学生ライター&起業家の「体系的思考エッセイ」

Yushi

【No.1】ミーム汚染と体系的思考

*1


「ミーム」

まるでそれは遺伝子のように、人々の意識に伝播でんぱする。人から人へ、意識から意識へ。それは止められず、意識に上らず、ただ密かにそこに「在る」。


僕は、この20数年を、そういった無意識から意識へとミームを攪拌かくはんし、均一に一つの「人」として成り立たせてきたといえる。具体的には、僕が今まで出逢ってきた人、小説の主人公などの性格や仕草、行動の意味を「僕なり」に解釈し、模倣イミテーションする。


周囲の人間からみれば一見「中二病」かんちがいやろうともいえるような態度に、この僕の攪拌と模倣の行動は「見えていた」だろう。もちろん、本当に小馬鹿にされたこともあった。


しかし、この攪拌と模倣ーミーム汚染ーは、誰しもが無意識化で行っているといってよい。僕らは少なからずそういったことをして日常の些細なルーチンワークから、小難しい問題解決までをこなしていく存在だ。


*2


この「ミーム汚染」は、僕たちを守ってくれる。ミームに汚染されることで僕たちは実際に触れていないものや体験していないものを「間接的に」認識することができるからだ。平均寿命が延びている今でも、「人生50年」という言葉の意味が理解できるくらい、人は時間に貪欲だ。「太く短く」と標榜している人ですらも、明日死ぬことにはためらうだろう。人は「時間的存在」である。


僕らの時間は限られている。今、時計をふと見る。秒針は止まることなく動く。そのことに通常はどんな感情も動かない。しかし、時間は動いており、僕らが主観的に体験できる時間は刻一刻とその期間を削らせている。


時間は意識すればするほど長くなるが、無意識にとらわれると欲望の赴くままに時間を浪費むだづかいしてしまう。僕たちは、あと何度、自分のキャンバスにどのくらいのミームを汚染させることができるのか。


たとえば明日、僕が死ぬ。君も死ぬ。誰もがいなくなるとする。そうした場合は、僕らが遺した数多の意識だけが存在する。形而上の話でしかないが、それがどんなに虚無であるか。僕らは、遺伝子のキャリアではなく、意識のキャリアぼくらだ。


*3


君が今、何かに悩んでいる。確かにそれは喫緊の課題であり、解決されるべき問題であり、死活問題である。だが、一度振り返ってみてほしい。僕らは限られた主観的時間の中で、どんなミームを残したいのか。


悩みすらも、ミームとして攪拌し、それで自分を再構成する。明日、もし君が死ぬなら、「。」それを考える。


それが世界の解釈ミームであり、人の生きる意味ミームなのかもしれない。


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学生ライター&起業家の「体系的思考エッセイ」 Yushi @u_sea0927

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