第29話 ACT9 彷徨変異2


「なんの冗談を言ってるんですか?」


 なかば悲鳴に近い叫び。和子自身、己の出した声があまりに怯え、そして動揺していることに驚いた様子で、あたりをきょろきょろと気にするような態度を取った後、身を縮めて姫緒を睨む様に見つめた。


「何を探ってるんですか?まだ、私達を責めようとしているんですか?」


 ひそめた声ではあったが、その声には強い怒りが込められていた。


「和子さん。落ち着いてください。何をおっしゃっているのか私には……」


「昔の話です!今更なにを語れというのですか?あれは……。事故です!」


 和子は、自分がまくし立てる声に煽られ、怒りと戸惑いを加速していく。


「落ち着いて。和子さん。事故とはどう言うことなのですか?」


「事故です!みんなそう言ったじゃないですか!警察だってそう……!」


 自分の言葉の中で何かに思い当たったというように、一気にまくし立てていた和子の言葉が途切れ、姫緒に放心気味の目を向ける。


「警察の……かた……ですか……」


 どうやら一時的に自己完結した様子だった。


「いいえ、違います。先ほども言ったように、私は綾子さんに頼まれて那由子さんを探しているだけです」


 その言葉で、和子の瞳に困惑と恐怖の念が再び浮かぶ。


 家の中に逃げ込もうとして、有無を言わずに踵を返してしまった。


「待ちなさい!」


 逃げようとする和子の腕を、既での所で掴み、引き戻す。なおも逃げようとする彼女の腕をありったけの力で掴み上げると、ギリギリと締めつけた。


「い……、いたい!」


 和子が小さく叫び、逃れようと身体をもがかせたが、締め上げる姫緒のあまりの力の強さに驚愕し、すぐに抵抗を止めてしまった。


「何を怖がっているの?」


 ねじ伏せた和子に、諭すように姫緒が声をかける。締め上げる手の力は緩めない。むしろ加え気味ですらある。


「放して……。お願い……」


 苦しげに和子が懇願する。


「ちょっと付き合って頂戴」


 姫緒はそう言って、和子を、そのまま家の前から空き地の前へと引っ張り、移動させた。


「面倒だから全部見せてあげる」


 そう言って和子を締め上げていた手を放す。


「まず……、あれは誰?」


 空き地に建つ廃屋の方を指差し、姫緒が和子に見るように促した。

 和子は自由になった腕をさすりながら姫緒の指差すほうを見た。が、『誰』と聞かれるような人物の姿を確認する事が出来なかった。姫緒が右掌で和子の視界を遮る。


「天来知己」


 そう唱えて、和子の視界を遮っていた掌を外す。すると……。今まで誰もいなかった建物の、朽ちかけた骨組みの間に、腰を屈め気味にして立つ老婆の人影が見えた。

 和子には見覚えのある服装。見覚えのある容姿。そして、その顔をはっきりと見て取ったとき、和子は「あっ」と小さく声を上げ震え出した。


「ハツセ婆……」


 和子は、その人物に視線を縛られてしまっていた。知り合いであることはまず間違い無いようだ。


「面白いものを見せてあげる」


 姫緒のその声に、和子が、ハっ、と我に返る。


「ありがとう。どうやらこの娘さんは私の探していた情報をたくさん持っているようだわ」


 姫緒は、老婆に向かってそう言うと、人差し指と中指を立て、空中に縦一文字の直線を描いて唱えた。


「天来地帰」


 すると、老婆の足元から、暗い染みの様な影が湧き上がり、やがて、その影の範囲は老婆を中心に遠心状に広がって行った。


 どんどんと広がる。


 すぐに廃屋の敷地一杯に広がり、まだ広がり続け、姫緒と和子の立つ位置までも伸びて来る。


 どんどんと広がる。


 区画を飲み込み、道を飲み込む。


 どんどんと広がる。


 和子が困惑し、広がる影をただ呆然と見守る中、姫緒の顔にも焦りが浮かんでいた。


「こんな事って」


 姫緒は自分が大きな勘違いをしていたことを悟った。

 老婆の足元に感じられた周りの場との微妙な違和感は、微妙なのではなくて、信じられないほどの広範囲に渡って異常な空間が広がっていたために、差異を感じる事が出来ず、中心である老婆の周りだけが『多少』強い力で形成されていたというものだったのだ。

 『染み』は、最終的に住宅地の二区画を通り越し、その向こうの道に及ぶ敷地まで広がると、今度は、姫緒たちのまわりを目指して急速に収縮し出した。

 それに伴い、拡散していた霊力が跳ね上がっていくのが分かる。

 やがて、染みの形態を取っていた影は、霞状に変化し、空中に浮かび、乗用車ほどの大きな白い霞のボールへと変化した。

 姫緒の目の前に、地面から一メートルほどの所で浮遊した、大きな球形の霞の塊が浮かぶ。

 球形は視覚的には霞のようだったが、ぶよぶよと弾力のある収縮を繰り返し、そのたびにクチャクチャと言う、有機的で不気味な音を立てていた。

 それを形容するならば、非常に水っぽく白い、肉の塊と言った感じだった。


「なかなか面白いけど、急いでるの。一気にいくわよ」


 驚愕の面持ちでたたずむ和子を捨て置いて、姫緒が何事かを始めようとした矢先、あやかしが先に動いた。

 グバぁ、と言う粘質な音とともに、あやかしの身体が開き、拡散し、姫緒を包み込む。


「がふっ」


 あやかしの身体に取り込まれた姫緒が苦しそうに息を吐く。

 あやかしの攻撃が開始された。

 全身の毛穴と言う毛穴から、マチ針が侵入してくるような激しい痛みが、姫緒を襲う。


「がっ!アァァァァ!」


 激痛。

 だが。秘所のとろけるほどの快楽。快感に全身を振るわせ、腰が抜けそうになる。虐待、苦痛は彼女にとって、そう……、性的倒錯者である姫緒にとっての至上の快楽。

 彼女は被虐趣味者。マゾヒスト。

 叫びにならない叫びで大きく開かれた口から、だらりと垂れ下がった舌をふるふると戦慄(わなな)かせる。必死に足元を保とうとするが、繰り返し襲うこの世のものではない責め苦。命を奪わんとする愛撫に、ついに責め落されガックリと膝を折り、その場にしゃがみ込む。


「あっ……、クぅウウウゥゥゥ」


 喜びに気を失いそうになりながら、涙があふれ悶絶する。逃れられないと言う建前と、逃れたくないと言う本音。

 いつまでもこうしていられたら。

 だが、姫緒の身体は生命の危機に瀕していた。心臓の鼓動は、とっくに破裂してもおかしくないほどの激しい高鳴りで加速し、血の温度は上昇する。血管は、膨らみ過ぎた風船のようにいつ裂けてもおかしくない状態だった。

 しかし、快感は……、加速する。

 (ヤ・バ・イ)

 何度も意識を飛ばしそうになりながらも、かろうじて繋ぎ止める。快感とはどうしてこうも厄介なのか。

 漸くに、ぼんやりと心の奥のほうで危険から逃れようとする意識が覚醒する。

 およそ覇気というものが感じられない、惰性のような思考が、ひとつの行動を引き起こした。

 バチッ、と言う感電のような音がして、一瞬、姫緒の全身が青白く発光する。すると、取り囲んでいた白い肉の塊がはじけて四散した。そして、しばらくの間、空中で小片となりブヨブヨと姫緒の周りを漂っていたが、彼女が膝をついたままハぁハァと喘ぎ続けているのを見て取ると、再び取り付こうとして集まり出す。

 周りの欠片同士で引っ付きあい、少しずつ塊を大きくしながら姫緒に近づき、今まさに再び取り憑こうとしたとき、姫緒の身体から青白い放電が放たれ、あやかしを、再び四散し退かせた。

 姫緒がゆっくりと立ち上がる。


「楽しませてれる」


 強がりのようにも聞こえたその言葉は、しかし姫緒にとって文字通りの意味だった。快楽によって引き出された気の力が彼女の身体中にみなぎっている。


「お礼をしてあげなくちゃね」


 いとおしげに目を細め、目前の空間に再び集結し始めている肉の塊を眺める。

 すると、集まった肉塊が、今度は平らたく伸びて行き、漂う帯となったかと思うと、姫緒のまわりにまとわりつくように、旋風を巻き上げながら回転し出した。

 パシッ、ピシリッと言う小さな破裂音とともに姫緒の着ている洋服が小さく裂けていく。

 真空による鎌風現象。

 露出した姫緒の腕や太股にも、空気の隙間が作り出した刃が襲う。しかし、姫緒の身体に攻撃を仕掛けた真空は、彼女の身体を包む気の力によって弾かれてしまい、パリパリと言う音を立てて消滅し、その攻撃は彼女の肌を裂くどころか、かすり傷すらあたえられなかった。

 フッと姫緒が小さく笑ったそのとき。彼女は自分の周りに起こっている異変に気づいた。


「クゥき」


 姫緒が喉を掻きむしる。まとわり憑くあやかしの力によって作られた空気の隙間。

 初めは物体を切り裂く小さな真空の隙間。だが、やがてそれは、大きな、姫緒を包む空気の希薄な空間へと状態が移行していたのだ。


「クゥ、う、きが」


 姫緒の周りから空気が無くなっていく。喋ろうとして吐き出す息すら吸い上げられる。たまらず大きく口を開けて喘いだ。

 それを待っていたかのように、帯状だったあやかしが、大蛇のような太い綱状の形態へと一瞬で変化し、姫緒の、喘ぎ大きく開いた口の中めがけて流れ込んで来た。


「げェうううぅ」


 口に入ったあやかしは、そこで口一杯に膨れ上がり、自分の侵入を拒むことを出来なくすると、そのまま咽頭へ身体をなだれ込ませ、押しつぶすように鼻腔と喉頭を塞ぎ、そのまま食道まで一気に侵入して彼女の気道を完全に封鎖した。姫緒が苦しげな呻きを上げながら、大きく身体を弓なりにして喘ぐ。

 彼女の喉が、グボリ、グボリという鈍い音を立てる度に伸縮し、あやかしの身体がゆっくり、ゆっくりと体内に侵入していく。


 グボリ、グボリ、グぼぉ。


 規則的だったあやかしの律動が一瞬、止まった。

 そして、明らかに先ほどまでとは違う動きと音が、姫緒の喉から聞こえ始める。


 ず、ず、ズズズズズズ……。


 弛緩しきったようだった姫緒の喉の律動が力強いものに変わり、その音は、まるで……。


 ず、ズズズズー……。


 あやかしの身体が今までの数倍のスピードで姫緒の体内に消えていく。いや、取り込まれていく。あやかしは明らかにその力に抵抗していた。

 啜られていく、飲み込まれている!

 あやかしは抗い、綱の様な身体をしならせる。身体の先端で姫緒を打ち据えようとして、一撃が放たれたその瞬間、姫緒の身体が発光して、音と光が、襲うあやかしの身体を払いのける。


 ズズズズー……。


 あやかしは必死に逃れようとするが、そんな事はお構いなしの物凄い速さで。

 すすられて行く。


 ずズズズズズずー……。


 やがて。

 姫緒はあやかしを、自分の口元に僅に覗くほどを残してすっかり飲み込んでしまった。

 クタクタとのたうつ、あやかしの端っこの感触を唇に心地よく感じながら、満足げに微笑み一息つくと、最後の一すすりでつるりとそれを飲み下した。


「あ、ふう」


 恍惚の笑みを浮かべて、姫緒が中指で唇を拭いながら切なげに息をついた。


「あ、ああああ」


 地面にへたり込んでいる和子が、金縛りから解かれたように奇声を上げた。

 姫緒がちらりとそちらに視線を移すと、和子は、ごくりと大きく喉を鳴らし、顔を引きつらせて再び沈黙する。

 姫緒はそのまま視線を廃屋のほうへ移した。そこには相変わらず老婆の幽霊がたたずんでいる。


「終わったわよ。もう動けるでしょう」


 姫緒が言うと、老婆は満面の笑みを浮かべ深々とお辞儀をし、そのままの姿勢でその姿は徐々に希薄になって行き、やがて景色に吸い込まれるように消えていった。


「さよなら。鬱陶しいお婆さん」


 不愉快げにそう言うと、和子の方へ視線を戻す。


「いい見世物だったでしょう?。見たんだから只では帰さないわよ」


「あ、あなたは、いったい」


 引きつった表情で、地面にしゃがみ込む和子が問いかける。


「鬼追師」


 冷たい笑いで和子を見下ろしながら、姫緒が答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る