第30話 闇に接するもの

 ブレーメン北部にあるブレーマーハーフェンは、1827年、ブレーメン市長のヨハン・シュミットのもとで、ブレーメンの外港として建設されたその名の通り『ブレーメンの港』である。ブレーメンはライン川からエルベ川、または北海から南ドイツに向かう交易の十字路に位置し、交易の要として発展した都市である。1186年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が、ブレーメンに自由都市の特許を与え、1241年のワールシュタットの戦いを期に、東の自由都市であるリューベックとハンブルクが結んだ都市同盟にも参加し、ハンザ同盟を形成する商業都市として発展をしてきた。19世紀になるとドイツの海洋交易発展の中心となり、1817年にドイツ初の蒸気船を建造するに至り、ブレーマーハーフェンはブレーメンの造船、交易の前哨基地としてその後建設されたのである。

「今回の件、思わぬところから横やりが入った形になりましたが、今のところ警察の手はこちらに及ぶことはないと存じます」

 その港の倉庫街の一角に密談する人影がある。二人とも深く帽子をかぶり、目元は見えない。ロングコートに身を包み、手に革製の手袋をはめている。ブレーメンの気候は海洋の影響で比較的温和であるが、一番温かい7月でも夜は15度を下回る。

 線の細い、背の高い男が、がっちりした偉丈夫の男に小声で話しかける。

「しかし、問題はどうしてベルンシュタイン卿がこちらを裏切るようなことをしたのか、わかりかねます。どうも警察以外に誰か動いたのではないかと」

 偉丈夫の男は太く、低い声で答える。

「そのあたり、確かに気になる。今回の件、ベルンシュタイン卿に罪を犯させ、こちらの意のままに動かそうという計画は失敗したが、まぁ、それはいい。いままでたっぷりといただくものはいただいているし、そろそろ潮時だったのだからな。しかし、完璧を期した計画がこうも簡単に露呈してしまっては今後のビジネスに影響しかねない。我々に失敗から学ぶことなどないのだからな」

 偉丈夫の男は煙草を口にくわえる。背の高い男がマッチを取り出し、素早く火をともす。二人の顔がうっすらと闇に浮かぶ。偉丈夫の男は夜だというのにサングラスをかけている。背の高い男はワシのような大きな鼻が特徴的であるが、その分、目や口の印象が薄い。

「すでに手は打っております。今回の捜査の経緯を調べるよう指示は出して置きましたので数日中には詳しいことがわかるかと」

「何にしても万全を期すことだ。我々は最高の商品をお客様に提供する。そしてそれに見合った報酬を受け取るだけだ。金に色は着かないからな」

 偉丈夫の男は報告内容に満足はしていないものの、背の高い男の仕事にはある一定以上の信頼を置いているのか、それ以上は口にせず、大きなごつい手を相手の肩に乗せて、2回ほど叩くと、その場を後にした。残された男はコートのポケットから一枚の写真を取り出し、不敵な笑みを浮かべた。

「こいつはまた、面白いおもちゃを見つけたもんだ。さて、どのくらいの商品価値があるのか、見定めなければなりませんね」

 その写真には一人の青年の姿が映し出されていた。

「ダミアン・ネポムク・メルツェル、実に興味深い」

 男は写真をポケットにしまい、別の闇に、姿を消した。


 ブレーメンの新聞社に勤める若き記者、コンラート・ジールマンは、その情報を意外なほど簡単に手に入れることができた。彼は情報を得るために、労を惜しまないが、それだけでは他の記者を出し抜くことはできない。彼は社会学をよく学び、それを自分の仕事に応用していた。今も昔も、人間社会の情報をもっとも有効に利用しているのは、社会の暗部に身を置く者たちである。それは政治闘争の道具であったり、高額で取引される商品であったり、戦争の武器であったりする。人よりも早く、広く、多くの情報を得ることは、社会的な立場を強めるための必須事項である。

「ベルンシュタイン卿はどうも、人を使って夫人の墓を掘り返したらしい。いったい何のためにそんなことをしたのかはわからんよ。えっ、誰からその話を聞いたかって? 無駄だ、無駄だ。そいつならつい先日、川に落ちて死んじまったよ。まぁ罰が当たったんだろうね。墓荒しなんて正気の沙汰じゃないね」

 急激な人口の増加は、同時にけが人、病人、そして死者も当たり前に増えることになる。誰がどこでいつ死んだのか。そんなことは人々の関心ごとにはなりはしない。自然なものも、不自然なものも、時間の中で、みんな等しく風化していくのである。だからこそと、ジールマンは思うのである。

「人ひとりの死に、これだけ無関心でいるというのは、これは社会の堕落でしかありません。そのようなことに警鐘をならすのが、僕らの仕事じゃないんですか」

 かつてジールマンは先輩記者にこう噛みついた事がある。どれだけ経済が目覚ましく発展しているからといって、誰もがその恩恵にあずかるわけではない。仕事を求めて他の都市や地方からやってきた人々が全員平等に仕事にありつけるとは限らないのである。ブレーメンでは毎日のように誰かが行方不明になり、そのうち、何人かは川や町の片隅で遺体として発見される。それがどこの誰なのかわかることの方が少ない。それをいちいち記事にしたり、消息を追いかけたりしても、誰もそんなことを知りたいとは思わないし、記事にはできないとベテラン記者に言われたのである。


「大衆が望む記事を書く。そんなことが記者の仕事と言うなら、僕は……」とそこまで叫んだところで、副編集長から怒鳴られ、その場を無理やりおさめさせられたのは、2年前のことである。その一件からジールマンの中に一つの感情が芽生えた。

「僕が、やらなきゃ、いったい誰が、この社会の、正義を示すんだ」

 1年前、ジールマンが追いかけていたある浮浪者の死を取材する中で浮き彫りになった事実――その年、倒産に追いやられた小さな工房と新しい技術や経営の仕組みによって衰退していく古い産業の末路を紹介した記事が反響を呼んだ。以来、ジールマンの元にはそうした支持者から好意的に情報を得られるようになったことと、そうした人々の中に、やむを得ず裏の社会に足を踏み入れてしまった者も少なくなかったことから、一見ゴシックと思われるような『墓荒し』という噂が、ベルンシュタイン卿の自白と何か関係があるかもしれないという飛躍した推論をも可能にしたのである。


「おそらくその墓荒しと、あの人形――アメリア夫人そっくりのあの人形とは何か関係があるのではないか。と言うのが僕の推論なんですよ。ブランデンブルクさん」

 ジールマンは、ブレーメン警察署で知り合ったブランデンブルクの自宅に招かれていた。書斎には彼が経営するブティック『ブランデンローザ』で取り扱っている衣服のサンプルが飾られ、それらを着飾った麗人の写真が何点か飾られていた。そしてその中に、今年4月に亡くなったアメリア夫人の姿もあった。

「僕は彼女――アメリアを愛していました。しかしそれは、決して表に出てはいけない者です。僕らの関係は誰にも気づかれていなかったはずです。疑いをもたれていたとしても、そのような証拠――目撃されたり、誰かに話を聞かれたりということはなかったし、手紙のような形に残るようなものは一切やりとりをしていなかったんです。それなのに……」

 深夜である。彼はブレーメンの郊外に一軒家を借りている。それとあと二つほど市内にアパートを借りていた。普段はそこで寝泊りをしているが、この家は知人の名義で借りており、ブランデンブルクがここに居ることを知る者は少ない。

「確かに、この関係が公になることは誰にとっても不幸と言えますね。だからこそお互い慎重にことを運んでいたというわけでうすか」

 ジールマンは自分が腰かけているソファに張ってある上質な皮を右手で確かめるように撫でながら、この場所で二人が密会していたのだと確信していた。

「僕たちの関係は最初、単なる火遊びでした。酷い男と思われるかもしれませんが、それで成り立っているビジネスと言うのもあるのです。ですから遊びといっても、それが表に出るようではビジネスになりません。僕が経営に失敗し、彼女に助けを求めたのも、最初は打算からでした。でも、二人はある時期からお互いを必要とする存在だと認識するようになったんです。それはとても危険なことです」

 ブランデンブルクの悲壮な表情を見てもジールマンの心は微動だにしなかった。彼の妄言に着きあっている時間が惜しい。ジールマンは確信を突いた。

「それがどうして漏れたのか。いや、たとえばそれはベルンシュタイン卿の被害妄想だと、普通は考えるでしょう。それがどうして警察がわざわざあなたを呼びつけて、その話を聞いたのか。警察にしてみれば、不逞の有無はあまり関係ないように思うのですが……やはり警察署に保管されている人形に何か秘密が隠されているとしか思えないなぁ」

 そういってジールマンは胸のポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出し、アンティークな飾り付けのあるテーブルの上に広げた。

「これがブレーメン警察署の見取り図です。こっちが玄関で、トイレはここ。ここが、あなたが取り調べを受けていたという部屋。目的の場所はこの部屋を出て、玄関の方に向かった少し行った保管室……」

 二入の話し合いは2時間近くに及んだ。ジールマンの"人形を警察署から盗み出す計画"に対してブランデンブルグが修正を加えるという流れて具体的な計画が練られるまで、さほど時間はかからなかったが、いつそれを決行するかについて二人は対立したが、慎重論を唱える発案者よりもより具体的なアイデアを出したブランデンブルグがイニシアチブをとる形になり、今夜中に計画を実行することが決まった。

 ジールマンはブランデンブルクの運転する車でブレーメンの中心街まで送ってもらい、人気のない夜の公園の近くで下してもらった。

「では、1時間後に、この場所に」

 ジールマンはハンチング帽を脱いで軽く挨拶をし、夜のブレーメンの街に消えていった。ブランデンブルクはその様子をしばらく眺めているうちに、自分も闇の中に溶け込んでしまうような錯覚に陥り、かぶりを振った。

「もう一度、アメリアに会えるのなら……それも構わないさ」

 見上げた空に、月も星も見えなかった。


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