5. ロレ
「レゲルに誓って。――君にふさわしいロレを与えるよ。さあ、目覚めて」
そう囁かれた先にあったのは、小さな人を模したモノだった。
「君はもうモノでも、ましてや意思なきフレンでもない」
淡い口づけを受けたそれは、ゆったりとまぶたを持ち上げ、ガラスのように透明で壊れそうな目を開く。
「さあ、息吹を」
小さなそれが硬そうな唇を開き、空気を揺らした。
人を模したそれが息を吐くと、二本の手が、二本の足が、体が滑らかに伸び、あっという間に小柄な子供の大きさになった。健康そうなすらりとした足に、柔らかな手、そして澄んだ瞳は潤い輝いていた。
先程まであった優しい縫い目は消え、布で出来た肌は弾けるような皮膚となっている。
「さあ答えて。――君の一番大切なロレは何かな」
子供の人形は、まん丸の瞳をぱちくりさせた後、にっこりと微笑んだ。頬にふわりと赤みが差す。
「わたしのロレ。このせかいを、よどみなく、まわすこと」
初めて発せられた言葉はするすると紡がれる。
「ふたりにあいされ、たくさんあいすこと」
二本の足で軽やかなステップを踏んだ人形は、優しく頭を撫でられて目を細めた。口元が幸せそうに緩む。
「これで君は立派な人形だ。ロレを大切にするようにね」
振られた手を真似して、手を振った人形は弾むように扉の向こうへ駆けていく。そこにいた背の高い大人型の人形に抱きしめられ、柔らかな手で抱きしめ返した。
「なんて愛らしい我が子だろう」
「大切にするからね。――ブレチェン様、ありがとうございました」
「ありがとうございます。立派に、大切に育てます」
頭を下げた人形ふたつの間で、子供は照れたようにはにかむ。
「では、ごきげんよう。ふたりの愛が、すくすくと育ちますよう」
ミスタズが腰をかがめて胸の高さほどの扉をくぐった。天井が低く、常に腰を折っていなければならない。
普段使用している灰色の指輪――性別不詳の少年のような姿になるもの――をしていないことを後悔しながら、隅っこへ腰を下ろした。テウフェルはその隣に伏せて目を閉じている。
「こんにちは。俺はミスタズ。あなたたちがぬいぐるみに愛を与えたふたり?」
人形を作るには、ふたつの愛が必要になる。今回のぬいぐるみはその愛が成熟していなかった結果だと、出会ったベフォルゲンが言っていた。
玩具のような小さな部屋にいるのは、まだ幼く小さな人形ふたつだった。
ミスタズは新緑の瞳を細めて微笑む。
「……わたしがママで」
「ぼくがパパ」
その幼いふたつの間には、更に小さなぬいぐるみがにこにこと笑って立っている。両手をそれぞれに掴まれて大人しくしている。
「可愛いぬいぐるみだ。――これはベフォルゲンが作ったんだね?」
ミスタズが尋ねるとママとパパだという幼い人形は戸惑ったように目を合わせた。
「言いたくないことは言わなくていいよ。私はお喋りに来ただけ」
ミスタズがそう言いながら小さなぬいぐるみへ手を伸ばす。表情が一切変わらないぬいぐるみの、まるで毛糸のように太く柔らかな髪を撫でた。
「町に出ていたずらをしているのはこの子?」
と、ぬいぐるみが縫い目の薄っすら残った手を振り、幼い子供の人形ふたつの手を力強く振り払った。ぬいぐるみがまるで彫刻のように笑顔を湛えたままミスタズへ飛びかかる。
テウフェルがそれに反応し、ぬいぐるみの首根っこをぱくりと咥えた。先程までミスタズの隣で伏せ、目を閉じてふわふわと尻尾を揺らしていたテウフェルは、いつの間にか四本の足で立っている。
ぬいぐるみはテウフェルに咥えられ、宙ぶらりんの状態でバタバタと手足を動かしていた。
「……ごめんなさい」
「構わないよ。この子は本当にいたずらが好きだね」
ミスタズの大きく骨ばった手が、ぬいぐるみの胴体をそうっと挟み込んだ。ミスタズがしっかりとぬいぐるみを掴んだことが分かってから、テウフェルが口元を緩める。
ミスタズの手から逃げようと大暴れするぬいぐるみだが、生憎青年型となったミスタズの手は大きく、力も強い。探偵用の幼い姿では到底抑えられなかっただろうが、今は違う。
そんなミスタズの手の中でぬいぐるみがどれだけ暴れても声はせず、表情も彫刻刀で彫られた笑顔のままだ。
人形ならば罵りの鳴き声でもあげ、眉を釣り上げてもおかしくないというのに、愛が欠けたぬいぐるみはそれらが出来ていない。
「どうしてぬいぐるみを作ったりしたのかな。大人になって、愛を実らせてからじゃあ遅い理由があったのかな」
幼いふたつの人形は質問に答えず、ただただ心配そうにぬいぐるみとミスタズ、テウフェルを順繰りに見ていた。
ミスタズは回答がないことにひとつ頷いてから、ぬいぐるみを目線の高さまで持ち上げる。ボタンのような光らない瞳を覗きこむ。
「うーん。君にも話を聞きたいんだけど」
「リロルはおしゃべりしないよ」
「リロルという名前なんだね。あんたたちはなんていう名前?」
ぬいぐるみが名前に反応し、首を回して後ろをみた。ボタンのようなざらついた瞳の先で、ママとパパだという幼い人形が顔を見合わせたあと、ゆっくりと口を開く。
「……わたしはカンタナ」
「ぼくはタナンタ」
ミスタズがリロルに酷いことをしないと分かったのか、カンタナとタナンタはそろそろとミスタズに近づいてきた。カンタナとタナンタが優しくリロルを撫でると、バタバタと手足を踊らせていたリロルがすっと大人しくなる。
「リロルもカンタナとタナンタが愛を注いでくれたことは分かってるみたいだ」
ミスタズの口から漏れたリロルという名前にも、ぬいぐるみは反応した。パタパタと手足を動かし、再びミスタズから逃げようと身を捩る。
「この子が町でどんないたずらをしているかは知らない?」
「……しってる」
「だけど、リロルがいうことをきかないんだ」
カンタナとタナンタが同じ操り糸で操られた人形のように、同じ角度で顔を伏せた。
ミスタズはリロルをテウフェルの方へ差し出した。テウフェルが不満を言うようにワフっと鳴いたが、すぐにぱっくりと大きな口を開けた。牙をたてないよう、力を込めずにリロルを咥える。
「なにをするんだ。リロルをつれていかないで!」
「……わたしたちの、こどもなの。おねがい、つれていかないで」
慌てた様子でカンタナとタナンタが手を伸ばしてくるので、ミスタズは大きくしっかりとした手でそれを止めた。
「おれは町の人から頼まれたんだ。――町でいたずらするぬいぐるみをどうにかして欲しいって」
血液など流れていないカンタナとタナンタの頬がさあっと色みを無くす。先程まで頬に咲いていた薄紅の花が消えてなくなっていた。真っ白の頬でカンタナとタナンタは「リロルをこわさないで!」と声を揃える。
ミスタズは「うん。僕も壊したくないんだ」と頷いた。
「遊びだとかいたずらだとか、簡単な気持ちで作ったんじゃないのはカンタナとタナンタを見て分かったよ。リロルをとても大事にしていることも」
鼻先をリロルに叩かれたテウフェルの尻尾がふにゃりと下がった。そのテウフェルの機嫌をとるようにミスタズは背中を撫でる。
「人形に与えるふたつの愛は成熟していなければならないのに、カンタナとタナンタの愛はまだ熟れてない。――わたしはリロルを壊さないけれど、このままじゃ誰かが破壊許可を取りに来る」
ミスタズがテウフェルにリロルを任せ、膝をすってカンタナとタナンタに近づいた。大きく硬い手で、それでも愛しむような繊細な指先で二人の頬を撫でる。
「ブレチェンはこんな不完全なものをつくらない。……ベフォルゲンにリロルを作るよう頼むにはかなり重いウェルトも差し出してるはずだ。笑わないと、お前たちの中のウェルトが空っぽになってしまうよ。そうしたら、リロルを愛するふたつは誰になるんだろう」
この世界のあらゆる価値は、不可視の重さウェルトによって定義される。人形の内に貯まるウェルトは、それぞれに与えられたロレに従うことでひっそりと重みを増す。しかし、それを使いきってしまっては――価値のない人形は、ただのモノになってしまうのだ。
「君らの一番大切なロレは何?」
ミスタズが尋ねる。低く、腹の奥へ響くその声は海底のようだった。
「……せかいを、よどみなく、まわすこと」
「せかいを、いじすること」
カンタナとタナンタの回答にミスタズは「そうだね」と肯定する。
「リロルは世界を澱みなく回しているかな。世界を維持しているかな」
カンタナとタナンタは答えない。
ただ、同じ角度で俯く首の傾きが答えだった。
「貴方たちの愛が立派に育つまで、リロルには眠って待っていてもらわない?」
「……ねむって?」
「まっていてもらう……?」
キラキラのガラス球のように光を集める大きな瞳よっつに、ミスタズが映り込む。深い森の中のような髪をしたミスタズが、新緑の瞳を細めて瞳に映る自身を見つめた。
「大人になって、熟した愛を改めて与えてあげるといいよ」
「……こわさないでいいの?」
「かならず、めをさますの?」
「カンタナとタナンタが愛を立派に大切に育てるのなら、リロルはまた目覚めるよ。そして、きっと素敵な人形になるさ」
テウフェルがフンフンと鼻を鳴らしながらミスタズの横に伏せた。口にはまだリロルがいて、リロルは縫い目の残った手足をバタバタと壊れたからくり人形のように動かし続けている。
「それでも、カンタナとタナンタが嫌だというなら、オレは何もせずに帰るよ。私が出来るのは、それが限界だからね」
ミスタズがテウフェルの口からリロルを救出した。リロルは疲れることもなく暴れている。しっかりと両手で抑えながら、カンタナとタナンタの方へ差し出した。
しかし、ふたつの幼い人形は顔を見合わせるだけで、リロルには手を伸ばさない。
「……おやすみなさい、リロル」
「リロル、おやすみ」
ふたつの幼くとも愛のこもった声に、リロルが首を傾げる。硬く変わることのない笑顔が、少し寂しそうに傾いた気がした。
「さあ、お前に新しくロレを与えるよ」
カンタナとタナンタを小屋の外にだし、ミスタズはすっかり大人しくなったリロルの、毛糸のようにざらついたふわふわの髪をなでつけた。
「ゆっくり眠り、ゆっくりと育つこと。カンタナとタナンタの愛が十分に熟した時、――その時、彼らが君を忘れていなければ、目を覚ますこと。そして、足りない愛を注いでもらうこと」
そして、ミスタズはリロルの額に口付ける。
「さあ、眠って」
リロルがぬるま湯に溶けるような息を吐き、くたりと力を失う。
手足には縫い目、木を削って出来た顔に、毛糸が張り付いた頭部――先程より一回りは小さい、本来の姿に戻ったリロルがあった。
ミスタズは細く長いため息を付き、ポシェットから煙草を一本取り出す。火をつけず、それを口に咥えた。
「……よし。テウフェル、行くよ」
低い天井の中、腰を曲げたミスタズが動きだす。テウフェルはワフとひとつ鳴き、扉をぐいと鼻先で押した。
「……わたしたちのパパとママが、あたらしいこどもをつくったの」
「ぼくたちを、まえみたいに、あいしてくれないから」
カンタナとタナンタは息もせず眠っているリロルをしっかりと抱きしめてから、ミスタズを見上げた。
「……それなら、わたしたちのこどもをつくって、あいしてあげようとおもったの」
「だけど、リロルはぼくたちみたいに、あいがたりなかったんだね」
ミスタズが何も言わずにいると、カンタナとタナンタはお揃いの動作でひらひらと手を振った。幼く柔らかそうな指が揺れるのを見て、ミスタズは同じ動作を返す。
テウフェルが別れを告げるようにワフ、と鳴いた。
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