他人と縄
ちょっとした口論から弟を殺してしまった。干支二回ぶん一緒に暮らしてきた弟をだ。母親とは死別した。父親は他に女を作った。だから私たちはずっと一緒だった。それが耐えきれなかった。
他人との境界線が分からない、とよく思う。だから笑顔がその防具になった。笑っていれば大体の事は許される。家族は、同じ遺伝子を持っているから家族なのではなく、家族と認識すれば家族となるのだ。私の好きなヤクザ映画や、戦争の映画でもそうだ。兄弟の盃を交わす。一緒になって敵と戦う。その儀式が境界を超える。
深夜、コンビニのアルバイトをしていても、笑っていれば許される。大きなミスをしない限り。この点、女に生まれてよかったと思う。笑い慣れていない男が笑っても気味が悪いだけだから。天涯孤独の右脳と左脳だ。脳漿に浮かんだちっぽけな島だ。他者を殺すことと、家族を殺すことの差は、昔は尊属殺人と呼んだそうだ。両親や祖父母を殺すことは、たぶん儒教の思想とかに反するんだろう。
私は笑顔という防具があったけど、弟は鬱だった。我々は裸のまま社会に出ることはない――必ず服を着る。あるいは化粧だってする。昔から銭湯が苦手だった。他人に裸を晒したくない。他人の裸を晒されたくない。あそこは、なんとなく淫売宿みたいなものだという意識が、私たちの間には共有されていた。
死んだのは首を絞めたからだ。母親は死ぬなら窒息死がいいと、小さい頃から夜な夜な私たちに言い聞かせていた。母親の背中は小さかった。晩年、愚痴ばかり言い続ける母を、私は両手で絞め殺して、言葉がそれ以上出ないようにしてやった。でも親孝行だったと思う。深夜、弟と二人で桜の木の下に母を埋めた。不思議と誰にも気付かれなかった。――いや、よくよく考えてみれば、誰もこんな家族の事なんて、気にするはずがなかったんだ、と思った。
母を埋めて帰った後、私たちは初めてのセックスをした。避妊もしなかったので、子供が生まれるかと思ったけど、妊娠することは無かった。たぶん、こんな気狂いの子孫は、淘汰されて然るべきなのだと、私は嘯いた。明くる朝、起きると弟が縄で首を吊ろうとしていたので、慌てて止めた。その日から、弟は外に出なくなった。銭湯にも通わなくなった。
私たちだけの――いいや、私だけの、弟だけの部屋がそれぞれ設けられていたら、などと思う。狭い四畳半にプライバシーは無かった。弟の生産するゴミは日に日に居住スペースを侵食していった――まるでそのまま私たちの生活が、人生が、生き方が、間違っていたように。私たちが二人で一人前なら、私は人の二倍も三倍も一人前にならなければ、二人で生きていくことはできない。だって、目の前のこの死体は人間ですら無かったのだから。(彼自身がよくそう言っていたので、そう表現することにしよう)
そして私もまた、畜生になった。人の道から外れてしまった。私たちは人間になれなかっただけなのだ、とまた、言葉で自分を欺いてみる。冷えた指先を自分の首元に沿わせてみる。だけど、力は入らなかった。私は自分が可愛いから。その為に一人になったのだから。個人を獲得するための縄を私は手に入れた。この縄の内側には誰も入れない。そう、誰も、誰も、誰も…………ここが私の国境線。私だけの王国。人間である事を諦めることによって、私はついに脱出したのだ。家族という束縛の縄から。
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