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 週末の昼過ぎ、電車で二駅ほど先にある東京弁護士会の法律相談センターへ向かった。

 口頭弁論期日まで三週間を切っていた。

 これ以上もたもたしていては、もし弁護士に事件を受任するとなった際、準備期間の確保が難しくなってしまう。

 ターミナル駅の東口に出ると、外は凶悪にぎらつく太陽で遠景が揺らめいて見えそうな酷暑にむしばまれていた。

 それでもさすがに休日だ、人出は多い。

 薄着と露出狂の境目が曖昧な女性の衣装に眼の遣り場を大いに困らせながら、相談センターの入っている大通り沿いのオフィスビルへ。高層ビルではなく、かといって雑居ビルとも呼べない中途半端なその造りは、入り口の意図不明な段差を除けば取り立てて特徴のない平凡な外観をしていた。

 拭っても拭っても汗は止まらない。屋内は空調が効いているから直に収まるだろう。

 狭いエレベーターに乗り込み三階へ。法律相談センターのロビーに人影はまばら。二列に並んだソファーの片隅に男性が一人。奥の受付に女性が二名。それだけだ。

 カウンターに近づくと向こう側の二人にフライング気味に挨拶された。来意を告げ、予約時間と氏名を伝える。歳若いほうの女性が紙を差し出し、お手持ちの訴状に記載された事件番号をこちらにご記入くださいと言ってきた。

 事件、番号か……。

 痛い。幾度も眼にし、今や見慣れた語句ではあったが、いざ他者の口からはっきり言及されると、やはり胸に刺さる。

 所定の項目を記入した紙を受付に渡すと、弁護士側はもう準備ができているらしく、早目に相談部屋に入室できるかどうか訊かれた。時間までまだ五分少々あったが、こちらとしては早く始めてもらいたい。というより早く終わらせたい。

 一も二もなく承諾し、言われた通り弁護士のいる部屋のドアを二度ノックして中に入った。汗はすっかり引いていた。


「まああれですね、最初に通知を受け取ったときにさっさと相続放棄していればねえ」


 訴えられるまでの経緯を話し終えると、白髪交じりの弁護士は日焼けした頬を掻きながら口を切った。特徴的な高い声が殺風景な室内によく響く。


「どうして放棄されなかったんですか?」

「はあ……」


 前橋に住んでいた伯父は生涯独身で、自宅で亡くなっていたという報せを長野の実家に伝えたのも家人ではなく警察だった。孤独死というやつだ。晩年は糖尿を患い、寝たきり同然の生活だったと聞いている。

 一方、信州の実家には私の母がこれまた独りで暮らしていた。父は八年ばかり前に食道癌が見つかり、摘出手術を受けたのだが予後不良で程なく他界している。

 親族の叔父はとうの昔に付き合いの切れた伯父に関与するのを嫌がり、結果、邸宅の処分諸々は母が凡て取り仕切ることとなった。その際、前橋とある司法書士が邸宅の新たな買い手との取引や不動産登記について代行し、最終的に母の許へ書類一式を郵送したらしいのだが、後々妹夫婦が調べてみたところ、生前の伯父が契約していた持ち家のサイディングに関する書類もそこに含まれていたという。

 どうやら母はその司法書士が債務関係の一切を調べ上げてくれたのだと思い込んでいた節がある。信販会社から督促の通知が届いたことを伝えても、そんなものは詐欺に決まってるから無視しろの一点張り。私は独自に司法書士と連絡を取り合っていたのだが、母がかたくなな態度を崩さないため、いつしか連絡も途絶えてしまっていた。

 訴状が届いた段でようやく司法書士に改めて電話を入れたのだが、どうして今まで放っておいたんですか、第一そんなものまで調査する義理はなかったし当時依頼されても絶対断ってますよと怒鳴り返され、ちっとも埒が明かない。

 訴額百四十万円以下の簡易裁判所における事件については、司法書士に代理してもらうことも可能らしいが、この人にはとてもそんなことを頼める雰囲気ではない。電話を切ってから司法書士の連絡先は消去した。


 私の証言と持参した資料を基に、手許の白紙に簡易家系図を書き上げると、弁護士は更に声を高くして、


「なるほどなるほど。その伯父さんが亡くなったとき、貴方のお父さんは既に亡くなられていたわけですね……じゃあ訴状を受け取ったのは、貴方と貴方の妹さん、それから伯父さんのご兄妹……貴方の伯母と叔父の四人であると。つまり親族の方々も相続放棄はしなかったわけだ、ははあん」


 小馬鹿にした嗤いを一瞬浮かべた弁護士だったが、すぐに真顔に戻った。


「で、貴方以外の親族には先々月のうちに訴状が届いているわけですよね。もう弁護士に依頼してるんじゃないんですか?」

「あ、はい。妹はそうしてます。叔父と伯母はちょっと判らないんですけど」


 恐らく妹とは別に弁護士を立てているはずだ。

 私はどうも父方の親族とはウマが合わないので、あまり関わらないようにしている。粗野な感じが正直気に喰わないのだ。

 そのため、そちら側の情報は母経由でしか伝わってこない。妹が弁護士に受任した話を聞きつけた叔父と伯母は、自分たちもその弁護士に面倒を見てもらうよう妹に頼み込んだらしいが、彼女も私と同じ考えなのだろう、素気すげなく断ったという。まあそういう図々しいところも関わりたくない一因ではあるのだけれど。


「なら、その妹さんが頼んだ弁護士に、一緒に見てもらったらどうです」


 こいつもか。私は呆れ返った。それができないからここに来ているというのに。何故そのことに思い至らない。

 訴状の届くタイミングが大幅に遅れたせいで、妹との仲に大いなる亀裂が生じていることをどうにか伝えたものの、私は対策だけ教えてもらったらとっとと引き上げようと心に決めた。こんな三百代言さんびゃくだいげんに受任するなどもってのほかだ。

 どいつもこいつも口先ばかりでちっとも力になりやしない。


「これが貴方の受け取った訴状と、それに関する書類一式ですか」言いながら、弁護士は私の冷ややかな視線には一向気づかず、浅黒い指で書類を素早くっていく。「ふむふむ、呼出状及び答弁書催告状にこちらが答弁書。で、訴状と……当事者目録、請求の趣旨、請求の原因。添付書類として、甲号証写しに代表者事項証明書、訴訟委任状と……ああこの紐でじてあるのが写しね。甲第一号証の一……」


 最早ただの独白に転じている弁護士の言葉を途中から聞き流し、窓外の遠くに見える街並をぼんやり眺めたり傍らに置かれたデジタル時計の点滅に瞬きを合わせたり、手の爪を指の腹で撫でたりしていた。絵に描いたような手持ち無沙汰。


「最初に信販会社からこの通知を受け取ったのが、昨年の八月二十一日ですよね?」


 不意に尋ねられ、私は慌てて弁護士を見た。弁護士は訴状の隣に並べた督促状を見ていた。


「あ、はい。あ、実際に受け取ったのは二十五日ですけど」

「二十五日ね」弁護士は些細な違いだとばかりに空咳を放ち、「うーん……ここには六年前の五月二十六日に支払いを怠り……ってあるんだよな。これ時効なんじゃない?」

「時効?」

「そう、時効。伯父さんが亡くなったのは、ええと六年前の十月十八日。でもね、この文面を見た限りだと、消滅時効の起算点は今から六年前の五月二十六日なんですよ。一般的な債務の消滅時効期間は民法が指定する十年だけど、この場合は商取引に当たるんで、商法が適用されて消滅時効は五年になるんですね」

「はあ」


 時効については法律方面を多少かじっていた時期があるので、ある程度は把握していた。しかし今回のケースでも有効なのかどうかは素人目には判断がつかなかった。

 それよりも、既に赤の他人へ売却処分を済ませていた家のリフォームローンをどうして相続人が支払わねばならぬのか、その理不尽さのほうが私には業腹ごうはらだった。

 妹の許に届いた訴状の件で義兄と連絡を取っていた去年の秋頃、私は法務局にて登記簿の写しを入手し、所有権が今の持ち主へ移転していることを確認済みだった。所有権の移転と共に債務も随伴ずいはんするのではないか……私の主張に対し義兄は懐疑的だったが、この弁護士もやはり同意見なのだろうか。私はそれとなく以上の点をほのめかしてみたが、かんばしい回答は得られなかった。


「保証債務の随伴性は、残念ながらこの場合には該当しないんですよ」


 腐っても法律のエキスパートにそう言われては返す言葉もない。いささしゃくに障ったが、私は神妙に自説を取り下げた。


「まずはこの期日呼出状の通り、簡裁に出廷してください。ま、弁護士に受任するという手もありますが」


 後の言葉は取ってつけたような言い回しで、この程度の事件で受任は致しかねるという心情が見え見えだ。無論受任する気などないし、向こうから提案したとしても願い下げだ。


「八月二十五日以前に、この手の書面や連絡は一切受けてないんですよね? じゃあやっぱり、時効援用を主張するのが一番有効だと思いますね。うん、これが一番いい」


 時効援用を主張。心に銘記した。


「答弁書にも、そう書けばいいんでしょうか?」

「ええそうです。答弁書は必ず送ってください。ファックスでも構いませんが、とにかく早めがいいです。相手側がもしかしたら別の手を打ってくるかもしれませんが、こちら側としてはそう主張するよりほかない。他の手立てはちょっとねえ……駄目元でよければ、相続放棄を主張するってのもありますが。確か督促状が届いてから、その送付元に電話連絡入れてるんでしたっけ」


 無言で頷いた。例の司法書士に電話相談した際、契約書と明細が見たいからその会社に送ってもらうよう頼まれ、言われるがまま電話してしまったのだ。


「この状況で相続放棄が認められることはまずありえないんで、見込みは低いですけどね。駄目元でもいいんならそれもやってみるとか」


 半笑いで言われた。


「ああ、時間ですね」


 机上の時計を見て、弁護士が書類を手早くまとめ始めた。無料で相談できる期限が迫っていた。私としても今後の目処めどが立ったことだし、もう用はない。

 一応名刺と弁護士の所属する法律事務所の案内コピーを頂戴し、丁重に礼を述べて退室した。事前に受付で貰っていた法律相談に関するアンケート用紙は記入も提出もせず、ただカウンター奥の二人に会釈だけしてロビーを後にした。

 今後ここに来ることはないだろう。弁護士に連絡を入れることもないだろう。

 だが寂寥せきりょう感は微塵もない。いずれ不快感に変わるであろう外の熱気を幾分快く肌に受けながら、私は妙にさっぱりした気分を味わっていた。こんなに足取りが軽いのはいつ以来だろう。すれ違う人らにいちいち挨拶して回りたい心持ち。

 根拠のない勝算に胸が弾む。いやむしろ無根拠の故か。

 確固たる根拠があれば、もっと落ち着いた気分でいられるだろう。道行く人々に握手を求めたくなったりしないだろう。

 頭のどこかを常に覆っていた薄い膜が、少しだけ剥がれたようだった。

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