三題噺「ベクトルと蜘蛛の糸」
桜枝 巧
ベクトルと蜘蛛の糸
黒いしみのついた木の椅子に座った私は一人ノートを広げ、「問六」と書いた。 どこが悪いのか少しぐらつくシャープペンシルで小さく三角形を書く。
頂点をA、底辺の端をB、C。BとCからそれぞれAへと伸びる二本の直線に矢印を入れると、二つの矢印が一点に集中し、醜いにらみ合いを始めた。
まるで私達みたいだ、と溜息をつく。
教室にいるのは私だけで、出された二酸化炭素は音も無く消える。
問題文を写す手を止めると、まるで自分が音の無い世界に閉じ込められてしまったように辺りが静まり返った。
ノートのBとCはお互いを見つめあったまま動かない。
線BC上に、矢印は無かった。
「そっか、三角形って、三つの線だけあれば書けるんだ」
向きはどうであろうと。
私が向かう机の周りには、数学の教科書はもちろん、授業で使うワークや参考書なども散らばっていた。教科書は整数の性質を、ワークは数列を、それぞれ画面いっぱいに映し出している。
微分、二次関数、確率、三角関数。
どの本のどのページにも、あちこちにマーカーで線が引いてある。
数学は好きだ、答えが決まっているから。
外は既に冬が近いこともあり、夕暮れ空に闇が射そうとしている。その境界線はオレンジでもなく黒でもない、白と緑色と黄色をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような色になっていた。
あいまいな色だ、嫌い。
「……そうだ」
こんな風に、「好き」も「嫌い」もはっきり言えたら、どんなにすっきりすることだろう。数列の問題が、規則正しく、一片の狂いも無く数字を重ねていくように。整数の性質に、間違いが無いように。
私はBから伸びていく矢印を消しゴムで消すと、一つ、溜息をついた。線の端の方が消え、図形は三角形ではなくなった。これでAへと伸びていく矢印は一本だけ。そう、図形問題は数学だけでいいのだ。
「……ん」
よく見れば、あいまいな笑い方をしている空を映し出す窓の端、くすんだ銀色のフレーム部分に、小さな蜘蛛が一匹、糸をたらしていた。誰だ、掃除当番。小さく呟く。
片付けようと立ち上がったその時、前方の扉の方から声がした。
「……あ、茜じゃん。まだ帰っていなかったのかって、勉強? 真面目だな、おい……」
クラスメイトの倉崎だ。
そう、ただのクラスメイトの、倉崎。
自分に言い聞かせながら、近寄ってきた彼にそっけなく応じる。
「もうすぐ期末試験だよ。陸上部君はいいの?」
――どうせなら一緒にやらない? と以前のように言いかけて、慌てて口を閉じる。
視界の端に、形のくずれた三角形ABCが見えた。途中で線が切れても三角形に見えてしまうところが腹立たしい。どちらの方向にも動こうとしない点Aは、何にも知らなさそうな顔をしていた。
倉崎ははいはい、と軽く言って、後ろにいる人影に気がつく。
香苗だ。
二つ結びにした彼女の髪の毛が二人分の視線をぶつけられ、びくん、とはねる。倉崎くん、と聞こえるか聞こえないがぎりぎりの小さな声が届く。
お腹が締め付けられるように痛んだ。
私達、ずっと友達だもんね。
香苗の声が頭の中で反芻する。
私はそれを振り払うように首を振ると、口を開いた。
「行って、きなよ。ほーら、彼氏なんでしょ?」
いつものように、軽口のように。アリスを笑うネコの様なニヤニヤ笑いを浮かべてみる。頬はうまく上がっているだろうか。
彼氏じゃねえし! と真っ赤になった彼からは目をそらして、彼女の方にもスナック菓子のように軽い言葉を投げかける。
「香苗も、ちゃんと捕まえとかないとだめだよー? 狙ってる奴、まだ結構いるんだから」
う、うん。
同じように赤面した彼女は、ちらりと倉崎を見た。
……帰るか。
そうだね。
うなずき合う二人を見て、私は満足そうに頷くふりをする。
「じゃあ、茜、また明日」
いまだに気安く名前を呼ぶクラスメイトの声を最後に、私はまた、一人になった。
何の話で盛り上がっているのか、一瞬、壁の向こう側がにぎやかになる。しかしそれも足音とともに小さくなっていき、消えた。
「大丈夫。私はまだ、大丈夫」
声を出さないと、一人違う世界に閉じ込められてしまったような気分になる。
救いを求めるように窓を見れば、蜘蛛はまだ、自らがたらした糸をふらふらと浮遊させている。ほら、助けてやるから。上っておいでよ。そう言っているようにさえ、聞こえる。
「なんだっけ、芥川? 細い糸を上っていって、他の上がってきた人に降りろって言って、糸が切れる話……」
まあいいや、と力なく呟く。筆箱の中から鋏を取り出すと、その糸をぷつん、と切った。
糸は鋏にくっつくことがなかった。
一瞬輝きを見せ、私とその他大勢を残したまま、下へと落ちていった。
そう、これでいい。
ほんのわずかな満足感を得た私は机につくと、また一人、ベクトルの問題を解き始めた。
三題噺「ベクトルと蜘蛛の糸」 桜枝 巧 @ouetakumi
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