第15話 しゃべる人形
信じられない光景というのは、これまでも何度か見たことがある。刑事などという仕事がそもそも一般的ではないのだから、銃で撃たれた遺体がどれほど破損しているか。列車に跳ね飛ばされた遺体の手足がどれだけあり得ない角度に曲がっているのか。人の身体からいったいどれだけの血液が流れるのか。
おぞましいことにそれらはすべて人の死にかかわることであり、今回もその意味では似たようなものかもしれないが、しかし、これはベテラン刑事のベーレンドルフにとって、想像を超えるどころか、これまでの『生と死』の概念を根底から覆す現象であった。
「死人がしゃべるならまだしも、あれは人形だぞ。人形がしゃべる。しかも、死んだ者の意志でか」
ベーレンドルフが構えた銃口は、人形制作の依頼人ヴィルマー・リッツからブルース・エルスハイマーの人形の首に照準を変えていた。
「よし、では簡単な質問をするから、『はい』か『いいえ』で答えてくれるかな」
黒い瞳の人形師は、出来上がった作品をじっくり見つめた。
「ほら、『はい』か『いいえ』で答えてくれるかな」
ベーレンドルフは息をのんで人形の口元を見つめた。やがてそれはゆっくりと開き、何か声を上げたが、ベーレンドルフの位置からはよく聞き取れなかったが、リッツの反応で、何を言ったかは十分に想像ができた。
「すばらしい。確かに今、『はい』と言った。ブルースの声だ。間違いない。ブルースの……」
興奮するリッツをダミアンがたしなめる。
「リッツさん。どうか、準備を。もうすぐですよ。慌てる必要はありませんが、無駄にできる時間はありませんから」
リッツは久しくあっていない友人との再会を喜ぶかのように興奮している様子だった。この二人の間には、ビジネスパートナーという以上の関係があったことは、間違いないようだ。少なくともリッツはそうだったに違いないとベテラン刑事は確信した。
「ブルース、私がわかるか?」
「はい」
「私の名を、言えるか?」
「はい」
「では、言ってみてくれ」
「ヴィル……」
「もう一度……」
「ヴィル」
ヴィルマー・リッツは久しぶりに自分を『ヴィル』と呼ぶ声を聴いて思わず涙した。
「すまなかった、ブルース。君をこんな目に会わせてしまって……、どうか私を許してほしい」
「はい」
この二人の間にいったい何があったのか。ベーレンドルフにはまるでわからなかった。ヴィルマー・リッツは実に用心深い男で、家族に対しても厳格さと冷徹さで接し、すべてを損得で割り切り、私情を挟まない経営手腕。その評判は常に同じで心を許し合えるような「友」と呼べる人間関係などにはまるで縁がない生き方を貫いているという印象であった。敵も味方も関係なく、己の信じる作法に乗っ取り、一切の妥協を許さない。それがベーレンドルフが長年調べて得たリッツの人物だった。
「おいおい、どうなっている。まるで話が違うじゃないか」
ベーレンドルフは照準を外し、銃口を天井に向けて状況を見守った。
「ワシの忠告を無視して、危ない取引に手を出しおって……、ブルース、教えてくれ、君をそそのかしたのは、ワシのよく知る人物ではないのか?」
「はい」
リッツの表情が変わる。旧友との再会を喜ぶ老人の姿はもう、そこにはなかった。
「あの夜、お前がそんな姿になった日、その男がお前を訪ねてきたのだろう?」
「はい」
「お前さんの好きなシュタインベルガーを手土産に」
「はい」
リッツは思い出していた。ブルース・エルスハイマーはシュタインベルグ産のフルーティーなワインが好みだったが、リッツはヴュルテンベルグ産の力強く飲み応えのあるワインが好きで、どちらのワインが優れているかについては二人とも一歩も引かなかったのである。
「だから、ヴュルテンベルグ産の白がいいと言ったんだ」
リッツの言葉には無念さが秘められていた。
「毒が入っていることに気付けなかったのは、お前らしくない失敗だったな。しかし、あの日、ワシと口論さえしていなければ、いつもの冷静なブルースでいられたものを……」
わずかな沈黙の後、人形の首が答えた。
「いいえ」
老人の手が震える。震える手を震える手で押さえ、強く低い口調で言った。
「お前に毒入りの赤ワインを飲ませたのは誰だ」
旧友の言葉に、人形の首は何かを答えようと口を開けたその瞬間、玄関のドアがドンという音を立てた。ベーレンドルフは離れの部屋のドアを足で蹴飛ばして開け放ち、玄関に向けて銃を構える。リッツは驚いて椅子から転げ落ち、床に頭を抱えて伏せ、素早くダミアンの足元、机の下に身を隠した。それはとても老人の動きには見えなかった。このような修羅場を何度も潜り抜けてきた兵士のそれに少し劣るくらいのもので、それは常人とは比べ物にならないほどに軽い身のこなしであった。
ベテラン刑事はその視界にすべてをおさめ、状況を把握した。リッツは机の陰に身をひそめ、ダミアンも頭こそ出しているが、体を机に隠している。机の上の人形は何か口を動かしているが、何を言っているのか聞き取れない。しかし、代わりにリッツが人形のしゃべった言葉を大声で叫んだ。
「やはりお前なのか! ブランケンハイム!」
その声に呼応するように、人形が口を開く。
「ブラーンーケーン……ハーイム……」
人形は目を見開き、口を半開きにしたまま、「ム」の音をそのままだ室で受けている。それは苛立ちと憎しみと、無念さと怒気の入り混じった不快極まりない音だった。
「もう、せっかく看板をつけたばかりなのに、ドアを壊さないでくださいよ。刑事さんたち」
ダミアンの声はこの場の空気にまるでそぐわない、落ち着いた、静かで、冷やかで、嘲笑が混じるさらに不快なものだった。
「すみません。怪しい者が物騒なものを持って、お宅の玄関に立っておりましたので……」
カペルマン刑事はその長身のごつい身体に似つかわしくないやさしい口調でダミアンに答え、静かにドアを開けた。
「これは……、なるほど、そういうことでしたか。あなたも人が悪い」
老人は身の安全を確認すると、ゆっくりと机の陰から姿を現した。
「契約は守りましたよ。納品は無事終わりましたので、私は私の生命と財産を守るために、しかるべき処置をしたまでです。そうですよね。刑事さん」
ベーレンドルフ刑事は舌打ちをし、カペルマン刑事に取り押さえられた男の顔を確認しようと玄関に向かって歩き始めた。
「いろいろと話を聞かせてもらいたいものですな。何がなんだかさっぱりわからない。誰です。この男は?」
「ハンス・ブランケンハイム……、長年ワシの秘書を務めていたヨハン・ブランケンハイムの息子で、今はその後継者となるべくワシの身の回りの世話をさせておる。今日もここまで運転手を任せてきたのだ」
「ヨハン・ブランケンハイム……嗚呼、確かあの事件のひと月前に亡くなったあんたの秘書か」
「そうだ。あの男はワシに最後まで忠義を尽くしてくれた。だからヨハンは少なからずワシの秘め事……つまり弱みを知っておった。彼の死とともにそれはら永遠に封印されたと思っておったのじゃが、どうやら彼は何かの形でそれらを残していたようじゃな」
鮮やかな金髪はカペルマン刑事との格闘ですっかり乱れてしまっているが、端正な顔立ちと青く澄んだ目の好青年である。しかしその口は卑屈に歪み、汚い言葉を巻き散らかした。
「この老いぼれが、いつまでのお前の時代が続くと思うな。俺はお前さんの財産をすべて手に入れて、この国一の大金持ちになってやるんだ。あの役立たずの腰抜け爺が、土壇場になって友人を裏切れないなどとぬかしやがって、まったくお笑いだぜ。この男がどれだけ酷いことをしてきたのか、そんな男を信じて友人などと、これだから年寄りは老害だっていうんだ。親父もそうだった。みんな俺を子供扱いしやがって、それに……」
ベーレンドルフ刑事はすっかり呆れてしまっていた。5年前、こんな輩の犯行に気付けなかった自分の不甲斐なさ。そして犯行の稚拙さと犯人の浅はかさにである。
「わかった。わかった。とりあえずあとは署で話を聞こうか。俺はもっと他に知りたいことがある。ダミアン・ネポムク・メルツェル。どういうことか説明してもらおうか。いったいその人形はなんなんだ。まさか死者の魂がその人形に宿って自分を殺した犯人の名を口にしたとか、そんな世迷言を言うんじゃないだろうな?」
ベテラン刑事の視線の先に、黒い目の青年が経っていた。彼の名はダミアン・ネポムク・メルツェル。究極の人形を作り出す究極の人形師である。
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