ヴィーナス・アタッカーズ
悪紫苑
第1章 任 務
「着任早々、輸送船で回収作業とか……。ったく、俺はまだ、基地周辺の地理さえ頭に入ってないって言うのに。ここはそんなに人手不足なのか?」
半分は皮肉、半分は冗談だ。少なくとも、僅かな地上部隊を除き、ここの地理を覚える必要はなさそうだった。そもそも基地周辺って場所は常に不確定。俺たちは常に飛んでいる。降りるべき地上は何処にも無い。
「はは。そう腐るな。三ヶ月も寝てたんだから休養十分だろ。肩慣らしには丁度いいフライトだと思うがな」
「アレが寝てたって言えるか! 冷凍食品並みの扱いだろうが!」
湊川とはその昔、一緒に働いた事があるからよく知っている。まさかこんな所で再び一緒になるとは思わなかったが、見ず知らずの土地で知った顔を見れば多少はホッとする。だが、今の俺は──なんと言おうか。そう、不機嫌だった。別に怒っているわけじゃない。不安というのとも少し違う。心の準備も出来ないままこんなところに放っぽり出されて、俺は一体何をしてるんだろうね──と、激しく自己嫌悪に
「それにな。
湊川は、腕組みをして、こちらをチラリと見ながら話しかける。心無しか、笑っているようにも見える。
「お前──、ここを希望して
「はぁ?」
「『俺は大気中をGを感じながら飛びたいんだぁ!』とか何とか大見得切ったと……。違うのか?」
「…………」
どこから伝わったデマだ、そりゃ。
確かに、話を要約して嘘をつかない程度に都合よく
『目標をセンターに入れてスイッチ』
たったそれだけ。その繰り返し。何が楽しいんだろうねぇ。
感じられるのは、ONとOFFのスイッチの感覚と、それに伴う、これまたONとOFFの二者択一の慣性力だけだ。全てがスイッチ操作で事足りる。操縦桿の必要が無い。何と言うか、
もともと、空軍のテストパイロットを経て、宇宙局へ配属になった俺だ。自分で言うのも何だが、エンジンで空を飛ぶものは、オートジャイロから、最近計画が始まった核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』まで飛ばせる自信がある。もっとも、後者は、実物がこの世に存在しないので、あくまでもシミュレーターの中での話だが、妙にフワフワした加速で腰の座りが悪い、お尻がムズムズする──何というか、ビーチボールに乗って小刻みに飛び跳ねているような、奇妙な加速の機体だった。
より速く、より高く──って言うのが飛行機乗りの心情だ。誰だって同じだろう。だが、宇宙空間まで出てしまうと、少しばかり事情が異なる。大気があれば、速度は肌で感じることができる。マッハを超えれば目でも分かる。円錐形の圧縮された空気層の前後で、風景が少しばかりずれて見えるからだ。空の色と機体の振動、音、それらが一体となって状況を教えてくれる。だが、宇宙空間には大気が無い。そうすると、宇宙船の加速度は感じる事ができても、速度を感じ取ることができなくなる。頼りになるのは計器だけだ。
宇宙船での初フライトの時、俺は奇妙な
その後どう操縦したかはよく覚えていないが、さらに上空に逃げようとして上を見ると、回転する地面があった。いや、おかしい。計器を見ると水準器が逆転している。猛烈なGで機械が狂ったと思ったが、狂ったのは俺の方。典型的な
──なんで、こんな回想をしてるんだ?
そうそう。宇宙船の初フライトだ。基本的に宇宙船の操縦は計器のチェックとスイッチのONとOFFだ。ぶっちゃけ、外を見る必要が無い。だが、そいつは宇宙船乗りがあまりに可哀想だろうってんで、操縦には不必要な窓が申し訳程度についている。360度見渡せる戦闘機とは大違いだ。反対に、完全に閉鎖された
どうも話がブレるな。
──で、宇宙船の初フライトのとき、その小さな窓を見上げて地球を見つけたとき、そのときの情景・感覚が
むろん、宇宙局勤務で楽しいこともあった。特に大気圏
ただ、操作のほとんどがコンピュータ制御で、その点が唯一の不満だった。コイツが壊れれば手動操作の許可が下りるんだが、意外と頑丈だし、バックアップを含めて3台のコンピュータの合議制で判断しているので、それら全てがお釈迦になることは──、まあ、俺の飛行人生の中では発生しない事案だろう。もしもそんな事態が起こることがあるとしたら、それはコンピュータのみならず、宇宙船そのものの大破を意味する事になり、その段階では手動であってもどうにもならない事態だということだ。
そんなこんなで、俺は3年あまりの宇宙局での勤務を終え、『大気圏内を再び飛びたい』と、調書の勤務希望欄に強く書いた。湊川の言っていることは嘘じゃない。
確かに〝より速く、より高く〟を追求するのなら宇宙空間に出ざるを得ない。だが、速さと高さを自分で体感できないのなら何の意味がある? 数字の上だけで満足なら、地球は太陽の周囲を秒速30キロメートルで移動していることになるから、地上勤務で充分ってことになるじゃないか……。
だが、人事部の奴らの方が一枚上手だった。『お望み通り──』と受け取った辞令を見て俺は目がテンになった。一度目を
──ここは金星なのだ。
一言『地球で』と書いてなかったのが悔やまれる。もっとも、書いたとしてもそれが採用されるとは限らない。どちらかというと
そういうわけで、俺の
金星にもそれなりの都市があって、研究者を始め、ある程度の人が住んでいることは知っていた。火星にもあるんだから金星にだってあるだろう──その程度の認識だ。ちなみに、火星には、都市間の輸送部隊の一員として、3ヶ月程行った事があるが、あそこはほとんど弾道飛行で、大気中を飛ぶと言う感覚はなかった。輸送機の巡航速度で飛ぶだけなら、何とか空力学的に飛ぶことができるという程度で、それもかなり難しかったのを覚えている。下手に旋回などしようものなら、直ぐさま3000フィート位落ちて、立て直しに時間がかかった。空中戦なんて絶対できない。好戦的な火星人がいなくて本当によかった。
木星当たりまで行くと、それなりに大気の濃そうな惑星──じゃなかった、衛星がゴロゴロしているようだが、人類が気軽に到達できる距離じゃない。まあ、人類が一万人単位でまともに住めるようになるには、あと百年位かかるんじゃないかな?
俺は金星に関してはその程度の知識しかなかったから、火星と同じく、ドーム型の都市が地上にポコポコとあるんだろうと思っていたが、その素人考えは全く通用しなかった。何しろ、金星の地表面の気圧は90気圧を優に超え、温度に至っては460度もある、どんな圧力釜もビックリするような環境だ。いやいや、それはいくら屈強な人種でも住めんだろう──よほど月面の方が住み易いじゃないか──と考えていたが、そもそも金星の都市は地表には無かった。正確に言えば、地表にも数地点の極地観測基地があるのだが、ほとんどの人間はそこにはいない。居住区となる都市は地表から55キロメートル程の上空に浮いているのである。
『空中都市』と言えば何やらカッコイイが、反重力装置みたいな超科学的設備があるわけではないから、気球が空中に浮いているのと基本的には同じ原理だ。基本的なモジュールは一辺が1キロメートル近くある六角形の浮き袋のような形態で、それら数百~数千のモジュールと、そこから腕のように伸びた通路が規則的に絡み合い、一つの巨大な居住区を形成している。何かの分子構造を
国と言っても、一応金星は、一つの自治権を持った連邦共和国を成しており、地球上のどの国の支配下にも置かれていない──と言う建前になっている。いや、さらに言えば、共和〝国〟ってのも間違いであって、
だが、建前は建前でしかない。現実は、緯度帯の都市ごとに主たる
衣食足りてくれば、そのうち独立戦争でも起こすんじゃないかな? いや、最初から建前としては連邦共和国──さらなる建前では国ではない──として独立しているから、外国人排斥運動か。だが、そもそも金星には
* * *
「ところで──」
俺は湊川にどうしても聞いておきたいことがあった。
「──後ろの
「あぁ? ああ、アイツか。アイツは止めとけ」
「はぁ?」
俺たちが乗っているのは、巨大な飛行船モドキだ。胴体となるような部分は存在せず、〝く〟の字型の翼だけで構成された硬式ハイブリッド飛行船というのがその正体。その形状から〈ブーメラン〉と言う
〈ブーメラン〉は地球上のハイブリッド飛行船と同じく、図体の割にはあまり荷物は詰めないのだが、それでも全長──いや、縦より横幅の方が圧倒的に長いので、全幅というべきだが──300メートルもの機体には、テニスコート2面分くらいの
だが、モニターの片隅。チラッと動く影を見つけた。小さな人影。ズームして寄るとスラリとした肢体の女性がトランクに腰掛けていた。更にズームをすると……芯が強そうな鉄色の眼で
──と、その前に、今回の
金星行きの辞令を受け取って
ただ、俺が所属する〈レッド・ランタン〉に到着すると、周囲は思ったほど明るくないことも分かった。多くの空中都市は、気圧と気温の関係で常に雲中にある。太陽からの直射光は全く拝むことができない。もっとも、地球の2倍も明るい太陽は
到着して3日間は
「上沢ぁ、そんなのは一時的な筋力の衰えだ! 走れ!」
と、俺たちが〝おやっさん〟と呼んでいる小隊長殿は、着任当日から元気だった。名は長田源一郎。いかにも隊長っぽい名前だろ。官舎から見下ろした道沿いを、ランニングシャツだけで走る
ちなみに気づいていると思うが、上沢──上沢俊介ってのが俺の名だ。
着任当初は
『お前ら、ちょっと水汲んでこい!』
──まあ、一言で言えばそういうことだ。要はパシリだな。
後で聞いたのだが、この〝
地球に有って金星に無いものと言えば、真っ先に思いつくのが水だ。逆に言えば、地球から水を取り除き、生物が作り出した炭酸塩とやらを二酸化炭素として大気中に戻してやれば、地球も70気圧程度の灼熱の惑星になる。水の有無が2つの惑星をこんなにも変えてしまったわけだ。いや、逆か? 太陽に近く、暑かったことが原因で、水が蒸発して無くなったのだったか? まあいい。ともかくこの星には水が無いのだ。
で、金星で水を確保する手段は2つ。ひとつはなけなしの大気から搾り取ること。金星に降る濃硫酸の雨を加熱して水と三酸化硫黄とやらに分離するらしいが、機械のメンテナンスまで考えると面倒で効率が悪いらしい。そしてもうひとつは、外から水を持ってくる方法だ。とは言っても、バケツで汲んでくるわけにはいかない。少々荒っぽい方法だが、氷で出来た小惑星──つまり、彗星の軌道を変えて落っことすのである。
問題は、どうやって受け取るか? ──だ。地表に落ちるまで待っていたら、途中で全て蒸発してしまう。落下時の空力加熱対策として、落とす前段階の彗星前面に
作戦そのものは非常に単純だ。まずは〈ブーメラン〉に乗り、彗星の落下地点へ向かう。コイツは小型核動力炉で飛ぶプロペラ機だから、精々、空抜5千メートルくらいまでしか上昇できない。何しろ大気中に酸素がないので、酸素を必要としない動力で動くプロペラ機か、酸素を含んだ推進剤を最初から搭載したロケット推進機しか、空を飛ぶ事が出来ない。落っことす彗星の大きさにもよるが、空抜5千メートルでは氷のほとんどはバラバラに四散してしまい、広範囲に雨となって降り注いでしまうので、回収は難しい。
そこで、ロケット推進機付きの高々度迎撃戦闘機──いや、戦闘機じゃねーな。迎撃しちゃダメだからな。ま、ともかく、そいつの出番だ。
〈ブーメラン〉には通常、緊急脱出用の複座のプロペラ機体が二機備え付けてあり、〈ブーメラン〉の翼上を滑走路として使い、離発着できるようになっている。今回はそのうちの一機がロケット推進の特別仕様で、腹にビッグ・ハンドと言う強化カーボンか何かでできた丈夫な大風呂敷を格納した〈収水〉という名の機体に換装。コイツで空抜3万メートルくらいまで一気に駆け上がり、ビッグ・ハンドを彗星めがけて発射。ビッグ・ハンドは半径500メートルもの巨大な膜となって広がり彗星を捕獲。上手く言ったら
話は簡単なのだが、ビッグ・ハンドの発射タイミングが迷いどころだ。彗星まるごと手に入れようとするならば、大気圏での摩耗を減らすためなるべく上空で待ち構え、目前を通過する直前にビッグ・ハンドを広げればいい。ただし、上空に行けば行く程、彗星の速度は速い。ミスって発射前に彗星とすれ違ってしまえば、上空から追いかけても全く間に合わない。速度は彗星の方が圧倒的に速いのである。要は新手のチキンレースみたいなものだ。無難に40%確保を目指し、低空かつ余裕を持ってビッグ・ハンドを展開するか。はたまた、限界まで上昇し、彗星を視認出来る程度まで接近して、交差直前でビッグ・ハンドを展開するか……。
まあ、俺の方針は最初から迷う余地もないくらいに決まっている。あえて言うまでもないだろう。
──と、今回の〝水汲み作戦〟は、二名いれば事足りる。〈ブーメラン〉の操縦者と〈収水〉の操縦者だ。だから、彼女が乗っている理由が分からない。もしかすると、水源確保の作戦なんだから、
何? 二席余っているんじゃないかって? 実は、既に飛行機酔いで青ざめた男が一人、後ろでぐったりしているのだが、あまり話に関係無さそうなので説明は割愛する。野郎のことは興味が無いしな。
* * *
「で、誰なんだ、彼女は?」
「だから、手ぇ出すのは止めとけと言っているだろ」
湊川は鼻で笑っている。手を出すとか誰もそんなこと言ってないだろうが。
「まあ、中々の美形なのは認める」
湊川は何か
「だがな、上沢。彼女の興味は〝キン〟だけだ……」
「ほほぉ……。それはまた、えらく直接的だな」
何が何だか良く分からんが、ここはこのくらいボケてもいいだろう。湊川は深く深く息を吐き、道に迷える子羊を見るように哀れんだ眼で俺を見ながら──
「お前……、何か大きな勘違いをしているようだから、俺が懇切丁寧に教えてやる。彼女は
「ボストーク基地?」
「南極だよ。南極。あとは、深度一万メートル級の深海の熱水鉱床周辺の微生物を調べたりとか。極地ばかり巡っている変人だ。だから、手ぇ出すのは止めとけ」
「ふふっ」
俺はつい、鼻で笑ってしまった。
「どうした。何がおかしい」
湊川は
「語るに落ちたとはこのことだな。なあ、湊川。何でお前がそんなに詳しく彼女の素性を知っているんだ。お前こそ気があるんじゃないのか?」
湊川は一瞬だけ『しまった!』と言う顔をしたが、直ぐに元の子羊のソテー──じゃなかった、迷える子羊を見るような眼となり、
「
「そうだったか?」
うーむ。そう言えば、そんな気もする。現に、作戦遂行中の〈ブーメラン〉に乗っているのだから、
俺も金星に来た時は、『水が無いなら気象現象は単純なものだろう』と考えていた。火星がそうであったようにである。ところが、空中都市が点在する高度──金星の地表から55キロメートルあたり──は硫酸の雨が降る。雨は地表までは達しないものの、マクスウェル山などの高山には黄鉄鉱の霜が降りるそうだ。水は無くとも、硫黄化合物がその代役を務め、極めて複雑な気象現象を引き起こしているというわけだ。
硫酸の雲が出来るなら
それにしても、この星では
──てなことを考えながら俺は
「それと、もう一つ」
こちらの殺気を知ってか知らずか、湊川は少しばかり真面目な顔になり、小声で付け加えた。
「彼女は、ユークレーンの血が半分入ってる。本当か嘘か知らないが、よからぬ噂も耳に入っている。気を抜かない方がいい」
「そうか? 気をつけておくよ」
そう言えば、睨み付けた瞳は、緑がかっていたな──って、えーっと、ユークレーンって誰だ? 有名人か? 良からぬ噂って何だ?
* * *
湊川に問いかけようとした矢先だった。キンコンと明るいチャイムが鳴り、頭上の赤ランプが蛍のように点滅を始めた。俺は
もっとも、今回の任務で必要なのは絶対的な金星の緯度経度情報だけだ。ランデブー相手の彗星軌道は既に
「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。上沢、湊川。調子はどうだ?」
眉をひそめてモニターを見ると、
「極めて順調──と言いたいところですが、ずっと雲の中を飛び続けるのは性に会いません」
「ハハ。そんなこと言っていたら
「
「それから、分かっているとは思うが──」
「──今回の
見透かされているな……。
「分かりました。
「ベターぐらいにしとけ」
「ふぅ──、努力します」
ま。
「それと──だ。お嬢ちゃんによろしく。『協力しろ』との上からの命令が来ている」
「何を協力すれば?」
「彗星中心核の生物探査だそうだ。詳細は知らされていない。何がお望みかは本人に聞くんだな。くれぐれも手ぇ出すんじゃねえぞ」
言いたいことだけ言って、
〝お嬢ちゃん〟ねぇ……。見た目で判断しちゃいけないが、どうみてもそんな玉じゃないことは分かる。しかし、どいつもこいつも『止めとけ』だの『手ぇ出すな』だの、人のことを、女性と見れば見境なく口説く色情魔か何かだと思ってやがる。
俺は五点式のシートベルトを外し、
思ったよりコンパクトな機体がそこにはあった。全長6メートル弱、全幅が10メートル程度と幅広の真っ赤な機体。元は緊急脱出用の機体だから、長距離用では無い。オリジナルからの改造点として、二軸の電気モーター式プロペラは取り外され、主として惑星間飛行用に使われる
それにしても、如何にもにわか仕込みの付け焼き刃的な装備だ。換装されたエンジン部は塗装も無く、白いセラミックが剥き出しだし、ポッドは空軍仕様の空色。統一感がまるで無い。カラーリングで空を飛ぶわけじゃないが、赤白青のパッチワークは、まるでオモチャだ。オランダかフランス空軍なら喜びそうではある。
それに、エンジンだけ強力にしても、この翼形じゃあ超音速時に抵抗が有り過ぎる。推力だけは桁外れにあるから、無理に引っ張っても──ん? この主翼両端の塗装剥げは……なるほど、そういうことか。
「おわっ!」
ひと通り、機体の周囲を舐め回すように確認し、コックピットに乗り込むため〈収水〉の主翼に足をかけた時、俺は思わず声を上げた。それに呼応するかのように、後部座席の人影が振り向き、緑がかった瞳がこちらを見上げる。顔色は透き通るように白い。
「何故、──ここにいる?」
「聞いてないの? アタシはあの彗星に用があるの……」
彼女がそこにいた。
「一緒に上がる気か?」
「そうよ。文句ある?」
初っ端から何故かケンカ口調だ。俺の人を見る目も伊達じゃねーな。そして、彼女の憎まれ口はさらに続く。
「──本当はアタシが飛ばしてもいいくらいなんだけど、帰りの操縦があるでしょ。だから譲ってあげたの」
「おいおい。遊覧飛行じゃないんだぜ」
「分かってるわよ、そんなの。アンタはアタシをちゃんと彗星まで送り届けてくれればそれでいいの」
なんだ、なんだ。何なんだコイツは? 想像通り──いや、想像以上のツンツン振りだな。その鼻っ柱を折ってやろうかと、俺がさらに問いただそうとした時、湊川からの無線が入る。
「お二人さん。痴話げんかのまっ最中済まないんだが──」
「誰が痴話げんかだ!」
「誰が痴話げんかよ!」
声がハモった。
「──そろそろ発進しないと出遅れるぞ」
時計を見ると、出発予定時刻まで三分を切っていた。確かにここで口論している場合じゃない。
「ベルトをしろ。酸素ボンベは──」
「大丈夫」
彼女はヘルメットをかぶり、酸素用レギュレータや耐Gスーツコネクタ類を慣れた手つきでテキパキと機体に接続して行く。素人にしては出来過ぎだ。いや、どう見ても素人じゃない。
彼女の衣装は通常のフライトジャケットでは無く、厚手のレオタードの様なものだった。ケブラー繊維の中に
主電源、補助電源、その他モロモロのスイッチを二の腕で一気に押し上げ、計器が完全に立ち上がる前に手動操作で必要な油圧のチェック。操縦桿とラダー操作を行う。ジャケットと電子機器との接続をモニターで確認。彼女の後部座席も問題ない。バックミラーに親指で確認済みの合図をすると、同じく親指で回答あり。キャノピーを閉めつつ湊川へ連絡。ここまで一分二十秒。
「準備はいいぞ。いつでも上げてくれ」
「ほい来た。こっちも確認済みだ。今開ける」
格納庫内の与圧が下がる音がし、ゆるゆると天井が開く。大気密度が違うのか、それとも大気組成の違いの所為なのか、陽炎のような揺らめきが一瞬起こった後、俺たちは昇降機で機体ごと上昇しながら、黄味がかった雲海に出た。晴れ舞台ならぬ曇り舞台だ。肉眼では150メートル先にある筈の翼端すら見えない。
「
何気なく聞いた言葉に応えたのは、湊川では無かった。
「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。現在の彗星の位置は、えーっと──、高度8万メートル。ほぼ予定通り。そちらに座標データを転送します」
「あれ? みのりちゃんも今日が初仕事?」
「はい!
「おおっと。すまんすまん」
──伊川みのり。昨年入って来たルーキーだと言うのに、新人研修もそこそこにいきなりの金星勤め。俺より3ヶ月前の
みのりは、〈レッド・ランタン〉が管理する空域の管制担当──の見習いになっている。彼女は情報軍採用だから本来の職種とは違うのだが、手始めの仕事としては丁度いい負荷だろう。指示を出すべきなのは一機。敵対する相手も一機──いや、一星か? まあ数え方はどうでもいい。そして、重要なのは、本作戦は戦闘行為ではないという点だ。少々ミスをしても誰も死なない。事故はあり得るが、それは
仮に、みのりがいきなり実戦に投入され、彼女の指示ミスで、何名もの命が亡くなれば、亡くなった者はもちろんの事、彼女の精神的ダメージも計り知れない。それは可哀想──という感情論ではなく、それによって優秀な人材が減るのが問題なのである。ドライ過ぎる言い方ではあるが、ま、それが現実だ。
「座標データは確認した。彗星は……ほお? ちょっと東過ぎないか?」
「それでいいんです。スーパーローテーションによる気流は、上空ほど強いので……」
「なるほど。ほんじゃ、いつでも出られるぞ。湊川、そっちは?」
「問題ない。レーザーガイドに従ってくれ」
「
〈ブーメラン〉の主翼に二列のライトが点くとともに、空中に向かいレーザー光が放たれる。〈収水〉の後方には焦げ跡の付いた
電子系統を一通り再確認した上で、エンジンに火を入れる。心地いい振動と共に、一瞬だけカタパルトに車軸がめり込む感覚。
出撃時のお約束的な派手なブザー音と共に、赤ランプが三つ。二つ。一つ──。
「出るぞ。アゴ引いとけ」
後部座席に声をかけるが返事は無い。俺も、操縦桿から手を離して、キャノピー枠に手をかける。〈ブーメラン〉は上昇から推力を絞り、〈収水〉射出の瞬間はほぼ失速状態。飛行甲板を兼ねている翼は湊川の操舵により、上空への射出を手助けするべく、天空向きに20度程度傾く。この段階では、俺より湊川の方が作業が多い。ボタン一発とは言え、シューター役もこなす必要がある。
緑ランプ点灯。
カタパルトとフルスロットルの力で、俺と彼女──そういや名前を聞いてないぞ──は豪快なGと共に、真っ白な空間へ放たれた。
* * *
射出直後、離していた操縦桿を握り左右に軽く振る。レスポンスは悪くない。
──いやいや。そういう話がしたかったわけじゃない。彗星の視認うんぬん以前に、ともかく俺はこの白い闇の中から脱出したかった。今度の人事調書には『青い空を飛びたい』って書くかな──とか思ったが、火星の青い夕日を思い出して考えを改めた。大気内を駆け回る楽しみを考えれば、大気が濃い分、火星よりも金星の方がまだマシに感じられる。
ただ、大気が濃いだけではなく、金星の雲は、主に硫酸で出来ている。吸い込めば命が危ない。そうでなくても大気中に酸素があるわけではないから、命が危ないのは雲の無い上空でも雲底の下でも同じだ。とかくこの星は住みにくい。
「どうだ。〈収水〉の乗り心地は?」
ひと仕事終えた湊川が、雑談のように聞いてくる。
「機体は紙のように軽いのに、推力があり過ぎる。ケツが揺れてるな」
「はは。そうだろ。俺も着任時にソイツに乗せられたからな」
──そいつは初耳だったな。湊川はさらに続ける。
「何なら、そのままスピード記録更新ってのもありだ。挑戦してみるか?」
「いや。遠慮しとく……」
湊川の奴、売られた喧嘩は見境なく買う俺からそういう返事が返ってくるとは、想像してなかったのだろう。ヘッドホン越しにもハテナマークの三連星が聞こえるようだった。だが、実際に聞こえたのはもっと近くからだった。
「もっとスピード出しなさいよ! なるべく上空で彗星を捕まえないとダメ」
「そいつは無理だな。この機体はおそらく──マッハ1.4程度が限度だ。それ以上は制御ができない」
「どういうことよ?」
彼女の言葉を聞いた直後に短い
「機体の形状が問題だ。コイツは幅広過ぎる。衝撃波が主翼端にかかると何かと厄介だ。可変翼なら良かったんだがな。それと、もう一つ。元の機体がプロペラ機だった所為で、翼形が
「ふぅーん。そういうものなの……」
「そういうものだ」
「
それっきり、彼女は黙ってしまった。意外と素直だな。
「ははぁ。バレてたか」
湊川の声が、開き直る3秒前の悪代官のような調子でヘッドホンにこだまする。
「当たり前だ。何年テストパイロットしてると思ってるんだ。ま、任せておけ。最短・最速でランデブーしてやっから」
雲頂高度を抜け、待ちに待った青空に突入する。金星に成層圏って概念があるのかどうかは知らないが、何にせよ気分がいい。上空にはところどころドライアイスの雲が
少々誤算だったのは、二酸化炭素大気中の音速はかなり遅いってことだ。マッハを超えたと言っても、地球上のソレに比べると、三分の二程度じゃないかな?
「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。彗星は10時の方向。そろそろ見えると思います」
みのりの、少し緊張した声が伝わる。
「
「それは彗星本来の尾じゃありません。大気圏突入時に出来た水蒸気の──」
「分かってるって」
彗星はまだクモの糸の先程度にしか見えないが、その尾は長く伸びていた。大気圏外での彗星の尾は、太陽光や太陽風によって弾き飛ばされて放出されたガスの尾だが、今見えているのは大気圏突入によって発生した水蒸気だ。出ている成分は同じでも、生成の仕方が違う。どちらかというと飛行機雲に近い。
岩石で出来た彗星ならば、この段階で一気に加熱されてバラバラになってしまうが、氷の彗星は案外頑丈で、形を保ったまま雲頂付近にまで達することが多い。もちろん、大気圏外でコーティングした
飛行機雲の後端。薄く広がりつつある側は、
「みの──伊川軍曹。ランデブーまでは
「はい。彗星の予測進入路修正確認。ランデブーまでは
キャノピーには到達予測範囲が浮かび上がっている。もうちょい右かな。さぁてと、後は度胸と踏ん切りの問題だ。何でも、幸運の女神様は後頭部がハゲているらしい。通り過ぎてからひっ捕まえようにも、つかむ髪が無いそうだ。
何気なくバックミラーを見ると、彼女が何処からか取り出した双眼鏡──いや、カメラかも知れないが、そいつで熱心に彗星を観察している。搭乗時には聞けなかったが、彼女は何の目的でここにいるのか? 『送り届けて』とか言っていたが、まさか彗星に飛び乗るつもりではあるまい。彗星を観察するだけなら、帰投後に機体の機首カメラの映像をコピーすれば済む。直接、肉眼で見たいっていうのは分からんでも無いが……。
「あっ!」
そいつは唐突だった。彼女が声を上げるのと同時に、彗星の一部が分裂を始め、リアルタイムで計算されている到達予測範囲も
「まずいな……」
全体の三割くらいが分裂したように見えるが、水蒸気のベールに包まれてはっきりとは分からない。赤外チャネルの最大望遠で見ると、側面が裂けた格好だ。このままなし崩し的に分裂してしまうと、どこを中心にしてビッグ・ハンドを展開すればいいか分からなくなる。自然的不可抗力だからこちらの操縦ミスでは無いにせよ、大部分を取りこぼしてしまう事態は何とか避けたい。
──とは言っても、こればっかりは神頼みしかないな。
分裂した三割は、残りの彗星本体とは少しずつ軌道を
時間的にも余裕が無かった。ビッグ・ハンドを射出して展開するまでにほぼ十秒。射出後に現空域を一気に離脱しなければ、最悪、彗星と正面衝突だ。眼前で再び分裂する事態などを想定すれば、最低でも十五秒は欲しい。
だが、それとは裏腹に、なるべく引きつけてからビッグ・ハンドは射出すべきだった。今のところ、彗星がこれ以上分裂する兆候は無さそうだが、射出後にまっ二つに分裂し、ビッグ・ハンドを
彗星が現状のまま落下を続けたとしても、選択肢は2つある。分裂した分も含め、全てを包み込むようにビッグ・ハンドを射出するか、それとも、七割を確実に受け止めるように射出するかだ。彗星の到達予測範囲は、その全てが辛うじて半径500メートル内に収まっている。だが、少しでも射出位置が狂えば、どちらかを取りこぼすことになる。どうせ取りこぼすならば、安全策で七割を確実に受け止めた方がいい。
二兎追うものは一兎も得ず。一石二鳥ってのもあるな……。この場合どっちだ。
──なんてな。
悩んだふりをしているが、実は全然悩んでいない。取れるモンなら全部取りに行く。それで失敗しても後悔は無い。むしろ、安全策を狙って成功しても、ちっとも嬉しくない。ならば道はひとつだ。
「回避限界まであと十秒! 急いで下さい!」
みのりの声が上ずっている。まだまだだな。お前がテンパってどうするよ。
「射出後、9時方向に
「
危機一髪──と言いたいところだが、俺としては余裕を見た方だ。一髪じゃなくて、髪の毛三本分くらいの余裕はあった。射出後、間髪入れずに──ここは一髪も入らない──機首を持ち上げナイフエッジで左に離脱。右目でビッグ・ハンドが開くのを見ながら、直後に彗星が通過するところを足元で感じる。眼下なので直接見ることはかなわなかったが、俺はこの時、彗星の全てを手中に収めたことを信じて疑わなかった。全てがシナリオ通り──のはずだったのだが……。
半回転して背面になり、頭上の雲海を見上げて、そうではないことを知る。ビッグ・ハンドに包まれたのは七割の方だけだった。残り三割は並走して落ちて行く。目の錯覚ではないかと最初は思った。射出は完璧だった。あの軌道で捕まえられないわけがない。
水蒸気の雲の中で目を凝らし、俺はひとつのあり得ない結論に達した。
──三割がビッグ・ハンドを回避した⁉
彗星は、ビッグ・ハンドをバレル・ロールでかわした後、平行移動で再び同じ軌道に戻った──そう考えなければ説明がつかない飛行機雲が残されていた。その証拠は、残り七割の彗星からの水蒸気と絡み合い、直ちに分離不可能になってしまったのだが、絶対に見間違いではない。どういうことだ?
まあいい。証拠は機首カメラに残っている筈だ。今となっては追いかけても間に合わない。機体を立て直し、降下を始めようとした矢先、後部座席から声がした。
「ここで降りるわ。これ……開けてくんない?」
「何だって?」
彼女は天井のキャノピーを指差している。何の冗談だ? ──と、最初は思った。
「アタシはあの彗星に用があるって言ったでしょ?」
「捕獲した彗星はそのうち
下方を見ると、実際に
「どうしても開けてくれないのね?」
答える代わりに、俺は左手を左右に振った。
「なら仕方ないわ……」
さっきと同様、実は見かけによらず素直なんだなと、彼女を見る目を少し変えようと思った瞬間だった。
「なっ⁉」
鈍い爆発音がした刹那、足元から急激な減圧。一瞬、操縦席の空気が白くなり直後に消える。操縦席と後部座席との間には透明な隔壁がある。ただし、一カ所だけ換気口が存在しており、機内雰囲気の循環が行われている。そこから空気が漏れて──いや、漏れているという半端な状態ではない。あわてて後方を振り向くと、後部座席ごと彼女が消えていた。まるでスローモーションのようだった。視線を横に振ると、彼女は射出された座席のベルトを躊躇無く外し、見事なフォームでさらに空中へと、単身ダイブしたのである。
不覚にも二秒ほど状況が飲み込めなかった。戦場なら死んでてもおかしくないレベルの意識空白だ。要するに、彼女は、緊急脱出用のボルトに点火し、後部のキャノピーを吹き飛ばして座席ごと成層圏に飛び出した挙げ句、座席に備わっている様々な救命装置──当然、パラシュートもだ──すらあっさり捨てて、虚空に飛び出したのだ!
「ばっ、ばかやろう‼」
とっさに出た言葉はそれだけだった。
「えっ? 何?」
──と、みのり。
「どうした? 爆発音がしたぞ!」
──と、湊川。
「状況を報告しろ」
──と、
いっぺんに言われても、こちとら聖徳太子じゃないんだ。
「彼女が緊急脱出した。飛行には問題ない。救助に向かう」
理由を説明している暇はない──って言うか、俺が聞きたい。
索敵用マーカーに映った彼女の肢体を拡大すると、背中に鋭角な翼のようなものが見える。空を飛ぶには小さ過ぎるから、落下中に方向を変えるためのものだろう。後部座席にいた時はそんな大きさのものは背負っていなかったから、脱出後に展開したものだ。アイツ……最初から外に出るつもりだったな。
地球上なら放っておくところだ。自らの意思で飛び出して、中身はよく分からんがそれなりの装備を背負っているならば、自己責任で何とかしてくれ。俺は知らん! ──と、突き放すこともできる。放っておいても、落ちる場所さえ悪くなければ問題なく生還出来る。だが、金星ではそうは行かない。地表は90気圧で460度。生き残れるのは映画で出てくるエイリアンくらいなものだ。
いや、それ以前に、濃硫酸の雲海の中に、あの装備で入って無事なのかが分からん。頭部のヘルメットを含めて全身が外気に触れる事は無いとは言え、どこか穴が開いていたらどうなるか? それに、酸素だって十分にはないだろう。仮に雲海の奥にまで落ちてしまったら、目視で見つけ出すのは至難の業だ。GPSビーコンくらいは持っているんだろうな?
俺は、レーザー・レーダーを駆動させ、彼女をロック・オンした。こいつが追跡していれば、雲海に飲み込まれても何とかなる。だが、場所が分かったとしてどうやって助ける? 下に回り込んで、空中でキャッチとか、まあ絶対に不可能だ。ビッグ・ハンドの予備でもあれば、彗星と同じ要領でキャッチできるが、既に使っちまったわけだし、〈ブーメラン〉に戻って換装してる暇なんてどこにもない。
現空域にいるのは俺と湊川だけだ。彗星が落っこちてくると分かっている空域なんだから、あらかじめ航行制限が出ている。〈ブーメラン〉を遠隔操縦に切り替えて、湊川が上がってくるのも不可能だ。〈ブーメラン〉にはもう一機、改造されていない緊急脱出用の機体があるが、そいつは何の変哲も無いプロペラ機で、救助機にはなれない。救助される側の機体なんだから、当然だ。
雲頂が迫っている。だが、彼女がパラシュートか空中係留用の気球を出す気配はなかった。持っていないということは無い筈だが……。
この段になって、俺は彼女の行動に疑問を覚えた。何故に緊急脱出までして飛び出すのかってのが一番の疑問だが、それはこの際、置いておくとして、『あの彗星に用がある』と言ったのだから、ビッグ・ハンドで捕獲した彗星へ降り立つものだと思っていた。おそらく、それ以外に彼女の助かる道は無い。ビッグ・ハンドはそのうち
ところが、彼女が追いかけているのは、そちらから外れた、残り三割の方のように見える。あちらに着地するのは、落下速度の関係でまず無理だし、仮に着地出来たとしても、行き先は奈落の底だ。明らかに助からない方の道を歩んでいる。1~2分以内に決断してビッグ・ハンド側に着地しなければ、彼女の助かる確率は限りなくゼロになるだろう。
「えっ⁈」
彼女が追っている残り三割がさらに爆発した──かのように見えたが、それは違った。光ったのは取り損ねた彗星ではなく、さらにその向こう──雲海の向こう側からの光だった。正確に言えば、正面の雲海中から照射された赤外光を〈収水〉のセンサーが拾い、キャノピーに装備されたヘッドマウントディスプレイに、それを知らせるアラート光として表示してくれた──ということになる。俺はとっさに操縦桿を倒し、回避行動に出る。頭で考えるより先に手が動く。この光の動きには見覚えがある。今、俺が照射しているレーザー・レーダーと同じ。ここが戦場なら高確率でこの後に誘導弾が来る。
こちらの位置を知らせないため、レーザー・レーダーは反射的に切ってしまったが、切る直前まで光点は存在した。ただ、赤外光を照射した筈の機影は雲海に呑まれていて全く見えない。レーザー・レーダーも『何かいる』ということを認識しただけで、形のあるものは何も捉えていない。〈ブーメラン〉が眼下に到着したのかと一瞬だけ考えたが、〈ブーメラン〉は巨大な飛行船モドキだから足が遅い。この空域に到着するまで20分はかかるだろう。それに、仮に〈ブーメラン〉が映っているのだとしたなら、それはそれで巨大な影が映るはずだ。
──目からビームを出してる鳩でも飛んでいるのか?
一方、雲海の向こうからの光に反応したのは俺だけではなかった。彼女もまた回避行動とも取れる行動を起こした。すなわち、ビッグ・ハンドへの方向転換である。ただ、ビッグ・ハンドに着地するためには、時間的にもギリギリのタイミングだったから、光を確認した後の動作だったかどうかは定かではない。数秒後、彼女のパラシュートが開く。パラグライダーに近い形状だ。器用に操作してビッグ・ハンドのほぼ中心部に着水。何だか知らないが〝プロの犯行〟としか思えない。とりあえずはこれで一安心だ。酸素残量と濃硫酸の雲海への突入が気になるが、多少の時間的余裕──十数分程度の猶予──はできた。後は彼女をどうやって〈ブーメラン〉まで連れて帰るかだな……。
ビッグ・ハンドで取り損ねた彗星の残り三割は、その直後に雲海へと消えて見えなくなった。レーザー・レーダーは既に切っているから、雲海の先のことは分からない。赤外線を発した奴の正体を確かめて見たいが、こちらは丸腰の単機だ。光を意図的に放ったのは確かだが、その後のアクションが無いところを見ると、これは〝警告〟の光である可能性が高い。『いつでも落とせるぞ』と言う警告。おそらく、その気になれば、こちらのレーザー・レーダーを探知して、先制攻撃をする事もできただろう。だからこそ、戦闘中は、不必要な
もちろん、単なるセンサーの異常という可能性もある。機影は確認出来ていないわけだし。もっとも、それならそれで、ありもしない
ビッグ・ハンドの落下速度は、予定された終端速度まで遅くなっており、俺はその周囲を何度か廻れる位置まで降りてきた。落下が遅くなったとは言え、彗星はこのままでは落ち続ける。
俺は空中庭園と化した彗星の周囲を回りながら、緊急回線で彼女のレシーバを呼び出し続けたが返事は無い。そもそも、彼女の装備は軍支給品のものでは無かったから、どの回線が繋がるかは最初から未知数だ。ただ、遠目に見てもパラシュートが切り離されているのが分かる。豆粒ほどに見える彼女が何をしているのかまでは分からんが、何らかの意図を持って行動しているのは明らかだった。気絶しているとか、溺れているというような、一秒を争う
「湊川! あと何分でここに到着する?」
「18分……、いや、15分でなんとかする」
こちらの状況は、機首カメラの映像で大体は伝わっている筈だ。湊川はさらに付け加える。
「だか、雲頂高度まで行くのは無理だ。そっちで救助できるか?」
「わからん。分からんが──やってみるしか無いだろう」
「上沢。無理はするな」
「ビッグ・ハンドを〈ブーメラン〉に繋留するまで待てるなら、その方が安全だ」
「しかし……、それでは濃硫酸の雲の中に数十分間、放置することになります」
「裸で降りたわけじゃない。後部座席の緊急脱出装置は暴発したのか?」
「いや──。確認したわけではありませんが、おそらく彼女が自らの意思で点火したものと推測されます」
「それならば、何か考えがあっての行動だ。今回の
「それは……、そうですが……」
確かにその通りだ。無理に助けに行く必要は無いのかも知れない──と納得しかけた時、俺は彼女の着ていた
俺は周囲を飛びながら着陸ポイントを探したが、降りれそうなところはどこにも無かった。彗星はかなり溶けており、水割りならそろそろ氷を追加したい頃合いになっている。飛行艇ならば慎重に降りればあるいは──と一瞬頭をよぎるも、海の無い金星を飛ぶ航空機の中に、その手の機種が存在する筈はない。仮に〈収水〉で降りたとしても、頭を下にし、つんのめってひっくり返るか、尻を下にして水没するかになるのは目に見えている。例えうまく着水出来たとしても、再び飛び上がることができない。ミイラ取りがミイラだ。これ以上救難者を増やしてどうする。
──となれば、着水しなければいいわけで……。
「
「駄目だ──と言っても、お前は行くだろうな」
「…………」
短い溜息が聞こえる。
「では、チャンスは一度キリだ。無理と分かったら引き返してこい」
「
濃硫酸雲の雲頂は眼前に迫り、決行時間はあまり無かった。
「さぁて、ここからが本番だな……」
誰に言うでもなくつぶやく。航空ショーならいざ知らず、こんなシチュエーションに使えるかどうか? 〈収水〉の
先ほどよりはややスピードを上げてアプローチ。彼女を11時の方向に見ながら、位置を確認。時間が異様に遅く感じる。タイミングが早過ぎると届かないが、遅れれば二度とチャンスは無い。
『今だ‼』
コックピットで仰向けに寝た体勢のまま、俺は左手を目一杯上に伸ばし、その先を凝視し続けた。ゆっくりと回転する先に──俺の計算通りなら──彼女が見えてくる筈だ。
回転はそのまま。機体は突っ立ったまま前進から僅かずつながら後退を始める。こういうアプローチをしないと回転時に翼が氷山にぶつかってお陀仏となる。翼の先端が氷の壁をかすめながら通過したところで、俺は仰向けで左斜め上を見上げる。妙な姿勢で首が痛い。そこに彼女が……。
──いた!
正確に言えば、それと気づいたとき、彼女は空中にいた。そのままコックピットの淵──翼の付け根部分に着地。機体が
わぁ~お♥ ──じゃない‼
後部座席は、椅子はもちろんキャノピー共々吹っ飛んでいる以上、この狭い操縦席に2人で乗り込むしか無い──のだが、この体勢は──などと喜んで、では無い‼ 躊躇している場合ではない。キャノピーを閉めつつ再びエンジン全開し、そのまま上昇。演技途中から再会した
「ちょっと‼」
彼女の声がヘルメット越しに聞こえたかと思うと、ギュッと抱きついて来て、なんだコイツ気があるのか、そうかそうかとヘンに勘ぐったところで、背面飛行になっている事に気づく。彼女はシートベルト無しだから、抱きつくしかないよな……。
速度が出たところで
「彼女を救助した。これより帰投する」
「あっ──。あの。こっ、こちらでも確認できてます」
「げ!」
みのりの声を聞いて気づいた。この映像。コックピット内のカメラで、管制室から丸見えなんだ。ガムテープでも貼っとけばよかった。紫外線防御用のヘルメットで表情が見えていない分だけ、まだマシか?
──で、この絶妙なタイミングで湊川からの無線が入る。わざとだろ。湊川。
「お二人さん。お楽しみのまっ最中済まないんだが……」
「誰がお楽しみだ!」
「誰がお楽しみよ!」
声がハモった。
湊川が続ける。
「ようやくそちらに追いつきそうだ。視界が確保できるのなら、5時方向に進んでくれ。そのうちレーザーガイドが見える。こちらは空抜6千メートルが限界だ。そこまで降りて来てほしい」
続けて、みのりの緊張した声が聞こえる。
「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。操縦が無理なら、こちらで途中まで遠隔誘導します」
「大丈夫。ちょっとばかし窮屈だが、操縦は可能だ。
「分かりました」
──操縦桿を引くと手に彼女の尻が当たって──、いや、それ以外にも色々と当たるものが○※◆△■──と言うのは、報告しない事にした。
有視界でレーザーガイドを見つけるのには少しばかり苦労したが、みのりの──決して流暢とは言えない──誘導のお陰で、何とか辿り着いた。先ほどのアクロバットに比べれば何と言うことは無い。ガイドに従い直線で入って、フックを引っ掛けて止まるだけ。
エレベータの上に機体を設置すると、ゆるゆると〈ブーメラン〉内に格納され、ハッチが閉まって、洗浄用揮発テルペンが四方八方から吹き付けられる。後部座席が開いたままだが、仕方が無い。もっとも、揮発してしまうから、匂いはともかく電子機器に損傷は無いだろう。
一番の問題は、この間、彼女と抱き合ったまま狭いコックピット内でジッとしていなければならないということだ。気の利いた言葉は出てこない。そもそも、この状況を作り出したのは彼女の方だ。何故、俺が気を使わねばならんのだ。幸いなことに彼女も何も言わなかった。ヘルメットがあって本当によかった。
気まずい数分の後、洗浄中を示す赤ランプが消える。キャノピーを押し上げると、彼女は飛び跳ねるように外に飛び出し、大きく伸びをした。ヘルメットを脱ぎ捨て、ひとつ溜息をついた後、背中に張り付いた小さなバッグを開け、中を確認している。そこには小さなシリンダが冷却装置付きで数本入っており、中には彗星の
その間、俺は、彼女の行動を横目で見ながら、通常は洗浄中に済ませてしまう機器のチェックやシャットダウン、座席とくっついている諸々のケーブル類を外し、ついでにヘルメットも外して、ゆっくりと降りた。
一連の終了作業をこなしながら、俺は段々と腹が立って来た。エマージェンシー・モードで脇に追いやられた感情が次第に解放されてきたというべきだろう。単なる〝水汲み〟の筈が、一人のじゃじゃ馬の為に、俺たちは振り回され多大な迷惑を
俺のしかめっ面の意味を知ってか知らずか、彼女は能天気にこう言い放った。
「助かったわ。あそこで数十分ほど待ってるつもりだったけど、雪山でディパークしてるみたいで寒いし、コートでも着て飛び降りれば良かったと──」
後から考えると、気が立っていて冷静さが欠けていたんだと思う。気づいた時には、俺は彼女の横っ面をはり倒していた。
「なっ、何すんのよ!」
「ばかやろう‼ 命を大事にしろ。ここじゃ、地球の常識は通用しない。勝手な行動は死に直結するんだ‼ ちったあ、
彼女は、頬に手を当てながら、その緑がかった瞳でしばらくこっちを睨んでいたが、やがて表情を和らげ、腰に手を当てながら一言。
「あんた──」
口元には少しばかり笑みがこぼれている。
「あんた──。いい人ね」
脱力した。この状況で微笑んでの切り返しは反則だ。ずるい……としか言いようが無い。どっかに吹っ飛んでしまった俺の怒りを返せ。振り上げた拳をどうすりゃいいんだ。
俺の心の葛藤なぞおかまい無しに、彼女は続ける。
「あんた──、名前は?」
「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが先だろう」
「そうだったわね。あたしは御影恭子。で、あなたは?」
「上沢俊介だ」
「上沢俊介ね……。覚えとくわ」
すっかり調子が狂っちまった。ユークレインがどうのこうのと湊川は言っていたが、なんだ無茶苦茶古風な和名じゃないか──。
説教の続きはとてもじゃないがする気にはなれず、俺は
おっと、もうひとつ忠告することがあるのを忘れていた。
「そのスーツは、
「どうして?」
振り向き様に言った言葉に、御影恭子は
「確かにそのスーツはカッコいいしセクシーだ。だけどな……。ケブラー繊維は、剣や銃弾には強いかも知れないが、濃硫酸には溶ける」
「えっ? えーっ!」
面白いリアクションだな。本気でビックリしている。下調べが甘いんだよ、お嬢さん──。
* * *
御影恭子は、その後、
図体のデカイ機種の操縦は、輸送部隊上がりの湊川の
さらに悪い事に、帰路は往路よりのんびりとしたものになるのは確実だ。いくら巨大な〈ブーメラン〉とは言え、彗星を吊るすために馬鹿でかく膨らんだ
金星の晴れる事の無い雲に囲まれ、心まで晴れ間の無い憂鬱に浸っていると、インカムから秘匿回線で湊川のヒソヒソ声が入る。
「あれほど『手ぇ出すのは止めとけ』って言ってるのに、人の話を聞かないヤツだなぁ。お前は……」
「はぁ?」
──と、つい大声を出してしまった。後ろに当の御影恭子がいるんだった。
「誰が手を出すもんか! 救助だよ、救助。お前だって見てただろ」
「まぁ、そういうことにしといてやろう」
「そういうことにしとくじゃなくて、そうなんだよ……」
「分かった分かった。それにしても、
「アレしか方法が無かったんだよ……」
「ほほう? 俺には、いわゆるひとつの求愛の舞ってヤツに見えたがな」
「よく考えつくな、そんなヨタ話……」
湊川はどうしてもそっち方面の話に持っていきたいらしい。往々にして、この手の話題は尾ひれがついて知れ渡るものだ。先が思いやられる。
「ところで──」
こういう時は、強引に話題を変えるに限る。
「ところで、〈ブーメラン〉のレーダーには何か
「
「そうだ。レーダー照射を受けた」
「穏やかじゃないな。こっちでは何も感知出来なかったぞ。夢でも見てたんじゃないか?」
湊川は、こちらを覗き込み、ジト目でわざとらしく『おらぁ知らねぇよ』って顔をしている。
「そうか……。すまん、それならいいんだ」
「何か見たのか?」
湊川は目を細める。
「いや。機影は見えなかった──が」
「──が?」
「いや、何でも無い。忘れてくれ」
〈収水〉のレーダーも一瞬反応したってことも言おうかと思ったが、それは後でフライトレコーダーを見れば分かる事だ。ここで議論してもしょうがない。隊に戻ってから報告書に書けばいいことだ。
そんなこんなで、3時間。
風景が変わらない五里霧中の中、3時間だぜ、3時間!
俺たちはようやく、
居住区の基本単位は
この構造については、誰かが言っていたな──えーっと、
「んー、ら、らせん転位を持つ──、グ……グラフェン構造」
──そうそう。グラフェン構造……えっ?
俺は後ろを振り返った。御影恭子の隣の
今回は話に加わらないだろうと思ったら、最後の最後で絡んで来た──。
彼の名は、魚崎
今回、〈ブーメラン〉に乗り込んだ時も、単なる見学者として搭乗してきた。何処を飛んでも雲中なんだから、目の保養にはならないと思うのだが、魚崎は、それ以前の段階で、既にアウトだった。飛行機酔いのため最初からグロッキーで、外なんか全然見ていられる状態じゃなかったのである。〈ブーメラン〉は飛行機というよりは、飛行船に近いので、振動の周期から考えると船酔いに近いと言える。まあ、どちらにせよ、何の為に乗り込んで来たのかサッパリ分からない。もっとも、わめく訳でも吐くわけでもなかったから、俺らとしてはマネキンが乗っている程度の扱いで良く、気を使う必要も無く、楽な〝お客さん〟ではあった。
「タバコモザイク・ウイルスみたいな形ね。かなり短いけど」
御影恭子が眠そうな目で会話に加わる。
「そ──、それは違うよ。二重螺旋じゃない」
「RNAは二重でも、外側のタンパク質は普通のらせん構造になるわ」
「あ──、でも、それは違う……」
──なんなんだ。この会話は?
御影恭子は、ひとつ溜息をつくと、そのまま腕組みをして黙り込んでしまった。納得したわけではなく、これ以上、話をしても無駄だと踏んだようだ。どのみち、たとえ話なのだから、正誤の区別があるわけじゃない。不毛な論議は早めに打ち切るに限る。
ところで、この2人は知り合いなんだろうか? 今回の
〈ブーメラン〉は可動プロペラを下に向け、最大限に揚力を発生させながら、〈レッド・ランタン〉の上部発着場──提灯を吊るす枠の部分に相当。滑走路を確保するため、この部分だけモジュールが多い──にフワリと舞い降りた。もちろん、俺も
〈レッド・ランタン〉に限らず、金星の居住区は中空に浮かんでおり、風と共に流されているが故に、施設全体としてみればほぼ無風に近い状態にある。発着場はその最上部だ。金星は上空に行くほど東風が強くなるから、結果的に発着場には常に弱い東風が吹いている。突然の突風も、風向きの変化も以外と少ない──というか、そういう風にも〝乗って〟しまうから、着陸は以外と楽だ。地球上の空港より簡単だと言ってもいい。深刻なダウンバーストが発生した場合でも、下降流に乗って発着場自身も降下するのだから、機体との相対的な位置関係はあまり変化が無い。
常に雲中にあり視程が確保出来ないという状況も、赤外線の特定の〝窓〟で見ればそれなりに対処できる。硫酸雨が降っていると粘性が大きくて少々厄介だが、それほど飛行に支障があるわけではなく、人や荷物の搬入出に、脱硫のひと手間がかかるというだけで、
そういう意味では、薄い大気中を地面スレスレに飛ぶことが多い火星より気楽な職場かもしれないなと、俺は漫然と考えていた。
──ヴィーナス・アタックと呼ばれる、金星地表への降下作戦を除けば……。
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