ーⅡー Double Prism



 見つめあうと、素直に、おしゃべりできない……。

 ほんの少し前に流行った曲がかかった喫茶店で、私はため息をついた。

 外は相変わらず、雨が降っている。

 私のせいだ。

 私のせいで、縦波市はこの数日もの間、雨に包まれている。

 私はあのやけに優美で毒々しいほほえみを持つ女に、呪われてしまったのだ。今でも、うふふと耳元で忍び笑いをされているような不快な笑い声が聞こえる。

 このままでは、縦波市は異常気象で都市機能が失われてしまうかもしれない。けれども、私にこの呪いを解くすべはなかった。


 思い出は、いつの日も、雨。

 私の思い出も、全て雨雲の灰色に塗り替えられてしまうのだろうか。

 雨だ。

 かれこれもう二週間、雨が降り続いている。

 梅雨時というには、ほんの少しだけ早い、五月の下旬の朝。

 僕は食パンの最後の一枚を焼きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 卵もベーコンも昨日の朝に使い果たしてしまった。バターすらない。

 今日も不思議な夢を見た。よく覚えていないが、どうやらこのところの雨続きに対して、自分が原因なのではないだろうかと考える女の子の夢だ。

 しかし、確率論などという野暮な理屈はともかくとして、梅雨の入りが若干早まったくらいだと考えれば、別段不思議というほどではない。それで自分のせいだと言うのなら、普段からよっぽどの雨女であるか、かなりひどいレベルでの自意識過剰であるかのどちらかだろう。

 いずれにしても、彼女とはあまり関わりたくないなと思うわけである。

 焼いた食パンを、無造作に口に放り込む。正直なところ、あまり時間は残されていない。一限はなぜだか日に日に早くなっていく。もちろん、同じ時間に始まるはずなのだが、自分の生活リズムとの差なのだろう、次第に朝早く起きるのが厳しく感じられるのだ。今度は絶対に一限をとらないことを決心しながら、手早く朝食を片付けて家を出た。


 長く緩やかな坂に、色とりどりの傘の花が咲き乱れる。明らかに女子のものだろうというようなパステルカラーから、僕のような地味な大学生が使っているだろう、グレーや茶色といった色まで、バリエーションは様々だが、ひとつだけいえることは、これだけの人間が縦波大学の一限を受けにいくということだ。もちろん、僕もその中のひとりである。

「あっ、真中さん、おはようございます」

 と、後ろから若くて溌剌とした声がした。

 振り向くとそこに見知った顔がある。

 高校時代からの後輩、佐貫悠太郎さぬきゆうたろうが、灰色の傘を差して立っていた。しばらく会っていないうちにすっかり髪の毛を短くして茶色に染めてはいたが、相も変わらずにこやかな笑顔を浮かべている。すっかり大学生になったなと、孫を見ながら煙草をふかす縁側に座ったおじいさんのような感想を抱きながら、僕は彼を見上げた。

「いやあ、あいにく、雨ですね」

「ああ、もう梅雨入りも間近、って感じだな」

 佐貫の黒縁眼鏡にもわずかに水滴がついてしまっている。家を出たときよりも雨足が強まっているのだ。

「お前、一限って何の授業なんだ?」

「ドイツ語です」

「語学この時間にいれたのか」

 佐貫にしてはすこしリスキーな判断じゃなかろうかと思ったが、そのときは別段気にとめなかった。

「真中さんは、何の授業なんですか?」

「初級マクロ経済学。去年のサイリ」

「なるほど……」

 佐貫は眼鏡の奥の目を見開いて、心底驚いたような顔をしていた。

「なんだよ」

「いや、真中さんでも落とす科目があるんだなと思いまして」

「まあ、そりゃ勉強してなかったしなあ。仕方ない」

 あの頃が一番勉強していなかったし、それどころではなかった、というのもあるだろう。僕にとって三年前期は、そういった二年で取りこぼした単位を再び修得することに専念する期間といっても過言ではなかった。

「最近調子どうですか?」

 坂を上りながら、佐貫は僕を追い越しつつ訊いた。

「うーん、なんだか疲れることばっかりだな」

 ここではないどこかに閉じこめられた咲子。

 僕らが立ち向かうことなく去っていった吸血鬼侍のビリー。

 こんな異常な怪異を抱えていなくたって、僕は忙しい。御厨智子の事務所勤めはもちろんのこと、三年前期は履修上限ギリギリにコマを組んでいるので、予習復習も大変になるからだ。

「そうですか。僕は毎日がとても楽しいですね」

「ああ、なんとなくそんな気はした」

「そうですか」

「ああ」

 佐貫のにこにこした笑顔を見ると、こいつには悩み事のなの字もなさそうだなと思う。毎日がきっと充実していて、なおかつ楽しいことばかりなのだろう。頼むからもう少し勉強してくれと言いたいところではあるのだが。

 坂を上りきって、大学の正門をくぐると、列になっていた大学生たちはぼろぼろとばらけ始めた。授業がある講義棟が学部によって違う場所にあるからだろう。

「では、僕もこれで」

 佐貫も、正門を入ってすぐにある分かれ道で僕と違う方向に歩こうとした。

「あれ、教育学部の講義棟って、こっちじゃなかったか?」

 僕は経済学部と教育学部がある、自分が向かう方を指差した。

「いえ、僕のドイツ語の先生、なぜか工学部の講義棟でやるんですよね……では、すみませんちょっと、急ぎますので」

 そういうなり佐貫は走っていった。

 工学部の講義棟でやるドイツ語。しかも一限。

「どう考えても地雷だろ……」

 語学などの教養系の必修の授業の中に存在する単位の取りにくい授業――いわゆる「地雷」――の空気を感じた。佐貫のことだ、地雷を踏むことは十分にありえる。

 まあ、単位が危なくなったところで、誰かに助けてもらえばいいのだろうけれど。

 そう思いながら、経済学部の講義棟を目指した。


 初級マクロ経済学の授業は非常に眠く、開始数分で机に倒れてしまった。もっとも、寝ていても追いつけるような内容なのだけれど。

 相変わらず雨は降り続いている。僕は傘をさして、図書館へ向かう。そこでいくつか教科書と参考図書を借りて、併設されているカフェで早めの昼食をとることにした。

 カフェは明るく開放的で、外が雨だからだろう、いつもよりは活気がある様子だった。昼休みにかけて次第に混むのだが、この時間帯は悠々と勉強ができる程度には空いているので、二限が空き時間の時はよく使う。

 カフェオレとホットドッグのセットを頼んで、席を探していると、黒縁眼鏡をかけた女子大生と目が合った。雨の湿気でボブカットがほんの少し乱れている。

「真中さん、おはようございます」

 雨宮桃子あめみやももこは素っ気ない顔をしながら軽く礼をした。

「よう、勉強か?」

「はい。真中さんもですか」

「ああ」

 彼女の隣の席が空いていたので、座らせてもらった。

「いやあ、雨ばっかりでやんなっちまうな」

 僕がそんな話をすると、彼女はむっつりと黙って俯いた。

 ありゃ、なんかとんでもないことでも言ってしまったかな。

「……ごめんなさい、私のせいなんです、それ」

 雨宮の暗い声が、僕を貫いた。

 ふと、朝見た夢を思い出す。

「え?」

「私、呪われているんです……」

 彼女の声が震えている。

「この雨、君のせいだっていうのか?」

「はい。私の周りで、雨が」

「そういえば……」

 雨宮と初めて会った時も雨が降っていたし、彼女が去った瞬間、雨が止んだ。

「初めて会ったあの夜、覚えていますか?」

 その言葉だけなら口説き文句にすらなりえるような素敵な台詞を彼女はこともなげに口にした。

「ああ、突然雨が降ってきた」

「あの少し前に、私、不思議な人に出会ったんです」

「なるほど」

 まさか。

 これはいやな予感どころではなかった。それよりももっと確定的なものも感じた。

「その人に、願いを叶えるからって言われました……でもそれは、嘘だったんです。結果私はわけのわからない力で呪われました。このままでは、大学が、縦波が水没してしまいます!」

「いやちょっと待て! 縦波は君が思っているよりずっと海抜があるからきっと大丈夫だ!」

 事実、この縦波大学は、海抜で見たら関東の大学の中でむしろ高い方に入るだろう。少なくとも、帝都大学よりはあるはずだ。

 って、そういうことじゃない。

「というか真中さん、今思い出しましたけど、あなた、たしか探偵っていう設定でしたよね?」

「設定ってなんだよ」

「設定は設定でしょう。どうですか、私の呪い、解いたりとかできますか?」

 こう正面から馬鹿にしたような口をきかれると、いくら僕でもイライラしてくる。

「お前、それで僕が本当に解いちまったらどうするつもりだよ。金でも払ってくれるのか?」

「いや、解いてくださるならそれ相応の対価は払いますよ! 私だって困ってるんです馬鹿にしないでください」

 どっちが馬鹿にしてきたんだよと思いながら。

 しかし、本当に雨宮が六本木舞(と決まったわけではないが、多分そうだろう)に雨を降らせる呪いをかけられていたのだとするならば、御厨とも相談したほうがいいに違いない。

「じゃあ、ミヤコ、今日の放課後、空いてるか?」

「いえ、今日はちょっと。明日なら」

「じゃあ明日だな。四限後に正門のところで待ってるよ。僕の上司なら、なんとかできるかもしれないんだ」

「本当ですか? というか、本当に探偵だったんですか? 失礼しました」

 雨宮の瞳にわずかに光が宿ったように思えた。

「いや、君はいつも失礼だからそこはいいんだけど、別に探偵というわけではないんだ。そうだな、探偵事務所でバイトしている、くらいに思っておいてくれ」

「はあ」

 どこか釈然としない様子の雨宮。

「あと、君に呪いをかけた人って、妙に若作りをしている年齢不詳な感じで、たまに下品なことを言ってくるけど基本はお嬢様口調、って感じだったりする?」

 あくまで確認のため彼女に訊いた。

 しかし、そう言った途端雨宮の目がこちらをまっすぐ見つめ、かっと開いた。

「はい……そんな感じでしたけど……お知り合いなんですか?」

「うーん、知り合いっつーかなんつーか、その、あれだよ、ほら、えーと、探偵小説のオーソドックスなやつ、なんて言ったかな……」

 とっさに名前が思いつかない。

「シャーロック?」

「そうそれ! モリアティ教授がその人で、シャーロックの方が僕の上司みたいな、そんな関係」

「なるほど、さしずめ真中さんはワトソン博士といったところですか」

「まあそうかも」

 どうやら納得してくれたらしい。

「どう見てもワトソン博士ほど有能に見えませんがね」

「まあそりゃそうだろうな!」

 だからそういうところを黙っておけばいいのに!

 と思いながら、僕はすっかり冷めてしまったホットドッグ(すでにホットではなくなっている)をかじった。


 気がつくといつの間にか雨宮は授業に向かっていて、僕は勉強もそっちのけに音楽を聞きながら指を動かしていた。

 と、そこに現れたのが。

「真中さんこんにちは」

「よう」

 吉岡・東雲カップルだった。

 うわあ。

 イヤホンを取るかどうか数瞬迷って、仕方なくイヤホンをはずして軽く挨拶した。

「文化系らしくカフェでいちゃいちゃか」

「まあ、そんなところだ」

 くそっ、ドヤ顔しやがって。

「真中さんこそ、この前のカノジョさんはどうしたんですか?」

「この前?」

「ええ、食堂で一緒だった」

 ああ。

 眞鍋のことか。

「ああ……あれは別にカノジョとかいうわけじゃないんですけど」

「あ、そうなんですか、失礼しました」

 東雲は朗らかに笑った。

 なんか、イラっとするな。なんでだろ。特に何かをされたわけでもないのに。

「そんなことより、梅雨入りもしていないのに、最近ここいらは雨ばっかりだな」

 吉岡は心配するようにそう言った。

「お前の地元は降ってないのか?」

「ああ、縦波だけだぜ、雨が続いてるの」

「えっ、そうなんだ?」

「天気予報もあんまり当たらなくなってるみたいだし、巷では軽くニュースになっているぞ」

「そうだったのか」

 東雲も驚いていた。雨が続いているといろいろ億劫になって、情報を仕入れる意欲が薄れるのはどうも僕だけではなかったらしい。

「テレビ見てないのか……」

「悪いが僕の家にテレビはない」

「中間試験近かったからね……」

 僕と東雲は別々の言い訳をする。

「なるほど……しかし、このままだと梅雨入りしたら大変だよな。多分、地盤がゆるんで土砂崩れが起きるんじゃないか?」

「ああ、なりかねない」

 雨宮の言うように、彼女が原因で雨が降り続いているのだとすれば、当然そういったことも起きるだろう。ここは少しでも早く怪異を解決しなくては。

 それは雨宮のためでもあるし、もちろん咲子のためでもある。

「なあ、真中、お前、何か知らないか?」

 ふと吉岡を見ると、四角い真顔がこちらを見つめていた。

 なるほど、吉岡がわざわざ来たのはこういう訳だったのか。

「知らない。どっかに雨降らしでも棲みついているんなら、教えて欲しいくらいだ」

「なるほどな」

 吉岡は長い顎に手をやった。

 だいたい僕にも守秘義務というか、聞いた情報をおいそれと出せるような立場にないし、そういう義理もない。

「真理菜の怪異も解決したくらいだから、期待したんだが……よくよく考えたら何か知っていたとして、俺に言えるような話でもないよな」

 その通り。

「じゃあ、真中さんはこの雨に関して何か、つかんでるってことですか?」

 東雲が僕をまじまじと見た。うわあ、この子、猫みたいな目が結構かわいいなあ。ショートカットによく似合う人なつっこい目だ。

「いや、だから何も知らないんだ」

 だからと言って雨宮の件を話すわけにもいかないので、僕はそう答えるしかない。

「そうですか……」

「なんか、悪かったな」

 吉岡はばつが悪そうに謝った。

「いや、僕こそ力になれなくて済まない」

 今回は吉岡の話ではないから、仕方がない。

 そのまま彼は、東雲を連れて帰っていった。

 僕は時計を見て、勉強道具を片づけて、講義棟へ向かった。


「ラジオネーム・踊るへんてこりんさんからの投稿です……」

 地下鉄で昨日録音したラジオを聞きながら、ぼんやりと傘を見つめた。乗っている車両は「ヒルズ南」駅を出発したところで、次の「ヒルズ中央」駅が事務所の最寄り駅だ。茶色の傘の先に、小さな水たまりができている。駅に降りた時に水を切ったはずなのに、まだ水を含んでいるところを見ると、安物の傘なのだと思う。

 これほど雨が続いていると、札切は事務所に来ないだろうなと考えた。妙な怪物との戦いになった場合、少し厳しいかもしれない。ちょっと前に吸血鬼侍と小競り合いをした時も、彼女がいなければ大変なことになっていた。札切は火を扱う霊能力者であるので、濡れることを嫌う。まあもっとも、雨宮が本当に雨に見舞われる怪異に遭っていたとしたら、札切の持つ能力は半減もしくはそれ以下になってしまうのだけれども。

 イヤホンの奥でパーソナリティのアニメ声優が投稿されたネタを読み上げている間に、車両がごとんとブレーキをかけ終わり、「ヒルズ中央」駅に到着した。僕は車両を出て、改札を抜けて階段を上る。プレーヤーが雨に濡れると困るので、ここでイヤホンをはずして鞄の奥深くにしまった。

 雨は相変わらず降り続いている。確かにここのところ、雨以外の天気を見たことがない。ずっと土砂降りだとか、そういう異常な雨ではないのだが、とにかく平凡な雨がひたすら続いている。防水靴を履いていてよかったと、今更ながら思った。

 ゆっくりと坂を上っていく。縦波市の北方の丘陵地帯に作られた縦波ヒルズは、昭和時代に住民の増加によって開墾され造成されたいわゆるニュータウンとは少々生まれかたが異なっている。帝波ていは電鉄がここ一帯をすべて買い取り、高級宅地として開発して街を一から作り上げたのだ。そのため、住宅街といっても、ニュータウンのような団地が並ぶせせこましいところではなく、大同小異の意匠をこらした一軒家が立ち並ぶ、いわゆる「小金持ち」が住むところとなっている。

 帝波鉄道本線よりも後に縦波市営地下鉄がヒルズ地域に鉄道を敷いたため、地下鉄の駅は住民の声をもとにして交通の便があまりよくなかった地域にあることが多く、このヒルズ中央駅も、中央という名前がついていながら中心部からはわずかに距離がある。

 そのため、駅前の大通りといえども並んでいるのは一軒家か小さなビル程度で、あまり歩いていて楽しいというものはない。しかもこの平凡な雨の中では、テンションも上がらない。僕は無心で歩き出そうと、雨の中に足を踏み入れた。

 どこか妙な気分がしてふと顔を上げると、突然の白と紅のコントラストに思わず目を見開いて二度見した。

 前からえんじ色の和傘をさした巫女がやってくる。長い黒髪には雨の中でもしっかりとした張りと艶があり、確固たる意志の強さを示していた。彼女の顔は一言で表現するならたおやかな牡丹の花のようで、華美でありながら日本人らしい奥ゆかしさを秘めた、泰然とした輝きを持っている。袴が濡れていないこともかなり不思議だが、それ以上に彼女が異質なのは、腰に日本刀を差していることだった。

 平凡な雨の中に入り込んだ超常。

 それがただのコスプレではないこと、そして今更ながらこの雨がただの梅雨のはしりではないことを直感した。

 それほどまでに、この巫女から漂う聖なるオーラは強烈だった。最も調子がいい時の札切の全力に相当するか、あるいはそれ以上の能力を持っているはずだ。

 と、彼女と目が合った。

 思わず僕は立ち止まる。

 彼女は清らかな微笑みを浮かべながら、僕に近づいて、

「もしかして、真中浮人まなかふひとさんかしら?」

 と、僕の名を呼んだ。

「な、なぜぼぐっ!」

 遭ったことのないこちら側の人間、かつ美人の女性、さらに相手はこちらを知っているという三つの条件がそろってしまったせいか、盛大にかんでしまった。

「あの、大丈夫ですか?」

 頼むからそんなに無垢な瞳で見つめないでください。

 とはもちろん言えず。

「あの、どうして僕のことを……」

 と、言い直した。

 すると、巫女の表情がぱっと明るくなった。花が咲いたかのように。

「やっぱりあなたでしたか」

「はあ、いかにも、真中浮人は僕ですが……」

「私、宮町蘭みやまちらんと申します」

 巫女はそう名乗って、深く礼をした。

「札切さんと縁がありまして、先ほどまで御厨さんとお話をしておりました」

 札切の繋がりか。それなら、怪異に関する何かしらの能力を持っていても不思議ではない。

 少なくとも、現実からは一歩離れている類の人間ということだ。札切や御厨、そして六本木舞と同じように。

「は、はあ、それは、お疲れさまです」

 そんなことを言われても、どういうことなのかさっぱりわからない。だったら彼女は御厨智子に用があるはずで、僕にいちいち話しかけることはしないはずだ。

「この雨……山都やまと大明神の使いである雨降らしが原因だと思うのです。そこで、その封印を助手である真中さんに手伝っていただきたいと思いまして」

 山都大明神。

 縦波ヒルズ北部の崖にある大きな神社だ。ヒルズが造成される前は秘境として有名であったが、ヒルズができてからは交通路が整備され、この地域の人々にとっては親しみのあるパワースポットとして、そこそこ有名だ。

 というか、ちょっと待て。

「いや、あの、札切から何を聞いたか知りませんけど、僕はそんな、神の使いとかそういうのと戦えるほどの能力はありませんよ」

「ええ、御厨さんもそうおっしゃっていました。だからこそ、あなたの力が必要なのです」

 そう言って彼女は微笑みを崩さない。

「どういうことですか?」

 僕が訊くと、宮町は遠くの崖、山都大明神の方を見ながら、

「真中さんは、山都大明神のお話は、聞いたことありますか?」

 と訊きかえした。

「ええ、まあ一応は」

 かいつまんで解説すると、山都大明神は、人間のせいで荒れ山になってしまった山都の山を嘆いて、雨降らしを呼んで緑あふれる山に戻したという逸話がある。それで山都山は凹凸の激しい地形ながら緑にあふれている、という説明なのだ。

「では、使いの雨降らしを殺してはならないことは解りますよね?」

「ええ。ってまさか、宮町さん? あなた雨降らしを殺せるんですか?」

 そう、ここまでからわかるように、山都の雨降らしは単なる怪異のレベルではない。誤解をおそれずに言えば、ひとつの神と同等の階層にある超自然的な存在だ。

「ええ。この雨、間違いなく雨降らしの暴走が原因ですので、なんとかして抑えないとなりませんが、私ひとりですと、恐らく間違って殺してしまいかねないのです」

「いや、殺してしまいかねないってあんた……」

 そりゃいくらなんでも無理だ。

 と、言おうとしたとき、彼女から不意に殺伐とした雰囲気が漂う。

「私は、鷲乃宮わしのみやの大地の巫女です」

「えっ!」


 彼女の瞳が紫色に光った。


 眩暈がした。

 景色が小刻みに震えている。

 

 いや。

 違う。

 これは。


 僕の足下だけが震えているのだ。


「うわっ!」

 あまりの気味の悪さに僕は飛び上がりかけたが、足の自由がなぜか奪われていて動くことができない。

 何も出来ないまま、揺れは止まった。彼女の瞳は元の黒色に戻っている。

 お互いの傘は微動だにしていない。


 訂正しよう。

 彼女、宮町蘭は札切零七とは別格の能力者である。


「これで信じていただけましたか?」

「はあ」

「では、私の依頼、受けてくださいますか?」

 ふと宮町を見ると、元の慈愛に満ちた微笑みに戻っていた。

「ちょっと待ってください……」

 落ち着け。整理しよう。

 どうやら縦波に降りかかっている雨というのは、超自然的な現象であることは間違いないようだ。そして、その発端が六本木舞だというのも、恐らく間違っていないだろう。さて、雨宮の「呪い」と、この宮町の言わんとする「雨降らし」の暴走、そのどちらがこの怪異を引き起こしているのだろうか。

「まず、宮町さん、あんた、僕の能力を買いかぶり過ぎだと思いますよ。僕は、あなたが関与するレベルの怪異の前には無力です」

「わかっています」

「いえ、あなたが思っている以上に……」

「それでもいいのです。むしろ、能力がない、きわめて常人に近い人間であるからこそ、真中さんにお願いしているのです」

「はあ?」

 耳を疑った。彼女は僕を助力として、雨降らしに立ち向かいたいのではなかったのだろうか。

「雨降らしはあなたがおっしゃるように、単なる怪異ではありません。つまり、あなたが直面する怪異の中では力が一段階違うものになる。だからこそ、私はあなたを守る必要があるのです」

 なるほど。

「それに、これは私というより、札切さんと御厨さんからの依頼なんです」

「えっ」

 何で彼女らがこの雨を危機と感じたのか。

 この雨で被害をこうむるのは、せいぜい雨宮くらいだろうと思うのに。

「札切さんがこの雨に業を煮やして私を呼んだのですが、どうやらその、雨降らしが暴走した経緯に少し複雑な動きがあるようで、御厨さんのところに行ったら真中さんを連れて行くように、と」

「はあ」

 こういうときには電話でもしてくれればいいものを。

 しかし、事務所には携帯電話や電話はおろか、電話線すら引かれていない。

「……でも、今日、これからすぐというわけではないですよね?」

「え、あ、はい、そうですね」

 大地の巫女は視線を踊らせた。

 どうやら宮町は今日行きたかったようだ。残念ながらそうはいかない。

「明日、その、多分この雨に関係のある、僕の後輩を智子さんのところに連れて行きます。できれば、その後でお願いしたいのですが……」

「そういうことでしたか。……でしたら、私も明日改めてお伺いします。その方がいらっしゃるのはいつ頃でしょうか?」

「えーと……」

 僕は少し考えた。雨宮を放課後大学から連れ出して、事務所まで連れていく。おおよそ一時間程度。というか、今くらいの時間だ。

「ちょうど、今くらいの時間ですね」

「そうですか。わかりました。……では、また明日」

 宮町蘭は、出会ったときと同じように深々と頭を下げると、美しい姿勢で歩きながら地下鉄の駅に消えていった。

 彼女が大地の巫女なのは、本当だろう。その大地の巫女がどれくらいの力があるのかは、残念ながら知らない。けれど、相当な力を持っているということなら、わかる。

 宮町と札切の接点はどこなのだろうかと考えながら、僕は大通りを上って事務所へ向かった。


「十分二十三秒。これが、貴方が今日、遅れた時間よ。お給料から引くわ」

「そんな殺生な」

 事務所にたどり着いたとたん、御厨智子はにんまりとこう告げた。ひどすぎる。

「僕は宮町さんとお話していただけですよ?」

「貴方が蘭ちゃんの能力に気づいてこの雨の怪異ことをちゃんと理解わかっていればせいぜい二分で話が終わるわ」

 彼女はきっと、会話という言葉の意味をきちんと理解していないのだろう。

「僕にそこまでの能力はありませんよ!」

 気がつけば、僕は部屋の隅にある空っぽのゴミ箱を思いっきり蹴っていた。

 こん、こん。

 ゴミ箱は乾いた音を立てて壁に当たり、跳ね返ってしばらく床を跳ね転がったあと、止まった。

 イライラが頂点に達すると、僕の身体は自然とこのゴミ箱を蹴ってしまうのだ。

「しょうがないわね。じゃあ、明日説明してあげるから、今日はこの、資料の記録だけやって貰えるかしら?」

 御厨は冷たく微笑んだ。

 僕の気持ちが急激に収束していく。

「わかりました」

「流石に、何故私が明日の事象ことを言うのかとは訊かなくなったわね」

「そりゃ僕だって学習しますよ」

 僕はかつての事件簿を整理しながらそう言った。

 御厨はいつもよりも若干スポーティな服装をしている。特に今日は、一般人とさほど見分けがつかないような、長袖のシャツに細いジーパンという非常に珍しいスタイルだ。

 しかし、こうして見ると、御厨は細い。僕よりも十センチほど背が高いのに、おそらく体重は僕と同じくらいしかないんじゃなかろうか。

「宮町さんがあまりにもプライドが高くてね、しょうがないからこっちが折れる方針ことにしたのよ」

「はあ、そうですか」

 確かに、あれだけの能力があれば、そりゃ巫女服にプライドを持ちたくもなるだろう。いろいろお姉さんという感じだし、さしずめ宮町家の長女として家では案外家庭的なのかもしれないが。

「宮町家は四姉妹よ」

「そんなにいるんですか!」

「ええ。昔は可愛かったけれど……全員立派な退魔師になってしまったわ……」

「なるほど。昔からのお知り合いですか」

「まあね。彼女たちの両親と仕事をしたことがあったから、そういう縁で。でもここに来たのは三女の瑠璃るりちゃんが零七ちゃんと友達だったからという偶然ことらしいけれど」

 なるほど。

「頼むから、縦波の街を壊さないようにして頂戴。私、この街の景色こと、結構気に入っているのだから」

「はあ」

 とはいっても、物理的に僕がどうにかすることは恐らくできない。すべては宮町蘭の匙加減で決まる。もちろん、それを調節する役目に僕が選ばれたわけだけれど。

 僕はそう考えながら、手際よく書類を整理した。


 相変わらず、平凡な雨が降り続いている。

 家に何もなかったので、僕は大学のカフェで朝食をとることにした。さすがに、何も食べないで坂を上り、正門をくぐって図書館に向かうのはしんどい。疲れきった身体をふるわせてカフェにたどり着き、砂糖がたっぷり入ったウィンナーコーヒーとクロックムッシュを頼んで、席に座る。

 たっぷりのクリームと極限まで甘くしたコーヒーが、僕の喉を湿らせていく。体内に油と糖分がしみわたる。どんなエナジードリンクよりも、このウィンナーコーヒーの砂糖たっぷりの方が、より身体に効くような気がする。少なくとも、脳にはより素早く効くと思う。

 少しずつ脳に栄養を回しながら、今日の予定と雨の怪異について整理しようとするが、なぜだろう、ほんの少しずつ意識が遠くなってきている気がする……。



 ここは、どこだ。

 見わたす限りの闇で、自分の身体すら見えない。

「真中くん?」

 女性の、声がした。

 思考回路が一瞬で活性化する。

 この声は。

「咲、ちゃん?」

「真中くん、聞こえてるんだ」

「咲ちゃんだよね?」

「そうだよ」

 志島咲子しじまさきこの声は、そう答えた。人なつっこいようなほのかな甘さを持ちながら、きりりとした涼しさをもあわせ持つ声。

 それは、一度聴いたら忘れるはずがないものだ。

「寂しかったなあ」

 しかし、聞こえるのは声だけ。姿も、影も形も見えることはない。

 すると、おそらくそれを見抜いたのだろう、咲子が、

「あ、もしかして、私の姿見えてない?」

 と訊いてきた。

「ああ、姿は全く見えない。闇のままだ」

「だって、今真中くんのすぐ近くにいるけど、全然反応してくれないもの」

 声が暗くなってほんの少し悲しい。

「ごめんね」

「謝ることはないよ、元は私のせいなんだから」

 それでも、どこか寂しげな声が聞こえた。

「でも、触れないのは、いやだなあ……」

 見えないだけでなく、触ることもできない。

 吸血鬼侍に関する怪異は、とりあえず咲子の空間には繋がる、という程度のものだったらしい。結構大きなものだと思ったのだが、おそらくそれでもこの程度だし、ここから一気に咲子の姿を取り戻すためには、それこそ神殺しでも行わなければならないのだろう。

「だからさ」

「なに」

「せめて、真中くんの怪異を、解決させるお手伝いがしたいなと思って」

「ありがとう」

 咲子の力はかなり強い。六本木舞が目を付けただけのことはあり、六本木による強制的な能力の目覚めによるものとしては類がないほどに強い。このような雨の中だったら、札切よりも怪異に対して強い力を持つだろう。

 雨。

 そうだ、雨だ。

「雨がずっと降り続いている怪異だけど、真中くんはどう思う?」

「うーん」

 正直、原因がどちらかだったとしても、六本木舞が発端となっていることは間違いがない。

「ミヤコさんって、舞さんに願いを叶えてもらったんだよね?」

 咲子はおしとやかな声で訊いた。

「ああ、本人はそう思っていないけれど、そうなる」

 六本木舞は人々の願いを叶える魔女なのである。

「だったらそれは、怪異として十分成り立っているよね。実際、ミヤコさんの周りには常に雨が降り続けているんだから」

 ほんの少し前、吉岡や札切と、吸血鬼侍の怪異の当事者、東雲真理菜の家に行った時のことを思い出す。あの時は、東雲のことで頭がいっぱいだったから気がつかなかったが、確かに、雨宮がいる時だけ雨が降っていた。

 そう、逆に考えれば当時の縦波ヒルズは、雨が降り続いてはいなかった。

「つまり、雨降らしとミヤコの怪異は、別々ってことか……」

「そうでしょう? だって、いくら舞さんが願いを叶える魔女だったとして、さすがに地元の神様の力までは借りないと思う」

 咲子は淡々と言った。

 なるほど。

 その時。

 急にめまいがして、天地がひっくり返るかという錯覚にとらわれた。

 なんだ、これ。

「真中くん? 大丈夫?」

「ああ、すぐに戻る」

 とはいったものの、僕は咲子が遠くなっていくのを、肌で感じた。



「真中さん! 起きてください」

 僕は目を覚ました。

 いつのまにか、カフェで眠っていたようだ。

 目の前には、赤い縁の眼鏡をかけた女子大生が、僕の顔をのぞき込んでいる。きっと家では綺麗にセットしたのであろうショートボブが、ふわふわとポップに乱れている。

「なんだミヤコか」

「いやあ、いくら私がモブっぽい顔してるからってなんだはないでしょう。真中さんのほうがよっぽどモブっぽいですし」

 出会い頭から失礼な言葉をぶちあててくるのにもようやく慣れてきた。

「今日の放課後ですよね、その、探偵さんのところに連れていっていただけるのは」

「ああ」

「あと、この事、誰にも話していませんよね?」

「ああ、必要のない人には誰も」

「よかった……」

 雨宮は安堵のため息をついた。

「なんだか、私が雨を降らせていると思われるのが、嫌で」

「なるほど」

 隣失礼しますねと言って雨宮は隣に座った。

「実は私、小さい頃からいわゆる雨女なんです。遠足、運動会、文化祭……学校の行事で祭りの要素があるものはもちろん、家族旅行や習い事のコンテストに至るまで、ほとんどが当日は雨でして……」

「へえ。思い出は、いつの日も雨、か……」

 僕の脳裏に数年前に流行ったヒット曲が流れる。そういえば歌っていたのは縦波出身のアーティストだったような。

「はい、まさにそんな感じで。だから、今回も、私の周りに雨が降るっていう呪いがかかって、なんだか因果を感じてしまいました」

「ああ、そりゃそうだよな」

 僕としては、雨男や雨女というのは、確率と個人の印象が生み出した誤解に過ぎないと考えてはいるけれど、実際雨男や雨女で悩んでいる人は、結構深刻にこのことを考えていたりする。あるアイドルだったか、自分のライブがことごとく雨に見舞われるのでついにスタッフが野外フェスへの参加を見送ったことに関してブログで怒っていたのがネットでの炎上に発展した、という事例もあるのだから、文化的に根深い問題だ。

 雨宮の願いも当然、雨女を払拭したいとか、そういったジンクスを打ち破るものになるだろう。

 しかし結果は逆だった。雨宮の周りでは、常に雨が降り注ぐようになってしまったのだ。

 六本木舞は一体、どのような解釈をもって、雨宮にそのような、呪いともいえる能力を授けたのだろうか。

「本当に、解決できるんですよね?」

「うーん、そりゃ君に解決する気持ちがあればね」

「もちろん私は解決したいと思っています」

「どうかな」

「えっ」

 雨宮はこちらを見た。少し、怒っている。

「本来怪異というのは、自分自身が背負うものなんだ。だから、君が背負ってしまった怪異そのものは、僕だけの力でははっきり言ってどうしようもない」

 雨宮は何か言おうと口を開きかけたがやめた。

「君が解決したいと思っていても、その意志がないようだったら、怪異は解決しないんだよ。東雲さんだって、最終的にはそこだった」

 ビリー自身によって、彼女は我に返ったのだ。もちろん、彼女にとってビリーを失うことはつらかったかもしれない。けれど、ビリーによってボロボロの身体となった後に、吉岡の説得で彼女は復活した。

「でも、私は、私のせいで雨が降るのは嫌です。もう嫌ですこりごりなんです」

 彼女の目の奥が少し潤んだ気がした。

「じゃあ、そういう気持ちで事務所に来てくれよ」

「はい」

 雨宮はそう言って席を立った。

「では、私これで授業なので。というか、真中さんは授業ないんですか? 今から四限ですけど……」

「え」

 四限?

 僕は時計を見る。

 十四時半だった。ああ、そこまで寝ていたのか……。寝すぎたな。

「ああ、もうめんどくさいし、ここで勉強したほうがいいから、休むことにするよ。集合は正門じゃなくてここってことでいいかな?」

 僕がそう言うと、雨宮はあきれたようにため息をついて、

「仕方ないですね、じゃあ授業が終わったらすぐ向かいますんで」

 と言って、カフェを出ていった。

 あとには冷たくなったクロックムッシュだけが残った。


 外は、朝から何の変哲も変遷もない雨が降っていた。


 ベーグルとコーヒーを頼み直し、僕は教科書を開いた。

 英字が並ぶ教科書に辟易しながら、また意識が遠くなり始めた。



「あら、帰ってきた」

「話が途中だったからね」

「あの子が、雨女のミヤコさんなのね」

 と、咲子はどこか嬉しそうに言った。

「ああ、でも、なんというか、六本木舞がどうしてそんな、あいつの周りに雨が降る呪いをかけたのかわからないんだよな。だってあいつの願いはその逆なんだから」

 僕は素直に疑問を口にした。

 はっきり言ってしまえば、僕がこうして素直に思考を言うことが出来る人間というのは少ない。咲子くらいなものかもしれない。

「うーん……」

 咲子はちょっと低い声で唸った。きっと腕を組んで首を傾げているにちがいない。彼女は考えている時にそういうポーズをとるのだ。

「もしかして、それこそ、思い出はいつの日も雨、なんじゃないのかな?」

 咲子はヒット曲の一部を口ずさみながらそう言った。

「どういうこと?」

「だって、ミヤコさんって、学校行事とか習い事とか、そういう思い出に残る日が全部雨だったって言うんでしょ?」

「ああ、でもそれは記憶の話で……」

「だから、そうじゃなくて」

 ぴしゃり、と戸を閉められたような錯覚。

 うーん、悪くない。

「ちょっと、逆にして考えてみよう? これってさ、もしかすると、雨が降った日にいつも思い出深い出来事、つまり、ミヤコさんにとって大事な出来事が起きている、ということにもならない?」

「いや、それは……」

 いくらなんでもそりゃないだろう。雨という気象事項はそんなに珍しくないのだし、雨が降ったからといってその日が大事な日になるなんて……。

 咲子は話を続ける。

「ないともいえないと思うんだけどなあ。ミヤコさんだって、そんなに失敗ばかり送ってきた人生ってわけでもなさそうだし、第一、本人が言うほど、周りから雨女だって思われていないんじゃない?」

 それは、そうかもしれない。

 筋金入りの雨女や雨男というのは、そもそも自分がそう指摘されることそのものを嫌う傾向にある。なぜかと言えば、それがいじめの対象になる可能性を含むような属性だからだ。つまり、身体が小さいとか太っているとか、容姿に変な特徴があるとかそういうたぐいと同じ、ということ。

 しかし雨宮は大事な学校行事の日に雨が降ることが多いとは言っていたが、それによって不利益を被ったとか、雨を降らせた謗りを受けたということは一言も言っていない。

「雨女アピールをする女、か……」

 しかし、だとしてもわからない。

 なぜ、雨宮は雨を降らせようとするのか。

「わからないかなあ。雨宮さんはきっと、日常から脱出したいんだよ。だから、雨女を装って、雨を降らせているんじゃないの?」

 咲子はそう言った。

「なるほど、何かの行事に雨が降るという因果を反転させて、雨が降れば何か日常とは違う出来事が起こる、と考えて、雨が降ればいいのに、という結論になったわけか……」

「もう、真中くん、考えが遅いよ」

「ごめんごめん、回転がよくないんだ」

 咲子は僕よりもずっと頭の回転が速い。それは昔からずっとそうで、彼女に学力で勝ったことはないどころか、口げんかでさえも勝ったことがない。

「じゃあ、わかった?」

「うん、ミヤコの怪異と、雨降らしの暴走は別々なんだな」

「そう。舞さんはたぶんミヤコさんにしか関わってないと思う」

「なるほど」

 そう言うが早いか、僕は再びめまいに襲われた。



「デジャヴでも起こさせたいんですか、あなたは」

 かなり遠慮なく激しく揺すられて、僕は目を覚ました。

 雨宮が完全なあきれ顔で僕を見ていた。

「悪い、なんか今日は眠たいんだ」

「大丈夫ですか?」

「ああ」

 僕は急いでテーブルの上のものを片づけると、雨宮とともに大学を出た。


「今日もいつもと変わらない雨だな」

 ヒルズ中央駅からゆるやかな上り坂を歩きながら、僕はぼんやりとそう言った。

「ですね。ここ二週間くらいは、全く同じような雨が、延々と続いています」

「そういえば、この辺には雨を降らす伝説の神様がいるとか、いないとか……そういう話、あったよな?」

 山都大明神の話を意図的に振ってみる。

「はい、山都大明神の逸話ですよね。小さい頃から学校で教わるんですよ、ここら辺の子供は」

「へえ。……あ、そうか。君もここの出身か」

「はい」

 なるほど。

 なんとなく、解決に向けて進むべき道が見えてきた気がする。

「実は、縦波のこの雨って、君が原因じゃなくて、その雨降らしが原因だって、上司が言っててさ」

「えっ、そうなんですか?」

 雨宮は驚いたのか、眼鏡の奥のつぶらな瞳をぱちり、としっかりまばたきさせた。

「ああ、なんか、結構強そうな巫女さんまで連れて来ちゃって。これからその巫女さんと上司と話すってわけだけど、大丈夫だよね?」

「それは、まあ、大丈夫かと思います」

 雨宮はおずおずと頷いた。

「よかった」

 そんな話をしているうちに、事務所が見えてきた。

「ここが、僕らの事務所」

 ぱっと見には何の変哲もない小さな目立たない白い家が、御厨智子の選んだ事務所だった。

「……思った以上に、ふつうなんですね」

「ああ、そうだろ? びっくりしちゃうよな」

 思わず思った通りのことを言ってしまった。

 門をくぐって、扉を開け、奥のリビングに入る。

 そこには、藤色の豪奢なワンピース(あるいは、戦闘服)を着た御厨智子が、まさに部屋の主、といった風に悠然と座っていた。その傍らには、昨日と全く同じ服装と雰囲気の宮町蘭が、別格の神聖な空気を纏って座っていた。

「貴女が、雨宮桃子さん、ね?」

 雨宮を御厨の向かいの椅子に座らせると、御厨が口を開いた。長い黒髪に見え隠れする彼女の微笑みが一体何を意図しているのか、僕は知りたくもない。

「はい、そうです。私の周りにだけ、雨が降る現象を振り払いたくて、真中さん伝いであなたのところまで参りました」

「成る程。思っていたよりも、賢いというか、普通というか、そんな感じね」

 またそうやってつまらないことを。

 とは、言えないが。

「ところで、雨宮さん、貴女の周りにだけというけれど、ここ一週間は縦波市全域でずっと雨が降り続いていること、ご存じかしら?」

「はい、知っています」

 それが何か、と言いたげな顔で雨宮は御厨を見た。

 言わないだけマシだが、そんな顔をされたら御厨じゃなくても言いたいことがわかってしまうぞ。

「貴女、何時いつから自分の周りで雨が降り続けている現象ことに気がついたのかしら?」

「はっきり気づいたのは、真中さんと初めて出会った頃なので……二週間ちょっと前、くらいでしょうか?」

 なるほど。御厨も僕と咲子が出した結論と同じことを考えているようだ。

「成る程。……それは、やはり雨降らしの仕業ね。舞じゃなかったわ、真中」

 御厨は僕の方を見てそう言った。

 違う、彼女の怪異そのものは間違いなく六本木舞のものだ。

 けれど、僕は御厨がなぜそう言ったのか、わかっていた。なぜなら、僕自身も、おそらく彼女と全く同じ手で怪異を解決したいと考えているからだ。

「やっぱりなあ。雨降らしの力によって、ミヤコの身体にある雨女の力が引き出されたんだ」

 僕は因果をねじ曲げた結果を雨宮に伝えた。御厨はそんな僕を見て微笑んだ。その意図は、わかりたくないけれど正確に理解してしまう。

「……ということは、やはり雨降らしを抑えることが先決ですね」

 不意に、これまでその場のオーラだけで存在感を主張していた宮町が、凛とした声でそう言って立ち上がった。

「えっ、まさか今から雨降らしを?」

「ええ、善は急げと言いますから。真中さん、よろしいですか?」

「いや、僕は構いませんが……」

 そう言って僕は雨宮を見る。彼女は少し引いた様子だった。まあ、そもそも、御厨と宮町という取り合わせでどん引きしないだけでも、なかなかなのだが。

「あの、これ私もいかなきゃ駄目ですか?」

 雨宮が次第に狼狽していく様を見て、なぜかは知らないが少し哀れな気分になった。

「そうね、貴女の雨の原因になっている存在ものだから、貴女が直接視ないと、怪異それは佳くならないと思うわ」

 実際、雨宮の今の状況を打開するには、僕と宮町が雨降らしと戦う様子を見せるよりも善手がない。

「わかりました、ついていきます」

「ごめんなミヤコ。君に危害は及ばないようにするから」

「大丈夫よ、私が二人とも守りますから」

「それは頼もしいです」

 雨宮は宮町のほうを見てそう言った。畜生。

「ところでお名前を伺っていませんでしたが……」

「私は宮町蘭、鷲乃宮の巫女です」

「えっ、鷲乃宮ですか!」

「知ってるのかよ!」

「知ってるも何も、関東最大の神社ですよ。真中さんこそ知らないんですか? 仮にも国立大学生なのに?」

「いや、ごめんこの前初めて聞いた」

 そいつは驚いた。道理で強い雰囲気を漂わせているわけだ。

「とにかく、山都大明神まで参りましょう」

 宮町は、神聖な雰囲気を保ったまま、刀を携えて、和傘を持って外へと向かった。

 僕らもそれの後に続いた。


 いくら交通路が整備されたとはいえ、もとが山の上にあるような代物なので、こんな雨の日には山都大明神へ向かうのも一苦労だった。僕と雨宮は、もとから防水靴に長靴だったので、多少の泥汚れに目をつぶれば難なく坂を上れた。宮町蘭は下駄だったのだが、やはり僕の予想通り階段や坂をものともせずに上っていった。

 家から大学までの坂よりも数段きつい上りを終えると、真っ赤に塗られた大きな鳥居が姿を表した。思っていたよりも、でかい。

「ようやくですね。皆さん、準備はよろしいですか?」

 宮町が微笑みながらそう訊いた。こちらとしては準備もなにもあったものではないが、これ以上準備のしようもないので黙っておく。

「なんとか大丈夫です。いざとなったら逃げます」

 雨宮が僕の代わりにそう答えた。

「それはいい心がけです。あなたたちは、危ないと思ったらすぐに逃げてください。では」

 と、宮町は腰の刀に手をかけ、鳥居をくぐり抜けた。

 僕らもそのあとに続く。


 鳥居をくぐって参道を抜けると、大きな広場に出た。

 そして、そこに。

 巨大な蛞蝓なめくじが一匹、ぬるぬると動き回っていた。

「こいつが、雨降らし……」

「なるほど、伝えられていた通り、雨降らしですね」

「ええ。これを本堂の横にある雨降らしの祠に戻すのです」

 蛞蝓がこちらを向くのと、宮町が刀を抜くのがほぼ同時だった。雨降らしは真っ先に刀を抜いた宮町……ではなく雨宮に向けて突進してきた。

 速っ!

 蛞蝓とはいってもさすがは神の使い。自転車くらいの猛スピードで迫ってきた。

「うわああああ」

 雨宮は完全に我を失っている。

 すると突然、彼女の前に土の壁がそそり立った。

 宮町を見ると、瞳の色が綺麗なアメジストパープルになっている。よくわからないが、彼女自身の能力を発動したのだろう。

 雨降らしは土の壁に吸い込まれるように激突した。びちゃ、といういやな水音がした。

「止まったのか?」

「いえ……壁を溶かしていますね」

 なんと、雨降らしは宮町が作り出した土の壁をゆっくりと食べている!

「ミヤコ、早く逃げろ! 鳥居まで走れ!」

 僕は雨宮に駆け寄りつつ叫んだ。

 壁の裏にいる雨宮は、震えていてとても動きそうな状態ではなかった。

 しかたなく、僕は手を引いて彼女を鳥居まで誘導する。

 雨降らしといえども神の使いなので、鳥居を抜けた、いわゆる人間の世界までは来ないはずだ。

 僕の後ろには、壁を突き破った雨降らしが猛スピードで追いかけてきていた。僕が逃げていったところどころで土の壁や槍が現れ、雨降らしを足止めしている。

 やはり宮町の能力は、札切とは段違いだ。けれども、この雨降らしを本当に殺してしまうほどの能力は、おそらくないような気がしてきた。

 なんとか雨宮を鳥居の先まで連れてきて、

「ここでじっとしてろ」

 と置いてくることができた。

 しかし、それほど遠くないところに雨降らしがいる。

 こりゃ、どうしようもない。

 僕は傘を捨て、パーカーのフードをかぶって、精神を統一させた。

 視界に、突進してくる蛞蝓が見えた。どうやら攻撃の対象を僕へと変えたらしい。いい判断だ。

 僕は全速力で蛞蝓に向かって走り、その脇を間一髪ですり抜けると、広場へ向かった。

 振り向くと、思った通り雨降らしはまだ方向転換をしていた。やはり直線の移動以外はさして速くはないようだ。

「真中さん、下がってください! 封印します!」

 宮町が叫ぶ。

 えっ、もう準備できたのか。

 僕は言われた通り広場から遠ざかる。

 宮町は刀を地面に突き刺す。すると間髪をいれずに蛞蝓の周りを大きな土の壁が取り囲む。壁はうねうねと動き出して蛞蝓をとらえると、雨降らしの祠のほうまでゆっくりと動き始めた。やがて祠までやってくると、雨降らしは、今までの暴れ方が嘘だったかのように、おとなしく祠に入っていった。

 その瞬間、雨がやんだ。

「すげえ、本当にやんだ」

「なんとか、おとなしくなってもらえましたね」

 宮町は刀を鞘に納めた。

 僕は雨宮のほうに駆け寄る。雨宮は鳥居の柱に捕まって震えていた。


 帰り道、下駄を履いて軽々と下る宮町の後ろで、蒸れた防水靴の気持ち悪さに辟易としながら、僕は雨宮と山を下っていた。

「大丈夫だったか?」

「大丈夫なわけないじゃないですか! あんな大きな蛞蝓があんなに速く動くなんて気持ち悪いですよ」

「ああ、でも、晴れたじゃないか」

「ええ……私のせいじゃなかったんですね」

 雨宮は嬉しいとも寂しいともつかないような微妙な表情を浮かべた。

「いや、君のせいでもあるよ」

「どういうことですか?」

 素直に疑問の表情を浮かべる雨宮。

 僕は解説を始める。

「六本木舞が君に怪異をひっかけたのは事実だ。けれど、それは雨を降らせるものじゃない。おそらく、君の周りだけは、君が望んだ天気にできるという類のものだよ」

「え、じゃあ」

「君は今まで自分の力で雨を降らせてたんだ」

 僕がそういうと、雨宮はどこかむっとした表情を浮かべた。

「だって、雨、嫌いじゃないだろ?」

「言われてみれば……むしろ雨は好きなほうですね。大嫌いな体育もなくなったし、土のにおいも好きですし……」

「ほら、君は雨女なんかじゃなかったんだ。雨女になりたかっただけなんだよ」

「そういわれると、確かにそんな気がします」

 雨宮はほんの少しだけ晴れやかな顔でそう言った。

 すると、宮町が微笑みとともに振り返った。

「とにかく、雨降らしが消えたことで、雨宮さんも雨に見舞われることが少なくなったと思うわ」

「ありがとうございます」

 雨宮は宮町に頭を下げた。


 駅で雨宮と宮町を帰した後、僕は事務所まで残った仕事を片づけに坂を上ろうとした。

「ちょっと待った!」

 後ろから特徴的なアニメ声がして、僕は彼女に抱きとめられた。背中にやたら弾力のあるものがぶつかる。

「後ろからくるの、やめてもらっていいですか?」

「あら、後ろからは嫌い? じゃあ今度やるときは前からにするね。手がいい? それとも口のほうが好みかな?」

「ぶっ殺すぞ」

「やだ、こわあい」

 女子大生のような甘いファッション、首に残された年齢の痕、そして極めつけは隠そうと努力した風にみせかけてうまく魅せている胸の谷間。

 そのすべてに退廃的なエロスを纏わせた、御厨智子とは別次元の魔女が、目の前に姿を現した。

「どうやってミヤコを殺すつもりだったんです?」

 僕はその魔女、六本木舞ろっぽんぎまいにストレートに訊いた。

「やだなあ、ふーちゃんたら人聞きの悪い。私が人を殺すわけないじゃないの」

「現にあんたは東雲真理菜しののめまりなを殺すつもりだっただろ」

「だから誤解だって。真理菜ちゃんはどうしてもビリーが欲しいって言うんだもん、桃子ちゃんだってそうじゃない。雨を降らせたかったんでしょ、あの子。……まあ、その結果雨降らしが動いたり、宮町四姉妹が出てきたりしたのは完全予想外だったんだけどね」

 六本木は悪びれもなくそう答えた。

「雨降らしはね、嫉妬深い生き物なのよねえ。自分以外に天気を操れる存在がいて、しかもそれが人間だったなんて知ったら、そりゃ暴れるわよね。私もそこまで考えてなかったわ」

 彼女は片目をつぶって舌をぺろっと出した。似合うとでも思っているのだろうか。腹立たしい。

「そうか、あくまで知らなかった、で通すつもりなんだな」

「知らないものはどうしようもないでしょ。ふーちゃんもいい加減大人になりなさいよ。皮被りは嫌われるぞっ!」

「だからその無理に下ネタを絡めるのやめろよ」

「えっ、童貞って下ネタが大好きなんじゃないの……」

「その固定観念はどこから来たんだ!」

 いや、そりゃ僕は童貞だけれど、下ネタが好きかっていうとそんなことはない。

「まあいいや、そんなわけで、前菜代わりにご挨拶ってわけ。智子によろしく言っておいてね」

 そう言って六本木は僕を抱きしめた。

「事務所よらないのかよ」

「いや、敵の本陣に攻め込むにはまだまだ時間が早すぎるからね。早い人って、嫌われるから」

 だから無理に下ネタを入れる必要がどこにあるんだ。

 とツッコんでいる間に、六本木舞はコミカルにウィンクして、地下鉄の駅に消えてしまった。

 僕は坂を上る。

 夕日が背中にあたって、やけにぽかぽかする。

 水を吸ったパーカーをひっかけながら、僕は御厨に状況をどう説明したらいいかを考えることにした。

 雨降らしと雨宮を対峙させることによって、自分のせいで雨が降っているのではないとさせることを暗示させる効果から、雨宮を雨から引きはがすという発想。おそらく先に考えたのは僕と咲子だろうが、しかしこれを御厨に話すのも癪だなと思っている間に、事務所が見えてきた。


「うお」

 ふと空を見上げて思わずそんな声を漏らした。

 虹が二つ、重なるように掛かっていた。外側の虹が内側の虹と色が鏡写しになっていて、少しだけ薄い。稀にそんな虹になることがあるとは聞いていたが、まさかこんなところで見られるとは。

 もわっとした空気の匂いが後からして、もうすぐ夏だな、と思わずつぶやいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る