ヴィーナス・アタッカーズ

悪紫苑

第1章 任 務

副操縦士コーパイ湊川みなとがわと共に、単純だが重要ないくつかの煩雑はんざつ定型作業セレモニーをこなして、どうにか自動操縦に切り替えると、俺は操縦卓コンソールに両足を投げ出し、座席を目一杯、リクライニングにした。湊川は『やれやれ』って顔で見ているが、かまやしない。第一、俺が足を投げ出した場所は、塗装が剥がれて下のカーボン繊維が見えている。歴代の操縦士パイロットはこうやって休息を取ってきた筈だ。

「着任早々、輸送船で回収作業とか……。ったく、俺はまだ、基地周辺のさえ頭に入ってないって言うのに。ここはそんなに人手不足なのか?」

半分は皮肉、半分は冗談だ。少なくとも、僅かな地上部隊を除き、ここの地理を覚える必要はなさそうだった。そもそも基地周辺って場所は常に不確定。俺たちは常に飛んでいる。降りるべき地上は何処にも無い。

「はは。そう腐るな。三ヶ月も寝てたんだから休養十分だろ。肩慣らしには丁度いいフライトだと思うがな」

「アレが寝てたって言えるか! 冷凍食品並みの扱いだろうが!」

湊川とはその昔、一緒に働いた事があるからよく知っている。まさかこんな所で再び一緒になるとは思わなかったが、見ず知らずの土地で知った顔を見れば多少はホッとする。だが、今の俺は──なんと言おうか。そう、不機嫌だった。別に怒っているわけじゃない。不安というのとも少し違う。心の準備も出来ないままこんなところに放っぽり出されて、俺は一体何をしてるんだろうね──と、激しく自己嫌悪におちいり自問自答しているのだ。

「それにな。上沢かみさわ──」

湊川は、腕組みをして、こちらをチラリと見ながら話しかける。心無しか、笑っているようにも見える。

「お前──、ここを希望して赴任ふにんしたって言う話を聞いてるぞ」

「はぁ?」

「『俺は大気中をGを感じながら飛びたいんだぁ!』とか何とか大見得切ったと……。違うのか?」

「…………」

どこから伝わったデマだ、そりゃ。


確かに、話を要約してに都合よく曲解きょっかいすればそう言う話になる。だが、認識にかなりのズレがあるようだな。確かに俺は、宇宙船の操縦には飽き飽きしていた。あんなのは操縦じゃない。軌道は全て決まっていて、噴射タイミングも、射出量も、噴射時間も、選択の余地がほとんど──いや、全く無い。猿でも出来る仕事だ。やっている事と言えばただひとつ──

『目標をセンターに入れてスイッチ』

たったそれだけ。その繰り返し。何が楽しいんだろうねぇ。

感じられるのは、ONとOFFのスイッチの感覚と、それに伴う、これまたONとOFFの二者択一の慣性力だけだ。全てがスイッチ操作で事足りる。操縦桿の必要が無い。何と言うか、操舵ドライブしているという感覚が全く無い。機械の部品になったようなものだ。

もともと、空軍のテストパイロットを経て、宇宙局へ配属になった俺だ。自分で言うのも何だが、エンジンで空を飛ぶものは、オートジャイロから、最近計画が始まった核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』まで飛ばせる自信がある。もっとも、後者は、実物がこの世に存在しないので、あくまでもシミュレーターの中での話だが、妙にフワフワした加速で腰の座りが悪い、お尻がムズムズする──何というか、ビーチボールに乗って小刻みに飛び跳ねているような、奇妙な加速の機体だった。

より速く、より高く──って言うのが飛行機乗りの心情だ。誰だって同じだろう。だが、宇宙空間まで出てしまうと、少しばかり事情が異なる。大気があれば、速度は肌で感じることができる。マッハを超えれば目でも分かる。円錐形の圧縮された空気層の前後で、風景が少しばかりずれて見えるからだ。空の色と機体の振動、音、それらが一体となって状況を教えてくれる。だが、宇宙空間には大気が無い。そうすると、宇宙船のは感じる事ができても、速度を感じ取ることができなくなる。頼りになるのは計器だけだ。

宇宙船での初フライトの時、俺は奇妙な既視感デジャブさいなまれた。確か、北アフリカの局地戦だったが、オスロ条約に違反したクラスターミサイルの雨を受けた時だ。こっちは国連UNの偵察機で丸腰だって言うのに、見境が無い。そもそもゲリラ戦に秩序を求めるのもこくって言えばそうなんだが、そん時はそんな事考えている暇はなかった。思うより先に操縦桿を引き、足元の視界ギリギリに盛大な飛行機雲ヴェイパーを作った。エア・バッグが破裂したかのような勢いで耐Gスーツの足元が膨らむ。仮に、そのまま直進していたなら機体が進んでいたであろう空間にミサイルの半数近くが集結し、火球を作った。個々の爆発力は小さいが、この高度でこの速度だ。当たればどうなるか知れたものではない。というか、実際、いくつかの破片は当たっていた。

その後どう操縦したかはよく覚えていないが、さらに上空に逃げようとして上を見ると、回転する地面があった。いや、おかしい。計器を見ると水準器が逆転している。猛烈なGで機械が狂ったと思ったが、狂ったのは俺の方。典型的な空間識失調バーティゴというヤツだ。空間識失調バーティゴに陥ったのは後にも先にもあの時だけだが、パニックになる事も無く無事に不時着──って、不時着なんだから無事じゃないよな──出来たのは幸いだった。確か、高度300フィート程度まで背面飛行をしている感覚だった気がする。後日回収されたブラックボックスのデータには、途中5秒程度失神していたことが記録されていたが、その記憶の切れ目を俺は認識していない。ただ、診察に関わった軍医の話によると、発生した水蒸気ヴェイパーを見たと思っている記憶は、失神中だった可能性があるとのことだ。ブラックアウトでもレッドアウトでもない。灰色の霧の中を飛んでいるような感覚らしい。


──なんで、こんな回想をしてるんだ?

そうそう。宇宙船の初フライトだ。基本的に宇宙船の操縦は計器のチェックとスイッチのONとOFFだ。ぶっちゃけ、外を見る必要が無い。だが、そいつは宇宙船乗りがあまりに可哀想だろうってんで、が申し訳程度についている。360度見渡せる戦闘機とは大違いだ。反対に、完全に閉鎖された操縦室コックピットを持つ空軍機も開発されているのだが、誰も乗りたがらないので実験機止まりだ。いくら、『こちらの方が空力学的に優れた機体で、機動性は保証する』と言われても、乗りたくないものは乗りたくない。そういうのは無人航空機UAV: Uninhabited Air Vehicleだけにしてくれ。

どうも話がブレるな。

──で、宇宙船の初フライトのとき、その小さな窓を見上げて地球を見つけたとき、そのときの情景・感覚がよみがえった。地面が上にある。もちろん空間識失調バーティゴじゃない。そもそも上下感覚のない空間だ。

むろん、宇宙局勤務で楽しいこともあった。特に大気圏再突入Re-Entryの時など、未だにワクワクする。真空と大気圏との狭間を、時には何度も通過しながら転がり、巨大な松明となって落ちる。衛星軌道から外れてすぐの場所では、大気による減速よりも、位置エネルギーの転換による加速の方が勝っていて、機体が悲鳴を上げながら突き進む。実に楽しい。

ただ、操作のほとんどがコンピュータ制御で、その点が唯一の不満だった。コイツが壊れれば手動操作の許可が下りるんだが、意外と頑丈だし、バックアップを含めて3台のコンピュータの合議制で判断しているので、それら全てがお釈迦になることは──、まあ、俺の飛行人生の中では発生しない事案だろう。もしもそんな事態が起こることがあるとしたら、それはコンピュータのみならず、宇宙船そのものの大破を意味する事になり、その段階では手動であってもどうにもならない事態だということだ。


そんなこんなで、俺は3年あまりの宇宙局での勤務を終え、『大気圏内を再び飛びたい』と、調書の勤務希望欄に強く書いた。湊川の言っていることは嘘じゃない。

確かに〝より速く、より高く〟を追求するのなら宇宙空間に出ざるを得ない。だが、速さと高さを自分で体感できないのなら何の意味がある? 数字の上だけで満足なら、地球は太陽の周囲を秒速30キロメートルで移動していることになるから、地上勤務で充分ってことになるじゃないか……。

だが、人事部の奴らの方が一枚上手だった。『お望み通り──』と受け取った辞令を見て俺は目がテンになった。一度目をつむって、もう一度見返したくらいだ。そんなこんなで半年後。軌道間輸送船OTV: Obital Transfer Vehicleで冷凍食品並の扱いを受けた後、俺が今飛んでいるのは、確かに大気圏内だ。それもかなり濃いヤツ。ただ、少しばかり誤算だったのは、


──ここは金星なのだ。


一言『地球で』と書いてなかったのが悔やまれる。もっとも、書いたとしてもそれが採用されるとは限らない。どちらかというと反古ほごにされる可能性の方が高いだろう。ただまあ、それならそれで、愚痴が言えるってもんじゃないか。

そういうわけで、俺のいきどおりは行き場が無く、激しく、そして空しく自問自答する他に術が無いという状況になっている。ざまぁないぜ。


金星にもそれなりの都市があって、研究者を始め、ある程度の人が住んでいることは知っていた。火星にもあるんだから金星にだってあるだろう──その程度の認識だ。ちなみに、火星には、都市間の輸送部隊の一員として、3ヶ月程行った事があるが、あそこはほとんど弾道飛行で、大気中を飛ぶと言う感覚はなかった。輸送機の巡航速度で飛ぶだけなら、何とか空力学的に飛ぶことができるという程度で、それもかなり難しかったのを覚えている。下手に旋回などしようものなら、直ぐさま3000フィート位落ちて、立て直しに時間がかかった。空中戦なんて絶対できない。好戦的な火星人がいなくて本当によかった。

木星当たりまで行くと、それなりに大気の濃そうな惑星──じゃなかった、衛星がゴロゴロしているようだが、人類が気軽に到達できる距離じゃない。まあ、人類が一万人単位でまともに住めるようになるには、あと百年位かかるんじゃないかな?

俺は金星に関してはその程度の知識しかなかったから、火星と同じく、ドーム型の都市が地上にポコポコとあるんだろうと思っていたが、その素人考えは全く通用しなかった。何しろ、金星の地表面の気圧は90気圧を優に超え、温度に至っては460度もある、どんな圧力釜もビックリするような環境だ。いやいや、それはいくら屈強な人種でも住めんだろう──よほど月面の方が住み易いじゃないか──と考えていたが、そもそも金星の都市は地表には無かった。正確に言えば、地表にも数地点の極地観測基地があるのだが、ほとんどの人間はそこにはいない。居住区となる都市は地表から55キロメートル程の上空にのである。

『空中都市』と言えば何やらカッコイイが、反重力装置みたいな超科学的設備があるわけではないから、気球が空中に浮いているのと基本的には同じ原理だ。基本的なモジュールは一辺が1キロメートル近くある六角形の浮き袋のような形態で、それら数百~数千のモジュールと、そこから腕のように伸びた通路が規則的に絡み合い、一つの巨大な居住区を形成している。何かの分子構造を真似まねているらしいが、化学の素養が無い俺にはよく分からず、網の目が螺旋を巻いて筒になっているようにしか見えない。ちなみに、都市は一つではなく、各緯度帯に分かれていくつか点在している。俺はまだここ──北緯30度帯30 Degrees North──の一地方都市〈レッド・ランタン〉しか知らないが、管轄する国ごとに、人種はもちろん、文化や生活習慣はかなり違うようだ。

国と言っても、一応金星は、一つの自治権を持った連邦共和国を成しており、地球上のどの国の支配下にも置かれていない──と言うになっている。いや、さらに言えば、共和〝国〟ってのも間違いであって、月協定Moon Agreementにより、金星はいかなる国家や団体の支配下にも置かれる事は無い。だから共和国っていうのも、国際的レジームとしての南京議定書Nanjing Protocolによって仮に作られた互助会みたいなもので、どの国にもくみしない事務方の集まりでしかない──と言うだ。

だが、建前は建前でしかない。現実は、緯度帯の都市ごとに主たる開発援助国DAC: Development Assistance Countriesが決まっていて、まあ何と言うか、その国の色に染められている。政治のことは興味がないが、共和国政府──建前上は政府と言っていいのかどうか分からんが、面倒だから政府でいいだろう──としては、無償で居住区や施設を提供してくれる国や団体ならば、公式・非公式の区別無く、来るものは拒まないって段階なんだろう。見返りとして地表の鉱物採掘を見て見ぬ振りをしてもだ。

衣食足りてくれば、そのうち独立戦争でも起こすんじゃないかな? いや、最初から建前としては連邦共和国──さらなる建前では国ではない──として独立しているから、外国人排斥運動か。だが、そもそも金星には現地民ネイティブってヤツが居ないから、誰が外国人なのか分からん……。


    *  *  *


「ところで──」

俺は湊川にどうしても聞いておきたいことがあった。

「──後ろの貨物室カーゴルームに乗っている、アレは何だ? 航空貨物運送状Air Waybillは届いてないぜ」

「あぁ? ああ、アイツか。アイツは止めとけ」

「はぁ?」

俺たちが乗っているのは、巨大な飛行船モドキだ。胴体となるような部分は存在せず、〝く〟の字型の翼だけで構成された硬式ハイブリッド飛行船というのがその正体。その形状から〈ブーメラン〉と言う愛称ニックネームで呼ばれている機体なのだが、どう見ても餃子ぎょうざが空を飛んでいるようにしか俺には見えない。プラスチックと軽金属の複合体という、無重力空間でなければ作れない素材でできた外骨格を持つプロペラ機で、餃子ぎょうざのヒダに相当する部分にモーターが8機ついている。

海抜かいばつ──じゃなかった、0メートルでの〈ブーメラン〉の比重は周辺の大気より大きく、定義上は重航空機に該当するが、餃子の具が詰まっている部分の大半はヘリウムガスが詰められているので、モーターが2機だけでも、最大出力なら何とか浮いていられる。仮に全てのモーターがストップしても、硫酸雲の雲底──空抜マイナス20キロメートル以下──まで落ちることはない。ちなみに、金星の大気は、地球上の空気より重い二酸化炭素が主成分なので、浮力は地球上の1.5倍程度だ。

〈ブーメラン〉は地球上のハイブリッド飛行船と同じく、図体の割にはあまり荷物は詰めないのだが、それでも全長──いや、縦より横幅の方が圧倒的に長いので、全幅というべきだが──300メートルもの機体には、テニスコート2面分くらいの貨物室カーゴルームが備わっている。搭乗時にモニターで確認したとき、ヘリウムガスのボンベを除き、積み荷はエンプティだと思っていた。そもそも今回の作戦ミッションは、積み荷を届けるのが仕事ではなくて、積み荷をのが目的だから当然だ。

だが、モニターの片隅。チラッと動く影を見つけた。小さな人影。ズームして寄るとスラリとした肢体の女性がトランクに腰掛けていた。更にズームをすると……芯が強そうな鉄色の眼でにらまれた。数十メートル先の監視カメラの動きなどよく分かるものだと感心しながら、彼女が何者かを考える。


──と、その前に、今回の作戦ミッションとやらを説明しないと、何が何だか分からないだろう。


金星行きの辞令を受け取って軌道間輸送船OTV──監獄船の間違いじゃないのか──に乗り込み、3ヶ月もの冷凍睡眠コールド・スリープの果てに、俺はあたかも巨大な砂嵐サンドストームに覆い尽くされたかのような乳白色に黄ばんだ星に辿り着いた。映像では何度も見ていたが……なるほど。確かに、雲の切れ目ってものが全く無い。見ただけで憂鬱ゆううつになる星だが、明るさだけは保証する。何しろ夜側も大気のふちが輝いていて、真の闇なんてものは、この星には無いらしい。

ただ、俺が所属する〈レッド・ランタン〉に到着すると、周囲は思ったほど明るくないことも分かった。多くの空中都市は、気圧と気温の関係で常に雲中にある。太陽からの直射光は全く拝むことができない。もっとも、地球の2倍も明るい太陽はまぶしすぎるので、じかに拝みたいとは思わない。

到着して3日間は自由行動フリーだが、初日は冷凍睡眠コールド・スリープの後遺症の所為せいで、手足が自分のものじゃないような感覚だった。症状は1日で直りはしたものの、残りの2日間、フラフラと出歩く気分ではなかった。

「上沢ぁ、そんなのは一時的な筋力の衰えだ! 走れ!」

と、俺たちが〝おやっさん〟と呼んでいる小隊長殿は、着任当日から元気だった。名は長田源一郎。いかにも隊長っぽい名前だろ。官舎から見下ろした道沿いを、ランニングシャツだけで走る小隊長殿おやっさんに軽く敬礼し、俺は再びベットに腰掛けた。四十過ぎのおっさんの筈なのに何でああも元気なんだろうねぇ。そう言えば、『俺は人を食って生きてるから元気なんだ。ガハハ』とか何とか、それこそ寒いオヤジギャグをかましていたっけ?

ちなみに気づいていると思うが、上沢──上沢俊介ってのが俺の名だ。

着任当初は北緯30度帯30 Degrees Northに点在する基地間の挨拶巡りでもするのかと思いきや、初任務ファースト・ミッションは意外と早かった。到着から5日目の作戦会議ブリーフィング小隊長殿おやっさんから聞かされたのは、


『お前ら、ちょっと水汲んでこい!』


──まあ、一言で言えばそういうことだ。要はパシリだな。

後で聞いたのだが、この〝水汲み作戦Water-Drawing Mission〟は、金星に着任した新任パイロットが最初に受ける試練だそうで、そいつの技量や度胸、気質などを確認する恒例行事になっているらしい。


地球に有って金星に無いものと言えば、真っ先に思いつくのが水だ。逆に言えば、地球から水を取り除き、生物が作り出した炭酸塩とやらを二酸化炭素として大気中に戻してやれば、地球も70気圧程度の灼熱の惑星になる。水の有無が2つの惑星をこんなにも変えてしまったわけだ。いや、逆か? 太陽に近く、暑かったことが原因で、水が蒸発して無くなったのだったか? まあいい。ともかくこの星には水が無いのだ。

で、金星で水を確保する手段は2つ。ひとつはなけなしの大気から搾り取ること。金星に降る濃硫酸の雨を加熱して水と三酸化硫黄とやらに分離するらしいが、機械のメンテナンスまで考えると面倒で効率が悪いらしい。そしてもうひとつは、外から水を持ってくる方法だ。とは言っても、バケツで汲んでくるわけにはいかない。少々荒っぽい方法だが、氷で出来た小惑星──つまり、彗星の軌道を変えて落っことすのである。

問題は、どうやって受け取るか? ──だ。地表に落ちるまで待っていたら、途中で全て蒸発してしまう。落下時の空力加熱対策として、落とす前段階の彗星前面に炭化吸熱体Charring Ablatorをコーティングしてあるとはいえ、側面からの蒸散を完全に防げるわけではない。それに、そもそも居住区は空中にあるので、上空でキャッチしなければ意味が無い。

作戦そのものは非常に単純だ。まずは〈ブーメラン〉に乗り、彗星の落下地点へ向かう。コイツは小型核動力炉で飛ぶプロペラ機だから、精々、空抜5千メートルくらいまでしか上昇できない。何しろ大気中に酸素がないので、酸素を必要としない動力で動くプロペラ機か、酸素を含んだ推進剤を最初から搭載したロケット推進機しか、空を飛ぶ事が出来ない。落っことす彗星の大きさにもよるが、空抜5千メートルでは氷のほとんどはバラバラに四散してしまい、広範囲に雨となって降り注いでしまうので、回収は難しい。

そこで、ロケット推進機付きの高々度迎撃戦闘機──いや、戦闘機じゃねーな。迎しちゃダメだからな。ま、ともかく、そいつの出番だ。

〈ブーメラン〉には通常、緊急脱出用の複座のプロペラ機体が二機備え付けてあり、〈ブーメラン〉の翼上を滑走路として使い、離発着できるようになっている。今回はそのうちの一機がロケット推進の特別仕様で、腹にビッグ・ハンドと言う強化カーボンか何かでできた丈夫なを格納した〈収水〉という名の機体に換装。コイツで空抜3万メートルくらいまで一気に駆け上がり、ビッグ・ハンドを彗星めがけて発射。ビッグ・ハンドは半径500メートルもの巨大な膜となって広がり彗星を捕獲。上手く言ったら拍手喝采Big Hands。ビッグ・ハンドのへりには衝撃を受けると膨らむ気球が取り付けられていて、彗星をくわえこんだまま空中を漂うことになるから、こいつに紐を巻き付けて〈ブーメラン〉に着艦。後はゆっくりと〈ブーメラン〉で曳航すればイイ──というのが、作戦の全貌だ。簡単だろ?

話は簡単なのだが、ビッグ・ハンドの発射タイミングが迷いどころだ。彗星まるごと手に入れようとするならば、大気圏での摩耗を減らすためなるべく上空で待ち構え、目前を通過する直前にビッグ・ハンドを広げればいい。ただし、上空に行けば行く程、彗星の速度は速い。ミスって発射前に彗星とすれ違ってしまえば、上空から追いかけても全く間に合わない。速度は彗星の方が圧倒的に速いのである。要は新手のみたいなものだ。無難に40%確保を目指し、低空かつ余裕を持ってビッグ・ハンドを展開するか。はたまた、限界まで上昇し、彗星を視認出来る程度まで接近して、交差直前でビッグ・ハンドを展開するか……。

まあ、俺の方針は最初から迷う余地もないくらいに決まっている。あえて言うまでもないだろう。


──と、今回の〝水汲み作戦〟は、二名いれば事足りる。〈ブーメラン〉の操縦者と〈収水〉の操縦者だ。だから、彼女が乗っている理由が分からない。もしかすると、水源確保の作戦なんだから、補給処ほきゅうしょの調達処理班の人間かとも考えたが、それになら何故、ここに来ない? 別件で乗っているにせよ、〈ブーメラン〉のコックピットには、操縦士と副操縦士の席以外に、二席の補助席ジャンプ・シートが備わっている。だから、一席は余っているのだ。どうしてここに座らないのだ……。

何? 二席余っているんじゃないかって? 実は、既に飛行機酔いで青ざめた男が一人、後ろでぐったりしているのだが、あまり話に関係無さそうなので説明は割愛する。野郎のことは興味が無いしな。


    *  *  *


「で、誰なんだ、彼女は?」

「だから、手ぇ出すのは止めとけと言っているだろ」

湊川は鼻で笑っている。手を出すとか誰もそんなこと言ってないだろうが。

「まあ、中々の美形なのは認める」

湊川は何かさとすような顔でこちらを見た。そんなことも誰も言ってやしないし、同意を求められても困るが──まあ、そうかな。美人とは言わず美形と言っている点とかな。

「だがな、上沢。彼女の興味は〝キン〟だけだ……」

「ほほぉ……。それはまた、えらく直接的だな」

何が何だか良く分からんが、ここはこのくらいボケてもいいだろう。湊川は深く深く息を吐き、道に迷える子羊を見るように哀れんだ眼で俺を見ながら──

「お前……、何か大きな勘違いをしているようだから、俺が懇切丁寧に教えてやる。彼女は地球外分子生物学アストロ・モレキュラー・バイオロジーの学者様だ。あの彗星に細菌とかウイルスとか──そのへんの区別はよく分からんが、ともかく地球外の生命体がくっ付いていないか調べるんだとよ。何でも、その前はボストーク基地の地底湖を調査していたらしい」

「ボストーク基地?」

「南極だよ。南極。あとは、深度一万メートル級の深海の熱水鉱床周辺の微生物を調べたりとか。極地ばかり巡っている変人だ。だから、手ぇ出すのは止めとけ」

「ふふっ」

俺はつい、鼻で笑ってしまった。

「どうした。何がおかしい」

湊川は怪訝けげんそうな顔でこちらを見ている。

「語るに落ちたとはこのことだな。なあ、湊川。何でお前がそんなに詳しく彼女の素性を知っているんだ。お前こそ気があるんじゃないのか?」

湊川は一瞬だけ『しまった!』と言う顔をしたが、直ぐに元の子羊のソテー──じゃなかった、迷える子羊を見るような眼となり、

作戦会議ブリーフィングの時に、彼女も後ろの席にいただろ。何聞いてたんだ」

「そうだったか?」

うーむ。そう言えば、そんな気もする。現に、作戦遂行中の〈ブーメラン〉に乗っているのだから、作戦会議ブリーフィングに出ていない方がおかしい。だが、俺は〈収水〉の機動性能やら、運行管理者ディスパッチャーからの航空気象実況METER予報TAFの情報取得に余念が無かった。既に地球では廃れてしまった、古式ゆかしい音声気象通報VOLMETも金星では流れている。

俺も金星に来た時は、『水が無いなら気象現象は単純なものだろう』と考えていた。火星がそうであったようにである。ところが、空中都市が点在する高度──金星の地表から55キロメートルあたり──は硫酸の雨が降る。雨は地表までは達しないものの、マクスウェル山などの高山にはが降りるそうだ。水は無くとも、硫黄化合物がその代役を務め、極めて複雑な気象現象を引き起こしているというわけだ。

硫酸の雲が出来るなら塔状積雲TCU積乱雲CBもできる。問題は上空の乱気流タービュランスだ。地球上のものは熟知しているが、流石に金星では勝手が違う。

それにしても、この星では雲・視程共良好CAVOKとか無風Calmって実況は存在しないんだろうな。


──てなことを考えながら俺は作戦会議フリーフィングに臨んでいた。こんなに仕事熱心な俺なのに、湊川のヤツは、後ろの席にいた彼女の情報をしこたま仕入れていたってことか。一度締め上げてやらなきゃならんな、コイツは。


「それと、もう一つ」

こちらの殺気を知ってか知らずか、湊川は少しばかり真面目な顔になり、小声で付け加えた。

「彼女は、ユークレーンの血が半分入ってる。本当か嘘か知らないが、も耳に入っている。気を抜かない方がいい」

「そうか? 気をつけておくよ」

そう言えば、睨み付けた瞳は、緑がかっていたな──って、えーっと、ユークレーンって誰だ? 有名人か? 良からぬ噂って何だ?


    *  *  *


湊川に問いかけようとした矢先だった。キンコンと明るいチャイムが鳴り、頭上の赤ランプが蛍のように点滅を始めた。俺は操縦卓コンソールからゆっくりと足を下ろして、GPS地図を確認する。地図と言っても地表の地形は入っておらず、空中都市の位置だけが表示されている至ってシンプルなものだ。個々の都市は4~5日で金星を一周しているし、相対的な位置も絶えず変化しているから、絶対的な座標基準にはならない。緯度経度だけでなく高度だって時々刻々に変わる。それに、金星で使われる空抜という単位は、0.7気圧平面をゼロ高度と定義しているから、地表からの高さも相対的なものでしかない。

もっとも、今回の任務で必要なのは絶対的な金星の緯度経度情報だけだ。ランデブー相手の彗星軌道は既に作戦会議フリーフィングの段階で入手している。風任せの空中都市と違い、彗星の軌道は大気圏に突入するまでは極めて正確だ。何も問題はない。


「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。上沢、湊川。調子はどうだ?」

眉をひそめてモニターを見ると、小隊長殿おやっさんが腕組みをしてニカッと笑っていた。

「極めて順調──と言いたいところですが、ずっと雲の中を飛び続けるのは性に会いません」

「ハハ。そんなこと言っていたら金星ここには住めんぞ。そこから〈収水〉で上がれば雲海の上に出る。金星で青空を見るのはなかなか無いチャンスだ。堪能たんのうしとけ」

了解ラジャー

「それから、分かっているとは思うが──」

小隊長殿おやっさんは、こう付け加えた。

「──今回の作戦ミッションは欲張り過ぎると失敗する。何事にも見切りを付けるのが肝心だ。適当な所で受け止めて引き返してこい。限界に挑戦しようなどとは思うな」

見透かされているな……。

「分かりました。最善努力ベスト・エフォートを目指します」

「ベターぐらいにしとけ」

「ふぅ──、努力します」

ま。小隊長殿おやっさんも俺の性分くらい分かってるだろう。左目と右の口角を同時につり上げるという器用な真似をしながら、

「それと──だ。お嬢ちゃんによろしく。『協力しろ』とのが来ている」

「何を協力すれば?」

「彗星中心核の生物探査だそうだ。詳細は知らされていない。何がお望みかは本人に聞くんだな。くれぐれも手ぇ出すんじゃねえぞ」

言いたいことだけ言って、小隊長殿おやっさんからの通信は切れた。

〝お嬢ちゃん〟ねぇ……。見た目で判断しちゃいけないが、どうみてもそんな玉じゃないことは分かる。しかし、どいつもこいつも『止めとけ』だの『手ぇ出すな』だの、人のことを、女性と見れば見境なく口説く色情魔か何かだと思ってやがる。

俺は五点式のシートベルトを外し、操縦輪Yoke handleから手を離して〈ブーメラン〉の操縦を湊川へ預けると、高々度用の与圧ヘルメット片手にコックピットを抜け出した。抜け出す直前に、今一度、貨物室カーゴルームにいた彼女の姿をモニターで確認しようとしたが、彼女が座っていたトランクだけが、口が開いたまま残されていた。彼女がここに向かって来ているのだとしたら途中で鉢合わせするかも知れないなと思いつつ、〈収水〉のある翼上部へのタラップを登る。

思ったよりコンパクトな機体がそこにはあった。全長6メートル弱、全幅が10メートル程度と幅広の真っ赤な機体。元は緊急脱出用の機体だから、長距離用では無い。オリジナルからの改造点として、二軸の電気モーター式プロペラは取り外され、主として惑星間飛行用に使われる偏極原子状水素シングルH↓を燃料とするロケットエンジンに換装。腹部にビッグ・ハンドが収納されたポッドが装備されている。このポッドに、半径500メートルに広がる〝大風呂敷〟が格納されているとは、にわかには信じ難い。

作戦会議ブリーフィングの時の説明では、こいつは彗星をガッシリ受け止めるのではなく、ほとんど抵抗無く──つまり、彗星の速度を減らすこと無く包み込み、その後ゆっくりと、端についた展開気球バリュートを膨らませて減速させるものらしい。引っ張り強度は恐ろしく強い素材だが、何かに貼付けて拳銃で撃つと簡単に穴が開くから、防弾チョッキには使えないとか……。衝突の衝撃で水漏れしないのかね。

それにしても、如何にもにわか仕込みの付け焼き刃的な装備だ。換装されたエンジン部は塗装も無く、白いセラミックが剥き出しだし、ポッドは空軍仕様の空色。統一感がまるで無い。カラーリングで空を飛ぶわけじゃないが、赤白青のパッチワークは、まるでオモチャだ。オランダかフランス空軍なら喜びそうではある。

それに、エンジンだけ強力にしても、この翼形じゃあ超音速時に抵抗が有り過ぎる。推力だけは桁外れにあるから、無理に引っ張っても──ん? この主翼両端の塗装剥げは……なるほど、そういうことか。


「おわっ!」

ひと通り、機体の周囲を舐め回すように確認し、コックピットに乗り込むため〈収水〉の主翼に足をかけた時、俺は思わず声を上げた。それに呼応するかのように、後部座席の人影が振り向き、緑がかった瞳がこちらを見上げる。顔色は透き通るように白い。

「何故、──ここにいる?」

「聞いてないの? アタシはあの彗星に用があるの……」

彼女がそこにいた。貨物室カーゴルームにいないと思ったら、こんなところにいやがった。

「一緒に上がる気か?」

「そうよ。文句ある?」

初っ端から何故かケンカ口調だ。俺の人を見る目も伊達じゃねーな。そして、彼女の憎まれ口はさらに続く。

「──本当はアタシが飛ばしてもいいくらいなんだけど、帰りの操縦があるでしょ。だから譲ってあげたの」

「おいおい。遊覧飛行じゃないんだぜ」

「分かってるわよ、そんなの。アンタはアタシをちゃんと彗星まで送り届けてくれればそれでいいの」

なんだ、なんだ。何なんだコイツは? 想像通り──いや、想像以上のツンツン振りだな。その鼻っ柱を折ってやろうかと、俺がさらに問いただそうとした時、湊川からの無線が入る。

「お二人さん。痴話げんかのまっ最中済まないんだが──」

「誰が痴話げんかだ!」

「誰が痴話げんかよ!」

声がハモった。忌々いまいましい。

「──そろそろ発進しないと出遅れるぞ」

時計を見ると、出発予定時刻まで三分を切っていた。確かにここで口論している場合じゃない。

「ベルトをしろ。酸素ボンベは──」

「大丈夫」

彼女はヘルメットをかぶり、酸素用レギュレータや耐Gスーツコネクタ類を慣れた手つきでテキパキと機体に接続して行く。素人にしては出来過ぎだ。いや、どう見ても素人じゃない。

彼女の衣装は通常のフライトジャケットでは無く、厚手のレオタードの様なものだった。ケブラー繊維の中に固化粉流体ダイラタントを封入した最新の防護服プロテクトスーツ。ロシア軍かどこかが採用していたもので、普段は体の動きに合わせて皮膚のようにしなやかに動き、銃撃など強い衝撃が局所的に加わると、中の粉流体がセラミックのように一瞬で固化する。衝撃が無くなるとまた元に戻るという優れものだが、金星での採用は見送られた筈。その理由をよく思い出せないが、何か引っかかるものがある。背中には一風変わった装備があるようだが、前からは見る事ができない。何にせよ、軍支給品ではない。この女、一体──、いや、詮索は後回しだ。

主電源、補助電源、その他モロモロのスイッチを二の腕で一気に押し上げ、計器が完全に立ち上がる前に手動操作で必要な油圧のチェック。操縦桿とラダー操作を行う。ジャケットと電子機器との接続をモニターで確認。彼女の後部座席も問題ない。バックミラーに親指で確認済みの合図をすると、同じく親指で回答あり。キャノピーを閉めつつ湊川へ連絡。ここまで一分二十秒。往復動機関レシプロエンジンだとこうはいかない。

「準備はいいぞ。いつでも上げてくれ」

「ほい来た。こっちも確認済みだ。今開ける」

格納庫内の与圧が下がる音がし、ゆるゆると天井が開く。大気密度が違うのか、それとも大気組成の違いの所為なのか、陽炎のような揺らめきが一瞬起こった後、俺たちは昇降機で機体ごと上昇しながら、黄味がかった雲海に出た。晴れ舞台ならぬ曇り舞台だ。肉眼では150メートル先にある筈の翼端すら見えない。

彗星ほしは今何処だ?」

何気なく聞いた言葉に応えたのは、湊川では無かった。

「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。現在の彗星の位置は、えーっと──、高度8万メートル。ほぼ予定通り。そちらに座標データを転送します」

「あれ? みのりちゃんも今日が初仕事?」

「はい! 自立歩行探査機ドローンでの予備降下プレ・アタック操作はこの前行いましたけど──いや、その、〝みのりちゃん〟はいい加減に止めて下さい」

「おおっと。すまんすまん」

──伊川みのり。昨年入って来たルーキーだと言うのに、新人研修もそこそこにいきなりの金星勤め。俺より3ヶ月前の軌道間輸送船OTV金星ここにきている。もっとも、入隊直後の僻地へきち巡りってのは、幹部候補の証でもある。〝みのりちゃん〟っていつまで言えるか分からないが──まあ、言えなくなる時までは言わせてもらいたい。

みのりは、〈レッド・ランタン〉が管理する空域の管制担当──の見習いになっている。彼女は情報軍採用だから本来の職種とは違うのだが、手始めの仕事としては丁度いい負荷だろう。指示を出すべきなのは一機。敵対する相手も一機──いや、一星か? まあ数え方はどうでもいい。そして、重要なのは、本作戦は戦闘行為ではないという点だ。少々ミスをしても誰も死なない。事故はあり得るが、それは操縦士パイロット──すなわち、俺の判断ミスが原因となる。

仮に、みのりがいきなり実戦に投入され、彼女の指示ミスで、何名もの命が亡くなれば、亡くなった者はもちろんの事、彼女の精神的ダメージも計り知れない。それは可哀想──という感情論ではなく、それによって優秀な人材が減るのが問題なのである。ドライ過ぎる言い方ではあるが、ま、それが現実だ。

「座標データは確認した。彗星は……ほお? ちょっと東過ぎないか?」

「それでいいんです。スーパーローテーションによる気流は、上空ほど強いので……」

「なるほど。ほんじゃ、いつでも出られるぞ。湊川、そっちは?」

「問題ない。レーザーガイドに従ってくれ」

了解ウィルコ


〈ブーメラン〉の主翼に二列のライトが点くとともに、空中に向かいレーザー光が放たれる。〈収水〉の後方には焦げ跡の付いた噴射偏向板JBD: Jet Blast Deflectorが立ち上がってきたが、どうやらこれも有り合わせの予備品の流用のようだ。どこから仕入れたのか知らないが、色が海軍仕様の青灰色のままになっている。噴射偏向板JBDなんて、高温排気の出ないプロペラ機には、そもそも必要ないからな。

電子系統を一通り再確認した上で、エンジンに火を入れる。心地いい振動と共に、一瞬だけカタパルトに車軸がめり込む感覚。偏極原子状水素シングルH↓を使う大気圏外用エンジンと幾分振動が異なるのは、外気を巻き込んで推力の方向制御を行う吸入器が付いているからだろう。あまり見た事の無い小細工だが、コイツならひょっとすると、単段式宇宙輸送機SSTO: Single Stage To Orbitみたいに、このまま衛星軌道まで上がれるかも知れない。

出撃時のお約束的な派手なブザー音と共に、赤ランプが三つ。二つ。一つ──。

「出るぞ。アゴ引いとけ」

後部座席に声をかけるが返事は無い。俺も、操縦桿から手を離して、キャノピー枠に手をかける。〈ブーメラン〉は上昇から推力を絞り、〈収水〉射出の瞬間はほぼ失速状態。飛行甲板を兼ねている翼は湊川の操舵により、上空への射出を手助けするべく、天空向きに20度程度傾く。この段階では、俺より湊川の方が作業が多い。ボタン一発とは言え、シューター役もこなす必要がある。


緑ランプ点灯。


カタパルトとフルスロットルの力で、俺と彼女──そういや名前を聞いてないぞ──は豪快なGと共に、真っ白な空間へ放たれた。


    *  *  *


射出直後、離していた操縦桿を握り左右に軽く振る。レスポンスは悪くない。水先人Bay pilotとしてのレーザーガイドは5秒もしないうちに見えなくなるが、キャノピーに表示された彗星の赤い点は、現在位置と予測軌道を正確に示している。予定では3分かそこらで肉眼でも見えるようになるだろう。

──いやいや。そういう話がしたかったわけじゃない。彗星の視認うんぬん以前に、ともかく俺はこの白い闇の中から脱出したかった。今度の人事調書には『青い空を飛びたい』って書くかな──とか思ったが、火星の青い夕日を思い出して考えを改めた。大気内を駆け回る楽しみを考えれば、大気が濃い分、火星よりも金星の方がまだマシに感じられる。

ただ、大気が濃いだけではなく、金星の雲は、主に硫酸で出来ている。吸い込めば命が危ない。そうでなくても大気中に酸素があるわけではないから、命が危ないのは雲の無い上空でも雲底の下でも同じだ。とかくこの星は住みにくい。


「どうだ。〈収水〉の乗り心地は?」

ひと仕事終えた湊川が、雑談のように聞いてくる。

「機体は紙のように軽いのに、推力があり過ぎる。ケツが揺れてるな」

「はは。そうだろ。俺も着任時にソイツに乗せられたからな」

──そいつは初耳だったな。湊川はさらに続ける。

「何なら、そのままスピード記録更新ってのもありだ。挑戦してみるか?」

「いや。遠慮しとく……」

湊川の奴、売られた喧嘩は見境なく買う俺からそういう返事が返ってくるとは、想像してなかったのだろう。ヘッドホン越しにもハテナマークの三連星が聞こえるようだった。だが、実際に聞こえたのはもっと近くからだった。

「もっとスピード出しなさいよ! なるべく上空で彗星を捕まえないとダメ」

とがめるような声は、後部座席からだ。

「そいつは無理だな。この機体はおそらく──マッハ1.4程度が限度だ。それ以上は制御ができない」

「どういうことよ?」

彼女の言葉を聞いた直後に短い振動バフェット衝撃波ソニック・ブーンが来る。意外と早いな。確かに加速性能は良さそうだ。後方のブレは相変わらずだが、この不安定さを上手く使えばアクロバティクな機動性も確保出来る。ただし、本当の機動限界を決めるのは、もっとも──すなわち、人間の強度によるところが大きい。

「機体の形状が問題だ。コイツは幅広過ぎる。衝撃波が主翼端にかかると何かと厄介だ。可変翼なら良かったんだがな。それと、もう一つ。元の機体がプロペラ機だった所為で、翼形が遷音速せんおんそく以上の飛行を考えていない設計だ。推力だけで無理に引っ張っても、翼が勝手に振動を始めて制御が効かなくなる。そうなると、最短の経路を外れて千鳥足になるか、失速して立て直しに時間がかかるか……。まあ、要するに──そうはならないギリギリの速度を見定めて飛んで行くのが、実は一番速いってことさ」

「ふぅーん。そういうものなの……」

「そういうものだ」

尾羽おばねの無いカモメみたいだものね。この機体……」

それっきり、彼女は黙ってしまった。意外と素直だな。

「ははぁ。バレてたか」

湊川の声が、開き直る3秒前の悪代官のような調子でヘッドホンにこだまする。

「当たり前だ。何年テストパイロットしてると思ってるんだ。ま、任せておけ。最短・最速でランデブーしてやっから」

雲頂高度を抜け、待ちに待った青空に突入する。金星に成層圏って概念があるのかどうかは知らないが、何にせよ気分がいい。上空にはところどころドライアイスの雲が巻雲Ci状に広がっている。地球のものより遥かに高々度でくっきり見える。高度130キロメートル付近──空抜にして75キロメートル程度の上空に、極低温層の雲があると言う。だが、見蕩みとれてる暇はないし、そもそもそういう感情自体、俺はあまり持ち合わせていない。さっさと──しかし確実に任務を遂行するだけだ。

少々誤算だったのは、二酸化炭素大気中の音速はかなり遅いってことだ。マッハを超えたと言っても、地球上のソレに比べると、三分の二程度じゃないかな?


「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。彗星は10時の方向。そろそろ見えると思います」

みのりの、少し緊張した声が伝わる。

了解ラジャー。位置は目視でも確認している。ずいぶんと長い尾だな」

「それは彗星本来の尾じゃありません。大気圏突入時に出来た水蒸気の──」

「分かってるって」

彗星はまだクモの糸の先程度にしか見えないが、その尾は長く伸びていた。大気圏外での彗星の尾は、太陽光や太陽風によって弾き飛ばされて放出されたガスの尾だが、今見えているのは大気圏突入によって発生した水蒸気だ。出ている成分は同じでも、生成の仕方が違う。どちらかというと飛行機雲に近い。

岩石で出来た彗星ならば、この段階で一気に加熱されてバラバラになってしまうが、氷の彗星は案外頑丈で、形を保ったまま雲頂付近にまで達することが多い。もちろん、大気圏外でコーティングした炭化吸熱体Charring Ablatorの効果もあるが、彗星自身から発生する水蒸気が彗星本体に熱が伝わることを防ぐ効果も大きい。水蒸気の膜が一種の断熱冷却層になっていると言える。焼けた鉄板上を転がる水滴が、意外と長生きなのと同じ理屈だろう。

飛行機雲の後端。薄く広がりつつある側は、極成層圏雲PSCsのように鮮やかな光を放っており、群青色の空とマッチして、なかなか幻想的な風景を作っていた。もっとも、今はそんな風情に浸っている場合じゃないし、そして──さっきも言ったが──そんな風情を楽しむ心なんぞを、あいにく俺は持ち合わせていない。

「みの──伊川軍曹。ランデブーまでは一二〇ひとふたまるくらいだと思うが?」

「はい。彗星の予測進入路修正確認。ランデブーまでは一一八ひとひとはち誤差三セコンド。現時点でビッグ・ハンドを展開しても6割の確率で受け止めることが可能です」

キャノピーには到達予測範囲が浮かび上がっている。もうちょい右かな。さぁてと、後は度胸と踏ん切りの問題だ。何でも、幸運の女神様は後頭部がハゲているらしい。通り過ぎてからひっ捕まえようにも、つかむ髪が無いそうだ。

何気なくバックミラーを見ると、彼女が何処からか取り出した双眼鏡──いや、カメラかも知れないが、そいつで熱心に彗星を観察している。搭乗時には聞けなかったが、彼女は何の目的でここにいるのか? 『送り届けて』とか言っていたが、まさか彗星に飛び乗るつもりではあるまい。彗星を観察するだけなら、帰投後に機体の機首カメラの映像をコピーすれば済む。直接、肉眼で見たいっていうのは分からんでも無いが……。


「あっ!」

そいつは唐突だった。彼女が声を上げるのと同時に、彗星の一部が分裂を始め、リアルタイムで計算されている到達予測範囲もいびつに広がり始める。

「まずいな……」

全体の三割くらいが分裂したように見えるが、水蒸気のベールに包まれてはっきりとは分からない。赤外チャネルの最大望遠で見ると、側面が裂けた格好だ。このままなし崩し的に分裂してしまうと、どこを中心にしてビッグ・ハンドを展開すればいいか分からなくなる。自然的不可抗力だからこちらの操縦ミスでは無いにせよ、大部分を取りこぼしてしまう事態は何とか避けたい。

──とは言っても、こればっかりは神頼みしかないな。


分裂した三割は、残りの彗星本体とは少しずつ軌道をことにして行く。ランデブー時間は一分を切り、彗星の視野角は急激に大きさを増してくる。それにしてもデカい。形はサツマイモみたいだ。相手がサツマイモならば、こっちはそれにたかるハエくらいの大きさでしかない。

時間的にも余裕が無かった。ビッグ・ハンドを射出して展開するまでにほぼ十秒。射出後に現空域を一気に離脱しなければ、最悪、彗星と正面衝突だ。眼前で再び分裂する事態などを想定すれば、最低でも十五秒は欲しい。

だが、それとは裏腹に、なるべく引きつけてからビッグ・ハンドは射出すべきだった。今のところ、彗星がこれ以上分裂する兆候は無さそうだが、射出後にまっ二つに分裂し、ビッグ・ハンドをまたぐようにすり抜けられたら目も当てられない。ギリギリまで射出を我慢して、一番大きな塊を包み込む必要がある。

彗星が現状のまま落下を続けたとしても、選択肢は2つある。分裂した分も含め、全てを包み込むようにビッグ・ハンドを射出するか、それとも、七割を確実に受け止めるように射出するかだ。彗星の到達予測範囲は、その全てが辛うじて半径500メートル内に収まっている。だが、少しでも射出位置が狂えば、どちらかを取りこぼすことになる。どうせ取りこぼすならば、安全策で七割を確実に受け止めた方がいい。

二兎追うものは一兎も得ず。一石二鳥ってのもあるな……。この場合どっちだ。


──なんてな。

悩んだふりをしているが、実は全然悩んでいない。取れるモンなら全部取りに行く。それで失敗しても後悔は無い。むしろ、安全策を狙って成功しても、ちっとも嬉しくない。ならば道はひとつだ。


「回避限界まであと十秒! 急いで下さい!」

みのりの声が上ずっている。まだまだだな。お前がテンパってどうするよ。

「射出後、9時方向に急旋回ブレイクしろ」

了解ウィルコ

小隊長殿おやっさんからの声が響く。声は至って平静、かつ、必要十分な情報を伝えている。ただまあ、帰投してから結局はドヤされるんだけどな。


危機一髪──と言いたいところだが、俺としては余裕を見た方だ。一髪じゃなくて、髪の毛三本分くらいの余裕はあった。射出後、間髪入れずに──ここは一髪も入らない──機首を持ち上げナイフエッジで左に離脱。右目でビッグ・ハンドが開くのを見ながら、直後に彗星が通過するところを足元で感じる。眼下なので直接見ることはかなわなかったが、俺はこの時、彗星の全てを手中に収めたことを信じて疑わなかった。全てがシナリオ通り──のはずだったのだが……。


半回転して背面になり、頭上の雲海を見上げて、そうではないことを知る。ビッグ・ハンドに包まれたのは七割の方だけだった。残り三割は並走して落ちて行く。目の錯覚ではないかと最初は思った。射出は完璧だった。あの軌道で捕まえられないわけがない。

水蒸気の雲の中で目を凝らし、俺はひとつのあり得ない結論に達した。


──三割がビッグ・ハンドを回避した⁉


彗星は、ビッグ・ハンドをバレル・ロールでかわした後、平行移動で再び同じ軌道に戻った──そう考えなければ説明がつかない飛行機雲が残されていた。その証拠は、残り七割の彗星からの水蒸気と絡み合い、直ちに分離不可能になってしまったのだが、絶対に見間違いではない。どういうことだ?

まあいい。証拠は機首カメラに残っている筈だ。今となっては追いかけても間に合わない。機体を立て直し、降下を始めようとした矢先、後部座席から声がした。

「ここでわ。これ……開けてくんない?」

「何だって?」

彼女は天井のキャノピーを指差している。何の冗談だ? ──と、最初は思った。

「アタシはあの彗星に用があるって言ったでしょ?」

「捕獲した彗星はそのうち展開気球バリュートで落下が止まる。今は追いかけるだけ無駄だ」

下方を見ると、実際に展開気球バリュートが膨らみ始めていた。レーダーに映る彗星の速度も、大気による摩擦以上の減速率を示していて、作戦はほぼ成功だということが分かる。七割しかキャッチできなかったのが多いに残念だが……。

「どうしても開けてくれないのね?」

答える代わりに、俺は左手を左右に振った。

「なら仕方ないわ……」

さっきと同様、実は見かけによらず素直なんだなと、彼女を見る目を少し変えようと思った瞬間だった。


「なっ⁉」


鈍い爆発音がした刹那、足元から急激な減圧。一瞬、操縦席の空気が白くなり直後に消える。操縦席と後部座席との間には透明な隔壁がある。ただし、一カ所だけ換気口が存在しており、機内雰囲気の循環が行われている。そこから空気が漏れて──いや、漏れているという半端な状態ではない。あわてて後方を振り向くと、後部座席ごと彼女が消えていた。まるでスローモーションのようだった。視線を横に振ると、彼女は射出された座席のベルトを躊躇無く外し、見事なフォームでさらに空中へと、単身ダイブしたのである。

不覚にも二秒ほど状況が飲み込めなかった。戦場なら死んでてもおかしくないレベルの意識空白だ。要するに、彼女は、緊急脱出用のボルトに点火し、後部のキャノピーを吹き飛ばして座席ごと成層圏に飛び出した挙げ句、座席に備わっている様々な救命装置──当然、パラシュートもだ──すらあっさり捨てて、虚空に飛び出したのだ!


「ばっ、ばかやろう‼」

とっさに出た言葉はそれだけだった。

「えっ? 何?」

──と、みのり。

「どうした? 爆発音がしたぞ!」

──と、湊川。

「状況を報告しろ」

──と、小隊長殿おやっさん

いっぺんに言われても、こちとら聖徳太子じゃないんだ。

「彼女が緊急脱出した。飛行には問題ない。救助に向かう」

理由を説明している暇はない──って言うか、俺が聞きたい。


索敵用マーカーに映った彼女の肢体を拡大すると、背中に鋭角な翼のようなものが見える。空を飛ぶには小さ過ぎるから、落下中に方向を変えるためのものだろう。後部座席にいた時はそんな大きさのものは背負っていなかったから、脱出後に展開したものだ。アイツ……最初から外に出るつもりだったな。

地球上なら放っておくところだ。自らの意思で飛び出して、中身はよく分からんがそれなりの装備を背負っているならば、自己責任で何とかしてくれ。俺は知らん! ──と、突き放すこともできる。放っておいても、落ちる場所さえ悪くなければ問題なく生還出来る。だが、金星ではそうは行かない。地表は90気圧で460度。生き残れるのは映画で出てくるエイリアンくらいなものだ。

いや、それ以前に、濃硫酸の雲海の中に、あの装備で入って無事なのかが分からん。頭部のヘルメットを含めて全身が外気に触れる事は無いとは言え、どこか穴が開いていたらどうなるか? それに、酸素だって十分にはないだろう。仮に雲海の奥にまで落ちてしまったら、目視で見つけ出すのは至難の業だ。GPSビーコンくらいは持っているんだろうな?

俺は、レーザー・レーダーを駆動させ、彼女をロック・オンした。こいつが追跡していれば、雲海に飲み込まれても何とかなる。だが、場所が分かったとしてどうやって助ける? 下に回り込んで、空中でキャッチとか、まあ絶対に不可能だ。ビッグ・ハンドの予備でもあれば、彗星と同じ要領でキャッチできるが、既に使っちまったわけだし、〈ブーメラン〉に戻って換装してる暇なんてどこにもない。

現空域にいるのは俺と湊川だけだ。彗星が落っこちてくると分かっている空域なんだから、あらかじめ航行制限が出ている。〈ブーメラン〉を遠隔操縦に切り替えて、湊川が上がってくるのも不可能だ。〈ブーメラン〉にはもう一機、改造されていない緊急脱出用の機体があるが、そいつは何の変哲も無いプロペラ機で、救助機にはなれない。救助される側の機体なんだから、当然だ。


雲頂が迫っている。だが、彼女がパラシュートか空中係留用の気球を出す気配はなかった。持っていないということは無い筈だが……。

この段になって、俺は彼女の行動に疑問を覚えた。何故に緊急脱出までして飛び出すのかってのが一番の疑問だが、それはこの際、置いておくとして、『あの彗星に用がある』と言ったのだから、ビッグ・ハンドで捕獲した彗星へ降り立つものだと思っていた。おそらく、それ以外に彼女の助かる道は無い。ビッグ・ハンドはそのうち展開気球バリュートを最大限に膨張させ、巨大なプールを吊り下げた状態になる。まさに空中庭園だ。そこで泳ぐのはさぞかし気持ちよかろう。彗星本体も入った〝オン・ザ・ロック〟状態だから、少々冷たいのを我慢すれば──だ。

ところが、彼女が追いかけているのは、そちらから外れた、残り三割の方のように見える。あちらに着地するのは、落下速度の関係でまず無理だし、仮に着地出来たとしても、行き先は奈落の底だ。明らかに助からない方の道を歩んでいる。1~2分以内に決断してビッグ・ハンド側に着地しなければ、彼女の助かる確率は限りなくゼロになるだろう。


「えっ⁈」

彼女が追っている残り三割がさらに爆発した──かのように見えたが、それは違った。光ったのは取り損ねた彗星ではなく、さらにその向こう──雲海の向こう側からの光だった。正確に言えば、正面の雲海中から照射された赤外光を〈収水〉のセンサーが拾い、キャノピーに装備されたヘッドマウントディスプレイに、それを知らせるアラート光として表示してくれた──ということになる。俺はとっさに操縦桿を倒し、回避行動に出る。頭で考えるより先に手が動く。この光の動きには見覚えがある。今、俺が照射しているレーザー・レーダーと同じ。ここが戦場なら高確率でこの後に誘導弾が来る。電波欺瞞紙チャフを撒こうとして、〈収水〉が戦闘機で無いことを思い出した。

こちらの位置を知らせないため、レーザー・レーダーは反射的に切ってしまったが、切る直前まで光点は存在した。ただ、赤外光を照射した筈の機影は雲海に呑まれていて全く見えない。レーザー・レーダーも『何かいる』ということを認識しただけで、形のあるものは何も捉えていない。〈ブーメラン〉が眼下に到着したのかと一瞬だけ考えたが、〈ブーメラン〉は巨大な飛行船モドキだから足が遅い。この空域に到着するまで20分はかかるだろう。それに、仮に〈ブーメラン〉が映っているのだとしたなら、それはそれで巨大な影が映るはずだ。

──目からビームを出してる鳩でも飛んでいるのか?


一方、雲海の向こうからの光に反応したのは俺だけではなかった。彼女もまた回避行動とも取れる行動を起こした。すなわち、ビッグ・ハンドへの方向転換である。ただ、ビッグ・ハンドに着地するためには、時間的にもギリギリのタイミングだったから、光を確認した後の動作だったかどうかは定かではない。数秒後、彼女のパラシュートが開く。パラグライダーに近い形状だ。器用に操作してビッグ・ハンドのほぼ中心部に着水。何だか知らないが〝プロの犯行〟としか思えない。とりあえずはこれで一安心だ。酸素残量と濃硫酸の雲海への突入が気になるが、多少の時間的余裕──十数分程度の猶予──はできた。後は彼女をどうやって〈ブーメラン〉まで連れて帰るかだな……。

ビッグ・ハンドで取り損ねた彗星の残り三割は、その直後に雲海へと消えて見えなくなった。レーザー・レーダーは既に切っているから、雲海の先のことは分からない。赤外線を発した奴の正体を確かめて見たいが、こちらは丸腰の単機だ。光を意図的に放ったのは確かだが、その後のアクションが無いところを見ると、これは〝警告〟の光である可能性が高い。『いつでも落とせるぞ』と言う警告。おそらく、その気になれば、こちらのレーザー・レーダーを探知して、先制攻撃をする事もできただろう。だからこそ、戦闘中は、不必要な能動アクティブレーダーは使わない。闇夜にヘッドライト付けて走っているようなものだから、『狙い撃ちして下さい』と言わんばかりの愚行だ。だが、未確認機アンノーンが攻撃をしなかったのは、そのまま隠密行動を取りたかったのか、それとも攻撃能力が無いのか? どちらにせよ、これ以上深追いするのは無謀だ。

もちろん、単なるセンサーの異常という可能性もある。機影は確認出来ていないわけだし。もっとも、それならそれで、ありもしない未確認機アンノーンを深追いすることもない。まずは彼女の救出が先だ。


ビッグ・ハンドの落下速度は、予定された終端速度まで遅くなっており、俺はその周囲を何度か廻れる位置まで降りてきた。落下が遅くなったとは言え、彗星はこのままでは落ち続ける。展開気球バリュートに詰められたヘリウムガスは、彗星を空中に静止させるには、まだまだ圧倒的に足りない。〈ブーメラン〉と連結してガスを送り込むまでは落ち続けることになる。

俺は空中庭園と化した彗星の周囲を回りながら、緊急回線で彼女のレシーバを呼び出し続けたが返事は無い。そもそも、彼女の装備は軍支給品のものでは無かったから、どの回線が繋がるかは最初から未知数だ。ただ、遠目に見てもパラシュートが切り離されているのが分かる。豆粒ほどに見える彼女が何をしているのかまでは分からんが、何らかの意図を持って行動しているのは明らかだった。気絶しているとか、溺れているというような、一秒を争う危機的状況Time-Criticalではなさそうだ。

「湊川! あと何分でここに到着する?」

「18分……、いや、15分でなんとかする」

こちらの状況は、機首カメラの映像で大体は伝わっている筈だ。湊川はさらに付け加える。

「だか、雲頂高度まで行くのは無理だ。そっちで救助できるか?」

「わからん。分からんが──やってみるしか無いだろう」

「上沢。無理はするな」

小隊長殿おやっさんが会話に割り込んでくる。

「ビッグ・ハンドを〈ブーメラン〉に繋留するまで待てるなら、その方が安全だ」

小隊長殿おやっさんの言葉はあくまで冷静沈着だ。ただ、この状況では冷淡と言ってもいい響きがある。

「しかし……、それでは濃硫酸の雲の中に数十分間、放置することになります」

「裸で降りたわけじゃない。後部座席の緊急脱出装置は暴発したのか?」

「いや──。確認したわけではありませんが、おそらく彼女が自らの意思で点火したものと推測されます」

「それならば、何か考えがあっての行動だ。今回の作戦ミッションの詳細は作戦会議ブリーフィングで彼女も知っている。助かるすべを持たずに飛び降りるとは思えん」

「それは……、そうですが……」

確かにその通りだ。無理に助けに行く必要は無いのかも知れない──と納得しかけた時、俺は彼女の着ていた防護服プロテクトスーツ何故なにゆえに金星で採用されなかったかを思い出した。いや、駄目だ。彼女は重大なミスを犯している。

俺は周囲を飛びながら着陸ポイントを探したが、降りれそうなところはどこにも無かった。彗星はかなり溶けており、水割りならそろそろ氷を追加したい頃合いになっている。飛行艇ならば慎重に降りればあるいは──と一瞬頭をよぎるも、海の無い金星を飛ぶ航空機の中に、その手の機種が存在する筈はない。仮に〈収水〉で降りたとしても、頭を下にし、つんのめってひっくり返るか、尻を下にして水没するかになるのは目に見えている。例えうまく着水出来たとしても、再び飛び上がることができない。ミイラ取りがミイラだ。これ以上救難者を増やしてどうする。

──となれば、着水しなければいいわけで……。


小隊長殿おやっさん! 俺に考えがあります。救助に行かせて下さい」

「駄目だ──と言っても、お前は行くだろうな」

「…………」

短い溜息が聞こえる。

「では、チャンスは一度キリだ。無理と分かったら引き返してこい」

了解ウィルコ!」


濃硫酸雲の雲頂は眼前に迫り、決行時間はあまり無かった。小隊長殿おやっさんに言われなくても、チャンスは一度キリだろう。後々のことを考えて、後部座席との換気口は閉鎖。機器類の情報をキャノピー上のヘッドマウントディスプレイに集め、多くのスイッチ類を無効化する。ビッグ・ハンドの落下速度に合わせてアプローチ開始。まずは失速ギリギリで振動バフェットさばきながら、地面効果を利用して水上スレスレを水平飛行。彼女の位置を確認する。水際にいた彼女に対し、手動でキャノピーを押し上げ、左手の人差し指を突き上げて、氷山と化している彗星の上部に登るよう指示する。ちゃんと伝わってくれればいいのだが……。一旦、通過して旋回。どうやらこちらの意図を分かってくれたようだ。氷山の頂上付近で待機している。

「さぁて、ここからが本番だな……」

誰に言うでもなくつぶやく。航空ショーならいざ知らず、こんなシチュエーションに使えるかどうか? 〈収水〉の失速時機動ポストストール・マニューバは未知だが、このエンジンなら大丈夫と確信している。頭の中で何度もシミュレーションをし、侵入経路と切り返しをイメージする。不安というよりは、何かワクワクしている自分を再発見し、少し苦笑。つくづく能天気なヤツだな、俺は。

先ほどよりはややスピードを上げてアプローチ。彼女を11時の方向に見ながら、位置を確認。時間が異様に遅く感じる。タイミングが早過ぎると届かないが、遅れれば二度とチャンスは無い。


『今だ‼』


機体軸回転ローリングさせながら急激な機首上げピッチアップ。同時にエンジン全開。あたかも暴れ馬が前足を跳ね上げたかのように、機体が上を向く。急激な減速となり失速警報ストール・アラートが盛大に響く。機体はほぼ仰角90度で突っ立ったフリーフォール状態。普通ならお尻から落ちるが、エンジン出力の調整だけで機体を浮かせ、そのまま慣性でゆっくりと前進。最初にかけた機体軸回転ローリングによって機体は突っ立ったままゆるりと回るが、ノズル後方に方向舵が無いから、この段階で機体軸回転ローリングの調整は出来ない。まさに一発勝負。

コックピットで仰向けに寝た体勢のまま、俺は左手を目一杯上に伸ばし、その先を凝視し続けた。ゆっくりと回転する先に──俺の計算通りなら──彼女が見えてくる筈だ。

回転はそのまま。機体は突っ立ったまま前進から僅かずつながら後退を始める。こういうアプローチをしないと回転時に翼が氷山にぶつかってお陀仏となる。翼の先端が氷の壁をかすめながら通過したところで、俺は仰向けで左斜め上を見上げる。妙な姿勢で首が痛い。そこに彼女が……。


──いた!


正確に言えば、それと気づいたとき、彼女は空中にいた。そのままコックピットの淵──翼の付け根部分に着地。機体が偏揺かたゆれする。通常なら偏揺れヨーイング調整は方向舵ラダーの仕事だが、失速時機動ポストストール・マニューバでは推力偏向制御TVC: Thrust Vector Controlで何とか凌がねばならない。俺が手招きをしようとするより早く、彼女の肢体が見える──と思ったら、直後に馬乗り状態。


わぁ~お♥ ──じゃない‼


後部座席は、椅子はもちろんキャノピー共々吹っ飛んでいる以上、この狭い操縦席に2人で乗り込むしか無い──のだが、この体勢は──などと喜んで、では無い‼ 躊躇している場合ではない。キャノピーを閉めつつ再びエンジン全開し、そのまま上昇。演技途中から再会した後方宙返りインメルマンターンのような機動マニューバになる。


「ちょっと‼」

彼女の声がヘルメット越しに聞こえたかと思うと、ギュッと抱きついて来て、なんだコイツ気があるのか、そうかそうかとヘンに勘ぐったところで、背面飛行になっている事に気づく。彼女はシートベルト無しだから、抱きつくしかないよな……。

速度が出たところで機体軸回転ローリングをし、上下を戻して水平飛行へ。左手で彼女を抱きかかえつつ、右手で操縦桿を握るという非常に窮屈な状態だが、なんとか視界は保たれている。

「彼女を救助した。これより帰投する」

「あっ──。あの。こっ、こちらでも確認できてます」

「げ!」

みのりの声を聞いて気づいた。この映像。コックピット内のカメラで、管制室から丸見えなんだ。ガムテープでも貼っとけばよかった。紫外線防御用のヘルメットで表情が見えていない分だけ、まだマシか?


──で、この絶妙なタイミングで湊川からの無線が入る。わざとだろ。湊川。

「お二人さん。お楽しみのまっ最中済まないんだが……」

「誰がお楽しみだ!」

「誰がお楽しみよ!」

声がハモった。忌々いまいましい。

湊川が続ける。

「ようやくそちらに追いつきそうだ。視界が確保できるのなら、5時方向に進んでくれ。そのうちレーザーガイドが見える。こちらは空抜6千メートルが限界だ。そこまで降りて来てほしい」

続けて、みのりの緊張した声が聞こえる。

「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。操縦が無理なら、こちらで途中まで遠隔誘導します」

「大丈夫。ちょっとばかし窮屈だが、操縦は可能だ。有視界VFRで降りる。そっちでも確認してくれ」

「分かりました」

──操縦桿を引くと手に彼女の尻が当たって──、いや、それ以外にも色々と当たるものが○※◆△■──と言うのは、報告しない事にした。


有視界でレーザーガイドを見つけるのには少しばかり苦労したが、みのりの──決して流暢とは言えない──誘導のお陰で、何とか辿り着いた。先ほどのアクロバットに比べれば何と言うことは無い。ガイドに従い直線で入って、フックを引っ掛けて止まるだけ。

エレベータの上に機体を設置すると、ゆるゆると〈ブーメラン〉内に格納され、ハッチが閉まって、洗浄用揮発テルペンが四方八方から吹き付けられる。後部座席が開いたままだが、仕方が無い。もっとも、揮発してしまうから、匂いはともかく電子機器に損傷は無いだろう。

一番の問題は、この間、彼女と抱き合ったまま狭いコックピット内でジッとしていなければならないということだ。気の利いた言葉は出てこない。そもそも、この状況を作り出したのは彼女の方だ。何故、俺が気を使わねばならんのだ。幸いなことに彼女も何も言わなかった。ヘルメットがあって本当によかった。

気まずい数分の後、洗浄中を示す赤ランプが消える。キャノピーを押し上げると、彼女は飛び跳ねるように外に飛び出し、大きく伸びをした。ヘルメットを脱ぎ捨て、ひとつ溜息をついた後、背中に張り付いた小さなバッグを開け、中を確認している。そこには小さなシリンダが冷却装置付きで数本入っており、中には彗星の欠片かけら──要は、氷の塊──が詰まっていた。

その間、俺は、彼女の行動を横目で見ながら、通常は洗浄中に済ませてしまう機器のチェックやシャットダウン、座席とくっついている諸々のケーブル類を外し、ついでにヘルメットも外して、ゆっくりと降りた。

一連の終了作業をこなしながら、俺は段々と腹が立って来た。エマージェンシー・モードで脇に追いやられた感情が次第に解放されてきたというべきだろう。単なる〝水汲み〟の筈が、一人のじゃじゃ馬の為に、俺たちは振り回され多大な迷惑をこうむった。迷惑だけならいい。命の危険もあったのだ。

俺のしかめっ面の意味を知ってか知らずか、彼女は能天気にこう言い放った。


「助かったわ。あそこで数十分ほど待ってるつもりだったけど、雪山でディパークしてるみたいで寒いし、コートでも着て飛び降りれば良かったと──」


後から考えると、気が立っていて冷静さが欠けていたんだと思う。気づいた時には、俺は彼女の横っ面をはり倒していた。


「なっ、何すんのよ!」

「ばかやろう‼ 命を大事にしろ。ここじゃ、地球の常識は通用しない。勝手な行動は死に直結するんだ‼ ちったあ、周囲まわりの事も考えろ!」


彼女は、頬に手を当てながら、その緑がかった瞳でしばらくこっちを睨んでいたが、やがて表情を和らげ、腰に手を当てながら一言。


「あんた──」

口元には少しばかり笑みがこぼれている。

「あんた──。いい人ね」


脱力した。この状況で微笑んでの切り返しは反則だ。ずるい……としか言いようが無い。どっかに吹っ飛んでしまった俺の怒りを返せ。振り上げた拳をどうすりゃいいんだ。

俺の心の葛藤なぞおかまい無しに、彼女は続ける。

「あんた──、名前は?」

「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが先だろう」

「そうだったわね。あたしは御影恭子。で、あなたは?」

「上沢俊介だ」

「上沢俊介ね……。覚えとくわ」


すっかり調子が狂っちまった。ユークレインがどうのこうのと湊川は言っていたが、なんだ無茶苦茶古風な和名じゃないか──。

説教の続きはとてもじゃないがする気にはなれず、俺はきびすを返して格納庫の出口に向かった。彼女──御影恭子もついてくる。

おっと、もうひとつ忠告することがあるのを忘れていた。

「そのスーツは、金星ここでは止めといた方がいいぞ」

「どうして?」

振り向き様に言った言葉に、御影恭子は怪訝けげんそうな顔をする。やっぱり気づいてなかったか。

「確かにそのスーツはカッコいいしセクシーだ。だけどな……。ケブラー繊維は、剣や銃弾には強いかも知れないが、濃硫酸には溶ける」

「えっ? えーっ!」

面白いリアクションだな。本気でビックリしている。下調べが甘いんだよ、お嬢さん──。


    *  *  *


御影恭子は、その後、貨物室カーゴルームに置かれたままのトランクを取りに行き、彗星の欠片かけらが入ったシリンダーをしまい込むと〈ブーメラン〉の操縦席コックピットにやってきた。俺は既に、操縦卓コンソールに両足を投げ出している。本来ならもうひと仕事──ビッグハンドへのワイヤー掛けと〈レッド・ランタン〉までの牽引──が残っているのだが、もうそんな気にはなれなかった。イレギュラーな救出劇だったが、俺の責務はもう十二分に果たしただろ。疲れた。精神的に……。後は適当に何とかしてくれ──と湊川に任せた。湊川は『しょうがねぇな』と言わんばかりの顔をしていたが、ワイヤーの射出と固定、そしてヘリウムガス注入までをテキパキとこなしている。

図体のデカイ機種の操縦は、輸送部隊上がりの湊川の十八番おはこだ。もしかすると、巨大タンカーとかの操縦とかも出来るんじゃないかな。俺はどうも、機動力の無い機体は苦手だ。ボケてるのに、ツッコミが5秒遅い漫才のようで、その遅さにツッコミを入れたくなる。

さらに悪い事に、帰路は往路よりのんびりとしたものになるのは確実だ。いくら巨大な〈ブーメラン〉とは言え、彗星を吊るすために馬鹿でかく膨らんだ展開気球バリュート──ヘリウムガスの追加で直径は3キロメートルを越えている──に比べれば、タグボート並である。要するに自力航行が出来ないタンカーをタグボートで延々と引っ張るようなもので、退屈でしょうがない。俺だけさっさと〈収水〉で帰っちまおうかとか思ったが、アイツは短距離機だから基地まで足が届かない。航空管制の所為で周囲を飛んでる飛行機はいないのだから、こんなの、みのりちゃんに遠隔で操作させればいいじゃん。もっとも、帰りの退屈も含めて〝新入りへの歓迎〟になっているのかも知れないが。


金星の晴れる事の無い雲に囲まれ、心まで晴れ間の無い憂鬱に浸っていると、インカムから秘匿回線で湊川のヒソヒソ声が入る。

「あれほど『手ぇ出すのは止めとけ』って言ってるのに、人の話を聞かないヤツだなぁ。お前は……」

「はぁ?」

──と、つい大声を出してしまった。後ろに当の御影恭子がいるんだった。

「誰が手を出すもんか! 救助だよ、救助。お前だって見てただろ」

「まぁ、そういうことにしといてやろう」

「そういうことにじゃなくて、そうなんだよ……」

「分かった分かった。それにしても、垂直離着陸機VTOLでもない〈収水〉で機首上げ空中停止Harrierをするとはな。しかも、前代未聞の機体軸回転ローリング付きだ」

「アレしか方法が無かったんだよ……」

「ほほう? 俺には、いわゆるひとつの求愛の舞ってヤツに見えたがな」

「よく考えつくな、そんなヨタ話……」

湊川はどうしてもそっち方面の話に持っていきたいらしい。往々にして、この手の話題は尾ひれがついて知れ渡るものだ。先が思いやられる。

「ところで──」

こういう時は、強引に話題を変えるに限る。

「ところで、〈ブーメラン〉のレーダーには何か未確認機アンノーンが映らなかったか?」

未確認機アンノーンだと?」

「そうだ。レーダー照射を受けた」

「穏やかじゃないな。こっちでは何も感知出来なかったぞ。夢でも見てたんじゃないか?」

湊川は、こちらを覗き込み、ジト目でわざとらしく『おらぁ知らねぇよ』って顔をしている。

「そうか……。すまん、それならいいんだ」

「何か見たのか?」

湊川は目を細める。

「いや。機影は見えなかった──が」

「──が?」

「いや、何でも無い。忘れてくれ」

〈収水〉のレーダーも一瞬反応したってことも言おうかと思ったが、それは後でフライトレコーダーを見れば分かる事だ。ここで議論してもしょうがない。隊に戻ってから報告書に書けばいいことだ。


そんなこんなで、3時間。

風景が変わらない五里霧中の中、3時間だぜ、3時間!

俺たちはようやく、北緯30度帯30 Degrees Northを統括する拠点〈レッド・ランタン〉まで到達した。〈レッド・ランタン〉とはよく言ったもので、巨体な赤い筒状の空中都市だ。中央は膨れてはいないが、なるほど、赤提灯あかちょうちんに似ている。酒屋はそれほど入っていないがな。

居住区の基本単位は六角形ヘックスの浮き袋状のモジュールだ。単独でも浮いていられるように設計されているが、実際はそれらが何百、何千と連なって広がっている。浮き輪と言っても中央部分は穴ではなく、予備の酸素とヘリウムガスが詰まった密閉空間であり、周囲の輪の部分に居住空間がある。中央が軽く、周囲が重いという点では、通常の浮き輪と構造が逆だ。

六角形ヘックスの浮き袋なら、あたかも蜂の巣のように、平面にどこまでも連なることが可能で、現にそういう空中都市もあるのだが、〈レッド・ランタン〉の場合は一周するとひとつ上の階層に繋がるようになっていて、それが螺旋らせん状に積み重なっている。

この構造については、誰かが言っていたな──えーっと、

「んー、ら、らせん転位を持つ──、グ……グラフェン構造」

──そうそう。グラフェン構造……えっ?


俺は後ろを振り返った。御影恭子の隣の補助席ジャンプ・シートで青い顔をしている、ひ弱そうな男。どこに売っているのか分からないような、四角い黒ブチの眼鏡をかけている。如何いかにも研究室の一角にひとりこもりっきりで、何か怪しいことを企んでいそうなタイプだ。

今回は話に加わらないだろうと思ったら、最後の最後で絡んで来た──。

彼の名は、魚崎すすむ。見たまんまの学者様。宇宙量子物性論とか、何だかジャンルが混ぜこぜの聞いた事すら無い分野の専門家らしい。そういう意味では御影恭子と同類なんだが、何をしに金星までやって来たのかすらよく分からない。──いやまあ、分かろうという気はさらさらないが。

今回、〈ブーメラン〉に乗り込んだ時も、単なる見学者として搭乗してきた。何処を飛んでも雲中なんだから、目の保養にはならないと思うのだが、魚崎は、それ以前の段階で、既にアウトだった。飛行機酔いのため最初からグロッキーで、外なんか全然見ていられる状態じゃなかったのである。〈ブーメラン〉は飛行機というよりは、飛行船に近いので、振動の周期から考えると船酔いに近いと言える。まあ、どちらにせよ、何の為に乗り込んで来たのかサッパリ分からない。もっとも、わめく訳でも吐くわけでもなかったから、俺らとしてはマネキンが乗っている程度の扱いで良く、気を使う必要も無く、楽な〝お客さん〟ではあった。

「タバコモザイク・ウイルスみたいな形ね。かなり短いけど」

御影恭子が眠そうな目で会話に加わる。

「そ──、それは違うよ。二重螺旋じゃない」

「RNAは二重でも、外側のタンパク質は普通のらせん構造になるわ」

「あ──、でも、それは違う……」

──なんなんだ。この会話は?

御影恭子は、ひとつ溜息をつくと、そのまま腕組みをして黙り込んでしまった。納得したわけではなく、これ以上、話をしても無駄だと踏んだようだ。どのみち、たとえ話なのだから、正誤の区別があるわけじゃない。不毛な論議は早めに打ち切るに限る。

ところで、この2人は知り合いなんだろうか? 今回の軌道間輸送船OTVで金星に着いた研究者同士の筈だが……。


〈ブーメラン〉は可動プロペラを下に向け、最大限に揚力を発生させながら、〈レッド・ランタン〉の上部発着場──提灯を吊るす枠の部分に相当。滑走路を確保するため、この部分だけモジュールが多い──にフワリと舞い降りた。もちろん、俺も操縦卓コンソールからは足を下ろし、発進時と同様、単純だが重要ないくつかの定型作業セレモニーを、湊川と復唱してこなしながらの着陸である。

〈レッド・ランタン〉に限らず、金星の居住区は中空に浮かんでおり、風と共に流されているが故に、施設全体としてみればほぼ無風に近い状態にある。発着場はその最上部だ。金星は上空に行くほど東風が強くなるから、結果的に発着場には常に弱い東風が吹いている。突然の突風も、風向きの変化も以外と少ない──というか、そういう風にも〝乗って〟しまうから、着陸は以外と楽だ。地球上の空港より簡単だと言ってもいい。深刻なダウンバーストが発生した場合でも、下降流に乗って発着場自身も降下するのだから、機体との相対的な位置関係はあまり変化が無い。

常に雲中にあり視程が確保出来ないという状況も、赤外線の特定の〝窓〟で見ればそれなりに対処できる。硫酸雨が降っていると粘性が大きくて少々厄介だが、それほど飛行に支障があるわけではなく、人や荷物の搬入出に、脱硫のひと手間がかかるというだけで、技術的テクニカルな問題はなにも無い。


そういう意味では、薄い大気中を地面スレスレに飛ぶことが多い火星より気楽な職場かもしれないなと、俺は漫然と考えていた。


──ヴィーナス・アタックと呼ばれる、金星地表への降下作戦を除けば……。

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