第31話 ナイトシフト
ブレーメン署の一日は長い。機能としては24時間だが、通常業務は午前8時から午後8時までとなっている。それ以外の時間は非番の署員が緊急事態に備えて常駐している。彼らの任務は主に夜間の緊急連絡対応と署内の見回りである。署内には拘留施設があり、常時数人の容疑者や連行された不審人物が狭い牢屋の中に拘留されており、3時間おきに見回りをする決まりになっている。
ローベルト・アイゼンシュタットはランチを取りに自宅アパートに帰ったあと仮眠を取り、夜7時に出勤し、その任にあたった。署内は8時を過ぎても報告書をまとめたり、書類を整理したりする者が残っているが9時を前にすると灯りがついている部署は少ない。この日、非番でない者で最後まで残っていたのはベーレンドルフ刑事とカペルマン刑事であった。
「ふむ。このあたりがやはり限界だろうな。理想的にはあと3倍くらいの人員が欲しいところだが……」
ベーレンドルフは”アメリア・ベルンシュタイン殺人事件及び偽装連続殺人事件”の今後の捜査方針についてまとめられた書類に目を通しながら根元まで火のついたタバコを灰皿に押し付けて火を消した。山盛りになった灰皿から吸殻が零れ落ちそうになるのを気にしながらカペルマンは申し訳なさそうに答える。
「さすがにそれは難しいでしょう。この先一月、何も事件が起きないというのなら別ですが……」
「ああ、そうとも。今こうしている間にも、町では盗みや不正な取引をしている奴はいるだろうし、明日の犯行の計画を練っている連中もいるだろう」
実際、このとき、新聞記者のジールマンとブランデンブルグは密会をしていたのだが、それを知る由もなかった。ベーレンドルフは椅子の背もたれに思いっきり体を預け天井を眺めながら続けた。
「仮にだ。もしそれらの犯罪が行われることが事前にわかったとするとだな。ざっとあと5倍は警官の数が必要になるだろうな」
「それに牢屋も足りなくなりますかね」
カペルマンは気の利いた冗談を言ったつもりだったが、実際すでに今のブレーメン署は機能障害を引き起こしている状態であっただけに、笑える話ではなかった。ここ10年での人口の増加に伴い、犯罪の数もそれ以上に増えている。実際の検挙数は5倍くらいであったが、それは警察機能が犯罪の増加数に対応できていない結果に過ぎない。警察は事件に対してその都度優先度を決めて動くしかない。その意味では凶悪な連続殺人事件はまさにそれに該当するわけだが、事件の真相が解明され、更なる犯行が続く可能性がゼロであることを鑑みると、そこに少ないリソースを割くわけには行かないのが現状である。
「相手がプロである以上、こちらも意地がある。このような悪は一番放置しちゃいかんのだがな」
ベーレンドルフは両手で頭をかきむしり、頭を振った。
「明日これを部長に見せてくれ。いい顔はしないだろうが、怒鳴られることはないだろうよ」
カペルマンは差し出された書類を手に取り、どうして自分がという顔をした。
「俺から出すと部長の機嫌が余計に悪くなるからだよ。それに朝一で来客があるんだが、正直、変わってもらえるのならこっちを任せたいくらいなのさ」
「来客……ですか?」
「ああ、別にたいした用事じゃないんだ。何もわざわざ礼を言いにこなくてもいいと言ったんだが、まるで聞き耳をもたない。どうして女ってやつは、いつもああなんだか、俺にはさっぱりだ」
カペルマン刑事は事情がわからなかったが状況は飲み込めた。ベーレンドルフの女嫌い、特に若い女性の扱いは大の苦手で、本人は断ったのだろうが、強引に話を進められてしまったということなのだろう。わざわざ礼を言いに来るというのは、命にかかわるような重大なことでないのであれば、おそらくはその女性、多少なりともベーレンドルフに好意を持っているのだろうが、それこそ、ベーレンドルフにとっては一番困ることなのである。
ベーレンドルフは自覚していないが、彼が女性を苦手にしていること自体が一部の女性の興味を引くことになっているのだとブレーメン署きっての色男――アーノルド刑事などは言う。
「だけど何事も賞味期限というのがある。女性はどんなに相手に興味を示しても、自分自身が無視されることにいつまでも我慢できないものなのさ。昨日食べたいと思ったショウウィンドウのケーキを明日も食べたいかと言えば、そうとは限らない。なぜならケーキを食べたいという行為は、別の食べ物で代替されてしまうからさ。何も食べずに一日我慢できるほど、人間は辛抱強くはできていないのさ」
それほどうまい喩えだとは思わなかったが、それを聞いてもベーレンドルフがまるで意味がわからないというところが、やはりこの人が今まで結婚できない理由であるとカペルマン刑事は思った。そしてそんな上司を敬愛していた。
「まぁ、文句を言いに来るわけじゃないのですから、いいじゃないですか」
慰めたつもりが、ベーレンドルフには嫌味に聞こえたらしく、少し機嫌を損ねた様子だったが、この時間、さすがに疲れているのかいつもの毒舌の反撃は帰ってこなかった。
「帰りましょうか」
カペルマン刑事に何か言い返そうと思いはしたものの、これ以上不毛なやり取りをするよりベッドが恋しくなったベーレンドルフは、ふと妹に頼まれていた買い物を忘れていたことを思い出した。
「しまった。またやっちまった。妹にワインを買ってくるように頼まれていたんだっけ。ファーレンハイトはまだやっているかな」
時計を見ると9時をすでに回っていた。ファーレンハイトの店は南ドイツの良質のワインが揃っている人気の店である。店主のファーレンハイトは腕のいい料理人でもあり、ブレーメン署の近所にあるためベーレンドルフは好んでこの店を利用している。
「それは急いだほうがいいですね」
「すまない。戸締りをよろしく」
ベーレンドルフは大慌てでブレーメン署をあとにした。カペルマン刑事は、ベーレンドルフが山盛りにした灰皿を片付け、戸締りを確認して刑事課の部屋の明かりを消した。ちょうどそこに非番のローベルト主任が見回りに現れた。
「遅くまでご苦労なこって。ベーレンドルフ刑事が慌てて出て行ったけど、何か事件でもあったのかい?」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、ローベルト主任が話しかけてきた。
「まぁ、事件といえば事件ですかね。妹さんに頼まれていた買い物を忘れでもしたら、いったいどんなことになるやら」
「そりゃ、一大事だ」
ローベルト主任が大声で笑う。カペルマン刑事はそこまで大笑いをすることはないだろうと思いながらも付き合って愛想笑いをした。二人の笑いが終わるタイミングで、妙な物音がどこからともなく聞こえた。
「今、何か聞こえなかったか?」
先に声を出したのはカペルマンだった。ローベルト主任もその音に気付いており、すでに聞き耳を立てていた。
「ああ、確かに何か聞こえたな」
「ベーレンドルフ刑事が戻ってきたとか?」
「いや、玄関のほうからじゃないな。今の音は」
カペルマンの疑問を否定しながらローベルト主任は音の出所を探している。
「こっちから聞こえる」
ブレーメン警察署は地下1階、地上2階建ての建物で、刑事課は2階にある。ここには他に取調室、証拠品保管室、資料倉庫、仮眠室などがある。地下は主に牢屋と重火器の保管庫。1階は交通課や庶務課をはじめ、一般市民の相談窓口や許可申請窓口などがある。物音は階段の方からではなく、奥の部屋――取調室と保管室のある方角から聞こえる。この時間に取調室に人がいることはない。二人の脳裏にある噂が浮かんだ。
「まさかアメリア夫人の人形が……」
「そんなはずはない、あれは僕らが!」
カペルマン刑事は思わず両手で口を塞いだ。
「どういうことだ?」
大先輩のローベルト主任に問い詰められ、カペルマン刑事はおどおどするしかなかった。
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