夢は、優しい雨のように

遊月

百合の薫り漂う夢


 傘もささず、ランギン、ふたりの少年は薄ぼんやりとした闇に目を凝らしていた。


 夜に溶けてしまいそうに黒い黒い髪をしているのが藍、月光のように滑らかな色の髪をしているのが銀。少年達は、雨に濡れて滴る雫を厭いもせず、口を噤んだまま世界の縁に佇んでいる。


「–––銀、彼処だ」


 やがて藍が、低く落とした声で呟いた。

 彼が指した先には、ぼんやりと淡い光を放つ螢火が揺らめいている。少年達をいざなうように舞う灯りは、蔦に覆われた堅牢な建物に吸い込まれてゆく。

 ふたりはその螢火を追って靴音を敷石に響かせた。


 やがて辿り着いたのは、孤児院の一室とおぼしき古びた扉の前。

 ふわふわと空中遊泳する螢火を眼前に、少年達は雨に濡れて額に貼りついた前髪を指先でぬぐった。


「……おいで、アヲ」


 藍が密やかに囁き、腕を差し出した。すると、その手のひらにふわりと螢火が舞い降りた。それは、濃やかな鱗粉をはためかせる青い蝶だった。


「案内ありがとう、おやすみ」


 アヲと呼ばれた蝶に藍が口づけると、青い翅がまばたくように震え、そして蝶は、ふつりと闇に融けた。


「さて、今夜のお客様は?」


 寝静まった夜の空気を破るような軽やかさで銀が言う。口端を上げて笑いながら扉を押すと、軋む音を立てて扉が開いた。



 -----



 繰り返し見る夢がある。


 これは夢だ、と僕の頭の奥で鐘が鳴り響く。こういうのを明晰夢と呼ぶのだと、夢の中でぼんやり考える。



 夢の中の幼い僕は、大人に手を引かれ、扉も壁も天井も床も真っ白な病室に辿り着いた。

 清潔に設えられた寝台に静かに横たわるふたつの影が見える。陶器のように白いその肌を、美しい、と僕は思う。でも黙っている。何故なら彼らは、もう動かないし喋らないし呼吸もしないから。


「さあ、お別れのキスを」


 僕は背中を押され、訳も解らないまま寝台に歩み寄ると、そっとふたりの頬にくちづけた。触れた肌は冷たく、百合の花の薫りがした。


「さようなら」


 聖堂に黒い人波が出来ている。さざめくように響く啜り泣きの声、囁き声。さっきの人達のお葬式なんだ、とぼんやりとした頭で僕は辺りを見渡す。

 彼らの死を悼む人々が、僕の眼前を幾度も幾度も通り過ぎてゆく。「まだちいさいのに」「ひとりぼっちでのこされて」たぶんそんな事を話し掛けられているらしいのだが、夢の中の僕は答えられずに俯く。だって、これが誰の葬送なのか、悲しいのか淋しいのか、頭は空っぽで気持ちはぐしゃぐしゃで、なんて言ったらいいか解らないから。


 百合の花が、薫る。


 気付くと僕はひとり、寝台に横たわっている。眠れずにシーツに埋まる僕に、ピアノの音が雨のように降り注ぐ。きらきらひかる、おそらのほしよ。口遊みながら、僕はいつのまにか眠ってしまう。


 そして、夢の中で夢を見る。


 手を引かれて訪れる真っ白な病室。最期のくちづけ。百合の薫り。ピアノの旋律。……夜の底の底で、繰り返し、繰り返し。


「–––パパ、ママ……!」


 目覚めると、僕はいつも泣いている。



 -----



「百合の薫りがする」


 さやけき雨音の中で眠る少年を見つめ、藍がひっそりと呟いた。その額に手のひらを滑り込ませる。

 瞬間、焦がれるような熱が掌に伝わり身体じゅうに駆け巡った。藍が眉を寄せ口を歪めるのを見て、銀は咄嗟にその手を掴んで少年の額から引き剥がした。


「藍、大丈夫か」

「平気、ちょっと吃驚しただけ。夢を『覗く』のは僕の仕事だしね」

「そうなんだけどさ、見てるとこっちまで痛い気がすんだよな」

「……心配してくれたの?」

「煩いな、早く済ませようぜ」


 ふいっと顔を逸らしてぶっきらぼうに言い放ったのが、銀の下手くそな照れ隠しである事も藍はじゅうぶん承知の上だ。長い付き合いなのだ。


「とりあえず喰うか? さっきのお前の様子だと、この子が背負い続けるには荷が重い夢みたいだし」

「そうだね。頼んだよ、銀」


 藍が言うと、返事の代わりに銀は口端を持ち上げて笑って寄越した。


 そうして、銀が何事かを呟きながら瞼を閉ざすと、その手中に淡い燐光を放つ鈴が現れた。辺りを、柔らかな青の光が包み込む。


 ……凛、


 銀の手の動きに合わせて震えた鈴が、儚げながら涼やかな音を響かせたかと思うと、途端、かたかたと小刻みに窓枠が揺れ始め、寝台に眠る少年の身体も痙攣を起こしたように二、三度びくりと震えた。


「……!」


 再び鈴が鳴り響く。ぱあんと硝子が弾けたような清らかな音と共に、青い閃光が舞い散り、螢火のようにふわふわと少年の周りを遊泳する。藍が手を翳すと、その青い螢火は蝶となって彼の指先に次々に集った。


「一丁上がり」


 ふ、と笑った銀の手元から鈴が消えたと同時に、藍の指先をくすぐっていた蝶達も一羽、また一羽と薄闇の中に融けてゆく。青い光が静かに消えゆく世界を、雨音だけがまたゆるゆると満たそうとしていた。



「銀の夢喰い、いつ見ても綺麗だね」


 青い鱗粉が宙に融けて消えていったのを見届けて、藍はほっと息をついた。少年の頬を伝う最後の涙を指でぬぐうと、銀も満更でもない表情で頷いた。


「これでもう夢に泣かされる事も無いだろ」

「そうだね。じゃあ、永かった夢を喰っちゃった代わりに」


 藍が微笑んで指先にふっと息を吹きかけると、一羽の蝶が現れた。アヲだ。藍はその蝶を少年の頬に滑らせた。


「アヲ、この子にパパとママが居た頃の幸せな夢を紡いで。

 ……ねえ君、君はパパとママから深く深く愛されてたんだよ?そして、今だって、きっとふたりは君を見守ってる」


 藍の言葉に、蝶はふわりと翅をはためかせた。すると、それに合わせたかのように辺りが青く煌めいた。


「さあ、安心しておやすみ」


 藍の手のひらからふわりと甘い蜜の薫りが漂い、青い光は、少年の瞼に吸い込まれるように緩やかに融けていった。


「……よい夢を」


 銀が、柔らかな声で呟いた。


「さて銀、帰ろうか。雨に濡れたせいで寒くなってきちゃった。風邪引くかも」

「は? 俺、全然寒くないけど」

「銀は鈍感だからさ」

「言うねお前。風邪引いたって看病してやらないからな」


 仕事を終え、軽口を叩いて笑いあうふたりの頭上では、いつのまにか雨が上がり、垂れ込めていた雲の消えた夜天で月が静かに輝いている。



 世界には、悪しき哀しき夢を喰い、優しい夢を紡ぐ者が居る。夜な夜な夢を渡る青い蝶は、愛を込めて彼らをユメクイ、或いはユメツムギ、と、呼ぶという。




 -END-

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢は、優しい雨のように 遊月 @utakata330

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ