第21話 さぐりあい
ブレーメン市街の北、レウム川を渡った閑静な住宅街。5年前、ここで凄惨な事件が起き、つい数日前まで未解決であった。『ブルース・エルスハイマー惨殺事件』は被害者の古くからの友人であり、取引相手であったヴィルマー・リッツの妻、エマと長年リッツ家に仕えてきた執事、ヨハン・ブランケンハイムの息子、ハンスによる犯行であることが判明した経緯は、ベテラン刑事ベーレンドルフがこれまで経験したことがないような奇妙ないきさつであった。そのキーとなる人物――究極の人形遣い、黒い目のダミアンの工房に向かって、ベーレンドルフは愛車、アドラー社のフェートンを走らせていた。
途中、故障車両による渋滞はあったものの目的地の『人形師ダミアンの工房』には、少し急げば予定の時間に到着できそうであったが、フェートンのエンジン音は不機嫌な音を鳴らせ、ベーレンドルフがアクセルを踏みこむのをためらわせた。或いは、いつもなら気にならないような些細なことを理由に、行きたくない医者の診察をなんとか遅らせようとぐずる子供のような心理が働いていたのかもしれない。ともかくベーレンドルフは、予定よりも5分遅れてかつての陰惨な事件現場にして、荒唐無稽な解決劇を見せられた黒い目の青年の工房にたどり着いた。
「ちょうどいいタイミングでしたね。刑事さん。今、コーヒーの用意ができたところです」
玄関を開けて、こちらから遅れたことを謝罪しようと思ったところに、人懐っこい笑顔で黒い目の人形師はベーレンドルフを部屋の奥に招き入れた。
「相変わらず散らかっていますが、まぁ、そのあたりはきっと、刑事さんの机の上と比べてどうかという感じですかね。僕はこれでも不要なものは一切置いていないんですよ」
思えばダミアンと出会ってから一度も自分が会話のペースをつかんだことはなかった。これだから気が進まなかったんだと、改めて黒い瞳の人形師に対する苦手意識を自覚しながらも、強引にペースをつかみに行こうとはしなかった。なぜなら今回、ベーレンドルフは自らダミアンに頼んで、この機会を得たのである。
「刑事さんはお忙しいこととは思いますが、今日はどのくらい時間を割いていただけそうですか? それによっては、こちらも話す手順や内容を取捨選択しなければなりませんから。あっ、確か砂糖とミルクはいらないのでしたよね。刑事さん」
ベーレンドルフは案内されたテーブルの席に付き、『今日はもう、急ぎの仕事はないから大丈夫です。時間はたっぷりあります。えー、私が納得するまで、帰らないつもりです』といつもなら言うところを「そうですね。そちらのお仕事の邪魔にならない程度で結構ですよ」と相手にすべて投げかけた。それが精いっぱいの抵抗だった。
「なるほど。そういうことであれば、私はできるだけかいつまんで、わかりやすく、順を追ってお話しなければなりませんね。なるほど、なるほど」
ダミアンはコーヒーを手際よく入れ、客人に差し出すと、いたずらっぽい表情でベーレンドルフを見つめながらいれたてのコーヒーの香りを愉しみながら、一口入れた後、何か面白いことを思いついたという顔をしたかと思うと、やや前に身を乗り出しながらベーレンドルフに語りかけた。
「いきなり本題と言うのも興がないというか、それほど楽しい話ではないので、うっかりすると語られた事実が、妙におどろおどろしく、或いは珍妙に聞こえ伝わってしまうかもしれません。やはり、こういう時は軽く世間話などしてからにしませんか?」
ベーレンドルフにもある程度耐性ができてきているようで、普段なら『結構、私は人から話を聞くことを本職としておりますから、ご心配には及びません。どうかそのままお話を続けてください』と言うところだが、黒い目の青年の申し出を無言で受け入れた。
「では、そうですね。刑事さん、今日遅れた理由をお聞かせ願いますか? 僕が知る限り、あなたは時間や約束に対して、きっちりした方でいらっしゃる。私がこんなおしゃべりな人間ですから、きっとそのお話をしようとされたのに、うっかり遮ってしまったのではないかと、ずっと気になっていたんですよ」
ベーレンドルフは職業柄、人並み外れた洞察力を持っている。そしてそれによって得た情報をもとに会話を組み立て、相手が話したがらない「真実」を追求することにおいては、同業者の中でも群を抜いているという自負もある。その自分がまるで手玉に取られているようで、腹立たしい限りではあるが、ここまで来るともう、笑うしかないと、とうとう腹をくくり、そして腹の底から大笑いをした。
「ダミアン……、ダミアン・ネポムク・メルツェル、君は実に面白い。話をしていて飽きないよ」
「これはどうも刑事さん、お褒めにあずかり光栄の至り。車のトラブルでもありましたか?」
「どうしてそう思います?」
「エンジンを止めてから、玄関の扉を叩くまで、やや時間がかかりました。遅れてきた人なら急ぐところですが、それはつまり、お車に何か問題があったのかなぁと思った次第です」
それは違うとベーレンドルフは思った。いや、事実車のエンジンは気にはなっていたが、それほど気にすることもない。ただ、単に、気が重く、足が素直に玄関まで運ばなかっただけであるが、もしかしたらダミアンはそんなベーレンドルフの真理まで読み取ってわざとそのようなことを言っているのかもしれない。『かもしれない』をいくら繰り返しても、ダミアンの意図するところは明白である。要は大人をからかっているのである。
「私は結構車が好きでしてね。あれもずっと自分で手入れをしているんです。だからエンジンの音のちょっとした変化もわかるんですよ」
嘘は言っていないが、遅れた本当の理由は別にある。しかし、ベーレンドルフはそのことをダミアンに言うつもりはなかった。それは『言う必要がないからいわない』のではなく、ベーレンドルフの直観が、あのドクトルワーゲンに乗っていた女性、ニーナ・ディートリヒについて、ダミアンに語るべきではないと判断したからである。
「そうですかぁ。僕はてっきり……」
いたずらっぽいというよりは、どこか背筋が寒くなるような冷徹さ、或いは冷酷さを含んだ表情でダミアンは言った。
「若い女性と会っていたのかと思いましたよ」
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