第3話 隣人
朝食や弁当作り、そして洗濯。朝の母親は忙しい。毎日のことなのだが、ちょっとしたことでペース配分が狂う。朝の5分のズレは、取り返しがつかない。特に父が居たときの朝の母は神経質なぐらい時間を気にしていた。そんな母が毎朝時計代わりにしていたのはテレビだった。テレビのニュースをつけっぱなしにしておけば、天気予報や交通情報、ニュースにスポーツるそして、地域の話題へと、毎日同じ時間配分で放送している。ニュースというだけあって内容は常に新しく、タイマーで時間を区切るよりはよほど良い。
事実、この家に引っ越してきたばかりのこと、時間を気にしすぎた母が2種類のタイマーを使い始めたとき、3日目の朝には、タイマーは沈黙していた。父が電池を抜いてしまったのだった。
ダイニングテーブルで新聞を広げていた父の背中越しに取り乱す母親が見えた。父は軽く新聞を畳むとポケットから取り出した単4の乾電池を無造作にテーブルの上に置いた。そのうちの1本が転がり、木の床に落ちる堅い音が響いた。
きっとお父さんがキレタに違いない。だいたいお母さんは何でもきちんとこなそうとする。見ているこっちの息が詰まるんだよ。
先にトイレに行こう。
朝の挨拶をしながらダイニングに入ろうとした信浩は、今から始まるであろう夫婦喧嘩を避けるため、そっと離れようとした。
そのとき風船が割れるように突然大きな笑い声が起きた。父だ。
「お母さん。そこまで神経使うこと無いよ。ほら、0655。タイマーなんんか無くたって時間通りだよ。」
半分涙目の母に、父がリモコンでテレビのニュースをつけた。
ちょうど、首都圏の鉄道の運行情報が始まったところで、駅でよく見かけるグレーを基調とした鉄道会社の制服を着た若い女性が、深々と朝の挨拶から始めていた。「首都圏の鉄道各線は平常通り運転しています。」と言うためだけにこんな早くに毎朝御苦労なことだな~。清楚できびきびとした感じの美人。ウチのクラスの女子には、ああいうタイプはいないな。
夫婦喧嘩にはならないことを知り、本能的なゆとりが生まれてテレビを肴に男子高校生らしい思考回路を巡らす。
「これからはテレビをつけとくといいよ。いつも同じ時間配分で放送してるから。新しいことも知れるし。そもそも、誰かが遅刻しそうになってもお母さんのせいじゃない。家族全員、連帯責任だ。おう、信浩も突っ立ってないでこっちきて配膳を手伝え。」
なんだバレてたのか。
「おはよう。分かったよ。それにしても連帯責任はともかく、配膳とか、今時使わねーよ、そんな言葉。
それにマルロクゴーゴーじゃねーし。6時55分でしょ。ここは基地じゃないんだからさ。」
雰囲気が和んだついでに父に軽口を叩く。
「わりいわりい。つい言葉に出ちまうな。お前もその砕けた言葉使いは気をつけろよ。肝心なときに出てきたら、かなりヒネクレて見えて損するぞ。」
「了解。」
何となく照れ臭い。
「さ、運んで。今朝は信浩が好きなベーコンエッグよ。」
さっきとは打って変わって明るい母の声と、香ばしい香りがみんなの笑顔を誘う。
「おはよう。」
最近の母さんは元気ないな。
静まりかえったダイニングに椅子の脚が床を引きずる音を響かせて信浩が座る。最近、時計代わりにテレビをつけることはなくなった。父が居ないからといって母が手を抜いているわけではない。そのかわりどこを向いても目に入るように3台の電波時計が、ダイニングには置いてあった。
そう、お父さんが居ないからって、お母さんが手を抜いているわけじゃないし、僕もだらしなくしているわけじゃない。
でも朝のテレビはつけない。どの番組にしても、たとえバラエティーに重点をおいた番組でも、朝は必ずニュースを交えて放送をしている。約1年前、父がアフリカへ発ってから半年くらいは集団的自衛権と派遣部隊のことが時々流れた。
「反対だ。」「いますぐ止めるべきだ。」「危険だ。」「戦争に巻き込まれるぞ。」
とかならまだいい。
「あんなに武器を持たせて戦争しに行く気か。」「軍国主義の復活。」とか言う奴らには閉口だった。
みんなして「危ない場所。」とか言っておきながら、お父さん達を丸腰で行かせる気か?そもそも、お前等みたいに口先ばかりで何もしようとしない、知ろうとしない奴だらけだから、大人達がだらしないから、こんなことになったんじゃないか?何で決まってからの方が大騒ぎするんだ?後からなら何とでも言えるじゃんか!
そしてそんな議論に飽き足らなくなったのか、
今度は
「現地がどれだけ危険か。」
「犠牲者はどれぐらいいるか。」
「現地の民間人がどれだけヒドい目に遭っているか。」
「捕虜になったアメリカ兵が虐殺された。自衛官が同じ目にあう可能性は。」
さらには、
「米軍が村を攻撃した。自衛隊も一緒になって攻撃したに違いない。」
といった未確認情報で、自衛隊叩きをするニュースまである。
不安を煽られるだけでも苦痛なのに、憶測だけで肉親を批判されてはたまらない。いったい誰のために、何のために。。。
ニュースの論調が変わって数日たったある朝、テレビの前で固まったかと思うと泣き崩れた母。
初めてみる母の涙、あまりの理不尽な報道に悔しさが込み上げた信浩は、いつの間にか握りしめた拳を画面に叩きつけていた。
「お母さん。ごめん。しばらくテレビはいらないよ。」
怒りで熱くなった体は痛みを感じなかったが、拳からは血が流れ出していた。
「そ、そうだね。」
母は鼻をすすりながら、やっとのことで、しゃくりあげる隙間で答えた。
それもあと数日。来週になれば父は帰ってくる。テレビを壊したことは怒られるだろうけど。。。
朝食を終えて、適当に歯を磨いた信浩は、高校2年生にしては傷の多い年季の入った鞄を軽そうに右手にぶら下げる。
この歳になると、母に「もっと時間を掛けて歯を磨きなさい。」とは言われない。ダイニングテーブルに置かれた手提げに入った弁当を左手で掴む。
「手抜きでごめんね。昨夜アスミでお惣菜のトンカツが半額になってたから。」
アスミは茨城県を中心に店舗展開をしているスーパーだ。
「全然大丈夫だよ。俺、カツ丼大好きだからさ。」
そう、今日はカツ丼弁当。母が作っているところをチェック済みだった。ずっしりとした重さが嬉しい。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
母の声音を背中で聞きながら信浩は玄関を出た。少し元気を取り戻したようなその声に信浩の足取りも軽くなる。
6月に入り、梅雨の気配を感じさせるじめじめした天気が続いていたが、今朝は5月に戻ったような心地よい五月晴れだった。玄関先の緑も心地よい。
門を開けて出た信浩は、家の方に向き直って門を閉める。その動作にかこつけてガレージを見るのが日課だった。茶色がかった透明の屋根だけの簡素なガレージには、母の車と父の車が横並びに止まっていた。3人家族だから大きい車はいらない。という両親の考えに合った小さなガレージは無く、大きくスペースを空けて2台の軽自動車が止まっている。
門から遠い側に止まっている母の車はホンダのNBOXという軽自動車で、2年前に購入したばかりで白いボディーは輝いていた。それに負けじと輝く深い紺色の父の車は、スズキの軽四輪駆動車ジムニーだった。平面と直線を基調とした四角ばったデザインの古いジムニーは、製造されてから20年近く経ち、思い出を記したように所々にある小さな凹みが映り込む景色を歪めていたが、それが分かるぐらい磨かれているということだった。
1週間に一度30分間エンジンを掛け、月に一度は洗車してくれよ。
という父の依頼を1年近く忠実に守ってきた信浩は今朝もその成果を確認すると満足気に門を閉めた。アウトドア好きの父母と釣りに行ったり山に行ったりしたジムニー。家族の成長と反比例して老いてきたジムニーは、一昨年にはついにエアコンが駄目になった。部品もない。それでも信浩は免許を取ったらこの車を乗り回すのを楽しみにしている。父を隣に乗せて釣りに行くのもいいな。
信浩はジムニーで林道を疾走したり浜辺に佇む情景を思い浮かべていた。そのうち彼女が出来たらドライブもいいな。エアコンはダメだから夏は無理だけど。。。
そもそも、こんな古い車に喜んで乗る女はいないだろうな~。乗り心地も悪いし狭いし。
妄想を苦笑で締めくくった信浩は乾いた狭い路地を歩きだした。
「おはよっ!」
「ヒぃっ」
不意に背中を叩かれて、信浩はカエルを踏んだような情けない声を出した。
「何だ、お前か。ったくビックリさせんなよ。」
「なんだじゃない。挨拶はどうしたのア・イ・サ・ツ。アタシは、おはようって言ったのよ。」
隣に住む矢島知美だ。
「お、おう、おはよう。」
そっぽを向いて歩きだした信浩を気にするふうでもなく知美は横に並んで歩きだす。
「今度は、いつ洗うの?あのジープ。」
「ジープじゃねえよ。ジムニー。ジープはアメリカにジープって車があんの。何回言ったら分かるんだよ。」
「ジープみたいなんだからジープでいいじゃん。ノブは細かいんだからぁ。そんなんじゃ女の子にモテないわよ。」
「俺は車の区別もつかねー女とは付き合う気ねーし。お前こそ何回も同じこと言われてるようじゃ彼氏できねーぞ。」
「いーのいーの。アタシは白馬の王子様が迎えに来てくれるんだから。あんたとは次元が違うのよ。」
何というかコイツにはいつもペースを握られてしまう。
「もう洗わねーよ。」
そういえば、コイツは時々洗うの手伝ってくれてたな。こいつ何をやるにも一生懸命なんだよな。額の汗も拭わずに一生懸命ボディーの水を拭いていた横顔を思い出す。一瞬、その横顔がジムニーの助手席に重なる。
「やべ、それは無理。」
思わず口を突いて出る。
「えっ、何が無理なの?」
「いやいや、何でもない。こっちのこと。
そういや、お前洗車手伝ってくれてたっけな。ありがとう。来週には親父日本に帰って来るからさ。そしたら親父が自分で洗うだろ。」
「そっか。おじさんに何御馳走して貰おうかなぁ。お寿司に、ケーキ。。。」
知美が指折り何かを数えだす。
「ちゃっかりしてんな~。お前。」
2人で声を上げて笑ううちに、狭い住宅地の道から大きな通りに出た。通りの向うには市役所が見える。その向こうが、2人が通う石岡高校だ。
「さ、お前先行けよ。」
「何で?」
立ち止まった知美が信浩を見上げる。
「俺と一緒にいたら、お前まで「軍国主義」とか「人殺し」とか言われちまうぜ、」
正門は反対側の石岡駅の方なので、生徒の姿はそれほどでもないが、一緒にいるところを見られるのは気が引ける。まして付き合っているなんて言われたら心外だし、知美だって可哀想だ。
「何言ってんのよ。今さらでしょ?アタシそんなの気にしないし、言わせておけばいいのよ。いいのいいの腐れ縁なんだからアタシ達」
良く通る透き通った知美の声が道路の向うまで届きそうで、反射的に知美の口を塞ぎそうになった信浩はそんな自分自身に慌てた。そんなことしたら余計に怪しまれる。
「分かった分かった。」
今、信浩が住んでいる家は、もともと祖父母の家だった。小学校6年の時に祖父が死んでから3年間独りで身の回りのことを何でもこなしてきた祖母が肝臓を悪くして入院、独りで何でもこなすことが健康のバランスを保つ秘訣だったのか、入院生活で何もすることがなくなった祖母はあっという間に老い、3ヶ月で痴呆症になり、それから2ヶ月後には亡くなった。
航空自衛隊のパイロットになってから殆ど茨城県石岡市のこの実家に帰ることのなかった信浩の父、武元高浩は、自分の乗るC-130H輸送機と共に、即応集団第10航空団の百里基地で新たに編成された第471飛行隊に配属となることに合わせて半年間空家にしていた石岡市の祖父母の家、つまり父の実家をリフォームしながら住むことにしたのだった。石岡市は百里基地がある茨城県小美玉市の隣に位置しているので、十分に車で通勤できる距離だった。
矢島知美は、そんな信浩の祖父母の家の隣人で、同い年の知美は、信浩が祖父母宅に泊りに来た時はいい遊び相手になった。
また、近隣に親戚が少ないため隣人の知美の父母が何かと祖父母を気に掛けてくれていたことを知っていた信浩の父母は、家族ぐるみで矢島家と付き合っていた。
そして、小学生になった信浩は、独りで電車に乗れるようになると夏休み、冬休み、そして春休みなど、長期の休みなどには必ずその半分を祖父母宅で過ごした。
そんなこんなでこの「腐れ縁」は続いている。
そういえば土地のガキ大将から庇(かば)ってくれたこともあったっけ。。。
「。。。ありがとう。ごめんな。」
ぼそりと呟く信浩に
「ん?」
車用と歩行者用の信号をせわしなく見比べていた知美が振りむく。肩のあたりで揃った漆黒の艶やかな柔らかく波を打ち、朝の陽を受けた白い輝きの波がそれに追従する。ふっくらした頬の大きな二重瞼が信浩の目をじっと見つめる。気のせいかその頬には赤みが差し、目は潤んでいるように透明度を増している。洗車していた時のような一生懸命の目にも見えなくはない。
何だろう。いつもと違う。。。
信浩の思考を遮るように、歩行者用の信号が青になった。
「何でもない。渡るぞ。」
大股で歩き出した信浩にブツブツ言いながら小走りに知美が続いた。
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