ICH 東京本校 校内選抜戦 学年代表戦
第40話 学年代表選抜戦
歩の朝の主なルーティーンはランニングと瞑想である。
ランニングをすることによって身体を鍛えるのはもちろんだが、それ以外にも運動には脳を鍛える効果があることはすでに明らかになっている事実である。20分の軽い運動をするだけでも、認知能力と注意力を向上させるドーパミン、気分を高めてくれるノルアドレナリン、抗うつ効果がある幸せホルモンと呼ばれるセロトニンなどが分泌される。
また、運動をする人としない人では幸福度に大きな差が出ることは自明であり、現代ではクリエイターだけでなく多くの人が率先してエクササイズを習慣にしている。
瞑想と聞くと宗教を関連して想像してしまうかもしれないが歩は無宗教で、彼は信仰のために瞑想を行っているわけではない。
瞑想の効果はランニングと同等かそれ以上のもので、脳を鍛えることができるのはすでに科学的に証明されている。
瞑想の効果はリラクゼーション効果、ワーキングメモリの強化、感情のコントロール力の強化、集中力の上昇などがある。特に瞑想をすることで前頭葉前皮質を形成している灰白質と呼ばれる部分をより活性化させることができるのだ。
前頭葉は意欲、創造、行動を司る部分でクリエイターにとっては力の源と言っても過言ではない部分。そこを鍛えるという目的のために歩は瞑想を毎日行っているのである。
そして、今までは脳の機能は20代でピークを迎えると言われていたが、脳は鍛えかた次第ではいくらでも成長させることができるのだ。脳の
歩はこのような部分での地道な鍛錬こそが、自分のパフォーマンスを向上させてくれると信じて毎日欠かさずにこの習慣を続けている。劣っている自分だからこそ、このようなところで差を少しでも縮めるしかないと考えているのだった。
筋力トレーニングはかなり昔から当たり前のものだった。というのも、筋肉は鍛えれば鍛えるほど身体にしっかりとその成果が目に見えてわかるからだ。しかし、現代では脳も筋肉と同様に鍛えることが可能ということが分かっている。だからこそ歩はどこまでも自分の可能性を広げるために貪欲に知識を集め、それを実践することでワイヤーというCVAでも戦えるということを己が身で証明していく。
「ふぅ、こんなもんかな」
一息ついてデバイスの電源を切る歩。現在はちょうどデバイスを使用して脳波を計測しながら30分ほど瞑想をしていており、ちょうどそれが終わったところだった。
「今日からリーグ戦かぁ... 連戦は辛いけど、これを乗り越えなきゃ先には進めないからなぁ... いっちょ頑張りますか!」
本日より、学年代表選抜戦が開始される。ここからのスケジュールはかなり過酷で、1日に最低2試合は試合をしなければならない。
また、時には一気に3試合も消費しなければならない場合もある。そのため選手は今後のことを考えながら試合をしなければならないのだ。どんな実力者であっても、連戦はかなり辛いものがある。しかしそれを勝ち抜かなければ
このような事情があるからこそ、歩はARレンズの実戦導入に踏み切ったのだ。ARユニットの使用は戦闘に限れば、メリット以上にデメリットが目立つがそれは本人次第である。ARユニットの恩恵を十分に受けることができれば、歩は代表になるのも夢ではないとはっきりと思っているのである。
ちなみに、歩は幸か不幸かリーグ戦の最初から試合をすることになっており、その通知は以前から来ていたのだがやはりいくら歩であっても、緊張するのは避けられないようであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「歩、お前さっき長谷川さんと一緒に登校してきてたよな?」
教室に入るといきなり雪時が歩に話しかけてきた。いつもならば、おはようと挨拶をしてから適当に会話をするのだが今日はいつもと少しだけ様子が違った。
「そうだけど... 何かまずいことでもあるの?」
「まずいも何も、あの人は地味に人気あるからな。ほら、特に容姿はズバ抜けてるだろ? 意外とそれに惹かれてる男子が多いって話だ。とりあえず少しは気にかけといたほうがいいぜ」
「はぁ、雪時はゴッシプに詳しいな。まぁ一応気にかけとくよ。無駄に目立ちたくないしね」
「おう、そうしといたほうがいいぜ。で、本題だけどよ。どうだ? 仕上がってきてるか?」
「うーん、まぁ特に問題はないけど... ちょっとした心配事はあるって感じだな」
「珍しいな。歩はそういうのは完璧にしてくると思ってたが」
「ほら、学年代表選は連戦が多いだろ? 俺の場合はVAの消費が激しいから、それがね。一応対策はあるけど、うまくいくかどうか」
「はぁ〜、なるほどな〜。でも歩は今日の1試合目だろ? 大丈夫なのか?」
「出たとこ勝負かな! 大丈夫さ、メンタルは安定してるしCVAもVAも異常はない。いつも通りやればいいだけさ」
歩が懸念しているのは、ARレンズのことである。
今朝、学校に着いてからすぐにARレンズの使用許可証をデバイス経由で提出し、先ほど申請が通った通知が来たのであった。これで今日の試合からARレンズを使用するつもりなのだが、やはり多少なりとも緊張しているようで雪時との会話も少しだけ気が重かったようである。
「ヤッホ〜、おはよ〜。歩! 今日の一試合目楽しみにしてるよ〜!」
「おはよう、歩。私も楽しみにしてるわね。なんといっても初戦ですもの」
「はい... 頑張ります...」
後からやってきた彩花と華澄の言葉も歩にかなりのプレッシャーを与えるのだが、誰もそのことには気がついていないのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「はい、じゃあ午前の授業は終了な。午後からは学年代表選抜戦が開始されるから、うちのクラスから出るやつは準備しとけよ〜」
担任の茜はそう言うと足早に教室を出ていく。
彼女を含めた教員はこの後の試合の準備や様々な手続きをしなければならないので、いつも以上にバタバタしているのであった。
「おい、歩! 教室の外で誰かお前のこと呼んでるみたいだぜ?」
「おお、わざわざ教えてくれてサンキューな」
(こんな時に誰だろ? 葵かな?)
午後からの第一試合の準備をしようとアリーナに移動するつもりだったが、その前に誰かに呼ばれたようで少し不思議に思いつつも教室の外に出ていく。
その途中で彩花がじとーっとした視線で歩を睨んでいたが、とりあえず気がつかないふりをしてそのまま自分を呼んでいる人がいるところに向かうのだった。
「わざわざ来てもらってすまないね。試合前で悪いとは思ったんだけど、どうしても声をかけておきたくてさ」
そこにいたのは
また急いで来たのか彼女の真っ白な肌は少し赤みを帯びており、呼吸もほんの少しだけ荒くなっていた。
「紗季。そんな急いで来なくてもデバイスで連絡してくれたら、俺の方から行ったのに」
「それはさすがに気が引けるよ。いくら僕と歩の仲であってもね」
そういう紗季の視線は歩の後ろの彩花と華澄に向いていた。
牽制を込めてそう言ったのかは紗季にしかわからないが、少なくとも彩花は挑発されたのだと解釈しているようで鋭い視線を紗季に向ける。
しかし、すぐに歩の方に視線を戻し再び会話を再開するのであった。
「どうかした? なんか今後ろの方に視線がいってたみたいだけど」
「いや何でもないよ。それよりあの事で話があるから、少し僕のラボに来てくれるかい? 時間は一試合目でもまだ余裕があるだろ?」
「うん、時間は大丈夫。それじゃあ行こうか」
そのまま二人は並んで医療工学科の紗季のラボに向かう。
一方、教室は以前の時のようにかなりざわついていた。
「おい、あれって綾小路紗季だろ? VA学で世界的に有名な」
「あぁ。間違いないな。というよりも七条のやつの人脈は恐ろしいな」
「あいつ顔もいいし、ワイヤーのCVAなのにめちゃくちゃ強いからな〜。しかも、めっちゃ努力家で性格もよしときた。そりゃ彼女の一人や二人いてもおかしくないよな」
クラスメイトがそうぼやいているのを聞いて、彩花はすぐに雪時の方に詰め寄っていく。その表情は今まで見たことないくらい、冷たく暗いもので雪時は内心かなりびびっていたのだった。
(おいいいいいいいいい。歩うううううううううううううう!!! さらっと爆弾投下していくなよおおおおおお。ひいいいいいいいいいいい。不知火のやつの表情ヤバいって!!!! あれは何人かやってる顔だってええええええ!!!!!!!)
「ねぇ、雪時」
「はい、なんでしょうか!」
彩花は基本的にとても社交的で誰とでもすぐに仲良くなれる人物である。そのため雪時のことも既に下の名前で呼んでおり、それなりに親しくなっている。
しかし、彩花の雪時と呼ぶ声には完全に感情というものが欠落していた。そこにあるのは無情なまでの音声である。それに恐怖した雪時は表面上は取り繕っていたが、内心はヒヤヒヤだった。
「あの女.... 誰....??????」
「いや、俺も初めて見たな。でも歩と仲よさそ... ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
雪時の発言を制止するために放った彩花の眼光は、完全に雪時を狙う獣と同等のものであった。
「雪時、よく聞きなさい。これからの発言はよ〜く言葉を選びなさいよ? じゃないと不幸なことになるわよ」
「イエスマム!!!」
「よろしい。じゃあもう一度聞くわよ。あの女は誰...?」
「自分も初めて見た女性であります! おそらくは歩の知人ではないかと思われます!」
「そう、知人...ね」
「ちょっとそれぐらいにしておきなさい。相良くん怖がってるじゃない」
「痛っ!!!!」
そんなやり取りをしていると、華澄が彩花の頭にチョップを食らわせる。そのおかげか、彩花の周りに放たれたいた邪悪なオーラは消え去っていく。
「少し冷静になりなさい。あの子は医療工学科の一年の綾小路紗季さんよ。世界的に有名なクリエイターの研究者ね」
「....なんで歩がそんなのと知り合いなのよ」
少し不満そうにしながらもなんとか冷静になった彩花は雪時に八つ当たりするのをやめ、華澄に疑問を投げかける。
「さぁ? でも多分アメリカで知り合ったんじゃない? 綾小路さんは一時期、研究で渡米してたからきっとその時ね」
「へぇ〜、まぁそれならいいけど... でもあの女絶対に私のこと見てニヤついてた!!!! あーーーーもうっ!!! 後で歩に問い詰めてやるっ!!」
「ほどほどにしときなさいよ〜。彩花は怒ると周りが見えなくなるんだから」
「そうだな。不知火もいくら歩のことが気になるからって、あんまり束縛するのはよくな...」
「あ?」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
彩花は、完全に女性のものとは思えない声と視線で雪時を再び怖がらせるのであった。雪時も先ほどの恐怖が残っていたのか、今まで以上に大きな声で悲鳴に近い声をあげる。
「はぁ... 相良くんも少しは学習しなさい」
「はい、気をつけます....」
さすがの華澄も呆れたようで、雪時に釘を刺しておく。華澄のチョップが雪時の頭に軽くあたり、彼は少しシュンとしたように体を小さくするのであった。
そして、これ以上空気が悪くなるのが申し訳ないと思ったのか、彩花は先ほどの話題を掘り下げる。
「そうえば、華澄はよく綾小路さんのこと知ってたね。しかも、渡米してたことも知ってたなんて、そこはあれ? お家の事情的な?」
「そうね。御三家だからそこらへんは... ね? あ、じゃあ私も行くとこあるから」
多くを語ろうとしない華澄は、そこでもう質問は受け付けないとばかりにその場を足早に去っていく。
「あれ? どうしたんだろ華澄」
「どうしたも何も、その手の質問は聞きたくないんだろ? 御三家と言っても、ただの女の子だからな。色々と大変なことがあるんだろ、有栖川も」
「雪時... あんた... 意外とまともな感性してたのね...」
「意外とは何だよ!! 全く、お前も少しは察してやれよ?」
「そうね、今後は気をつけるわ」
「じゃあ試合会場に行くか。不知火も今日は試合ないんだろ?」
「うん、今日はないわ。
「へいへい。じゃあ、歩の晴れ舞台を見に行きますか!!」
二人はそう言うと、その場を後にするのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
武芸科から移動してきた歩と紗季は、現在向かい合うように座っており、紗季は何やらデバイスで何かを検索しているようだった。
「すまないね、歩。わざわざ僕のラボに来てもらって。これからする話は誰にも聞かれたくなかったからね」
「と言うと、
「いや、今回はその件じゃないよ。まぁ使用を控えて欲しいのは間違いないけど。とりあえずこれを見てくれ」
そう言うと、先ほど開いていたモニターを歩に見せる。
「どうも最近、
「これは紗季の論文のデータ?」
「うん、後天的能力理論についてのアクセスが最近少し多い気がしてね」
研究者は自分が発表している論文のデータの1日に閲覧された数を知ることができる。
紗季は以前の歩とのやり取りから、自分の研究データの閲覧数を細かくチェックしたいたようで、そこからあることに気がついたのだった。
「どうも、ここ数日のアクセス数が多い気がするんだ。発表してから数年経つのに、これはどうもおかしいなと思ってね。これは予想だけど
「でも、それだけで決めつけるのは早計じゃないか? 偶然かもしれないし」
「いやそれが... 実はハッキングもされていたみたいでね。まぁデータは無事だったけど... でも
「なるほど... わざわざ知らせてくれてありがたいけど... うーん... 今後も俺を狙ってくるのか? でも校内戦だから疲労も溜まるだろうし、いろんな技も使うと思うからなぁ...」
「ま、胸に留めといて損はないさ。試合は思う存分にやるといいよ。いざとなったら警察や軍に相談するって手もあるんだし」
「そうだね。てか、本当に助かるよ紗季。今後も何かあったら教えて欲しい。もちろん時間に余裕があるときでいいけどね」
そういった歩の雰囲気は話を始めた当初より、かなり柔らかいものになっていた。やはり
「あぁ。今後も何かあったら、連絡するよ。じゃあ試合頑張ってくれよ。僕も今からちゃんと見に行くからさ」
「うわ〜。なんか人に改めて言われるとやっぱり緊張してきた〜」
「あはは、いつもの自信はどうしたんだい? 君なら大丈夫さ!!!」
そういった紗季は強化系のVAを使用し、歩の背後に回り込み背中に力強く平手打ちを入れようとする。
しかし、歩は後ろを振り向かずに紗季の手を包み込むように優しく掴む。
「ほらね? 大丈夫だろ?」
「はは、紗季らしい励ましだね」
そういう歩は嬉しそうに微笑むのだが、彼の目はしっかりと緋色に変化しておりいつも以上に気合が入ったようであった。
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