第3章 ベーレンドルフの憂鬱

第19話 ヴィルフリート・ベーレンドルフ刑事

 ヴィルフリート・ベーレンドルフ刑事は独身である。それは決して彼が望んだ結果ではないが、独身をやめる努力をこれまでしてきたかと言えば、本人はともかく、誰もが首を横に振るだろう。身長は180センチに満たないが、そのがっちりした体つきと鋭い眼光は見るものに威圧感を与える。同僚のカペルマン刑事の身長の方が10センチ以上高いが、手足の長さ、温和な顔つき――少し垂れ下がった目じり、意識していないときはやや半開きの口。もし、街中で道を聞くのなら、ベーレンドルフ刑事ではなくカペルマン刑事に声を掛けるだろう。それはベーレンドルフが無愛想ということではなく、犯罪者にも同僚にも愛想をまくような仕事ではなかったからだろう。


 仕事は人の顔を作る。もちろんカペルマン刑事も例外ではない。カペルマンはその温和な人柄を利用して、ベーレンドルフでは聞き出せないような話を聞き出すうちに二人の人相ははっきりと分かれたのだと同僚のアーノルド刑事から指摘されたときは、さすがにどちらも不機嫌な顔をしたという。


 ベーレンドルフ刑事は同僚からも部下からも絶大に信用を得ている。しかしブレーメン警察の刑事部長、ハンス・ブランケンハイムにとっては、有能な部下ではあっても扱いやすい部下ではなかった。ベーレンドルフの捜査方法は時に強引で、時に非情で、時には規則や手順を守ることを忘れる。故意に破ることはないにしても即断即決、独自判断が過ぎ、事件は解決しても別のトラブルを引き起こすことがしばしばあり、ブランケンハイムの血圧は、事件発生時よりも事件解決時のほうが高いと揶揄されるほどであった。

「事件を解決する分の給与はもらっている。クレームや愚痴を聞くのは、その手当てをもらっている部長に任せて何が悪い」


 もちろんベーレンドルフがそういった問題を毎回部長に回しているかといえば、決してそんなことはない。事件関係者からのクレームのうち、男性と年寄りのものは、積極的にではないまでも誠実に対応をするが、それ以外、つまり女性からのクレームについては、雨が降れば傘をさすように、女性からのクレームがくると部長の影に隠れてしまうのである。

「ベーレンドルフはどんな偉丈夫や尊大な人物にも臆することはないが、女性、それも若い女性やきれいなご婦人にはまるきし歯が立たない。まるで母親にいたずらを見つかった子供のように部長の影に隠れてしまう」


 同僚のアーノルド刑事にしてみれば、女性の誘いはデートであろうとクレームであろうと断る気が知れないと言ってのける。アーノルド刑事は実際、いつデートに誘われてもいいように、普段から身なりには気を配っている。彼が独身であるのは、彼が今現在結婚を望んでいないためであり、ベーレンドルフとは異なる。

「ベーレンドルフ刑事は女性よりも車のほうがお好きなようですね。僕にはまるでわからない。同じ愛情を注ぐなら、だんぜん女性のほうがいいに決まっていますよ」

 実際にその言葉をアーノルド刑事から聞いた者はいないが、彼がそう思っているに違いないという点においては、自他共に認めるところである。


「俺は女と子供は苦手だ。車と相棒がいれば、他に何もいらないさ」

 ベーレンドルフ刑事の言う相棒とは、同僚のことではない。ベーレンドルフはブレーメンの南、ノイシュタットに母親と妹の三人で暮らしている。父ロルフは、警察官であった。ロルフは町でも評判の警察官であったが、ベーレンドルフが15歳、妹のアンネマリーが10歳のときに暴力事件に巻き込まれ、この世を去った。母エルマは気丈に振る舞い、女一人で子供二人を育て上げた。ベーレンドルフが刑事になったのは、父親の影響が大きかった。警察官になり、家を空けることが多くなったベーレンドルフは、番犬としてミニチュア・ピンシャーを飼い始めた。

 近所付き合いから子犬をもらったのがきっかけであったが、誰も犬を飼った経験がなく、ついつい甘やかしてしまった結果、わがままに育ってしまった。当初、幸せを意味する『グリュック』という名を付けたが、その気位の高さと、見た目の精悍さからいつしか男爵を意味する『バロン』と呼ぶようになった。

 女二人に男一人。何かと家の中では旗色の悪いベーレンドルフであったが、そんなときは決まってバロンを散歩に連れ出し、煙草を吸いながら愚痴を漏らしていた。父、ロルフも喫煙者であったが、母も妹も大の煙草嫌いであったため、ロルフの死後、家の中では禁煙になってしまった。また、ティータイムも母と妹は紅茶葉で、父と息子はコーヒー派であったため、今では紅茶がメインになっている。


「お前、煙草を家の中で吸うのを許してくれて、一緒にコーヒーを飲んでくれるような女性を探してきてくれないか? もしそれができたらなら、チキンじゃなくビーフを毎日食わしてやるぞ」

 バロンは感心なさげに横を見ながら小さく吠えるだけである。その方向に何があるかと言えば、我が家である。こんなところで油を売っていないで早く帰ろうと言われているようにベーレンドルフが感じるのは、つまりはそういう自覚があるからである。

「兄さんときたら、車をいじっているかバロンと散歩をしているか、そのどちらでもないときはせいぜいコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるかくらいなんだから。あれじゃあ、素敵なお嫁さんをもらえないのも無理ないわね」

 容姿においては他の女性に決して見劣りすることはないアンネマリーだが、恋愛においてはベーレンドルフを非難できるほど経験があるわけではなかった。ただ、兄が自ら女性に対して関心を持たず、また持たれることがないのに対して、妹は兄が知る限り2回、母が知る限りその倍の数は、男性から求婚をされており、そのことごとくを断っていたので、やはり妹に分があった。

 そんなアンネマリーは周りから「結婚しないのか?」と聞かれると「兄が結婚できないでいるのに私が先に結婚をするわけにはいかないわ」と言っていると母から苦言を言われ、ベーレンドルフはほとほと困ってしまった。自分のことなど気にせずに結婚すればいいと思いはするが、妹や母親の前で決して口にすることはなかった。かつてベーレンドルフは自分の書斎くらい煙草を吸っても構わないだろうと苦言を呈したことがあったが、妹と母親の連合軍にまるで歯が立たなかったことがある。


「黙っていれば、あの子もまだまだ可愛らしいお嬢さんに見えるのにね。男勝りの性格が災いして、男の人と対等以上に渡り合っちゃうあたりは、本当に誰に似たんだか。それに最近じゃ髪もあんなに短く切っちゃって、最近の流行らしいけれど、ヴィルからも何か言ってちょうだいな」

 ヴィルフリート・ベーレンドルフは、「わかった、わかった」と相槌を打つが、それを実行に移したことは一度もなかった。もともとやさしく、内気な少女だった妹を父、ロルフの死後、母の負担を減らそうと、強い女性になるように求めたのは兄であったし、大きく社会が変わろうとしている現代においては、必要な気質だという点においては、間違ったことをしたとは思っていなかった。しかし『男性にも負けないように』が『男勝り』にアンネマリーがなったことの責任をすべて押し付けられるのは、筋が違うと言いたかったが、そのようなことを言えるはずもなかった。


「料理、洗濯、掃除。どれをとってもお前が私たちより上手と言うことはないでしょう。刑事としてのあなたはさぞかしご立派で、仕事場では、好き勝手にやっているのでしょうから、家の中くらいは人の言うことを聞くようにしなさいな。そうしないと人間、横柄になっていけないわ」

 母親は夫、ロルフのやることに何一つ文句をいっているのを聞いたことがなかった。それは妻としての矜持みたいなものだったのかもしれない。エルマは自分を置いて、先に逝ってしまったロルフに対する恨みの矛先を、息子である自分に向けることで、さみしさを紛らわしているのではないか。そう思えばこそ、多少の我慢もできるものだと、時折バロンに漏らすベーレンドルフであった。


 プライベートに置いては自動車好きの不器用な男という程度で、特筆するべきことの少ないベーレンドルフであるが、刑事としては実績も実力も賞賛に値する人物であることは誰もが認めるところだった。実際ブレーメン警察においては群を抜いた検挙率を誇っており、考察力、分析力、想像力、実行力、記憶力、どれをとっても標準を上回っており情報網、人脈は他の捜査員とは違う独自のものを持ち、刑期を終えて出所した元犯罪者の中には進んでベーレンドルフに協力する者もいた。


 ベーレンドルフに解決できない事件は、他の誰にも解決できないだろう。

 

 その評判はブレーメンを越えて近隣の警察署にまで伝わるほどであったが、もちろんベーレンドルフも全能ではない。担当した事件のうち未解決なものもいくつかある。その一つに『ブルース・エルスハイマー惨殺事件』があったが、発生から5年の歳月をかけて、ついに事件の真相が明らかになった。本来であれば喜ぶべきところであるが、ベーレンドルフはいつになく、憂鬱な気分になっていた。


 憂鬱の原因――それはブレーメンに引っ越してきたばかりの黒い瞳の青年。究極の人形遣い、ダミアン・ネポムク・メルツェルが難事件の解決に多大な貢献をしているにも関わらず、その功績を自分が独り占めしてしまったような状況に陥ってしまっていることに加え、黒い瞳のダミアンが、一つの事件の解決に使った手段、人知を超えたオートマタの存在、そして、ダミアンの素性に関する大いなる謎と解決した問題に対して新たに加わった謎の方がはるかに厄介であるからに他ならない。


 そして、ダミアンが事件の解決の際に残した言葉――二度あることは三度ある――の二度目が起きるだろうことを、ベーレンドルフの刑事としての勘が憂鬱さに拍車をかけていた。

「もし二回目があったら、長い付き合いになりそうですね。刑事さん」

 ダミアンのその言葉が頭から離れない。ベーレンドルフは、いつもの行動原理に従って動き始めた。

「俺の刑事としての勘と悪い予感はよく当たる」

 その言葉には誰も異を唱えなかったが、その後に続く言葉に賛同するものは少ない。

「だからそういうときは、こちらから攻めるのさ。いい結果が期待できないからと言って、何もしないでいると、大概の物事は、さらに悪くなる。どうせ悪化させるのなら、自分でやったほうが、後始末が楽だ」

 

 『ブルース・エルスハイマー惨殺事件』の後始末をカペルマン刑事に引き継いだベーレンドルフは、単身、究極の人形遣いの家を訪問した。




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