第35話 ニーナの訪問
ベーレンドルフ刑事がニーナ・ディートリヒと出会ったのは1週間ほど前のことである。『ブルース・エルスハイマー惨殺事件』――5年前、ブレーメンの市内中心部を流れるヴェーザー川の支流、レウム川の北側に位置するブレーマー・シュヴァイツ(ブレーメンのスイス)と呼ばれる丘陵地、そこは閑静な住宅街であったのだが、ブルース・エルスハイマーという男の遺体が発見された。遺体の首は胴体から切り落とされ、テーブルの上に置かれていた。犯人の有力な手掛かりがつかめないまま、五年の月日がたったある日、空き家だったその家に、独りの青年が引っ越してきた。名をダミアン・ネポムク・メルツェルという23歳の若者は、鮮やかな金髪の前髪の隙間から除く、黒い瞳が特徴で、精巧なオートマタを作ることを専門としている。
その青年そこでの最初の仕事は、事件の容疑者として名を連ねた男から被害者の生首のオートマタを作ることであった。事態は急変する。精巧に作られたそのオートマタが未解決事件の真犯人――容疑者であり、被害者と親交のあったヴィルマー・リッツの妻、エマ・リッツが夫と被害者との間に"ただならぬ関係"にあったことによる嫉妬が端を発し、複数の人間の思惑が絡んだ事件であったことを解き明かしたのであった。
ベーレンドルフは人形師ダミアンに対して強い興味と警戒心を持ち、なぜ、人知を超えるような精巧なオートマタを彼が作るのか、その理由を尋ねて事件後に彼の家を訪れる際、道端で車が故障し、往生しているところをベーレンドルフが手を差し伸べたのが市内で医者を務める父親の手伝いをしている彼女――ニーナであった。
ブレーメン警察署の朝は慌ただしく、署員や警察署に許可申請を取りに来た人、収監された容疑者への面会人など、様々な人が往来している。ニーナは警察署の2階に上がる階段を降りたところの少し広くなったスペースでベーレンドルフを待っていた。用事を早く済ませたかったベーレンドルフはそのまま、そこで話を始めた。
「この前は助かりましたわ。おかげでその日のうちに車を修理していただいて――キールマンさんって、とても面白い方ですわね。言葉は少ないですが、とても腕のいい整備士さんですわ」
ベーレンドルフはエンジントラブルであることはすぐに分かったが、あいにく道端で修理する暇もなかった。自分が一番信頼している修理工、ユルゲン・キールマンを彼女に紹介したのだった。
「あれは変わり者でね。人と話をするより機会と話をするのが好きな奴でね」
ニーナは細くて白い左手を口元にあててクスクスと笑った。ブロンドの細く長い髪が肩から胸元に滑り落ちる。
「ごめんなさい、キールマンさんも刑事さんは変わり者で、機械と刑事の仕事が恋人みたいな奴だっておっしゃっていましたわ。お二人とも、仲がいいのね、羨ましいわ」
話しながらもベーレンドルフは以前あった時とニーナの印象が少し違うことに戸惑っていた。あの時は車を運転していたので、着ている衣服が違うということもあるが、それは違和感にはならない。それが何かを探りながらベーレンドルフは所在無さげに右手で頭をかき、一言、二言キールマンの悪口を言ったが、ニーナを愉しませるだけで何一つ状況を打破できずにいた。そこにベーレンドルフを探しに2階から降りてきたアーノルド刑事が、階段の踊り場で二人を見つけ声を掛けてきた。
「お話中失礼します。カペルマンから電話が入っていますが、どうします?」
アーノルド刑事の顔はベーレンドルフを向いていたが視線はニーナの頭のてっぺんから足の先まで、きっちりと品定めをしている。
「ああ、今行く!」
ベーレンドルフはアーノルド刑事を追い払うように大きな声を出したが、ニーナが困ったような表情をしたのですぐに謝った。
「すいません。少々仕事が立て込んでいまして」
「あっ、あのぉ、すいません。もし、お忙しいようでしたら、また伺います。できたら少しお話をしたいのです。またお会いしていただけるかしら」
ベーレンドルフはニーナの様子から何か話したいこと、相談したいことがあると察知した。若い女性は苦手だが、困っている女性を放っておくことはできなかった。
「すいません。このあと出かけなければならないのですが、もしよろしければご自宅か、仕事先まで車でお送りしましょうか? その間に多少なりともお話はできるかと思うのですが、いかがです?」
ニーナの表情に笑みが浮かんだ。そこで初めてベーレンドルフはかすかな香りに気付いた。前にあった時と印象が違うのは着けている香水が違っていたのである。ベーレンドルフの脳裏に黒い瞳の人形師の顔が思い浮かぶ。
「でも、方向が違ったら、お仕事の邪魔になりませんか?」
「いえ、私も市内をいろいろと回るところがあるので、東でも西でも問題ないですよ。ちょっとここで待っていて下さい。すぐに終わりますから」
ベーレンドルフはニーナをその場に待たせて、階段を駆け上がっていった。階段の踊り場で後ろを振り返るとニーナが所在無さげに目の前を往来する人を不安げに眺めている。どうやら今日一日、ベーレンドルフの元には厄介ごとに事尽きないようだと腹をくくるしかないと思い知らされた。
「待たせたな。代わろう」
ベーレンドルフが来るまでの間、アーノルド刑事がカペルマンと電話で話しながら何かメモをとっている。
「ベーレンドルフ刑事が戻ってきた」
アーノルドは受話器をベーレンドルフに渡した。
「俺だ。何か分かったか」
「ジールマンですが、今朝は新聞社に出社していないですね。彼の住所を聞き出しました。アーノルドに伝えてあります」
アーノルドはメモした内容を別の紙に書き写し、ベーレンドルフに手渡した。そこには"コンラート・ジールマン、25歳"という記述と市内の住所が書かれている。
「今からブランデンブルグの店に行きます。ジールマンが出社したらそちらに連絡するように知り合いの記者に頼んであります。名前はシュルツ。彼のデスクの番号もアーノルド刑事に伝えてあります。何かわかったらまた連絡します」
アーノルド刑事はもう一枚メモを書いてベーレンドルフに渡した。
「俺は今から……」
ふと視界にブランケンハイム刑事部長の不機嫌そうな顔が目に入った。ベーレンドルフは声のトーンを3つほど下げて"ダミアンのところの車で向かう"と言い、そのあと元の大きさに戻して"予定通り、午後には合流だ"と言って電話を切った。それを見た刑事部長が目でこっちに来るようにと合図を送る。
「ベーレンドルフ、また勝手なことはやっていないだろうな」
部長の大きな机には、すでに承認待ちの書類が何枚も積み重ねられている。ブランケンハイムは一枚一枚に目を通しながらベーレンドルフを睨みつける。
「はい、予定通り、本日よりカペルマンはじめ、アーノルドと私は例の事件の実行犯逮捕に向け捜査を開始します。アーノルド刑事には連絡の中継役として昼間では署内で待機し、状況に応じて別の署員にも協力してもらえるよう本部的機能を担ってもらいます」
「結構、くれぐれも、勝手な真似はしないように、報告は迅速に、正確に、そして簡潔にだ」
「では、聞き込み捜査に行ってきます」
ブランケンハイム刑事部長は、目を通した書類にサインをすると大きな音を立てて承認の印を押した。ベーレンドルフは逃げるようにその場を後にした。
「さぁ、行きましょうか。車を玄関まで回しますから、入り口の前で待っていて下さい」
明るく返事をしてベーレンドルフに微笑みかけたニーナであったが、ベーレンドルフの"刑事の目"には、不安を隠し、明るさを取り作ろうとしているようにしか映らなかった。
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