権利がある筈だ。
「遭難?」
彼女はセルフレームをくいっと上げながら、目を細めてそう言った。その後方、
「はっきり言いましょう。これは重大な国際協定違反だと、我々は考えています。本小隊指揮下の
「なっ⁉」
俺の動揺を気にも留めず、彼女は半身を右に回し、こう続けた。
「それと、もう一人。伊川軍曹にも話を聞かねばならないでしょう」
彼女が何を言っているのか分からなかった。それよりも、何故俺の名前を知っている──っていうか、俺が何をした? 今回の作戦で、一番、蚊帳の外に置かれていたのが俺だぞ? そして、伊川軍曹──みのりちゃんは、額に銃口を突きつけられたかのように凍り付いた表情で目を見開いている。
混乱しているところで、後ろから副隊長──谷上中尉が前に出て、俺と彼女の間に入る格好となった。
「話は先ほど司令部からお聞きしました。指揮権はお渡しします。嫌疑が晴れるまで調べて頂いて結構です」
「そう言って頂けるとありがたい。我々も手荒な真似は避けたい」
双方、穏やかな口調だが、決して気を許しているわけではない。すぐ感情が顔に出る俺には出来そうも無い芸当だった。俺はその間、相も変わらず混乱し、その混乱を押さえるため、仮想敵として大男とにらみ合いをしていた。
「ただ──、」
谷上中尉は付け加えた。
「──
彼女はまたも目を細めたが、今度は少し口元が笑ったような気がした。
「協力の申し入れに感謝します。一刻も早く彼らを発見し、基地に引き揚げさせることを約束しましょう」
「お願いします」
話はそこまでだった。彼女が左手を上げ、軽く前に振った。大男の後ろ側。管制室の入口には、5~6名の捜査員と
管制室は
俺とみのりは、そのまま、階下の
みのりちゃんは──大丈夫かなぁ。その大男が相手なのだが。
* * *
「さて、少尉。聞きたいのは他でもない──」
「ちょっと待った」
室内奥の作業スペース──普段はここで茶菓子を食っていたりする──の床から椅子とテーブルを立ち上げ、席に付いた途端、性急に話を切り出した彼女を、俺は右手の
「アンタは俺の事をよく知っているようだが、俺はアンタのことを全然知らない。これは不公平じゃないか? それに……これは何の〝取り調べ〟だ? 俺は
自治権に関してはかなりグレーだ。共和国の司令部と地域駐留部隊──それも我々みたいな
──ともかく、俺は今、非常に不機嫌だ。
「これは失礼。そう言えば、そうでしたね」
彼女はそう言うと、
「私の名前は、
拍子抜けだ。折角の敵対心が腰砕けになってしまった。
「──で、俺に何の用がある?」
とりあえず不機嫌そうなフリは続けてみる。
「御影恭子のことが聞きたい……」
「はぁ?」
またか。またアイツの話か。俺はアイツの代理人でも付き人でも、ましてや恋人でもなんでもない。何故、皆、俺に聞きたがるのだ。
「その話は、この前のじけ──いや、事故の公聴会で何度も聞かれた。
「それは、ここに到着する前に全て読ませてもらったわ」
「そうか。それなら、俺から言える事は、それ以上何も無い」
「そんなことは無い筈──」
ソーニャは両肘をテーブルについて手を組み、小首を傾げながら
──いや、そうじゃない。そういう話ではない。
「まさか、アンタも『機体洗浄庫で何を話した?』とか言うんじゃないだろうな?」
「その通りよ。どうして分かったの?」
──やっぱりだ。まさかとは思ったが、やっぱりだった。ソーニャはますます疑いの眼差して見ている。そりゃそうだ。聞きたがっている事柄を一発で言い当てたんだから、何か隠していると思うのは当然だ。だが、逆に考えれば分かる事だが、もしも本当に隠したい事だったら、わざわざこちらから言う分けないだろ。少しは気付け!
「何度も何度も聞かれたからさ。しかし残念だったな。特に何も話してない」
嘘をつくつもりは無かったが──みのりちゃんから聞いた話では、御影恭子は公聴会の席で『特に何も』と答えている。まあ、その気持ちは分かる。硫酸雨が降るという金星なら当たり前の現象を知ってか知らずか、その硫酸で溶けてしまうような服を着てスカイダイビングをしたのだ。
命が危なかった云々ではなく、これは自己の危機管理の問題で、かなり〝恥ずかしい〟出来事だろう。登山をするのにハイヒールで来たような、海水浴で水着を忘れたような──まあ、そんな感じだ。
別に嫌われたく無いってわけじゃない──ふむ? 嫌われたく無いのかな? まあ、どうでもいい。ともかく、ここは知らぬ存ぜぬで通す事にした。
だが、続くソーニャの言葉は意外なものだった。
「風邪が──流行っている……」
「何だって?」
「
「どういう意味だ? 風邪?」
最初は特に何も思わなかったが、これは一大事だった。金星だけでなく、地球以外で風邪かその類いを発症する可能性は皆無に近い。理由は簡単だ。結果的に菌から隔離されているからだ。
地球から例の
また、赴任先で感染するということも考えにくい。運ばれて来た人間も動物も、物資の全てに至るまで、完全に無菌状態で届き、さらに、届いた先には病原菌が居ないからだ。南極とかでもそうだが、周囲に病原菌が居ないと、例えどんなに寒くても暑くても、体調を壊すことはあっても、感染症による病気になることはない。
おっと。金星には硫酸雲の中を漂っている菌類が居るんだった。だが、心配ご無用。こいつらは、人間には感染しない。人間だけでなく、地球上のあらゆる動植物とは無縁の生き物だ。生物学的には、ちゃんとDNAだかRNAだかを持っていて、どこかの段階で、地球の種と分かれた──という説と、起源は全く異なるという説がある。
5億年前に金星から地球にやってきて、そのお陰で地球上の生物が繁栄したとか絶滅したとか何とか? これらを研究するために金星に来た科学者も多いと聞く。そう言えば、御影恭子もそうだったか?
そういうわけだから、金星で風邪をひくというのは、朝日が西から出るくらいあり得ないことなのだ。もっとも、金星のスーパーローテーションと呼ばれる風は東風だから、そこに浮かんでいる空中都市から見た朝日は、西から昇るのだが……。
ソーニャは席から立ち上がり、歩きながら答えた。
「我々にもよく分からない。幸い致命的なものでは無いから、数日安静にしていれば直ってしまうのだけど……。それでも不思議なのは感染ルート。どこから病原菌がやって来たのか? それが問題だったけど、つい最近手がかりが見つかってね」
「手がかりとは?」
「細菌のDNAを調べると、奇妙なものが見つかった」
「ん? 何だそれは?」
すっかり、ソーニャのペースに載せられている気がするが、とりあえず今は、興味の方が
「硫酸還元磁性細菌の遺伝子パターン。それも人工的に
「それは御影恭子が──」
「そう。その通り」
ソーニャは俺の回りをくるくる回るのを止め、こちらに振り向いて右手の指先を俺の鼻っつらの前でピタリと止めた。何だそのポーズは? 決めのつもりか?
「理由は分からないけど、御影恭子の
「だったら──」
と俺は答える。
「だったら、御影恭子に直接聞くんだな。俺なんかひっ捕まえて聞くより、よほど手っ取り早い」
「それはその通り。我々もそうしたいのだけど、出来ない事情があってね」
ソーニャは指差した人差し指を、今度は顔の横で左右に振り始めた。
「ほほう。どんな?」
「彼女──、今失踪中。正確に言えば逃走中ね」
「何?」
「だから貴方に聞いているの……」
逃走中か。まあ、何か裏がありそうだなということだけは分かる。そもそもあの振る舞いからして、裏が無いわけが無い。だが、しかし──
「事情は分かった。だが、俺は何も聞いてない」
「あら? そうかしら?」
ソーニャはまたまた目を細めて、疑の眼差しを向け、こう続けた。
「だったら、何故、御影恭子が硫酸還元磁性細菌の研究をしていたことを知っているの?」
「‼」
迂闊だった。確かにそうだ。俺は御影恭子とはそんな話は全くしていない。湊川からは『彼女の興味は〝キン〟だけだ』という馬鹿話と、彼女の専門が地球外生命体とかの専門家だと言う事は聞いていた。だがそれだけだ。硫酸なんとか細菌のことを知ったのは、みのりちゃんに御影恭子の素性を調べてもらって初めて知ったことだった。ヤバい。これが誘導尋問って言うヤツか。
「そ、そんなの調べればすぐ分かるモンだろ」
「それはそう──。だけど、貴方の端末からはその形跡は無かった」
「
「ええ。貴方が──いや、御影恭子がここに着いた時から。もっとも、不正じゃなくて、もともと彼女は要注意人物だったし──」
その点については俺も同意見だが……。
「まあ、そうじゃなくても、貴方のその反応を見れば、貴方が御影恭子を直接調べていないことはすぐ分かる」
「くっ‼」
そりゃそうだ。『端末からはその形跡は無かった』と言われて、素直に『図星です』みたいな反応を取ってしまっている。本当に、俺は嘘がつけない。さて困った。御影恭子をかばうつもりは毛頭ない。そりゃ、彼女も恥ずかしいだろうから、これ見よがしに、その失態を言いふらしたくないのは確かだが、今となってはそれはどうでもいいことだ。問題なのは、みのりちゃんである。
ソーニャからしてみれば、『俺が御影恭子の研究のことを誰から聞いたか?』を知りたい筈だ。またまた、単に世間話をしている風で、ソーニャの誘導尋問に引っかかり、ポロっとみのりちゃんの名前を、俺が自ら言い出しかねない。それだけは避けたい。
みのりちゃんはあくまでこの件に関しては部外者だ。俺が彼女の情報収集能力を見込んだ上でお願いしただけのことであって、こんなつまらない話に巻き込みたく無い。そうでなくても、今、みのりは、あの大男に尋問されている真っ最中の筈だ。何の嫌疑かは知らないが、彼女も最初から居残り組の一人である。
──となると、俺が取れる行動は一つしか無い。
「これ以上は黙秘する‼」
「あらそう?」
「そうだ!」
「そう言えば忘れていたけれど、貴方の端末から登録研究者ネットワーク経由で、彼女の論文を検索した結果が残っていたわ。その時に彼女の硫酸還元磁性細菌の研究を知ったのかもね」
「‼」
ソーニャは少し笑ったようだった。何と! 『貴方の端末からはその形跡は無かった』という発言そのものが誘導尋問だったとは‼
今更ながら気づくのが遅いが、おそらく彼女は取り調べのプロだ。彼女の容姿に騙されていたが、捜査にきた共和国直轄で司令部直属の人物が、普通の綺麗なお姉チャンなわきゃないだろうが。もっと早く気づけ、──俺。
「──まあいいわ。今から言うのは私の独り言と思って聞いてね」
耳を塞ぎたかったが、そういうわけにもいかないだろうな。
「〈レッド・ランタン〉発の暗号電文は──完全じゃないけど、ほぼ解読済み。もともと
──そ、そうなんだ。
「で、どうもその人物の行動が色々と不可解で。もちろん、データの流れから見る行動だから、実際の動きはよく分からないのだけど、最近、御影恭子のデータを、地球経由で検索した跡があったね。南極での記録とかチェックしていたみたい──」
──いや、俺は知らんぞ。何も知らないぞ。聞きたくないぞ。
「それだけならまだしも、御影恭子の逃亡を手助けした形跡もあるのね──」
「何だって⁉」
駄目だ。思わす声が出た。
「興味ある?」
と、ソーニャ。
「いや……別に」
と、俺。
そうは答えたが、好奇心には勝てない。
「ひとつ聞いていいか?」
「どうぞ、ご自由に」
ソーニャの悪戯っぽい目が笑っている。
「彼女は──御影恭子は何故追われているんだ。風邪の菌をバラまいたことが重罪になるのか?」
「御影恭子は〝遺跡〟が──、〝遺跡〟の石が目当てとの情報が入っててね」
「遺跡とは? 遺跡とはなんだ?」
「知らないの?」
「知らないから聞いているんだ!」
「じゃあ、いいわ──」
ソーニャはそのまま、興味がフッと途切れたような感じで、座っていた椅子の背もたれに手をつき、ひとつ溜息をついてから、ダルそうにこう言った。
「──貴方の嫌疑は晴れたわ。時間を取らせてしまってゴメンなさい。じゃあ」
「お、おい!」
そのまま
「遺跡って何なんだ⁉ 石がどうしたって言うんだ⁈」
「そんなに知りたい?」
ソーニャは首だけこちらに向けた。金髪の向こう側からキラリと目だけが覗く。
「ああ……」
「じゃあ──」
ソーニャは振り返って、先ほど溜息をついた場所まで戻って来た。だが、今度は笑顔。蝋人形のような笑顔だ。
「──御影恭子と何を話したのか教えてくれる?」
「……わかったよ」
負けた──。いや、勝ち負けの問題じゃないが、精神的に参った。
「話すのはいいが、全然面白く無い話だぞ。取り立てて機密事項も何も無い。アイツ──御影恭子からも、口止めされているわけじゃ無いしな」
事実そうだった。気になるのは、みのりちゃんにまで話が及ぶ事だ。御影恭子には何の義理も無い。
俺は全てを話した。──と言っても、5分もあれば終わってしまう話だ。降りた途端に
「『あんた──。いい人ね』と言ったの? 彼女──御影恭子が?」
「そうだ。おかしいか?」
ソーニャは
「分かったわ。どうやらあたしの勘違いだったようね」
と言って、右手で髪の毛をかきあげた。
「勘違い?」
「ええ。彼女、足が無いのよ。遺跡に行くまでの……。だから、優秀なパイロットを探していると思ったんだけどね。当てが外れたみたい」
何ぃ? 何かムカつくじゃないか。疑いが晴れたのはいいとして、要は、俺が御影恭子のお
「俺が……嘘をついている可能性だってあるぞ」
──と、言っては見たものの、
「ないない。絶対ない。貴方ほど正直な──バカ正直って言うんでしたっけ? そういう人は滅多にいないわ。本当はね、
──反論する気にはなれなかった。馬鹿正直なのは自覚していたが、他人から言われるとムカつく。だが、捜査のプロからすれば、赤子の手をヒネるようなものだろう。言えば言うだけ、こっちの自尊心が傷つくのは目に見えている。自尊心なんてものがあればの話だが……。
結局、おれはこの程度の追求であっさりと解放されることになった。時間にして30分も経っていない。だが、立ち去ろうとするソーニャを俺は呼び止めた。そもそも、御影恭子との会話を話したのは、〝遺跡〟が何かを教えるという約束があったからだ。
「で……、遺跡ってのは何なんだ?」
「金星人が作った遺跡──と、呼ばれるものがあってね」
「なんだそりゃ。神殿でもあったのか?」
冗談で聞いてみたが、返って来た言葉は意外だった。
「それに近いわね。人工的に作られたと見られる鉱物が規則正しく並んでいるから……」
「人工的って、──そいつは本当か?」
「人工的に作られたと見られるだけ──」
そういって、ソーニャは両手を挙げ、更に続けた。
「──研究によると、硫酸還元磁性細菌が膨大な時間をかけて結晶化させた鉱物群と考えられている。要は細菌の排泄物の
「何だ。そう見えるだけか」
「そういうこと」
ソーニャがニッと
なるほど。話が繋がった。ストロマトライトというのはよく分からんが、おそらく、地球上で言うところのマリンスノーの堆積物みたいなものなのだろう。硫酸還元磁性細菌というのは御影恭子の研究テーマのようだから、その細菌が作った〝遺跡〟に行ってみたいというのは自然だが……。ん?
「でも変だな? 研究目的なら正式に申請すればいいだろう。研究者の動機としては充分過ぎると思うがな?」
「研究目的──ならね」
ソーニャは目を細めて薄笑いを浮かべている。
「この〝遺跡〟は研究対象ではなく、エネルギー資源争いの対象になっているわ」
「ん? どういう意味だ?」
「さあね。気になるなら貴方自身が調べてみる事ね」
ソーニャは、それだけ言うと、自分が得た情報にペイするだけの情報は話したと言わんばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。そこはかとなく甘い香水の匂いだけを残して。一人取り残された俺は、
「ふぇぇぇ~」
情けない声とともにみのりがサブの
俺と例の大男は、時間一杯となった相撲の対戦相手のように、扉の前でひとしきり睨み合ったが、『ふん!』と鼻をならして大男は去っていった。今度会ったら相手をしてやる。素手じゃなく、格闘ゲームでな。
そのまま自室に帰って待機というのも
「怖かったですぅ~」
「そりゃ、そーだろうな」
「で、でも、何も言ってませんからね」
そう言って、みのりは四口目をゴクリと飲んだ。
「何も言ってないも何も、秘密にするような隠し事は無いだろう……」
「いえ──」
みのりは、紙コップを両手で抱え込んだまま、こちらを見上げた。いつになく真剣な表情である。
「──〈収水〉フライトレコーダーに
「何⁉」
みのりによれば、あの大男は管制室で家捜ししている連中と常時連絡を取っていて、そこからの情報で、この問いを
もちろん俺だって、あの事件──事故にされちまっているが──に関しては、色々と気になる事が山積みだ。割れた彗星の不自然な動きと、雲中から放射されたレーザー・レーダーらしき光、そして何よりも、御影恭子の挙動──と言うより、今となっては御影恭子の存在そのものが怪しさ大爆発だ。直接本人に『お前、何モンだ‼』と聞きたいところだが、ソーニャによれば、失踪だか逃亡だかしていて、行方不明らしい。逃亡を手引きしたヤツがいるとか言っていたな。
「済まなかったな、巻き込んじまって……」
俺はみのりに謝った。みのりはキョトンとしていたが、直ぐに、
「いえいえ。そんな事ないです。ほら、クリームパンを
と微笑んだ。まだ表情が硬い。それに、対価がクリームパンだけってのはあまりに釣り合わない話だよな。まさかこんな
「でも、これって、やっぱり何かあるってことですよ──」
みのりは紙コップの底に、三分の一ほど残った紅茶を飲み干して言う。
「──だって、おかしいじゃないですか?
「ちょっと待った──」
「はい?」
「なんだその、共和国エネルギー管理委員会ってのは?」
「さっきの女の人は共和国エネルギー管理委員会──RERCの方です。制服のマークがそうでした」
さすが情報軍所属のみのりちゃん。良く知ってるというか、良く見ている。そう言えば、ソーニャの
「こういう場合、
「何故が、エネルギー管理委員会ってトコから人が来たと……」
「そうです。変ですよ」
そういって、みのりは口を尖らせている。どうやら、ようやく通常営業に戻ったようだ。今回の件、言われてみれば確かに変だ。と言うか、俺は、
「ソーニャは『エネルギー資源争いの対象』とか何とか言っていたからなぁ」
「ソフィア──さん?」
「俺の取り調べをした女だ」
「ああ。その、RERCの人ですか」
「それはそうと、みのりちゃん。金星にある〝遺跡〟って知っているか?」
「えっ? あっ! えーっと、そのぅ……」
何とは無しに聞いただけだったのだが、それに続く言葉は、ちょっと驚くものだった。
「ゴメンなさい。機密事項なので、お答えできません」
「え⁉」
ソーニャの言葉を借りると、〝遺跡〟は硫酸ナントカ細菌の排泄物の塊だと言うことだから、珍しいのは確かだろうが、機密──それも軍事機密扱いになるものとは想像もしていなかった。一般人が入れるような場所にある〝遺跡〟なら、下手に知れ渡ってしまうと、観光客が押し寄せて環境が破壊されるというような懸念があり、所在を伏せると言うことは良くある。南極にあるざくろ石のスポットとかも、盗掘を避ける為に大っぴらには宣伝されていない。だが、金星の──、それも重装備の関係者しか行けない場所で機密になっていると言うことは、何かそれなりの理由がある筈だ。
「教えてくれないかなぁ……。頼むよ、みのりちゃん」
「ですから、みのりちゃんはちょっと止めて下さい」
「その機密事項とやらで、RERCがデバって来たのかも知れないぜ」
「それは──、その──そうかも? いや駄目です。これは機密性3情報ですから」
「へー。3なんだ」
「そ、そうです」
完全なる機密じゃないか。ソーニャの残した言葉は、意外にも重要な情報だったようだ。うーむ。気になる。非常に気になる。
「──そ、そんなことより、
無理矢理に話題を変えようとしている意図がミエミエではあったが、みのりの場合、これ以上追求しても口を開くとは思えないし、俺も捜索状況は気になる。いや、それ以前に、
そうだった。まず、真っ先にみのりに聞くべき事は、〝遺跡〟の話じゃなくて、
「そうだな……。ただ、俺は
「はい。私も分からないんです」
「はい?」
「はい?」
しばし沈黙。
「──いやいや、見てたんだろう? モニターで」
「はい。見てたんですが、消えたんです。
みのりの話はこうだ。俺が自室に帰って一時間と少し経った頃。〈マンタ・レイ〉御一行は、
もっとも〈マンタ・レイ〉は飛行機ではなくハイブリッド飛行船なので、落下の終端速度が遅く〝
で、それら最適化の計算を終え、〈マンタ・レイ〉に降下軌道情報を伝えようと顔を上げたとき、既に〈マンタ・レイ〉を含め、
事態が完全に把握されたのは──いや、結局のところ把握などされなかったのだが、異常事態だと気付くのはそれから数分かかった。
モニターは復活しない。クルー全員の通信の途絶。そして、衛星からの赤外画像でも、12番
仮に、空中都市と地表との間を結ぶ
ま、細かい事はともかく──。
要するに、みのりの知っている情報も、俺の知っている情報とそれほど変わらないということだ。何か救出のヒントになるんじゃないかと考えたのだが、これでは、聞いたところで何の役にも立たない。もし捜索に行くなら、消えた地点に向かうのが鉄則だが、そちらには
* * *
その後も
管制室を占拠され、捜索に使えそうな予備機体が置かれた
みのりちゃんは『基地内では情報監査があって無理なので、外で調べてきます』と出て行ったが、俺にはそんな特殊技能は無いしな──。やはり、基地に留まった飛行機乗りは何の役にも立たんようだ。やれやれ。
自室に戻った俺は、再びベットにドサッと体を投げ出した。何の気無しにズボンのポケットに手を突っ込むと、小さなメモリがある。
「こいつは──?」
そうだ。湊川とバックドア回線で話をした時にブッ挿したメモリ。足が付くと困るから、OSごとシステムが組み込んである。この中にはあいつとの会話も入っている筈だ。管制室のデータが全て押さえられている以上、本作戦中の
早速、端末へ──と手を伸ばしたが、すんでのところで思いとどまった。ここの端末はソーニャに
──いや、みのりだったら『少尉は謹慎中だから外出は駄目です!』とか言われそうだ。非常事態なんだから、大目にみて欲しい。
〈レッド・ランタン〉と呼ばれるこの空中都市の発着場は最上階の上──つまり屋上にある。その端に駐機場と共に管制室はあり、その数階下までは、軍関係のみならず、保安本部、警察、各国の大使館やさまざまな政府機関の施設が入っている。要するに官庁街が最上部を占めている。最上部だからと言って見晴らしが良いわけではない。
商業地区は中層部の100ブロック程を占有しており、〈レッド・ランタン〉全体の半分を占める。モジュール数で言えば600区画にもなるから、地球上の都市と比べてもそこそこの地方都市の規模だが、俺はまだほとんど出歩いた事が無い。元々出不精なのと、
官庁街と商業地区の間には、市民も利用する公共施設が詰まっている。公園とか野球場とか。軍人とエンジニアと研究者しかいないこんな地に、野球場は要らんだろうと思うが、意外と流行っているらしい。少なくとも
おっと、そんなことを考えている場合じゃなかった。
俺が向かったのは、その公共施設が詰まっている階層──具体的には23ブロック下──だ。そこに図書館がある。データ解析や検索ならそこだろう。ネットに繋ぐのは少々危険だが、停電時にはスタンドアロンで働くメインフレームのコンピュータがそこにある。軍用のものが共同で入っていることは一般人には機密事項だが、
ともかく、そこに行けば何とかなるだろう……。そこぐらいしか思いつかなかったというのが正直なところだが、何もせずに手を
ブロック階を上下に横断するエレベータは〈レッド・ランタン〉の中心──
ランタン──つまり、〝
そして、肝心のエレベータは、その内部空間の壁に張り付いている格好だ。
もっとも、エレベータと言うより、上下方向にも走る電車と考えた方がいい。1セット3本のエレベータは、100階おきに止まる特急、10階おきに止まる急行、全階に止まる鈍行があり、数分置きではあるが時刻表もある。そして、何よりかなり揺れる。〈レッド・ランタン〉は空中に浮いており、上下の気流の差によって幾分しなるのだが、その
もちろん移動は上下だけじゃない。
対面に見えているのだから、可能ならひとっ飛びに飛んで行きたいものだが、中心軸の空間は飛行禁止区域となっている。まあ、それはそうだろう。飛行船を飛ばすには狭いし、飛行機では各階への発着が不可能だ。ヘリコプタならなんとかなるかも知れないが、
──などと、下らんことを考えているうちに図書館に着く。当然ながらこれまで利用したことは無い。IDパスはあるから、メインフレームの起動は出来る筈だ。利用申請はこの際後回し。『非常事態でありましたっ!』と言う口実は、
書籍モニター棚は脇目もふれず、パーテションで区切られた視聴席まで移動する。端末からの起動方法は|共通基盤認証システム《IMAS: Identity Management for Authentication System》からコードを打って──入った!
手こずるかと思ったが、意外と簡単だった。まあ、そうじゃなければ、共通認証のシステムとは言えないだろう。だが、起動時間が短過ぎるんじゃ?──と言う疑問は直ぐに
「おわっ⁉」
官給携帯が鳴った。こっちに来てから手渡された専用端末。一般回線からは掛かってこない端末。おそらく捜索隊からの報告が入ったのだ──と、勝手に想像して相手も確認せずに出た。
「盗聴の可能性があるから、返事をしなくていいわ。──お久しぶりね」
「なっ、なっ‼」
人は、〝こうだ!〟と思い込んだまま、行動を起こし、それが見事に外れると混乱する生き物らしい。その昔、コーヒーだと思ってコーラをガブリと飲んで吐き出したことがある。コーラだと思って飲めば普通に飲めるのに、予期せぬモノだった場合に拒否反応を示す。
電話の相手は、捜索隊からでも、谷上中尉からでも、ましてや
どういうことだ。何故、この回線に割り込める? どうして俺の番号を知っている? それよりも何よりも、お前は失踪中と言うか逃亡中では無いのか?
俺は何か言おうとしたが、言うべき事、問うべき事が多すぎて言葉が出ない。パニックを起こした思念が一斉に出口を求めて動き出した結果、口元で言語化出来ず
だが、そんなことは構わず、御影恭子は矢継ぎ早だった。
「そこに伊川さんいるでしょ」
「な──何故、知ってる?」
俺は可能な限り冷静に小声で話した。〝そこ〟と言っていることを考えれば、俺が図書館に来ている事はお見通しで、なおかつ、伊川も居ると言う事が分かって──、いやいや、そもそも、伊川のことを何故コイツが知っている? 水汲み作戦の時にしか接点がない筈だし、それも音声のみ。名前も知らない筈だ。
「細かい話は後で。彼女の命が危ないの──」
「‼」
「急いで探して。おそらく、メインフレームの制御室に直に入り込んで操作して──」
御影恭子はまだ話していたが、俺は携帯を耳元から離し、ある一点を凝視していた。
いた! 伊川みのり。
彼女は図書館の玄関に向かって真っすぐ歩いていたが、顔は無表情で強ばっている。その後ろにはピタリと男がくっ付いており、上着のポケットに手を突っ込む振りをして、みのりを──おそらく銃口で──押していた。何だ、この急展開!
「相手は何者だ?」
ショック療法が聞いたのか、俺は瞬時に冷静になっていた。この際、会話の相手が誰であろうと構わない。伊川の──いや、みのりちゃんの命が危ない。それを教えてくれる人物は無条件に味方だ。
「RERCを名乗っている組織。実態はよく分からない……」
RERC──
「今から助けに行くから、伊川軍曹の身柄を安全な場所に誘導──」
「いや、既に手遅れのようだ」
「えっ? 何があ──」
俺は携帯電話をポケットに
無表情のまま歩いてくるみのりと、その後ろにピタリとくっ付いた男。その行く手を阻むように、玄関の10メートルほど手前で、俺は立ち止まり言った。
わざとらしく、薄笑みを浮かべて。
「よぉ。みのりちゃん。こんな所で奇遇だなぁ」
「あっ‼ 上沢少尉──」
勝算はあった。まともな組織なら、こんな場所で発砲事件など起こす筈が無い。起こす気があるのなら、みのりを見付けた段階で、既にそうしている。銃を突きつけて玄関まで御同行願うなんて悠長な真似はしない──そう踏んでいた。
甘かった。
背後の男は、躊躇無く銃口をこちらに向けて来た。確かに銃口だった。間違いない。だが、それを確認出来たということは、俺の死期が目前に迫っていると言うことだ。
──が、が⁈
みのりの動きは素早かった。銃口が自分の背中を離れ、右側面に動いたと見るや否や、右手の甲と言うか、腕全体で相手の腕を地面側に叩き付けた。形としては、ニードロップと裏拳の中間のような
みのりは全く動じていない。男の手をたたき落とした一連の動作の延長で、右回転をし、左手で男の手首を逆手に掴んだかと思うと、回転しながら腕を
「銃を取って!」
と叫んだ。それまで彼女から聞いた事のないような鋭い声で。俺は人生の走馬灯を思い浮かべること無く、我に返った。我に返らされた俺は、言われるまま銃を拾う。銃を拾い上げたのと同時に、みのりは男の手を離しこちらにすっ飛んで来たかと思うと、
「逃げます!」
と言って玄関へ向けて走り出した。その時になって俺は初めて気づいた。敵は倒れている男一人ではない。何が起こったのか分からず呆然としている人々に混じって、明らかにこちらに向かってくる眼光鋭い
迂闊だった──そうとしか言いようがない。まずは敵の数の把握が最重要項目じゃないか。玄関から外に走り出るまでに、銃声が1発、いや2発したが、いずれも当たる事はなかった。その後はよく分からない。誰かの叫び声をきっかけに図書館中がパニックに陥っていた。
眼前の道路で、突っ込んでくる電タクを2~3台急停車させながら横切り、右手に折れて走り出す。道を挟んで追っ手も数名来ているが、走るのに精一杯で、銃撃戦には至らない。みのりは右手に持った銃を、銃口を上にしたまま肩の上あたりに構え、上半身はそのままの姿勢で横を見ながら華麗に走っていて、なかなか様になっている。というか、こっちも全速力で走っているのに、みのりの走りには乱れが無い。こいつ、実は凄いヤツなんじゃないのか──と思い始めたとき、思い出した様にポケットの携帯が鳴り始めた。
「中央三番ゲートに行って。今、そこに向かってる──」
御影恭子だった。『何故、お前が我々の動きを知っているんだ?』とか、『向かっているって、そこは行き止まりじゃねーか?』とか冷静になれば気づいたものだが、脳に必要なブドウ糖関係の栄養素は、既に手足を動かす分だけで精一杯。その指示に従うしか選択肢は残っていなかった。彼女が現状を知っている理由と方法は即時には理解しかねるが、少なくとも、この状況を把握しているのは彼女だけしかいない。
「中央三番ゲート!」
俺は前方を行くみのりに叫んだ。もちろん、この行動は、追っ手にも情報を与えることになり、先回りされる危険も伴うが、ゲートは200メートルほど先。こちらが駆け込むのが速いと判断した。だか、その先の行動が思い浮かばない。
中央ゲートは、ここに降りて来たときに利用したエレベータの向こう側──すなわち、
俺は第二の選択肢を模索し始めていたが、時既に遅かった。銃声一発。みのりの体が横に動いたのを見て血の気が引いた。
──撃たれた! そう思った。だが、実際は逆で、みのりが前方の車めがけて撃ったのだ。見事タイヤに命中したらしく、車はバランスを崩し、横向きに止まる。中からは、やはり、そのスジの輩と思われる人が出て来た。前方を塞がれては、もはや逃げ道は無い。袋のネズミになりそう──ではなくて、既になっている。ゲート内に立て
中央三番ゲートは閉まっていた。いや、閉まっているのが当然だ。この施設は何らかの大規模災害とか、他のブロックへの避難経路が絶たれた時だけに利用する施設だから、通常は開いている筈が無い。開いている方が異常なのだ。みのりは拳銃の
追っ手は眼前まで迫っている。ゲート縁の50センチメートル程の凹みが、辛うじて身を隠す影になっているが、反対側からも追っ手が来ているから、どのみち死角は無い。
俺がその凹みに体を滑り込ませるか否かのタイミングで、乾いた金属音が外側から聞こえる。もちろん、実弾だ。どうやら、生け捕りにして──と言う考えは彼らには無くなってしまったらしい。くそっ! 本気かよ!
ゲートが数十センチメートル開くまでの僅か5秒程度が実に長く感じられた。みのりが転がるようにゲート内に体を滑り込ませ、間髪を入れず、俺も入る。開いたゲートの僅かな隙間に体を通すとき、左腕に傷みを感じた。全く気づかなかったが、弾が
ゲートをくぐったら一安心とはならない。放っておけばゲートはいくらでも開いてゆく。
「ここ、お願い」
みのりはそう言って俺に銃を渡し、ゲートの奥──外界へと通じるハッチのある方向──へ駆け出して行く。俺はゲート側に向き直り銃を構えた。ゲートは既に50センチメートルほど開いており、数名の男がしゃがんで見えたところで2発続けて撃つ。命中はしていないが、
ゲートの開閉ボタンはゲート内にもあるが、開と閉が同時に押された場合、開が優先される。この施設は立て篭る為の施設じゃない。緊急時に外に出る為の施設だから当然だ。期待はしていなかったが、『そこに向かってる』と言った御影恭子は影も形も無かった。万事窮す。
──と思ったところで、再び〝ガォン〟と言う音──いや、〝バァン〟の方が正確か? 音の在処は後方だったが追っ手から目を逸らすわけには行かない。だが、音と同時に前方のゲートはゆるゆると閉まって行く。そして、前方から負圧によるであろう風が──風だって⁈
もしやとは思ったが、その〝もしや〟だった。みのりが外部ハッチを開けたのだ。それも緊急用の発火ボルトに点火しての、ハッチの強制排除だった。
この場合、有無を言わさずゲートは閉まる。火薬によってゲートに直結した
人は酸素濃度が18%以下になると酸素欠乏症になり、16%の空気を1回でも吸うと脳障害が残る危険が伴う。10%以下なら即座に死が待っている。成層圏での緊急脱出における有効意識時間は約5秒。つまり、無酸素で飛び出せば数秒で意識を失う。この場合、息を止めていた方が良い。10%酸素濃度の空気を吸うと、肺から逆に酸素が奪われてしまう。呼吸をすればするほど酸欠になり、即座に死に至る。喉が渇いた時に海水を飲むようなもので、逆に生存率が低くなってしまうのだ。
高々度から宇宙空間までの飛行は全て経験済みの俺にとってはそんなことは常識で、硫黄の臭いがした段階で反射的に息を止めてしまったが、みのりはそんなことは知らないだろう。致命的となる呼吸反射が始まる前になんとかしなければとハッチへと駆け出した時だった。
2メートル四方で切り取られたハッチの向こう。黄色い雲の下から、黒い物体が甲高い機械音と共に姿を表す。双発の
「──これで借りは返したわよ」
御影恭子の意地悪そうな薄笑いが、そのまま声に宿っている。まあ、この展開なら
「あいつら──
「あたしはね……、パイロットを捜しているの」
「パイロット?」
こちらの質問には全く興味が無い様子で、御影恭子は言う。ソーニャもそんなことを言っていたな。その間も
『実は非常事態を想定して飛行許可を取っていました』という展開はさらにあり得ない。もしそうなら、今回の銃撃戦──単に俺たちが這々の体で逃げだしただけだが──は織込み済みだったことになる。いや、その可能性はあるかな?
御影恭子は続ける。
「そう。パイロット。本当はね……、この前の作戦の時にほぼ決定していたんだけど、邪魔が入っちゃってね」
「邪魔だと? お前は奴らから逃げていたんじゃないのか?」
「──それにね」
彼女は、あくまでも俺の質問には答える気が無いらしい。
「──アンタに話してしまうと、どこでペラペラと喋ってしまうか分からなかったから、詳細は伝えなかったの」
「くっ!」
そこまで話して、御影恭子はこちらを軽く振り向きニコリと笑った。
悔しいがその判断は正しい。〈ブーメラン〉の機体洗浄庫で何か聴いていたなら、俺はソーニャの誘導尋問に引っかかり、内容を
「じゃあ、そろそろ詳細を教えてもらえないかな?」
「そうしてもいいけど、ひとつ条件があるわ」
始めて会話らしい会話が成立した。
「さっき言ったように、アタシはパイロットを捜していたの。分かるとは思うけど、その役を貴方が請け負ってくれると言うなら話してもいいわ。無理にとは言わない。嫌ならこの上の発着場で下ろしてあげる。だけど──」
「だけど?」
「──貴方達にとっても悪い話じゃない筈よ。これは、消えた
「どう言う意味だ‼」
「もうすぐ発着場よ。どうしたい?」
操縦士と副操縦士の関係以上に、主導権は完全に彼女に握られていた。選択肢を与えられているようでいて、実は、道は一本しかない。
「で……、俺は何を飛ばせば良いんだ⁈」
「まずはこれをよろしく」
御影恭子は右目でウインクをしながら、操縦桿から手を離す。
「行き先は?」
「発着場」
「おいおい。俺はパイロットを引き受けたつもりだぜ」
「分かってる」
「──ふむ。みの……伊川軍曹を置いて行くと言うことか」
それなら話は分かる。元々俺は、
結局のところ、情報は得られなかったのだが、情報を持っている御影恭子に合う事が出来たのは幸いだった。出会い方が不自然だとか、RERCとの関係はどうなっているんだとか、そもそも、本当に
だが、みのりは──伊川軍曹は別だ。元々が情報軍所属のエースだから、
──と、俺は勝手に納得していた。みのりちゃんを発着場に下し、そのまま何処かで降下艇をチャーターする手筈なのだと勝手に判断していた。だが、御影恭子の
「いいえ。下ろしたりはしないわ。伊川軍曹は人質よ」
「何?」
「えっ?」
もちろん、『えっ?』と言ったのは、みのりである。みのりは、
御影恭子は更に続けた。
「発着場には〈マンタ・レイ〉の副機があるでしょ?」
「まさか……」
「ピンポ~ン」
「──俺はまだ何も言ってないぞ」
確かに〈マンタ・レイ〉は正副2機が常備されている。更に言うと、予備機となる3機目もあったのだが、予算的な関係で今は無い。ヴィーナス・アタックが冒険家の仕事のような初期の状況ならともかく、今は定期的なルーティンワークになっている。困難な仕事ではあるが、通常、命の危険まで及ぶことは無い。軍人のみならず、研究者や時には報道関係者もしばしば参加していることを考えれば、それは自ずと分かる。だが、それでも今回のように──いや、今回のような謎めいた〝事件〟はそうそう無いのだが──不測の事態に備えて、ヴィーナス・アタック中、2機目はいつでも飛ばせるように
何の事は無い……俺も最初はその方法を考えた。いや、今でもそう考えている。こういう時のための
管制室を押さえられ、内部から
貴方達……。うーん、みのりにとってははいい迷惑かも知れない。だが、御影恭子が『人質』と言っているのだから、逆にみのり自身の意思ではないことになり、軍紀違反にもならないのではないか?
『人質なら仕方が無いな……』
「副機は発着場にはあることはあるが、
「出撃までは最速で何分?」
──コイツ、もう行く気になってるな。
「最速って言うのは無い。いつだって最速だ。……まあ、3分だな。『2分で済ませて下さい』とか言うなよ」
この言葉は火星勤務時代に一緒だった某管制官の口癖だ。出来るかってーの。
「ふ~ん」
御影恭子は何やら考えている。だが、困った顔はしていない。むしろ楽しんでいる。
「──要は3分ちょっと、管制官の目を
「どうするんだ?」
「とりあえず──」
御影恭子は狭い操縦席から飛び跳ねる様にして後部に着地し、みのりの手を取った。
「ひっ!」
「おい!」
みのりの顔が恐怖で
「後ろで着替えてくるから、ちょっとホバリングして待ってて」
「何だって?」
そういって御影恭子は、怯えるみのりを連れて
「覗かないでね」
との忠告付き──さらにウインク付き──だった。そんな暇があるか。誰が操縦すんだよ。あ。
30秒程度だろうか? 2人が戻って来たとき、簡易ではあるが、外気活動用のスーツを着て戻って来た。10分程度は持ちそうな酸素ボンベ付きヘルメットも
「じゃあ、アタシが管制官の注意を引きつけておくから、貴方は〈マンタ・レイ〉を引っ張りだして来て」
「どうやって注意を引きつけるんだ?」
「
「ぎ……、しょう?」
どうにかして相手を
御影恭子が主操縦席に座り、操縦権を
一着残っていた外気活動用のスーツを着込みながら、後方にある積み荷を確認する。
「なるほど……」
中に入っていたのは
作戦はシンプルだった。俺の
〈マンタ・レイ〉は基本は輸送機で、しかも
「用意はいい?」
無線で御影恭子の声が響く。
「いつでもいいぞ」
コックピットと
延々と続くかと思われる居住区モジュールの海から突然視界が開け、発着場が見えてくる。ただ、金網状の防護壁があって、これを越えるまでは飛び出せない。管制室は〈レッド・ランタン〉の外側方向に向いており、中心軸方向は完全なる死角となっている。元々、ここを上ってくる航空機など想定されていないから、当然と言えば当然である。
金網を乗り越え、少し高度が下がった時、俺は躊躇無く飛び出した。前転しながら落下エネルギーを分散させたが、左手に傷みが走る。怪我をしていたのを忘れていた。直後に『もう少し躊躇すれば良かった』と思ったが既に遅い。何とか立ち上がって走り出した瞬間──
「がっ‼」
爆風に
「馬鹿野郎!
本物の煙か、はたまた計画通りの仕込み煙か分からぬ煙──おそらく、3対7くらいの割合だろう──を盛大に吐きながら、
認証キーロックを操作し、
「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは
ノイズと共に無線が入る。御影恭子の声だ。そんな、カッコイイ機体名だったのか。あれは。いや、例えそうだとしても、それは
肩で息をしながら〈マンタ・レイ〉のコックピットに飛び込むと同時にヘルメットを投げ捨てる。無駄な動作となるが息が詰まってどうしようもない。
モーター駆動の6機のプロペラを一斉に始動。一過性の過大な電流で回路に負担がかかるから、多少の気休めで0.5秒ずつくらい、タイミングをずらす。だが、これで壊れるようでは
モーター
モニター類を全て起動し、全方位の確認。外部ケーブル接続等なし。
イメージ・トレーニング通り、全てのチェック項目をこなし、ブレーキングを最大にして、モーター回転を少し上げる。力学的なモーメントは船体を
後は──
──まあ、大方の予想は付いていた。と言うか、『まさかな……』と思う反面、アイツなら──彼女ならやりかねんと思っていただけに、実際にソレが起こった時は不謹慎だが少し笑った。
もったいぶった言い方を止めて、事実だけを言うと、要するに、御影恭子が
制動をかけたままモーターを
盛大に鳴っているパーキングブレーキ作動のアラートの中、加速度計と機体モニター、それに、もしもの時のための
「今入った。出て!」
御影恭子の声だ。
「みのりは?」
もちろん、乗り込んでいるとは思うが、確認する。
「ここにいます!」
間髪を入れず、ブレーキリリース。非常用の
だが、モーター最大出力で移動するも、想像通り
ジャンプ後、不協和音のアラートの鳴る中、再び着地したのは、既に駐機場に出て数百メートルのところだった。離陸に失敗したわけではない。一連の動作としては、機首の上げ過ぎで
煙幕の所為で視界はまだ開けていないが、発着場の縁までは、モジュール2つ分強──およそ3キロメートルはあるだろうか? もっとも、常時硫酸雲の中にいる〈レッド・ランタン〉だから、煙幕が晴れたとしても、2キロ先が見通せるかどうかは疑わしい。ここはフルスロットルで駆け抜けたいところだが、1キロメートル近い
この間、機銃掃射でもあればそれでオシマイである。ただ、残されたたった1台の大型輸送機が盗まれる寸前とはいえ、状況が分からぬまま、そのような無茶はしないだろうと言う、希望的、楽観的観測に懸ける。少なくとも谷上中尉はそんな司令は出さない。管制室を占拠しているRERCの文民ぽい奴らもそんな判断が出来るとは思えない。
「〈レッド・ランタン〉より〈マンタ・レイ〉二番機へ。貴殿の所属と氏名を述べよ」
「…………」
無線が来た。噂をすれば影がさすというか……谷上中尉直々のお出ましだ。
「統合幕僚監部情報分析部特務情報官付の伊川です。当機は何者かにハイジャックされています。目的は不明。数名の人質が取られています」
座席後方の内部インターフォンからノイズまみれの声がする。赤外通信か何かを使っているのだろう。となると、俺が何か言う前に無線回線を切ったのはみのりかもしれない。普通は
──しかし、その言い方だと、俺がハイジャック犯みたいじゃないか。まぁ、似たようなものか。否定は出来ないな……。
「行き先は? 犯人の人数は?」
「地表に降り…です。人数…不明……で……」
後はノイズだけ。なかなか美味い演出だな。ハイジャック犯の人数は1.5人と言うことにしといてくれ。
〈マンタ・レイ〉の翼振動を気にしながらも、
そのまま何事もなく僅かながら機首上げし、ふわりと舞い上がった〈マンタ・レイ〉は、発着場の縁に到達した直後、直ぐさま急下降で速度を付ける。〈レッド・ランタン〉には翼で〝バイバイ〟をしておいたが、見えたかどうかは定かではない。
多少手荒でイレギュラーな格好になったが、第二次捜索隊はロシア隊に遅れること2時間後。盛大な見送りもなく、こうして出撃した。距離を考えると間に合うとは思えないが、この手の作戦はAプランだけでなく、バックアップ用のBプランも用意しておくのがスジだ。徒労で終わったならそれでいい。──いや、その方が断然いいだろう。バックアップが役に立つ状況というのは、本来間違っているのだから。
「そう言えば──」
俺はこの段になって思い出した。
「御影恭子の本作戦の目的は何だ?」
──詳細を聞いていないことを思い出した。
* * *
「降りた?」
「ああ。
谷上中尉は幾分不機嫌そうな顔をして、赤電話に出ていた。
「積み荷は?」
「伊川軍曹が人質として取られている。真偽は定かではない。その他人数は不明だが、
「何故分かるの?」
「あんな飛び方が出来るヤツは、ここには上沢しかいない。いや、何処を探してもいないだろう」
「ふーん。取り調べではあの坊や──、口を割らなかったんだけど、その時は何も知らなかったのかもね」
「あの女は何者だ。御影恭子という生物学者──」
「それが分からないから泳がせているの。発信器は?」
「付けてある。内部からでは探知できない場所にだ」
「OK。後はこちらで追うから」
「こっちは追いたくても、追うための実機が全て出払っている。これ以上は何も協力はできん」
「分かっている。状況が分かれば逐次報告するわ。ではまた後ほど……」
ソーニャはそう言ってホットラインの電話を切ると、
「遺跡にご招待ってわけね……」
と、独り言を吐いて微笑んだ。
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