ーⅠー Bloody Billy
濃厚な闇の中で、彼の気配を探した。
深いまどろみの中から、やがて薄い気配を感じ取る。
それはどんどんと近く、強くなっていき、ベッドの側までやってくる。
私はゆっくりと目を開けた。
中性的な顔立ちをした、ひょろりとした背の高い彼が、こちらを見下ろしていた。
彼はゆっくりとお辞儀をしてベッドに入ると、
そっと私を抱き寄せて、
首筋を咬んだ。
品のないものだけが過剰にあふれる空間で、僕はおもむろに煙草を取り出して火をつけた。
口の中にそこそこの有害物質に混ざって芳醇な味わいが漂う。
ゆっくりと煙を吐く。白濁した気体、のようなものは、ゆっくりと喫煙室の真ん中を昇っていき、換気孔に吸い込まれていった。
周囲の空間はなんとも退廃的で、卑猥で、それ故に快適だ。
ここはゲームセンターの中の小さな喫煙室。
すでに二千円は使っただろうか、僕は千円札を「クレ玉」――百円硬貨は、ある界隈ではそう呼ばれる――に変換することに疲れはて、ここで一服することにしたのだ。
家に帰っても何もない。食べ物、飲み物はおろか、夢や希望といった、大学生ならばおよその人間が持っているであろうものすら、どこかになくしてきてしまっていた。
どころか、はじめから存在していないことになっていた。それなのに、なぜか記憶の中には咲子のすべてが刻まれている。
彼女のふっくらとした一重まぶたが作り出すやさしい視線や、瞳の中にたたえた聡明な光、白くきめ細かく続いている肌、やけにあどけない指、澄んでいるような響きを持った甘い声、そんな細かいディテールまで脳裏にあるのに、友人どころか彼女の家族でさえ誰ひとり、咲子を覚えていなかった。
残された僕は、彼女の微笑みが焼き付いて離れないでいるというのに。
煙草を吸っていると、一瞬だけ自分の意識がどこかに拡散していくような、そんな感覚になる。もちろんそれは煙草の中に含まれている有害物質の力なのだろうけれど、今の僕には、きっとそういうものが必要なのだ。
すっかり短くなってしまった煙草をふかしながら、今日成し遂げたものを手帳にメモした。
音ゲーを始めたのは、高校生になったあたりだったか。当時、マンガもライトノベルも読み飽きてしまった僕は、せっかくもらったお小遣いをどのように消費するかで悩んでいた。今になって考えれば、まじめに貯金する、などの対策をたてておけばよかったのだが、当時の僕はそんなことに頭がまわるような人間でなく、加えて今以上に暇を持て余していたことも考慮に入れておくと、仕方がなかったともいえなくもない。ただの言い訳だけれど。
とにかく、そんなこんなで高校時代からゲームセンターに入り浸るということを覚えたので、僕を探すのならばまず行きつけのゲーセンを探すとよい、ということは知り合いであれば誰でも知っていた。
しかし、この喫煙室は、その名称もあってかふつうは、煙草を吸うという目的で入る部屋だ。そこに未成年が入ってくることなどまず考えられない。
だからこそ、喫煙室の扉が開いて、真っ黒なセーラー服を着た女子高生が中に入ってきた時は、びっくりしてくわえた煙草を落としかけるところだった。危うく三着しかないジーパンのうちの一着が、穴あきになるところだ。
「おま、お前!」
「真中のくせに煙草を吸うな!」
僕がツッコミを入れる前に、彼女は恐ろしいスピードで右頬に強烈なビンタを食らわせた。
結局煙草は床に落ちた。
目の前の女子高生について、幾ばくかの注釈を加えなくてはならない。
彼女の名前は
「臭い部屋だな」
札切は吐き捨てるように言いながら、喫煙室が珍しいのだろう、とことこと周囲を歩いて観察した。
「クズにはちょうどいい場所だ」
「ゼロ、僕をクズ扱いするのはかまわないが、喫煙者全員がクズともとれるような発言はしない方が賢明だぞ」
「そうか、しかし少なくともボクの知っている喫煙者は人間の風上にもおけないようなクズばっかりだぞ、真中」
そういうお前は煙草が似合いそうだな。
と言うのはやめておく。
「知るか。……そんなことより、どうしたんだよ? なんだってわざわざこんな狭苦しくて煙草臭い部屋に入ってまで僕と話をしに来たんだ?」
話が脱線しかけていたので、僕は話を戻した。札切は相変わらず無表情だ。
「そうだ、ボクとしたことが危うく忘れるところだった。実は、
御厨智子とは、雇い主だ。上司ともいう。
彼女から伝言とはぞっとしない。
「志島咲子を呼び戻す手だてがあるから、私に協力しなさい、だと」
札切は、左の手のひらを見つめながらそう言った。
その言葉を聞いたとたん、背筋に刃物を当てられたかのようにぞくりと気味の悪い感触が走った。まるで、彼女の呪術にかけられたような、得体の知れない怪異に突然出遭ったような、そんな感触。
「あと、事務所に連れ戻してくるようにも言われたんだった。というわけで、早速だがボクとともに事務所に向かってもらおう」
と、何かをメモしたであろう左手で僕の右手をつかみ、思いっ切り引いた。
「あがっ!」
めちゃくちゃ痛い。脱臼するかと思った。
「お前な、いくらここから早く出たいからって本気で引っ張るなよ」
「済まない、十分抑えたつもりだったのだが」
彼女の表情が特にボケたわけでもないことを物語っていた。おいおい。
「ひええ……」
僕も武術の心得はあるけれど、柔道、剣道、空手道、合気道と、四つの武術で段位を持つ彼女とは戦いたくないし、力を誇示して欲しくもない。
「とにかく、急ぐぞ。御厨は、出来るだけ早くしてくれと言っていたからな」
札切は僕の腕をつかんだままゲーセンの出口へと走っていく。女子高生に喫煙室から連れ出されるパーカー姿の男など、よくよく考えるまでもなく傍から見るとかなり恥ずかしい。
というわけで、御厨智子と対面したわけであるが。
彼女と対面するときの独特の緊張感に、若干気圧されそうになっている。
御厨は、部屋の中だというのに、晴れ装束である襞がたくさんついた藤色の不思議なワンピースを着ていた。なぜか札切と同じように頭のかなり高いところで二つ結びにしている。御厨のような年齢不詳の女性がやるとどう考えても似合わないはずなのだが、不思議とそこに違和感はなかった。
「久しぶり、というほど逢っていなかったわけではないけれど……暫くの間、仕事を放り出して、いったい何をしていたと云うのかしら? 貴方の仕事は、まだまだ
そう言って彼女はマグカップを傾けてコーヒーを飲んだ。骨ばった長い指の先には、呪術めいた黒いマニキュアが塗られていた。
「本当に、まったくもってその通りです」
僕の言葉が言い終わるのと、御厨がマグカップを置くのがほぼ同時だった。ことり、と乾いた音が部屋じゅうに響く。彼女の口元が楽しそうに歪んで、僕の背筋にあまり気持ちのよくないものが走った。本日二本目である。
「貴方はまだ、自分がどのような状況に置かれているか
急にそんなことを言われてもわけがわからない。だいたい残忍で残酷で残念な人間になった覚えはないし、僕がどのような状況に置かれているのか皆目見当がつかず途方に暮れていたからこそのゲーセン入り浸りなのだ。そんなことを言うのならいっそのこと、とっとと導いて欲しいくらいだ。なにせ平凡を超越した魔女なのだから。
けれども、御厨の言葉からわかることもある。
それは、咲子は完全に消えたわけではない、ということと、どこかよくわからない、現世ではない場所に飛ばされた咲子を、この世界、この空間まで戻すことができるのは僕だけだ、ということ。
邪悪な信念を持った魔女、
しかし、しかしである。
「そんなことを言われてもですね智子さん、僕の、その怪異というか、いわゆる異能に関する
「確かに、真中は、
札切が、あー、とあきれた顔をしながら言った。ツインテールがほよ、と意思を持った生物のような奇怪な動きをした。
「そう、真中、貴方は自分ですら、繋ぎ留める
「そうか、そういうことか」
「いやごめん、どういうこと? 全然わかんない」
札切の方が霊能力者という職業上怪異に通じているし、そのうえ物わかりがいいので、こういう場合間違いなく僕自身より札切の方が先に理解してしまう。怪異というのは、日常よりもずっと筋が通っているからだ。
「六本木舞の監視をすり抜けて志島咲子と繋がることが出来るのは、お前しかいないってことだよ」
札切の鋭い左目が僕を射抜いた。
「舞の眼は、
御厨はそう言ってつまらなそうに頬杖をついた。
「なるほど、で、どうしたらいいんですか?」
僕といえばこの程度の脳みそだ。
「はあ……。あのな真中」
札切が呆れたようにため息をついた。
「志島咲子の能力は怪異そのものが持つエネルギーを吸い上げるというものだ。そして今、お前と志島咲子は繋がっている。ボクの言いたいことがわかるか?」
僕と咲子が繋がっているだって?
一瞬あらぬ妄想で視界が吹っ飛びかけた。中学生か。
そりゃ、言いたいことはわかるのだが。なんとなくだけれど。
「え、ああ、いやそんなまさか、僕自身が怪異のエネルギーを吸い取れるようになっているとでも言うのか?」
「それは、ある意味正しい理解だけれど、実体を掴んではいないわね。貴方の持つ
御厨はそんな話をしていてもつまらなそうに窓の外をぼんやりと見ている。まあ、彼女と因縁が深い六本木舞が絡んでいるとはいえ、これは基本的に僕と咲子だけの問題なのだから、致し方ないとも言える。
僕と咲子だけの問題。
このフレーズ、なかなかに的を射ているとはいえ、どことなく淫らな響きがある。
などと、思考を脱線させている場合ではない。
「ともかく、僕が怪異を見つけて、それを解決していけば、咲子は戻ってくると」
「そういうことだろう」
札切がオイルライターを取り出してかちゃかちゃと火遊びをし始めた。女子高校生のくせにオイルライターを持ち歩いているのを見たら、僕でなくてもなにくそ、と思うだろうが、それ以前に彼女のあまりにもつまらなそうな表情がそういうツッコミをいれる気すら揉み消した。
「なんでそろいもそろってやる気なさそうなんだよ……」
「まあ、そりゃお前がどうなろうとボクの興味の範疇外になりそうだからな」
札切が真顔で言った。
「貴方の恋物語以上につまらないお話なんてあるのかしら。というか、あるとしたら、そんな
御厨は残忍に微笑んだ。触覚ともいえないような微妙なツインテールがぽんと、意味もなく跳ねた。
そりゃ他人の話だろうけども……。なんというか、こう、嘘でもいいからもうちょっと緊急性とか、親身な感じとかを出して欲しいところだ。
そこで、そもそも彼女たちにまともな人間の感情表現や気遣いというものを求める僕の方が間違っていることに気付く。霊能力者と魔女だ、まだギリギリ一般人の僕が、世界にたったひとりだけの幼なじみをなくしてしまった様子を想像することは難しいに違いない。
「ひとりでセンチメンタルクソ野郎になってても何も解決しないぞ、真中」
札切の左目が諭すように僕を見た。なんだか自分の考えが読まれていたみたいで、どことなく気まずい。
じりりり。
僕の携帯電話だった。
ポケットから携帯電話を取り出し番号を確認する。
「……?」
相手の名前を確認して、電話に出た。
「どうした」
「おう、真中、今……大丈夫か?」
電話の先には低くてくぐもった男の声。
大学の同期、吉岡だった。
「ああ、まあバイト中だが、時間ならたっぷりある」
「バイト? それって、怪異に関するやつだよな?」
「ああそうだが……あれ、教えたことあったっけ?」
「ん? ……ああ、そうだ、ちょっと前に飲み会で言ってただろ?」
「うーん……」
吉岡にバイト先のことを話した記憶が残念ながらないのだが、当の本人がそれを知っているということは話したのかもしれない。僕は酒に酔ってしまうと記憶が飛んでしまう癖があるのだ。このバイトの話題は話す人を選ばないといけないから、それが僕自身の意図によらない人間が知っているのは少しまずい。
「とにかく、ちょっと相談したいことがある。バイト終わってからでもいいし、今からそっちに向かってもいい。大丈夫か?」
「お前が電話してくるってことは、相当切羽詰まってんだろうな……」
吉岡は地声が低く、その上くぐもっているので、電話だとだいたいなにを言っているのか相手によく伝わらないことが多い。それだけに彼は電話を非常に嫌う。
しかも、その吉岡が酔った僕の戯れ言を思い出して、僕にわざわざ電話をかけてくるということは、まさに文字通り藁にもすがる思い、というやつに違いない。
「ああ、とにかく、その、なんだ、オカルト方向のプロの助言が欲しい」
「わかったよ、事務所に来てくれ。地下鉄のヒルズ中央駅から大通りを上って、クーロンマートの前の道を右に曲がれ。それからはずっと直進してくれればいい。事務所の前で待ってるから」
「そうか、わかった。今から向かうから一時間弱くらいかかる。頼んだ」
そう言って吉岡は通話を切った。
僕と御厨の目が合った。彼女は意味ありげに微笑んだ。
「早速何か呼び寄せたみたいじゃないの。佳かったわ、これで咲子ちゃんをこちらの世界に引き戻せる
「いやいや、そんなこと言ったって、吉岡が持ってくる怪異って、なんというかとんでもないもののような気がするんですよ。
冗談じゃない。
「安心しろ。その時はボクも加勢する」
札切がかちかち言わせていたライターを放り投げた。
「真中が苦戦するほどの人外なら、ボクにとってもいい経験になるはずだからな」
その言葉とともに彼女は落ちてきたライターをぱっ、と受け取り、スカートのポケットにしまった。彼女が元々美人なせいか、若干不良じみた行為もなぜだかいくぶん美しく見える。美男美女はそれだけで強力なアドバンテージになることの典型例だ。
「まあ、とりあえずあいつの話を聞かないことには、始まらないな」
「無論、その通りだ」
札切は先ほどとはうってかわって凛とした、まるでこれから大きな仕事をやるぞと意気込んでいるような表情で、クールにそう言った。
「ゼロ、お前……さっきよりずいぶんやる気あるな」
僕がそう言うと、
「あのな真中、ボクは物語の結末には全く興味がないが、お前が対峙する怪異そのものには、結構興味あるんだぞ? まあそれに、真中が変な怪物や怨霊にボコボコにノされるのも見てみたいしな」
と、ぞっとするほどの無表情で言った。怖っ。
とにもかくにも、吉岡を待つ以外になにか仕事があるわけでもないので、適当に時間をつぶしたのち、吉岡がそろそろ着くであろう時間に外に出た。
外に出ると、遠くの方に暗い茶色のコートを羽織った男が足早に歩いてくるのが見えた。どう見てもあの面長な輪郭は吉岡だろうし、ぼんやりと見える縁が太めの無骨な眼鏡も、間違いなく彼のものだろう。
と、そんな御託を並べていたら、吉岡が目の前まで迫ってきていた。
「よう、元気……そうじゃないな」
「ああ。もちろん」
吉岡は非常に困ったような顔をしていた。彼の表情の変化はさして豊かではない。話を聞いてみるまでもなく、これは相当ヤバいのかもしれないなと直感した。
「とにかく、事務所で話を聞くから。あ、中に占い師っぽい人と変な女子高生がいるが、あんまり気にしないでくれ」
「なるほど、なんだか本当に普通じゃないってことだけは理解した」
吉岡は力なく苦笑いをした。
「普通じゃないから、普通じゃないことに対応しているってことさ」
「なるほど」
そうして僕らは事務所に入った。
「なるほど、貴方が吉岡君……思っていたよりも、普通で何よりって感じだわ。少なくとも、そこにいる真中や零七ちゃんよりも、ずっと普通ね」
予想とは裏腹に、御厨智子は少しだけ楽しそうな顔をして、入ってきた吉岡にそう言葉を掛けた。
思っていたよりも普通。
それがいったい何のことを指すのか、僕にはわからなかった。怪異のことなのか、異能のことなのか。
「まあ、とりあえず、そこにかけてくれ」
僕は吉岡に御厨の前の椅子をすすめた。御厨は彼を少し気に入ったようだ。口元に若干の微笑みを浮かべながら悠然と四角い顔を眺めている。普段の様子を考えると、非常にご機嫌だといえるだろう。
「成る程。貴方自身は怪異に巻き込まれてはいないけれども、貴方の関係者……それも貴方にとっては大事な関係者が怪異に巻き込まれているかもしれない。そういうことね」
「智子さん、本人が語る前に肝要だけ読みとってしまうの、やめた方がいいですよ。吉岡はこう見えて一般人ですから」
僕は思わずそうツッコんだ。御厨はそんな僕を一瞬訝しげに見つめたが、ふと何かに気がついたような晴れやかな表情をしてから、再び僕のほうを向いて獲物を見つけた女郎蜘蛛のような厭らしい笑顔を向けた。
「成る程。真中、吉岡君を表現するのだとしたら、その表現は間違っていると言わざるを得ないわね。恐らく、より正確な表現は、『一般人にしか見えない』だと思うけれど」
「はあ……」
どちらにしても、吉岡のフォローにはならない。
「で、お話してもよろしいですか?」
吉岡の低くてくぐもった声が、話の筋を元に戻した。
「ああ悪い悪い、話してくれ」
僕がそういうと、吉岡は、「そこの御厨さんが言うとおり、これは俺自身ではなく、俺のサークルの友人についての話だ」と前置きして、ゆっくりと時系列順に順序よく整理して話し始めた。
彼曰く、怪異に遭っているのは同期の女子で、名前を
彼女の様子が最近おかしいという。
曰く、練習中によく貧血で倒れるようになったらしい。それまでの彼女は病気や風邪ひとつかからず、学業に趣味に全力を注ぎ続けられるという圧倒的タフな人間として知られていた。しかし、ここ何回かの練習では、ほぼ必ずと言っていいほど顔色が悪く、練習中に突然貧血を起こして倒れ込むこともある、と。
しかも、倒れ込んだ後の譫言もなかなか個性的で、「ビリー、ビリー」と外人の名前を呟いているそうだ。
ここまで聞いて、一応、一年近くこの場所で怪異と向き合っている僕としては、この怪異が一体どういうものなのか、おぼろげながら見当がついた。
怪異というのは、人間の潜在意識の塊が引き起こすものだ。それは非常に分かりやすい形で現れる。すなわち、想像力が豊かで、かつ怪異に関わりがなかった人間が初めに遭う怪異というものは、すでに伝承されているような妖怪や人外の体をなしている。
つまり。
「なるほど、症状としては典型的な吸血鬼だな」
という結論にならざるを得ない。
「やっぱりお前もそう思うか……」
吉岡はいよいよ困ったような表情で僕を見つめた。
御厨はそんな僕らを見て、いよいよ嗜虐的に、あからさまに侮蔑するような攻撃的な微笑みを放った。触覚がぴょこん、と地味にこちらを向いているのが気がかりで仕方がない。
「なるほど、吉岡君、貴方の要求と目論見は判ったわ。けれど、この怪異に私は関われない。真中、何故か解るわよね?」
「いや、すみません智子さん全然わかんないです。もしかして、それを理由に吸血鬼との戦闘を僕に押しつける気じゃないですよね?」
いくら御厨でも、自分の手駒をみすみす捨てるような真似はしないはず。僕はそう読んでいた。
「あら、解らないの? 解らないんだ。へえ。決して短くない期間、この私の手となり足となり働いているはずなのに、そんなことも解らないのかしら。困ったわね」
御厨智子は冷たい表情を浮かべながら、僕を見つめた。
あっ、これはヤバい。なんとなくそう思った。
「では、何も解っていないし学んでいない貴方がこの怪異にあたるということで」
こうして、また僕の仕事が、しかも恐ろしく厄介で解決も困難であろう仕事がひとつ増えたのであった。
「で、どうするんだ真中。本当に吸血鬼が相手だったら、正直言ってお前に勝ち目はないぞ」
札切は僕と吉岡と一緒に帰り道を歩きながらそう言った。
確かに、吸血鬼は人外の中でもかなり能力の高い種族だと言われている。諸説あるが、特に筋力や回復力をはじめとする身体能力はずば抜けているとされていて、生身の人間が戦って勝てるような相手ではないことはほぼ間違いない。
「んなこと言ったって、智子さんがほったらかした以上、僕がやる以外にどうしようもないだろ」
そう言うと、札切は呆れたような顔をして、
「あのなあ……」
とため息混じりに続けた。
「御厨智子が関わるのをやめたということは、最悪この事件はほっておいても大した結果にはならないということなんだよ」
その真っ黒なセーラー服が居丈高に札切を装飾していた。いつでも彼女は尊大だ。それゆえに美しく見えるのかもしれないが。まあ、にしたって、ツインテールは似合わないのでやめた方がいいと思うけれど。
「だから、そこが気になってるんだよ。吸血鬼なんて、言ってみりゃかなり上位の化け物だぞ? そんなのが出たって話なのに、なんだって智子さんはほったらかしにするんだ?」
御厨智子が関わらない怪異。
それは、自ら介入したところで大した差異はないと、彼女自身が判断した場合、と僕は考えている。そして、それは今のところ、外れたことがない。
しかし、吸血鬼などという強力な人外が怪異に関わっている場合、御厨智子のような存在の介入なくして解決できないことがほとんどだ。人間に危害を与える怪異であるということはもちろんのこと、普通の人間では対処がほぼ不可能という点が、吸血鬼にまつわる怪異の非常に厄介なところである。厄介で危険な怪異に関わらないと判断する。御厨がそんな真似をしたことは今までになかった。どちらかといえば、彼女はこういった厄介な問題にこそ積極的に関わるタイプなのだ。
「なあ……とりあえず、東雲さんの家に行ってみないか?」
吉岡が、突然に重い口を開いた。
「えっ? 今から?」
ちなみに現在の時刻は午後九時を回ったところだ。そんな夜も更け始めた頃に女の子の家に向かうとは。
「ああ、吸血鬼なら、夜に活動するはずだろ? 幸い、東雲さんの家はこの近くだったはずだ。今から行って様子を見るだけなら、終電には乗れると思うが……」
「お前……ほんとすごいな」
こんなに活動的な吉岡を僕は見たことがなかった。新しい一面の発見、といえば立派な建前になるが、冷静に考えなくてもこれはストーカー行為に半歩乗り出しているような、ギリギリアウトな行動である。
「うーむ、行動自体は非常に問題があるが……怪異の実態をいち早くつかむという点では、合理的な選択肢だな。なるほど、単にアゴが長いだけの男だと思っていたが、吉岡とやら、なかなか切れる男のようだな」
札切すらも驚くギャップ。いや、見た目の印象よりずっと頭がいい奴なのは僕のほうがよく知っている。
というか。
「アゴが長いってのはやめようぜ。本人気にしてるんだから」
「俺やっぱそんなにアゴ出てるかな……」
「ほら気にしちまったじゃねえか! バカ! ゼロのバカ!」
僕が思わず札切を罵倒する程度には、吉岡にとってこの話題はクリティカルなのである。なぜなら、彼にアゴの話をすると、そこから数十分はそのことから離れられなくなってしまうからである。
「はあ? この冷静沈着かつ才色兼備なボクにバカはないだろう! バカは!」
「じゃあブス! ブスだお前! まったくお前ってやつは!」
「はあ?」
札切の眉が不愉快げに上がる。
「才色兼備のボクをブスとはいい度胸をしているな! ぶん殴ってやろうか!」
「やめろ頼むそれはやめろ」
最悪死ぬから。それ、やっちゃだめなやつだから。
まったく、よりによって最初の案件がどうしてこんな面倒極まりないものになってしまったのか、御厨に小一時間問いつめたい気分だ。
とにかく吉岡にはなんとかアゴから離れてもらって(これがえらく重労働なのだが書くのも面倒なので割愛する)、僕たちは彼の案内で東雲さんの家の前までやってきた。
予想はしていたが、高級住宅街に並ぶ家々に負けず劣らず東雲邸は大きかった。白い漆喰で塗りかためられた塀と、近代的な直線と曲線で構成された、まるで近未来の宇宙船であるかのような流行りの新築スタイルが、夜空にやけに映える。
「ずいぶんと敷居が高そうな家だな」
「まあ、彼女も結構なお嬢様だからな」
「なるほど」
そりゃ吉岡も惚れるわけだ。
僕たちは家の門のすぐ近くの電柱の陰に隠れて張り込みという、今時刑事ですらやらない古典的手法で東雲邸を観察した。
しかし、当たり前にというか、予想を大きく外れてというか、とにかく怪異の気配がない。
「何も起きないな……」
「確かに。もっとも、この住宅街で家の外まではっきりと何かがおかしいことがわかるような怪異だったら、ここ一帯は大パニックだろうがな……」
札切は、スカートのポケットをガサゴソとまさぐりながらそう言った。またまた例によって例のごとく式紙を使うのだろうが、一般人の吉岡がいる前でそんなことをしないで欲しいと思う。
と。
「ん?」
「雨、か」
突然ぽつりと雨粒が落ちてきたかと思えば、雨足はあれよあれよと言う間に強くなり、土砂降りの雨に急成長して無防備な僕らを急襲した。僕と吉岡はバッグから折りたたみ傘を出して急をしのいだが、札切は傘となるものを持っていなかった。
「おい真中、なぜボクに傘を向けない。濡れて一番困るのは、どう考えてもボクじゃないか」
「すまないな。気遣いができない男なんだよ、僕は」
仕方がないので札切を入れてやる。
すると、札切の奴、いきなりとんでもない力で僕をぎゅううううと抱きしめてきやがった。
全身を万力で締められたかのような気分になる。しかも、僕の服に思い切り髪をこすりつけてきていて、着ていたパーカーがびしょ濡れになってしまった。触覚が僕の首もとに巻き付いていてやたらにちくちくする。
「ああああああああ何だなにすんだお前」
「お前のパーカーは、意外にも身体を拭くのにちょうどいいな」
「よくない! 全っ然よくない!」
札切の非常識な行動は慣れっこだが、こればっかりは勘弁して欲しい。札切は式紙と炎を扱う霊能力者だから、水や湿気が苦手なのはわかるが、見た目よりも遙かに強い筋力を持っているため抱きつかれるとそれこそ骨が折れかねない。特に体格がひ弱な僕は。
吉岡は案の定唖然としている。
「いや、まあお前って、妙に女にモテるよな」
「変な納得の仕方をするな! しかもこれは好意じゃないからな!」
「いや、そうでもないぞ。好意が全くないならさすがのボクでも抱きつかないしな」
「そこお前が否定するな! ややこしくなる!」
と、ひと悶着起こしてしまったせいで僕たちは門からピンク色の傘をさした少女がこちらにやってきたことに気づかなかった。
「あの、あなたたち、さっきから何をやっているんですか? めちゃめちゃ怪しいですよ?」
と、彼女は突然、僕たちに話しかけてきた。
「なるほど……実は私も、最近の東雲さんはなんか変だなと思っていたんです」
僕が簡単な事情を説明したところ、彼女は紫色の眼鏡についたわずかな水滴をハンカチで拭き取りながらこう言った。ボブカットの髪が、湿気でぼさぼさに崩れている。
「やっぱり東雲さんは変わったのか……。あ、僕は
「はあ。探偵ですか。ずいぶんと羽振りがよさそうですね。おまけに人の秘密も握れそうですし。……申し遅れましたが、私も縦波大学の学生です。
「経済か。僕とそこにいる吉岡も経済学部だ。よろしく」
「そうなんですか? 今度過去問とか見せてもらってもいいですか?」
会っていきなり過去問の話を持ち出すとは、雨宮桃子はなかなかどうして優秀な学生らしい。もちろん、皮肉だけど。
「ああまあ、それはともかく、君はこんな遅くに東雲さんの家で何をしていたの?」
とりあえず話題を戻してみる。
「東雲さんから今度漫研で出す原稿について見てもらいたいものがあると、ものすごいはしゃいだ様子で言われたので、気になってしまってついおうちにお邪魔してしまいました」
ふうむ。
「気になるな。なぜそれがこんな夜でなくてはならないのか。夜でなければならない理由……」
札切は腕を組んで考え始めた。いや、それは単純に話し込んだら夜になっちまっただけだろ。にしたってすごい情熱だけれど。
そもそも、よくよく考えるまでもなく、こんな夜に赤の他人の家を見張る僕たちの方が、他人から見たらよっぽど気になるし変なのだろうが、それを言ってしまえばキリがない。
「あの、真中さん、あなたにくっついているこの中二病丸出しの子はいったい……」
雨宮が札切を指さして言った。おい、いくら何でも初対面で年下とはいえ、それは言っちゃいかんだろ。どうも、雨宮は思ったことをすぐに言ってしまう性格のようである。なんか、友達少なそう。
「ん……ボクのことか? これは、べ、別にし、仕事の都合上こうしているだけで、その、ちゃんと、ふ、普通の恰好もす……」
札切が声を出すたびに、僕の首もとがちくちくするので、僕は思わず札切の口を押さえて話を遮った。
「こいつは札切零七、女子高生霊能力者だ。胡散臭いかもしれないけど、そこらに転がっている偽物じゃなくて、本物だよ」
札切はプライドが高いぶん、このように正面からツッコまれると狼狽してしまう。彼女の唯一かわいいなと思うところである。本当に、唯一の。
「へえ……探偵ともなると、そういった方々ともお知り合いになるんですねえ。なんだか楽しそうな商売でなによりです」
どこかイラっとくる発言だが、本人に悪意はないのだろう。黙ることにした。
「ああ、僕とゼ……札切は、怪異の専門家みたいなもので、そこにいる吉岡から東雲さんに関する依頼を受け取って、調査をしていると、そういうわけだよ」
「なるほど、聞けば聞くほど、胡散臭いですけれど……」
雨宮は傘をさしたまま腕組みをして僕を見下ろした。ちなみに雨宮は僕よりおそらく五センチほど背が高い。札切ほどではないが、このように腕組みをしながら立ちはだかられると、非常に威圧感がある。というか、何とも思わなかったけれど、傘をさしたまま腕組みできるって、結構器用だな。あからさまに文化系(それも、サブカルチャー系)な見た目によらず、運動神経がいいのかもしれない。
「確かに、最近の東雲さんは、何か、怪異にとりつかれているという説明がいちばんしっくりくるような気がします……」
雨宮は、どことなく納得した感じで僕を見た。
「とにかく、異常に吸血鬼侍のビリーにこだわるんです」
「吸血鬼侍?」
吸血鬼侍という突飛なようでいてどこにでもありそうな設定はともかく、ビリーといえば、東雲さんが譫言で叫んでいた名前ではないか。
「東雲さんが考えた長編漫画の主人公です。自分で描いたとはいえ、どうも東雲さん、ビリーに惚れてしまったみたいなんです……」
「なるほど……」
二次元の住民に恋、というのは、まあまあどこにでもある話だ。特に漫画研究会に所属している女子の中では、別段珍しいことではないのだろう。
「だけど、自分が描いたキャラにか……」
「はい、そこなんですよ」
しかし、やはり、自分が描いたキャラクターにそこまで思い入れがあるのは、どこか異常と言わざるを得ない。僕自身、高校は文芸部、大学も一年だけミステリー小説研究会に所属していたからわかるが、自分自身がどれほど理想の異性のキャラクターを作りこんで描いたところで、そのキャラクターには自分の一部が投影されているものだから、恋愛感情まで発展することは、普通ありえない。あったとしたら、よほどのナルシシストだろう。それこそ、水面に映った自分の顔に一目惚れして、挙句の果てには溺れてしまう事案が発生しそうなレベルの。
「ということで、私もその捜査、まぜてもらってよろしいでしょうか?」
雨宮は、眼鏡をくいっとあげながらそう言った。パーカーにジーンズという、僕同様にやる気のない恰好をしてはいるものの、その目には生き生きとした光が宿っている。
「ふむ、雨宮さんとやら、なかなか不思議な因果を持っているな。いいだろう、仲間に入れてやる。光栄に思え」
「だから最年少者なのに偉そうにするなよ! ごめんな雨宮さん、ゼロ……札切はこういう奴なんだ」
僕は雨宮に謝った。かえって札切のような人間のほうが雨宮には合いそうだが、そこは礼儀というものがある。
「いえいえ、私は構いません。あと、私、漫研では雨宮のミヤと桃子のコをとってミヤコと呼ばれておりますので、是非真中さんと吉岡さんもそのように呼んでください。あ、もちろんゼロちゃんも」
雨宮は本当に、本当に正直な女の子だ。彼女の将来がほんの少し心配になった。
「わかった、ミヤコだな。確かにそっちの方が呼びやすいし、どこかコードネームっぽくていいな」
僕がミヤコという雨宮のあだ名に納得していると、
「……なあ、ミヤコさん」
と、吉岡が思い口を開いた。
「せっかく仲間になってもらったところ悪いんだが、俺は家が遠くてね。そろそろ帰らなくちゃいけないんだ。で、あんたもあんまり夜遅くまでこんなところにいるのは、その、本意じゃないと思う。だから……」
「わかりました、私と吉岡さんはここで帰って、あとは真中さんとゼロちゃんにお任せするということですね。私としては男性と二人きりで帰ることそのものに非常な抵抗がありますが、かといってこの道をひとりで帰るわけにもいきませんし、名案だと思います。緊急時でも、真中さんとゼロちゃんなら対応できるでしょう。吉岡さん、見た目以上に頭の切れる方ですね、私、少し驚きました」
「あのなあ……」
思ったこと言い過ぎだろこれ……。
「まあな。わかってくれればそれでいいんだ」
あ、怒らないんだ。ここ怒っていいところだぞ吉岡。
と、
「いっ!」
札切にわき腹をつねられた。慌てて彼女を見ると、いいから黙っていろと言わんばかりに僕を睨みつけていた。なんなんだよお前。僕に気があるならお断りだぞ。
「ということだ、真中。俺たちは後日話を聞く。明日の授業に関しては俺がうまくやっておくから心配しなくていい」
吉岡は吉岡で勝手に話をまとめて、雨宮と一緒に地下鉄の駅がある方に歩きだしていた。
「おい、お前、自分が頼んだことなのにそんなにあっさり引き下がるのかよ?」
僕の語勢も自然と強くなっていた。
「いや、ここに俺がいてもあまりいい結果にはならないだろうと思っただけだ。俺はお前にきっちり解決してもらいたい。東雲さんのためにも、もちろん、俺自身のためにもな」
「なんだよ勝手な奴だな」
そう、こいつはいつだって勝手じゃない振りをするのが得意な奴なのだ。いつでも自分勝手なのに。
「そう言ってくれるのはお前くらいだよ、ありがとう」
「褒めてねえ! 気持ち悪っ!」
「まあそういうことだ、いい報告を待ってる」
吉岡はそういうと、雨宮とともにその場を去った。
まるでそれを待っていたかのように、雨はやんだ。
「なるほど……あいつ、ただ者じゃないな。そんな気はしていたが」
札切はそうつぶやいた。おそらく、僕に抱きついたままだということにはまだ気がついていないのだろう。
「あのなゼロ、雨もやんだんだし、そろそろ離してくれよ。きつい」
「ああ、すまない……ふふ」
札切は、僕の予想に反してひどく冷静に拘束をほどいた。そしてこちらを向いて不敵に笑っている。薄気味が悪い。
「何だよ……」
「お前は、本当にいろいろと引き寄せてしまうのだな、と思っただけだ。さて、ボクもそろそろ仕事するか」
言っている意味が分からないが、札切が仕事を始めるというなら、僕も準備を整えなければならない。
札切は、セーラー服の襟元から式紙を取り出し、いつのまにか手にしていた筆ペンでさらっさらと何かを書くと、
「行くぞ真中、もう戻れないからな。全力出せよ」
と言って、スカートのポケットからオイルライターを取り出し、式紙を燃やした。
「
彼女が痛々しい呪文を叫んだとたん、目の前に炎の筋が現れ、東雲邸の二階の方へと延びていく。
「来るぞ!」
札切はさっと眼帯を外し、左手にオイルライター、右手に数枚の式紙を構えた。僕もなんだかよくわからないが周辺を確認して入念な準備運動をしようとした。
と、次の瞬間、目の前に巨大な炎とともに、背の高い、中性的な男が姿を現した。
見た目はあまり強くなさそうだが、刀をさしており和装であるところを見ると、こいつが吸血鬼侍ビリーであるのだろう。僕は全身の意識を彼に向けた。
「なん、で、ござるか……?」
ビリーの真っ白な長い髪の毛が風にたなびく。
「
札切がまた呪文を唱え、式紙を燃やした。たちまち式紙を包む炎が巨大化し、僕の身長くらいの大きさになって、黒く変色したと思うと、ビリーにむかって飛んでいった。
「貴様ら! さては真理菜様を狙う曲者か!」
ビリーは見た目に似合わない流暢な日本語で僕らを誤解すると、さっと黒い火の玉をかわし、抜刀して僕に向かってきた。
というか。
「おいちょっと待て、お前が東雲さんを襲ってたんじゃねえのかよ?」
あまりにも急すぎてツッコむのが遅れてしまった。僕としたことが。
「拙者が主君を襲うはずがなかろう! さあ観念せい! イヤアアアアア!」
アイエエエエエエエエ? ビリーナンデ? ナンデ?
いや待てビリーは吸血鬼だ。なんで主君とか言い出すんだ?
と、なにがなんだかよくわからないまま一撃目をなんとか横に跳んでかわし、二撃目をどちらにかわそうか考えているうちに、
「
ともはやどういう呪文なのかよくわからない札切の声とともに、炎の縄がビリーを取り囲み、全身を縛り付けてしまった。
「ゼロ、お前強いな……」
呪文のセンスはイマイチだけど。
「お前が吸血鬼侍、ビリーで間違いないな?」
札切が僕を無視してビリーに声をかけた。その声は、夏になろうとしているこの時期の夜の気温なんかより遙かに冷たく、僕はなぜか冷や汗をかいた。触覚も微動だにしない。
「さ、左様……」
と、ビリーもなぜだか神妙になって、うなずいた。
「拙者は……真理菜様によって生み出され、お仕えしているのである」
と、ビリーはぽつりぽつりと語り始めた。さっきまでとはうってかわってテンションが低く、逃亡の心配もなさそうなので炎の縄はもうしまってある。
「拙者は、侍ではあるがそれ以前に吸血鬼なのである。人の血がなければ、生きていけぬ。真理菜様は拙者に血をわけて下さった……。拙者が部屋を護ることと引き替えに、真理菜様は拙者を寝床に呼んで、血を啜らせてくれたのじゃ……」
ビリーはそう言って泣き始めた。
「じゃが、それのせいで、真理菜様は日に日にか弱くなっておられた……かくなる上は……」
おい、かくなる上はって。
「お前、まさか」
そのまさかだった。ビリーは自分の得物を手に取ると、それを逆手に腹を切った。
切腹。
さすが、侍である。
「ぐぬう……」
ビリーの腹から夥しい量の血が吹き出たが、案の定、その腹の傷は一瞬で塞がる。
「お前な、吸血鬼なんだからこういうやり方で存在は消せないだろ」
泣き崩れるビリーに、僕はそう声をかけた。
「それに、今、お前がいなくなったら最悪東雲さんはショックで死んでしまうかもな」
札切はただ冷静に、なんの配慮もなくそう言った。
ビリーはうなだれた。
「では拙者は……どうすればいいのだ」
そんなこと言われてもなあ。
なんというかこの吸血鬼侍、どことなく悲壮な雰囲気が漂う。自分の存在が主君を滅ぼすと分かっていながら、やめられない感じ。
「とりあえず、ボクらと東雲さんの部屋までいこう」
札切がこともなげに言う。
「いや、お前、どうやって行くんだよ?」
「思念だけを飛ばせばいいさ」
そう言うと札切は大量に式紙をばらまき、真っ黒い紙を取り出すと火をつけた。たちまちすべての式紙が燃え上がる。
僕の意識が軽くなり、東雲邸の一室へと視点が移った。整理整頓された漫画の棚と、スチール製のシンプルな勉強机が目を引く。棒状の大きな蛍光灯が、東雲真理菜の頭と机を照らしていた。
東雲は、空色のネグリジェを着ながら勉強をしていた。ショートカットの髪先からのぞくうなじは、女子大生ということもありなかなかにセクシーだ。
確か、吉岡の話によれば工学部の生命化学科だったから、僕のような文系と違って、毎日のように勉強しなければ留年してしまうのだろう。
考えてみれば、学業とサークル二つで精力的な活動を行うなんて、とてつもなく活発に違いない。
しかし、その割には、目の前の彼女はなんというか、生気を感じなかった。今にも死んでしまいそうな不吉なオーラすら漂っている。
「ん? 誰かいるの?」
東雲は不意に振り返った。僕と目が合うが、彼女はこちらには気づかないはずだ。だって、僕らは意識しか飛ばなかったのだから。
彼女は思ったよりもかわいらしい顔立ちだった。一重まぶたは眠そうな表情を作り出しているし、のほほんとした顔は全体的に隙が多そうだ。しかも今は絶望的に顔色が悪いときている。そりゃ吉岡も心配するだろう。
「真理菜様、ビリーでござる」
そしてビリーは、ベッドの前に姿を現した。
彼は、もともと僕らのようにれっきとした肉体を持っているわけではない。よって、札切の力で存在すべてを転送することができるのだ。
「ビリーか。まだ、出てきちゃダメだよ。夜も更けてないし、今、ちょっと勉強してるから、血はあげられない」
「その件でござるが、これ以上真理菜様に迷惑はかけられないので、今日限りでやめるでござる」
「えっ!」
東雲の目がギラリと光った。
場に不思議な緊迫感が生まれる。
「ダメだよビリー。ビリーはあたしがいないとやってけないんだから」
「しかし、拙者はこれ以上真理菜様の青ざめたお顔を見るのは嫌でござる。拙者が血をいただいているせいで、このような結果になるのなら、拙者などいない方が、血肉を持たない存在であった方が良かったでござる!」
「でも、それじゃビリーが」
「ビリー、ビリーと拙者のことを気遣ってくれているのは、有難いでござる。しかし、拙者も、そして真理菜様も、まず気遣わなくてはいけないのは、真理菜様、あなた自身でござる」
ビリーは真摯な目をしていた。
「ビリーはなかなか健気な男だな。お前も見習って欲しいくらいだ」
「おいちょっと待てそりゃどういう意味だ」
「ふっ、まあそのうち分かるさ」
札切はにやつきながら東雲とビリーのやりとりを見つめている。
「安心してほしいでござる。真理菜様には、拙者のようなまやかしなどではない、あなた様を気遣ってくださるまことの人間がいるでござる。拙者に頼るのは、もうやめるでござる……」
「ちょっと待ってよ! いきなりそんなのあんまりだよ!」
東雲は椅子から立ち上がり、ビリーのもとへと駆け寄ろうとした。
しかし、すぐに足元がふらつき、倒れ込んでしまった。
「この通り、真理菜様は満足に歩くことさえままならない状態でござる。でも、それでも真理菜様を強く想っている人はいるのでござるよ。勝手ではござるが……拙者はこれにて失礼するでござる」
ビリーは東雲に背を向け、窓から飛び出した。
「ビリーーーーーーーー!!」
東雲の悲痛な、しかしあまりにもか弱いその声と、階下から、東雲の父親であろう、「どうした」という男の声と階段を駆けあがってくる足音を聞きながら、僕たちも元の場所に戻ることにした。
気がつくと、門の前に僕と札切、そしてビリーがいた。
「礼を言わせて欲しいでござる。拙者は真理菜様が弱っていくことに気がついてはいたものの、何もできなかった。そこを貴様等が救ってくれた。ありがとう」
「いや、君はおそらく僕らがいなくても、なんとかしていたと思うよ」
僕は目の前の侍に向かって、そう言った。
「で、これからお前はどうするつもりなんだ?」
札切がオイルライターをかちゃかちゃ言わせながら、気だるげに言った。眠いのだろう。
「そうでござるな……まずは、この身体を下さった六本木先生に事情をお話しなければ……」
「おい」
まさか。
ここでその名を聞くことになろうとは。
「お前に血肉を与えたのは……六本木舞なのか?」
札切の右手が堅く握りしめられ、震えている。
「いかにも、六本木先生でござるが……?」
ビリーは釈然としない様子で僕らを見ている。
「おい、やめろ」
僕は眼帯をとってオイルライターをかざそうとした札切の腕を止めながら、
「ビリー、逃げろ! あと六本木舞にはしばらく近づかない方がいい!」
と言った。
「うむ、事情はわからぬが、真中どの、感謝するでござる」
と言って、ビリーは風のように去っていった。その姿は、侍というよりむしろ忍者だった。
残った札切は僕の腕をふりほどくと、ライターをしまった。その悔しげな口元に反して、目元は晴れやかだ。
「まったく、もう少し遅かったらお前の腕を折っているところだったぞ……」
知っている。僕が絶妙なタイミングを狙ったことを彼女は知らない。
「どうせここに六本木舞は出てこないし、これであいつは東雲さんを殺すのは諦めただろうからな、殺るだけ無駄だ」
「うーん。まあ、そうだな。あとは、あの吉岡とやらがなんとかしてくれるだろう。あいつ、お前よりずっと探偵の素質あるぞ?」
眼帯を右目に着けながら、札切が挑発するような視線を送る。
「知ってるよ。でも、吉岡にはできるだけこっちの道を歩んで欲しくないんだよ、僕は」
彼には最後まで一般人でいて欲しい。それが僕の願いだった。
「はあ……まったくお前ってやつは」
札切は肩をすくめて、にやりと笑った。
「さて、終電がないわけだが、どうやって帰るんだ、真中? まさか、御厨を起こすわけは、ないよな?」
札切が腕時計を見ながら言った。
確かに、もう終電は出てしまっている。すこし歩いて、駅の周辺に出ればホテルくらいはあるだろうが、さすがに札切のセーラー服を店員が見てしまっては、宿泊を断られるだろう。それに、こいつと一夜を過ごす気にはなれない。
さて、どうしたものか。
「そういえばお前、明日の授業は?」
「ボクは特待生だぞ? 授業に出席義務などあるわけないだろう」
そうだった、たしか彼女の通っている聖アーカンゲル女学院は非常に特殊な学校で、そのような特待生制度が用意されているのだった。
「優秀なんだな」
「当たり前だ、お前と一緒にしないでくれよ」
仕方がない、奥の手だ。
「タクシー使うしかねえか」
「その手があるじゃないか!」
高校生である札切があまり思いつかないであろうタクシーを使って、結局僕らは深夜に帰宅した。
その後、東雲さんは数日休んだあと見事に復活し、サークルに授業に大忙しらしい。合唱の練習も以前と同じように、いやそれ以上に熱心に取り組み、後輩から「姉御」と呼ばれるようになったと吉岡が、漫画の原稿を全部差し替えて、ホラー系ギャグ漫画を出してきたと雨宮が言っていた。
で、以降はオチとしての後日談。
事件からおおよそ二週間後くらいのことだ。雨が降っている中、僕はいつものように学生食堂で、同期の
「へえ。そんなことがあったんだ。なんかさ、東雲さんって君のタイプっぽいよね」
「まあ、確かにそうかもな」
眞鍋はカルボナーラを食べながら、僕の話にいつものように相槌をうっていた。もう夏の入り口だというくらい蒸し暑いのに、彼女は相変わらずブラウスにカーディガンだ。
「私も、霊能力者のゼロちゃんに会いたいなあ。きっと美人でかっこいいよね」
「やめとけ、あいつ貧乳がコンプレックスで、巨乳を見るとそれだけで怒り始めるから」
僕はテーブルにすっかり腰を落ち着けている重そうな胸を見てそう言った。
「ふうん、貧乳ってこわい」
眞鍋はひとことだけそういって、麺を食べ終えた。
「あっ、そうだ、経済原論のさあ、前のノート。ちょっとよくわかんないとこあるんだけど、あとで教えてくんない?」
眞鍋は残ったクリームをスプーンですくって口の中に納めてからそう言った。
「そんなこと言われても原論はなあ……自信ないんだが」
「えー、君がくれたんじゃんこのノート」
眞鍋のくるくるに巻いた髪がふわっと舞った。
彼女の困ったような顔と一重まぶたの上目遣いは、ムカつくくらいかわいらしいのだが、多分本人もそれを意識してやっているので、なんだかそういう表情をされてもどうリアクションしたらいいのかよくわからない。
「まあそうなんだけど、じゃあまた今度ね」
と、適当に流していたら。
「よう真中」
と、吉岡が現れた。
その後ろには、
「カズ、待ってよお」
と、血色が良くなり、僕が見たよりも、少しだけふっくらとした東雲さんが現れた。非常に血色がよくまん丸な顔が、見ている者に安心感を与える。ショートカットながらしなやかに揺れる黒髪と、半袖の黒っぽい生地に細かい花柄のワンピースからのぞく健康的な二の腕が目に眩しい。
「お前のおかげで、真理菜と付き合えたよ、ありがとう」
と、小さな声で吉岡が言ってきたのは、我ながら少しイラっときた。なにが「お前のおかげ」だ。自分の力で勝手につかんだもののくせに。
「あなたが、真中さんですね。怪異専門の探偵さんのアルバイトをしているそうで、ありがとうございます。あなたがいなければ、わたしは死んでいたかもしれません。本当に、ありがとうございました」
と、東雲さんは丁寧にお辞儀までして礼を言った。
「じゃ、俺たちこれから授業だから」
「失礼します」
「おう、いってら」
と、吉岡と東雲さんは颯爽と食堂を出ていった。
っておい。
「なーんか、カノジョ自慢されちゃったね」
眞鍋がしみじみと言った。いや、しみじみと言うなよ。そこは笑えよ。頼むから。
「あいつそんなにアゴがコンプレックスだったのか……」
いや、知らんけど。
「ま、そのうち君もカノジョできるって。多分」
眞鍋は、にこにことしながら軽く言った。適当な奴だ。
「多分、ねえ……」
僕は黙って窓の外の、色とりどりの傘がひしめく空間を見つめていた。
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