第38話 二つのティーカップ

 レイム川を渡り北の丘陵地に入ってすぐ、そこは閑静な住宅街になっている。黒い瞳の人形師、ダミアンの工房はかつて忌まわしい殺人事件があった一軒家に住むようになったのは今年の4月のことである。

「おはようございます、刑事さん。ちょうどお茶にしよと思っていたところです。ああ、もしコーヒーがよかったらお入れしますが?」

 少し伸びて収まりの悪い金髪の前髪を右手でかき分け、そこから覗いた黒い瞳がベーレンドルフに微笑みかける。

「朝からすまないが二三、話したいことがある。実はけっこう急いでいる。早い方でいい」

「まぁまぁ、せっかく来たのですから、ゆっくりして行ってください。それとも僕とお話しするのはお嫌いですか? 刑事さん」

 できる限り用件だけ話をしてカペルマン刑事と合流したいベーレンドルフであったが、ニーナのこともあり、そういうわけにもいかなかった。ダミアンに案内されテーブルの席に着くと、花柄のティーカップがすでに二つ用意されていた。いぶかしげにテーブルを眺めるベーレンドルフの顔を見ながらダミアンはティーカップに氷砂糖を入れ、ティーポットから紅茶を注ぐ。

「甘いのはお嫌いですか?」

「いや、そんなことはないが……」

「コーヒーもいいですけどね。朝から糖分を取ると頭の回転がよくなりますよ」

 紅茶の香りがベーレンドルフのもやもやした頭の中に広がり、後頭部の緊張感がほぐれていく。

「そしてここにミルクを入れると、ほら、なかなかのものでしょう?」

 ミルクを玉じゃくしのような形のスプーンで紅茶の表面に円を描くようにして垂らしていく。ミルクは一旦ティーカップの底まで沈み、ゆっくりと表面に上がってくる。さながら白い花が咲いていくような光景にしばらく目を奪われる。

「オランダの東フリースランドではこうして毎日紅茶を飲むそうですよ。さぁ、温かいうちにどうぞ」

 ダミアンにすすめられるまま、ベーレンドルフは紅茶を口にする。

「ほう、うまいな」

 ベーレンドルフには、その味も香りも、どう褒めていいのか言葉が見つからなかったが、すぐに本来の目的の話を切り出そうかと思ったがその前に確認すべきことがあったことを思い出した。

「ダミアン、お前さん、俺が来ることを知っていたな」


 ダミアンは目を細めながら答えた。

「僕には千里眼があります。電話と言う名のね。そうそう、カペルマン刑事から伝言があったのでした。”合流場所の変更の可能性あり、追って連絡するまで、こちらで待機されたし”です。ですからカペルマン刑事から連絡があるまでは、僕とゆっくりおしゃべりする時間があるということですよ。刑事さん」

 つまりそれは、マークの対象であるフリッツ・ブランデンブルグが移動をしたのか、或いはそこに新聞記者のジールマンが現れたかのいずれか、またはその両方である。ベーレンドルフは右手で頭をかきながら、不愉快そうに答えた。

「では、ゆっくり、順を追って話そう。しかしこれは極秘事項だ。他言無用だ。それに質問に対しては包み隠さず答えてもらう。それが大前提だ」

 ダミアンはまるで他人事のように紅茶の香りを愉しみながら飲んでいる。

「もし、協力してもらえれば、お前の両親に関して、こちらが持っている情報を提供しようじゃないか」

 ダミアンンの表情が変わる。

「おやおや、これは、これは、脅しですか?」

 ダミアンの黒い瞳がベーレンドルフを見つめる。

「とんでもない、これは取引さ。それに人の命がかかっている可能性がある。あまり悠長に構えていられない」

「非常事態……、ということですか」

「そうだ。だがちがう。異常事態だ」

「ほう。僕を訪ねてきたということは、僕の専門――人形に関することですか? まさか墓荒しのことじゃないでしょうね」


 ダミアンは飲んでいた紅茶の香りをもう一度じっくりと味わい、ソーサーの上に置いた。

「その両方ということになるかもしれない。一つはお前さんのよく知っている人形のことだ。例の預かっているアメリア夫人のオートマタだ」

 ベーレンドルフも紅茶を置き、前かがみになってテーブルの向こう側のダミアンに語りかける。

「すまん。オートマタが何者かによって盗まれた。昨日の深夜から明け方にかけてのことだ。面目ない」

 ダミアンは何も言わない。ベーレンドルフの次の言葉を待っているようだった。

「何者かという点については、今、対象者の居場所をカペルマン刑事が張っている。さっきの電話は、その対象者が移動したので、合流場所の変更の可能性があるという話だ」

「それで?」

 どうやらダミアンは知っていることをすべて話せと言っているようだった。

「警察関係者以外で夫人のオートマタが警察署の保管庫にあることを知っているのは三人。一人は入院中のベルンシュタイン卿。一人は昨日、取り調べを受けていた夫人と不義の関係にあったブリッツ・ブランデンブルグ。もう一人は署に出入りしている地元新聞紙の青年だ。彼らは偶然そこに居合わせて、夫人のオートマタを目撃してしまった。もちろん人目に触れないようにシーツを掛けておいたのだが――」

「手足は縛ってあったのですか?」

「ああ、猿轡もしていた。言われたことはきちんとやっていたそうだが、署の中の誰かがいたずらをしたのかどうかはわからない」

「ふむ、或いは夫人のオートマタが自分でシーツをはぎ取ったかもしれない。そういうことですか?」

 ベーレンドルフは即答を避けた。

「そのとき、ブランデンブルグ氏と夫人のオートマタは顔を合わせた?」

「ああ」

「氏は、話しかけた」

「そうだ。まさか、こんなことになるとは……」

「でも、だからといって、簡単に盗まれ過ぎでしょう」

「それなんだが、実は夕べ、そのオートマタが人を――警備の人間を襲った」

「警備の人間? はぁ、さてはいたずらした張本人じゃないですかね?」

 ダミアンはいつもの意地悪そうな笑みを浮かべながら紅茶を口にする。

「幸い軽症で済んだのだが、それで他の警備担当者に保管室に近づかないよう指示をした。その間隙を狙われた」

 ベーレンドルフはそう吐き捨てると残った紅茶を一気に飲み干した。解けた氷砂糖の甘さが頭に響いた。

「悪い偶然が重なったように見えますが、なるほど。夫人と恋仲にあった人と顔を合わせたというのは、必ずしも偶然ではないのかもしれませんね。あれを普通の人形と同じだと思ってはいけません。何せ、究極のオートマタを作ろうとしている僕が作った作品です。人と同じような扱いをしてもらわなければ困ります」


 ダミアンの言いようは、不敵であり、不遜であった。事情はどうであれ、ダミアンが作った人形によって一人の警察官が負傷を追ったのである。そしてその人形の行方は現在不明なのである。第二第三の被害がでないとも限らない。

「偶然じゃないとは……、どういうことだ?」

 ベーレンドルフは注意深く疑問点を潰していくしかなかった。

「そのブランデンブルグ氏――でしたっけ? その方が来ることが決まったのはいつです? そしてその話が夫人のオートマタの耳に入った可能性はありませんか? 刑事さん」

 ベーレンドルフは記憶をたどった。ベーレンドルフ刑事はブランケンハイム刑事部長に聞かれたくない話を、ときどき取調室や保管室にカペルマン刑事を呼び出して話すことがある。ブランデンブルグを取り調べることについて、部長に許可を取るかとらないかでカペルマンと話したことがある。


 それは確かに保管室の入口付近だった。

「まさか、そんなことって――」

 夫人のオートマタの耳を塞ぐ事まではしていない。

「ちゃんと僕に整備をさせてもらえれば、こんなことにはならなかったのになぁ。まぁ、僕にも責任がありますか。無理やりにでもこちらで引き取るべきでした。残念です」

 ダミアンの言い草は、嫌味にしか聞こえなかった。

「まぁ、でも、そうですね。これに関しては、僕は見返りを求めることはしませんよ。アフターサービスの一環としてお引き受けしましょう。僕も自分が作ったオートマタで人が死んだなんてこと、嫌ですからね」


 ベーレンドルフは大声を出したい気持ちをぐっとこらえてダミアンを睨みつけた。耐えることができたのは、ダミアンが入れてくれた紅茶の香りのおかげなのかもしれないが、すべてダミアンの手のひらの上で踊らされているような嫌な気分にベーレンドルフの顔は歪んだ。

「いやだなぁ、そんな怖い顔しないで下さいよ。紅茶、もう一杯いかがです?」

「いや、コーヒーにしてもらおうか」

「はい、かしこまりました。では、当工房自慢のコーヒーを入れて差し上げましょう」

 ベーレンドルフは、大きくため息をついた。

「やれやれ、今日も長い一日になりそうだ」

 ベーレンドルフは胸のポケットから煙草を取り出し、マッチで火をつけた。

「それは羨ましい。僕にはやりたいことがいっぱいあるので、一日は長ければ長いほどいいのですけどね」

 ベーレンドルフはダミアンが差し出した灰皿に右手を二三度振って消したマッチを置き、そこから立ち昇る煙をじっと眺めていた。


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