第149話 貴女に死を捧げる
「……」
歩は死体となった詩織の頭に軽く手を当てる。そしてそこから、まだ僅かに残っているクオリアの残滓を感じ取った。
「……今度こそ、」
そうして歩は全てを終わらせに、再び彼女に会いにいった。
「……散っている」
たどり着いた世界はあの時とは違う。すでに数多くの花が散っていた。それはこの世界の終わりを表しているのだろう。
枯れている花を踏みしめながら歩いていくと、そこには詩織がたった一人で座っていた。以前のようにそこに、楓の姿は見えなかった。
「詩織さん……」
歩は少しだけ悲しそうな声でそう囁いた。すると、彼女はちらっと後ろを見てにこりと微笑む。
「歩くん、終わったんだね」
「えぇ……終わりました。貴方を殺し、D-7を殺し、ここまで来ました」
「そう……やっとなのね……」
詩織はぼーっと虚空を見つめている。この終わりゆく世界を、崩壊していく世界をただ呆然と見つめる。彼女の心にはやっと終わりかという想いと同時に、終わってしまうのか、という想いもあった。いざ、永遠が終わるとなると名残惜しいものだ。ここに永遠に執着したいわけではないが、多少の愛着はあった。
それも、もう、終わってしまう。
彼が終わらせに来たのだ。
でも詩織には、最期にやるべきことが残っていた。
「……歩くん、死ぬつもりでしょ?」
「ははは、お見通しですか……さすが、詩織さんだ」
歩はクオリアネットワークを解放したときに自分の死を覚悟していた。彼はすでに死ぬのを知っていて、彼女とともにこの場所で死ぬためにやってきたのだ。
「正直、自我はもうすぐなくなるでしょう。思った以上にプログラムが走るのが速いみたいです。この自我がなくなれば、俺は……いや、このシステムは人類を崩壊させるでしょう。そのまえに、俺が死ねばいい。大丈夫です。詩織さんと死ねるのなら、怖くありません」
「……」
軽く微笑みながらそういう歩をみて、詩織は本当に彼に恐怖はないのだと思った。
彼は、以前は詩織の死にただ立ち尽くすだけだった。何もできなかった。ただただ、見ているだけでその光景は彼を縛り上げるように、呪いのように、心に突き刺さっていた。でも今は違う。すべてを覚悟して、すべてを知って、自分の死さえも理解して、こうしてやってきた。最愛の人と一緒に死ねるのなら、十分だ。十分すぎる人生だ。そう、彼は思っていた。
「……歩くんのことは何でもわかる。そう、なんでもね」
詩織の言葉が起因してかわからないが、歩の姿は徐々にいつも通りの、そういつもの姿へと戻っていく。髪と肌の白さは徐々に失われ、元の色に還っていく。
「……詩織さん、貴方は……」
「もともとね、こうするつもりだったの。あなたはね、歩くんはね、死んじゃだめだよ。もっと生きて、この素晴らしく、美しい世界を楽しんでほしい。私のためじゃなくて、自分のためにやりたいことをやってほしい。これが最期の、わたしに出来る最期の贈り物だよ」
歩が元に戻るにつれて、詩織の姿は真っ白に変化していく。どこまでも白く、純白に染まっていく。
詩織は以前の別れ際のキスで自分の欠片、厳密にいえばクオリアの粒子を彼の体内に潜ませていた。そしてクオリアネットワークの発動と同時にそれを彼女の脳で代替するようにしていた。そうすることで、歩はクオリアネットワークを保有しているが、そのベースは詩織の脳を介することになる。
今はもう彼女の終わりが近いのか、その能力のすべてが詩織にやってくる。
「……ははは、やっぱり敵わないなぁ。詩織さんには」
「ふふふ、師匠を超えることはできなかったね」
「えぇ。でも、いつか超えてみせますよ。まずは、世界覇者にでもなりますよ。そうすればとりあえずは、対等でしょう?」
「うん、そうだね。そのあとはどうするの?」
「その時のことは、その時決めますよ。せっかく、貴方にもらった命なのだから……」
「……泣かないで、歩くん」
「ははは、詩織さんだって泣いてるでしょ」
「私はいいの、私は……」
互いに涙をぬぐう。世界の崩壊は近い。この世界が終ると同時に、詩織は完全に消失して、クオリアネットワークも闇に葬られる。
歩は死ぬつもりだった。だというのに、最期の最期で彼女が生かしてくれた。その事実を噛みしめる。涙は依然としてあふれてくる。彼女との思い出が際限なくあふれ出してくる。
でも、もう終わりの時なのだ。
歩は生きて、詩織は死ぬ。
歩は詩織を終わらせる。そのために、そのためだけにこの場所にやってきたのだ。
「……ねぇ、最期にあっちにいかない? 世界の端に行ってみたいの」
「いいですよ」
そういって歩はもう体に力の入らない詩織を抱えて、彼女が指し示す場所へと向かう。
ゆっくりと、ゆっくりと歩いていく。
「詩織さん、軽すぎですよ。ちゃんと食べてますか?」
「うん、もちろん。たべてるよ、ちゃんと……」
もう五感はほとんど失っていた。彼女は最期の気力を振り絞って、まだこの世界に残っていた。死ぬべき時は、自分で決める。その意地だけが彼女を支えていた。
やってきたのは海だった。以前はこんな場所はなかった。きっと、彼女が最期に望んだ場所なのだろう。
海の香りと音がする。真っ青な液体はどこまでも広がっているようだ。そして、後方に咲いていた花々はすべて散っていき、奈落の底へと落ちていった。
もうこの世界には、詩織のクオリアには、この場所しか残っていない。
「あぁ……きれいな音。ふたりで海に来たこともあったよね」
「あの時は100キロ遠泳するぞー! とか、言われて焦りましたよ」
「でもやり切ったよね。ふたりでさ」
「えぇ。ふたりでやりきりましたよ」
「砂のお城も作ったね」
「詩織さんの場合は城が本物と遜色ないぐらいすごいものでしたけどね」
「ははは、歩くんのお城はすごいチープだったね」
「ま、まだ子どもだったんです。あれくらいのチープさは許してください」
「そうだね。いまはもう、こんなにも大きくなった」
彼の腕に抱かれながら、その顔をなぞる。
あの頃の面影はあるも、やはりどこか大人っぽくなっている。成長しているのは体だけではない、その心もまたしっかりと成長している。
もう師匠はいらない。彼ならば、自分のその両足でどこまでも進んでいけるに違いない。
「歩くん、私はもう時間が経てば勝手にいなくなる。でもね、最期はあなたの手で死にたい。貴方の手で、私に死を、最期の贈り物を……」
「わかりました。詩織さん、最期に、貴方に死を捧げます」
歩はかすかに残っているクオリアでナイフを創造する。前と同じようにちっぽけなナイフ。でも人を一人殺すには十分な凶器。
「今までありがとう……さようなら、歩くん」
「……さようなら、詩織さん」
そして、ゆっくりと彼女の胸にナイフが刺さっていく。ゆっくりと食い込んでいき、そして心臓に達した。
「……」
だらりと力が抜ける。
今ここに一ノ瀬詩織は人生を終えた。本当の意味で彼女に終焉が訪れた。
もう涙は流れなかった。
スッとナイフを抜く。微かに付着した血を拭うと、それを詩織の遺体の上に乗せる。
そして、再び彼女の遺体を抱き上げると海へと彼女とそのナイフを流していく。
ゆっくりと、ゆっくりと流れていく。
すべてが、彼が愛したすべてが、彼を構成していたすべてが、流れていく。
やっと終わったのだ。終わりを、終焉をもたらすことができた。
「……詩織さん、もう行くよ。さようなら、愛おしい人」
貴方に死を捧げる。
彼は詩織に最上の死を捧げた。
もう迷いはない。もう憂いはない。
行こう、進もう、その先の彼方へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます