番外編 新婚旅行と新婚夫婦

 カーテンを開け放つと、エメラルドグリーンの海が広がっていた。

 ホテルの前に横たわっている白い砂浜は朝日を浴びて輝いていて、早朝の散歩を楽しむ人々の姿が見下ろせる。おお、初日の出だなぁ、などと思いながら、忍は欠伸を噛み殺した。

 ベッドを見やると、新妻が穏やかに眠っていた。潮風が吹き込んでくると、変な声を漏らしながら毛布を引っ張り上げて裸の肩を覆った。世の中は年越しで大盛り上がりしている頃、忍と夕子は別の意味で盛り上がってしまい、その結果、裸で眠る羽目になった。もう二度と性欲に耽溺するまい、と自戒していたが、新婚旅行の最中ぐらいは許されるだろう。この沖縄旅行を終えたら、また体を鍛え抜く日常に戻るのだから。

「んー……」

 CMLLのTシャツとハーフパンツを着込んでからテレビを付けて元旦を祝う番組をぼんやりと眺めていたが、どうにも落ち着かないので、忍は軽く食べて水分補給をしてから体を動かし始めた。じっとしていると、その間にも筋肉が萎んでいくような強迫観念にすら駆られるからだ。

 自主トレのメニューは決まっている。スクワットと腕立て伏せと倒立腕立てとランニングと、あとは気分と体調次第でトレーニングジムに行く。このホテルにはプールもトレーニングジムも設置されているので、朝食の後に行こう。出来ればランニングもしたいところだが、それは夕子が目を覚ましてから聞いてみなければ。今日は観光に行く予定を立てているので、トレーニングだけで時間を潰すわけにはいかない。ひとまず、スクワットと腕立て伏せと倒立腕立てをした。

 スクワットを一〇〇回、腕立て伏せも一〇〇回、倒立腕立てもやはり一〇〇回、とこなしていくと、血流が良くなって目が冴えてくる。いつもはこの倍以上はこなしているのでなんだか物足りなかったが、やらないよりはマシだ。

「あれぇ……」

 ベッドから身を起こした夕子は、倒立腕立てに勤しんでいる夫を見、目を瞬かせた。

「お、起きたか」

 忍は上下を元に戻すと、バスルームから持ち出してきたタオルで汗を拭いながら妻を見やった。夕子はベッドから出ようとして、裸だったことに気付いて慌ててバスローブを拾って身に付けてから、スリッパを引っ掛けて夫の元にやってきた。

「あけましておめでとうございます」

 夕子が一礼したので、忍は笑う。

「今年もよろしく」

「寝起きに筋トレしても大丈夫なの?」

 夕子は汗ばんだ夫の腕をぺたぺたと触ってきたので、忍は夕子を触り返す。両手で顔を挟み、頬をむにむにと揉む。

「どうってこたぁねぇよ。ストレッチより軽いぐらいだ」

「むぁー」

「体重増えただろ?」

 夕子の腰と尻に手を回してひょいっと抱き上げると、夕子はちょっとむっとする。

「大したもんじゃないよ、本当に大したもんじゃないから。バーベルよりも軽いぐらいだよ」

「そういや、風呂場に体重計があったな」

「やーめーてー」

「気の抜けたヤジを飛ばしやがる」

 忍はけらけらと笑いながら、夕子を抱えてバスルームに入ると、体重計を足で引っ張り出して載った。夕子は忍の肩にしがみつき、頬を丸めて拗ねている。小さな電子音が聞こえ、液晶画面の数字が定まった。132.9キロ。

「俺の体重が87.5キロだから、夕子の体重は45.4キロか。夕子は身長が153センチだから、まだまだ足りねぇなぁ。俺一人でこれだけウェイトがあれば、今すぐヘビー級王座に挑めるんだがなぁ」

 超日にクルーザー級王座はねぇしなぁ、と忍が漏らしていると、夕子がじたばたしたので下ろしてやった。バスローブの襟を正してから、夕子は赤面して俯く。

「……忍さん、結構増量したね。デビューしてからは二〇キロ以上増えたよ」

「トレーナーと相談して、脂肪を付けてからビルドアップしている最中なんだよ。今の筋力ならイケるんじゃないかってことでな」

「ヘビー級王座戦を組んでもらうため?」

「それもそうなんだが、投げ技を出せるようになりたくてさ。この前のドラスーは勢い任せでしかなかったから、仕上がりがイマイチだったしなぁ。つか、はぐらかすなよぉ。あぁ?」

 忍がにやにやしながら夕子を抱き寄せると、夕子は顔を背ける。

「折れそうなぐらい細いって言いたいんでしょ、太った範疇に入らないとか言うんでしょ、もうちょっと食べて鍛えろとか言うんでしょ」

「なんで解った」

「だって、忍さん、何度も言うから」

「事実だろ」

「事実だから困るの。忍さんみたいに一杯食べられないから、鍛えたくても鍛えようがないし」

 夕子は背伸びをして忍を見上げると、唇を尖らせる。

「俺らみたいになる必要はねぇんだから、そこそこに鍛えればいいんだよ。お前の腹筋がバッキバキに割れちまったら……まあ、それはそれでいいけど」

 忍は夕子の寝乱れた髪を撫で付けてから、頬と唇にキスを落とした。柔らかく甘ったるい、胸の奥が締め付けられる匂いがする。

「物足りなくない?」

「何が」

「色々と……」

 夕子は自身の胸元を覗いたので、忍は顔を上げさせる。

「二度目にヤッた時に言っただろ、俺の女の趣味を」

「ロリコン!」

「ひっでぇな」

「JKフェチ!」

「うわぁもっとひでぇ」

「でも」

「でも?」

「忍さん、私に制服を着てエッチしろとか言わないし、子供っぽさを求めたりしないし、ちゃんと大人扱いしてくれるから、だから、だから、ああもう嫌う要素がなーい!」

 夕子は忍に抱き付いてくると、だから好きぃー、と甘えてきた。当たり前のことをしているだけなんだけどな、と忍は言いかけたが、夕子があまりにも嬉しそうなのでそのままにしておいた。

「お腹空いたね」

「バイキングも始まっただろうから、朝飯喰いに行こう」

「朝御飯の用意しなくてもいい、ってすっごい楽!」

「だな。朝っぱらから山盛りのささみを茹でなくてもいいんだ」

「サラダチキンが発売される前の時代の話だね」

「あれは実に画期的な発明だよ。つっても、今もささみを茹でては貪り食う習慣は続いているんだけどな。手間は掛かるが、こっちの方が安上がりだし」

 などと言い合いながら、二人は一緒にシャワーを浴びた。その際に多少じゃれ合いはしたが、事には及ばなかった。性欲よりも食欲が勝っていたからである。

 それから朝食バイキングに行き、忍はひたすら食べた。野菜も炭水化物も肉も満遍なく。筋力増大に直結する蛋白質を摂ることは大事だが、体調を整えて体力を維持するためにはバランスの良い食生活を心がけることが不可欠だからだ。夕子は沖縄の正月料理に手を付けてから、ホテルのベーカリーで焼きたてのクロワッサンをさくさくと食べながら、忍の食べっぷりを観察していた。何が面白いのかは解りかねたが、夕子が楽しそうだったので良しとしよう。

 締めはやはりプロテインだった。



 美ら海水族館に行ってから、海沿いの道路を走った。

 助手席に座る夕子ははしゃぎ疲れたのか、御土産のジンベエザメのぬいぐるみを抱き締めて寝入っている。この分では、寝る時も抱き締めているに違いない。なんだか少し妬けてしまったが、相手はぬいぐるみなのだと思い直した。

 レンタカーのハンドルを握りながら、忍はフロントガラス越しに水平線を望んだ。真っ直ぐに伸びる車道を行き交う車の速度は穏やかで、平和そのものだ。が、時折、擦れ違う車のフロントガラスを見ては、ボディスラムで叩き込まれたら良い感じに割れてくれそうだな、などと思ってしまう。プロレス脳だからだ。

 新婚旅行の間だけでも仕事を忘れよう、と思っていたはずなのに、無意識に残忍のマスクをポケットに突っ込んでいた。今もそうだ。マスクマンにとっての皮膚も同然なので、常に触れていないと落ち着かないから、というのもあるが。

「はうっ」

 不意に夕子は目を覚まし、飛び起きかけたがシートベルトに阻まれた。忍はぎょっとしたが、ハンドルは保った。

「んだよ、いきなり。変な夢でも見たか」

「忍さん、あれだよ、あれがあるんだよ」

「何がだよ」

「沖縄のインディーズ団体の新春大会だよ! ほらほら」

 そう言いながら、夕子は自分のスマートフォンを見せてきた。沖縄のインディーズのプロレス団体のTwitterで、確かに元旦に開催する新春大会が告知されている。仕事始めにしても早すぎないか。

「三が日の間ぐらいは休めよ」

 同業者ながら熱心なことだ、と忍が感心半分呆れ半分で呟くと、夕子はその団体の公式ブログにアクセスし、所属レスラーの名を読み上げていった。皆、地元愛に溢れたリングネームだったが、何人かは本名だった。その一人の名に、聞き覚えがあった。

「あいつ、こんなところにいやがったのか」

 忍が無意識に漏らすと、夕子が訝った。

「知り合いの人?」

「知り合いっつーか、俺が練習生になってしばらくしてから超日を辞めていった奴だよ。練習生で、体格も良くて筋もいいなぁって思っちゃいたんだが、コーチはそうは思わなかったみたいでさ。そっかー、あいつ、地元に帰ってきてからもプロレスは辞めなかったんだなぁ……。なんか感動するわ」

 感慨深くなってきて、忍は目線を遠くに投げた。

「それじゃ、観に行く?」

「いや、遠慮しておく。あいつが俺よりも強くなっていたら、それはそれで嫌だろ。超日はこんなに凄い奴を逃がしちまったのか、とか思っちまうし。それに、俺とあいつはそんなに仲良くもねぇし」

「そっかぁ」

「おう」

「青春だね」

「いつまでたっても青春真っ只中だよ、俺達は」

 リングに上り続ける限り、輝かしい時は終わらない。忍は当初の予定通りに次の観光地に向かい、夕子と共に存分に楽しんだ。かつての同志の行く末は気にならないわけではなかったが、残忍の出世ぶりを見せつけに来たと思われたら相手を傷付けてしまいかねないので、好奇心を封じ込めた。一度は諦めかけた夢を再び追い求め、夢を叶えた男の人生に陰りを与えてはいけない。

 夢を守るのも、プロレスラーの仕事のうちだ。



 明日には東京に戻るので、国際通りで御土産を買い込んだ。

 超日本プロレスのレスラーと関係者達への御土産は結構な量になり、出費もかなりのものだったが、新婚旅行に出かける直前に武藏原から渡された現ナマのおかげで軍資金は足りた。

 御祝儀と無断で本のネタにしてしまったことを詫びるための金だ、と武藏原は言って一万円札ではち切れんばかりに膨れ上がった茶封筒を押し付けてきた。昭和のプロレスラー特有の金銭感覚である。付き人時代にも前触れもなく小遣いをもらったことは何度かあったが、これとそれとは額が桁違いだ。なので、半分は旅行に使い、残り半分は貯金に回しておいた。金はいくらあっても困るものではないからだ。

 夕子は純喫茶ハザマの店主と同僚のための御土産を買い込んだが、それ以降も商店街を何度も何度も歩き回っていた。忍もそれに付き合っていたのだが、同じことを延々と繰り返されるとさすがにうんざりしてきたので、夕子を捕まえて問い質した。

「おい、いつになったら気が済むんだ」

「何がいいのか考え出したら、決まらなくなっちゃって」

 夕子はしゅんとすると、手近なベンチに腰を下ろした。忍もその隣に腰掛ける。

「せっかくの新婚旅行なんだから、記念になるものを買おうって思ったんだけど、どれもこれもいいなぁって思っちゃったんだけど、全部買うわけにはいかないし……。邪魔になっちゃうし……」

「俺は別に気にしねぇけどな」

「忍さんが体を張って稼いだお金を無駄にするのは勿体なくて」

「無駄じゃねぇだろ、記念になるんだったら。で、何がいいんだ」

「琉球ガラスのペアグラスなんだけど、でも、忍さんが一緒じゃないと使う意味がないかなぁって思っちゃって」

「他には?」

「夫婦箸!」

「他には?」

「夫婦のシーサー!」

「他には?」

「お揃いのストラップ!」

 ああでもどうしよう、と夕子は本気で悩んでいる。要するに、揃いの記念品が欲しいのだ。思い切って全部買ってしまえ、と言うのは簡単だが、それでは記念品としての意味合いが薄くなる。

 夕子の気持ちはよく解る。結婚してからはまだ日が浅く、交際期間はゼロだったので、二人の思い出と呼べるようなものは少ない。デートにしても、片手で足りる回数しかしていない。仕事やら何やらで写真を撮られる頻度が高い忍はともかく、夕子は写真を撮るのは良くても撮られるのは抵抗があるらしく、一緒にプリクラを撮ったこともない。となれば、一体何がいいものか。

 忍はしばらく悩んでいたが、ちょっとそこにいてくれ、と夕子に言ってから手近な土産物店に行き、エメラルドグリーンの水平線の写真が印刷された絵はがきを買ってきた。

「俺が思い付くのはこれしかねぇや」

 忍はサインペンを抜き、絵はがきに残忍のサインをして日付を入れてやり、それから夕子に渡した。

「発想が貧困ですまねぇ」

「…………うぁ」

 夕子は両手を差し出して絵はがきを受け取ると、インクが乾き切っていない残忍のサインを凝視していたが、破顔する。

「うへ、うふへひへへへへへへへへ」

「それ、一五〇円だぞ?」

「忍さんの――――残忍さんの気持ちが嬉しいから。私が一番喜ぶのが何なのか、解ってくれているのが嬉しすぎて。あー、変な声出るぅ」

「それはいつものことじゃねぇか。大体、お前は俺を好きすぎるんだよ。このクソ野郎のこともな」

 忍はポケットに突っ込んである相棒を叩いてから、夕子の頭を押さえて髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。照れ隠しだった。

「じゃ、こうする」

 夕子もまた土産物店に行き、同じ絵はがきを買ってきてから、忍のサインペンを借りて書いた。

【新婚旅行、とっても楽しいです! 私は幸せの世界王者です! 誰にも奪還されることのない、私だけの王座です! 夕子】

「ど、どうぞ……」

 書き終えてから恥ずかしくなったのか、夕子は赤面しながら差し出してきた。忍もつられて赤面しそうになったが、意地で堪えて絵はがきを手帳に挟んだ。正月休みを終えたらすぐに試合で、その後はまた地方巡業が始まるので、スケジュール帳に空白は少ない。そこに冴え冴えとしたエメラルドグリーンの海が差し込まれると、清々しい気持ちになった。今後も辛いことはいくらでも起きるだろうが、今、この瞬間を思い出せるのならば耐え抜ける。

「ありがとな。大事にする」

「…………でも、お揃いのストラップならいいかな、って」

 夕子の慎ましい物欲に、忍は思わず笑った。

「だな」

「じゃ、行こう! 素敵なのが一杯あって迷っちゃって!」

 夕子は忍の手を取って立ち上がると、また土産物店巡りを始めた。散々歩き回った末に、ウミガメがモチーフのマスコットが付いたストラップを買った。忍のものは黒、夕子のものは紫にした。

 ホテルへの帰路を辿りながら、夕子は旅行の思い出を一つ一つ確かめるように話していた。忍は夕子の手を握ったまま、相槌を打っていた。ホテルに戻ってからも夕子の話は止まらず、忍はずっと聞き手に回っていた。いつもは忍が地方巡業先での出来事を延々と話すので、立場は逆なのだが。

 幸せすぎて、何もかもをぶち壊してしまいたくなる。だから俺のリングネームは残忍なんだ、と改めて思い知らされる。暖かなものを知れば知るほど、“ハードコア・ジャンキー”の狂気が研ぎ澄まされていくのが心地いい。リングに上る瞬間が恋しくてたまらない。

 そして、残忍を惜しみなく愛してくれる妻が愛おしい。

 何度負けようとも、この魂は折られはしない。

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