コインロッカーのトカレフ

「気味が悪い事件ね」

と彼女は言った。僕らは夕飯を一緒に取っていた。鮭のムニエル、味噌汁、白米、ほうれん草のおひたし……。

「だって、あそこのお店の店員さんでしょう? いつもよく笑っていたのに……」

「弟を殺して、バラバラにしたんだってさ。一体何がいけなかったんだろうなぁ」

(そう言って恋人同士はチャンネルを変えた。明るい部屋、整った食事、夜には眠り愛し合う、朝の目覚め。何もかも間逆だ。お前たちに、私たちの事なんか分からないだろう。テレビのワイドショーが何と言おうと、同情しようと、批判しようと、お前らは私たちではないのだから。我々は違う人生を歩んでいる。だからこそ個人が存在する。我々は、各々が絶対に干渉できない肉体に幽閉された孤独な魂だ)


 さて幸福の話は一旦置いておくことにして、コインロッカーの赤ん坊の話をしましょう。赤ん坊の名前はトカレフ。八発の銃弾を装填するソ連製自動拳銃でした。このトカレフ自動拳銃、体は細く小さいものの、充分に人を殺す能力を有していました。

 トカレフはいつも考えていました。いつか自分も使われるときが来るのかなぁ? と。彼はまだ人を殺した事のない、若いピストルだったのです。それはちょうど、男の子が、いつ初めて女の子とキスをするんだろう? と空想することに、似ていますね。道具にとって、使われる事が幸福の条件なのです。椅子は座られ、ペンは書かれ、机は物を置き、ライターは燃やす……。スコップで掘り、死体を埋め、土をかける。塵は塵に。灰は灰に。我々は土塊から出来たアダムの子孫……。人間は、土に還ることで、初めて意味を為す。そう考えた男の子が居ました。名前を、アリスと言いました。

「おじょうちゃん、鬱屈した精神を抱えているようだね」

と、キオスクのおじさんが煙草を吹かして言いました。その名前を芋虫といった。

「僕はお嬢ちゃんじゃない。母親に去勢されたんだ」

アリスは言った。長い黒髪に、白のワンピース。赤い靴を履いて、待ちくたびれた娼婦のようだった。

「それは、それは。ではなんと呼べば?」

「呼ぶ必要はない。僕に名前はない。誰から呼ばれる事もない」

「それじゃあ、誰でもない者の息子。この鍵をやろう。この駅のコインロッカーの鍵さ。どうしても生き詰まったら、使うといい」

それには番号が616と書かれていた。すると芋虫は液状になって潰れた。誰かが踏み潰したからだ。アリスは迷わずにロッカーに向かうと、拳銃を取り出した。

「僕の名前はトカレフ。TT-33という型番もあるのさ」

「拳銃にすら名前が?」

「人間は、名前を付けることで他のものと区別する。トカレフというのは、僕の父親の名前さ。僕の本名はピストレット・トカレヴィチ・トカレフ。父称だよ」

「じゃあピストルと呼ぼう。一般名詞だから」

「苗字で呼ばれるほうが好きだけどね。さあ、誰を殺しに行く?」

「まずは、死んだ母親」

するとトカレフは困り顔で言った。

「そいつは無理さ。死んだ人はそれ以上殺せないんだ」

「どうして?」

「そりゃあ……死は、不可逆性を持った現象だからさ。ゆで卵を生卵には戻せないだろう? あるいは、バラバラにした弟を繋ぎ合せても、元の弟には戻らないんだ」

「僕に弟は居ないが」

「物の例えだよ。どうしても君が母親を殺したいのなら、まず生き返らせることが先決さ」

「どうやって?」

「うーん……生き返らせることは、僕の本分じゃないからなぁ。魔女に相談しなきゃ。――おーうい! リリス! リリス・エハヴァ・シャローム・リデル!」

トカレフがそう叫ぶと、空から悪魔が降りてきた。

「呼んだかしら?」

「この子が死んだ母親を殺したいって言うんだ。でも、それにはまず生き返らせないと。どうしたらいいのかな?」

「残念だけど、死んだ人間を生き返らせることは出来ないわ。だけど、あなたの望み通り、あなたの母親を殺しに行くことは出来る」

どうやって? アリスが訊いた。リリスは答えた。

「あなたが死ぬのよ。そうすれば、母親の下に復讐しに行くことが出来るわ。どうせこの世に、未練なんてないでしょう?」

「あの世は存在する?」

「信仰があればね」

「信じる神なんてない」

「神じゃなくてもいいのよ」

「つまり?」

「憎い奴らが暮らす世界がある。そう信じるだけで充分」

「なるほど、」

と言って、アリスはまず目の前の悪魔を撃ち殺した。それからついでに人間を一人。空薬莢は転がって乾いた音を立てた。冒頭のカップルも撃ち殺して、残りは4発。それからアリスは大統領も撃ったし、独裁者も撃った。ユダヤとキリストとイスラムの神(これらはすべて同一だったので一発で済んだ)を撃ち殺してから、アリスは思った。残り一発は、自分のために取っておこう。これからは、自分の手ではなく他人の手を使って人を殺そう。憎い奴らを全て排除した……僕だけの世界……僕だけの空想……僕だけの……僕だけの幸福。

 トカレフは幸福に浸りながらそう思った。

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