第39話 Another View 7 彼女の心情 1
私が歩と初めて出会ったのは、軽く散歩でもしようとICHの校内を歩いていた時だった。
昔から暇になると散歩する癖が私にはあり、今回はタイムアタックの結果発表を待ちながら散歩をしており、少しぼーっとしていたので周りに誰かいることに気がつかなかった。
そんな時に、後ろから歩がぶつかってきたのだった。
「あ!! す、すいません! 少し考え事をしていたので、気がつきませんでした! ほんとうにすいません! 大丈夫ですか?」
そう言う彼の顔は本当に申し訳ないという気持ちが見て取れた。
大体、私の顔と身体を見た男はそっちに気が行くのだが彼は少し違うようだった。
しかし、彼の顔を見た瞬間、私が昨日殺した相手が彼に非常に似ていることに気がついた。
確かに、昨日の相手は誰かに似ている気がしていたがまさか彼だったなんて。でも殺した相手が生きているはずはない。私はかなり混乱してしまい、歩は怪訝そうな顔をしていたのでおそらく私が動揺していることに気がついていたはず。
でも、特に気にせずに彼は私と会話を続けた。会話をしている間、注意を払って見ていたが、彼は私と会うのは本当に初めてだったようだった。それに加えて、男性特有の劣情を催したあの気持ち悪い目線が彼にはなかった。
いつもは胸や脚をチラチラと見られるのだが、彼の視線はずっと私の目をしっかり見て話していた。
今思えば、この時から私は七条歩という人間に惹かれていたのかもしれない。
そのあとは、彼が私と一緒に帰ろうと提案したので色々と考えた末に了承した。今なら言えるけど、この時は本当に断らなくてよかったと思う。
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「実は、ファンなんです!」
そう言われた時、きっと私の表情は酷いものだったと思う。
確かに私は可愛いし美人だ。うん、これは間違いない。でもアイドルのような活動や、メディアに露出した覚えはない。
一つだけ私の名前を世間に公開しているとすれば、誰にも評価されなかった論文だけ。そんなもの誰も見向きもしないだろうと、思っていたのにまた彼だけは違った。
まるで子供が親に楽しかった出来事を喜びながら説明しているかのように、私の論文を話す彼の表情が、一つ一つの仕草が、とても生き生きとしていた。
この時の感情はきっと一生忘れないんだろう。それほど私は感動したのだ。一生懸命時間をかけて仕上げたものが、否定され、そして多くの人に見捨てられた。今まで私のことを褒めていた人も、たった一度の失敗で手のひらを返したように、批判をしてきた。
でも、彼だけは歩だけは違う。彼だけは私のことを褒めてくれるし、認めてくれている。きっと私が彼を好きになったのはこの時、いや彼が私の論文を読んだ時にはもう運命は決まっていたのだろう。
そう考えると、胸の高まりが抑えられない。あぁ、人を好きになるってこんなにも幸福になれるのだと初めて知った。
それから私と歩は他愛ない話を喫茶店で続けるのだが、それも私の思い出の一つだ。もちろんデバイスに録音してあるので、最近はこれをずっと家でリピート再生している。
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「そうえば、長谷川さんはいつからVAの研究を始めたの?」
この時私は思い切ってあることを提案してみた。
「長谷川さんって呼ぶの、ちょっとめんどくさいでしょ? 葵でいいよ、私も歩って呼んでいい?」
あぁ、彼に拒絶されたらどうしよう。でもこの想いは止められないし、今のうちに距離を縮めとかなきゃ。
「本当に? じゃあ、それでよろしくね、葵」
あーもう、これはダメですね。歩の笑顔が眩しすぎて、私の心が浄化されちゃう。
実際のところ、すでに彼に好意を抱いていた私は顔が真っ赤になるのを抑えることができなかったけど、そこは
この時ほど自分のVAがあって喜ばしかったことはないというと、ちょっとクリエイター失格かな?
「私は昔から好奇心旺盛だったのかなぁ? その延長でVAっていう存在を知ったから、それからはずっとのめり込んでたかも。確か中学3年間はずーっと、VAのこと研究してたよ」
「なるほど、やっぱり葵はすごいね! そんな時から研究を始めて、あの論文を書くなんてなかなか出来るもんじゃないよ!」
歩はいつだって私のことを褒めてくれる。ただ、私の外見に惑わされて褒めてくる男とは違う。彼は私の内面を、私が成してきたこと褒めてくれる。今までの人生の中で味わったことのない
きっと、すでに私の彼への依存は始まっていたのだと思う。けれど、私のこの想いはもう止まらないし、止めたくもない。
彼と一生を添い遂げることこそが、私の生きがいとなったのだから。
「もう! 歩はさっきから褒めてばっかり! あんまり言い過ぎると、言葉の価値が下がるよぉ〜?」
「あぁ、ごめんごめん。憧れの人と直接話す機会なんて滅多にないからね。かなり興奮してたみたい。ふぅ、ちょっと落ち着くよ」
「ふふ。そうね、少しは落ち着いたら?」
この会話の流れからして、歩はすでに私のことが気になっているはず。あとは、いかに彼の情報を引き出すかね。そうえば、彼の周りには変な女どもがいたはず。ここからリサーチしていきましょうか。
「そうえば〜、今日はあの有栖川家の人とは一緒じゃないの?」
「ん? 華澄は今日は一緒じゃないよ。今日は紗季のラボに行ってたからね」
「紗季って... 綾小路紗季さん? 世界的にも有名な?」
「うん。昔からの知り合いでね。少し相談したいことがあったから話に行ってたんだよ」
「ふーん。そうなんだ、ふーん」
これは思わぬ伏兵が潜んでいたものね。まさか有栖川家の金髪女に加えて、あの色白の綾小路紗季とも知り合いだったなんて...
綾小路紗季。私が専門とするVA学で世界的に認められた憎い女。どうせ、オヤジどもに身体でも売ったくせに。
でもとりあえず今は排除すべき標的を入れてよかっただけでも、良しとしましょう。
「え、葵も一人暮らしなの?」
「うん。中学時代も研究で家にいることは少なかったけど、高校からは完全に一人暮らしにしたんだ〜。というよりも、葵もってことは歩も一人暮らししてるの?」
「俺も高校から一人暮らししてるよ。奇遇だね、なんか。これは今日会ったことと言い、本当に何か運命めいたものを感じるね。あはは」
「そ、そうね」
や、やった。歩も一人暮らしだったなんて、私はかなり運がいいみたい。というよりもこれはもはや運命としか言いようがないわね。
そうだ、ここはあの話題を振ってうまいこと今後に繋げていこうかな。
「そうえば、歩は食事はどうしてるの? 自分で作ったりしてるの?」
「いや〜、恥ずかしながら加工食品に頼りきりだね〜。今はいいサプリメントとかあるし栄養面での気遣いはしなくていいし、手作りはなかなかね〜。というよりそういう質問するってことは、葵は自分で作ってるの?」
「食事は昔から外食とか加工食品とかあまり好きじゃなくて、できる限り家で作ってるよ〜。あ! そうだ! 今度歩の家に作りに行ってあげようか?」
ここが正念場... お願い、了承して!!
私がそう思っていると、歩は少し考え込んでいるようで返事に少し遅れがあった。
「うーん、正直そこまでしてもらうのはなぁ。悪い気もするし...」
「でもたまには手作りとか食べてみたくない? 私のことなら気にしなくていいよ! 今日はたくさん褒めてくれて私も嬉しかったし、そのお礼ってことで!」
「うーん、ならお願いしようかなぁ。たまには栄養中心の食事よりも、誰かの手作りも食べたいしね。お言葉に甘えるよ。ありがとう、葵」
もう、その笑顔反則すぎっ!!!
どうしよう... 歩と話せば、話すほど好きになっていくみたい。あぁ本当に今日は運命の日だわ!
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「じゃあ俺はここで。今日は本当にありがとう。話せて楽しかったよ。じゃあね、葵」
「うん。バイバイ、歩」
そう言うと、歩と別れて自分の家に向かうのだが、私はすぐさまデバイスを起動する。
「さっきまでの会話の録音は... よし出来てる。あとは家に帰って編集しなくちゃ!!!」
会話の録音をしっかりと確認できた私は、周りの目も気にせずに鼻歌を交えながら上機嫌で自宅に向かうのだった。
「よし、デバイスを起動してさっきの会話を全て文字に起こさなきゃ」
家に帰った私は、制服を着替える手間すら惜しかったのでそのまま作業用のデスクに座りデバイスとARグラスを装着する。
そして、デバイスからモニターを50、ARグラスからは30開いて一気に作業をしていく。
普通はクリエイターでさえ、80ものモニターを一気に処理できるほどマルチタスク技術は高くない。でも、私は昔から大量の文献を読み漁り、大量の論文を書いていく中で効率を重視した結果、この形が一番作業をするのに向いていると気がついた。
もちろん、初めはかなり辛かったけど今は難なく作業をすることができる。人間の脳の
そして、一文字一文字、彼の言葉を起こしていく度に私はなんとも言えない充実感に包まれる。
あぁ、なんて幸せなんだろう。これほどの幸せは今まで感じたこともない。そのようなふわふわした気分の中にいても私の指は完全に作業に没頭していた。
そして、30分ほどで全て文字に起こしそのデータをデバイスに保存する。
「フフフッフフフフウッフフフフ。これでいつでも歩と一緒ね。次は音声を加工しなくちゃ」
そして私は再び作業に没頭するのだった。
「ふぅ、とりあえずこれで十分かな」
再び一時間作業をした私は、椅子にもたれかかる。
今の作業で自分が特に好きな歩の言葉をつなぎ合わせ、完全オリジナルのプレイリストを作成した。これからはこれを毎日聞こうと思っている。だって、彼の言葉がこんなにも私を幸せにしてくれるのだから。
「さてと、とりあえずは作業は終わりだけど... これからどうしましょうか... 家に行く約束は取り付けたけど... そこでどううまく立ち回るかよね」
現在の世界では心理学は非常に発達しており、人の心のあり方がかなり明確にわかっているがまだ真理には至っていない。それは完全なAIが存在していないことが示している。私たちは未だに不完全である部分的なAIを使用してこの社会を生きている。まぁ、それだけでも十分に便利だから多くは望みはしないけど。
そんな理由から、このようにしたら男性は女性に惚れるなどといった絶対の方法は存在しない。逆もまた然りである。
恋愛というのはある程度のパターンはあるがそれは絶対のものではない。しかし、そのパターンを知っているのと知らないのとでは今後の活動に影響が出るかもしれない。
そう考えた私は、世界中の論文が掲載されているデータベースにアクセスする。
ETD――Electronic Theses and Dissertations――(電子学位論文)が保存してある研究者専用のデータベースが存在する。これは研究者としてどこかの組織に正式に採用されているものだけがアクセスできるデータベースである。
幸い私はとある企業のラボに一応、正式な形で採用されているのでその権限を持っている。
そこには全ての論文は英語で記述されているのだが、もちろん私は英語の読み書きならばそこそこできるので難なく自分が欲する論文を探し当て、いくつかダウンロードし朝まで読み耽るのだった。
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「んん... あぁもう朝かぁ...」
遮光カーテンから僅かに漏れる朝の光と小鳥のさえずりによって、半覚醒だった意識が徐々にはっきりとしてくる。
あれから恋愛関連の文献を浴びるほど読んでみたが、かなり面白い記述がたくさんあり意外と勉強になった。
例えば、女性の理想のカップ数はCカップ、赤い服を着ることでより男性に意識される、10センチ以上のヒールを履くことでより魅力的に見えるなど、意外とこの手の方面の研究は盛んだったみたいで私は自分が思っていたよりも有益な情報を多く手にいれることができたのだった。
しかしその途中で意識は途絶え、デスクでそのまま突っ伏して寝ていたようで身体のあちこちが痛い上に、髪の毛もかなり乱れたので、私はそのまま立ち上がるとシャワーを浴びに浴室に向かう。
「あ、下着持ってくるの忘れた... 取りに戻らなきゃ...」
未だに覚醒していない意識のまま、リビングに戻るとデバイスが点滅していることに気がついた。
どうやらテキストメッセージが届いているようで、私は下着を持っていくついでに確認する。
「こんな朝から誰だろ?」
そう思いながらデバイスを起動するとそこには、歩からのメッセージが届いていた。
「嘘っ!? 歩から!!??」
まさかこんな朝から歩がわざわざ連絡をしてくれるとは夢にも思っていなかったので、驚くとともに私の心は喜びに満たされていく。
「えーっと、女性物のブレスレットが鞄に入っていたけどこれってもしかて葵のやつかな? 朝起きて準備してたら気がついたんだけど...」
歩からのメッセージを読み上げて、すぐさま私はいつも自分が身につけている小物を置いている入れ物の中身を確認しに行く。
「あ! ない... 昨日外した時にそのまま忘れて歩が持っていちゃったのね...」
でもこれは思わぬ好機。自分が予期していなかったとはいえ、チャンスを手に入れたのだ。これを活かさない手はない。
「えーっと、それ私のブレスレットみたい。もしよかったら朝どこかで合流して一緒に学校行かない? その時に返してもらうね、っと」
そう言いながらデバイスに返信用のメッセージを打ち込んでいく。
私が忘れたブレスレットは姉さんこと、
さすがにそれは自分の手元に置いておきたいので、朝それを返してもらうついでに一緒に行く約束を取り付ける。
そのやり取りのついでに歩の家の住所を知ることができた。私の家から徒歩20分くらいのところで意外と近いことを知り、この出会いは運命なのだと再び確信する。
「歩に会うんだから気合い入れないとね!」
そして私は今度こそシャワーを浴びに浴室に向かうのだった。
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「歩〜!! ごめーん、ちょっと遅れちゃった!!」
気合いを入れ過ぎてしまい、私は予定されていた集合時間に5分ほど遅刻してしまう。
制服だから服装は特に何もしていないが、いつもより丁寧に髪を結いそして軽くメイクをしてみたが自分の納得のいくものに中々ならずに時間をかけすぎてしまったのだ。
一方、歩はどうやら待っている間にデバイスで書籍か何かを読んでいたようで私の存在に気がつくとデバイスのモニターを切り、私にとびっきりの笑顔で微笑むのだった。
「いや、俺も来たばっかりだから大丈夫だよ。それより、はいこれ。大切なブレスレットなんでしょ?」
「うん。ありがとう。でもなんで大切ってわかったの?」
「そこに Dear Aoi Hasegawa って彫ってあるでしょ? 誰か大切な人からの贈り物かなって思って」
「あ、これは従姉妹の姉さんにICHの入学祝いに貰ったの。でもまさか歩の鞄に紛れてたなんてね」
「うーんそれなんだけど、俺も入れた覚えはないんだけど... というよりごめんね。なんかわざとじゃないとは言え、手間かけさせちゃって」
「全然いいよ。こうして朝から歩に会えたことだしね」
「ははは、俺も朝から葵に会えて嬉しいよ。それじゃあ行こうか」
私はさりげなく好意を示してみるが、歩はそれをさらっと流してスタスタと歩き始める。うーん、こういう方向性のアプローチは違うのかなぁ。そう思いながら私は歩の後についていくのだった。
この時、まだ私は何も気がついていなかった。
自分の本当の想いも。そして、七条歩という人間の本質というものを。
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