第10話 絵留美の秘密
長いこと、いやな夢を見ていたような気がする…。
複数のアメリカ兵が、次々と自分にのしかかってきて……おや?なんだか様子がちがう?
ついさっきまで、ヤミ市場を駆けぬけ野原へと逃げ込んでいたようにかんじていたが、気がついたら真っ白で消毒液のようなニオイがする布団に包まれている…。
一瞬自分の置かれている状況がわからず焦った、ここは戦後の焼け野原ではなく、自分が入所していた施設の寝床とも様子がちがっていた。
左肩から背中にかけてが、やけに鈍痛をかんじる。
――ああそうか、自分は今“市川フキ”でなく“新田絵留美”なんだ。彼女のかわりに中学校へ登校してみたら、とんでもない目に遭わされたんだ――
どうやら中学校の保健室で寝かされているようだ…。
カーテンのすき間から保健室内が少し見えた。
正面に保健医らしき白衣を着た女性が机に向かって腰かけているのを確認できた。
目が覚めたことを知らせようとしたそのとき、コンコン…とドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
ややハスキーな心地よい声だった。
「失礼します」
凛とした明るい声とともに入ってきたのは上下ジャージを着た若い女性で、見るからに体育教官のようだった。
「新田さんの様子を見にきたのですが、どうでしょう?」
すらっと背の高いショートヘアの女性で、いかにも体育教官になるために生まれてきたようなタイプだ。
「まだ眠ってますが…それより担任の小林先生は?」
「新田さんを襲った男子生徒宅へ直接訪問しているので、かわりに生活指導担当になった私が来たのですが…」
「そうでしたか…」
自分はもう起きている…と、なんとなく声をかけづらくなってしまった。
「ちょっと訊きたいことがあるのですが」
女性体育教官は、言いにくそうに声のトーンを落とす。
けれども保健室内は静かなのでよく響いた。
「なんでしょう?」
女性体育教官は、さらに保健医の前へと歩み寄る。
「あの、私今学期に入ってから突然生活指導担当になったんですが、新田さんのことあまり聞かされていないんです、一体どんな問題を抱えているのでしょう?」
これはもしかして、知りたいことわかる
私はそう思い、息をひそめ耳をそばだてた。
保健医はため息をつく。
「当校に赴任したばかりの佐藤先生にいきなり生活指導担当を振るとはね…しかもなにも話してないなんて、どうなっているんだか。ありえないわ…」
保健医は再びふうっ…とため息をついた。
それに対し佐藤と呼ばれた女性体育教官は、恐縮した様子だ。
「すみません、エリ子先生にしか訊けなくて…」
「新田さんのご両親が離婚していて、現在父親と二人暮らしってのはご存知?」
「はい、去年の夏までは都内で母親と暮らしていたことも知っています、ですが前の学校でどんな問題を起こしたか、まだ聞かされていないんです」
「全くしょうがないわね!新田さんが不登校だったのをいいことに話さなかったのかしら?ま、ここで怒っても意味ないわね。きつい話だから、覚悟してくださいね?」
「はい」
…聞くのに覚悟をしたのは佐藤先生だけでなく、カーテンごしの自分も息をのんだ。
「彼女はね、中学校あがる前から母親の内縁関係にある男から性的虐待を受けていたのよ」
なんと!!
……それは衝撃的な事実だった……。
性的虐待だなんて、あの
常に左手首に包帯を巻き、死ぬことしか考えていない理由がこれか!?
私は先程男子生徒に見せつけられた映像を思い出した、あれは虐待の果てだったのか…。
それを聞かされた佐藤先生も絶句しているようだった。
「それだけじゃなくてね、だいぶ年上の男性とも交際させられていたのだけれど、性行為の様子が動画で拡散されてしまったのよ」
「えええっ!?」
佐藤先生が驚きの声をあげる。
「彼女、すっかり洗脳されちゃっていてね…昨年補導されるまでそれがいけないことだって、あんまりわかっていなかったみたいなのよ…しかも、母親の内縁の男は援助交際中学生と称して動画を売って儲けていたのよ」
「なんて、ひどい…」
佐藤先生は怒っているのか衝撃を受けているのかこちらからはよく見えなかったが、
その声は震えていた。
エリ子先生の口から、さらに衝撃的な事実が続いた。
「もっとひどいのは、そのことが発覚したとき、母親は彼女を罵倒したのよ」
「えええっ!?どういうことですか?!」
「新田さんの母親は10代で彼女を産んでね、精神的にも幼かったの。明らかに娘に手を出した男が悪いのに、母親は娘が誘惑したとかなりひどく責めたようよ」
「そんな…」
佐藤先生は、だいぶショックを受けている様子だったが、私自身もかなり衝撃を喰らった、
想像以上だった!
「色々あってね、彼女の父親がこれを知って慌てて引き取ったの。たまたま彼は当校の卒業生だったのもあって、うちを頼ったってわけ。動画はもう削除されたはずで男も逮捕はされたけれどね、やっぱ中学生男子興味あるもんだから、たまたま動画保存してた生徒がいたみたいで…登校初日にいきなりトラブルがあって、それで保健室登校してたけど、それもすぐ来なくなったってしまったのよ」
「そういったことよくニュースで耳にはするけれど、まさか当校に該当する生徒がいたなんて …」
佐藤先生はかなり打ちのめされている様子だ。
「唯一の救いは、妊娠しなかったことね…新田さん、動画拡散がきっかけで補導されてね…前の学校の同級生に軽蔑されたのもショックだったようで、なんども自殺未遂しているのよ」
耳をそばだてて聞いていた自分もかなりの衝撃だった。
まさか絵留美も、自分と同じような目に遭っていたとは…。
ああ、今までなんて無神経な発言ばかりしてしまったことか、
『生きてりゃ必ずいいことある』『そのうち恋をする』といったような言葉は、
あのような経験した直後の女にとって、もっともつらいことだと身をもって知っていたのに…。
事情を知らなかったとはいえ、悔やまれた。
ここで机の上にある電話の音がプルルルル…と、鳴り響いた。
「はい、保健室です。はい…はい、まだ目を覚ましていませんが…わかりました、お待ちしています」
エリ子先生は落ち着いた様子で受け応えをし、受話器を静かに置いた。
「今から新田さんの父親が迎えにくるので…」
今から新田主任がくるのか…エリ子先生は佐藤先生の退出をうながしているようだったけれど、
「あの、私、担任の先生のかわりに父兄を迎えるように言われているんですが」
佐藤先生は出ようとはしなかった。
と、そこでいきなりドアがバーン!と開く音が響いた。
「エリ子!!!うちの絵留美が襲われたって!?」
新田主任がバタバタと駆け込んできた。
「ちょっと新田くん、落ち着いて!」
エリ子先生はイスから立ち上がり新田主任をなだめる。
このとき改めて彼女の姿をはっきりと確認できたのだが、30代くらいの落ち着いた魅力的な女性で、長い髪を一つに束ね、細いメガネをかけていた。
そばにいた佐藤先生が目を丸くしている。
「あのぅ、二人はお知り合いなんですか?」
「そう、私たち二人ともこの学校を出た同級生なんです…って、新田くん!絵留美ちゃん、まだ目覚めてないから、そっとして!」
新田主任がこちらへやってくるのを引きとめようとする。
ここで新田主任はくるりと向きを変え、エリ子先生の両肩をつかんで揺さぶった。
「一体なんでこんなことになった!?」
怒鳴り声をあげ、かなり興奮している様子。
「落ち着いて、そんなに大きな声を出したら目覚めちゃうでしょう」
エリ子先生はなだめ、自分が座っていたイスをすすめ新田主任を座らせた。
佐藤先生はどうしたらよいかわからず、タジタジしていた。
「私も知らなかったんだけどね、絵留美ちゃん、なにを考えたのかこっち来ないで教室行っちゃったのよ。で、予想通り、動画観たことのある男子生徒にからかわれ、押し倒されちゃったのよ」
「なんだって!?」
エリ子先生が最後まで言い終わらないうちに新田主任はガタっと立ち上った。
「だから、落ち着きなさいってば!押し倒されたっていっても文字通り倒されただけで、レイプされたわけじゃないから!倒された勢いで気を失ったけど、軽い打撲で済んでいるから!」
遠回しでなく、かなりハッキリと言うもんだから驚いたが、新田主任がかなり興奮状態だからここまで言わなければならなかったのだろう、
佐藤先生は気の毒にすっかり圧倒され押し黙ったままだ。
「担任はどこだ、なにしてる!?」
新田主任は相変わらず声のトーンを落とさない。
「今、彼女を襲った男子生徒の自宅を訪問中です」
「くそう…ブッ殺してやる!」
新田主任はつかつかとドアの方へ向かったようだが、エリ子先生が止める。
「落ち着きなよ!全く、こういうとこ昔からちっとも変わってないんだから!」
「その手を離せよ、このバカ
「あ、あの、二人とも、や、やめ…」
気の毒な佐藤先生はオロオロしていた、見たかんじまだ新米教師といった雰囲気で、二人を止めるには明らかに力量不足に見えた。
ここで私は起き上がった、主任止めるには自分が声をかけるしかない。
体が微妙に痛む。
多分さっき倒されて打ったところだろう。
でも起き上がれないほどではなかったので、思い切ってカーテンをシャッと開いた。
「あのー…」
保健室から出ようとしている新田主任の腕をエリ子先生がつかんで離さないという光景に目に飛び込んできたが、それなりに身長があり体格の良い男相手に引けを取らない姿に圧倒された。
「絵留美!」
新田主任はエリ子先生の手を振りほどき、こちらへ突進してきた。
「大丈夫か?すまんかった!仕事遅れてでもオマエを
その言葉と同時に両肩をガシっとつかまれた。
「いたたた…」
先程打った影響もあって痛みをかんじ、思わず声に出してしまった。
「あ、スマン…」
すぐに手を離してくれたが、
「もう!乱暴にしないの!」
エリ子先生にど突かれていた。
「新田さん、もう大丈夫なの?痛いとこはない?」
新田主任に対する口調とは打って変わって優しげなのでその変貌に驚かされたが、
人を安心させる温かみをかんじられた。
「はい、大丈夫です」
本当のところ背中と肩が痛かったのだが、体が若いせいか、たいしたことないようにかんじた。
「一応骨は折れてないようだけど、少しアザになっているから気をつけてね」
そういって湿布の入った袋を渡してくれた。
包みごしに湿布のツンとしたニオイが漂ってきた。
「アザ!?アザだと?!」
新田主任は目を剥いて怒声をあげる。
こんな彼をはじめて見た、施設ではいつも真面目で穏やかな印象しかなかったのに、これには驚かされた。
「だから興奮しない!傷は残らないから!」
またまたエリ子先生に叱りつけられるが、
「程度のモンダイじゃねーんだよッ!女の子にアザをつけるなんて、ありえねーだろ!?」
…かつて新田主任が若いころは不良だったという噂を耳にしても信じられなかったのだが、こういう姿を見ると納得できる。
感心してる場合じゃない、自分もなだめないと…。
「しゅに…じゃなかったお父さん、私もう大丈夫だから」
ここで先程からオロオロしていた佐藤先生が口をはさんできた。
「あの、私担任の小林のかわりの生活指導担当の佐藤と申しますが…」
ここで新田主任ははじめてそこに佐藤先生がいたことに気がついた様子で、
ジロリと睨みつける。
「担任からは後日謝罪に行くので…」
ここで新田主任は言葉を遮り、
「なんで今日来ない!?本来その日のうちに来るのが、スジってもんだろう?!」
喰ってかかった。
佐藤先生は今にも泣きそう。
ここでエリ子先生が助け舟を出す。
「新田くん、こんなこと佐藤先生に言ってもしょうがないでしょう?私も同意見だけど、ここは学校の出方待つしかないよ」
しばらく新田主任の怒りを鎮めるのに難儀したが、ようやく帰路についたのは夕方すぎだった。
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