第53話 ACT17 戦慄3

 何処からか。

 安っぽい線香の匂いがして来た。


 同時に、前方に薄っすらと二枚の襖が現れ、そこから光が漏れているのがわかる。

 近づくにつれ、襖の輪郭はハッキリとしだし、無地の、下側を藍色に塗り分けている仔細まで確認できるようになると、やがて、姫緒の進路を阻む形で立ちふさがった。


 足音はその奥から聞こえて来る。


 襖に手をかけると、驚くことに手応えがあった。一気に左右に引き開ける。

 音も無く襖は勢いよく開くと、そこには、十畳ほどの和室に葬式の祭壇が飾られており、その前を囲むようにして、7、8人ほどの喪服姿をした参列者が列座している。

 誰一人として、姫緒に気づいた気配が無いところを見ると、この者達にも姫緒は見えていないようだ。そして、もちろん、あの少女の姿も見えていないのだ。


 赤いスカートの少女は、喪服の一団の真ん中当たりで無表情に立ち尽くし、じっと姫緒を見ていた。


 少女の足下に目をやると、そこには、学生服っぽい紺色のブレザーと、同色のスカートを纏った少女が肩を震わせ鳴いている後姿が見える。

 そう、白黒のこの世界で、色を持つ人物。多分、いや、きっと那由子。


「おばあちゃん。おばあちゃん……」


 那由子は、嗚咽を堪えつつ、何度も何度もそう繰り返していた。

 姫緒は祭壇の遺影に目を移す。察しのとおり、そこには姫緒が祓ったあの老婆。

 ハツセ婆さんの写真が飾られていた。


「いやだよ……、おばあちゃん……。おばあちゃん……」


 呆けたように那由子が繰り返す。

 赤いスカートの少女が、座っている人達をすり抜けて、小走りに姫緒の方へ向かって来たが、そのまま、姫緒の脇を通り抜けて走り去る。

 突然の事に、身動きすら出来なかった姫緒は、少女の走り去った自分の後方を振り返った。


 襖は閉まっていた。


 少女が出て行き際に閉めたものか、それとも、その前から閉まっていたのか。

 音の無い世界で判断することは無論不可能な事ではあったが、それにしても、まったく気配すら感じさせなかった。

 まるでその襖は、今まで一度も開いたことなど無いかのようにそこに存在していた。

 姫緒が襖を開けようと手を掛けた途端。それは自動ドアのように左右に開き、さらに姫緒に迫って来ると、彼女を飲み込んで、後方へと流れて行った。


 室内にいたはずの姫緒は、外の通りに立っていた。


 目の前に広がる見覚えの在る景色。

 見覚えはあったが微妙に違う。そこには、和子の家が在った。並びに山口の表札がかかる民家が見えた。そして、その間には。

 姫緒の記憶では空き地になっていたその場所には、『柳岡』の表札のかかる一軒の家が建っていた。


 『柳岡』。それは、綾子と那由子の苗字。


 瞬く間のほど唐突に、その家の前に紺のブレザーとスカートを着たショートカットの少女の後姿が出現した。

 少女はそのまま振り向きもせず、足早に家の中へと入って行く。

 いかにも決まりきった台詞と言った口調で、「ただいまあ」と言う少女の声が聞こえた。

 あれは多分、那由子だ。姫緒はあたりを見回し、もう一人の少女、赤いスカートの少女を探していた。

 今までの場所では、必ずあった少女の姿が無い。

 案内者の足音も聞こえなくなっていた。

 静寂。ただ、静寂。白黒の静寂。

 耳を澄ましてみる。


 静寂。


「きゃあああああああああああ!」


 戦慄(わなな)きの慟哭が、次元を震怖させる。

 恐怖に飲み込まれそうになり、思わず姫緒が両耳を塞いだ。


「おかあさああああん!おかぁさあああああん!」


 狂気なまでに禍々しい呼号。那由子が母親を呼び続ける。


「おとうさあん!おとうさあん!お母さんが!おかあさんが!」


 今、家の中で起こっているであろう事の事態は姫緒には察しがついていた。

 だが、まさか察したものを証明するモノが目の前に歩いて来ることまでは想定していなかった。


 つまり……。


 那由子の、狂わんばかりの悲しみが渦巻く、その住宅の玄関の扉を通り抜けて、とうの立った女性の幽霊がこちらに歩いて来るのだった。

 髪を丸髷に結い、痩せ型で、ぎょろりとした目が印象的なこの女性は、まず間違いなく……。


「あなた。那由子の母親ね?」


 今までの出来事を考えると、果たして自分の声がこの幽霊に届くかどうかは、はなはだ疑問であったが、姫緒が、それでも敢えて声をかけたのは、その幽霊に、薄っすらとではあったが『色』が着いていたためだった。

 幽霊は、ぼんやりとしていたが、姫緒に声を掛けられると、はたと気がついたような素振りをみせて小さく頷いた。

 那由子の力。幽霊をつくる力。それは、やはり母親の死の際にも発動していたのだ。


「自分が今、どおゆう状態なのか解ってる?」


 幽霊は小さく首を横に振った。表情は虚ろで、瞳に、思考的な輝きは皆無だった。


「あなたのするべきことは何かあるの?」


 再び首を横に静かに振る。


 『出来たて』だからなのか。それとも、あの老婆の幽霊よりも、もっと不完全である為か?

 姫緒の質問を理解していると言うよりは、ただ単純に、イエスかノーかをだけを、知っているから、知らないからと答えていると言った様子だった。

 姫緒が、小さくひとつため息をつく。


「気休めでしか無いかも知れないけど、ね」


姫緒はそう言うと人差し指と中指を立て、空中に、縦一文字の直線を描いて唱えた。


「天来地帰」


 途端、女性の幽霊はかき消されるようにして消えて行く。

 この世界は過去の幻影。姫緒は今までの経過をそう考えていた。しかし、今、自分がこの世界に一定のルールの下で干渉出来ることを知り、これは『幻影』では無く、時間か、或いは次元を、未来の因果に影響を及ぼさない範囲で旅しているのだと言う認識を持った。


「或いは、強制的に干渉させられているのか」


 それが、自分が此処に居る理由なのかもしれないと、ふと、そんなことを考えた。

 過去に干渉したことによって、姫緒の行動は、『現在起こした事』では無く『過去に起こっていた事』と言うパラドックスに陥る。

 すべては姫緒がもう過去に済ませていた事。

 つまり、これは。


 過去の帳尻あわせ。


 唐突に、少女が、姫緒の視界を横切った。

 赤いスカートを履いた水先案内人。

 一目散に駆けて行き、あの家に。

 那由子の狂気の坩堝。

 彼女達の母親の幽霊が出てきた、あの家のドアに、吸い込まれるようにして消えて行った。

 少女の消えて行った先から足音だけが消えずに聞こえている。足音が姫緒を誘う。

 誘っている。


「『Stage clear』と言う事かしら?」


 姫緒は皮肉っぽく呟くと、導かれた家に歩を進め、少女の消えた玄関のドアに手をかけた。


「いやあああああああああ」


 悲鳴。もちろん姫緒のものではない。

 手をかけようとしていたドアは独りでに勢い良く開き、扉の向こうには、ジーパンにTシャツ姿の少女が駆けて行く後姿が見えた。


「ここは?」


 何時の間にか姫緒の立っている場所は、那由子と和子の通っていた中学校の、あの教室の中になっており、姫緒は、入り口付近に立ち、教室の中から廊下を見ている格好になっていた。

 反射的に後ろを振り返ると、そこにたたずむ赤いスカートの小さな女の子と目が合った。

 女の子は、それを待っていたように突然走り出し、姫緒の横をすり抜けると、先に走り去った少女の後を追う。


「おねえちゃん!おねえちゃん!」


 そう叫ぶ女の子の声が、その姿と供に小さくなっていく。

 姫緒は、二人を追いかけようと一歩踏み出し、廊下に出たところで思い出したように再び教室の中を見渡す。

 教室の中は、掲示物が張られ、椅子や机は使う者の現れるのを待つような存在感を持っており、姫緒の知っている其処の風景よりも、きちんとした秩序と生活観があった。

 色の無い世界であったが、それ以外は、まったくもってそうあるべき風景。

 そこの、教室の一番後ろ、窓際の席。


 そこに、和子がいた。


 彼女は、机の上のななつさまの文字表の上に置かれた10円玉に、人差し指を乗せたままの状態で固まっていた。

 身体が小さく振るえ、何事かをぶつぶつと呟いている。意識は本人には認識できない程度に飛んでしまっているようで、目には、焦点も輝きも失せていた。

 姫緒が再び教室に戻ろうとして一歩踏み出す、と、まるで景色の映った水面に石が投げ入れられたように、その空間はぐねぐねと踊りだし、そのまま消えていこうとした。


「和子!」


 戻れないと悟った姫緒が大声で叫ぶ。


「聞こえてる?和子!もうじき宿直の先生が来て助けてくれるから、それまでがんばりなさい!それから、その後、少し長い間、あなたはとても不安な日々を送ることになるわ!でも、大丈夫だから!絶対私が助けに行くから!信じて!信じて待ってて!」


 教室を写していた空間は、和子と供に闇に呑まれた。

 光の無い真っ暗な世界が姫緒の目の前に広がった。

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