第4話 『プリン』

 いつもと同じように、その日も、お庭で朝の水遣りをしていたときのことでした。突然、すぐ横のバラの枝が、バサッと音を立てて、倒れ込みました。


 どうやら、フェンスに括り付けていた麻紐が切れたらしく、長く伸ばしたつるバラの枝が、自力では支えきれずに、力なく地面にしなだれています。


 散水していたホースの水を止め、ほどけた個所を結わえ直そうとしましたが、見ると、紐の真ん中から、ぷっつりと切断していました。


 劣化していたのでしょうか、これでは結び直すのは無理と判断し、新しい紐を持ちだして、再びフェンスに括り付けた時でした。


 ふと、視線を感じて、辺りを見回したのですが、周囲には人も鳥獣もおらず、気のせいと思い、地面から切れた麻紐を拾い上げたとき、電話の着信がありました。



「はい、もしもし。…え? おばあちゃんが…?」



 母からの電話は、祖母の死を告げるものでした。





 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。


 ほんの一週間ほど前、突然、母から連絡があり、このところ、祖母があまり元気がないので、もし時間があれば、顔を見せに来るように、とのことで、その週末、久しぶりに、夫と二人で私の実家へ行きました。


 母の話では、ここ数日はあまり食欲がなく、水分は飲むものの、食べ物はわずかしか口にしていないといいます。


 そこで、実家へ向かう途中にある、美味しいと評判のスイーツ店で、以前にもお土産に持参して好評だった、祖母の大好物のプリンを買って行くことにしたのです。


 私たちの顔を見た祖母は、それは嬉しそうな笑顔を見せ、側にいた父に、



「おばあちゃん、この人、誰だか分かる?」



と訊かれると、はっきりとした口調で、



「こうちゃん」



と、子供の頃からの呼び方で、私の名前を答えました。





 御歳96歳。半年ほど前から、徐々に認知症らしい症状も出始め、歩くのも介助が必要になっていました。


 ここ一か月ほどは、人の認識も怪しくなって来ており、常に一緒にいる父母は分かるものの、頻繁に会っていた弟妹や、可愛がっていた曾孫たちですら怪しくなっていたので、数か月ぶりに会う私を認識出来たのは、父も私たちも意外でした。



「おばあちゃん、食欲がないって聞いたから、プリン買ってきたの。食べる?」


「こうちゃんが作ってくれたの?」


「ううん、前に、おばあちゃんが『美味しい』って言ってたお店で、買ってきたの。ほら、おばあちゃんの好きなカスタードプリンだから」



 箱を開けると、濃厚な香りが広がり、それだけでも食欲を掻き立てられます。


 一口スプーンにすくって、祖母の口に運ぶと、美味しそうに味わい、お代りを要求し、あっという間に、一つを食べきってしまいました。



「美味しいわねぇ~。これは、こうちゃんが作ってくれたの?」



 また同じことを問う祖母。



「違うよ。これは買ってきたの」


「銀座のお店で?」


「それも、ちょっと違うかな」


「じゃあ、やっぱりこうちゃんが作ってくれたのね」



 祖母がそう思っているのなら、それでも良いか、と思い、『今度来るときは、作ってくるから、楽しみにしていてね』と伝え、その日は帰宅したのでした。





 夜になり、用事で出かけて不在だった母から電話がありました。


 私たちが帰ってから、『今日は、こうちゃんとお婿さんが遊びに来て、プリンを食べた』と、嬉しそうに、何度も何度も繰り返し、父や母に話していたのだそうです。


 そして、あれほど食欲がなかったというのに、『こうちゃんのプリンがあったと思うんだけど』と催促し、2個を完食。本人は最後まで、私が作ったのだと思い込んでいたようでした。





 あの時は、あんなに元気そうにしていたのに、今朝になって、突然、呼吸が苦しそうになり、急いで主治医の先生に往診をお願いしたのですが、先生の到着を待たず、息を引き取りました。


 加齢による年相応の衰えはありましたが、特に病気もなく、死の間際も、苦しそうな呼吸が数分続き、それが治まったと思ったら、そのまま眠るように逝ったのだそうです。


 あまりにも突然で、あまりにもあっけない旅立ちでしたから、私たち姉弟の誰も、臨終に立ち会うことは出来ず、それもまた、さばさばした祖母の性格を表しているようにも感じられます。





 まだ亡くなったという実感すら湧かないない中、急いで実家に戻った私の目に飛び込んだのは、穏やかな表情で横たわる祖母の姿。


 とても90代には見えない肌の張りや艶は、呼びかければ、今にも起き上がりそうで、生気に満ち溢れているように見えました。





 年齢が年齢でしたので、いざというときの連絡先や、菩提寺へのお願い等の準備は、ある程度出来ていました。ですが、それ以外にも、しなければならないことが山ほどあります。


 人が一人亡くなるというのは、簡単なことではありません。


 お葬式を出すためには、医師の死亡診断書(もしくは、警察による死体検案書)が必要になります。祖母の場合は、死亡確認をして頂いた主治医の先生にお願いしましたので、後ほど医院まで取りに伺うことになっています。


 そして、それを持参して、区役所の戸籍・住民登録窓口で、死亡届と住民票の抹消届を提出し、死体火葬許可証を頂かなければなりません。


 まず、この一連の作業は、弟の担当としました。第三者でも手続きは可能ですが、こうしたご時世ですから、身分確認だ何だと、手続きがややこしくなることがあり、その点、続き柄が孫なら、比較的簡単です。





 今すぐではないものの、明確にしておかなければならない事項も多々あります。


 祖母は、年金受給者でしたから、その停止手続きと、要介護で、介護サービスも受けていましたので、そちらの停止手続きも必要です。


 弟が区役所へ行くついでに手続きをすれば、一度で済むのですが、母に聞いても、肝心の書類関係がどこにあるのか、分からないと言うのです。


 他にも、祖母名義の土地建物や資産、銀行口座などの確認作業をしなければならないので、先ずは通帳やら、登記簿やら、証券やらの所在を、突き止める必要があります。





 祖母なら、どこにしまっていたか? 皆であれこれ推理しながら、お仏壇の引き出し、押し入れの手箱の中、茶箪笥など、思い当たる場所を見て回ったのですが、それらしきものは見当たらず。


 通常、そうしたものの管理は、同居する家族の誰かがしているものですが、ずっと祖母がしっかりしていたものですから、父も母も聞かされていないというのです。



「誰か、何か聞いてないの?」


「私は何も。お姉ちゃんなら、おばあちゃんと仲が良かったから、聞いてるんじゃない?」



 妹にそう言われ、ふと、以前に聞いていた祖母の言葉を思い出し、もう一度、茶箪笥の引き出しを確認してみました。


 さっきは見落としていましたが、そこには他のものと比べ、明らかに違和感のある、一冊のノートが仕舞われていました。


 一年ほど前、まだ祖母の頭がはっきりしていた頃、電話で話していたのです。



「もし私が死んだら、茶箪笥の真ん中の引き出しの、お帳面を見てね」



 その時は、何のこっちゃ? と思っていたのですが、それは間違いなく、『エンディングノート』でした。


 ざっくりとではありますが、指輪から不動産まで、自分名義の資産のリストや、重要な書類・印鑑等の保管場所、担当者の名前、今しがた探していた年金関係等のことなども、一目瞭然に記載してあり、その場所を探すと、すべて記載通りの場所に保管されていました。


 何より驚いたのは、祖父の眠るお墓がある菩提寺の住所や電話番号があり、そこには、すでに自分の戒名や、法要の段取り等に関しても、ご住職様とお話済みの記載がされていたのです。





 四半世紀前、我が家では、祖父が他界した際に、パニック状態になった経緯がありました。当時、私は中学生でしたので、今でもその時のことは、よく覚えています。


 それを教訓に、95歳(当時)の祖母は、自身の死後、私たちが慌てないように、必要なことを、きちんとしたためてくれていたのでしょうか。


 世間の流行や情報に敏感で、新しいものが大好きで、チャレンジ精神旺盛だった祖母。90代で、テレビ番組の予約録画や、電話の短縮ダイヤル登録も難なくこなしたスーパーばーちゃんは、最後の最後まで、時代の流れに乗りまくりでした。





 祖母が生まれたのは、明治の終盤。日本が第一次世界大戦で戦勝国となり、国内外で、急激な経済成長を遂げた時代に、幼少期を過ごしました。


 好景気に湧く時代背景で、思春期以降は、大正ロマンといわれる文化を強く受け、西洋の文化や新しいものをこよなく愛する、モダンガール(モガ)と呼ばれる女性に成長したのです。





 祖父母が結婚したのは、恋愛など断じてご法度のご時世。当時は、『家制度』というものがあり、結婚は親(家長)に決定権がありました。


 多聞にもれず、祖父母も親の決めた相手と、半ば強制的に結婚することになり、祝言(結婚式)の当日まで、お互いの顔も知らなかったそうです。


 祖母は、祝言が始まるのを待つ間、一体この中の誰が自分の夫になる人なのか、一人一人の顔を伺っていましたが、その中に、もの凄く爽やかな笑顔で、祖母を見つめる青年が一人。


 目が合い、小さく会釈をすると、彼は深々と頭を下げ、満面の笑みで側にいたもう一人の、ひどく難しい表情をした青年に何か話しかけ、二人はそのままどこかへ行きました。


 その瞬間、不意に閃いたのです。



『きっと、あの方が、わたくしの旦那さんになる人なのだわ』



 そう確信した祖母。


 いくら結婚相手は親が決めるものとはいえ、すごく横暴だったり、見るからに不潔そうだったりと考えると、憂鬱になります。


 ですが、先ほどの青年なら、外見も素敵で、とても優しそうなふうでしたから、あの方が夫なら、ひとまず安心です。





 やがて、お仲人さんに案内され、高砂の席に座ると、斜向かいの新郎側の席に、先ほどの笑顔の青年が座っています。ということは、彼は自分の夫になる人ではありません。


 ならば、自分の夫はいったい誰? と、角隠しの下から、そっと隣の席の男性の顔を覗き込んで見ると、そこに座っていたのは、笑顔の君と一緒にいた、もう一人の難解な表情の青年でした。


 目論見が外れた祖母。問題は、彼の難解な表情の理由です。もし、それが彼自身の性格から来ているのなら、これから毎日、このしかめっ面と生活することになるわけですから、最悪です。





 後で知ったことですが、笑顔の君は、祖父の兄で、祖父が難しい表情をしていたのは、婚礼を前に緊張していたことと、相手のことを考えると、酷く憂鬱だったのだとか。


 なぜなら、祖父自身がモボ(モダンボーイ)でしたから、ごく一般的な感覚の女性とは、うまくやって行く自信がなかったのです。


 それが、今日始めた会ったお嫁さんは、パッチリとした瞳に、可愛らしい顔立ちで、祖父の超タイプ、いってみれば『直球ど真ん中のストライク』、加えて、物怖じしない明るい性格の祖母に、瞬殺でした。


 何よりお互いが『モガ』『モボ』だったことが、奇跡のような幸運であることは、言うまでもありません。


 ただ、その事実をお互いが知るまでに、3か月を要しました。





 二人が結婚して、当然の如く、周囲は子どもの誕生を待ちわびました。ところが、なかなか子宝に恵まれず。


 男尊女卑が当たり前で、不妊の女性に『三年子無きは去れ』と言われる風潮の時代、祖母に対する周囲の風当たりは、かなり強いものでした。


 ですが、祖父は、一度も祖母を責めることなく、自身がお仕事で、東京や大阪、神戸など、遠方に行く際は、身の回りのお世話をさせるという口実をつけ、努めて祖母を同伴させていました。


 年長者に口答えなど許されない時代ですから、それは、祖父の祖母に対する思いやりと、そんな世の中への、精一杯の反抗だったのかも知れません。





 当時でも、東京、大阪、神戸といえば、トレンディー、当時の言葉でいう『ハイカラ』の粋を集めた街。青春時代を大正ロマンに魅了された若い夫婦にとって、訪れる街は、何もかもが魅力的でした。


 そんなお洒落な街で、二人が必ず食べたのが、カスタード・プディング。フルルンとした、その甘い甘いスイーツを初めて食べたとき、祖母は、



『ああ、わたくし、この人と結婚して、本当に良かった!』



と思ったそうです。


 祖父が商談をしている間、祖母はデパートでお買い物を楽しみ、合流した後、劇場でお芝居やバレエの公演を観劇し、おやつには必ず行きつけのパーラーでプリンを食べ、西洋式のホテルに泊まりディナーを頂くのが、遠出の時の二人のお楽しみ。


 写真が趣味だった祖父が、大量に撮影した当時の写真には、旅先で自由を楽しむ、まだ若かった頃の二人の様子が、克明に記録されています。


 セピアに色褪せたの写真の中で、ワンピースにオシャレな帽子を被り、プリンを前に微笑む祖母の、なんとも幸せそうな表情。


 そうして、二人の遠征おデートは、大遅刻したコウノトリがやって来るまで、続きました。





 祖母の実家は、街外れの、やや鬱蒼とした木々が両脇に続く坂道を上り、その突き当りに開けた、広い敷地にありました。


 代々続く旧家で、家族は、両親と、3歳上の兄と、5歳下の妹の五人。祖父母は、物心付くか付かないか頃に、亡くなっていました。


 大きなお屋敷には、専属の庭師が設える、見事な庭園が広がり、母屋の脇には、何棟かの蔵が並びます。何しろ、古い蔵ですので、家人でさえ、所蔵されている中身の全ては把握し切れていなかったそうです。


 私自身、祖母実家には、子供の頃から何度も行っていましたが、老朽化して危険な個所もあり、一人では傍へ行かないように、きつく言われておりました。


 ですが、好奇心旺盛な子供のこと。祖母や、まだ健在だった曾祖母の目を盗んでは、こっそり探検に行ったその場所で、一人のお友達と出会うのですが、それはまた、別のお話。





 当時、祖母実家には、大きなワンコのポチと、年をとって寝てばかりの三毛猫、ミーちゃんがおり、動物好きな私には、とても魅力的な場所。


 何より、一番の特徴は、大きな鳩小屋があったことです。時間帯によって、小屋から放たれる鳩たちが、一斉に上空に舞い上がり、大きな円を描いて、空に羽ばたいて行く様は、子供心にも圧巻でした。


 まだ幼かった私には、知り得ないことですが、その鳩はかつて、軍用の伝書鳩として用いられていたものでした。というのも、祖母の父も兄も海軍の軍人で、二代続けての職業軍人だったのです。


 まだ、当時は情報伝達手段が少なく、伝書鳩は重要な通信手段の一つ。電話や電報なども、電気自体の供給が不安定だったりしたため、早急に、安定して一度に大量の情報をやり取りするのに、重宝されていました。


 少女だった頃の祖母のお仕事は、鳩たちの食餌のお世話と、小屋のお掃除、そして、鳩たちの足に着けられた『通信管』という小さな筒の中に入っている紙などを回収すること。


 小さな文字がびっしり書かれた紙は、一枚もない日もあれば、大量に届く日もありました。回収した紙は、纏めて鍵のかかる箱に入れ、父親(私の曽祖父)の書斎の、さらに鍵のかかる引き出しにしまうのです。


 お屋敷には、使用人と呼ばれる人たちがいたのですが、祖母以外の人間は、鳩や鳩小屋に近づくことすら許されず、鳩たちの排泄物のお掃除まで、屋敷のお嬢様である祖母がしていたのは、それほど重要な情報だった、ということでしょう。


 なぜ祖母だったのかは、身内(娘)であることと、まだ幼い女の子なら、中身を見られたところで、書かれている内容までは理解出来ないだろうという目算もあったかもしれません。


 その任務は、祖母が結婚して家を出るまで続き、後継は、兄の長女となりました。





 そうした厳格な家庭に生まれ育った祖母が、なぜモガになったかといいますと、女学校へ進学したことからでした。


 尋常小学校を卒業し、12歳から五年間、祖母が通学していた藍玉高等女学校は、創立して10年程の新しい学校でしたが、厳格な女子教育で定評があり、まだ女子の学校が少なかったことも手伝い、良家の子女たちが多く在籍していました。





 当時の女の子たちの間では、大正ロマンに代表される竹下夢二が大ブームで、祖母も、彼の描く挿絵に魅了された一人でした。


 見慣れた周囲の女性たちが身に付ける和装とは違い、見たこともないような西洋の衣装に身を包み、しなやかなポーズで、魅惑的な笑みを浮かべる女性の絵。


 先生に見つからないように、休憩時間にこっそりと回し見る挿絵集に、少女たちの心は、どんなにかときめいたことでしょう。


 女学校の生徒ですから、お裁縫はお手のもの。挿絵を頼りに、洋服を自作する者まで現れ、また、それを親に見つからないように、こっそり着用して、鏡に写った自身の姿に悦に入るのです。





 当然、祖母も自宅でそのような格好が許されるはずもなく、こっそりコスプレを楽しむのが精一杯でしたが、それも祖父との結婚で一変します。


 当時の女性には『三従の道』といって、『生家では父親に従い、結婚したら夫に従い、夫亡き後は息子に従え』という教えを守らなければなりませんでした。


 親が決めた結婚相手はモボ、親から離れれば、次に従うべきは夫。つまり祖母からすれば、夫の希望に従っているのですから、正々堂々、自分の趣味にまい進出来るということです。


 ただ、日常生活すべてで実践するには、世間の目や、多少の抵抗もあり、大都会へのお出掛け限定ではありましたが、その非日常と、自分たちの希望が重なり、余計に楽しい時間だったと思います。


 今ほど、何もかもが自由ではなく、沢山の制限がある中で、自分たちなりに自由を満喫した祖父母にとって、それは生涯の中でも、とても幸せだった時期の一つでした。





 やがて、時代は太平洋戦争(第二次世界大戦)へと進みます。


 『国家総動員法』の施工で、軍需産業は飛躍的に増加。それを補うため、自家用車や贅沢品などの生産や輸入が制限され、国民精神総動員政策の元に『贅沢は敵』とされました。


 物資は配給制になり、その不足分を補うため、闇市(ブラックマーケット)が盛んになります。当初は、お金さえ出せば、闇市で大抵のものは手に入り、それほど困窮することはありませんでした。


 ところが、戦況は徐々に悪化し、やがて、本土への空襲が始まります。


 集中的に、発電所や工場、交通網などを攻撃され、ライフラインが断たれたことで、物資の供給が滞り、人々は貧窮状態に陥ったのです。





 当時、祖父が経営していた会社は、国策により、航空機産業の関連工場への転向を余儀なくされました。若い男性従業員の多くは徴兵され、それを補うために、学生や女性が動員されました。


 ほとんど帰宅することが出来ない祖父に代わり、祖母は、まだ幼かった父を抱え、一人自宅を守っていましたが、どんどん激しくなる空襲に、ほとほと参っていました。


 激化に伴い、焼夷弾による市街地への無差別爆撃が始まると、常に避難準備態勢でいるよう、隣組からの指示が出されていました。


 安心して自宅にいることも出来ないばかりか、まだ幼い息子を連れて避難所へ行けば、泣いて周囲に迷惑を掛けることもあり、安易に避難することも憚られます。





 そしてその日、とんでもない数の爆撃機による大空襲で、別々の場所にいた祖父と祖母たちは、九死に一生を得ます。





 投下された焼夷弾で火の海と化した街に、なおも執拗に爆撃を続ける大編隊。


 幼い父を抱いた祖母は、火災の中を逃げる際、突如、前方上空に現れたB-29爆撃機の編隊と遭遇しました。しかも、これまでに見たことのないような、低空飛行です。


 逃げ惑う人々の中、立ちすくんだまま号泣している、まだ10歳くらいの少女の姿が目に留まりました。


 胸の名札に書かれた『淵井ひろ子』という名前から、お庭に大きなぶどう棚がある、少し離れたお宅の娘さんだと分かりました。



「どうしたんですか? お母さんは?」


「はぐ… はぐででじまいまじだ!(はぐれてしまいました)」



 泣きじゃくりながら、必死で答えるひろ子ちゃん。突如、上空の戦闘機から振りまかれた眩い光が、辺りを照らしました。焼夷弾です。


 その時、側にいた男性が叫びました。



「飛行機が来る方向へ向かって、走れーーっ!!」



 ですが、あの低さ、この近さで、その方向へ向かえと言われても、心理的には絶対に無理です。


 ほとんどの人たちが、爆撃機から逃げるように逆方向へ走る中、咄嗟にひろ子ちゃんの手を掴んだ祖母も、視線は、皆と同じ方向へ向いていました。


 ところが、何か強い力に引っ張られるようにして、自分の意思とは関係なく、身体が勝手に動き、気が付けば、男性が指示した方向へ走り出していたのです。





 直後、背後から迫る風圧と熱。


 人は、極限状態になったとき、すべてがスローモーションに見えるといいますが、まさに、右手に抱えた父や、左手を繋いでいるひろ子ちゃんの、瞬きや、髪の毛の揺れ、表情の変化までが、鮮明に観察出来たといいます。


 両手は塞がれているのに、祖母の中では、もう一本の別の手を、誰かが引いてくれるような感覚がありました。


 でも、そんなことを気にしている状況ではなく、水の中を走るようなもどかしさの中、少しでも先へ、先へと、力の限り走り続けたのです。





 死に物狂いで、なんとか災禍から逃げ切り、ふと後ろを振り返ると、そこにあったのは地獄絵図でした。


 もし、あの時、男性の言う方向へ走っていなければ、三人とも、確実に命はなかったでしょう。恩人ともいえるあの男性は、無事に逃げ切ったのか、それらしき姿は見当たりません。


 何より、工場に残っている祖父や、はぐれてしまったひろ子ちゃんの家族の安否が気になります。


 ひとまず、ひろ子ちゃんが家族と集合場所に決めているという、近くの中学校まで行くことにし、パニック状態でざわめく中、三人は、しっかり手を握り締めたまま、足早に歩き始めました。





 同じころ、同様に砲撃を受けた祖父の工場も、甚大な被害を受け、爆撃による火災を、懸命に消火しようとしたものの、如何せん、出火箇所が多く、これ以上は、どうやっても無理だという結論になり、一緒にいた従業員さんたちと避難を始めました。


 ところが、すでに辺り一面火の海で、祖父たちは、逃げ道を失ってしまったのです。


 もうこれまでか、と覚悟を決めた時、ふと、足元の床に見慣れない扉があることに気づきました。


 ずいぶん古いその扉を、数人かがりでこじ開けると、そこには初めて見る、地下に続く階段が現れたのです。


 それがどこへ続くものかは不明ですが、躊躇している暇はありません。全員で階段を降り、中から扉を閉めると、真っ暗な闇の中を、全員で手を繋いで、延々と歩き続けました。





 遮断された地下空間にまで、振動と共に、外の爆撃音が鈍く響き渡ります。誰一人、声も発せず、前後に繋いだ人の手の感触だけが心の頼り。


 距離も、時間の感覚も喪失させる暗闇の中、どこへ向かっているのかも分からない状況で、ともすれば、発狂しそうになるほどの恐怖感に襲われます。


 その中で、祖父が繋いだ、すぐ前を歩く、とても小さく感じる手の持ち主が、まるでこの暗闇の中が見えているかのように、力強く引っ張りながら、ぐんぐん進んで行くことに、言い知れぬ安堵感を覚えました。


 どれくらいそうしていたことか、遥か前方に、薄明かりが浮かんでいるのが、目に飛び込んで来ました。思わず、



「明かりだ! 出られるかも知れない!」



と叫ぶと、同行していた人たちからも感嘆の声が上がりました。


 ですが、そこがどこなのか、まだ予断は許されず、慎重にそちらへ行くと、それは外周をカムフラージュされた、川に繋がる地下道の出口でした。


 それにしても、建物から直接地下道に繋がる階段があったのは、ラッキーでした。それまでは、荷物や備品などで隠れていたものが、前回の空襲の後片付けで、物を退かした際に、出てきたのでしょう。


 それ以上に、外敵の侵入を防ぐ目的で、迷路状になっている地下道を、あの暗闇の中で、出口にたどり着くことが出来たのは、まさに奇跡。


 先頭で、皆をここへ誘導してくれた人こそ、まさに命の恩人です。感謝の気持ちでいっぱいになった祖父は、



「どうか、御礼を言わせてください。先頭を歩いていた、幸運の持ち主は、誰ですか?」



 そう尋ねたものの、誰もが首をかしげるばかりで、名乗り出る人はおらず。


 そもそも、あの暗闇の中では、どこが先頭で、誰とどう手を繋いでいたかなど、分かるはずもありませんし、そんなことを気にする余裕などなかったのも事実です。


 ひとまず、いったん全員が川に降り、協力して土手を上がると、そこに見慣れた景色はなく、瞳に映るのは、一面の焼野原。



「なんてこと…!」


「酷い…」



 誰もが、家族の無事を案じましたが、この惨状では、絶望感ばかりが広がります。祖父にとっても、自宅に残した祖母や父の安否が、気がかりでなりません。



「こうしていても、埒があきません。とにかく、人がいるところまで、行ってみましょう」


「はい!」



 火災の熱が残る街並み…正しくは街並みがあった場所を抜けると、徐々に、無事だった人々の姿が見え始めました。


 焼け残った建物の景色から、そこが祖父の母校である中学校の近くの場所だと分かり、とりあえずそこへ避難しようと辿り着いたその場所には、災禍から逃れた多くの人たちが集まっていました。



「ひろ子ー! ひろ子ちゃーん!」



 はぐれた家族を探しているのか、母親らしい女性が、女の子の名前を叫び続けています。そうした声が、あちこちから響き渡り、辺りは大変な騒音に包まれる中、



「お母さん!! お母さーん!!」



 すぐ脇を、10歳くらいの少女が駆け抜け、その女性にしがみつきました。母子の再会です。


 災禍をくぐり抜けた同士として、祖父たちも、思わずその姿に感動したとき、すぐ背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきました。



「良かったですね、ひろ子ちゃん。もう、お母さんとはぐれてはいけませんよ」


「おばちゃん、ありがとうございました」


「本当に、娘がお世話になりまして、また追って、御礼に伺います」



 間違いなく、その声は、祖母のものでした。



「菊子さん!?」


「あなた!! それに、皆さんも! 良かった~! ご無事だったのね!!」



 爆風や火災で、髪はボサボサ、顔も衣服も黒く煤け、誰もが、見る影もありませんが、生きていてくれた、ただそれだけで、涙があふれ出しました。





 祖母たちが避難したのは、祖父たちが向かったのと同じ学校でした。


 後で分かったのは、唯一、この周囲のエリアだけが爆撃を免れ、それ以外の方向へ逃げた人々の多くは、爆撃や火災に巻き込まれてしまったのです。


 ひろ子ちゃん一家も、この中学校を集合場所にしていなければ、どうなっていたか分かりません。


 幸い、祖父の会社の従業員さんたちも、その後、無事に家族と再会を果たすことが出来ましたが、この空襲では、これまでにないほどの数の人々が、命を失ったのでした。





 そして、それからわずか数か月後には、終戦を迎えます。


 祖父方では、祖父の伯父一家が、先の大空襲で亡くなり、祖母方も、兄嫁の実家が空襲を受け、たまたま帰省していた兄嫁とその長男が亡くなりました。


 軍人だった祖母の父は、開戦前に病気で他界しておりましたが、現役士官だった兄は、戦地にて戦死。紺碧の海と空に抱かれた、瑠璃色の島近く、深い海底に沈むその船と共に、眠っているのだと。


 その知らせが届いたのは、戦争が終わって、しばらく経ってからのこと。実家には年老いた祖母の母と、兄夫婦の長女だけが残りました。鳩のお世話係の、後継者です。


 祖母は、母を亡くした兄夫婦の長女を、時に娘のように、時に妹のように可愛がり、その関係は、終生続きます。私も、幼いころから、とても可愛がってもらいました。





 敗戦後、焦土と化した街並みを見渡したとき、祖父母が先ず思ったのは、安堵だったといいます。


 そして、失ったものは、あまりにも大きいけれど、命があったことを感謝して、頑張って行こうと。





 戦後しばらくは、混乱が続きましたが、徐々に、街は復興に向かって、動き始めました。


 祖父も、もともとあった会社を立て直すことから始め、戦後復興の好景気で、業績も軌道に乗り、日々の生活も安定してきたとき、祖父母は、念願だったプリンを食べに行きました。


 その甘い甘いスイーツは、新婚当時の想い出を甦らせ、同時に、今ある幸せを、そのままの形に閉じ込めたように、二人の心に沁み込んだのでした。





 それから約20年の歳月が過ぎ、父が結婚して、私が誕生します。


 娘を切望していた祖父母でしたが、子供は父一人しか授からず、待望の女の子の誕生に、私は二人から、惜しみない愛情を注いで貰いました。





 時は流れ、私が中学一年生になったとき、学校の調理実習で、カスタード・プリンを作りました。案外、簡単な手順でしたから、自宅でもそれを再現して、家族に食べさせました。


 当時、市販のプリンといえば、ゼラチンなどで固めて作ったものが主流で、私もずっと、それがプリンだと思っていました。


 父母、弟妹たちの反応は、『ふ~ん』という感じの、薄~い反応だったのですが、祖父母は、



「あ! これ、この感じ…!」


「ああ…! そう、そうね!」



と、喰い付き方が、半端ないのです。


 そう、なぜなら、ゼラチンプリンが台頭して以来、ずっと口にすることもなかったそれは、半世紀近く前、二人が初めてカスタード・プディングを口にした、あの想い出のパーラーのお味に、酷似していたからでした。


 考えてみれば、当時は香料も、合成添加物も、防腐剤もなかったのですから、ごくごく、シンプルなお味だったのでしょう。


 余談ですが、それからしばらくの間、私がキッチンをうろついていると、それを見た祖母が、



「あ、今、プリンを作ろうと思ってたんでしょ?」と。


「ううん、お水を飲みに来ただけだから」


「ああ、そうなの? じゃあ、お水を飲んだら、たまご割ってあげようか?」



 …だから、作らないって! と内心思いつつ、



「勝手に使ったら、後で叱られるかも知れないでしょ」


「ああ、そうねえ…」



 しばらくの沈黙の後、諦めたかと思いきや、祖母、



「そうだわ、こうちゃん、たまごとミルクを、買いに行きましょうか~」



 天然の人の執念には、太刀打ち出来ません。根負けして、何度か作ったものでした。





 プリン自体、とても簡単な作り方ですので、レシピを渡そうとしたのですが、なぜか、頑として、自分で作ることはしなかった祖母。


 あれほど西洋好きで、和食より洋食のほうが好みなのに、なぜか、自分で洋食を作ることはしませんでした。


 祖母の中では、そうしたものは自分で作るものではないらしく、常に、外で食べるか、誰かが作るのを待つかの、二者択一。


 私がプリンを作るときも、卵を割ってくれたりすることはありましたが、終始ニコニコしながら、側で出来上がる工程を眺めているだけ。それは、とても幸せそうな表情でした。





 また、祖父母共に、やたらと新しい物好きで、特に電化製品、その中でも、テレビや電話は、好んで最先端のものを使っていました。


 驚くのは、通常お年寄りなら敬遠しそうな、それらの取り扱いを、自ら率先して覚えてしまうこと。


 機種変したときの煩わしさは、私の世代でさえ、面倒くさいと思うものなのに、分からなければ、分かるまで質問し、きちんとメモ帳に操作手順を記載して、マニュアルを作るところなど、見習うべき部分でした。


 ただ、祖母のマニュアルは独特で、メモに記載された文列には、



1.一番左、スイッチ入れる


2.右二つ目、ボタン押す


3.数字押す


4.◇←このへんのボタン押す



 のように、形状や、動作そのものを書き留め、その通りにやって行く、といった方法。しかも、それでちゃんと機能するのですから、ある意味すごいことです。


 ただ、祖母以外がそのメモを見ても、何のことやら意味不明、ですが、自分が分かればOKなので、合理的といえば合理的。


 そうした方法で、テレビ番組の予約録画をしたり、私を含め、多くの電話番号を短縮ダイヤルに登録していましたので、気が向いたときに、いろんな人に電話を掛けてお話したりと、退屈とは程遠い毎日だったようです。





 ドラマやバラエティーも好きでしたが、何より情報番組がお気に入りでしたから、常にそこから、最新の情報をゲットしていたようです。エンディングノートも、テレビでその存在を知り得たのでしょう。


 それに加え、電話が使えたことが、結果、ノートの内容を充実させたのだと思います。


 メモ魔ですから、電話で知った内容、たとえば担当者氏名なども、そこに記載したでしょうし、何より、居ながらにして遣り取りが出来るのは、高齢で移動が困難になっていた祖母にとって、大きなメリットです。


 かつて、伝書鳩のお世話をしていた祖母には、情報伝達ツールの重要性や利用価値を、無意識のうちに、享受していたのかも知れません。





 ただ、90代半ばの老人が、そうしたことを冷静に受け止められるものかは、個人差もあるので、一概には言えませんが、新しもの好きな祖母のことですから、『確固とした意志のもと』というよりは、『オシャレな感覚で書いてみた』というのが、正しいところのような気もします。


 何しろ、明治生まれ、大正育ちのお嬢様、我々世代とは、そもそも考えるステージが違っていても不思議ありません。





 出棺前、最後のお別れで、祖母の棺の中に、ガーベラのお花を手向けました。ガーベラは、祖母が好きだったお花です。


 昔、お花屋さんの店頭でこの花を見つけると、祖父がよくお土産に買ってきてくれたのだとか。


 ただ、時代的に考えても、当時のお花屋さんの店頭に、普通に売っているとは思えませんから、あるいは、お取り寄せだったのかも知れません。





 いずれにせよ、当時の男性が、自分の妻にお花を買って帰るというのは、あまりなかったのではないのでしょうか。平成の夫だって、お花のお土産など、誰にでも出来る事ではありません。


 さすがはハイカラ・モダンボーイ、やることがいちいちオシャレ。


 祖父がどれだけマメな人だったか、そんな祖父に、祖母がどれほど愛されていたのかという、エピソードの一つです。





 他にも、祖母が好きだったたくさんのお花たちに埋め尽くされ、今、祖母は祖父の待つ天国へ旅立ちます。


 最後に祖母が口にしたのは、私が持参したプリンでした。ただ、それは私が作ったものでも、想い出のパーラーのものでもなく、途中、美味しいと評判のお店で買った、カスタード・プリン。


 旅立つ間際、夢と現実の狭間をさ迷いながら、祖母の記憶は、遠い昔のプリンを食べたあの頃にいたのかも知れません。


 棺の中に、祖母にしたためた手紙を入れ、もう一輪、ピンクのガーベラを、祖母の髪に飾り付けました。古い写真の一枚にあった、まだ若くて可愛かった祖母が、していたのと同じように。


 まだ自分どころか、父さえも、この世に存在していなかった時代、今にくらべて、物資には恵まれていなくても、今よりもずっと、人々の心は豊かだったのでしょう。


 100歳を少し前に、祖母はその生涯を閉じました。あの激動の時代を、リアルタイムで駆け抜け、敗戦後の焼野原だったこの国を、見事に復興させた世代の人でした。





 葬儀から日が経つに連れて、徐々に、亡くなったという実感が湧き始めてきます。


 今朝も、日課の水遣りをしながら、ふとまた誰かの視線を感じた気がして、その方向へ視線を向けても、やはりそこには誰もおらず。





 たわわに咲く、パンジーやビオラの花殻を摘みながら、その中に、埋もれるようにして芽吹いたその葉っぱは、昨年植えたガーベラでした。


 ガーベラの花言葉は、『希望』『常に前進』。冬、すっかり地上部の葉を落とし、枯れてしまったように見えても、春になれば、再び地上にその姿を再生する、宿根草です。


 日ごとに明るくなる春の陽射しに、幾枚もの新たな若葉を立ち上げ、小さな蕾をたくわえています。私にはそれが、祖母に宛てた手紙の、お返事のように感じられました。


 今頃は祖父と再会し、あちらの世界で、おデートを楽しんでいるのでしょうか。





 夕食後、久しぶりに作ったプリンを、夫と二人で食べながら、遠い遠い昔の祖父母に、思いを馳せてみました。


 あの大空襲の中で、祖父母や、同行した人たちが生き延びることが出来たのは、簡単にいえば、運が良かったから。


 でも、それは偶然ではなく、彼らが生きる運命を持っていたからこそ、絶体絶命のピンチを切り抜けられたのです。


 極限状態の中で、祖父や祖母を導いた、不思議な『手』は、かつて私にも伸べられたものですが、それはまた、別のお話。





 平和な時代に生まれた私には、そこまでの過酷な経験こそありませんが、大変な困難を乗り越えてきたその生き様には、どんな言葉で説明されるよりも、強い説得力がありました。


 いつか私が、乗り越えられないほどの壁に突き当たったとき、きっと、大きな指針になってくれる気がしています。



 The proof of the pudding is in the eating.

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