第16話 容疑者
「私の話しなんかいつでも聞けますよ。刑事さん。それよりも、ほら、残り時間が少ない方から優先的に話を聞いたほうがいいですよ」
リッツは床に転がった椅子を戻して腰かけて人形の首に話しかけた。
「これで、やっと、お前の仇が取れたな。ブルース」
人形は沈黙している。
「どうしたんだ。もう、ワシの言うことが聞こえないのか」
「いいえ」
人形はすぐに答えた。
「お前を殺した犯人は、あそこに立っているヨハン・ブランケンハイムの息子に間違いないだろう」
人形は応えない。
「なぜだ。なぜ答えない」
人形の視線の先にヨハン・ブランケンハイムの息子、ハンスがカペルマン刑事に羽交い絞めにされて立っている。
「ワイン……」
人形が語りだす。
「ワイン、持ってきた、ハンス、あとは、わからない」
人形はここまでしゃべると口の奥から空気が漏れるような音がしはじめた。
「おやおや、そろそろ限界が近いかな」
黒い目の人形師は、人形の口を開けて覗き込み、刷毛を使って口の中に潤いを与えた。その様子を薄気味悪そうにカペルマン刑事が観ている。彼にはいったい何が起きているのかまるでわからないとい表情をしていたが、それはベーレンドルフも同じことだった。
「刑事さん、こちらは私が面倒を見ますから、そちらの方からの尋問は早くした方がいいですよ。ほら、この人形みたいに顔色が悪くなってきていますよ」
カペルマン刑事からはワンスの表情があまりよく見えなかった。ベーレンドルフは銃をしまい、ハンスのうなだれた頭を髪の毛を掴んであげた。ハンスの顔はすっかり青白くなり、血の気が失せている。
「おい、どうした。具合でも悪いのか?」
ベーレンドルフはカペルマン刑事に目で合図をしてがっちり抱えていた腕をほどき、容疑者を床の上に慎重に寝かせた。ハンスはさっきとはちがい、まるで抵抗をしない。
「おい、何か様子がおかしいぞ」
カペルマン刑事は身に覚えがないと首を振り、何もしていないと無言でアピールした。
「こっ……、こんなことが……、あの野郎……、俺を……、はめやがって」
ハンスは息を切らし、苦しそうにしている。目はうつろで意識がもうろうとし始めているのがすぐにわかった。
「こいつは、まさか、毒を飲んだのか」
ベーレンドルフはカペルマン刑事に確認を求めた。
「そんな。まさか。少なくとも僕が取り押さえてからは、何も口にはしていないですよ」
カペルマン刑事の顔も青ざめていたがそれは、毒のせいではなかった。
「あらかじめ口の中に仕込んでいたのか、それとも……、おい、しっかりしろ。誰かに毒を盛られたのか? おい」
ハンスの目は、もうどこも見ていなかった。
「あ、あの女……」
そこまで言ってこと切れた。
「ほう。犯罪の陰に女ありですか。一件チープに見えたこの事件の底は、まだまだ深いようですよ。刑事さん」
ダミアンは横目でベーレンドルフの様子を観ながら、人形の手入れをしている。
「さぁ、これでもう少しなんとかなるかな。リッツさん。もしよろしければ残りの時間を少し私に頂けないでしょうか?」
ダミアンの黒い瞳がリッツの顔を覗き込む。リッツは無意識にうなずいた。
「では、ブルース・エルスハイマーさん、僕からの質問です。あなた、ワインを飲んだ後、苦しくなって倒れた。それでもわずかに残る意識の中で、何かの変化に気づきませんでしたか。あなたは目を開けることはできなかったけれど、何かを聞いたり、或いは何かの匂いを感じたりしたことはなかったですか。たとえば女性の香水の匂いとか……」
ブルース・エルスハイマーの人形の首は、一瞬あっけにとられたような微妙な表情をしたかと思うと、大きな声で答えた。
「はい」
「それは、女性物の香水ですね」
「はい」
「あなたはその香水の持ち主に心当たりがある」
「はい」
「誰です」
「いいえ」
「誰です」
「いいえ」
「あなたのよく知る人の、やはり親しい方なのではないですか」
「……」
「たとえば、奥様とか……」
「嗚呼! なんてことだ!」
声を上げたのはヴィルマー・リッツだった。
「そうだったのか。嗚呼、神よ! あなたは私に罰を与えたもう。なんとむごいことを……ブルース。私は……、私は……」
ヴィルマー・リッツは狂ったように泣き崩れ、そして震えていた。
「さあ、あとはお好きなように過ごされるといいでしょう。もう残された時間は僅かしかありませんよ。私たちは外で待っています。さあ、刑事さんたち、私たちは5分ほど外で待ちましょう」
ダミアンは、泣き崩れた老人の肩に手を置いて、何か祈り頃のような言葉を口にしたが、誰にもその言葉の意味が分からなかったが、人の業を憐れむような、そんな言葉であるように思えた。
「いいのか。あの男を一人にして」
「僕が責任を取ります……、とはさすがに言えませんが、彼はあれでも紳士ですから、きっと立ち直るでしょう」
ダミアンに促されるまま、ベーレンドルフとカペルマン刑事はハンス・ブランケンハイムの遺体を担ぎ出し、玄関のドアを閉めた。
「念のため、持ち物を調べてみろ。何か他に物騒なものを持っているかもしれない」
カペルマン刑事は車を回し、車のライトの中で作業を始めた。その間、ベーレンドルフは積もり積もった不満をダミアンにぶつけた。
「これはいったいどういうことだ。お前、何を知っている。そして何をした。正直に話してもらうぞ。俺が納得するまで、ここに戻れると思うなよ。ダミアン!」
「いいでしょう。刑事さんにもわかるように順序だって話しましょう。私がここに引っ越してきたのは、もちろん、この場所がそういういわくつきだと知ってのことでした。私は私の評判を故意に触れ回り、あの人たちの耳に入るように仕向けました。あの人たちというのは、もちろんリッツ財団の関係者のことです。私は私の人形師としての名声をえるために、彼らを利用したのです。一種の売名行為です」
掴みかかるような勢いで無理やりにでも話をさせようと思ったベーレンドルフの覇気は、あまりも赤裸々に自分のこと話し始めた黒い目の人形師に、またしても調子を崩されることになった。
「なんだよ、それ。だいたいどうしてお前さんが5年前の事件に興味をいだいたんだ」
「なんとなく、犯人がわかったもので」
「な、なんだと。貴様!」
「ですから、順番に話をしますから、どうか怒らないで聞いてくださいよ。刑事さん」
これほどまでにやりにくい相手と出会ったことがない。ベテラン刑事は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ダミアンの話を聞いた。
「私は私の人形師としての腕を、世間に広めたかった。そのためには、そういう機会をみつけ、究極の人形を作り、その凄さを周りに認めさせたかったのです。だから、そういうことができそうな事件をあちこち探し回っていたわけですよ。刑事さん」
「それで、ブルース・エルスハイマー惨殺事件を調べ、リッツから人形制作の依頼をまんまと取り付けたわけか」
「ええ。ですから、私なりに推理をしました。事件を調べ、そこに隠れた人間模様ってやつを、あれこれ考察してみたわけです」
「そこがわからないって言ってんだよ。何年もこの事件を追っかけてきた俺が言うのもなんだが、どうやったらお前さんみたいな素人が事件の真相にたどり着けるのだよ。いったい俺たちの知らない何を知っている?」
ダミアンの黒い瞳が、ベーレンドルフ刑事を見つめる。思わず吸い込まれそうな感覚に襲われ、ベテラン刑事はたじろぎそうになるのを必死で堪えた。
「それはね。刑事さん。あなたたちの常識では計り知れないようなものを、いろいろと知っているからこそ、ある可能性について仮説を立て、それを検証し、おおよそのあたりをつけることに成功したのですよ。僕にしかできないことではないですが、もちろん、誰にでもできることではありません。その意味では、刑事さんがそのような仮説を立てられなかったことについては、致し方がないことだと、私は思いますよ。刑事さん」
「どういうことだ。いった俺たちが何を見落としているというんだ」
「人が人を殺すとき、その動機は、たいがい至ってシンプルです。今回の場合もそう。殺したやつには、どうしてもその人物を許せないという感情がある。その意味において、あの二人、殺されたブルース・エルスハイマーさんと警察が容疑者として取り調べたヴィルマー・リッツさんの関係は、殺し、殺されるようなものではなかったと思います。たとえリッツ氏がこれまで、裏切ったビジネスパートナーを何人闇に葬った事実があったとしても、あの二人において、それはなかったのではないか。それを起点にして物事を考え進めていくと、これは金銭のトラブルではなく、怨恨。それも嫉妬からくる見せしめの殺人という仮説に、僕は至ったのですよ。刑事さん」
ベーレンドルフもカペルマン刑事も、ダミアンの口調にすっかり魅入られてしまっていた。車のヘッドライトに蟲が集まってきた。それは光を求めてきたというよりも死の匂いにつられて集まってきたかのようであった。
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