第32話 ACT9 彷徨変異5

「覚えてなさいよぉ、那由子、終わったらひどいからね」


 半べその声で、和子が最後の抵抗を試みたが、那由子にはまったく効果が無かった。


「はいはい、終わったら何でも聞いてあげるんだよ。だから早く済ませちゃおうよ。お互いのためなんだよ」


 そう言うと、再びコインに集中する。


「和子は誰が好きですか?」


 すると、まるで二人のいざこざが終わるのを待っていたようなタイミングで、コインが再び動き出した。


 『ほ』『し』……。


「星野くん?」


「嘘……。ちがうよぉ……」


 『い』


 沈黙。


「ほ、し、い」


 綾子が口に出した。


「星野だよね?」


 那由子が、和子に同意を求める。


「ちがうよぉ。私、星野くん好きじゃないもん。私が好きなのは渡辺くんだよ」


「な、なぁんだ。和子、渡辺くん、好きなんだぁ」


「あっ……」


「ふふふ……」


「ばれちゃったね」


「うん。当たらないね。ななつさま」


「そだね」


 沈黙。


 文字盤に視線を移す二人。コインの止まっている位置は。


 『い』


 冷たい気配が、コインに乗せた指先から伝わってくる。


「止めようか」


 那由子がぽつりとそういった時。二人の指は、再びコインに引きずられるように50音表の上を移動し始めた。


 『ほ』『し』『い』『ほ』『し』『い』『ほ』『し』『い』『ほ』『し』……。


「なんだよ、なんだよこれぇ!」


 逃げることも、止めることも出来ず、ただ必死にコインから振り落とされ無いようにすがりつき、那由子が叫ぶ。

 和子も同じ状態ではあったが、彼女は叫ぶことも出来ず、半ば放心状態のようで、さらには綾子が大声を上げて泣き出してしまっていた。

 最悪な状況でしかし、綾子の泣き叫ぶ声は、気丈な性格の那由子に、最後の理性を保たせていた。


「なんだよ!何がほしいんだよ!さっさと持って帰りなよ!」


 ふと、規則的に3文字の上を移動していたコインの動きが止まった。そして、ゆっくりと再び動き出す。今までと違う3文字の上を……。


 『な』『ゆ』『こ』


 ぷっつりと那由子の正気が切れた。

 ありったけの大声で叫ぶと、コインから指を離し、教室の外へと飛び出して行ってしまった。


「おねぇちゃーん!」


 綾子が、泣きじゃくりながら駆けて、その後を追う。

 教室には、カタカタと震えながら、動かなくなったコインの上から指を放せずに固まったままの、和子が一人残されていた。

 教室の中は、相変わらず蒸し暑かったが、窓の外からは、儚げなヒグラシ蝉の声が聞こえ始めていた。





「それで?」


 間をおいたまま喋らなくなってしまった和子に、姫緒が声をかけた。


「あなたはどうしたの?」


「私は……」


 和子は、曇天の空色に、過ぎたその日の、迫る夕暮れを思い重ねながら語った。


「私は、それから一時間ばかり。当直の先生が教室に入って来るまでの間、そのまま放心していました。何を考えていたかは思い出せませんが、ひどく怖かったのを覚えています。先生に、10円玉から手を外されてすぐ。気を失って病院へ運ばれました。気がついたのは次の日の朝でした」


 そう言った和子の目が、ますます遠くを見つめる視線になっていく。


「何が。あったの?」


 多分、姫緒が声をかけなければ、何時間でもそうしていたのではないかと思うほど、和子は、心ここにあらずの状態だった。


「後で聞いた話です」


 現実を見つめる強い光が和子の目に戻っていた。決心はついたと言うように。


「教室を飛び出した那由子は、そのまま家に帰ろうとして走ったそうです。綾ちゃんはそんな那由子を一生懸命追いかけて。学校から出てすぐに大通りがあったんです。今はバイパスが抜けてしまい、閑散とした通りになってしまいましたが。当時はかなり交通量があったんです」


 和子は、そこまで言うと、姫緒の顔を、すがるように見つめなおした。


「那由子が……、信号を……、変わり際に渡って……。後から遅れて来た綾ちゃんが……。赤だったのに……。歩行者信号……。赤で……。渡っちゃいけなかったのに……」


「まさか」


 おぼろげに、姫緒の脳裏に事の顛末が浮かび出す。


「大型のトラックに、身を投げ出すような格好になってしまって。綾ちゃん、綾ちゃんは……」


「交通事故……」


 姫緒が呟くと、和子は小さく頷いた。


「即死だったと聞いています。車は……、ブレーキを踏む暇も……、無かったそうです……。おっきなトラックに飛ばされて、小さな綾ちゃん。首が……」


 ピクリと和子の身体が痙攣した。


「首が……。胴体から千切れていたそうです」

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