第36話 エルヴィン・ディートリヒの奇行

「父の様子がおかしいんです」

 ブレーメン警察署に、訪ねてきたニーナ・ディートリヒは、ベーレンドルフが運転する愛車、アドラー社の白いフェートンの助手席にいた。アドラーでは、当初フランス製のエンジンを採用していたが、のちに独自でエンジンを開発し、第二次大戦中においては軍用車やオートバイを製造するに至る。アドラーとはドイツ語で鷲を意味し、ベーレンドルフは鷲を模したフードクレストマークがお気に入りだった。

 この時代の車両は運転中に会話が楽しめるほどエンジン音は静かではなかったが、ベーレンドルフはよくメンテナンスをしていたのと、車に負担の少ない運転を心がけているので、ニーナが大きな声を張り上げなくとも会話はできた。

「おかしいというのは具体的にどういうことですか。確か医者をなされているとか」

 ブレーメン市内の医者であればおよそベーレンドルフの頭に入っているのだがディートリヒという医者の名前は記憶になかった。

「父は医者と言っても診療所を構えているわけではないのです。専門は生理学や薬物学で、最近まで大学の研究施設に勤めていましたが、昨年それらの研究を急にやめると言って研究所にはいかなくなりました。以前から研究所に努める傍ら、町医者をやっている医師から要請を受けてお手伝いをすることが度々あって、仕事と言うよりはボランティアのようなものなのです。今は週に2回か3回、その手伝いをやっています」

 ニーナはベーレンドルフの運転の妨げにならないように、言葉のテンポや大きさを調整しながら、時にベーレンドルフに肩を寄せるように話をした。二人を乗せた車は、ブレーメン署から北に向かっていた。ニーナがベーレンドルフに伝えた目的地――そこにいる人物はベーレンドルフが一番、いや、二番目にニーナと一緒に会いたくない人物だった。一番目は黒い瞳の人形師、ダミアンであり、二番目とはニーナに紹介した旧友、ユルゲン・キールマンであった。

「車はその日のうちに修理していただいたの。でも、応急処置だから、用事が済んだら一日車を預けろと言われて……、有無も言わさずその日の夕方に車を預かって頂きましたわ。これから車を引き取りに行くところですの。もしご迷惑でなければキールマンさんのところまでよろしいかしら?」


 キールマンの整備工場はレイム川沿いにある。ダミアンの工房は川を渡って車で10分くらいの距離である。キールマンの父親は造船所で働いており、腕の立つ技術者だった。息子のユルゲンも機械をいじるのが好きだった。だが、似た者同士が必ずしも仲がいいわけではない。二人は事あるごとに対立をし、父は船、息子は新しい技術である自動車を選んだというわけである。ベーレンドルフとは幼馴染で、子供のころは模型の船を作ってよく川で遊んだ。しかし、街中に自動車が走り出すようになると、ユルゲンの関心は自動車に向かっていった。ベーレンドルフの自動車好きはキールマンの影響が大きい。自動車のことについて唯一頭が上がらない存在――それがユルゲン・キールマンだった。


「なるほど。私が知らないのも当然ということですか」

「父はそのことについて――つまり急に研究所を辞めたことについて何も話してはくれません。普段からそれほど仕事の話を家でする人ではなかったのですが、それでも研究がうまくいっているときは上機嫌で、医学がまた一歩、進歩したってワインで祝ったりしたものです。あれほど好きだった仕事を急に辞めるなんて、もしかしたら身体の具合が悪いんじゃないかと――実は母は私が18の時に病気で亡くなっていて、それからずっと親子二人きりなんです。私に気を使って病気のことを隠しているのかとも思ったんですが、特にそういうこともないようで」

 ベーレンドルフは、車のスピードを抑えて運転した。実際道路も混雑し、それほどスピードも出せない。会話をするのにはちょうど良かった。

「するとお父様は、何か辞めなければならない、問題を抱えている――そうお考えなのですね。そしてそれについて何か思い当たる節があるということですか?」

 ニーナは小さくうなずき、話し始めた。

「父は研究所を辞めてから、以前にもまして家からでなくなりました。書斎でずっと何か調べ物をしているらしく、私が部屋にコーヒーを持っていったりすると、それらを私の目の届かないところに追いやります。父は、嘘をつくのが下手ですから、すぐに隠し事をしているの、わかっちゃうんです。ですから最初は自分の病気のことを調べているんじゃないかと思って、心配で――それで、父が留守の間に、私、父の書斎にこっそり入って引き出しの中を見たんです。そおしたら何があったと思います?」

 やや、考えてベーレンドルフは応えた。

「もしかしたら、何もなかった?」

「そうなの。私に見られまいと、鍵のかかっていないところには、何もなかったんです。こんなこと、今までにはありませんでした」


 ベーレンドルフは考えた。身内に隠して置きたいこととはどんなことであるのか。もし自分の病気のことだったりした場合、はたしてそこまでするだろうか。ニーナの父親の人物像がまだはっきりしないだけに、早計に判断はできないが、娘である彼女は、聡明でただ心配性な娘とは違っている。まして他人に相談をするというのは、やはり、よほどの違和感があるのだろう。

「他にも何か気になることがありますか。お父様の――そう、お父様の名前は?」

「父はエルヴィンと申します。エルヴィン・ディートリヒと申します。ええ、刑事さん、今日、このお話をしようと思った一番の理由はその、ある出来事がきっかけなのです」

「それは?」

「墓荒し」

 その言葉を聞いてベーレンドルフは車を路肩に止めた。

「なんですって?」

「父は墓荒しを調べているらしいのです」

 ニーナは彼女らしくない、浮かない表情をしていた。

「具体的にどういうことですか?」

「父がお手伝いをしているのは、病気で苦しんでいる人、それも重症で助かる見込みのない患者さんの家を訪問して、症状に合わせた薬を処方することです。つまり病を治すためではなく、苦痛を和らげる薬――もっと言うと安らかに死を迎えるための薬です。もちろん、かかりつけの医師と相談して、場合によってはご家族や本人にもそのことを告知しますが、大概は、こちらの判断で行います。そういうこともあって、つまり、病気で亡くなる方を最後まで看取るということもあり――」

「なるほど、それで教会や墓地とはつながりがあるわけですね」

「はい、電話で話しているのを聞いてしまったんです。"墓荒しがあったのは本当か?"とか"遺体の状態はどうだったか"とか。私、気味が悪くて。なんで父がそんなことを調べているのか。それに、その墓と言うのが――」

「まさか、オスターホルツァー墓地に眠る、ある殺人事件の被害者の墓……、ということはないでしょうね」

 二人は顔を見合わせ、次の言葉を探した。そしてどちらともなく、その人物の名前を口にした。


 ”ブルース・エルスハイマー”


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