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 押し勝ちました。

 先生のお住まいはボクの家からさほど遠くない、ちょっと品の良いのマンションの一室でした。部屋がたくさんあって広いのに、目立つのは小さなピアノが一つ、広間の隅に寄せられているきりです。

「ほら貸してやるから、帰れ」

 上着も脱がずにCDを奥から探しだして持ってきてくれました。

「うち再生機器がないから、ここで聞かせてもらえませんか」

「嘘つけ」

「いえ本当に本当ですよ」

 実はボク、先生に嘘吐いたことないですよ。

「普段どうやって音楽を聞いてるんだ」

「聞かないんです」

 信じられないものを見る目です。だから本当なんですってば。

 結局彼はコンポを操作して、その曲を流してくれました。ボクたちは何もないテーブルに向かい合って座ります。先生の演奏よりもゆったりとしていて、まるで聖書か何かを読んでいるような音でした。

「この曲は誰のために作られたのですか」

「何だと」

「どこかに届きそうな気がしませんか」

 眉を潜めて、先生は考え込んでしまいました。思いつきの言葉にそう過剰に反応されても戸惑ってしまいます。

「似たようなことを姉に言われたことがある」

「理事長先生ですか」

 厳格そうな見た目のあの人にもそんな乙女な発言をする少女時代があったと想像するのは少し愉快です。

「お前がピアノを弾く理由がわからないだとか」

 あー言いそうですね。イメージにぴったりです。

「君は少し姉に似てるな」

「頭おかしいんじゃないですか」

 意外そうな顔をされたので、心からの言葉だったようです。色々と不満がありますが、ボクは口を閉じることにします。その話題を口にする先生は、少し楽しげだったから。

 信じられますか?ボク彼女に嫉妬してたんですよ。

「どうしてボクが先生を選んだか知ってますか」

 彼は黙ってボクの手を受け入れてくれました。

「ボクより可哀想だったからですよ」

 少しかき上げた色の薄い髪は硬く、指の隙間で踊るように捻れました。

「怒りますか?」

「やはり君は姉に似てる」

 先生は目を閉じました。

「君が哀れみで俺を抱くように、俺も君が可哀想だから抱かれてるんだ」

 だから君も自分を傷付けるのやめなよ。

「たぶんここは井戸のような深くて狭い穴の中なんですよ、先生。二人とも誰にも話せないような問題を抱えていて、どちらかが踏み台にならないともう片方は外に出られないんです。このままだとみんな死んでしまうんです」

「君が出れば良い」

「わかってないですね。ボクはただ壊れるためだけに用意されたんです。ここにいるボクはここにいる権利さえないボクなんです。だから踏み台になるのはあなたではありません」

「悲しい話だ」

「だから先生はボクの上でもっと壊れてくださいよ」

 気付けばいつの間にか音楽は止んでいて、その空虚には二匹の可哀想な生き物たちだけが取り残されていました。

「先生と先生の姉の話をしてください」

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