第20話 ドクトルワーゲンの女

 手入れの行き届いたアドラー社の白いフェートンが、軽快なエンジン音を鳴らせながら街中を走っていく。3時を少し過ぎたばかりだというのに、厚い雲がブレーメンの街を覆い、ゴーグル越しに見る町並みは、どこか沈んで見えていた。ベーレンドルフ刑事は苛立っていた。メインストリートは人や馬車が往来し、思うように走れないこともそうだが、不機嫌なエンジン音を鳴らしながらとろとろと前を走る車が激しく黒煙を上げ、せっかくピカピカに磨いた車のボディを汚されると、胸ポケットの煙草に手を伸ばしたくなった。ベーレンドルフは適当に車を止められる場所を見つけて煙草を吸おうかと思ったが、黒い瞳の青年が「ちゃんと仕事をして下さいよ。刑事さん」といたずらっぽく笑いながら言う姿を想像してかぶりを振り、汚い言葉を一言二言吐き捨てて、運転に集中した。


 いつもはこれほど込み合うことがない道だったが、案の定、目的地に向かう橋の手前で故障車両が立ち往生し、それを追い越すのに馬車も自動車も道を譲りあわなければならなかった。ベーレンドルフは車を降り、運転手に声を掛けた。

「故障ですか? ブレーメン警察の者です。何かお手伝いしましょうか?」

 ツーシータの小型車から運転手が下りてきた。ヘルメットとゴーグルを外すと金髪の長い髪が肩を滑り落ちた。

「ごめんなさい。なんとかしようと思ったのだけれど、何がどうしたのかさっぱりで」

 ベーレンドルフは目を疑った。まさか、女性が運転しているとは思っていなかったからだが、それにもまして、その女性の美しさに言葉を失った。

「ニーナ・ディートリヒと申します。この近くで父が医師をしておりまして、実は川向こうの患者様のところに診察に行く途中だったのですが、あいにく車が思うように動いてくれなくて……、しかたなく父は歩いて橋を渡って行きましたが、私一人、途方に暮れるしかなくて」

 妹のアンネマリーと同じかもう少し若いだろうか。背筋がピンと伸び、女性らしい曲線よりも均整のとれたスマートな体つきから、彼女が優雅さよりは敏捷さ、麗しさよりしなやかさ、そして知性や教養と同時に子供らしさ、愛くるしさが共存し、なおかつ彼女自身がそのチャーミングさにまるで気づいていないといった印象を受けた。

「オペル・ドクトルワーゲンですね。こいつはいじったことはありませんが、ちょっと見てみましょうか」

 ベーレンドルフは、困惑した。目前の問題を解決するに当たり、まずは得意なものから手を付ける。ベーレンドルフはこれまで仕事においてはいつもそうしてきたし、女性に対しても、いつもと同じく、できるだけ関わらないようにと、赤いワーゲンのボディを軽く触れ、それから運転席を覗き込んだ。


「あのー、今朝は、なんでもなかったんです。お昼までに3件のお宅を訪問して、一度昼食を取りに家に戻って、それでここまでは、これといって、おかしなことはなかったと思うんですけど……」

 計器類を確認し、エンジンを掛けようとチョークレバーを引っ張ったが反応がない。ベーレンドルフは運転席から降りて自分の車からロープを取り出し、ドクトルワーゲンのフロントに括り付けた。

「車に乗ってください。私の車でけん引しますから、ハンドルを操作してついてきてください。ここでは他の車や馬車の通行の邪魔になるし、修理もできない。ゆっくりと左に寄せるので、着いて気でください」

 ニーナは、少し戸惑いながらもベーレンドルフの指示に従って、運転席に座りハンドルを握った。ベーレンドルフは自分の車を前にだし、素早くロープを結び付け、手で合図を送りながらゆっくりと車を走らせ、故障車を路肩までけん引した。

「ありがとうございます。助かりましたわ」

「いえ、これも職務ですから」


 ベーレンドルフは手帳を取り出して数行書き記すとそれをちぎってニーナに手渡した。

「もし車を修理したければ、ここに問い合わせれば何とかしてくれるでしょう。この辺りでは一番腕のいい修理工です。私の紹介だといえば、優先して対応してくれると思いますから、では自分は急いでおりますので、これで」

 ベーレンドルフは括り付けたロープをほどき、車を走らせようとするとニーナが駆け寄ってきた。

「本当にありがとうございました。刑事さん」

 ベーレンドルフはニーナの笑顔のまぶしさに耐えきれず、ぎこちなく挨拶をすると車を急いで走らせた。ミラー越しに大きく手を振りながら見送るニーナの姿に一瞬気を取られて、危うく前を走る車に接触しそうになったが、落ち着いたハンドルさばきで車を抜いたが、それによってニーナの姿は見えなくなってしまった。

「まったく、何をやっているんだ。俺は」


 ベーレンドルフの車には車を修理するのに必要な工具とパーツを常備しており、応急処置程度ならどんな自動車でもやる自信はあった。ダミアンに会いに行くという用事はあったものの、時間を約束したわけではなかったので、ニーナの車の面倒を最後までみることも、或いは自動車工場まで送ることもできたが、それをしなかった。しなかったことを口に出して後悔はするものの、やはり、同じことがあれば同じようにするのだろうというあきらめもあった。

 ベーレンドルフにとって、母親と妹以外の女性は、できる限り関わりたくはない存在なのである。

「そんなことだから――」

 アンネマリーの言葉が脳裏に浮かぶ。

「そんなことだから、兄さんは彼女ができないのよ。本当に女心という物を、これっぽっちも理解していないんだから」


「ニーナ・ディートリヒと申します……」

 ニーナとアンネマリーはどこか似ているところがあると思った自分を故意に否定しつつ、ディートリヒという医師について何か引っかかるものを感じていたが、それを思い出すのはまだ、もう少し先のことであった。

 道路はスムーズに流れ、ベーレンドルフの関心は、自然究極の人形遣い、黒い目のダミアンへと向いていった。

 


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