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〈最初にお読みください〉と題された紙を見る。

 一行目。


〈このたび、あなたに対する裁判が起こされました。相手(原告)の言い分が同封した訴状に記載されています〉


 口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状。この一枚のみ紙質が違う。少し青みがかっている。

 中段の数行。


〈頭書の事件について、原告から訴状が提出されました。当裁判所に出頭する期日及び場所は下記の通り定められましたから、同期日に出頭してください〉


 左側を綴じられた訴状の副本。三枚目。

 

〈請求の趣旨。

 1 被告は、原告に対し、金七十一万七千円及びこれに対する平成○○年一月二十八日から支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。

 2 訴訟費用は、被告の負担とする。

 との判決並びに仮執行の宣言を求める〉


 依然として喧騒に賑わう四階廊下に比べ、ここエレベーターホールは通夜のように項垂うなだれた人々が手許のスマホや書面に眼を落としている。

 そろそろ入廷時刻だ。

 私は立ち上がり、騒がしさの途絶えぬ廊下空間へ足を向けた。

 四◯六号法廷ドアの前。左扉が関係人・傍聴人用で、右側が当事者用だ。右のドアを開ける直前、自然と手がシャツの襟元を整えていた。

 入廷。奥行きはあるが、想像した法廷よりは多少狭い。

 それでも二列となって奥に居並ぶ六名の黒服は厳粛たる雰囲気だ。司法委員や書記官等も混じっているのだろうか。どのみち同じ黒服なので判別は難しい。

 中央後ろに座す初老の男性が――彼は確実に裁判官だろう――淡々と話を進めているのが聞こえたが、私の視線はすぐに右へ逸れた。

 そこに簡素な机が見え、何やら数片の紙切れが上に広げ置いてある。よく見ると、一枚一枚にそれぞれこの法廷で扱う事件名が印刷されていて、入廷者の名前を記入する欄が設けてある。左側が十時半からの分で、右側が十一時からの分だ。左のほうは既に数枚、奥に置かれた方形の箱の中へ収まっていた。


「こちらにいらっしゃるのは初めてですか?」


 女性の声がした。左を向くと、清楚なスーツ姿の女性が立っていた。あまり法廷っぽくない服装だが、関係者なのは間違いないだろう。


「あ、はい」


 私は既に自分の事件名の記載された紙を拾い上げていたが、確認のため女性に見せて、


「これに記入すればいいんですか?」

「原告の代理の方でしょうか?」

「いえ、被告です」

「失礼しました……では、そちらにマルをつけて、お名前をご記入いただけましたら、左側の箱の中にお入れください」


 手許に転がっていた鉛筆に氏名を記入し、被告の側にマルをつけ箱の中へ

 改めて法廷に向き直る。

 まず手前にパイプ椅子が二列整然と並び、てんでバラバラに数名座っている。私が入ったのと逆側の出入り口にはソファーが据えてあり、そこにも一人座っている。全員スーツだ。原告側の弁護士たちだろう。

 私も少しは服装に気を遣ったつもりだが、チノパンを履いているのは私だけだった。雨の中スーツを濡らして歩くのは勘弁だ。

 椅子の前には腰ぐらいの高さの仕切りが設置され、左右二箇所が押して開く回転扉になっていた。その先には満漢全席を置いても余りそうな円形テーブルが場を占め、椅子が左右三脚ずつ。そちらの椅子はさすがにキャスター付きの肘かけ椅子だ。

 更に奥には数段高いところに裁判官らの席が見えた。

 手前の横長のテーブルに三人が座り、その奥にいる三人にはそれぞれ個別の机が用意されていた。先程の女性は助手か何かだろうか。中央に固まる六名とは別の右側の事務用デスクに、独りぽつねんと着席していた。

 空席の一つに腰かけ、前方の様子をうかがう。時刻はもうじき十時半になろうとしていた。


「室温どうですかね。ちょっと暑くないですか」


 次の口頭弁論が始まるまでの短い空き時間。初老の裁判官が助手と思しき女性にそんなことを話しかけている。一片の雑談すら許さぬような張り詰めていた空気が、その間だけ眼に見えて緩んだ。もっとも会話をしているのはその両名だけで、他の人々が口を挟むことは最後までなかったのだが。

 十時半。法廷が再開される。

 それは私の予想を大きく覆すだった。

 裁判官が事件名を読み上げたのち、原告と被告が呼ばれる。原告側の代理の弁護士が丸テーブルの左側に座る。被告側の席は無人だ。

 初めに裁判官が事件の趣旨を読み上げる。被告がいないので審理はおしまい。判決の期日を原告側弁護士に告げ、これにて閉廷。さっさと立ち去る弁護士。そして次の法廷が始まる。

 驚いた。次の法廷も被告はやって来ない。丸テーブルに座るのは原告側の人間だけだ。次の法廷も、次も、その次も。私の見た限り、私以外に被告席に座らんとする者は皆無だった。

 この手の求償金請求事件は、これが通例なのだろう。口頭弁論など行われる余地もない。欠席裁判が当たり前なのだ。出廷を断ることでどれほど被告に不利な判決が出ようとも、彼らにはどうでもいいのだろう。

 私の出番が来たときも、正直言って右の回転扉を押して奥へ向かうのが気恥ずかしかった。どうしようもない守銭奴の如く思われそうで。

 機械的に事件の趣旨を読み上げる裁判官。ここまでは一緒だ。


「被告は消滅時効の援用を主張していますが」私が送った答弁書のファックスだろうか、手許の資料を見ながら初老の裁判官が通例とは異なる発言をした。「原告はどうされますか」

「反論を検討します」


 即答だった。被告側が出廷することはまずないため、相手の主張に反論する準備などしていないのだ。

 続いて裁判官は私に向かい、


「あまりお勧めはしませんが、より低い金額で手を打つという選択肢もありますが」


 低い金額……示談金による和解みたいなものだろうか。


「いえ、このままでお願いします」


 私の作戦は徹底抗戦だ。それを変更するつもりは更々ない。

 答弁書の選択肢にも、話し合いによる解決や分割払いを希望するといったものが含まれていたが、そんなものには端から興味がなかった。伯父が詐欺紛いの手口で結んでしまった契約の残債など、びた一文払う気はない。

 それでは次回の期日をお伝えします、と裁判官が言った。なるほど。結局この場はお互いの立場を明確にしただけで終わりなのだな。本格的なやり取りは後日改めて行うと。


「次回期日は八月十七日でどうでしょうか」


 異論はない。向こうの弁護士は自身のスケジュール帳を参照しつつ、


「午前中なら……十時半か十一時なら大丈夫です」


 裁判官が私の意見を訊いてきた。


「十七日はいかがでしょうか?」

「いつでもいいですよ」

「では、十時半にします。次回期日は八月十七日の十時三十分からということで」


 一回目の口頭弁論は、こうして大した弁論を取り交わすでもなく終結した。所要時間は二分乃至ないし三分。

 席を立ったところで、先刻の女性に期日の書かれた小さい紙を手渡された。礼を言い、資料と共にバッグに仕舞って法廷を出た。


 拍子抜けした。私の意気込みと準備したコピー用紙は一ヶ月先へ持ち越しとなった。

 次の口頭弁論では、丁々発止ちょうちょうはっしの議論が展開されるのだろうか。今日の様子をかんがみるに、その光景は想像しづらいものがある。ただ、反論を検討するというからには、相手もそれなりに対策を講じてくるはずだ。今回よりも長丁場になるのは確かだろう。妹の弁護士が地元の簡裁でどう立ち回っているのか、少し気になった。

 私が去った後、法廷は単純作業の繰り返しに戻ったのだろうか。きっとそうだろう。あの法廷では、のこのこと顔を出す被告のほうが珍しいのだ。訴状に抗う自分や妹のような存在こそ例外なのだ。

 裁判所の外は相変わらずの雨で、車の往来は多いが歩道に人影は見当たらない。

 護衛の人の視線を避けるように傘を低くして、駅までの道を急いだ。

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