蓮池の情景

 東京都台東区上野署。そこが私、唐野陽二の職場だ。警察官になって早4年、仕事に忙殺されながらもそれなりに充実している26歳。昨晩、同僚と夜中まで飲み倒し若干の二日酔いを抱えながらも遅刻せず出勤出来たのは良くできた体内時計のおかげだろう。

「よう、唐野。どうした、顔がむんでるぞ。深酒でもしたか?」声を掛けてきたのは私の上司、多々良たたら一。この道25年のベテラン刑事。私に刑事のイロハを教えてくれた人。仕事に関しては厳しいが、情に厚く面倒見が良いので彼の周りには人が絶えない。本人曰く、たまには一人になりたいとの事。

「おはようございます。そんなに顔に出てますか?」洗面所で顔を洗っているときはそんなに気にならなかったのだが。そんなに見るに堪えない顔なのだろうか。隣から『かっかっか』、と笑い声が響く。

「いや、いつも通りのイケメンさ。若いもんは無理がきいて羨ましいこった。俺にはもう出来ない芸当だぁ」

「何言っているんですか。多々良さんだってまだオールいけるでしょう。今度飲みに行きましょうよ」彼はまだ45歳、多少の無理はまだ聞くはずだ。しかし多々良さんは首を振る。

「こないだ人間ドックに行ったら肝臓が少し弱っているからしばらく酒は控えろって医者に言われてねぇ。残念ながら当分の間は休肝日だ」医者に言われたのなら仕方ない。また今度誘ってみよう、と思った矢先に署内にアナウンスが走った。

『上野署管内、大東区上野公園池之端三丁目に事件発生。署員は直ちに現場に急行せよ』

「早速、仕事が俺たちを呼んでいるな。行くぞ、唐野」

「はい!」


 事件場所は車でわずか10分の所、上野恩賜おんし公園内にある不忍池しのばずのいけ。桜と睡蓮で有名な文化の森である。うたい文句に文化が着くとあって、周辺には美術館が集中している。遺体発見場所に着くとあまりの光景に思わず目を奪われた。

「こりゃぁ、すごいな。一面蓮の花だらけじゃねぇか・・・」

「・・・・・・初めて見ました。こんな現場」遺体が発見されたのは不忍池の中、つまり蓮の池に遺体が浮かんでいたのだ。池の中は蓮の花で溢れている。蓮の爽やかな香りが辺り一面にただよう。遺体は小舟の中に腕を胸の前に組んで眠るように横たわっていた。そして小舟の中にも蓮の花で溢れている。死者を送り出す花の棺にも見える。美しく、芸術性を感じさせる蓮の遺体。

「不謹慎ですけど、まるでモネの絵を間近で見ているようです」

「モネ?誰だそれ」知らないのか、尋ねてくる多々良さんに説明をする。

「クロード・モネ。印象派を代表する画家です。多々良さん、知らないんですか?結構有名ですよ」

「生憎、絵なんて興味なくてな。お前こそよく知っているな」

「僕、高校生まで美術部だったので」私は授業で習った事を頭の箪笥を引き出すように少しずつ思い出す。

クロード=オスカール・モネ。印象派を代表する画家。通称、『光の画家』。光や空気、変化し続ける自然を追及し描き続けた人物。その為、彼の描いた絵画は同じ題材が多く又、風景画が多い事でも知られている。代表作は『印象、日の出』そして『睡蓮』。モネが住んでいた庭の睡蓮がモデルである。睡蓮の絵画を200点以上描き上げ、そのうち約135点が日本の美術館、個人蔵に所有されている。

「この近くにある国立西洋美術館にもモネの絵が所蔵されていますよ」


「そりゃあ、貴重な情報を有難う」私達は早速、被害者に会いに行く。遺体は未だ船の中に横たわっておりパッと見、眠っている様にしか見えない。多々良さんは鑑識班の三津田直哉に声をかける。

「みつさん、遺体から何か出たかい?」

「おう一ちゃん、おはよう。今さっき遺体を池から持ってきたから何とも。見た所外傷はないって事しか言えねぇな」現場保存をしながら三津田さんは多々良さんの質問に応える。捜査一課、鑑識班班長・三津田直哉。多々良さんの同期で私、唐野陽二が上野署に来るまで二人はコンビだったとの事。そこに私が加わり、三人とも漢数字の『一』『二』『三』が入っていることもあり署内では一二三ひふみトリオ呼ばれている。

「死亡推定時刻は?」多々良さんが三津田さんに尋ねる。

「死後硬直から見て午後二十一時から十二時の間だな。発見が早かったから遺体が傷まずに済んで助かったよ」七月中旬なので朝方はまだ涼しいが昼間になると気温が一気に跳ね上がる。確かに発見が早くて助かった。

「第一発見者は何処にいる?」この質問の応えには私が名乗り出よう。

「あちらにいらっしゃるご老人です。名は田原銀次さん。毎朝犬の散歩にこの公園を利用するそうです」テープの向こう側に第一発見者と思われる人がベンチに座っていた。隣には飼い犬と思われる柴犬が寝そべっている。私達は経緯を聞くため発見者のいる所に足を向かわす。

「何度もすみませんが、もう一度発見された状況をお聞きしても良いですか?」私が田原銀次に声をかけると、心底うんざりした顔を見せた。

「さっきも他の刑事さんに話したよ。まだ終わらないのかい。いい加減疲れて家に帰りたいんだが」

「私達で最後ですので、ご協力お願いします」ふう、と息を吐きながら田原は証言していく。

「俺は毎朝この時間にマメと公園を散歩するのが日課だ。今日もいつもと同じように散歩していたんだ。不忍池を周っていたら船が見えたんで変だなと思った。で、気になって上方に上がって覗いてみたら人がいたから警察を呼んだってわけ。これで満足か?」今にも帰りそうな勢いの田原を私は慌てて引き留める。

「すみません、いくつか質問したいのであともう少しだけ辛抱してください」

「なんだよ、知っている事は全部話したぞ。他に何が聞きたいっていうんだ」そこでやっと多々良が口を開く。

「先ほどこの池に船があるのは変だ。と仰いましたがそれはどうしてです?」

「そりゃそうだろ。この公園にはちゃんと船を浮かばす専用のボート場があるんだ。第一、ここは蓮で溢れてるんだ。船が進むわけもない」田原のいう事は尤もだ。この時期蓮の花は満開を迎える。船を出しても到底進まないだろう。「最後に一つだけ」と言って多々良さんは締めくくる。

「貴方がこの時間に散歩をすると知っている人はどの位いますか?」何故そんな事をきくのだろう。そんな疑問を抱きながら田原の返事を待つ。

「さあな。しかし俺はもう、10年近くこの時間にマメと散歩しているから知っている奴はいるかもな」そう言って田原は愛犬のマメを撫でる。主人に撫でられて顔が気持ちよさそうだ。

「質問はこれで以上です。ご協力有難うございます」やれやれ、といった表情で田原は帰っていく。私は横目で見ながら先ほどの疑問をぶつける。

「多々良さんさっき田原さんに自分が散歩をしているのを知っている人間はいるかってどうして聞いたんですか」

「田原さんが言っていただろう。この池に船を浮かばすのは不自然だって。俺もそう思う。こんな蓮だらけの中に船なんて有り得ないだろ、まるで見つけてくれと言っているようなもんだ。」多々良さんは頭を掻きながら池を眺める。

「つまりそれは、犯人はこの事件を隠すつもりはなくわざと見つかるようにあんな場所に放置したということでしょうか」

「多分な。しかし外傷はないから自殺、という事も考えられる。おそらくその線は薄いと思うが。とりあえず署に戻ってみつさんの報告を待とう、続きはそれからだ」足早に署に戻っていく多々良さんを私は駆け足で追いかける。


「一ちゃん、解剖結果が出たぜ」署に戻り被害者の情報整理をしていた所に三津田さんが解剖検案書を片手に捜査一課に入ってきた。

「死因は何だったんだ?」

「聞いて驚くなよ。被害者の死因は高濃度の食塩水を大量摂取した高ナトリウム血症による急激な浸透圧上昇や」三津田さんが検案書を読み上げていく。食塩水で死亡?そんな事があり得るのだろうか。私は三津田さんに尋ねる。

「三津田さん、人間って本当に食塩のとり過ぎで死ぬなんてあるんですか?」そこに多々良さんが口を挟む。

「俺はこの間の健康診断で医者から塩気の多い物は控える様にと言われた。実際はどうなんだ、みつさん」

「まあ、非常に稀なケースだが一度に大量に摂取すると腎臓の浄化作用が機能しなくなる。しかしこんな殺害方法よく思いついたものだ。それよりホトケの身元は分かったのかい」私は手帳を広げる。

「被害者の名前は田中海羽26歳。都内にある病院で看護師として勤めています。住所は吉祥寺です。何故あの時間に上野公園にいたかはまだ不明です」

「どうやって食塩を体内に入れたか分かっているのか?」多々良さんが三津田さんに聞く。

「腕に注射の痕跡があった。恐らく点滴の道具を使って体内に流したんだろう。被害者は意識が混濁していた筈だ」多々良さんが検案書を通しながら唸る。

「はっきり言って巧妙なのか杜撰ずさんなのか判らん。食塩なんてどこにでもあるから手に入れるのは簡単だ。しかし一方で点滴器具を使って死ぬ確率が高いとはいえない方法で殺している。そして何より遺体の発見場所。何故あんな場所に放置した?見つけて欲しいならもっと分かりやすい場所がもっと他にある」

「あの場所は被害者、もしくは犯人にとって特別な場所という事ですか?」

「それはまだ判らん。兎に角、被害者の職場に行って彼女がどんな人物か聞きに行くのが先だ。ついでに自宅も回るぞ」多々良を追いかけ署を出ると既に蒸し暑くなっていた。

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