第52話 ACT17 戦悚2

 音も無く、雨が降っていた。


 それは、比喩とか精神的な感情表現と言った類のモノではなく、本当にその雨には、いや、その世界には音が存在しなかった。

 それだけではない。

 どこか懐かしさの漂う町並みは、色が無く。

 視界に映るものはみな、白黒の世界だった。 

 姫緒は、モノクロの無声映画そのものの世界にひとりたたずんでいた。

 色の無い世界で、姫緒自身には色が付いていたが、黒いロングのポロに身を包み、濡羽色の長髪に透き通るような白い肌の彼女は、赤い唇を除けば、周りのモノクロな世界にすっかり溶け込んでいた。

 色のない世界で色を持つ、彼女自身が発する音もやはり生きており。

 自分の息づかいや、身につけている服擦れ等の、本来わずかにしか認められないほどの音が、やけにはっきりと聞こえる。

 姫緒のたたずむこの世界で、彼女以外は幻なのか?そんな考えが浮かんだ。

 いや、少なくとも、この雨は幻ではなかった。その証拠に、雨は姫緒の身体を濡らしていたし、滴(したた)っていく感触までハッキリと感じられた。

 そして実際、雨に当たり続ける姫緒の身体は、徐々に冷たく凍えて行くのだった。


「鬱陶しい」


 姫緒は呟き、自分の声の鮮明さに少し驚く。

 見たことの無い町並み。大通りから少し入り込んだ場所らしく、狭い路地の両側に、シャッターを閉めた商店と民家が渾然として軒を連ねている。

 ここは何処だろう?何を探る手立ても考えも思い浮かばなかったので、ただ漠然とそんな事を考えると、彼女の五感が無意識に情報を探る。

 潮の香りが空気に混じる。雨の肌触りには埃っぽさが感じられない。微かに吹く風は冷たかったが、冬の澄んだ緊張感は含んでおらず、匂いは夏のきな臭さがした。


「郊外の土地で、海の近く。季節は夏」


 しかし、夏だとしたら、この雨の冷たさはどうしたことだろう。

 姫緒を取り巻くこの街の大氣は、雪が降らないのが不思議なくらいに凍えているのだ。

 染み入る寒さに、身体の感覚が徐々に失われていく。

 人の気配がした。

 やがて、パタパタという、乾いた、地面を走る子供の小さな足音が聞こえて来る。


「風小?」


 姫緒が呼びかけたが返事は無い。ならば、この足音は風小では無いだろう。

 やがて姿の無い足音が、姫緒の手前まで近づいて来たと感じた瞬間、突然、彼女の目の前に赤いスカートを履いた、小さな女の子が現れた。赤いスカート?

 女の子には『色』があった。

 しかし、彼女の身体は雨が素通りしてしまっており、衣服や身体は乾いたままだ。

 少女は、まるで今までずっとそこに立っていたかのような素振りで、広い額の下で輝いている大きな瞳で姫緒を見つめている。肩まである髪の毛は、ちょっとクセっ毛ぎみだった。

 姫緒の見たことの無い顔立ち。面影すら見当がつかない。まさか。


「綾子?」


 姫緒が、そう尋ねたとたん、少女は踵を返し、駆け出していた。彼女の姿はすぐに見えなくなったが、足音は何時までも、小さくなったり、大きくなったりして消えずに聞こえ続ける。


「ついて来いって事?」


 言うと同時に、姫緒は歩き出していた。

 彼女は、少女の足音を見失う事に神経質になることはせず、自分のペースで、まるで街の景観を眺めて楽しむ観光客のように、ゆっくりと足音の後を追った。

 ついて来いと言うのなら、見失うことは無いだろうと言う、根拠の無い彼女らしい横暴な結論からの行動だった。

 実際、足音は、そんな姫緒の気持ちを知ってか知らずか。

 ただ進めば良い時には遠くから聞こえ、進む方向だけを示唆し、曲がり角に来ると、遠くなったり近くなったりして、曲がるべき道を教えた。

 二つ目の曲がり角を曲がった先の、一軒の家の前に少女がたたずみ、こちらを見ていた。

 遠くから足音が聞こえ、そちらに向かえと指示するようにぱたぱと鳴っていた。

 立ち尽くす少女は、姫緒がその建物を見定めたことを確認すると、扉も開けずに建物の中に吸い込まれるようにして消えて行く。

 その建物は普通の民家ではなかった。

 大き目の引き戸にはめられた透明なガラスには、剥げかかってはいたが、白く太いペンキ文字で『民宿 玉谷』と書かれてあった。

 民宿の文字を見て、あらためて外見を見回してみる。造りは確かにそれらしくはあったが、宿の看板らしき物が見当たらない。

 姫緒はレンレンの話を思い出していた。


『そこの宿ね、足の悪いおばあさんが一人でやってるらしいのよ。だから食事も作れなくてね。部屋だけ貸して、食事やお風呂は外でって方式で。素泊まりって奴ね』


「この宿が、那由子の泊まった……」


 引き戸を開ける。

 ごろごろとした、引き戸が敷居と擦れる感触が姫緒の手に伝わってくるが、やはり、音はしなかった。

 何とも珍妙な体験。


 中に入ると土間になっており、正面に見える厳つく古めかしい木造の階段を、少女の足音が上って行く。

 姫緒は靴も脱がずに土間から上がり、足音に招かれた階段を上がって、二階の廊下に出た。

 板張りの廊下の右側は、曇り硝子のはめられた硝子障子が続き、少し先の障子の脇に、あの少女がたたずみ無表情にこちらを見ていた。少女の後ろには、少し離れて、うずくまる様にして障子の隙間から部屋の中の様子を伺う、太った老婆の姿があった。その傍らには、白黒の世界にもかかわらず、薄汚れたと認識出来る毛布が転がっている。


『その日は、夜半頃に雨が降って急に冷え込んでね、震えてちゃ可哀想だからって毛布をもってって上げようと思って』


 再びそんなレンレンの言葉が蘇り、白髪の入り混じった、醜悪な容姿をした老婆と毛布をもう一度眺める。

 どうやら間違いなさそうだと納得した。

 少女が老婆の覗き込む部屋の中に吸い込まれるように消えていく。

 姫緒は部屋の前まで進んでいくと、障子に手をかけようとした。

 が、障子は玄関の引き戸とは違って、手応えが無く、開けることが出来ない。

 仕方なく、しゃがみ込む老婆の丸髷(まげ)を結った頭越しに部屋の中を覗こうとして、障子の隙間に顔を近づけると、老婆の頭から鬢付け油の強い匂いが立ち上り、顔をしかめる。

 老婆はそんな姫緒にお構い無しの様子で『覗き』を続けている。

 いや、老婆には姫緒も、少女の姿も見えていないのだ。

 かといって、この老婆が、蝋人形のように固まっていると言ったわけではない。皺だらけの口元は、モゴモゴと反芻するように無意味な動きを繰り返していたし、たまに、足が痛いのか、右足をさするように身じろぎをした。

 姫緒は気を取り直して、ポケットから真っ赤なハンカチを取り出し、鼻を覆うように押さえ、部屋の中を覗きこんだ。


 娘が独り、部屋の壁を前にして座っている後ろ姿が見えた。


 多分、老婆にはそう見えていたに違いなかったが、姫緒には、娘の前にあの少女がこちらを向いてちょこんと正座をして座っているのが見える。

 背を向けて座る娘は、一目でライダージャケットとわかる、ピンクやライトブルーの色をあしらった、厳ついジャンパーを着ている。『色』?そう、この娘にも『色』があった。そして、そのライダージャケットは姫緒には見覚えがあるものだった。

 那由子が北海道の地球岬で撮ったと言う集合写真。その中で那由子が身に付けていたライダージャケット。

 だからつまり、たぶん、その後ろ姿の娘は。

 『那由子』。

 唐突に。止まっていたラジオのスイッチが入ったかの様に、部屋の中から女性の声がした。


「どうして今ごろ出てきたんだよ?」


 激しい剣幕。

 びくり、と、姫緒は覗いていた隙間から反射的に身を引いてしまった。

 那由子の姿が見えなくなった障子の奥から、それでも声は明瞭に聞こえている。


「私が一人で楽しんでいるのが妬ましいの?許せないの?なんでだよ?なんでなんだよぉ。なんでいっつもいっつも。いくらなんでも酷すぎるよ。少し良くなってきたと思うと、なんでこうなんだよぉ」


 嗚咽のような呻き声が聞こえる。


「いったい何のつもりなんだよ?いいよ、嫌がらせでも何でもするといいよ、絶対負けないよ!わかってる?私はお父さんやお母さんのようには行かないんだよ!」


 再び部屋の中の様子を確認しようとして、姫緒が障子の隙間を覗き込む。

 真っ黒いぬめぬめとした、何者かの目がぎろぎろとこちらを覗き返していた。

 再び身を引く。

 すると、障子を通り抜けて、赤いスカートの少女が現れ、廊下の奥、闇の奥へと走って行ってしまった。

 闇の奥から、足音が姫緒を誘っている。

 ふと、足下を見ると、そこには最早、老婆の姿は無く、障子の隙間も閉まっていた。

 開けてみようと試みるが、やはり、手答えが無い。


「気に入らないわね」


 言いながら姫緒が愉快そうに微笑んだ。


「まるで夢の世界を再現しているようだけど」


 そう言ってゆっくりと足音の方へ歩き出す。


「私は、色のついた夢しか見たことが無いのよ」


 周りの景色は闇の中に消え去り、板張りの廊下だけが長く続く中、姫緒は足音に誘われて歩き続けた。

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