第32話 保管室の物音

「最近、保管室で妙な物音が聞こえることがあるって、そんな話を聞いたことがある。俺はてっきり単なる噂だと思っていたんだが、こいつは驚いた。まさか本当だったとはね」

 非番のローベル主任は静かでゆっくりとした口調でカペルマン刑事に話しかけた。

「いや、ですからそんなはずはないんです。その噂は噂でしかない。それは僕が一番よく知っていることなんですよ。ローベル主任」

 ローベル主任もカペルマン刑事も、ブレーメン署の中では大柄なほうで、190センチ近くある。ローベル主任は気の弱そうな者なら話しかけることもできないほど、迫力と威圧感があるが、人柄は温厚で気さくな男である。もちろん、職務で必要な範囲内では強面であるし、腕っ節は署内でも強いほうである。それに対してカペルマン刑事は、体躯の大きさよりも、人柄の良さがにじみ出てくるタイプで、背が高いが腰は低く、決して人を威圧するようなことはしなさそうに見える。実際上司であるベーレンドルフも彼が他人を威嚇したり、暴力に任せて恫喝したりするようなところを見たことがなかった。しかし決して気が弱い男ではない。無駄に何かを恐れたり、気後れしたりするようなことはない人物であった。しかし、今、そのカペルマン刑事が不気味な音に慄いている。

「なんだよ、ビビっているのか?」

「そうじゃありません。あるはずのないものがあったので驚いているだけです」

 ローベル主任は首をかしげる。

「なんだ。そのあるはずのないものって。幽霊でもいるっていうのか?」

 カペルマン刑事は警戒心を強めながらゆっくりと物音がする方向へ歩き出す。

「あの噂、保管室でおかしな物音がするっていう話、実は僕とベーレンドルフ刑事が流したデマなんです」

 ローベル主任が腰に下げた警棒に手をかける。

「なるほど、あの人形が夜な夜な動き出すとか、そういう話はあんたたちの流した嘘だってことか」

「ですから、実際に音がしているってことは、状況としてまずいってことなんです」

「おいおい、まさか、本当に人形がひとりでに動き出したとか言うんじゃないだろうな」

「そうであって欲しくないという話です。誰かがこんな時間に勝手にあの人形を触ろうとしているのだとしたら、それもそれで危険な話なんですが、もし誰もいないのに、あの人形がひとりでに動き出したというのなら――手に負えないかもって」

 ローベル主任はまるで状況が飲み込めていなかった。警察署に不審な人物が忍び込んだというのであれば、相手がふたりまでであれば、自分たちでおそらく対処できるであろう。だいたい、逃げ場はないのだから、退路だけ絶てばいい話なのである。何が危険なのか。

「おいおい、頼むよ。お前さんの様子からただ事じゃないっていうのはわかるが、せめてもう少し俺にわかりやすく話してくれないか?」

 ローベル主任は先を行くカペルマンの肩を掴み、引き止めた。

「まず、僕らがなんでそんな噂を流したかといえば、あの人形をできるだけ誰にも触られたり、見られたりしたくなかったからなんです。その理由は二つ。あの人形を作った人間からそのような注意をうけていたことです。そしてもう一つ、あの人形は実際につい先日、勝手に動き出して一人の男の股間を噛み千切ったんです。あまり信じてはもらえないかもしれませんが、あの人形には自動で動く仕掛けがしてあるということです」

 カペルマン刑事の話す顔を見て少なくとも彼に自分を騙そうとかからかおうという意図は感じられなかった。長年警察に努めているローベル主任にとって、そのあたりを見分けることは造作もないことだった。しかし、それでもまだよく状況を飲み込めていなかった。

「つまり、あの人形はただの人形じゃなく、猛獣みたいなもので、今は眠っているが、もし万が一、誰かがいたずらして……つまり虎の尾を踏みでもしたら大変ってことか」

「虎なら尾は一つなんですがね。あの人形にはそうしたスイッチみたいなものがいくつかあるようで、僕にも良くわからんのです。ですからもし誰かがいたずらにあの人形に触ったりすると」

「ガブっとやられるわけか。それであの人形、猿轡をしたり、両手両足を縛っていたりしたんだな。それにしても――悪趣味だな。そんな物騒な者を作る奴の気が知れない」

「まぁ、もっとも。あの人形がなければ、事件の真相も闇の中だったかもしれないので、重要な証拠品なんですよ。壊しでもしたら大変だ」

 カペルマン刑事はローベル主任の腰に下げている警棒を指差した。ローベル主任は首を横に振りながら両手を上げてなるべく警棒は使わないとジェスチャーで示した。二人は刑事課の出口から物音がする方向へ再び歩き始めた。廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右に行ったところにその部屋はある。曲がり角に差し掛かり、ふたりは慎重に部屋に続く廊下を覗き込む。人の姿はない。物音は左側の壁の向こうから聞こえてくる。

「間違いない。保管室からだな」

 その物音は何か硬いものと硬いものが当たるようなカチカチという音だった。

「何の音だと思う?」

 ローベル主任は部屋の壁に耳を当てながら言った・

「あまり想像したくないですが……」

 カペルマン刑事はそう言いながら口を大きく開けて、そしてやや力を入れて歯と歯をかみ合わせた。カチっと言う音が廊下に響く。

「やれやれ、股間がそわそわするぜ」

 ローベル主任は、股間の辺りを右手で押さえた。

「誰かそこにいるのか!」

 カペルマンが大声を出す。カチカチという音がやんだ。

「返事をしろ。誰かそこにいるのか」

 カペルマン刑事はローベル主任に目で合図を送る。あえて自分の存在を相手にしらせることで、まずその反応を確認し、なおかつ相手に自分しかいないということをアピールし、こちらが1人であると相手に誤認させる意図があった。ローベル主任はその意図を汲み、静かに歩みを進める。カペルマンはわざと相手にわかるように足音を立てて保管室のドアに近づいた。

「誰かいるのか。中に入るぞ!」

 ローベル主任がドアを開ける。すぐさまカペルマン刑事が銃を構えて開け放たれた保管室の入り口に仁王立ちになる。ドアとカペルマン刑事の間をすり抜けローベル主任が部屋の中に入り、明かりをつける。数回の点滅の中、二人は固唾を呑んで保管室の中に動く影を探す。静寂が二人を招き入れる。

 保管室は死角が多い。二人は慎重に物陰に潜む何者かの可能性を一つずつ潰していく。棚の物陰や部屋の隅を一つ一つ確認する。物音はしない。二人は常に部屋の奥に並べられた長机に上にある物体を視界に納めるように心がけた。その物体はちょうど人と同じ大きさで、上から白いシーツがしっかりとかけられている。昼間はなぜかシーツが中途半端な状態にかけてあり、カペルマンの見ている前でズレ落ちたのであった。昼間のうちにしっかりとシーツをかぶせたのだが、果たしてそのときよりも心なしか下にズレ落ちているようにカペルマンには見えた。

「どうする?」

「念のため、中を確認しましょう」

 ローベルト主任がシーツに手をかけようとしたとき、その手をカペルマンが掴んで制止した。

「気をつけて、いささか慎重にも度が過ぎるといわれるかもしれませんが、それを使いましょう」

 カペルマン刑事はローベルト主任の腰にかけた警棒を指差した。

「おいおい、よしてくれよ。脅かしっこなしだぜ」

 ローベル主任は手を引っ込め、警棒を腰から外し、シーツを下から捲り上げるようにして中をのぞいた。しっかりとロープで縛られた足が見える。その足は白く、美しい。まるで本物の女性に悪戯をしているようなおかしな気にさせられた。

「なるほど、こうやって見ると、良くできている。まるで本物の人間みたいだな」

 人形は女性もののドレスを着ている。カペルマンはそれが亡き、アメリア婦人が実際に使っていたものであることをしっていたが、そのことを今言うべきではないと思った。太ももからよく引き締まった腰。腕は後ろでに縛られている。ドレスの上からでもわかる豊満な胸を見た段階で、ローベル主任は自分がやっていることが、何かとても恥ずかしいことをしているように思え、顔をあいている左手で覆った。

「大の男二人して、いったい何をしているんだか」

 もはや笑うしかない。そんな心境になり、クスクスと笑い始めたそのときであった。


 カチカチカチ、カチカチカチ


 人形の頭の辺りから例の音が聞こえた。ローベルト主任は音に驚き、思わず乱暴にシーツを上に捲り上げた。次の瞬間、ガチっという音を立てて、ローベルト主任の右手が動きを止める。警棒が何かに掴まれた――いや、噛まれたのである。とっさにローベル主任は警棒を手前に引いた。それは最悪の選択であったが、人間であれば当然の反射反応である。

「手を離すんだ!」

 カペルマン刑事が大きな声を出す。しかし間に合わない。ローベルト主任は警棒を引っ張ることで同時に警棒に噛み付いたそれを自分に引き寄せてしまったのである。両手両足を縛られた人形はシーツを被ったままローベルト主任に向かって倒れこむ。


 シャアアアアアア!


 それは猫が相手を威嚇するときのそれに似ていたが、もっと不気味で、威圧的で、不快な音であった。それまで何かに固定されていた右手の自由がもどった。それは噛み付いていたものが、警棒を放したことに他ならない。つまりそのアギトは、次の獲物に噛み付く準備をしているということになる。


 ぎゃああああああ!


 それはローベルト主任の悲鳴であった。シーツが鮮血に染まっていく。

「主任!」

 カペルマン刑事がローベルト主任の右足に覆いかぶさったシーツを剥ぎ取る。

「畜生!」

 アメリア夫人のオートマタの噛み切られた猿轡が床に落ちている。夫人の口は大きく開かれ、ローベルト主任の右足のふくろはぎに噛み付いている。無理やりに引き離せば傷口がどうなってしまうのかを想像し、カペルマンは対応を躊躇する。

「主任!」

 ローベル主任は右手の警棒を思いっきりオートマタの頭めがけて振り下ろそうとしたが、ギリギリのところで思いとどまった。

「貸して!」

 カペルマン刑事はローベルト主任の手から警棒を奪い取り、警棒の頭をオートマタの口の隙間にねじ込もうとした。

「少し痛いかもしれませんが、我慢してください。主任」

 カペルマン刑事の処置は適切だった。警棒を口元に当てられたオートマタは、噛む目標を警棒に変えたのであった。カペルマンはオートマタをそのままローベルト主任から引き離し、オートマタにかけられていたシーツを引きちぎって、傷の応急手当をした。幸いふくろはぎの皮膚を幅3センチほど噛み千切られて吐いたが、傷は筋肉組織までには至っていないようだった。


「すぐ医者を呼びます。下の階まで移動できますか?」

「ああ、なんとか大丈夫だ。思ったより傷は浅いようだ。しかし、なんなんだ。この化け物は……、畜生、冗談じゃない」

「僕にも何がなんだか。ともかくここを離れましょう」

「そうだな。まったく薄気味悪ったらありゃしない」

 カペルマン刑事はローベルト主任の肩を担いで保管室の外に出た。振り返るとそこには警棒をくわえたままのオートマタと目が光っていた。カペルマンはそれがオートマタの流した涙に見えたが頭を数回振り、保管室のドアを閉めた。


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