第2章 事 故

謹慎一週間。それが俺に下された処分だった。

人命救助をしたのに謹慎処分というのは、つくづく割に合わない仕事だと思うが、が危険行為と見なされた。確かに一歩間違えれば、御影恭子は〈収水〉のエンジンでこんがり丸焼けだった可能性がある。さらに、機首上げ空中停止Harrier状態で氷の壁面に機体をぶつけていたら、たちまちのうちに姿勢制御は不可能となり、2人とも助からなかったかもしれない。小隊長殿おやっさんの言うように、あの場面は〝何もしない〟という選択が最もリスクが低かったと考えるのが妥当だ。

もちろん、俺にだって言い分がある。御影恭子のケブラー繊維で出来た防護服プロテクトスーツは、硫酸で溶ける可能性があったし、酸素残量も未知だった。だが、それを弁明しても、謹慎処分の決定は変わらないだろう。ならば、言わない方がいい。俺の処分に加えて、御影恭子も何らかのおとがめを受けることになるのは本意ではない。何と言うか──チクったと思われるのがしょうに合わん。

そういうわけで、懲戒委員会においての『〈収水〉洗浄後に御影恭子と何を話していた?』という質問には、『取り立てて何も……』とだけ答えた。ここであいつに恩を売っておくのも、後々何かの役に立つんじゃないかな?

それに、そんなどうでもいい事は聞いて来るのに、俺の見た未確認機アンノーンからのレーダー照射については、一言も言及が無かった。逆にこちらから質問すると、『フライトレコーダーには何の形跡も見られない』と言明された。不思議な事もあるものだ。


なお、謹慎が七日程度──それも、基地内待機で済んだのは、小隊長殿おやっさんの機転によるところが大きい。小隊長殿おやっさんは、俺が救助に行こうとしたとき、『駄目だ』とは言わなかった。『駄目だ……と言っても、お前は行くだろうな』と補足した。蛇足とも思えるこの付け足しで、俺の行動は命令違反とはならなかった。もしも『駄目だ』だけだったら、二週間程度は謹慎してたかもしれない。

とは言え、たった一週間でも謹慎は謹慎だ。せっかくの休みだと言うのに、外を出歩けないというのは少々気が滅入る。それ以上に残念なのは、金星地表への降下作戦──いわゆる、〝ヴィーナス・アタック〟への参加が絶望的になったことだ。作戦は、持ち回りで各分隊単位で行われていて、来週が俺たちの番だった。せっかく金星まで来たんだ。一度は、地表に足を下ろしたいじゃないか。次にお鉢が回ってくるのは、約半年後だから、まだ何度かチャンスはあるものの、少し──いや、かなり残念だ。

俺は色々な思慮が混ざり合った憂鬱な気持ちで、夕食のカレーを食べながら、そうか今日は金曜日かなどと思いつつ、謹慎二日目のを迎えていた。


        *  *  *


金星での時間の概念は少々複雑だ。

そもそも、惑星の自転周期をその惑星の一日と決めるのならば、金星の場合、地球の243日に相当する。金星の公転周期は225日だから、金星の一日は、公転周期のそれよりも長い。すなわち、金星の一日は金星の一年よりも長いことになる。

だが、我々は金星の地表に住んでいるわけではない。空中都市は地表から55キロメートルほど上空に浮いており、風まかせで移動している。そして、その風がめっぽう速い。スーパーローテーションと呼ばれるその風は、空中都市付近の高度では、秒速60メートルに達し、4~5日で金星を東西に一周している。〝4~5日〟と曖昧なのは、空中都市の高度が気圧によって上下するからだ。

ただし、空中都市にそんな風が吹き付けられているわけではない。風と共に流されているのだから、外はほぼ無風だ。つまり、風と共に居住区も、4~5日で金星を一周しているのである。

また、空中都市は北緯30度帯30 Degrees Northにある〈レッド・ランタン〉だけではない。各々の空中都市はそれぞれ高度や緯度が違うため、回転速度も異なる。地球上では都市毎の時刻の違いは時差だけで表す事が出来るが、金星の場合、ある都市はほぼ4日間隔で朝が訪れ、別の都市では5日間隔なんてことはざらにある。ひとつの空中都市だけに着目しても、気流の変化で一日の時間は変化するから、夜明けの時刻さえ正確に予報する事は不可能だ。

結局、金星では、全ての空中都市に都合のいい時刻基準は存在しないため、地球で使われている世界標準時UTCをそのまま使う事になるのだが、そうすると、深夜なのに太陽が出ていたり、その逆だったり、数日後には昼夜が入れ替わっていたりと、およそ外の景色とは全く異なる時刻表示になる。

地球上でも、超音速で飛んでいれば、太陽が西から昇る場面に出くわす事があるし、衛星軌道上では、一日に数十回の夜明けが訪れるので、宇宙空間で仕事をしたことのある人間は、この手の感覚には既に慣れっこになっている。軍用の二四時間表示時計の針を見れば、外の明るさに関係なく目が覚めたり眠くなったりするようになるのだ。人間の適応能力を甘く見てはいけない。


まあ、謹慎と言っても、何か重労働を課せられるわけではないため、時間はたっぷりある。懲罰と言うよりは、むしろご褒美に近い。俺は手に入れた時間を使い、御影恭子の素性を調べてみることにした。どう考えても、あの大胆な行動は、いち研究者のソレではない。それに、湊川が言っていた、彼女にまつわる『良からぬ噂』というのも気になる。こちらの方は湊川に直接聞くのが一番なのだが、奴は今回のヴィーナス・アタックに使用される降下母船〈マンタ・レイ〉の操縦を任されていて、模擬訓練シミュレーションやら作戦会議ブリーフィングやらで、何かと忙しいようだ。

とりあえず、登録研究者ネットワークで調べてみたが、彼女の最新の研究が『硫酸還元磁性細菌の遺伝子操作による微小磁化結晶体の精製について』という、タイトルだけで目眩めまいがしそうな代物だということだけは分かった。それ以上の捜査は俺の手には負えないので、情報軍のエースとして期待され、そのスジの情報検索にはめっぽう強い伊川軍曹に、それとなく頼んでおいた。で、その報告のため、伊川軍曹が宿舎までやって来たのが謹慎二日目の明るい夜である。

連絡方法ならば色々とあるだろうに、わざわざ出向いて来たということは、口頭で直接伝えなければならないことがあるのだろう。夜中なので──と言っても明るいが──食堂も開いておらず、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンをおごった。外出できない俺からの最大限のサービス。『えーっ、夜食べると太るんですけどぉ』とか何とか言いながら、嬉しそうだった。


「みのりちゃん。意外と早かったな」

「ですから、その〝みのりちゃん〟と言うのはちょっと……」

「えっ? ちょっと何?」

「──いや、何でも無いです。頼まれていた御影さんの経歴と研究内容が大体分かりました」

「手間かけさせてゴメンな」

「いえ。とんでもない。私も今回の件でちょっと引っかかった部分があって……」

「ん?」

「あ。それについては後で話します。御影さんは金星ここに来る前は、南極のボストーク基地で嫌気性細菌の採取と調査をしています」

「ほぉ⁈」

──そう言えば、湊川もそんなことを言っていたな。

みのりはクリームパンを頬張りつつ、論文のコピーをテーブルに広げて説明してくれたが、学術論文なんてのは見ても眠くなるだけだ。夜中だしな。明るいけど。

「──で、その前は、マリアナ海溝周辺の熱水鉱床に住むバクテリアの調査に参加してます。御影さんはそこで採取した新種の硫酸還元磁性細菌Sulfate-Reducing Magnetic Bacteriumを調べていて、金星までやってきたみたいです」

「その──えーっと、ナントカ細菌ってのと、金星がどう関係するんだ?」

「はい。私も完全に理解したわけではないのですけど、御影さんのこの論文では、新種の硫酸還元磁性細菌は、元々金星にいたものだという仮説を立てているんです。遺伝子構造が金星由来のものに近いと書かれています」

「なるほど……」


金星には、地球とは別の進化を辿った生命体がいる。発見されたのは金星の硫酸雲の中を漂っている菌類のみだったが『生命は地球上に限定されるのか?』という、有史以来の人類の問いかけに決着がついたことは大きかった。この発見により、火星より遥かに移住が困難と思われる金星に、多数の研究者が住み着いたのは知っての通りだ。

だが、それも今は昔。現在は研究者ではなく、多くの俗物ぞくぶつが住み着いている。金星表面に大量の鉱物資源が眠っていることが分かったからだ。南極条約Antarctic Treaty Systemの後に生まれた宇宙条約Outer Space Treaty、そしてそこから派生した月協定Moon Agreement南京議定書Nanjing Protocolによって、いかなる国も金星の領有は禁じられており、あくまで平和的利用、科学的調査が目的の筈なのだが、条約遵守のための監視員が各国の軍隊から選抜されて派遣され、結局はそれがある種の縄張り争いをしているという構造的な矛盾──我々もその矛盾の一員なのだが──が生まれている。さらに、その周囲には、各国の資金援助を受けて鉱物資源の調を行う〝なんちゃって研究者〟が多数ひしめき合っていたりする。

昔から色々とキナ臭い動きが絶えない場所ではあったが、最近になって、各国のヴィーナス・アタックの回数がにわかに増えてきた。それも、地表面全体をしらみつぶしに探すような探査だ。うわさでは、地表で新種の鉱石が発見され、その鉱脈を探しているんじゃないかってのが、大方の見方だ。もっとも、我々下っ端にはそれが何なのか? ──そもそも、そんなものがあるのか無いのかさえ公式には伝わってきていない。


そういう意味では、御影恭子はまともな研究者のようだ。行動はちっともまともじゃないが、動機は俗物的じゃない。細菌を追って金星ここまで来たのであって、かねになる貴金属やレアメタルを求めて来たわけではないようである。

もう一人の研究者──魚崎ナントカの方は怪しいがな。


「それと、他にも調べものをしたんですけど……」

みのりの声が少しためらっているように感じる。

「引っかかった──というヤツ?」

「はい。御影さんの採取した彗星の氷に関しての報告書レポートがこれなんですけど、細菌類は発見されなかったようです」

「あれだけやって成果無しか。こちとら、お陰で色々と迷惑をこうむっているというのに」

「はい……。ただ、報告書にはパンスペルミア仮説のような『生命体は認められず』ではなくて『生命体による汚染コンタミは認められず』って書かれていたんです」

汚染コンタミ? 妙な表現だな」

「そうなんです。後から混入された可能性を調べてみた──みたいな文章で」

「うーむ?」

みのりの指し示すコメント欄には、確かにそう記述されていた。報告書もA4一枚の素っ気ないもので、これのために危険を冒して飛び降りたのだとすると、少しばかり不可解な行動ではある。そもそも、彗星の氷を調べたいのならば、金星への大気圏突入Atmospheric Entry前の段階──つまり、宇宙空間で入手する方がよほど簡単だ。これなら、汚染コンタミがどうしたという懸念を根本から払拭ふっしょくできる。

「ところで……。パンスペルミアってのは何だ?」

「えっ? ああ。えっと、生命体は彗星や隕石に乗って宇宙からやって来たって言う説です。異端の説なんですけど、結構本気で調べている人がいるみたいなんですよ」

「ふーん」

みのりの知識は色々と幅が広くて面白いな。

「えーっと、それから、御影さんも作戦時の落下公聴会で質問を受けているんですが──」

「あれは事故じゃない。彼女が故意に飛び出したんだ!」

「え? ああ──ええ。分かっています。でも、公式には事故として扱われていますから……」

そうなのだ。俺がこんな目に遭っているのも、全ては御影恭子の身勝手な行動によるものなのだが、本件は〈収水〉緊急脱出装置の暴発として処理されている。もちろん、故意にやったとなれば、事故ではなく事件として扱われることになり、色々と面倒な手続きが必要だ。下手すると小規模ながら各国の審議官立ち会いのもとで軍法会議の扱いとなり、時間だけが奪われて誰も得をしない状態となる。我が隊のヴィーナス・アタックも中止となることは確実だった。そこで小隊長殿おやっさんの提案により、事故として扱う事となった。『全ての責任は俺が持つ』と言われたらそうするしかなかろう。

「もしかして、御影恭子は『自分が勝手に飛び出した』とか何とか言ったんじゃないだろうな?」

もしそうなら、せっかくの口裏合わせが台無しだ。

「いえ。それは無いのですが、公聴会メンバーの質問の中に『〈収水〉洗浄後に上沢小尉に何を伝えた?』というのがあったんです」

「はぁ? で、彼女は何と……」

「『特に何も』と回答しています──」

どうして、どいつもこいつも、機体洗浄庫での会話を聞きたがるんだ? 確かに、〈収水〉搭乗中と〈ブーメラン〉コックピットでの会話は録音されているから、会話記録が無いのはここでの会話だけなのだが。

「何か重要な会話でもあったんですか?」

「いや、特に何にも無い。俺の公聴会の記録も見ただろ?」

「ええ……そうですけど」

「何だ? みのりちゃんまで俺を疑っているのか?」

「いえ。そういうわけじゃありませんけど……」

やれやれ。とんだとばっちりだ。

『その防護服プロテクトスーツは溶けるぞ』

『えーっ!』

──っていう会話に重要な秘密があるとは思えんが、今更、そいつを吐露とろしても『本当か?』っていぶかられるだけで、誰も信じてくれない気がする。

『○△大統領の暗殺計画は××日と決まった』

『了解。引き続き任務を遂行せよ』

──とかだったら、逆に信じてくれるのだろうか?


「ありがとう、みのりちゃん。恩に着るぜ」

「あっ、待って下さい。もうひとつ、気になることがあるんです!」

席を立とうとした俺に、焦った声でみのりが付け加える。

「〈収水〉のフライトレコーダーに──ほんの僅かなので、私の勘違いかも知れないんですけど──改ざんの痕跡が見られるんです」

「何⁉」

「レコーダーメモリの残存電位が少し浮いている箇所があって、その記録時刻が〈収水〉の急速降下時に該当するんです」

「ということは、俺が見た未確認機アンノーンからのレーダー照射の記録は、誰かに故意に消されたと?」

「断定はできませんけど……」

フライトレコーダーの中身は、機密性、完全性共にレベル3で保持されている。そんなものホイホイと改ざんされたらレコーダーの意味が無いから当然だ。だから、データ自身にアクセスできる権限もかなり制限されていて──って、おい!

「ちょっと待った! 何故それに気づいた? フライトレコーダーの中身なんて、そうそう覗けるものじゃないぞ」

「えっ? えーっと。それは秘密です。ちょっとした裏技があるんです」

怪しい……。怪しいが、みのりの能力なら、そのくらいのことはやってのけそうな気がする。というか、それだからこっそり頼んだんだ。だか、それは明らかに軍規違反だと思うが──まあ、いいか。

「うーん。まあいい。いずれにせよ、この事件──色々と裏がありそうだ」

「はい!」

「──何だか、やけに嬉しそうだな?」

「はい‼ あ、いや。あの……、私ってミステリー小説とか大好きなので、こういう調べものはちょっとばかり興味があって、つい……」

「なるほどね」

まあ、ミステリー好きが嵩じて情報処理・検索能力に長けた結果になったというのならば、それはそれで良しとすべきだろうな。実際役に立っているわけだし。


みのりの報告はここまでだった。御影恭子の素性はそれなりに分かったが、どうも全体像がよく分からない。まだまだ謎が多過ぎる。みのりは、『何か分かったら、また報告します!』と、探偵ごっこを楽しんでいるようだった。ほどほどにと建前を言いつつ、引き続きの捜査をお願いしたのは言うまでもない。


        *  *  *


それから2日後。俺は、ヴィーナス・アタックの作戦会議ブリーフィングに出ていた。とは言っても、地表降下部隊──ヴィーナス・アタッカーズ──のメンバーからは外されているので、有り体に言えばオブザーバである。いや、謹慎中の身としては、オブザーバにすらなれていない。聞きに行ってもいいという立場じゃなく、むしろ逆だ。出撃──いや、出発できないと分かっているのに、聞く事を強制されている身だ。つまらん。実に、つまらん。

当然ながら、作戦内容の詳細などには興味が持てなかった。それに今回も、いわゆる資源調査団の輸送が主たる任務だ。調査と言っても、地表に突然現れたモノリスを調査するわけでも、地中深くボーリングするわけでもない。ジオイド異常のある区域の調査──ということになっているが、そこには重い金属塊がタンマリ眠っていると言うことだろう。


研究者によると、金星表面にある重金属の量は、シミュレーション解析で得られた理論値より多いらしい。多いと言っても、理論値の数%多い程度とか言っていたが、ともかく多いらしい。もっとも、地球もそうなのだ──とも言っていた。

太陽系というのは、そもそもが星間ガスの収縮から始まっていて、中心の太陽がその大部分をからめ取ってしまう。惑星になるのは、辺境に残った搾りカスだ。それらが重力によって収縮しながら火の玉になる。まあ、火の玉と言っても、太陽みたいに核融合を起こすほどの量は無いから、煮えたぎったマグマの塊のようなものが出来る。そういう球体スープ状のものが出来ると、当然ながら中心に重いものが集まる。重いものが沈み、軽いものが浮く。当然の摂理だ。

辺境の残った搾りカスの素性というのは、未だに原始のままフラフラしている小惑星を調べれば分かる。太陽系が生まれてこの方、太陽にも、木星にも落ちず、ましてや隕石として地球に落ちることもなく、40数億年もの間ひとりぼっちで居た天涯孤独の岩石──それが小惑星だ。コイツを調べれば地球や金星を形作っている元素の割合というのも分かる。だが、一旦、スープ状になって、重いものと軽いものが重力によって分離されてしまうと、表面には軽い元素ばかりが残る。よって、小惑星に含まれる鉄の量は、地球の岩石に含まれる鉄の量より圧倒的に多い。正確に言えば、岩石に含まれる鉄の量よりも多い──ということだ。逆に言えば、地球の中心は重い鉄ばかりである。見たわけじゃないけど、そういうものらしい。

アツアツの味噌汁は、最初はウネウネと対流してそれなりに混ざっているが、冷めてくると具はもちろんのこと、味噌も底に沈殿して、表面には出汁の効いた食塩水しか残らない。もう一度、味噌汁を味噌汁らしくするには、強制的に箸でかき混ぜてやるしか無い。地球の場合、その役目を負ったのは月である。月によって再度かき混ぜられたのだ。

──いや、見たわけじゃないけど。

地球が冷えてそのまま固まろうとした矢先、月が──月の元になった小惑星がぶつかった。一旦は融合したが、反動で千切れた部分が今の月になり、良い塩梅でかき混ぜられた地球が出来た。だからこそ、そのまま冷えていった火星なんかより、地表面に露出する重金属類の割合が多い。

だが、金星は、そんな再加熱の要因が全く無い。巨大な何かがぶつかった形跡もない。分かっている事実は、地表面がかき混ぜられた年代が異様に新しいという事だ。ほんの──と言っていいのか俺にはタイムスケールがよく分からんのだけれども、ほんの5億年程度前のことらしい。それが証拠に、金星は、地球と比べても、隕石痕クレーターがほとんどないという美肌な星だ。惑星地質学の専門家に言わせると『ゆで卵のよう』なのだそうだ。もっとも、月にあるような分かり易いクレーターは地球にもそうそう無いが、それは風化によって跡が消えているだけで、よく調べるとその痕跡は色々と発見出来る。金星のクレーター痕は、地球の90倍の気圧による風化を考慮しても、あまりに少ない。5億年前に盛大にかき回されたようだ。その原因はよく分かっていないが、そんなことに興味を持つのは純粋な科学者だけ。俗物にとって金星は、貴金属が豊富に露出しているゴールドラッシュの星。飴玉に群がる蟻のごとく、色々と強欲な連中が研究者のフリをしてあちこちから集まってくる。

別に正義漢ぶるつもりは全くないが、調査と称してお宝をかすめ取ろうという魂胆が気に食わん。正々堂々と『俺は金を掘りに来た。文句があるか!』と言えば良い。欲望丸出しで掘っているならば気にならない。それはそれで、そいつの人生だ。それに、必ずしも鉱脈を掘り当てるとは限らない。山師とはよく言ったもので、正にハイリスク・ハイリターンの世界。運不運も含めて命がけで挑戦するならば、何も言わない。

何かこう──、最初からそう言えばいいのに、『我々は科学調査を……』とか何とか誤摩化し、建前を取り繕ってまで掘ろうとする心根こころねが気に食わんのである。


ちなみに、俺が気に食わない理由がもう一つある。この長い前振りの話をしているのが、例の魚崎って奴なのだ。魚崎晋。コイツは確か、宇宙量子の物性がなんたらというのが専門だったんじゃないのか? なぜ、地学だか惑星科学だか知らんが、こんな専門外の話を延々としているんだ。それこそ、『この採掘は科学的な目的なんです。本当です』って言いわけを延々としている風にしか聞こえない。それに、いちいち『あー』だの『んー』だの、考えながらボソボソと話す話し方もイラつく。

本来なら、『そんな話はいいから、ミッションだけ教えろ!』とヤジを飛ばしたい所だし、実際何度かそういうことをやって、その度に小隊長殿おやっさんたしなめられるという、その繰り返しを昔からしている。俺が正式な地表降下部隊アタッカーズの一員ならば、躊躇無く発言したかもしれないが、今はとりこの身──じゃなく謹慎中のオブザーバーだから、流石にそれははばかられる。そこまでKYじゃない。というわけで、始終ジト目で、止めろオーラを出しているんだが、魚崎にはどうにも通じないみたいだ。

魚崎が登壇したとき、彼女──御影恭子も来ているんじゃないかと見回したが、オブザーバー席も含め、どこにもいなかった。御影恭子の興味は硫酸雲中のウイルスとか何かだから、金星地表面には興味が無いと考えるのが妥当だろう。硫酸の雨は、地表面に届く前に熱で蒸発してしまう。金星表面は暗くて猛烈に熱い乾いた大地なのである。

アイツとなら──御影恭子となら、色々な方面で色々と仲良くできそうな気がしたのだが……。


まあ、そんな事を考えていても仕方が無いので、今回の地表降下部隊アタッカーズの顔ぶれを見てみる。隊長は小隊長殿おやっさん直々に出撃だ。角のひとつが欠けた座布団みたいな形の降下母船〈マンタ・レイ〉を操縦するのは湊川。副操縦士は──見た事はあるが名前は知らないな。湊川と隣同士、小声で話しているみたいだから、おそらく以前からここに居たヤツだろう。何せ俺はここでは新参者だから、全ての隊員の名前をまだ覚えていない。全体で40人程なんだが……。

その後ろにいる、角刈りの三人組。姫島と千船と杭瀬。コイツらは知っている。『装甲兵アーマード・ソルジャー3馬鹿トリオ隊』だ。3と言っているのに〝トリオ〟まで付いているから、馬から落ちて落馬して、頭痛が痛いみたいになっているが、皆からそう呼ばれているのだから仕方が無い。ここは慣例に従って、そう呼んでおこう。

直接的に行動を共にしたことは無いが、太平洋上の訓練で、シンクロ芸を披露していた。もちろん、装甲服アーマードスーツを装着したままだ。他にも、広報活動の一環として、幼稚園で組み体操のパフォーマンスをしていたとかなんとか……。まあ、実際にやってみれば分かることだが、装甲服アーマードスーツを着たまま、普通の人間のように動くことは難しい。パワーが有り過ぎるのだ。10メートルジャンプするとか、タンクローリーを持ち上げるとかの方がよほど容易たやすい。ちなみに分隊を率いる姫島軍曹は、元々が千船とバディを組んでいた対潜水艦救援のエキスパートであるから、90気圧の地表での作業は問題ないだろう。周囲が液体じゃないから身軽な分、潜水艦相手よりも簡単かもしれない。ただし、金星地表面で問題となるのは気圧の方ではなく、鉛さえ溶ける五百度近い気温の方である。強力な冷却装置が付いてるとは言え、故障すれば三分は持たない。まあ、危険性に関しては気圧も同じで、一旦地表まで降りてしまえば安全な場所など何処にもない。ちなみに杭瀬は機動海兵隊上がり。三人とも実力は折り紙付きである。その隣にも同様の三人組がいるが、こちらはよく知らない。夕べの壮行会で飲み過ぎたのか、多少体調が悪そうで何度か咳き込んでいた。制服は同じだから、同じ装甲兵アーマードソルジャー隊だろう。作戦会議ブリーフィングの前に杭瀬が彼らと親しげに談笑していたから、機動海兵隊上がりの連中かも知れない。

その席の前に浮揚軽量車エアロスピーダーの操縦士が正副合わせて4人。地面から少々浮き上がって猛スピードで走る浮揚軽量車エアロスピーダーは、エアーホッケーの上に乗っているようで中々面白い操縦感覚だ。地面効果が効いていて、ある程度無茶をやっても以外と地面への接触は無い。ま、肝心な所はコンピュータ制御で、大きな無茶はできない仕様になっている。

ついでに述べておくと、一番前の席で、甲斐甲斐しくメモを取っているのは、みのりちゃんだ。といっても、彼女は地表降下部隊アタッカーズの一員になっているわけではなく、今回も後方で管制──の補助──を勤めることになっている。情報軍ってのは、管制官の真似事をするのが仕事じゃない筈だか──って、実は彼女の本業というか専門分野を俺は良く知らない。だいたい、紙でメモ取ってる時点で大丈夫かそれって思うところなのだが、みのりちゃんはどんな作戦でも、自分に直接関係ない作戦でも、一生懸命メモを取っている。メモが必要無いくらいの抜群の記憶力と情報処理能力に長けているのだけれど……。


少し話が逸れたが、今回の地表降下部隊アタッカーズ小隊長殿おやっさん以下、総勢13名。

──いや、今、目の前でペラペラ──ではなく、何度もつっかえながらボソボソと喋っている魚崎も含めて14名だ。

俺はこの編成に、少々違和感を感じていた。最初は言語化出来ない、モワモワとした、本当に違和感としか言いようの無いものだったが、魚崎から小隊長殿おやっさんが話を引き継ぎ、部隊員と装備についての話を始めたところで、その違和感の正体に気づくこととなった。一言で言えば、この部隊編成は、科学調査でも資源調査でも、ましてや鉱物採集のための編成でも無いという──うーむ、一言で言ってないな。

どうも言いにくいことなのだが、これは何かの強襲──いや、だ。そう考えるのが一番しっくり来る。少なくとも輸送機か何かの露払つゆはらい的護衛や誘導の装備ではない。そもそも本小隊中に3分隊しかいない虎の子の装甲兵アーマードソルジャー隊が2分隊も必要な理由が分からない。金星地表面での活動であるから、探査車両のマニピュレータの故障や、地表基地局との通信ジョイントミスなどに備え、即時的に野外活動が可能な1分隊──3名程度を連れて行くだけならまだ分かるが、野外活動をメインとしない作戦ならば、この配備はオーバースペックだ。

その逆に、機動力が有り過ぎる反面、防御力は弱い。車輪や無限軌道キャタピラで移動する装甲車両が無いということは、物資を運ぶ為の作戦ではないと言える。襲撃するのが金星地表面の陣地となれば、敵の襲来云々以前に、その環境に耐え得る施設にするという前提だけで頑強な造りになる。ただこれは、ダムの壁が分厚いのと同じで、外圧から守るための構造だから、破壊は以外と簡単だ。一カ所でも亀裂が走れば後は自発的に崩壊して行く。さっと近づき、ガツンとぶっ叩き、そそくさと逃げ帰るのが正しい攻撃法だ。そういう意味では、急襲部隊を編制するのは理にかなっている。軍事作戦であるならば……。

もちろん、本作戦は表向きは、『ジオイド異常のある区域の探査』であるから、輸送力を必要としないのは当然としても、それを言うなら機動力も必要ないだろう。浮揚軽量車エアロスピーダーのような高速車両──車輪が無いのだから〝車両〟ではないが──を使わずとも、降着車輪ランディングギアでそのまま地面も走れる汎用の地表降下機〈ブラック・タートル〉で事足りる筈だ。探査区域が広範囲にわたる──あるいは区域が、さまよえる湖のように移動している? ──ということならまだ分かるが、探査場所は今、眼前の巨大スクリーンにデカデカと表示されていて、緯度経度高度共に位置情報は特定済みである。つまり、最悪、機器を設置するための小型車両さえあれば事足りる。いや、探査用のセンサーを自走式にしてしまえば、それすら要らない。〈マンタ・レイ〉からセンサーを放ってしばし待ち、データを習得してから悠々と引き上げればよい。これなら、俺の彗星水汲み作戦ファースト・ミッションと同じく、操縦士と副操縦士──あとは探査作業を行う魚崎だけ居れば済む仕事だ。バックアップを考慮しても5名程度。むくつけき男が総勢14名も出向く仕事じゃない。


やはり何か裏がある。そう考えるのが自然だ。ちなみに、この場で裏事情を話せないのは、この作戦会議ブリーフィングが公式のものであり、国連加盟の各国担当者が何時でも見る事の出来る映像資料として保存されるからだ。実際、今この場においても、その筋のお偉方と思われる人々がオブザーバ席でふんぞり返っている。にじみ出ているオーラが明らかに違うので、直ぐにそれと分かるし、それ以前に彼らはそのことを隠そうともしない。むしろ、積極的に自国の監視の目をアピールしに来ているという風体ふうていだ。同時に、共和国政府の代表も来ていて、不機嫌そうにその光景を見ている。どのみち狸と狐の化かし合い。こんな場で、裏向きの──実際はそちらの方が表なのだが──任務ミッションが語られる筈がない。そういう事実は、作戦オペレーション開始後、いくつかの煩雑はんざつ定型作業セレモニーと基地局との公式通信が済んでから、作戦参加要員だけに語られることだ。小隊長殿おやっさんの、

『まぁ、気づいているとは思うが──』

から始まる一連の言葉で、本当の作戦会議ブリーフィング──いや、作戦司令コンバットミッションが下される。

いやぁ、行きたかったなこの作戦オペレーション。絶対に面白そうじゃ無いか! 残念だ。非常に残念だ。もしかすると俺は、実は意図的に外されたのかもしれない──なんて思った。何となくそんな予感がした。だとしたら何の為に?

いやまあ、置いてけぼりを食らったヒガミ根性から出た感情だ。聞き流してくれたら幸いだ……。


        *  *  *


「GPS高度計アルティメーターセット確認。無線周波数セット完了。〈レッド・ランタン〉聞こえるか?」

「〈レッド・ランタン〉より、〈マンタ・レイ〉一番機へ。短波およびレーザー相互受信に問題はありません。衛星経由通信も確認。全て正常オール・グリーンです」

「このまえみたいに、EUの予備衛星が死んでたりしないの?」

「大丈夫です。異常箇所は遠隔で焼き切って修理済み──と報告が入っています。通信試験も3日前に終了しました」

了解ラジャー。手回しいいね。えーっと、搬入口クローズ&ロック、チェック」

「チェック」

「緊急脱出装置有効設定オートマティック大気房バロネットセンサーチェック」

「チェック」

方向舵ラダー昇降舵エレベーター──動いてるな。〈レッド・ランタン〉そっちは?」

「モニターで確認しました。問題ありません」


作戦オペレーション当日──要するに、作戦会議ブリーフィングの翌日。湊川のヤツ──何だか楽しそうである。あいつが楽しそうであればあるほど、俺はモヤモヤしてくるので、本当ならば発着場脇の管制室など来る気は無かったのだが、いわゆる予備クルーとして降下を見届ける責務がある。仕事の一環だから仕方が無い。まあ、みのりちゃんのテキパキとした受け答えを見に来たと思っておこう。いつもはここから飛んで行くばかりで、ディスプレイ越しの表情と声しか聞けないのだから、たまには送り出す側になるのも悪くあるまい。

──そう考えないとやってられない。


そうこうしているうちに、巨大な〈マンタ・レイ〉はゆっくりと滑走を開始する。いや、ゆっくりではない。機体が大き過ぎて距離感が狂うのだ。〈マンタ・レイ〉も〈ブーメラン〉と同様、硬式ハイブリッド飛行船という部類に属する。いわゆる、重飛行船というやつだ。飛行船と名前がついているは言え、船体の比重は周囲の大気より重く、ガスの浮力だけで浮く事はできない。さらに、ヴィーナス・アタック用に調整された機体は、地表面の90気圧まで対応できるように、ヘリウムガスではなく大量の窒素ガスが封入されている。高度10キロメートル以下──気圧にして50気圧以上──で周囲の大気と釣り合うように最適化されていると考えればいい。そのため、空重量であっても最大積載の貨物を満載した輸送機並に重い。離陸時に思わず腰を引いて操縦席を座り直してしまうくらいに重いのだ。もっとも、最悪、滑走路の端から〝突き落とす〟方法でも離陸は可能だ。それをと言っていいかどうかは別にして。

それにしても巨大な機体だ。炭素繊維強化プラスチックCFRPの骨組みとカーボンナノチューブCNT繊維で作られた船の全長は900メートル。翼端にいくほど急激に翼弦コード長が減少する独特な形状フォルム──〈マンタ・レイ〉という名の由来でもある──の翼幅よくふくは1キロメートルにも達する。

形こそ違うが、地球上では成層圏上に、同規模の軽飛行船が数機浮かんではいる。だが、眼前で見る機会はほとんどない。誰もそんなところに住もうとしないし、住める環境でもないからだ。一時期、この飛行船モドキを母体とした成層圏プラットホーム構想とか流行ったのだが、構想は構想のままで終わってしまっている。地上に住めるのに、わざわざ空中都市を作る必要は無い──意外と、地球の人々はドライで現実的なのだ。

これが金星の場合、否が応でも空中に住むしか方法がない。そういう背水の陣がなければ、人は動かないということらしい。逆に言えば、そういう困難な場所に降り立っても、人間は、それはそれで何とか対応してしまうものらしい。

次第に離れて行く〈マンタ・レイ〉に対し、醒めた目で手を振りながら、俺はそんなことを考えていた。湊川のヤツは律儀にも、管制塔の上を一周してから、機体を左右に揺らして〝バイバイ〟してから潜航していった。機体がデカ過ぎて翼のしなりが脈を打って何度も往復するのが見える。〝バイバイ〟は滑走路スレスレの管制塔脇で行うのが慣例というか度胸試しになっている。あんまり近過ぎると後で怒られるのだがな。


潜航後、〈マンタ・レイ〉は直ぐに見えなくなった。晴れることの無い雲中を進む船だから、直ぐに消えてしまうのは当然なのだが、見送る側のことも少しは考えて欲しい。レーザー光で軌跡を造るとかの演出はどうだろうか?

まあ、そんな悠長なことを考えていられるのは、俺が本作戦に直接は参加していないからだ。みのりちゃんは、出て行く〈マンタ・レイ〉を肉眼で見ることなく、インフォメーション・ディスプレイを凝視して、指示を出し続けている。補助の割にはメインで頑張ってるな。最初から気合いを入れていたら、途中でヘタるぞ──と思う。

ヴィーナス・アタック──つまり、金星地表面への降下と一言に言っても、〈マンタ・レイ〉は静々しずしずと真下に沈むわけじゃない。スーパーロテーションと呼ばれる秒速100メートルの東風による移動もあるが、そもそも降下地点は南緯16度のセレス・コロナCeres Corona周辺だ。赤道を跨いで南半球に行く必要がある。どんなに急いでも8時間程度の時間はかかる。さらに、風に流されながらの移動だから、ピンポイントで降りられる保証は無い。作戦時間が遅れて、降下可能領域を行き過ぎてしまうと、風まかせでもう一周ということも考えられる。高度が下がればそれだけ気流も弱くなるが、高度30キロメートルでも風速は秒速30メートル。地球上のジェット気流並の速度だ。下手に逆走するよりは、余裕をもって巡回した方がいい。〈マンタ・レイ〉は、地表に近づくほど浮力が増し、航空機としての側面は減り、より飛行船的な機動に近づく。さらに降下を続ければ、要求される機能としては潜水艦に近くなる。事実、地表付近で最も憂慮すべき事故は圧壊あっかいだったりする。まあ、どちらにせよ、浮かんでいるだけならモーターを止めて昼寝をしていても支障はない。

ただ、考慮すべきなのは水平方向の風だけではない。降下するとなれば、上昇流・下降流も考えねばならず、事態はより複雑だ。モーター駆動のプロペラは腹部に並んで4機、上面後部に2機。全て推力偏向制御TVC付きである。これら推進機の役目は姿勢制御用と考えた方がいい。要するに、風に逆らって飛ぶほどの出力は無いと言うことだ。そもそも、プロペラ数だって〈ブーメラン〉の8機よりも少なく、機動力はハナから期待されていない。こんな鈍亀なヤツが敵に見つかったら、相手がハチドリ並に小型なヤツでもアウトだ。ハチドリは言い過ぎかな。


もっとも──敵などいない筈だが?


レーダーで捉えられるだけとなった〈マンタ・レイ〉は、次第に南東へと進路を変える。実際は降下しながら南に全速前進なのだが、下降するに従って東風が弱くなるから、相対的に〈レッド・ランタン〉より東に進む。正確には、〈レッド・ランタン〉の方がより速く西に進んでいるということで、地上基準にすれば、どちらも西に流されていることに変わりはない。地上座標と座標とがごちゃごちゃになるから、どうもややこしい。ついでに言うと、高度の表現に関しても、30キロメートル──三万メートル以下の表現ではフィートを使う事も多く、これまたややこしい。

〈マンタ・レイ〉はこれから、アフロディテ大陸の極東部上空からマアト山付近で赤道を超え、一度ルサルカ海──海と言っても水は無いが──に出てから、ダイアナ渓谷の先、セレス・コロナへ向かう。ルサルカ海上空で、地上からの高度30キロメートル、マイナス20キロメートルで雲の下に出る。そこからの眺めが素晴らしい──らしいが、モニターで見ただけの俺はどうもピンと来ない。金星の荒涼とした大地をこの目で見ないと、やはりこんなトコまで来た意味が無いという気がする。実際は荒では無くて、荒──いや、荒ではあるが。ちなみに、高熱ではあるが、熱では無い。金星の地表面は、晴れることの無い厚い雲の下にあり、地球でのどん曇りのように常に薄暗いのである。この空域に〈マンタ・レイ〉が至るまでに、優に3時間。それまでは風速の実況と予報を見て、管制室と連絡を取りながらの微調整の降下が続く。実に面倒な作業だ。

雲下の金星地表面を眺めてみたい気持ちは当然あるが、この手の──風を読みながらの操縦はどうも嫌いなのだ。9割は風任せ。制御出来るのは、残り1割しか無い。だから、一度タイミングを逸すると、取り返しが難しい。合気道みたいなもので、相手の力をほとんど借りるため、腕力は要らないが、間合いに関しては的確な判断が要求される。決して、苦手なわけじゃない。単に、嫌いなんだ。俺はどちらかというと、推力任せの強引な方が性分に合っている。合気道よりはボクシング──それもヘビー級だな。


3時間後。基地内でだらだらとブランチを食べ、そろそろ雲を抜ける時間だなと暇つぶしに管制室に顔を出すと、みのりちゃんは管制官の任を解かれていたが、別の作業をしていた。浮遊基地フロート・ベースと呼ばれる直径10キロメートルの半球状の風船──無人空中停留所の遠隔操作だ。無人と言ってもそれなりの人工知能AIを備えた設備で、普段は自立的な行動で移動している。彼ら──100機は超えていたと思うが──は、主に雲底直下の位置に適度な間隔を保ちながら漂っている。居住区のある空抜0メートル、0.7気圧面高度と、高熱の地表面との中間地点にあたるこの場所は、10気圧、気温230度程度。生身で外に出るのは無理だが、地表にアタックをかけるか、それとも一旦引くかを判断をするには丁度いい場所だ。逆に、地表面で何かあった場合、緊急避難としてここまで上がってくれば何とかなるだけの設備は整っている。正に、ベースの名にふさわしい。

〈マンタ・レイ〉はルサルカ海上空で、赤道帯の12番浮遊基地フロート・ベースとランデブーする予定になっている。そいつの人工知能AIに指示を出しているのが、現在のみのりちゃんの仕事のようだった。俺としては、何にも手伝えないのがもどかしいのだが、みのりも手伝って欲しいとは思っていないだろう。

陸に上がった漁師が只の呑んだくれのオヤジになってしまうように、出撃していない操縦士パイロットは手持ち無沙汰ぶさたでやるせない。浮遊基地フロート・ベースの操作は遠隔とは言え、まがいなりにも〝飛行物体〟を操縦しているわけだから、俺にだってできるんじゃないかな? ただ──、機動力も何もあったもんじゃないから、〈マンタ・レイ〉以上に操縦はつまんないだろう。やっぱり、口出しするのは止めておこう。餅は餅屋ということで……。


管制室にある無数のモニターの一つ。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像に、黒い点が見え始める。同時に、うっすらと地上の風景が、ベールを剥ぐように現れてくる。そうは言っても、うす黄色い大気を通して見る岩だらけの大地だ。目の保養にはならない。みのりちゃんの眼前にあるモニターには、その逆の光景が映し出されていた。つまり、何も無い黄白色の雲間から、キラキラと光る機影が見えて来てくる。〈マンタ・レイ〉の機体は、上下動での温度変化を極力避けるため、多くの輻射を反射するように銀色にコーティングされている。12番浮遊基地フロート・ベースとのランデブーは時間的にはほぼピッタリ。気流の予測もそれほどは外れなかったらしい。過度な乱気流タービュランスの報告も上がってなかったし、ほとんど、オートパイロットだけで済んだんじゃないだろうか?

操縦士パイロットでもないヤツは『今回の飛行は楽でよかったな』なんて言葉をかけるのだろうが、突発的な事態に備えてモチベーションを維持し続ける労力は、周囲の気象状況の様相とは直接は関係が無い。事故の多発地帯は、飛行が危険な状況下では無く、そこを切り抜けた後に多いのも周知の事実。特に長時間飛行の場合、事件イベントが何も無いより、数十分おきに何かあったほうがいい。何も無いと、逆に精神的にグッタリする。そういう意味では、最初から最後まで手動操舵の方が、肉体的にはともかく、精神的には楽だ。

〈マンタ・レイ〉の銀色の機体とは対称的に、常に黄白色の雲海下にある浮遊基地フロート・ベースは、下から見上げた時に視認しやすいよう真っ黒である。赤道帯12番浮遊基地フロート・ベースは、かなり年期が入ったベースで、硫酸雨によるスジが、無数に走っている。そう言えば、みのりちゃんは、作戦会議ブリーフィングの後、このベースのことを『禾目天目のぎめてんもく茶碗みたい』とか何とか言っていたが──なんだそれ? という反応しか、俺は出来なかった。まあ、確かに、茶碗のようではある。もっとも、茶を入れるべき碗の上部は平らになっていて、そこに離発着する構造だから、フタが被せてあるようなものだ。ここだけは白っぽい灰色となっている。茶碗として見るなら──なるほど、少し緑がかっている。

そのフタの上、〈マンタ・レイ〉はさして苦労することなくフワリと舞い降りた。多少はが増したらしい。しばらくはここで休憩。機体に異常がなければ、再降下地点まで東風で運ばれた後、地表面へとアタックをかける。


「さてと……」

俺は、管制室の隅っこに陣取り、〈マンタ・レイ〉との通信回線を開いた。公式ではなく、どちらかというと裏口バックドアの回線。出撃前に湊川に聞いておいたものだ。そのままだとバレバレなので、そこから暗号化して、無線で仮想閉域網VPN接続。個人端末から入り直す為に、管制室を出て、一旦向かいの控え室に入る。

「よお。元気か──」

俺は、湊川に声をかける。

「退屈だったよ。もうもうとしたところを西へ西へと。──途中で引き返そうかと思ったぜ」

「なんだそりゃ」

「落語のネタだよ」

よく分からんことを言う奴だ。

「それはそうと──」

俺は早速、本題に入る。

「──今回の作戦の本当の目的はなんだ?」

「あん?」

小隊長殿おやっさんは何て言ってた?」

「……調査だよ。調査。岩石のな。お前も聞いてただろ?」

「……そうだったな」

湊川はあくまでもシラを切るつもりだ。まあ、俺が反対の立場でもそうするだろう。おおっぴらに出来ない機密事項だからこそ、作戦開始後に知らされる。もしかすると、小隊長殿おやっさんすら出撃前には知らなかった可能性もあるな。出撃後に開封すべき司令とか暗号とか、まあ、そういうものは多い。敵をあざむくにはまず味方から。大抵の機密は、敵スパイの諜報活動ではなく、味方から労も無く漏れるのが通例だ。

ここは、質問を変えてみるべきだな。

「〈マンタ・レイ〉はセレス・コロナCeres Coronaの上空で待機なのか? それとも、地上まで降りるのか?」

〈マンタ・レイ〉の巨体を地面まで降ろすには、平らな場所を探さねばならない。単に人が降りるだけでよければ、〈マンタ・レイ〉を中空に浮かせ、汎用の地表降下機〈ブラック・タートル〉で降下すればいい。浮揚軽量車エアロスピーダー装甲兵アーマードソルジャー隊も出番はない筈だ。ただし、それだと急襲は不可能になる。

「降りるさ。──だが、セレス・コロナCeres Coronaまでは行かない」

「何だって?」

「近づき過ぎるとな──噴火するそうだ」

「ほほぉ。初耳だな……」

金星には地球と同様、活火山がいくつか存在している。マグマが流れた地形も多い。それは知っているが、セレス・コロナCeres Corona周辺に火山は無い。妄想をたくましくすると、〈マンタ・レイ〉を敵の砲火の届かない場所に降ろすという意味にもとれる。

「──となると、調は、装甲兵アーマードソルジャー隊2分隊が浮揚軽量車エアロスピーダーに乗って行くってことだな」

「少し違うが、まあそんなとこだ。上沢──お前の出番は無い。無い方がいい」

「……そうか、それは残念だな」

地上戦のみで空爆は必要ないと言うことか? 急襲ではなく潜入なのかも知れないな。


湊川との会話はそれっきりで、浮遊基地フロート・ベースのラウンジに行くと言って回線を切ってしまった。浮遊基地フロート・ベースは底面に、ラウンジも含め、環状の展望台を備えた待機設備がある。茶碗で言うところの高台こうだいに相当する部位だ。ここは通常は無人だが、避難所として数千人が数日は泊まれる備蓄がある。医療設備や空抜0メートルの空中都市へ向かうための緊急脱出用シャトルなども装備されている。仮眠を取るなら〈マンタ・レイ〉の中では無く、ここに降りた方が断然いい。

セレス・コロナCeres Coronaまでは行かないということだから、精々2時間程度の休息時間だろう。微妙だな。寝るとかえって疲れる。コーヒーでも飲んでリラックスするのが一番か。まあ、休息の取り方は人それぞれだからな。


俺は自室に戻って、セレス・コロナCeres Corona周辺の地形を探っていた。一応説明しておくと、コロナとは金星特有の円形状の丘のことで、直径は数十キロから数千キロにも達する。何故そんな地形が存在するのかは、実はよく分かっていない。地下のマグマの上昇で出来たというのが、一番もっともらしい説だ。作戦会議ブリーフィングであの魚崎がそう言っていた。大小あるコロナの中でも、セレス・コロナCeres Coronaは直径が600キロメートルを優に超えており、大きな部類に入る。もっとも、金星で最大のアルテミス・コロナArtemis Coronaは2600キロメートルもあるから、それに比べれば幼児並に小さい。

〈マンタ・レイ〉の本当の着陸ポイントはどこだろうか?

セレス・コロナCeres Coronaまでは行かない』という湊川の言葉は大きなヒントだが、着陸ポイントの推測範囲も数百キロ単位に広げて考えなきゃいけない。だが、浮揚軽量車エアロスピーダーも長距離の運用は無理だし、そもそも、小型機の地表面移動には、何らかの冷却装置を背負って行く必要がある。だから、母船となる〈マンタ・レイ〉から大きく離れての運用は最初から無理なのだ。

身も蓋もないことを言えば、『誘導しているみのりちゃんに聞けばいいじゃないか?』──と言うことになる。だが、ああ見えて機密性2以上の事項は、命令者の許可無しには絶対に喋らない。どれだけ相手が〝身内〟であってもだ。特に今回、俺はこの作戦から外されているわけで、どんなに口説いても教えてはくれないだろう。今のところ、管制室への立ち入りが制限されているわけではないので、後ろから見ていれば、いずれはその全貌が明らかになる筈だが、それだと──えーっと、この〝ゲーム〟に負けたような気がする。


ゲーム。そう、この頃はまだ余裕があった。単なるゲームだと思っていた。


強襲だの急襲だの言っているが、全ては言葉のあやである。金星に持ち込める武器は、拳銃やアサルトライフル、精々重機関銃までの、歩兵が携行所持する小火器のみだ。地球上であれば、地上戦においては危険な武器だが、金星の地表では脅威とならない。理由は簡単で、そもそも、が、小銃一つで出歩けるような環境では無いからだ。金星の地表で活動する場合、装甲服アーマードスーツを装着した装甲歩兵が最小単位である。そして、彼らに機関銃を撃ち込んだとしても穴が開く事は無い。その程度で穴が開いていては、金星表面の過酷な環境に適応出来ない。それ以前に、例え小火器を携行したとしても、うまく作動しないか、暴発するだろう。何しろ外気温で鉛は溶け、火薬は自然発火する温度である。銃弾の鉛が溶けてしまっては話にならない。

また、どこからか武器が横流しされていて、ロケットランチャーなど、あり得ない攻撃を食らうということも、地球上なら考慮すべきだが、ここではそれもあり得ない。地球からの物資輸送は、基本的に3ヶ月に一度の軌道間輸送船OTVしかない。荷揚げの際には、各国の検査官が立ち会う。金星に基地を持つ全ての国の検査官が立ち会っているから、特定の国同士が結託して密輸を行うような余地は全く無い。そもそも、軌道間輸送船OTVは往復で半年の間宇宙空間を漂っているのだから、その段階でも全ての積み荷は再度チェックを受けている。武器製造に関わりそうな機器類も、武器貿易条約ATTの何とか条項で、輸送が厳しく制限されている。

要するに、金星の地表でドンパチするのは、物理的にも、法律的にも無理──一言で言えばそういうことだ。どちらかと言えば、管制室があるこの空中都市の方が危険だということになる。少なくとも、空中都市の居住区内部は生身の人間が歩けるスペースがあるのだから、発砲事件やクーデターが起こるとすればここである。


「さてと……」

まさか今から2時間も管制室内を熊のようにウロつくわけにはいかない。ともあれ、2時間あれば結論が出る問題なのだ。俺はとりあえず、そのまま自室にこもる事にした。謹慎中の身だしな……。


        *  *  *


アラームが鳴っていた。どうやら俺は、自室のベットで仰向けになった瞬間に寝てしまったらしい。床にスッ転がっている目覚まし時計を見つけ出し、頭のボタンを張り手で止めた──が、まだ鳴っている。いや、待てよ? これは、この部屋から鳴っているのではない。俺の知っている目覚ましの音じゃないし……。

寝ぼけていられたのはそこまでだった。こいつは緊急を知らせるアラームだ。先ほどぶっ叩いた目覚まし時計を引っ掴み、時刻を確認すると、あれから1時間半が過ぎている。〈マンタ・レイ〉御一行は、未だ浮遊基地フロート・ベースでお休み中の筈だ。

ベッドから跳ね起き、ドアを開けると、アラーム音は更に大きく鳴り響いている。急いで管制室へ飛び込むと、既に緊急事態エマージェンシーを知らせる表示があちこちで点灯していて、オペレータが銘々に対応している。それを取り囲むように、バックアップ組の操縦士パイロット航空士ナビゲーター、1分隊残った装甲兵アーマードソルジャー隊の面々が集まりそれを眺めていた。要するに、俺が最後の参集者だったようだ。緊急出動スクランブルがあるとすれば、主操縦士メインパイロットは俺だと言うのに情けない。

ただ、言い訳をするなら、緊急参集エマージェンシーアセンブリの場合、各人が個別に付与された緊急参集アラートが鳴る。神経を逆撫でするような独特の音色だから聞き間違える筈はない。そしてアラートに対して一分以内に返答しなければ、あらゆる手段で連絡が来る。現実には、管制室は目と鼻の先なのだから、ドアを蹴破られても文句は言えない。そんな状態でのうのうと寝ていられるわけないだろう。だが、今回はその連絡が無かった。お呼びがかかる程の非常事態では無いのか?

残念ながら、俺はまだ金星ここに来たばかりで、管制室各人の名前も作業内容もよく分かっておらず、状況が直ぐには飲み込めなかったのだが、一点だけ──正面のメインディスプレイを見て直ちに分かった事がある。


浮遊基地フロート・ベースが──無い! 直径10キロメートルもある半球状の風船の姿が、着艦中の〈マンタ・レイ〉ごと無いのだ。


むろん、モニター類に──のではない。管制室に届く映像は、現地のカメラからのものだ。カメラそのものが消えてしまえば、そこに映る映像がある筈も無い。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像も、浮遊基地フロート・ベースの無数の監視映像も消えている。双方のカメラが同時に故障する確率は──いや、そんなことを考えなくても、浮遊基地フロート・ベースが消えているという事実はわかる。浮遊基地フロート・ベース自身が個別に出しているアクティブ型の基地識別信号が出ていないのはもちろんのこと、各浮遊基地フロート・ベースが相互にやり取りしている位置情報網からも、12番浮遊基地フロート・ベースは見えなくなっている。さらに宇宙から赤外チャンネルで監視している衛星から見ても消えているのだ。1時間半前までは疑いなくそこに存在した巨大な施設が綺麗サッパリ消え失せている。


俺はみのりちゃん──いや、伊川軍曹の方を見た。彼女は必死で、だが冷静に、〈マンタ・レイ〉のクルー、すなわち地表降下部隊アタッカーズを呼び出していた。眼前のディスプレイには小隊長殿おやっさん以下、14名の顔写真が浮かんでいたが、ヘルメットのカメラ、音声、ボディスーツに取り付けられた各種センサー類の信号は全てNo Signalとなっている。一般人が傍目から見れば、これは最悪の事態だと思うだろう。だがこの場合、最悪一歩手前だ。みのりが名前を呼び続けていると言う事は、生存の可能性が絶たれたわけではないということを示している。仮に〈マンタ・レイ〉が浮遊基地フロート・ベースごと爆発したなどという事態であったならば、クルーの名前が呼ばれことは無い。それに、そうした状況で、緊急参集エマージェンシーアセンブリがかからないわけがない。

何が起こったのか聞きたかったが、そんな雰囲気ではなかった。現在の小隊を束ねるのは、副隊長の谷上中尉になるのだが、何やら難しい顔をして、ホットラインの赤電話──繋がる先は共和国政府の中枢らしい──の真っ最中なので、話を聞ける状態ではない。もちろん、主席飛行管制官、伊川軍曹を含む次席級の管制官3名に、発着オペレータ、運行管理官等々……。管制室勤務の10名程がそこにいるのだが、みのりちゃんを除きほとんどインカム越しにしか会話をした事がない。

出撃する側とさせる側とは、明らかに仕事の内容も隊員の気質も違う。むろん、同じ釜の飯を食う仲間であり同僚なのではあるが、双方の立場の違いから、しばしば対立もする。そういう場面では、常に小隊長殿おやっさんが良い立ち回りをしていてくれた。当然ながら、今ここにはいない。

我々飛行機乗り組は管制室の異常な空気を感じてはいたが、遠巻きに眺めているだけ──いや、それで良いわけが無い。


谷上中尉の電話が切れるや否や、同僚をかき分け、俺は中尉の前に歩み寄った。駆け寄ったと言っても良い。こういう馬鹿な役目は俺の仕事だ。

「バックアップ組で捜索に行きます。許可を!」

空っぽの頭で、口から出た言葉がこれだった。理由も状況も分からんが、地表降下部隊アタッカーズ忽然こつぜんと消え、連絡が取れなくなったのは間違いない。

谷上中尉は、座ったままあごの前で指を組み、上目遣いで俺を見た。

「捜索は、南緯20度帯20 Degree Southのロシア隊が既に展開を始めたそうだ……」

確かに、セレス・コロナCeres Corona周辺に向かうには南緯20度帯20 Degree Southからの方が近い。北半球にあるこっちの基地と違って、気流の不安定な赤道をまたぐ必要もない。だが、しかし──。

「消えたのは我が隊です。捜索の先発隊として彼らに頼むのは分かりますが──」

「──頼む? 頼んでなどいない」

「は?」

谷上中尉は指を組んだまま、忙しなく人差し指を動かしている。小隊長殿おやっさんとは正反対で、神経質なインテリタイプ。俺としては、ちょっと苦手な相手だ。中尉は続けた。

「予定調和だったようだな──」

「どういう……ことですか?」

中尉はインテリではなく、実際にインテリである。たまに言っていることが分からない。

「つまりだ──」

中尉は小声でささやいた。

「──ハメられたってことだよ」

『誰に?』と聞こうとしたが、その答えは向こうからやってきた。


「本小隊の責任者は誰か?」

「現在は、小職ですが……」

谷上中尉はゆるりと立ち上がり、敬礼をした。俺が後ろを振り返ると、2メートルはあろうかと思われるゴツい体格の将校オフィサーがいた。腕の筋肉が付き過ぎで、両手が真下に下りていない。平らに均された拳頭や、いい色に膨れている耳の形からして、武闘派でかなりの手練てだれと見える。格闘ゲーム以外では戦いたくない相手だ。だが、幸いにも声の主はそっちではない。壁のようなその大男の前に、彼よりもふた回り程小さい、背広組と思われる女性がそこにいた。ブラウンに近い金髪に赤いセルフレームの眼鏡。バーで会ったのなら口説いていたかも知れないが、今はとてもそんな状況ではない。二人とも共和国直轄軍の服装をしている。

ただし、男の方は、〈レッド・ランタン〉駐在部隊──開発援助国DACの行動監視役のために派遣された現地駐在部隊所属で、女の方は、政府司令部から直々にお出ましのエリートだ。襟元の微妙な違いでそれが分かる。


この女、どこかで? ──と思った瞬間に思い出した。ヴィーナス・アタックの作戦会議ブリーフィング。国連加盟の御歴々おれきれきの面々に混じって一人、腕組みをして不機嫌そうに見ている彼女がいた。その時は、誰かの秘書か何かだろうとそれほど気にも留めなかったのだが──、なるほど。そういうことか。

彼女は谷上中尉に対し、ピシリと敬礼をした。中々堂に入っている。

「本件は我々が捜査します。管制室のシステムは現状のまま停止。全データは我々が預かります」

彼女の声が、自動翻訳機トランスレーターを通して伝わる。実際に喋っているのは英語なのだが、独特のなまりがある。ひょっとすると母国語ではないのかも知れない。まあ、今時、母国がどこかなんて、血液型が何であるか程度の意味の無いことなのではあるが……。

「ちょっと待ってくれ!」

つい声が出た。とりあえず厄介事を目にすると口を挟まずにはいられないのが、俺の悪い性分だ。彼女がこちらを見るのはいいとして、後ろの大男の睨みが半端なく鋭い。

「今遭難しているのは我が小隊のメンバーだ。我々が捜索に加わるのがスジってもんだろ」

理由の無い怒りが込み上げて来た。──いや、理由はある。何が何だか分からないうちに、無関係な奴らにその捜索の手かがりすら押さえられようとしている。何が起きたのかくらいは知る権利がある筈だ。

「遭難?」

彼女はセルフレームをくいっと上げながら、目を細めてそう言った。その後方、吽形うんぎょうの仁王像の様な大男は、ギロリと俺を見下ろしている。

「はっきり言いましょう。これは重大な国際協定違反だと、我々は考えています。本小隊指揮下の地表降下部隊アタッカーズセレス・コロナCeres Coronaでは無く、〝遺跡〟に向かっている。そうではないのですか? 上沢少尉。貴方にはその情報を提供した嫌疑けんぎがかかっています」

「なっ⁉」

俺の動揺を気にも留めず、彼女は半身を右に回し、こう続けた。

「それと、もう一人。伊川軍曹にも話を聞かねばならないでしょう」


彼女が何を言っているのか分からなかった。それよりも、何故俺の名前を知っている──っていうか、俺が何をした? 今回の作戦で、一番、蚊帳の外に置かれていたのが俺だぞ? そして、伊川軍曹──みのりちゃんは、額に銃口を突きつけられたかのように凍り付いた表情で目を見開いている。

混乱しているところで、後ろから副隊長──谷上中尉が前に出て、俺と彼女の間に入る格好となった。

「話は先ほど司令部からお聞きしました。指揮権はお渡しします。嫌疑が晴れるまで調べて頂いて結構です」

「そう言って頂けるとありがたい。我々も手荒な真似は避けたい」

双方、穏やかな口調だが、決して気を許しているわけではない。すぐ感情が顔に出る俺には出来そうも無い芸当だった。俺はその間、相も変わらず混乱し、その混乱を押さえるため、仮想敵として大男とにらみ合いをしていた。

「ただ──、」

谷上中尉は付け加えた。

「──地表降下部隊アタッカーズを優先して頂きたい。その為の協力なら惜しみません」

彼女はまたも目を細めたが、今度は少し口元が笑ったような気がした。

「協力の申し入れに感謝します。一刻も早く彼らを発見し、基地に引き揚げさせることを約束しましょう」

「お願いします」


話はそこまでだった。彼女が左手を上げ、軽く前に振った。大男の後ろ側。管制室の入口には、5~6名の捜査員とおぼしき面々が列を作っていた。軍隊上がりという感じでは無く、どちらかと言うとディスクワークが得意そうな奴らだった。

管制室は管制業務ATC: Air Traffic Controlの面々だけでなく、地表降下部隊アタッカーズのバックアップ組も自主的にここに駆けつけていたため、あらかた満杯だった。谷上中尉の『各人自室で待機』の号令のもと、まずは我々が外に追い出される形になった。俺とみのりだけを残して。


俺とみのりは、そのまま、階下の計器飛行室IFRルームに連れて行かれた。文字通り連行されたわけだ。後ろ手に縛られているわけではないから、あくまで任意の事情聴取。を受けた時は少しばかり驚いたが、心にやましい事など何も無いから平気だ。そもそも、俺は嘘をつけない性格だし、嘘をつこうとも思わない。もっとも、『別に言わなくていいだろ』と思ったことを、結果的には隠すことになる場合はあるかも知れないが、それすら〝黙秘権〟の行使なわけだから、自然に振る舞っていれば、何ら罪に問われる事は無い。ただ、問題はみのりちゃんだ。既に涙目になってオドオドしている。真面目過ぎるからなぁ──彼女は。

計器飛行室IFRルームは非常時に管制室の代わりとなるメイン室と、最低限の装置だけあるサブ室の2つあり、俺とみのりちゃんは別々の部屋へ連れて行かれた。俺の方は、司令部直属の女。階級章はあるものの、文官のソレは俺には分からない。おそらく、彼女から官職名を聞いても、その官位がどの程度のものなのか分かりそうも無く、それを聞いたところで何の役にも立たない。ただ、例の大男は大佐だったから、それを従える程度の地位であることは間違いない。共和国直轄の司令部付文官と地方駐在部隊所属の武官とでは、それ以上に格が違うのかも知れないが……。

みのりちゃんは──大丈夫かなぁ。その大男が相手なのだが。


        *  *  *


「さて、少尉。聞きたいのは他でもない──」

「ちょっと待った」

室内奥の作業スペース──普段はここで茶菓子を食っていたりする──の床から椅子とテーブルを立ち上げ、席に付いた途端、性急に話を切り出した彼女を、俺は右手のてのひらで制した。相手がどんなお偉いさんか知らないが、話には順序ってモンがある。


「アンタは俺の事をよく知っているようだが、俺はアンタのことを全然知らない。これは不公平じゃないか? それに……これは何の〝取り調べ〟だ? 俺は金星ここに来たばかりでよく知らないが、緯度帯毎に担当する国が違うということは聞いている。それぞれにそれなりの自治権があるから、コイツは少々越権行為過ぎないか?」

自治権に関してはかなりグレーだ。共和国の司令部と地域駐留部隊──それも我々みたいな開発援助国DACとで、どちらの権利が優先されるのかは、正直よく分からない。だが、そんな建前は糞食らえだ。何の嫌疑けんぎか知らないが、仲間の隊員13名と、おまけについて行った魚崎って野郎も含めて14名が行方不明だって時に、取り調べなんて悠長なことをしているのに腹が立つ。まずは総力挙げて捜索し、見つかってからじっくり取り調べればいいだろうに。

──ともかく、俺は今、非常に不機嫌だ。


「これは失礼。そう言えば、そうでしたね」

彼女はそう言うと、自動翻訳機トランスレーターを外し、こう言った。にっこりと笑みを浮かべながら日本語で。

「私の名前は、ソフィアСо́фьяヴォルドリンВолдорин──ソーニャСо́няでいいわ」

拍子抜けだ。折角の敵対心が腰砕けになってしまった。

「──で、俺に何の用がある?」

とりあえず不機嫌そうなフリは続けてみる。

「御影恭子のことが聞きたい……」

「はぁ?」

またか。またアイツの話か。俺はアイツの代理人でも付き人でも、ましてや恋人でもなんでもない。何故、皆、俺に聞きたがるのだ。

「その話は、この前のじけ──いや、事故の公聴会で何度も聞かれた。議事録ログを当たってみてくれ」

「それは、ここに到着する前に全て読ませてもらったわ」

「そうか。それなら、俺から言える事は、それ以上何も無い」

「そんなことは無い筈──」

ソーニャは両肘をテーブルについて手を組み、小首を傾げながらあごを載せた。疑り深い目がそこにある。何と言うか、とてもキュートだ。

──いや、そうじゃない。そういう話ではない。

「まさか、アンタも『機体洗浄庫で何を話した?』とか言うんじゃないだろうな?」

「その通りよ。どうして分かったの?」

──やっぱりだ。まさかとは思ったが、やっぱりだった。ソーニャはますます疑いの眼差して見ている。そりゃそうだ。聞きたがっている事柄を一発で言い当てたんだから、何か隠していると思うのは当然だ。だが、逆に考えれば分かる事だが、もしも本当に隠したい事だったら、わざわざこちらから言う分けないだろ。少しは気付け!

「何度も何度も聞かれたからさ。しかし残念だったな。特に何も話してない」

嘘をつくつもりは無かったが──みのりちゃんから聞いた話では、御影恭子は公聴会の席で『特に何も』と答えている。まあ、その気持ちは分かる。硫酸雨が降るという金星なら当たり前の現象を知ってか知らずか、その硫酸で溶けてしまうような服を着てスカイダイビングをしたのだ。

命が危なかった云々ではなく、これは自己の危機管理の問題で、かなり〝恥ずかしい〟出来事だろう。登山をするのにハイヒールで来たような、海水浴で水着を忘れたような──まあ、そんな感じだ。見栄みえ切ってダイブしたのにそのザマだったんだから、ちょっと格好がつかない。ここで俺がベラベラと喋ってしまったら、『なんだあの野郎、恥をかかせやがって!』と嫌われること請け合いだ。

別に嫌われたく無いってわけじゃない──ふむ? 嫌われたく無いのかな? まあ、どうでもいい。ともかく、ここは知らぬ存ぜぬで通す事にした。

だが、続くソーニャの言葉は意外なものだった。

「風邪が──流行っている……」

「何だって?」

南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地で、奇妙な風邪が流行っている」

「どういう意味だ? 風邪?」

怪訝けげんな顔をするのは、今度はこっちの番だった。南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地と言えば、先ほど聞いた捜索隊が所属している基地だ。そこで風邪が──風邪だと?


最初は特に何も思わなかったが、これは一大事だった。金星だけでなく、地球以外で風邪かその類いを発症する可能性は皆無に近い。理由は簡単だ。結果的に菌から隔離されているからだ。

地球から例の軌道間輸送船OTVに乗せられ、最初の一週間は徹底的な身体検査を受ける。いわゆる、虫干し期間である。冷凍睡眠コールド・スリープのための準備ということもあるが、この場であらゆる病原菌を駆除するという期間でもある。その後、数ヶ月──赴任地によっては数年──は眠りにつくことになるわけだが、その時の低体温は免疫力を極端に低くする──らしい。俺は医者じゃないから良くは知らないが、低体温時に少しでも病原菌が残っていたら、あっという間に肺炎のような感染症を引き起こすそうだ。だから、目的地の星が金星であれ火星であれ、そこまで生きて到達出来たということは、これらの菌は体には付着していなかったということの証明になる。

また、赴任先で感染するということも考えにくい。運ばれて来た人間も動物も、物資の全てに至るまで、完全に無菌状態で届き、さらに、届いた先には病原菌が居ないからだ。南極とかでもそうだが、周囲に病原菌が居ないと、例えどんなに寒くても暑くても、体調を壊すことはあっても、感染症による病気になることはない。

おっと。金星には硫酸雲の中を漂っている菌類が居るんだった。だが、心配ご無用。こいつらは、人間には感染しない。人間だけでなく、地球上のあらゆる動植物とは無縁の生き物だ。生物学的には、ちゃんとDNAだかRNAだかを持っていて、どこかの段階で、地球の種と分かれた──という説と、起源は全く異なるという説がある。

5億年前に金星から地球にやってきて、そのお陰で地球上の生物が繁栄したとか絶滅したとか何とか? これらを研究するために金星に来た科学者も多いと聞く。そう言えば、御影恭子もそうだったか?

そういうわけだから、金星で風邪をひくというのは、朝日が西から出るくらいあり得ないことなのだ。もっとも、金星のスーパーローテーションと呼ばれる風は東風だから、そこに浮かんでいる空中都市から見た朝日は、西から昇るのだが……。


ソーニャは席から立ち上がり、歩きながら答えた。

「我々にもよく分からない。幸い致命的なものでは無いから、数日安静にしていれば直ってしまうのだけど……。それでも不思議なのは感染ルート。どこから病原菌がやって来たのか? それが問題だったけど、つい最近手がかりが見つかってね」

「手がかりとは?」

「細菌のDNAを調べると、奇妙なものが見つかった」

「ん? 何だそれは?」

すっかり、ソーニャのペースに載せられている気がするが、とりあえず今は、興味の方がまさっている。

「硫酸還元磁性細菌の遺伝子パターン。それも人工的に改竄かいざんした跡がある」

「それは御影恭子が──」

「そう。その通り」

ソーニャは俺の回りをくるくる回るのを止め、こちらに振り向いて右手の指先を俺の鼻っつらの前でピタリと止めた。何だそのポーズは? 決めのつもりか?

「理由は分からないけど、御影恭子の仕業しわざの公算が大きい」

「だったら──」

と俺は答える。

「だったら、御影恭子に直接聞くんだな。俺なんかひっ捕まえて聞くより、よほど手っ取り早い」

「それはその通り。我々もそうしたいのだけど、出来ない事情があってね」

ソーニャは指差した人差し指を、今度は顔の横で左右に振り始めた。

「ほほう。どんな?」

「彼女──、今失踪中。正確に言えば逃走中ね」

「何?」

「だから貴方に聞いているの……」

逃走中か。まあ、何か裏がありそうだなということだけは分かる。そもそもあの振る舞いからして、裏が無いわけが無い。だが、しかし──

「事情は分かった。だが、俺は何も聞いてない」

「あら? そうかしら?」

ソーニャはまたまた目を細めて、疑の眼差しを向け、こう続けた。

「だったら、何故、御影恭子が硫酸還元磁性細菌の研究をしていたことを知っているの?」

「‼」

迂闊だった。確かにそうだ。俺は御影恭子とはそんな話は全くしていない。湊川からは『彼女の興味は〝キン〟だけだ』という馬鹿話と、彼女の専門が地球外生命体とかの専門家だと言う事は聞いていた。だがそれだけだ。のことを知ったのは、みのりちゃんに御影恭子の素性を調べてもらって初めて知ったことだった。ヤバい。これが誘導尋問って言うヤツか。

「そ、そんなの調べればすぐ分かるモンだろ」

「それはそう──。だけど、貴方の端末からはその形跡は無かった」

不正侵入ハッキングしてたのか‼」

「ええ。貴方が──いや、御影恭子がここに着いた時から。もっとも、不正じゃなくて、もともと彼女は要注意人物だったし──」

その点については俺も同意見だが……。

「まあ、そうじゃなくても、、貴方が御影恭子を直接調べていないことはすぐ分かる」

「くっ‼」

そりゃそうだ。『端末からはその形跡は無かった』と言われて、素直に『図星です』みたいな反応を取ってしまっている。本当に、俺は嘘がつけない。さて困った。御影恭子をかばうつもりは毛頭ない。そりゃ、彼女も恥ずかしいだろうから、これ見よがしに、その失態を言いふらしたくないのは確かだが、今となってはそれはどうでもいいことだ。問題なのは、みのりちゃんである。

ソーニャからしてみれば、『俺が御影恭子の研究のことを誰から聞いたか?』を知りたい筈だ。またまた、単に世間話をしている風で、ソーニャの誘導尋問に引っかかり、ポロっとみのりちゃんの名前を、俺が自ら言い出しかねない。それだけは避けたい。

みのりちゃんはあくまでこの件に関しては部外者だ。俺が彼女の情報収集能力を見込んだ上でお願いしただけのことであって、こんなつまらない話に巻き込みたく無い。そうでなくても、今、みのりは、あの大男に尋問されている真っ最中の筈だ。何の嫌疑かは知らないが、彼女も最初から居残り組の一人である。

──となると、俺が取れる行動は一つしか無い。

「これ以上は黙秘する‼」

「あらそう?」

「そうだ!」

「そう言えば忘れていたけれど、貴方の端末から登録研究者ネットワーク経由で、彼女の論文を検索した結果が残っていたわ。その時に彼女の硫酸還元磁性細菌の研究を知ったのかもね」

「‼」

ソーニャは少し笑ったようだった。何と! 『貴方の端末からはその形跡は無かった』という発言そのものが誘導尋問だったとは‼

今更ながら気づくのが遅いが、おそらく彼女は取り調べのプロだ。彼女の容姿に騙されていたが、捜査にきた共和国直轄で司令部直属の人物が、普通の綺麗なお姉チャンなわきゃないだろうが。もっと早く気づけ、──俺。

「──まあいいわ。今から言うのは私の独り言と思って聞いてね」

耳を塞ぎたかったが、そういうわけにもいかないだろうな。

「〈レッド・ランタン〉発の暗号電文は──完全じゃないけど、ほぼ解読済み。もともと平文ひらぶんも多いけどね。だけど、とてつもなく複雑な電文を作成する人がいてね。データ転送経路も秒単位で分散して送っているから、全く分からない──」

──そ、そうなんだ。

「で、どうもその人物の行動が色々と不可解で。もちろん、データの流れから見る行動だから、実際の動きはよく分からないのだけど、最近、御影恭子のデータを、地球経由で検索した跡があったね。南極での記録とかチェックしていたみたい──」

──いや、俺は知らんぞ。何も知らないぞ。聞きたくないぞ。

「それだけならまだしも、御影恭子の逃亡を手助けした形跡もあるのね──」

「何だって⁉」

駄目だ。思わす声が出た。

「興味ある?」

と、ソーニャ。

「いや……別に」

と、俺。

そうは答えたが、好奇心には勝てない。

「ひとつ聞いていいか?」

「どうぞ、ご自由に」

ソーニャの悪戯っぽい目が笑っている。

「彼女は──御影恭子は何故追われているんだ。風邪の菌をバラまいたことが重罪になるのか?」

「御影恭子は〝遺跡〟が──、〝遺跡〟の石が目当てとの情報が入っててね」

「遺跡とは? 遺跡とはなんだ?」

「知らないの?」

「知らないから聞いているんだ!」

「じゃあ、いいわ──」

ソーニャはそのまま、興味がフッと途切れたような感じで、座っていた椅子の背もたれに手をつき、ひとつ溜息をついてから、ダルそうにこう言った。

「──貴方の嫌疑は晴れたわ。時間を取らせてしまってゴメンなさい。じゃあ」

「お、おい!」

そのままきびすを返して出て行こうとするソーニャを、俺は呼び止めた。こんな──、こんな生殺し状態の終わり方があるか!

「遺跡って何なんだ⁉ 石がどうしたって言うんだ⁈」

「そんなに知りたい?」

ソーニャは首だけこちらに向けた。金髪の向こう側からキラリと目だけが覗く。

「ああ……」

「じゃあ──」

ソーニャは振り返って、先ほど溜息をついた場所まで戻って来た。だが、今度は笑顔。蝋人形のような笑顔だ。

「──御影恭子と何を話したのか教えてくれる?」

「……わかったよ」

負けた──。いや、勝ち負けの問題じゃないが、精神的に参った。

「話すのはいいが、全然面白く無い話だぞ。取り立てて機密事項も何も無い。アイツ──御影恭子からも、口止めされているわけじゃ無いしな」

事実そうだった。気になるのは、みのりちゃんにまで話が及ぶ事だ。御影恭子には何の義理も無い。


俺は全てを話した。──と言っても、5分もあれば終わってしまう話だ。降りた途端にぱたいた事、彼女の着ていたスーツはケブラー繊維で、硫酸には溶けてしまう事、名前を聞かれた事、そして──

「『あんた──。いい人ね』と言ったの? 彼女──御影恭子が?」

「そうだ。おかしいか?」

ソーニャはしばし考えていたが、ひとりで納得したのか小さく2度うなずいて、

「分かったわ。どうやらあたしの勘違いだったようね」

と言って、右手で髪の毛をかきあげた。

「勘違い?」

「ええ。彼女、足が無いのよ。遺跡に行くまでの……。だから、優秀なパイロットを探していると思ったんだけどね。当てが外れたみたい」

何ぃ? 何かムカつくじゃないか。疑いが晴れたのはいいとして、要は、俺が御影恭子のお眼鏡メガネに──メガネはかけていなかったが──かなわなかったみたいじゃないか。

「俺が……嘘をついている可能性だってあるぞ」

──と、言っては見たものの、

「ないない。絶対ない。貴方ほど正直な──って言うんでしたっけ? そういう人は滅多にいないわ。本当はね、脳指紋走査機BFスキャナまで用意してたんだけど、無駄だったみたい」

──反論する気にはなれなかった。馬鹿正直なのは自覚していたが、他人から言われるとムカつく。だが、捜査のプロからすれば、赤子の手をヒネるようなものだろう。言えば言うだけ、こっちの自尊心が傷つくのは目に見えている。自尊心なんてものがあればの話だが……。


結局、おれはこの程度の追求であっさりと解放されることになった。時間にして30分も経っていない。だが、立ち去ろうとするソーニャを俺は呼び止めた。そもそも、御影恭子との会話を話したのは、〝遺跡〟が何かを教えるという約束があったからだ。

「で……、遺跡ってのは何なんだ?」

「金星人が作った遺跡──と、呼ばれるものがあってね」

「なんだそりゃ。神殿でもあったのか?」

冗談で聞いてみたが、返って来た言葉は意外だった。

「それに近いわね。人工的に作られたと見られる鉱物が規則正しく並んでいるから……」

「人工的って、──そいつは本当か?」

にわかには信じられない話だ。金星の硫酸雲の中に漂っている細菌の発見から既に四半世紀近く。地表へのアタックは今でも相当難しいとは言え、既に冒険家の出番は少なくなり、定型業務ルーチンワーク的な調査の段階に入っている。もしも、その途中で、菌類以上の生命体が──例えその痕跡でも──見つかれば、世紀の大発見になるのは間違いない。ましてや、〝遺跡〟である。知的生命体が金星に存在していたならば、例え今は滅びていたとしても、世紀のどころではなく、人類史上で前代未聞の大発見だ。だが、そんな話は噂にすら聞こえてこない。その手の怪しげな雑誌には、いつもチープな話題として登場してくるが、まともな科学サイエンスとして金星人の話が出て来た試しがない。精々、何とかと言う占いの本の中に登場するだけだ。

「人工的に作られたとだけ──」

そういって、ソーニャは両手を挙げ、更に続けた。

「──研究によると、硫酸還元磁性細菌が膨大な時間をかけて結晶化させた鉱物群と考えられている。要は細菌の排泄物のかたまり。ストロマトライトみたいなものね。石垣に見えるから、人工的に作られたと言われても信じる人がいるかも知れないわね」

「何だ。だけか」

「そういうこと」

ソーニャがニッとわらう。チェシャ猫みたいに。


なるほど。話が繋がった。ストロマトライトというのはよく分からんが、おそらく、地球上で言うところのマリンスノーの堆積物みたいなものなのだろう。硫酸還元磁性細菌というのは御影恭子の研究テーマのようだから、その細菌が作った〝遺跡〟に行ってみたいというのは自然だが……。ん?

「でも変だな? 研究目的なら正式に申請すればいいだろう。研究者の動機としては充分過ぎると思うがな?」

「研究目的──ならね」

ソーニャは目を細めて薄笑いを浮かべている。

「この〝遺跡〟は研究対象ではなく、エネルギー資源争いの対象になっているわ」

「ん? どういう意味だ?」

「さあね。気になるなら貴方自身が調べてみる事ね」

ソーニャは、それだけ言うと、自分が得た情報にペイするだけの情報は話したと言わんばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。そこはかとなく甘い香水の匂いだけを残して。一人取り残された俺は、しばし頭の中を整理しようとしたが、整理できるほど頭が良く無いのを思い出し、とりあえず自室に戻る事にした。無罪放免になったわけだし、とりあえずは万々歳。みのりの事はバレていな──いや、みのりちゃんはどうなった?


「ふぇぇぇ~」

情けない声とともにみのりがサブの計器飛行室IFRルームから出て来たのは、それからさらに20分後のことだ。このサブ室は、通常はほとんど使われることが無く、我々が何かミスをしたときに上官に呼ばれて調書を作らされる場所であることから、通称『説教部屋』と呼ばれている。要するに、あまり入りたく無い場所だ。

俺と例の大男は、時間一杯となった相撲の対戦相手のように、扉の前でひとしきり睨み合ったが、『ふん!』と鼻をならして大男は去っていった。今度会ったら相手をしてやる。素手じゃなく、格闘ゲームでな。

そのまま自室に帰って待機というのもしゃくなので、いつもの食堂前の自動販売機で、みのりちゃんに紅茶をおごることにした。こういうシチュエーションの時、普段なら常にニコニコしているみのりちゃんも、流石に顔が強ばっている。三口ほど飲んで、ようやく緊張も解けたようだった。

「怖かったですぅ~」

「そりゃ、そーだろうな」

「で、でも、何も言ってませんからね」

そう言って、みのりは四口目をゴクリと飲んだ。

「何も言ってないも何も、秘密にするような隠し事は無いだろう……」

「いえ──」

みのりは、紙コップを両手で抱え込んだまま、こちらを見上げた。いつになく真剣な表情である。

「──〈収水〉フライトレコーダーに改竄かいざんの跡があるって言われました」

「何⁉」

みのりによれば、あの大男は管制室で家捜ししている連中と常時連絡を取っていて、そこからの情報で、この問いをつむぎだして来たらしい。管制室を調べ始めたのはほんの1時間前程度だから、最優先の事項だったのだろう。まあ、俺への質問が、〈収水〉から降りた直後の御影恭子との会話内容なのだから、彗星の水汲み作戦に余程の興味があると見える。

もちろん俺だって、あの事件──にされちまっているが──に関しては、色々と気になる事が山積みだ。割れた彗星の不自然な動きと、雲中から放射されたレーザー・レーダーらしき光、そして何よりも、御影恭子の挙動──と言うより、今となっては御影恭子のが怪しさ大爆発だ。直接本人に『お前、何モンだ‼』と聞きたいところだが、ソーニャによれば、失踪だか逃亡だかしていて、行方不明らしい。逃亡を手引きしたヤツがいるとか言っていたな。

「済まなかったな、巻き込んじまって……」

俺はみのりに謝った。みのりはキョトンとしていたが、直ぐに、

「いえいえ。そんな事ないです。ほら、クリームパンをおごってもらったし」

と微笑んだ。まだ表情が硬い。それに、対価がクリームパンだけってのはあまりに釣り合わない話だよな。まさかこんな大事おおごとになるとは思ってなかったとは言え、申し訳ない。

「でも、これって、やっぱり何かあるってことですよ──」

みのりは紙コップの底に、三分の一ほど残った紅茶を飲み干して言う。

「──だって、おかしいじゃないですか? 水汲み作戦drawing water operationsなんてどの基地でもやってます。見学者が乗る事もあります。事故は……、事故は確かに珍しいですけど。でも、そんなことで、共和国エネルギー管理委員会RERC: Republic Energy Regulatory Commissionのメンバーが来るなんて──」

「ちょっと待った──」

「はい?」

「なんだその、共和国エネルギー管理委員会ってのは?」

「さっきの女の人は共和国エネルギー管理委員会──RERCの方です。制服のマークがそうでした」

さすが情報軍所属のみのりちゃん。良く知ってるというか、良く見ている。そう言えば、ソーニャの素性すじょうを聞くのを忘れていたな。

「こういう場合、共和国事故調査委員会RAIC: Republic Accidents Investigation Commissionが来るのなら、まだ分かりますけど──」

「何故が、エネルギー管理委員会ってトコから人が来たと……」

「そうです。変ですよ」

そういって、みのりは口を尖らせている。どうやら、ようやく通常営業に戻ったようだ。今回の件、言われてみれば確かに変だ。と言うか、俺は、小隊長殿おやっさんを初めとしたヴィーナス・アタッカーズの行方不明のことで頭が一杯で、相手が誰でどのような肩書きの者かなんて全く眼中になかった。みのりちゃんはビクビクしながらも、一歩引いた視線で客観的に冷静に見ている。そのへんは抜かりない。10年もしたら良い指揮官になるだろう。いや、情報軍だから、策謀部所属か? 何か、イメージ違うなぁ……。まあ、それはともかく──。

「ソーニャは『エネルギー資源争いの対象』とか何とか言っていたからなぁ」

「ソフィア──さん?」

「俺の取り調べをした女だ」

「ああ。その、RERCの人ですか」

「それはそうと、みのりちゃん。金星にある〝遺跡〟って知っているか?」

「えっ? あっ! えーっと、そのぅ……」

何とは無しに聞いただけだったのだが、それに続く言葉は、ちょっと驚くものだった。

「ゴメンなさい。機密事項なので、お答えできません」

「え⁉」

ソーニャの言葉を借りると、〝遺跡〟は硫酸ナントカ細菌の排泄物の塊だと言うことだから、珍しいのは確かだろうが、機密──それも軍事機密扱いになるものとは想像もしていなかった。一般人が入れるような場所にある〝遺跡〟なら、下手に知れ渡ってしまうと、観光客が押し寄せて環境が破壊されるというような懸念があり、所在を伏せると言うことは良くある。南極にあるざくろ石のスポットとかも、盗掘を避ける為に大っぴらには宣伝されていない。だが、金星の──、それも重装備の関係者しか行けない場所で機密になっていると言うことは、何かそれなりの理由がある筈だ。

「教えてくれないかなぁ……。頼むよ、みのりちゃん」

「ですから、みのりちゃんはちょっと止めて下さい」

「その機密事項とやらで、RERCがデバって来たのかも知れないぜ」

「それは──、その──そうかも? いや駄目です。これは機密性3情報ですから」

「へー。3なんだ」

「そ、そうです」

完全なる機密じゃないか。ソーニャの残した言葉は、意外にも重要な情報だったようだ。うーむ。気になる。非常に気になる。


「──そ、そんなことより、地表降下部隊アタッカーズの捜索はどうなったんでしょうか?」

無理矢理に話題を変えようとしている意図がミエミエではあったが、みのりの場合、これ以上追求しても口を開くとは思えないし、俺も捜索状況は気になる。いや、それ以前に、忽然こつぜんと消えた状況を俺はよく知らない。みのりはずっと管制室にいたのだから、そのヘンのことは良く知っているだろう。

そうだった。まず、真っ先にみのりに聞くべき事は、〝遺跡〟の話じゃなくて、地表降下部隊アタッカーズが何故消えたのか、何が起きたのかという話の筈だ。

「そうだな……。ただ、俺は地表降下部隊アタッカーズに何が起こったのか、そもそもさっぱり分かってないんだが……」

「はい。私も分からないんです」

「はい?」

「はい?」

しばし沈黙。

「──いやいや、見てたんだろう? モニターで」

「はい。見てたんですが、消えたんです。忽然こつぜんと──」


みのりの話はこうだ。俺が自室に帰って一時間と少し経った頃。〈マンタ・レイ〉御一行は、隊員クルーの多くが浮遊基地フロート・ベースでくつろいでいた。みのりはその間に、遠隔で〈マンタ・レイ〉と浮遊基地フロート・ベース管理作業ハウスキーピング情報などを集め、気象予報から着氷アイシングが発生しそうな領域を避ける降下最適経路を求めていた。極端に高温で水も無い金星で、着氷アイシングが発生する筈がないだろうと思ったが、硫酸雨の中を降下すると、その粘性から機体の自由が奪われる事があり、それを通称で〝着氷アイシング〟と呼んでいるらしい。そう言えば、みのりは浮遊基地フロート・ベースの硫酸雨のスジを、なんとかと言う茶碗のスジに見立てていたな。

もっとも〈マンタ・レイ〉は飛行機ではなくハイブリッド飛行船なので、落下の終端速度が遅く〝着氷アイシング〟で地表に激突するような事態になる前に硫酸雨は蒸発してしまい、大事には至らない。というか話は反対で、翼内部の空気房バロネット操作を適切にしなければ、中空に浮きっぱなしになってしまって、地表に着地することが出来ない。ただ、着氷アイシングの影響で着地点がズレてしまうと、軌道修正するのが極めて大変で、最悪、もう一度浮遊基地フロート・ベースに戻って、スーパーローテーションと共に、金星上空を優雅にもう一周ということもあり得る。それだけで丸2日を棒に振ることを考えれば、なるべくワン・アタックで決めたいのは当然の事だ。

で、それら最適化の計算を終え、〈マンタ・レイ〉に降下軌道情報を伝えようと顔を上げたとき、既に〈マンタ・レイ〉を含め、浮遊基地フロート・ベースは跡形も無くモニター上から消えていたそうだ。そして、表示されているのはNo Signalの文字だけ。最初は何が起こったのか分からなかった。みのりは『勝手にモニター画面を切らないで下さい!』と憤慨ふんがいしたらしいが──実は、みのりちゃんは仕事中は結構怖い──、これには誰からも反応がなかった。一瞬の沈黙の後、現場で指揮をっている谷上中尉が『どうした?』と怪訝そうな顔をしただけ。

事態が完全に把握されたのは──いや、結局のところ把握などされなかったのだが、異常事態だと気付くのはそれから数分かかった。

モニターは復活しない。クルー全員の通信の途絶。そして、衛星からの赤外画像でも、12番浮遊基地フロート・ベースが発する機体識別信号も、浮遊基地フロート・ベース同士の相互データ交換情報も無くなっていた。みのりの脳裏によぎったのは『大規模サイバー攻撃では?』ということだったらしい。いかにも情報軍所属らしい考えだが、それが不可能なのはみのり自身が良く分かっていた。衛星に侵入ハッキングすることはできても、浮遊基地フロート・ベース管理作業ハウスキーピング情報発信機器は完全にクローズドな環境にあり、部外からの操作・改竄クラッキングは不可能なように設計されている。

仮に、空中都市と地表との間を結ぶ浮遊基地フロート・ベースの全てが乗っ取られてしまうようなことが起きたとすれば、それは金星地表との全通信網システムを乗っ取ったに等しい。そんな事態が起きない為に、浮遊基地フロート・ベースの基本ソフト群は、意図的にハードウェアに直書きされている。変更はその場に行って基板ごと取り替えねば不可能だ。


ま、細かい事はともかく──。

要するに、みのりの知っている情報も、俺の知っている情報とそれほど変わらないということだ。何か救出のヒントになるんじゃないかと考えたのだが、これでは、聞いたところで何の役にも立たない。もし捜索に行くなら、消えた地点に向かうのが鉄則だが、そちらには南緯20度帯20 Degree South所属のロシア隊が向かっている。今から俺たちが強引に押し掛けたとしても、半日くらいは出遅れること必至だ。

南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地は、あり得ない風邪が流行っているんだったか?


        *  *  *


その後もしばらくジタバタした。管制室の様子を見ようと入り口まで行き、あの大男の武官と再び睨み合戦を演じたり、谷上中尉にその後の捜索情報を聴いたりとか……。分かっていたこととは言え、結局、何も得られなかった。

管制室を占拠され、捜索に使えそうな予備機体が置かれた待機格納庫アラートハンガーすら封鎖されているこの状況では、手も足も出ない。例え、出せるとしても、どこに行く宛てがあるわけでなく、自室でふて寝するくらいが関の山だった。指揮権が移ったためか、第二種待機命令も出なかったので、突然に降って湧いた休暇と思って街に繰り出す──ことも可能だが、とてもそんな気にはなれない。状況が分かった際にはいち早く行動出来るように自主的に待機するしかなかった。

みのりちゃんは『基地内では情報監査があって無理なので、外で調べてきます』と出て行ったが、俺にはそんな特殊技能は無いしな──。やはり、基地に留まった飛行機乗りは何の役にも立たんようだ。やれやれ。

自室に戻った俺は、再びベットにドサッと体を投げ出した。何の気無しにズボンのポケットに手を突っ込むと、小さなメモリがある。

「こいつは──?」

そうだ。湊川とバックドア回線で話をした時にブッ挿したメモリ。足が付くと困るから、OSごとシステムが組み込んである。この中にはあいつとの会話も入っている筈だ。管制室のデータが全て押さえられている以上、本作戦中の地表降下部隊アタッカーズの映像はこれだけしか無い。

早速、端末へ──と手を伸ばしたが、すんでのところで思いとどまった。ここの端末はソーニャに易々やすやす侵入ハッキングを許しているのだ。その時よりも現状は更に悪くなっているだろうし、みのりも情報監査があると言っている。となると、どこか外で──基地の外で調べてみるしかない。外出する気にはなれなかったが、それで何か手がかりが見つかるなら話は別だ。こんなことなら、みのりと一緒におててつないでデートしてくりゃ良かった。

──いや、みのりだったら『少尉は謹慎中だから外出は駄目です!』とか言われそうだ。非常事態なんだから、大目にみて欲しい。


〈レッド・ランタン〉と呼ばれるこの空中都市の発着場は最上階の上──つまり屋上にある。その端に駐機場と共に管制室はあり、その数階下までは、軍関係のみならず、保安本部、警察、各国の大使館やさまざまな政府機関の施設が入っている。要するに官庁街が最上部を占めている。最上部だからと言って見晴らしが良いわけではない。

商業地区は中層部の100ブロック程を占有しており、〈レッド・ランタン〉全体の半分を占める。モジュール数で言えば600区画にもなるから、地球上の都市と比べてもそこそこの地方都市の規模だが、俺はまだほとんど出歩いた事が無い。元々出不精なのと、水汲み作戦ファースト・ミッション後のゴタゴタでとてもそんな気になれなかった所為せいだ。こう見えても、繊細なんだぜ、俺は。──誰も信じてくれないが。

官庁街と商業地区の間には、市民も利用する公共施設が詰まっている。公園とか野球場とか。軍人とエンジニアと研究者しかいないこんな地に、野球場は要らんだろうと思うが、意外と流行っているらしい。少なくとも小隊長殿おやっさんはよくラジオを聞いているようだった。来た早々どこを応援しているのか──っていうか、何チームあるのかすら、俺は知らないが、小隊長殿おやっさんは金星に何度も来ているから、そのヘンは詳しいらしい。


おっと、そんなことを考えている場合じゃなかった。

俺が向かったのは、その公共施設が詰まっている階層──具体的には23ブロック下──だ。そこに図書館がある。データ解析や検索ならそこだろう。ネットに繋ぐのは少々危険だが、停電時にはスタンドアロンで働くメインフレームのコンピュータがそこにある。軍用のものが共同で入っていることは一般人には機密事項だが、有事存続計画COOP: Continuity of Operations Planの中でその記述を見た記憶がある。みのりも『機密性C完全性I可用性A共にバッチリです!』とか言っていたような気がする。機密性と完全性は何となく分かるが、可用性ってなんだっけ?

ともかく、そこに行けば何とかなるだろう……。そこぐらいしか思いつかなかったというのが正直なところだが、何もせずに手をこまぬいているよりは余程良い。


ブロック階を上下に横断するエレベータは〈レッド・ランタン〉の中心──螺旋らせん構造の軸の部分に存在する。正確に言うと、中心軸部分は入るべきモジュールが無く、六角形ヘックスの巨大な穴が〈レッド・ランタン〉の上下に貫かれて空いている。

ランタン──つまり、〝提灯ちょうちん〟のように中央は空洞だってことだが、どちらかというと、切り分ける前のバウムクーヘンとか竹輪ちくわに近い。この空洞が、〈レッド・ランタン〉という巨大建造物にかかる応力を分散し、構造上の強度を上げているらしい。

そして、肝心のエレベータは、その内部空間の壁に張り付いている格好だ。六角形ヘックス構造のモジュール壁面ごとに1セット、合計18本のエレベータがある。

もっとも、エレベータと言うより、上下方向にも走る電車と考えた方がいい。1セット3本のエレベータは、100階おきに止まる特急、10階おきに止まる急行、全階に止まる鈍行があり、数分置きではあるが時刻表もある。そして、何よりかなり揺れる。〈レッド・ランタン〉は空中に浮いており、上下の気流の差によって幾分しなるのだが、そのゆがみみをモロに受けるのが、この部分なのだ。その中をガタガタと──リニアモーター駆動のクセに──走って行く。

もちろん移動は上下だけじゃない。六角形ヘックスのモジュール6つで1ブロックを構成しているから、行き先は同一ブロック内で6つあることになる。エレベータで降りても、中央の空間を挟んで反対側のモジュールに目的地があるなら、モジュール内環状線の左右どちらかに乗り込んで移動しなければならない。短時間とは言え、意外と面倒だ。

対面に見えているのだから、可能ならひとっ飛びに飛んで行きたいものだが、中心軸の空間は飛行禁止区域となっている。まあ、それはそうだろう。飛行船を飛ばすには狭いし、飛行機では各階への発着が不可能だ。ヘリコプタならなんとかなるかも知れないが、事故アクシデントの危険性を推してまでして飛ぶ理由が無い。飛ぶなら外周を飛べということだ。


──などと、下らんことを考えているうちに図書館に着く。当然ながらこれまで利用したことは無い。IDパスはあるから、メインフレームの起動は出来る筈だ。利用申請はこの際後回し。『非常事態でありましたっ!』と言う口実は、小隊長殿おやっさんには通用するが、副隊長の谷上中尉には効きそうに無い。まあ、それはそれ、これはこれだ。

書籍モニター棚は脇目もふれず、パーテションで区切られた視聴席まで移動する。端末からの起動方法は|共通基盤認証システム《IMAS: Identity Management for Authentication System》からコードを打って──入った!

手こずるかと思ったが、意外と簡単だった。まあ、そうじゃなければ、共通認証のシステムとは言えないだろう。だが、起動時間が短過ぎるんじゃ?──と言う疑問は直ぐに氷解ひょうかいした。wコマンドで確認すると、既に起動していているヤツがいる。えっと、M. Ikawa──みのりちゃんじゃねーか。俺の行動も、中々すごいな。情報軍のエース様と考える事が一緒だと言う──

「おわっ⁉」

官給携帯が鳴った。こっちに来てから手渡された専用端末。一般回線からは掛かってこない端末。おそらく捜索隊からの報告が入ったのだ──と、勝手に想像して相手も確認せずに出た。


「盗聴の可能性があるから、返事をしなくていいわ。──お久しぶりね」

「なっ、なっ‼」


人は、〝こうだ!〟と思い込んだまま、行動を起こし、それが見事に外れると混乱する生き物らしい。その昔、コーヒーだと思ってコーラをガブリと飲んで吐き出したことがある。コーラだと思って飲めば普通に飲めるのに、予期せぬモノだった場合に拒否反応を示す。何故なにゆえ、今、こんな話をしているかと言うと、俺は今──まさに今、混乱していて、それを何とか沈めようとしているからだ。

電話の相手は、捜索隊からでも、谷上中尉からでも、ましてや小隊長殿おやっさんやみのりちゃんからでも無かった。本騒動の元凶とでも言うべき御影恭子からだったのだ。

どういうことだ。何故、この回線に割り込める? どうして俺の番号を知っている? それよりも何よりも、お前は失踪中と言うか逃亡中では無いのか?

俺は何か言おうとしたが、言うべき事、問うべき事が多すぎて言葉が出ない。パニックを起こした思念が一斉に出口を求めて動き出した結果、口元で言語化出来ず衝突コンフリクトしている。

だが、そんなことは構わず、御影恭子は矢継ぎ早だった。

「そこに伊川さんいるでしょ」

「な──何故、知ってる?」

俺は可能な限り冷静に小声で話した。〝そこ〟と言っていることを考えれば、俺が図書館に来ている事はお見通しで、なおかつ、伊川も居ると言う事が分かって──、いやいや、そもそも、伊川のことを何故コイツが知っている? 水汲み作戦の時にしか接点がない筈だし、それも音声のみ。名前も知らない筈だ。

「細かい話は後で。彼女の命が危ないの──」

「‼」

「急いで探して。おそらく、メインフレームの制御室に直に入り込んで操作して──」

御影恭子はまだ話していたが、俺は携帯を耳元から離し、ある一点を凝視していた。

いた! 伊川みのり。

彼女は図書館の玄関に向かって真っすぐ歩いていたが、顔は無表情で強ばっている。その後ろにはピタリと男がくっ付いており、上着のポケットに手を突っ込む振りをして、みのりを──おそらく銃口で──押していた。何だ、この急展開!

「相手は何者だ?」

ショック療法が聞いたのか、俺は瞬時に冷静になっていた。この際、会話の相手が誰であろうと構わない。伊川の──いや、みのりちゃんの命が危ない。それを教えてくれる人物は無条件に味方だ。

「RERCを組織。実態はよく分からない……」

RERC──共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commission。みのりの講師で予習をしていた甲斐があった。だが、実態は名前通りの組織ではないらしい。

「今から助けに行くから、伊川軍曹の身柄を安全な場所に誘導──」

「いや、既に手遅れのようだ」

「えっ? 何があ──」

俺は携帯電話をポケットに仕舞しまい、視聴席から跳ね出た。図書館の外に出てからでは遅い。この場で連行を阻止しなければ、みのりは連れ去られてしまうだろう。こっちは丸腰だったが、それならそれで、この人気ひとけの多い図書館という場所を最大限に利用させて頂く。

無表情のまま歩いてくるみのりと、その後ろにピタリとくっ付いた男。その行く手を阻むように、玄関の10メートルほど手前で、俺は立ち止まり言った。

わざとらしく、薄笑みを浮かべて。

「よぉ。みのりちゃん。こんな所で奇遇だなぁ」

「あっ‼ 上沢少尉──」

勝算はあった。まともな組織なら、こんな場所で発砲事件など起こす筈が無い。起こす気があるのなら、みのりを見付けた段階で、既にそうしている。銃を突きつけて玄関まで御同行願うなんて悠長な真似はしない──そう踏んでいた。


甘かった。


背後の男は、躊躇無く銃口をこちらに向けて来た。確かに銃口だった。間違いない。だが、それを確認出来たということは、俺の死期が目前に迫っていると言うことだ。咄嗟とっさの回避行動を取ろうとするが、体を後ろにのけ反らせるのが精一杯だった。男は腕を伸ばしてこちらの胸元を捉えてくる。それもレーザーポインター付きだ。ホントにもう、万事休すだ。図書館の端にある喫茶室のトレイとか服の下に仕込んでいれば、少しは防弾になったかも知れない。──が、時すでに遅い。カッコ悪いが、俺は目を閉じかけた。短い人生だったなぁ……。

──が、が⁈

みのりの動きは素早かった。銃口が自分の背中を離れ、右側面に動いたと見るや否や、右手の甲と言うか、腕全体で相手の腕を地面側に叩き付けた。形としては、ニードロップと裏拳の中間のような所作しょさだ。そこで男の銃弾が一発。俺の足元に穴を残した。

みのりは全く動じていない。男の手をたたき落とした一連の動作の延長で、右回転をし、左手で男の手首を逆手に掴んだかと思うと、回転しながら腕をねじり上げる。男は右腕を内向きにひねられ、バランスを失い左側に倒れ込もうとする刹那、男と対面状態になったみのりの足払いが追い打ちをかける。男はなす術もなく、右手を後ろ手に取られた格好で、ほぼ顔面から床に落ちた。見ると男の拳銃は、俺と男の間あたりに転がっている。この間、およそ1.5秒足らず。みのりは倒れた男の背後で腕を捻り上げたまま──。

「銃を取って!」

と叫んだ。それまで彼女から聞いた事のないような鋭い声で。俺は人生の走馬灯を思い浮かべること無く、我に返った。我に返らされた俺は、言われるまま銃を拾う。銃を拾い上げたのと同時に、みのりは男の手を離しこちらにすっ飛んで来たかと思うと、てのひらを下から俺に出して来た。反射的に銃を渡すと、みのりはそのまま俺の手を掴み、

「逃げます!」

と言って玄関へ向けて走り出した。その時になって俺は初めて気づいた。敵は倒れている男一人ではない。何が起こったのか分からず呆然としている人々に混じって、明らかにこちらに向かってくる眼光鋭いやからが数名。

迂闊だった──そうとしか言いようがない。まずは敵の数の把握が最重要項目じゃないか。玄関から外に走り出るまでに、銃声が1発、いや2発したが、いずれも当たる事はなかった。その後はよく分からない。誰かの叫び声をきっかけに図書館中がパニックに陥っていた。


眼前の道路で、突っ込んでくる電タクを2~3台急停車させながら横切り、右手に折れて走り出す。道を挟んで追っ手も数名来ているが、走るのに精一杯で、銃撃戦には至らない。みのりは右手に持った銃を、銃口を上にしたまま肩の上あたりに構え、上半身はそのままの姿勢で横を見ながら華麗に走っていて、なかなか様になっている。というか、こっちも全速力で走っているのに、みのりの走りには乱れが無い。こいつ、実は凄いヤツなんじゃないのか──と思い始めたとき、思い出した様にポケットの携帯が鳴り始めた。

「中央三番ゲートに行って。今、そこに向かってる──」

御影恭子だった。『何故、お前が我々の動きを知っているんだ?』とか、『向かっているって、そこは行き止まりじゃねーか?』とか冷静になれば気づいたものだが、脳に必要なブドウ糖関係の栄養素は、既に手足を動かす分だけで精一杯。その指示に従うしか選択肢は残っていなかった。彼女が現状を知っている理由と方法は即時には理解しかねるが、少なくとも、この状況を把握しているのは彼女だけしかいない。

「中央三番ゲート!」

俺は前方を行くみのりに叫んだ。もちろん、この行動は、追っ手にも情報を与えることになり、先回りされる危険も伴うが、ゲートは200メートルほど先。こちらが駆け込むのが速いと判断した。だか、その先の行動が思い浮かばない。

中央ゲートは、ここに降りて来たときに利用したエレベータの向こう側──すなわち、螺旋らせん構造の中心軸の外側というか内側と言うか、ともかく、中心軸にある中空の空間へ飛び出す為のゲートである。もちろんそこは外界へと通じるゲートであり、生身の人間が飛び出して何とかなる場所ではない。最低でも、全身化学防護服と自給式呼吸器が不可欠だ。ゲート内には何組かの緊急用キットが装備されているから、着替えて外に出ることは可能だが、敵サンはそんな悠長な暇は与えてくれないだろう。いや、そもそも外に出てもどうにもならないことは目に見えている。かえって状況が悪くなるだけだ。つまり、ゲートへ逃げ込むことは、自ら、袋のネズミになりに行くようなものに見えた。

俺は第二の選択肢を模索し始めていたが、時既に遅かった。銃声一発。みのりの体が横に動いたのを見て血の気が引いた。

──撃たれた! そう思った。だが、実際は逆で、みのりが前方の車めがけて撃ったのだ。見事タイヤに命中したらしく、車はバランスを崩し、横向きに止まる。中からは、やはり、そのスジの輩と思われる人が出て来た。前方を塞がれては、もはや逃げ道は無い。袋のネズミになりそう──ではなくて、既になっている。ゲート内に立てこもり、篭城ろうじょうする他なさそうだが、一方通行、出口無しのゲート内で、どう過ごせばいいんだ?


中央三番ゲートは閉まっていた。いや、閉まっているのが当然だ。この施設は何らかの大規模災害とか、他のブロックへの避難経路が絶たれた時だけに利用する施設だから、通常は開いている筈が無い。開いている方が異常なのだ。みのりは拳銃のつかの部分で、非常用開閉レバーのガラス枠を叩き割り、即座にレバーを引っぱり上げる。〝ガォン〟と言う音と共に、高さ3メートル、幅が5メートルはある黄色と黒の縞模様のドアが、赤色灯の回転をお供に緞帳どんちょうの様に静々と開いていく。機械油とともに、放置された工場の倉庫のようなほこりの臭いがした。

追っ手は眼前まで迫っている。ゲート縁の50センチメートル程の凹みが、辛うじて身を隠す影になっているが、反対側からも追っ手が来ているから、どのみち死角は無い。

俺がその凹みに体を滑り込ませるか否かのタイミングで、乾いた金属音が外側から聞こえる。もちろん、実弾だ。どうやら、生け捕りにして──と言う考えは彼らには無くなってしまったらしい。くそっ! 本気かよ! 

ゲートが数十センチメートル開くまでの僅か5秒程度が実に長く感じられた。みのりが転がるようにゲート内に体を滑り込ませ、間髪を入れず、俺も入る。開いたゲートの僅かな隙間に体を通すとき、左腕に傷みを感じた。全く気づかなかったが、弾がかすったらしい。

ゲートをくぐったら一安心とはならない。放っておけばゲートはいくらでも開いてゆく。

「ここ、お願い」

みのりはそう言って俺に銃を渡し、ゲートの奥──外界へと通じるハッチのある方向──へ駆け出して行く。俺はゲート側に向き直り銃を構えた。ゲートは既に50センチメートルほど開いており、数名の男がしゃがんで見えたところで2発続けて撃つ。命中はしていないが、匍匐ほふくの状態でしか通れないゲートを通過しようと試みる者はこれでいなくなっただろう。問題は、2メートルも開いてしまえば、とてもじゃないが対応し切れないと言うことだ。それまであと20秒もかかるまい。どこかのスーパーヒーローのように、両手にガトリング砲を持って連射できる態勢なら何とかなるかも知れないが、手元にあるのは一見するとハンマーレスに見えるコンベンショナルダブルアクションの拳銃一丁。弾数はそこそこ多そうだが、多勢に無勢ではどうにもならない。

ゲートの開閉ボタンはゲート内にもあるが、開と閉が同時に押された場合、開が優先される。この施設は立て篭る為の施設じゃない。緊急時に外に出る為の施設だから当然だ。期待はしていなかったが、『そこに向かってる』と言った御影恭子は影も形も無かった。万事窮す。

──と思ったところで、再び〝ガォン〟と言う音──いや、〝バァン〟の方が正確か? 音の在処は後方だったが追っ手から目を逸らすわけには行かない。だが、音と同時に前方のゲートはゆるゆると閉まって行く。そして、前方から負圧によるであろう風が──風だって⁈

もしやとは思ったが、その〝もしや〟だった。みのりが外部ハッチを開けたのだ。それも緊急用の発火ボルトに点火しての、ハッチの強制排除だった。

この場合、有無を言わさずゲートは閉まる。火薬によってゲートに直結したオモリが解放され、重力に従ってゲートが閉まる仕組みだ。完全停電の際でもこの機構は生き残る。どのような場面においても、居住区にまで外気が入り込むことを防ぐための装置を、みのりは作動させた。だが、これで一安心──と言うわけには行かない。むしろ、状況は悪くなっている。ゲートが閉まり切ってしまう前に呼吸器を探し出し、防護服を身につけなければ、1分とてこの空間で生き残ることが出来ない。幸いにも外で硫酸雨は降ってはおらず、短期間なら火傷する危険はなさそうだ。おそらく、顔や手に傷みを感じる前に、窒息で倒れる方が先だろう。

人は酸素濃度が18%以下になると酸素欠乏症になり、16%の空気を1回でも吸うと脳障害が残る危険が伴う。10%以下なら即座に死が待っている。成層圏での緊急脱出における有効意識時間は約5秒。つまり、無酸素で飛び出せば数秒で意識を失う。この場合、息を止めていた方が良い。10%酸素濃度の空気を吸うと、肺から逆に酸素が奪われてしまう。呼吸をすればするほど酸欠になり、即座に死に至る。喉が渇いた時に海水を飲むようなもので、逆に生存率が低くなってしまうのだ。

高々度から宇宙空間までの飛行は全て経験済みの俺にとってはそんなことは常識で、硫黄の臭いがした段階で反射的に息を止めてしまったが、みのりはそんなことは知らないだろう。致命的となる呼吸反射が始まる前になんとかしなければとハッチへと駆け出した時だった。

2メートル四方で切り取られたハッチの向こう。黄色い雲の下から、黒い物体が甲高い機械音と共に姿を表す。双発の円筒推進機ダクテッドファンを備えた垂直離陸VTOL機だ。コックピットは見えないが、狭い貨物室カーゴルームの入り口は開け放たれており、1メートル程の隙間を開け、ハッチの横にピタリと静止。中々の腕前だ。『敵か味方か?』などと考えている暇はない。俺が駆け込んでくる様を確認したみのりは躊躇無く貨物室カーゴルーム目がけてジャンプ。直後に俺も飛び込んだ。貨物室カーゴルームのスライドハッチが急速に閉まり、垂直離陸VTOL機はそのまま上昇して行く。ハッチが閉まると同時に猛烈な排気音が貨物室カーゴルーム内に響き渡った。おそらく空気の急速交換を行っているのだと思うが、俺が呼吸を再開したのは、みのりがケホケホと咳き込み始めてしばらくした後。スピーカーからの声を聞いてからだった。


「──これで借りは返したわよ」

御影恭子の意地悪そうな薄笑いが、そのまま声に宿っている。まあ、この展開なら操縦士パイロットはアイツだろうなと薄々感じてはいた。コックピットに繋がるドア開閉器がグリーンになったところで、おもむろにドアが開く。操縦士パイロット席には誰もいない──と一瞬勘違いしたが、こいつはヘリコプター扱いらしく、席が逆だった。御影恭子は前方を向いたまま、左手を挙げて左右に振る。そう言えばコイツは、彗星水汲み作戦ファースト・ミッションで〈収水〉に乗り込む際、『あたしが飛ばしてもいい』とか言っていたのだった。冗談だと思っていたが、飛ばせる腕があるのはどうやら本当だったらしい。

「あいつら──共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commissionって何者なんだ? 何故、こんなことをする」

「あたしはね……、パイロットを捜しているの」

「パイロット?」

こちらの質問には全く興味が無い様子で、御影恭子は言う。ソーニャもそんなことを言っていたな。その間も垂直離陸VTOL機は、所々に突き出たエレベータの駆動部を避けつつ、スルスルと上昇していく。このまま行けば数分で〈レッド・ランタン〉の最上部、航空機の発着場まで到達することになる。だが、ここは飛行禁止区域だ。わざわざ捕まりに行くようなことを彼女がするだろうか?

『実は非常事態を想定して飛行許可を取っていました』という展開はさらにあり得ない。もしそうなら、今回の銃撃戦──単に俺たちが這々の体で逃げだしただけだが──は織込み済みだったことになる。いや、その可能性はあるかな?


御影恭子は続ける。

「そう。パイロット。本当はね……、この前の作戦の時にほぼ決定していたんだけど、邪魔が入っちゃってね」

「邪魔だと? お前は奴らから逃げていたんじゃないのか?」

「──それにね」

彼女は、あくまでも俺の質問には答える気が無いらしい。

「──アンタに話してしまうと、どこでペラペラと喋ってしまうか分からなかったから、詳細は伝えなかったの」

「くっ!」

そこまで話して、御影恭子はこちらを軽く振り向きニコリと笑った。

悔しいがその判断は正しい。〈ブーメラン〉の機体洗浄庫で何か聴いていたなら、俺はソーニャの誘導尋問に引っかかり、内容を吐露とろしていたに違いない。御影恭子は振り向きながら、副操縦士コーパイ席の方をちょんちょんと指差す。乗りかかった船──いや、垂直離陸VTOL機だ。促されるままそこに座る。

「じゃあ、そろそろ詳細を教えてもらえないかな?」

「そうしてもいいけど、ひとつ条件があるわ」

始めて会話らしい会話が成立した。

「さっき言ったように、アタシはパイロットを捜していたの。分かるとは思うけど、その役を貴方が請け負ってくれると言うなら話してもいいわ。無理にとは言わない。嫌ならこの上の発着場で下ろしてあげる。だけど──」

「だけど?」

「──貴方達にとっても悪い話じゃない筈よ。これは、消えた地表降下部隊アタッカーズの救出にもつながる話だから」

「どう言う意味だ‼」

「もうすぐ発着場よ。どうしたい?」

操縦士と副操縦士の関係以上に、主導権は完全に彼女に握られていた。選択肢を与えられているようでいて、実は、道は一本しかない。地表降下部隊アタッカーズの救出になるとなれば──仮にそれが嘘だったとしても──手を引くわけにはいかなかった。

「で……、俺は何を飛ばせば良いんだ⁈」

「まずはこれをよろしく」

御影恭子は右目でウインクをしながら、操縦桿から手を離す。

「行き先は?」

「発着場」

「おいおい。俺はパイロットを引き受けたつもりだぜ」

「分かってる」

「──ふむ。みの……伊川軍曹を置いて行くと言うことか」


それなら話は分かる。元々俺は、地表降下部隊アタッカーズの捜索に、可能ならば一人でも出て行くつもりだった。ただ、あんな具合に降下中に消息不明となると手も足も出ない。消息不明どころか、浮遊基地フロート・ベースごと消えてしまったという事態だ。ここで闇雲に出撃しても時間の無駄にしかならない。だから、情報を求めて隠しサーバのある図書館に行き、偶然に──いや、伊川軍曹も情報を求めての行動だった筈だから、出会ったのは必然だったと言っていい。

結局のところ、情報は得られなかったのだが、情報を持っている御影恭子に合う事が出来たのは幸いだった。出会い方が不自然だとか、RERCとの関係はどうなっているんだとか、そもそも、本当に地表降下部隊アタッカーズの救出を考えているのかも怪しいものだが、今は信じるしか無い。彼女の素性については、とりあえず棚上げだ。彼女の情報を頼りに、地獄の底でも何処へでも行くしかないだろう。

だが、みのりは──伊川軍曹は別だ。元々が情報軍所属のエースだから、地表降下部隊アタッカーズの居場所を突き止めるまでが仕事だ。俺にとっては、地表降下部隊アタッカーズの居場所を突き止めることは、救出へ向かうための〝手段〟に過ぎないが、みのりにとってはそのこと自身が〝目的〟なのだ。欲を言えば、この前の様に管制室から誘導してもらえれば有り難いが、待機命令を無視して勝手に捜索に行こうとしている俺たちの誘導は、ちょいと無理だろう。彼女にまで軍紀違反を犯せとは言えない。


──と、俺は勝手に納得していた。みのりちゃんを発着場に下し、そのまま何処かで降下艇をチャーターする手筈なのだと勝手に判断していた。だが、御影恭子の計画プランはもっと乱暴なものだった。そうだった。最初に合った時からコイツは──この女はそういうヤツだったじゃないか。

「いいえ。下ろしたりはしないわ。伊川軍曹はよ」

「何?」

「えっ?」

もちろん、『えっ?』と言ったのは、みのりである。みのりは、貨物室カーゴルームから、コックピットへやって来て、副操縦士席の後ろにちょこんと座っていた。心細くてくっ付いて来た──と言うわけではなく、そこが、情報収集機器が集中している航空通信士席だったからであろう。その場所がみのりにとって、何となく落ち着く場所なのだろうと推測する。

御影恭子は更に続けた。

「発着場には〈マンタ・レイ〉の副機があるでしょ?」

「まさか……」

「ピンポ~ン」

「──俺はまだ何も言ってないぞ」

悪戯いたずらっ子のような目がそこにある。何故か知らないが、御影恭子は妙に陽気だった。陽気と言う言葉に語弊があるなら、気が高ぶっていると言う感じかもしれない。徹夜明けのような、ランナーズ・ハイのような……。ともかく、コイツはこういう非日常的な〝イベント〟が大好きなのだ。そうとしか考えられない。

確かに〈マンタ・レイ〉は正副2機が常備されている。更に言うと、予備機となる3機目もあったのだが、予算的な関係で今は無い。ヴィーナス・アタックが冒険家の仕事のような初期の状況ならともかく、今は定期的なルーティンワークになっている。困難な仕事ではあるが、通常、命の危険まで及ぶことは無い。軍人のみならず、研究者や時には報道関係者もしばしば参加していることを考えれば、それは自ずと分かる。だが、それでも今回のように──いや、今回のような謎めいた〝事件〟はそうそう無いのだが──不測の事態に備えて、ヴィーナス・アタック中、2機目はいつでも飛ばせるように待機スタンバイしている。御影恭子はそいつを奪おうとしているのだ。

何の事は無い……俺も最初はその方法を考えた。いや、今でもそう考えている。こういう時のための待機スタンバイだ。谷上中尉に捜索願いの直訴をしたのは、〈マンタ・レイ〉による飛行を前提としている。あまりに正攻法過ぎるとは思うが、俺はそれ以外に方法を知らない。その後のソーニャ率いる共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commission──RERCの介入で、正攻法だろうがからめ手だろうが、この計画は不可能になった。──なったと思い込んでいた。

管制室を押さえられ、内部から待機格納庫アラートハンガーへ通じる通路など諸々を制御する手段が失われてしまったからだが……、なるほど、外部から乗っ取れば良かったのだ。もちろん、実際にはその手段が無かったから、手をこまぬいて見ている他になかった──と言うか、そういう発想そのものが意識に上らなかった。そして今、その外部からの進入手段を俺は得たのだ。御影恭子というパトロンと言うかヒモ付きではあるが、意外と利害は一致している。そう言う意味で、『貴方達にとっても悪い話じゃない』と言うのは確かだ。

貴方……。うーん、みのりにとってははいい迷惑かも知れない。だが、御影恭子が『人質』と言っているのだから、逆にみのり自身の意思ではないことになり、軍紀違反にもならないのではないか?

『人質なら仕方が無いな……』

小隊長殿おやっさんならそう言うだろう。俺が怒られるのは構わない。ハナっからそのつもりだった。


「副機は発着場にはあることはあるが、待機格納庫アラートハンガーの中だ。開閉して表に出る前に気づかれるぞ」

「出撃までは最速で何分?」

──コイツ、もう行く気になってるな。

「最速って言うのは無い。いつだって最速だ。……まあ、3分だな。『2分で済ませて下さい』とか言うなよ」

この言葉は火星勤務時代に一緒だった某管制官の口癖だ。出来るかってーの。

「ふ~ん」

御影恭子は何やら考えている。だが、困った顔はしていない。むしろ楽しんでいる。

「──要は3分ちょっと、管制官の目をらせばいいわけね。分かったわ」

「どうするんだ?」

「とりあえず──」

御影恭子は狭い操縦席から飛び跳ねる様にして後部に着地し、みのりの手を取った。

「ひっ!」

「おい!」

みのりの顔が恐怖でゆがんでいる。

「後ろで着替えてくるから、ちょっとホバリングして待ってて」

「何だって?」

そういって御影恭子は、怯えるみのりを連れて貨物室カーゴルームの扉を閉めた。ご丁寧にも閉める前に、

「覗かないでね」

との忠告付き──さらにウインク付き──だった。そんな暇があるか。誰が操縦すんだよ。あ。貨物室カーゴルームの監視モニターがあるな……。

30秒程度だろうか? 2人が戻って来たとき、簡易ではあるが、外気活動用のスーツを着て戻って来た。10分程度は持ちそうな酸素ボンベ付きヘルメットもかぶっている。流石に懲りたのか、例のケブラー素材では無かった。俺の名誉のため言っておくが、決して覗いたりはしていない。いや、そもそも着替えではなくて、服の上にさらに着込んだだけだろう。

「じゃあ、アタシが管制官の注意を引きつけておくから、貴方は〈マンタ・レイ〉を引っ張りだして来て」

「どうやって注意を引きつけるんだ?」

擬傷ぎしょうよ」

「ぎ……、しょう?」

どうにかして相手をだまくらかすのかと思ったが、そっちの偽証──あるいは偽称ではなかった。卵や雛を持つチドリなどの親鳥が、外敵の接近に気づいたとき、彼らの注意を巣から逸らすため、自らがをして、敵の注意を一身に引きつけると言うアレである。今回の場合、親となるのはこの垂直離陸VTOL機、雛となるのが〈マンタ・レイ〉だ。体格からすると、親子関係が逆じゃないかと思われるが、図体のデカイ〈マンタ・レイ〉を逃がすのが主目的だから、親子関係はこれでいい。

御影恭子が主操縦席に座り、操縦権をYou haveして即座に、俺は貨物室カーゴルームへ飛び込んだ。彼女の真似をして華麗に後部席に跳んだつもりが、ちょっとつまずいてコケそうになったのはご愛嬌と言うことで許してもらおう。

一着残っていた外気活動用のスーツを着込みながら、後方にある積み荷を確認する。

「なるほど……」

中に入っていたのは発煙装置スモーク・ジェネレータだった。おそらく油脂混合物フォグ・オイル系の発煙装置だろう。詳細は外見を見ただけでは分からない。まあ、この時に御影恭子の性格を少しでも思い出していれば良かったのだが、俺は、貨物室カーゴルームからの〈マンタ・レイ〉起動のイメージトレーニングで忙しかったのだ。

作戦はシンプルだった。俺の仕事ジョブは、垂直離陸VTOL機が発着場スレスレまで上昇した段階で発着場に飛び降り、一目散で待機格納庫アラートハンガーへ走る。思うに外側から待機格納庫アラートハンガーへ駆け出す──いや、駆け込むのはこれが始めての経験だ。

〈マンタ・レイ〉は基本は輸送機で、しかも翼幅スパンが1キロメートル近い飛行船のお化けだから、戦闘機の緊急発進スクランブルとは違い、シートベルトやGホースなどは必要ない。コックピットも宴会が開けるほど広いため、発進してからのんびりと対処すればいい。今回の最優先課題は、兎にも角にも早く出ることだ。だが、これが一番難しい。巨大戦艦にモーターボート並の発進をせよと厳命げんめいされているようなもので、最大推進フル・スロットルでもイライラするほどのろいだろう。いやいや、その前に、〈マンタ・レイ〉に搭乗するため、全力ダッシュで300メートルほど走らねばならないのが一番の問題か? どちらにせよ、通常なら〈マンタ・レイ〉を奪取するような無謀な作戦は行わない。勇敢と無謀は違う。勝ち目の無いいくさはしないと言うのが俺の信条──しばしば、単に無鉄砲なヤツと勘違いされているが、それは断じて違う──だが、擬傷作戦Broken Wingruse Operationは中々面白い。御影恭子の頑張り次第で何とかなりそうな気がする。それに、この作戦──失敗しても、俺だけが罪をひっかぶればそれで済む。


「用意はいい?」

無線で御影恭子の声が響く。

「いつでもいいぞ」

コックピットと貨物室カーゴルームとの隔壁は既に閉じてあり、俺は手動で側面ハッチを開いた。腰に付けたカラビナにザイルを繋げ、準備は万全である。ザイルの先にはレスキューパラシュートが付いている──わけではない。御影恭子の指示で発煙装置スモーク・ジェネレータの起動装置につながっている。文字通り俺がトリガーとなっていて、飛び降りると同時に、擬傷作戦Broken Wingruse Operationは始まる手筈だ。飛び降りる前に煙幕を張られたんじゃ、こちとら堪ったもんじゃない。中々合理的な発想だが、ここまで準備万端用意されていたと言うのが気に食わない。もしかすると、RERCの襲撃の段階から、実は御影恭子もグルなんじゃないか? ──と考えると半分くらい納得出来るが、そんな手間をかける意図が読めない。罠であれ、何であれ、そもそも俺はこういう機会をうかがっていたのだし、そいつにまんまと乗ってやるのも一興だろう。

延々と続くかと思われる居住区モジュールの海から突然視界が開け、発着場が見えてくる。ただ、金網状の防護壁があって、これを越えるまでは飛び出せない。管制室は〈レッド・ランタン〉の外側方向に向いており、中心軸方向は完全なる死角となっている。元々、ここを上ってくる航空機など想定されていないから、当然と言えば当然である。

金網を乗り越え、少し高度が下がった時、俺は躊躇無く飛び出した。前転しながら落下エネルギーを分散させたが、左手に傷みが走る。怪我をしていたのを忘れていた。直後に『もう少し躊躇すれば良かった』と思ったが既に遅い。何とか立ち上がって走り出した瞬間──

「がっ‼」

爆風にあおられ再び前方に吹っ飛ぶ。

垂直離陸VTOL機は貨物室カーゴルーム後方から盛大に火を噴いていた。発煙装置スモーク・ジェネレータだと思っていたものは、爆発装置ブラスティング・デバイスも込みだったようだ。

「馬鹿野郎! 擬傷ぎしょうじゃねぇじゃねえか!」

本物の煙か、はたまた計画通りの仕込み煙か分からぬ煙──おそらく、3対7くらいの割合だろう──を盛大に吐きながら、垂直離陸VTOL機はユラユラと発着場中央に進み出る。状況を確認している暇はない。俺は俺の役割を果たすだけだった。今はそれしかない。吹っ飛ばされたことで2秒のロスタイムだ。

認証キーロックを操作し、待機格納庫アラートハンガーに入り込む。駆け出すと後方でくぐもった爆発音がする。本物かそれとも擬傷の成れの果てなのか、既に区別がつかない。少なくとも、その後の機体落下音は無い。だだっ広い待機格納庫アラートハンガーの中は幸いなことに無人だった。ここで知り合いに出会ったら全てが終わってしまう。

「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは羽黒蜻蛉Ebony Jewelwing──」

ノイズと共に無線が入る。御影恭子の声だ。そんな、カッコイイ機体名だったのか。あれは。いや、例えそうだとしても、それは呼出名コールサインではなく秘匿名コードネームだろう。その上、やけに長い。ジュエルウィングだけにしとけ!

肩で息をしながら〈マンタ・レイ〉のコックピットに飛び込むと同時にヘルメットを投げ捨てる。無駄な動作となるが息が詰まってどうしようもない。慣性航法装置INS量子ジャイロQuantum gyroscopeは既に設定済み。何となれば基地を離れてからGPS誘導で設定し直せば良いからチェックは後回しだ。

モーター駆動の6機のプロペラを一斉に始動。一過性の過大な電流で回路に負担がかかるから、多少の気休めで0.5秒ずつくらい、タイミングをずらす。だが、これで壊れるようでは緊急発進スクランブルはできない。輸送機が緊急発進スクランブルをすることは通常は無いが、武器類を最大積載で発進した戦闘機は燃料まで満載すると脚が折れるので、空中給油のため輸送機が急いで出撃する事はままある。だが、それは地球での話だ。飛行船の脚が折れる心配は無い。一抹の不安はあったが、モーター六重奏sextetは順調に回転を増加crescendoさせて行く。いい子だ。

モーター暖機アイドリングの僅かな時間に、重水素と水の積載量、可逆性液体浮揚装置に充填されている熱可塑性液化ガスTLG: Thermoplasticity Liquefied Gas、そして操縦席や貨物室カーゴルーム等を取り囲む相転移吸熱体PTHA: Phase Transition Heat Absorberの状態を確認する。これらが無ければ、出撃後、一度も浮揚すること無く、断熱もままならず、速やかにお陀仏になる。本来ならモーター始動なんか後回しにして真っ先に確認する事項だが、待機格納庫アラートハンガーで待機している機体なら既に充填済みの筈だし、それより何より数秒でも時間が惜しい。そもそも充填されてなければ、擬傷作戦Broken Wingruse Operation──既に満身創痍作戦Broken-down Operationになっている気がするが──はこの段階でアウトだ。更にいつもの流れ作業で無線回線を開こうとして思いとどまる。すぐにバレるにしても、管制官に『ただ今〈マンタ・レイ〉強奪中』と自己申告するつもりは無い。今のところ、管制官からの通信は入っていない。──って言うか、我が隊の仲間は全員、管制室から追い出されているんだから、誰も対処できないんじゃないかな? これはある意味、ラッキーな状況かもしれない。ちなみに、御影恭子とは、飛翔が不可能と判断された時だけ無線で合図することになっている。外がどんな状況になっているかは知る由もないが、受信だけしている会話からすると、まだ飛んでいるようだ。

モニター類を全て起動し、全方位の確認。外部ケーブル接続等なし。貨物室カーゴルームの油圧シールドOK。サバティエ反応機関Sabatier Reaction Engine正常──武器だけは、武器だけが無いな。巨大な貨物室カーゴルーム内には地表降下機〈ブラック・タートル〉がポツンとあるだけで、その他は小銃ひとつない。拳銃ならひとつだけ、みのりから預かったものが手元にある。

イメージ・トレーニング通り、全てのチェック項目をこなし、ブレーキングを最大にして、モーター回転を少し上げる。力学的なモーメントは船体をうように伝わりながら軸足を軋ませ、少し前のめり状態で安定する。動作がいちいち緩慢なのは性に会わんが、仕方が無い。さてと……こちらは準備完了。後は──。

後は──待機格納庫アラートハンガー前方の扉が開くのを待つだけだが、はてさて? 御影恭子に聞きそびれた。アイツはどうやってこの扉を開ける気だ? まあ、この扉は硬殻な掩体壕シェルターの扉じゃないので、最悪の場合〈マンタ・レイ〉のずんぐりむっくりの鼻っ柱でグリグリと押し出せば、破ることはできなくとも、暖簾のれんのようにことはできるだろう──とは、思ったのだが……。


──まあ、大方の予想は付いていた。と言うか、『まさかな……』と思う反面、アイツなら──彼女ならやりかねんと思っていただけに、実際にソレが起こった時は不謹慎だが少し笑った。

もったいぶった言い方を止めて、事実だけを言うと、要するに、御影恭子が羽黒蜻蛉Ebony Jewelwingと呼んだ垂直離陸VTOL機体が、扉に突っ込んで来たのだ。正確に言えば、右から左へと舐めるように扉を壊しながら移動していく。相変わらず、大量の煙を吐きながらの飛行だったから、盛大に煙幕が張られると同時に、あたかもカーテンが引きちぎられるように、扉だったものの破片が落ちて行く。硫酸雨の流入を防ぐのが主な目的の格納庫ハンガーとは言え、隔壁であるべき扉がこんなに脆くて大丈夫か? と、本気で思った。軽量でペラペラなのは仕方が無いが、小型機が体当たりしただけでようでは──と思ったが、その理由はすぐに分かった。もうもうとした煙が立ちこめる中、俺は視界を確保すべく、風防ディスプレイWS-HUDを熱赤外線チャネルに切り替える。そこに写った垂直離陸VTOL機は──モーター部は当然として──翼に当たる部分に不自然な熱源を有していた。おそらく、プラズマブレードと同じ原理の装置が取り付けられているのだろう。かなり用意周到な感じがする。

制動をかけたままモーターを離陸推力テイクオフパワーへ。飛行船モドキの〈マンタ・レイ〉でこれをしても、制動の意味なく脚が引きずられるか、はたまた、頭を下にして前のめりに倒れるかにしかならない気がするが、やってみたことは無い。コイツで制動離陸スタティック・テイクオフをするシチュエーションなんて、これまで無かったからな。豪快に前転したら、それはそれで面白いが、それなら5点式シートベルトをちゃんと付けておかないと、天井に5点着地することになる。

盛大に鳴っているパーキングブレーキ作動のアラートの中、加速度計と機体モニター、それに、もしもの時のための逆推力装置スラストリバーサーの操作をイメージしながら、前方を凝視する。ほどなくして、2人の影──2体の熱源と言うべきだが──が近づくのを確認する。後部貨物室カーゴルームの入り口を開けていては、時間がかかり過ぎるため、前脚軸のメンテナンス口から入る手筈だ。脚部のライトを手動で点滅させて合図をする。脚部モニターは赤外線切替えカメラが無く、煙幕の中ほとんど役に立っていないが、乗り込み時、カメラ前に親指を上げた画像──おそらく御影恭子の中指を突き上げた手と、それに続いて、ピースサインの手が写った。ピースじゃないだろ、みのりちゃん。

「今入った。出て!」

御影恭子の声だ。

「みのりは?」

もちろん、乗り込んでいるとは思うが、確認する。

「ここにいます!」

間髪を入れず、ブレーキリリース。非常用のロケット補助推進離陸RATO: Rocket Assisted Take Off装置を噴かすため、制御システムの入ったガラスカバーを叩き割ろう──かと思ったが、待機格納庫アラートハンガーが丸焦げになるのは本意ではない。本作戦の目的は、地表降下部隊アタッカーズ救出であって、〈マンタ・レイ〉の強奪は手段に過ぎない。万一、ロケット補助推進機によって基地内で怪我人が出たりしたら本末転倒もいいところだ。

だが、モーター最大出力で移動するも、想像通りのろいのは如何ともし難い。眼前に待機格納庫アラートハンガーの出口が迫ってきた段階で機首を上げ、天井に注意しながらジャンプ。この芸当は飛行船モドキだからこそ可能なのだが、動作がワンステップもツーステップも遅れるのはストレスになる。動作に慣れてしまえば、そして、離陸して空中に舞ってしまえばそんなことは無い筈だ。

ジャンプ後、不協和音のアラートの鳴る中、再び着地したのは、既に駐機場に出て数百メートルのところだった。離陸に失敗したわけではない。一連の動作としては、機首の上げ過ぎで失速ストールしたことになるが、床面に散らばった、扉──だったもの──を一旦避けるための、織り込み済みの操作だ。こんなデカイ機体でも、失速ストール時にバックせず機首から下がるように設計されている。通常の航空機なら後部胴体接触しりもち事故が発生するが、〈マンタ・レイ〉には幸いなことに〝尻〟に相当する部分が無い。着地前には若干の機首下げとスロットル操作を行い、地面効果グランド・エフェクトも考慮して降りた。軟着陸ソフトランディングとはいかないが、墜落ではない程度の衝撃。何やら、機内の監視モニターから──みのりちゃんの悲鳴──らしきものが聞こえた気がするが、とりあえずは黙殺する。瓦礫がれきに車軸が挟まってつんのめり、身動きが取れなくなるよりは、この飛び出しの方がリスクが少ないという俺の判断だ。

煙幕の所為で視界はまだ開けていないが、発着場の縁までは、モジュール2つ分強──およそ3キロメートルはあるだろうか? もっとも、常時硫酸雲の中にいる〈レッド・ランタン〉だから、煙幕が晴れたとしても、2キロ先が見通せるかどうかは疑わしい。ここはフルスロットルで駆け抜けたいところだが、1キロメートル近い翼幅スパンがある機体のため、着地による振動がうねりとなり時間をかけて翼先端まで伝搬していく。これを止めずに駆け出すと、翼が暴れだす危険性があった。文字通りのだ。しなりを応力計で確認しながら、これを打ち消す為、が到達する直前にモーター出力を制御する。理屈は簡単だ。動くべき方向に先に動かしておけばいい。だが、この巨体でそれをやるのは難しい。最大推力を殺さぬようにしながらの制御はなおさら難しい。それでも何とか振動を押さえ込み、取っておいたロケット補助推進機を作動させる。

この間、機銃掃射でもあればそれでオシマイである。ただ、残されたたった1台の大型輸送機が盗まれる寸前とはいえ、状況が分からぬまま、そのような無茶はしないだろうと言う、希望的、楽観的観測に懸ける。少なくとも谷上中尉はそんな司令は出さない。管制室を占拠しているRERCの文民ぽい奴らもそんな判断が出来るとは思えない。小隊長殿おやっさんなら『とりあえず撃っとけ』とか言いそうだが……。


「〈レッド・ランタン〉より〈マンタ・レイ〉二番機へ。貴殿の所属と氏名を述べよ」

「…………」

無線が来た。噂をすれば影がさすというか……谷上中尉直々のお出ましだ。緊急発進スクランブルで警告をしたことも受けたこともあるが、身内からの警告は始めてだった。当然ながら気分の良いものではない。いずれバレるのだからと回線を開こうとした時だった。無線回線の電源が一斉に落ちる。おいおい、どうなってる。それだけじゃない。自動応答装置トランスポンダ応答コードSquawkがご丁寧にも7500に……。7777スクランブルじゃなく7600NORDO──通信障害──でもなく7500ハイジャックだって? ある意味それは正しいが、誰がコードを打ってる?

「統合幕僚監部情報分析部特務情報官付の伊川です。当機は何者かにハイジャックされています。目的は不明。数名の人質が取られています」

座席後方の内部インターフォンからノイズまみれの声がする。赤外通信か何かを使っているのだろう。となると、俺が何か言う前に無線回線を切ったのはみのりかもしれない。普通は操縦席コックピットからしかアクセスできないが、みのりなら回線ジョイント途中からの割り込みなどは朝飯前だろう。それにしても、所属をフルで言ってしまう律儀さがみのりちゃんらしい。

──しかし、その言い方だと、俺がハイジャック犯みたいじゃないか。まぁ、似たようなものか。否定は出来ないな……。

「行き先は? 犯人の人数は?」

「地表に降り…です。人数…不明……で……」

後はノイズだけ。なかなか美味い演出だな。ハイジャック犯の人数は1.5人と言うことにしといてくれ。

〈マンタ・レイ〉の翼振動を気にしながらも、離陸決心速度ヴィーワンまで到達する。こうなれば、管制室も離陸中止RTO命令を出すことができない──撃墜する気なら別にして。もっとも、滑走路をオーバーランしたとしても被害が出る建物があるわけではなく、防護壁の金網を引きちぎって〈マンタ・レイ〉が落っこちるだけ。更に言うと、モーターを切ったまま速度ゼロで落っこちたとしても、55キロメートル下の奈落の底まで落ちる筈もなく、途中でのんびりとモーターを発動させればいい。それがままならなくとも、最低限〝気球〟としての機能は発揮はっきできる。

そのまま何事もなく僅かながら機首上げし、ふわりと舞い上がった〈マンタ・レイ〉は、発着場の縁に到達した直後、直ぐさま急下降で速度を付ける。〈レッド・ランタン〉には翼で〝バイバイ〟をしておいたが、見えたかどうかは定かではない。


多少手荒でイレギュラーな格好になったが、第二次捜索隊はロシア隊に遅れること2時間後。盛大な見送りもなく、こうして出撃した。距離を考えると間に合うとは思えないが、この手の作戦はAプランだけでなく、バックアップ用のBプランも用意しておくのがスジだ。徒労で終わったならそれでいい。──いや、その方が断然いいだろう。バックアップが役に立つ状況というのは、本来間違っているのだから。


「そう言えば──」

俺はこの段になって思い出した。

「御影恭子の本作戦の目的は何だ?」

──詳細を聞いていないことを思い出した。


        *  *  *


「降りた?」

「ああ。密告タレコミ通りだ……」

谷上中尉は幾分不機嫌そうな顔をして、赤電話に出ていた。

「積み荷は?」

「伊川軍曹が人質として取られている。真偽は定かではない。その他人数は不明だが、操縦士パイロットは上沢小尉で間違いない」

「何故分かるの?」

「あんな飛び方が出来るヤツは、ここには上沢しかいない。いや、何処を探してもいないだろう」

「ふーん。取り調べではあの坊や──、口を割らなかったんだけど、その時は何も知らなかったのかもね」

「あの女は何者だ。御影恭子という生物学者──」

「それが分からないから泳がせているの。発信器は?」

「付けてある。内部からでは探知できない場所にだ」

「OK。後はこちらで追うから」

「こっちは追いたくても、追うための実機が全て出払っている。これ以上は何も協力はできん」

「分かっている。状況が分かれば逐次報告するわ。ではまた後ほど……」

ソーニャはそう言ってホットラインの電話を切ると、

「遺跡にご招待ってわけね……」

と、独り言を吐いて微笑んだ。

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